歪んだ視界がクリアになるまで、長い時間のようにも思えたし、短い時間のようにも思えた。
ただ歪んだ視界がクリアになったのは、いつのまにかそばまで来ていたルビーブラッドが自分の目じりを拭ってくれたからだ、と気づくのに、そう時間はかからなかったのは確かだ。
シシィは我に返って、慌てて身を引く。
「す、す、すす、すみませ……!あ、あの、お久しぶりっ、ですねっ!おお、お元気でしたかご飯は食べてましたかっ!」
「何があった」
――ああ、質問を無視された上に、分かっていらっしゃる!
シシィは思い切り青い顔をして固まった。
何かあったのだろう、なんていう予測は自分が泣いてしまった時点で分かったことだろうが、シシィもそうホイホイを話せるものではない。そもそも、もう十分すぎるくらいにルビーブラッドに泣きついて助けてもらっているのに、これ以上甘えるのはどうかと思うわけで。
――話、の転換を!
シシィは必死で笑顔を作って、ルビーブラッドを見上げた。
「あ、のっ」
「何があった」
「ううあ、ああ、あの、今まで何をしてたんでしょうかっ?」
「何があった」
「えええあ、ああえっ、い、今は何のお仕事をっ!!?」
「何があった」
――頑固者!
と、相手に対して思ったのは両者ともである。
しかしこれでは埒が明かないと思ったのか、一度静かにルビーブラッドはため息をつき、身体の重心を左に傾けて腕組みをする。それから仕方が無い、といったふうに眉間にしわをよせながら、先に彼が話しはじめた。
「食事はするようになったお前と別れてからはずっと魔物退治をしていて最近は護衛の依頼を請け負い今日は夜に眠れるシフトだったんで様子を見に来た、以上だ。何があった?」
「う、あ」
「何があった」
「う、うう、うっ……な、なに、もな……」
「――魔力が揺れたぞ」
――ぐっは!
痛いところを突かれたシシィはついに――白旗を揚げた。
「じ、つは…………」
それからシシィは、依頼のこと全てをルビーブラッドに話した。依頼に来た青年のことに、そのときの態度、主人と妻、家の雰囲気、青い気配、眠る女性にその妹、そしてこれだけは誤魔化そうとしたのだが、ルビーブラッドに目聡く追及されてしまい、結局青年に脅されたことも、余すことなく全て、だ。
――し、搾り取られた気分……。
とりあえず噴水のふちに座った2人は、しばらく無言で時間を過ごした。ルビーブラッドは何かを考えているようだったので、シシィはあえて邪魔はせずその横で美しいガーデンの風景を無心で眺めていたが。
「で、どうしたい」
不意に彼が口を開いたのでシシィは視線を彼に向けた。
「――どう、とは?」
「依頼を」
このまま続けたいのか、辞めたいのか、ということだろう。
そう問われて、シシィは視線を足元に落とす。
「わ、私、わ、からない、です」
「……分からない」
「た、助けたいって、思います、その女性のこと。でも、怖くて逃げ出したい気持ちもあって」
――ズルイ。
助けたいと、本当に思っている。けれど足がすくんでしまっているのも事実で、それなら助けたいという思いはそんな恐怖に負けるくらいの想いだったのか、と考えると自分で問いたくなるのだ。
どうしてこんなにも弱いのか、と。
そう考えて気持ちが沈んだ瞬間――ペチリ、と額に軽い衝撃を覚えた。
「な、ななっ!」
「王道なのに、潔癖すぎるからだ」
意味が分からない、とルビーブラッドに軽く叩かれた額を押さえながら目を丸くするシシィを見つめて、彼は言葉を足す。
「お前の悩みは必ず魔術師なら誰でも抱く。前の悩みも、見習い頃に思うことだ」
呆然とその言葉を聞きながら、「ああそれで」と納得した。前にガーデンで悩みを聞いてもらったとき、要領も得ないしほとんど何も話していなかった状態から、よくぞドンピシャに不安なことを言い当ててくれたと思っていたのだが、誰でも抱く悩みだったかららしい。
――ということは、ルビーブラッドさんもだったのかな……。
というシシィの視線の意味に気づかないまま、ルビーブラッドは話しを続けた。
「負の感情は誰でも持っている。シシィは必要以上にそれを嫌悪しすぎているから、不必要な不安まで拾う」
「う……」
――王道なのに、潔癖すぎる、かぁ…。
そう言われても、特別自分が潔癖だと思うことなどシシィにはできない。確かに誰かを恨んだり怒ったり、という行為や気持ちはいけないようなことがするし苦手であるが、そんな感情は誰でも持っているものである。それにもちろん、怒るときもある。
だから潔癖ではないと思うんだけどなぁ、と考えたところで、不意にブレックファーストの言葉を思い出した。
『傷つかないように、自分を守りなさい。自分を守ることは悪いことではないんだ』
――あの言葉は、これに関係している……?
「だから、あまり勧めはしない」
「ふぁいっ!?」
深く自分の世界に潜ってしまっていたので、いきなり言われたルビーブラッドの言葉にシシィは身体を飛び上がらせながら驚いた。
「様子を聞く限り、その家は冷たい」
「つめ……?で、でも、魔術師にまで頼ってきたくらいで」
「心配しているなら、お前が診察しているときもそばにいると思わないか」
「――あ」
言われてやっと、今まで胸の中でもやもやしたものが晴れた。
――そう、だ。例え診察の邪魔になるからって遠慮してても、その後すぐに様子を聞きに来るはず、なのに。
主人とその妻は、全く聞きに来なかった。食事のときには顔をあわせなかったし、その後も就寝までは時間があったはずなのに、尋ねてくる様子もなかった。
――聞いてきたのは、あの子だけ……。
あの家で様子を聞いてきたのは、使用人を含めて彼女だけだ。
――なんか、それって、あの女の人がかわいそうだ……。
「仕事だと割り切れるならいいが、シシィは割り切れないだろう」
「うっ!?」
まさにかわいそうだと思っていたところなので反論のしようもなく、シシィはうめきながら視線を足元に落とす。その、明らかに図星を突かれました、と言わんばかりの反応を見て、ルビーブラッドは静かにため息をつきながら立ち上がった。
「割り切れないなら、その仕事はおそらくキツくなる。止めておけ」
「………………」
「と、言っても止めないだろうが」
――だって……。
次女である彼女も、使用人である青年も「治らなければいい」と言ったが、眠っている本人はそうでないかもしれない。むしろ眠りたくなどなかったはずなのだ。望まぬことなら何とかしてあげたいと思うのが、人情というものだろう。
けれど呆れられるだろうか、と不安に思いながら立ち上がったルビーブラッドを見つめていると、彼はチラリとシシィを視界に入れた。
「魔術か呪い」
「え?」
「その娘の身体を覆っていた青い気配は、魔術か呪いだ」
目を丸くさせながらシシィは座ったまま、ルビーブラッドが話すのを見つめる。
「青は術者の魔力の色だろう」
「そ、いえば、気配が魔力に似てた…」
「それが分かっていたならいい、十分成長している。だから解決法を探すなら魔術か呪いの線から調べろ」
珍しい、とシシィは思う。
ルビーブラッドがこんなに直接的なヒントをくれるなどと思っていなかった。ヒントをくれるにしても、もっと直接的でないものだろうと思っていたのに、というシシィの戸惑いはさすがにルビーブラッドにも伝わったらしく、彼はふい、と顔をシシィがいる方向とは別の方へ向ける。
――あ、照れてる……?
少しだけ見える耳が、赤いような気がした。
「……ルビーブラッドさん、心配してくださってるんですね」
「雰囲気の悪い場所に長くいる理由も無いだろう」
「……はい」
気遣いが嬉しくて、微笑みながら返事をするとルビーブラッドはそれを背中越しに見て、一度目を伏せた。そして、身体をシシィのほうに向ける。
シシィはただ――その動作を見つめていた。
「……無理だと思ったら、潔く引け」
彼のどこか、不安そうな表情も。
◇◇◇◇◇◇◇◇
朝9時の時点で、空は曇天。
おまけに昨日のように雲はうっすらしたものではなく、分厚くて色も黒味を帯びていることから雨が降る天気なのだと、と大きな窓の外を眺めてシシィは予想した。
「……雨が降ったらやだなぁ……」
そうつぶやいてから、シシィは改めて眠る女性を見つめる。
シシィが現在いる場所は、女性の眠るきらびやかな部屋であり、白く、整った面立ちを見つめながらシシィは彼女の白い腕を触った。痩せすぎでもなく、肥えすぎてもいないので、着ている白のネグリジェは彼女によく似合っている。
――それが、不思議。
女性の腕には右にも左にも点滴痕や、注射痕が見つからない。見つからないということは彼女は栄養を維持するための点滴を一切受けていないということだが、ここの家人の話から察するに医者には見てもらっている。なので彼女が点滴や注射を受けていないのは医者が必要ないと判断したからだろう、とシシィは推測した。
が、それは普通でならありえない。
「やっぱり、魔術か呪い……」
彼女を覆う青く微弱な光―――気配を見つめながらシシィは考える。
『呪い』は初級の魔術書では扱わなかったが、中級の魔術書にもなるとその単語はチラホラと見え隠れしていた。どうやら呪いは禁忌であることに間違いは無いようだが、禁忌であり危険だからこそ対処法を知っていなければならないということらしい。
しかしシシィのそのつぶやきを隣で聞いていたルウスは、ピクリと耳を動かすと悩む様子で首を右に傾けた。
「しかし魔術にしても呪いにしても――何故?」
――そう。
ルウスの言いたいことはシシィにもよく分かった。ルビーブラッドの言うとおり、この青い微弱な光は術者の魔力で間違いはないようだが、すると疑問が残る。
どこで彼女が、魔術師に出会ったのか。
魔術師には偶然で会えるものではないし、魔術師が少ないと言われるこの国でなら尚更だ。
「ルウスさん、もし知らないまま会ったとしても、相手は自分が魔術師だなんて一般の人に言うと思いますか?」
「言いませんね。この国で生きているなら殊更に」
予想通りの答えにシシィも頷く。
なら、もしかして彼女自身が魔術師で、魔術の事故かミスなどで眠りについてしまったのだろうかとも考え、彼女の魔力を探ってみたが魔力は目覚めていないようだ。
つまり魔術師でも魔法使いでも魔導師でもない。
「ということは、魔術師が素性を隠して彼女に近づき、何らかの理由で彼女に魔術か呪いをかけた……」
可能性はそれ一つしかないように思われたが、不意にルウスがベッドの縁に浅慮がちに足を乗っけて、女性の顔を覗き込みながらつぶやくように言った。
「もしくは……」
「――え?」
「……いえ。それより、魔術書で調べるのでは?」
「あ、はい……」
祖母の家から持ってこられるだけ持ってきた、眠ってしまう症状についての魔術書。
その中には魔術薬について説明してあるものもあり、シシィはベッド近くのテーブルに置いておいたトランクの中から、その本を手に取った。
――呪いじゃ、ない気がする。
ルビーブラッドは呪いであることも視野に入れていたようだが、シシィとしては実際に目で見て気配を感じると、呪いというような禍々しい気配ではないような気がした。
むしろ、癒しているような、そんな美しい気配。
何故そんなふうに感じるのだろう、と自分自身不思議に思いながらも、シシィはパラパラと魔術書に目を通していく。
が、そう簡単に特定できるものでもない。
「……ルウスさん、眠りにつくときって、どんなときだと思います?」
「え、えー……そうですね……まぁ、習慣で本能ですからどんなと言われても」
「自分の思うとおりに言ってみて下さい。ヒントになるかもしれないですから」
ルウスは天井を見上げながら、しばらく考えて。
「……回復、でしょうか。疲れたら眠りますから」
「……」
疲れの回復、癒し、それがもっともポピュラーな答えだろうが、この眠る彼女は、もっと奥深く、何かが違う気がした。
今度は自分のことで考えてみよう、とシシィは思考をめぐらしながら本のページを撫でる。そのページには役立つことは書いていない。
――回復……ううん、癒し。こっちの方が近いような……。
自分が眠るときは、何を思って眠るのか。
――夢、ガーデン。
ルビーブラッドの魔術である、あの夢の中はシシィにとっては現実逃避の場所で、心が和む場所だ。あの場所を望むとき、自分は心が疲れている。
――心。
「……っ」
魔術書の最初のページに戻り、目次で目当てのページ数を確認するとシシィはその数字を探して、魔術書のページをめくった。
中央より、少し後ろ。
「ありましたか?」
「……症状は、眠るようになる。けれど魔術で栄養を補えるため点滴や注射などの必要はない……」
シシィは青い顔で、隣にいるルウスを見つめる。
「どうしよう……ルウスさん……これ」
「……?」
「この女性に使われた魔術薬は、治療薬で、だから」
ごくり、とシシィは息を呑んだ。
「つまり、こ、この女性は――治療中、で」
文字を震える指でたどる。
『ブリアンズ薬
悲しみを眠ることによって癒す魔術薬』
――悲しみを癒す。
――悲しみ、って何?治療?
彼女は、悲しみを癒す治療をしている最中ということで。
「シシィさん」
「治療中、って、いうことは、魔術師に会っていて……彼女が、訪ねて行った?でも家族は知らなくて、それで私のところへ……」
額に手を当てながらシシィは自分に言い聞かせるようにつぶやく。それと同時に魔術書に書かれてある説明文をずっと指で追っていった。
『解除方法は、ブリアンズ薬の効果をなくすリスティンク薬を――』
――解除?でも、悲しみが癒されたら起きるって書いてあるのに……彼女が起きていないということは、まだ悲しみが癒されてないからで……。
けれど、とシシィは指を止める。
今回の依頼内容は『彼女を起こすこと』。
――起こす、の?
そもそも、彼女は何が悲しくてその薬に頼ったのかが分からない。魔術に頼るくらいなので大きな悲しみだったのだろうが、感情というものは大抵その本人にしか分からないものだ。けれど本人に聞く術はない。
誰にも分からない――。
『――このまま、治らなければいいのに』
『あの娘はあのままでいいんだ』
「……もう1人のお嬢さんと、あの男の人……」
「何です?」
「この女性の妹さんと、迎えに来てくれた青年ですっ!あの2人は絶対に何かを知っています……彼女の悲しみも、もしかして」
「シシィさんっ!」
いさめるようなルウスの声にシシィはビクリと身体を震わせ驚き、珍しく厳しい色をにじませる彼の銀色の目を見つめた。
「この依頼から、手を引きなさい。これ以上の深入りはいけません」
「ど、して」
「……その魔術薬は聞いたことがあります。別名は『劣悪の魔術薬』。悲しみに潰されて死んでしまいそうな人に、魔術師が最後の手段として与える魔術薬ですよ」
――最後の、手段。
「一度眠れば、最低でも5年は起きません。それを周りの人はどう思うと?」
「――あっ」
心配するに決まっている、のだ。
目覚めない、けれどいつかは目覚めるだろうその人を、ずっと待つ日々は――恐ろしいくらいの孤独と不安が伴うに違いない。
ルウスは眠る女性に視線を向ける。
「悲しみを癒す薬が悲しみと不安を呼ぶ――だから劣悪なんです」
「でも、だからって手を引けってことには」
「そんな、劣悪な魔術薬を処方しなければならないと魔術師が判断したくらい、この女性は追い込まれていたんですよ。シシィさんにそれを受け止めることができるとは思えません」
ルウスの言葉を、シシィは唇を噛みしめながら苦い気持ちで受け止める。
――確かに、頼りないかも、しれないけど。
「で、も、私は魔術師で、依頼を受けたからには、ちゃんと真実を――」
コンコン、とドアをノックする音が聞こえ、シシィは反射的に口を閉じた。同時にルウスも喋ろうとすることを止めて、ドアを見つめるシシィのそばに歩みよる。
ドアは、開かない。
けれど、
「闇色ハットさん、いるかしら?」
聞こえてきた声は、昨日の夜に話した少女のものだった。
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