ポツリ、ポツリと雨粒が街の石畳を叩き、濡らしはじめた。

 灰色の空から降る雨に、街を行き交う人々は慌てて傘を広げるか、持っていたカバンを頭の上に乗せて雨を塞ぎ、家路を急ぐ。
 その中をシシィはひどくゆっくりと、傘も差さずに歩いていた。
 フラフラと、風が吹けば飛ばされてしまうんじゃないだろうかとも思う、頼りない足取りをハラハラ思いながらルウスは2歩下がってついていっていたが、彼女は不意に方向を変えて近くにあった教会に入っていった。犬が入っていいものか、とルウスは少し戸惑ったが、結局シシィの後をついて中に入ることにする。
 雨だからか、教会内に人はいなかった。
 そんな教会の中でシシィは他の何に目をくれることもなく入り口付近に設置されてある献金箱を見つける。
 そして彼女はそれ近づいていき、その中にボトリ、と。

 青年から渡された、大金の入った小袋を落とした。

「!?」
「――私には、使えないお金、ですから」

 ぼそりとつぶやいたあと、もはや用は済んだとでもいうように、彼女は何事もなかったかのように教会を出て、再び雨の中、町を歩いてゆく。
 その後をついていくルウスは――悲しげな表情を浮かべていた。





********





 ――寒い。

 いくら温暖な気候の国でも、雨に打たれれば寒くも感じる。シシィは家に帰るとすぐにルウスと自分の身体を拭いて7分袖の服に着替え、軽い食事を取った。
 その後ルウスがそのままリビングのソファーで眠ると言ったので、シシィも早々と寝室へ切り上げたのだが、こんな日に限って眠いと思わない。
 ぼんやりとしながらも、シシィは身体を震わせた。身体のほうは布で拭いたことによって乾いたが、髪はそういかない。仕方なく頭の上から布をかぶせて、シシィはそのままベッドへ近寄ると、仰向けに転がった。

「………………」

 ザァザァ、と外から雨の音がする。
 シシィは昔から夜に降る雨の音が好きだった。雨は星や月を隠してしまうが、静か過ぎる夜の闇の中で、音を絶え間なく与えてくれる。それは少なからず、夜特有のさみしさを忘れさせてくれた。
 シシィはゆっくり、目を閉じる。今見ている景色と別れを告げるように。

 外は雨。
 あたりは暗闇。

「………………この、まま」

 ――このまま、この空間に融けてしまえれば、いいのに。

 ――バチ。

 雨ではない、音。
 以前聞いたことある音を聞いて、シシィはベッドの上で飛び起きる。
 慌てて確認のため、服の上からペンダントを押さえるとペンダントは熱をもっていた。
 それはルビーブラッドが、呼んでいる合図。
 ――ダメ。まだ、立ち直れてない……迷惑をかけたくない……!
 屋敷で呼ばれたときは、拒むことが出来た。なら今回も、必死で魔力を込めれば拒めるのではないか、とシシィはペンダントを手に握り締めて、その手を額に当てるような格好で抵抗を試みようとしたが。

 ――抵抗が……っできない……!

 屋敷で感じたときの魔力の大きさとは、全く違う。この魔力の大きさを一度体験すれば、今まで彼は本気を出していなかったことがよく分かる。
 ――勝て、ない……ダメ、眠く……。

 重くなってきたまぶたを、閉じて。
 シシィはベッドに倒れこむように、眠りについた。





◇◇◇◇◇◇◇◇





「シシィ」

 ルビーブラッドの低い声と、花の香りでシシィは目を開けた。
 流星群が流れる、美しいガーデン。シシィはブランコに座っていたが、ルビーブラッドはちょうどシシィの目の前に立つ格好でそこにいた。彼は背が高いので、このまま座っていれば、上でも見上げない限り彼の顔を見ることは不可能だ。
 正直、シシィはホッとした。
 彼の顔を見ないですむことに。
 しかし安堵したのもつかの間、ルビーブラッドの声が降ってくる。

「二度、拒んだな」

 いきなり核心をつかれて、シシィは慌てながら弁明をした。

「ちょ、ちょっと依頼、が残ってて……。あ、でも、成功、したんです……ありがとうって言って笑ってくれて、すごく幸せです」
「……成功。そうか……」

 ――上手く、誤魔化せたかな……。
 内心冷や汗を流しながら、それでもルビーブラッドの表情を見ることは出来なくて、シシィは身体を固くさせた。答えは不自然でなかっただろうか、声は裏返らなかっただろうか、と気になることばかりで、視線は自然と色々なところへ移ってしまう。

「………………」

 ――何も、言ってこない……。
 しばらくたってもルビーブラッドが何も言ってこないので、上手く誤魔化せたらしい、とシシィが安堵した瞬間。
 狙ったかのように彼はシシィの前に跪いた。
 背の高い彼は、跪いてやっとブランコに座るシシィと同じか少し下の目線。

「今の言葉、俺の目を見てもう一度言ってみろ」

 ルビーブラッドと、瞳が合う。

「……あ、せ、成功……し……っ」

 ――成功なんかじゃ、ない。
 言葉が詰まって、シシィは思わずルビーブラッドの真っ直ぐな視線から逃げるように顔を背けてしまった。
 背けて、後悔する。こんな態度をとったのでは、嘘をつきましたと自分から白状したようなものだ。

「魔力を揺らしておいて、隠せるはずがないだろう」
「なに、も……本当に、何もなかったんです……!本当です……っ!」

 ルビーブラッドの視線を感じるが、シシィは彼の顔を正面から見ることが出来ない。
 彼の視線を真正面から受け止めるには、自分に強さが足りなかった。
 ――弱い。本当に、こんなに、どうして私は弱いの……!
 辛いことを自分1人で受け止めきれない自分が憎くて仕方なくて、シシィは肉に爪が刺さるほど強く両手を握り締めた。

「――お前は、いつも肝心なときに頼らない」

 握り締めていた両手をルビーブラッドの手が優しく包み込み、シシィは思わず視線をルビーブラッドに向けたが、彼の視線は自分の手の中にあるシシィの両手に向けられていた。けれど、いつ視線が重なるか分からなくて、シシィはまた視界からルビーブラッドの姿を外す。
 彼は、ささやくようにシシィに問いかけた。

「俺は頼りないのか?」
「そんなっ、違います……っ!私、今まで何度も助けてもらって……泣きついてばっかりで……っ!」
「そんな覚えは、ない」

 ――な、い?

 ルビーブラッドの意外な言葉に混乱しながらも、今までのことを思い返す。
 何度も、助けてもらってきた。初めて会ったときも、ガーデンで再会したときも、アンティークキーを無くしたときも、昨日の夜も――今ですら。
 ――本当に辛いとき、助けてもらわなかったことなんて、ない。
 しかしルビーブラッドは目を伏せながら、首をかすかに横に振った。

「今まで、全て俺が首を突っ込んだことだ。辛いときにシシィ自身が『助けてほしい』と言ったことはない」
「…………そん、な」
「だから、シシィ」

 ルビーブラッドは、シシィを呼ぶ。
 その声に彼女は引力のようなものを感じて、呼びかけに逆らえずぎこちなくオレンジ色の瞳の中に、彼の深い赤を映した。
 彼は、シシィを真っ直ぐ見つめる。


「今回くらい、俺に頼ってこい。迷惑なんかじゃない」


 ありったけの力で握っていた両手は、いつのまにかルビーブラッドの手の中で、ゆるく開かれていた。シシィはその手に視線を落とし――苦笑しながらつぶやく。

「……森の中で、私、網を切ってもらうときルビーブラッドさんに『助けてください』って言いましたよ」
「知らん」
「知ってるはずです」
「ノーカウントだ」

 ――ノーカウントって有りなんですか。
 そう言おうとシシィは口を開こうとして、

 ぽつり、とスカートに雫が落ちたのを見た。

「――あ、れ……」

 シシィは驚いて指で涙を拭おうとしたが、やんわりとルビーブラッドは手を包んだまま離してくれなかった。その間にも、涙は流れ続ける。
 濡れて、広がっていく。
 涙が。
 悲しみが。

 ――止められない。


「――助け、たかった、のに……っ」


 シシィは包まれた手の中で、ルビーブラッドの指を弱々しくつかんだ。

「眠ってた女性は全てに傷ついてっ悲しみを、癒す、ために眠りについてて、だからどうしようもなくってっ!せめ、て、静かに眠っててもらいたい、って、彼女の両親に、起こせないって……!け、ど、今度は彼女の妹、さん、がっ、無理矢理結婚させられそうだった、からっ、好きな人と、一緒にいるためにお姉さんと同じ魔術薬を飲んで、眠って、しまっ……」

 ――胸が、痛い。

「色んな、気持ちがまざ、って、もう、どうしたらいいのか……分からない……!」

 誰かが、何か違う選択肢を取っていればここまで悲しい出来事にはならなかった。
 眠った女性が、もしも魔術師に会わなければ、薬をもらわなければ、魔術師が薬を処方しなければ、悲しみに負けず飲まずにいてくれたなら。
 『もしも』は、永遠に続く。

「もっと、勉強できて、て、何でも分かる魔術師だったら良かっ、た……っ!いっぱい、勉強して、劣悪なんて言われ、る薬なんかに頼らないで、悲しみを癒せてあげれるような……っ希望を与えられるような、魔術薬を作れていたら!!」

 けれど、過去に『もしも』は起こりえない。

「――『役立たず』な、んて、言われなかった……信じて、もらえ、た……っ」

 どれだけ望んでも、もう女性も、少女も、青年も、あの家も助けられない。
 ――だから、止まれ。
 どうしようもないことは、分かっている。分かっているなら整理すればいいだけだ。
 ――早く、気持ちの整理をすれば、いいだけ。
 一方ルビーブラッドは、シシィの言う『役立たず』という言葉に顔をしかめ、しかし合点のいったように、涙を流すシシィを見つめながら訊ねた。

「言われた――言葉に、傷ついたんだな」
「ちが……っ、傷ついているのは、私じゃ、なくて、眠ってしまったあの子、とか、あの男の人、で……っ私は、悲しいだけで、私が傷ついていいことじゃない……っ」
「何故、感情を正しく受け取らない」

 手は強く握られ。
 真っ直ぐ、赤い瞳はオレンジ色の瞳を見つめる。

「誰だって、悪意ある言葉には傷ついていい。だから涙が止まらないんだ、お前も」

『―――使えん小娘がっ!!』

 ――初めてだった、から。
 正面から受ける強い悪意も、傷つけるためだけに発せられた言葉を受けるのも。
 あんな言葉が、あんなにも傷つく言葉があると知って、痛すぎたから傷ついていると認識したくなかっただけで。
 ――あの、言葉をそのまま受け取るには、トゲが多すぎて、無理だった。

「……っう、うう……!」

 ――私、1人なんかじゃ、とても。

 ルビーブラッドは握っていた手を右手だけ離して、シシィの頬に流れる涙をぬぐってやりながら闇に溶けそうな声でシシィに訊ねた。

「――何故、不安なとき、ここ(・・)にお前を呼ぶか分かるか」
「……こ、こへ……?」

 夜空、流星群の見えるガーデン。
 ここはルビーブラッドとシシィの夢が混じった場所だ。
 シシィが頭の上にクエスチョンマークを浮かべるのを見て、ルビーブラッドはゆっくり立ち上がり、ついでシシィも立ち上がらせる。そして改めて右手を繋ぐと、ブランコから離れるように、ルビーブラッドは後退するような格好でシシィを導いた。

「ここの風景は、それぞれにとって『幸福である象徴の風景』を映しているからだ」
「幸福、である象徴、の風景……」
「人生の中で、最も幸福だと思った瞬間の風景」

 ――おばあちゃんに、絵本を読んでもらったときの……。
 人生の中で一番幸福だった瞬間がその時だったのだ、と知り、シシィはさみしいような、嬉しいような、複雑な気分を抱いた。けれどそれは、決してマイナスな意味ではなく、かと言ってプラスな意味でもない。
 ――こういうのを、ノスタルジア、っていうの、かな……。

「傷ついたときは、美しいものを見るといい」
「美しい、ものを……?」

「――今、見せてやる」

 歩くのを止めた場所は、ちょうど噴水とブランコのあるそれぞれの位置から真ん中であり、手に届く範囲で花以外には何もない位置だった。ルビーブラッドはその位置で空いていた左手でコートの内ポケットから、トンボ玉のような、けれど穴の開いているものを取り出して唇にくっつける。
 そうして上――夜空を見上げると、思い切りソレを吹いた。
 ピィーという甲高い音を聞いて、笛だったのだか、とシシィが思う間もなく。

「――星が……っ!!?」

 夜空を流れていたはずの流星群の一部が、シシィたち目掛けて、落ちてくる。
 しかし、一部と言えども大量で。

「ルルルル、ルルルルビーブラッドさんーーーー!」

 ああだめだ夢って言っても絶対痛い死んでしまうーーー!と、一瞬の間に頭を駆け巡り、シシィは反射的に目を閉じたのだが――何も、当たらなかった。

「目を開けて、上を見てみろ」
「……?」

 ルビーブラッドの落ち着いた声を信じ、シシィは言われたとおりそろそろ、と目を開けて空を見上げてみた。
 星々が、シシィたちの頭上を円を描くようにして回っている。

「違う……星、じゃなくて、これは……鳥………!!」

 よく見ると光りには羽があって、それが鳥であるということが分かった。しかしそれはこの鳥たちがシシィたちに割合近い、頭上まで降りてきてくれたから分かることで、上空を飛ばれていたら今までどおり知らずにいただろう。
 ――星色に光る、夜空に眩しい白い鳥。

「渡り鳥の一種で俺の故郷ではよく見られるが、ほとんどの者は気づかず、流れ星だと思っている。知っているのは世界でも数人だけだ」
「すうに……っ」

 ルビーブラッドはまた懐から赤い実を取り出すと、その赤い実を頭上を飛ぶ鳥たちに向かって放り投げる。するとその実を一羽の鳥がキャッチして、代わりに光る何かを地面に落とした。
 ルビーブラッドが拾い上げたソレは、星色に光る美しい石。

「『アステール』という貴重な宝石だ。この宝石は熱処理をしないと時間と共に輝きを失い、灰色の石になるんだが、あの鳥は珍しいことに腹部に袋を持っていて、その袋の中でこの宝石を作る。『アステール』はこの鳥にしか作れない」
「え、でも……」
「そう、ほとんどの者がこの鳥の存在すら知らない。この鳥はエサと引き換えに宝石を一つ落とすが、それを運良く光っている間に見つける。それだけが入手法だ」

 ――守って、いるんだ。
 シシィは、直感的に理解した。
 それだけしか入手法がないというなら、それ以外を知っているルビーブラッドはこういうふうにして宝石を取り、売りに行くだけで借金を返すことが出来る。けれどそれをしないのは、彼は人が愚かな生き物であることを知っているからだ。
 ――必ず、密猟をする人が、出てくる、から……。
 もし、ルビーブラッドの後をつけてこの取り方が分かってしまったなら。
 心無い人間は、この鳥たちをおびき寄せると片っ端から殺していき、その腹部にある袋の中の宝石を奪っていくだろう。そうならないように、彼は守っているのだ。
 だからこそ、数人しか知らないのだろう。

「そ、んな大事な秘密、私、教えてもらって大丈夫なんです、か?」
「お前なら大丈夫だろう。それより止まったな」

 何が、と一瞬思ったがすぐに分かった。
 涙はもう止まっている。
 ルビーブラッドは繋いでいた右手をシシィの胸の高さまで上げ、彼女の手のひらを
 上に向けるとそこにアステールを落とした。
 美しく輝く、星の宝石。

 ――今、この一瞬だけでも。

 この宝石を美しいと思う、シシィの心は、確かに穏やかな気持ちだった。