廊下に敷かれた、深い青を貴重とした花柄のじゅうたんを踏みしめながら、シシィは必死に青年の後を追っていった。微妙に、だが青年の歩調は速い気がする。
しかしルウスは難なくついて行っているところを見ると、ただ単に自分の足が遅いだけなのかもしれなかった。
――うう、でも、もうちょっとゆっくり歩いて欲しい。
廊下もエントランス同様、豪華な造りで、おまけに長いんだし気疲れするのに、という文句を心の中で言っていたところ、青年がいきなり止まり、シシィのほうを振り返った。
「ぴぃっ!」
「………………こちらです」
すっ、と手で差されたのは木製の扉。
「あ、こ、この中にお嬢さんが眠ってるんですね」
シシィの言葉に青年は何も答えず、さっさとドアを開けるとその開けた体勢のままでシシィが中に入るのを待つ。その鋭い、冷たい雰囲気にシシィは背中を押されるように慌てて中に入った。続いて、落ち着いた様子でルウスが入る。
「……わ……」
中はお嬢さまの部屋らしく、ニスがぴかぴかに効いた木製のテーブルやイス、キャビネットなどの高級そうな家具にじゅうたん、落ち着いた緑色の壁紙。広さもシシィの家のリビングとキッチンをまるまる合わせたくらいあって、まるで一流の宿屋の部屋のようで、自分の部屋だったら高級すぎて落ち着かないな、とシシィは冷や汗を流しながら考え、真正面を見つめた。
入って真っ直ぐ部屋の一番奥にある大きなベッド。
そこで眠っている彼女は――儚く見える。
儚く、美しい。
彼女の眠っているベッドに近寄って、よく観察してみる。まつげは長く、鼻筋が通っていて唇はつやつやしている。銀色の長い髪は、一本一本が絹糸のようにさらさらとしていそうだった。
――キレイ、な、人。
そしてその美しい彼女を、青い光りが覆っている。
「――こちらに、お荷物を置いておきます」
「え、あっ、はい!ありがとうございま……」
「使用人に礼は不要です」
ピシャリ、と言われてシシィは泣きそうだった。そんな彼女に構わず、彼は娘の眠るベッド近くの机の上にトランクを置くと、そのままシシィの脇を通り過ぎて、再びドアの方へと向かって行った。
――え?
シシィは慌てて青年に問う。
「ど、どこに行くんですか?」
その質問に彼は足を止めて、律儀にシシィのほうを振り返ってから答えを返した。
「外でお待ちしております。御用があればお呼びください」
それ以上は話したくない、と言うふうに彼はお辞儀をして話を打ち切り、部屋から出て行ってしまった。あまりのことにシシィは呆然とする。
――もしかして、私、嫌われて、る、のかな……。
涙が出てきそうになって、慌てて目じりを拭うと足元でルウスがため息をついた。
「……今からでも遅くありませんよ。依頼断りましょうよ」
「ど、ど、どうしてですか?」
「この家の人間、私は気に入りません」
それは、あの青年のことを言っているのだろうか、とシシィは首をかしげた。そういえばルウスは最初からあの青年を良く思っていなかったような気がする。
「Bさんの、紹介状がなかったでしょう」
「ああ……ルウスさん、心配してくれてたんですね?私のレベルに合ってるかどうか」
「それも、まぁ、ありますが……」
歯切れの悪いルウスを見つめながら、とりあえずシシィは別途近くのテーブルまで歩み寄り、トランクの中から持ってきた魔術書を取り出した。これがなければ、眠っている彼女がどういう理由で眠ってしまったのかが分からない。
ルウスから一旦視線を外し、魔術書に視線を移したとき彼は口を開いた。
「紹介状には、人間性を保証してくれる意味合いもあるんですよ」
「――人間性?」
意外な言葉にシシィが驚くと、ルウスはシシィから視線を逸らしながら言う。
「この依頼人は、魔術師を信頼してくれるというような――」
「ルウスさん、は、この家の人たちが、魔術師を信頼してくれてないって思っているんですか?」
「……思いますね。特に、この家の主人と奥方は」
さらにその言葉にシシィは驚いた。彼らは自分が来たことを喜んで、歓迎してくれていたようだったし、信頼してくれていると思っていたからだ。
ルウスにそう告げると、彼は首を横に振る。
「握手」
「え……?」
「……握手、されなかったでしょう?歓迎している人なら、握手くらい交わすと思いませんか?」
冷水を浴びたように、心の温度が下がった。
確かに、握手を交わさなかった。それがもし、ルウスの言うとおり歓迎していない心の表れだったとしたら。
しかし、考えすぎじゃないだろうか、握手を交わさなかったくらいで、とも思う。
たまたま忘れていただけかもしれないし、そういう習慣がない人だっている。シシィ自身もあまり握手を交わすという習慣は無い。
けれど確かに言えるのは、確実にあの青年には嫌われている。信頼も――おそらくされていないだろう。
「……」
――ああ、逃げたい。
素直に、そう思った。嫌われている、と分かっている人のそばにいるのは心苦しい。
シシィは手にした魔術書を、ぎゅ、と抱きしめる。
――逃げたい。
――逃げたい、けど。
――けど、私、魔術師、なんだも、の。
「シシィさん、断ったほうがいいです。嫌な気分になることなんて――」
「でも、ルウスさん……。この女性は助けて欲しいって、思ってると思います……。私が治してあげたいのは、この人だから、だから――」
――依頼を断る、なんて。
「……せめて、上級魔術で、手に負えなかったら引くと約束してください」
「は、はい!それは、分かってます」
何とかルウスから許しを貰うことが出来て、ホッとしたシシィは手にしていた魔術書を開いた。トランクの中に持ってきた魔術書は、全て眠りについてしまう症状について。もちろん中級までの魔術書しか読めないので、読める分しか持ってこなかったが、この中に彼女と全く同じ症状がなければ、それは上級魔術を示すことになるのでシシィに解決することは無理だ。そういう境界を見極めるためにも、まず彼女をよく観察してみなければいけない。
――眠る、美しい女性。
「――ルウスさん、青い光りって、見えますか?」
「……青い光り?どこにです」
「この、女性の周りと言うか……」
――違う。
女性の周りが青く光っているのではなく。
彼女自身が、薄くぼんやりと青い光を放っているのだ。
「……ルウスさんにこの青い光が見えないなら、他の――この家の人たちにも見えないはずですよね。やっぱり魔術関係で間違いはないと思うんですけど」
少なくともこの青い光を彼女自身が放っている以上、医療の問題では無いだろう。
――けど、どうして青い光を放ってるんだろう……?
シシィは女性の美しい髪にそっ、と触れながら考える。
さらさらとした髪。美しい顔立ち。年齢は20歳になったばかりというところだろう。
普通であったなら、起きて、ちゃんと日常生活を送れていたに違いない。それを考えると心苦しくて、なんとしてでも救ってあげたかった。
「……青い光」
確認するようにシシィはつぶやく。それ以外に彼女に目に見て分かる異常は無い。
――何か、この青い光……光じゃなくて気配、みたいな。
光は、息づいているように思えた。
とにかく今、分かっていることは彼女は眠っていて、青い光を放っていて、それは一般の人たちには見えていないと言うことだ。
手にしていた魔術書を開いて、彼女の症状と一致するものを探してみるが、ざっと目を通しただけでは見つからなかった。
魔術書を置いて、首筋に手を当てて脈と体温を確かめてみるも、これも至って普通で本当に眠っているだけのようにしか思えない。
「………………」
色々と思考をめぐらせていると、コンコン、とドアがノックされた。
「あ、えっと、はい!」
「失礼します」
入ってきたのは先ほどの青年。場が一気に緊張感を含み、シシィは思わず背筋をピシリと伸ばして緊張した面持ちで青年を見つめた。
「もう、よろしいですか」
「あ、えっと……」
これ以上見ても、ここでは情報を得られないだろう。あとはもう、帰って魔術書とにらめっこした方が特定に役立つかもしれない。
シシィはこくりと頷いた。
それを見て、青年も少し頷く。
「かしこまりました。部屋にご案内いたします」
「――――――へ、や?」
「お食事は7時からとなっておりますが、肉と魚どちらがよろしいですか?」
「え、え、え……?あの、部屋って?食事って、何です、か?」
「今日は、お泊りいただくようにとおおせつかっておりますので」
一瞬間を置いて。
「ええぇぇぇぇえ!」
********
――もう、無理です。
シシィは目の前に出された、豪勢なデザートを見て心の奥からそう思った。
この家の料理と来たら、広い食事用の部屋で1人緊張感と戦いながらも、一つやっと食べ終えたかと思うと次の料理が出される。緊張感とは案外お腹に溜まるものでもう既にメインディッシュのあたりでお腹が一杯だったシシィだが、断ることも出来ずただ黙々と食べて、今のデザートに至る。
――1人のご飯って、やっぱり寂しいなぁ…。
長く、白いテーブルクロスがかかったテーブルに1人分の食事。
部屋の中には、シシィ1人だ。厳密に言えば給仕してくれる人が何人かいるが、この家の主は多忙で、奥方は調子が悪くなって食事を一緒にできないと言う。もちろん姿が犬であるルウスを食事の席に同席させるわけにもいかず、シシィは空しくも1人で食事をしているわけである。
――ああ、あのとき、泊まりませんって言えてたら。
青年が怖くて、断ることが出来なかったのである。
少しばかり涙目で、どう食したらいいのか迷う、繊細な飾り付けのデザートと格闘していたところ、部屋の扉が開き―――自分と同じくらいの年の少女が入ってきた。
銀色の肩くらいまでの長さの髪に、灰色の瞳。顔立ちは人形のように整っていて、フリルのきいたワンピースドレスが良く似合っていた。
「こんばんは、初めまして」
「は、は、はじめ、まして」
挨拶されたので、呆然としながら挨拶を返すと彼女はにこやかに微笑んで、シシィの前の席に座った。
「デザート、おいしい?」
「え、あ、はい。それは、もうおいしいです」
「それじゃあ、私も食べる。ねぇ、貴女持ってきて」
そばにいた給仕係の女性が「かしこまりました」と頭を下げて部屋を出て行った。
その様子からすると彼女もこの家の人間のようだが、とシシィが内心首をかしげていると、少女はテーブルにひじを乗せて手を組み、その上にあごを乗せながらシシィを見つめる。
「私、この家の次女よ」
「……あ、じゃあ、眠ってるお嬢さんの妹、さん、ですか?」
「そうよ、闇色ハットさん」
どおりで彼女と容姿が似ていると思ったのだ、とシシィは1人頷く。
「姉の様子はどう?治りそうかしら」
「今は、なんとも言えません……」
「そう……」
不意に、シシィは安心した。この家に来て、初めて安心した気がする。
――どうしてだろう。
この少女と話していると、心の通った人と話しているような。
しかし、そう思ったシシィの前で、彼女はシシィにしか聞こえない、もしかするとシシィでも聞き逃してしまったかもしれない程度の小さな声で、ぼそりとつぶやいた。
「――このまま、治らなければいいのに」
――え?
シシィが口を開こうとした瞬間、扉が開いて青年が顔を見せた。
「闇色ハット様、お食事はもうよろしいですか」
「――え、あ」
「まだ食べてる途中よ。それに私もお話したいの」
「しかし、お疲れになられているのではと」
どう答えていいものか分からず、ただオロオロとしながら2人の会話を聞いていたがどちらも一向に引く気配は無い。これは自分の意見を述べた方がいいだろう、と思って、シシィはもう少し彼女と話したい旨を青年に告げようとしたのだが。
「あの……」
「部屋に戻られますか」
あまりに彼の厳しい視線に思わず。
「は、い」
と答えてしまった。このときほど気弱な自分が憎かったことはない。
しかしながら「はい」と答えてしまったものは仕方がないと、涙を呑んで彼女との会話は諦めることにして、シシィは席を立った。デザートはまだ少し残っているが、どちらにせよお腹一杯で食べられそうにない。作ってくれた人には大変申し訳ないが、残すことにする。
シシィは少女にペコリ、と頭を下げた。
「そ、それでは、お先に失礼します。あの、できれば、これを作ってくれた方に感謝と残してしまった非礼を……」
「伝えておくように言っておくわ」
「あの、それから、奥様にお大事に、と」
「ええ。ありがとう」
その言葉に安心して、シシィは青年が開けて待ってくれているドアから退室した。
この家はシシィの家と違い、廊下にも何個もランプを置いているため、ろうそくの灯りが隅々まで行き渡って比較的明るい。
なので青年の姿もしっかりと見えて、ついていけるはずなのだが。
――は、速い……!
やはり、歩くペースが速い。しかも昼間より微妙に速い気がする。
そんなに嫌いなら、誰かに代わってもらえばいいのに、代わってもらうことは出来なかったのだろうか、と少し涙目で気分を落としながらしばらく彼の後を大人しくついて行っていると、青年はいきなり足を止めた。
「あ、の……?」
「………………」
シシィは不思議に思いながらも、ふと右手側にある窓の外を見つめた。
――月も星も出てない……お天気悪いんだ……。
そう思った瞬間、
肩を押されて、
背中を壁で強く打った。
「――っ!?」
目の前には――冷たい目をした、青年。
彼は片方の手でシシィの肩を押さえて、もう片方の手を顔の横に置き、至近距離からシシィを冷たく見下ろしていた。
「この家から、出て行け」
背筋が、ゾクリとする。
「部外者が介入するな、黙ってろ。あの娘はあのままでいいんだ、金が目的なら早く手を引け、でないと後悔するぞ」
「――――――」
恐怖で、声も出ない。
――これは、何?
今、自分に向けられている感情は、何なのか。
震えるシシィを見て、もう脅しは必要ないと考えたのか、彼はシシィを解放するとチラリと一瞬だけシシィを見てそのままきびすを返し、来た道を帰っていった。
シシィはその背中が闇に紛れて見えなくなるまで見つめ――震えながら、辺りを見渡した。
頬を涙ではなく、冷たい汗が伝うのが分かる。
――誰か、に、会いたい。
既に自分があてがわれた部屋の前に来ていたのだ、とシシィはやっと悟ると、急ぐように、けれど落ち着きを払ってドアを開けた。
豪華な部屋、その中にポツンといるのは、ルウス。
「おや、お帰りなさい、シシィさん」
「ル、ウス、さん」
「――どうしたんです?何かあったんですか?」
その声が、とても懐かしく思えた。離れてから2時間も経っていなかっただろうに、今のシシィは母とはぐれた子供のように心細くて仕方がなかった。
シシィは、そっと微笑む。
「……ご飯、食べれるものが出たかと心配で」
「ああ、大丈夫でしたよ」
「よかった」
泣きたい気持ちを悟られないように。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――来ちゃった……。
高い生垣に守られ、秘密にされているようなガーデンへ通じる小道。
夢の中のガーデンは、現実の嫌なことを忘れてしまえそうなくらいに美しい。だから、今日のような思いをしたときには――うってつけの場所なのかもしれない。
――現実逃避、してるだけなのかなぁ……。
けれど、この優しい思い出のガーデンに頼らなければ、明日は重い何かに潰されてしまいそうな気がして、落ち着けない。怖くて怖くて、たまらない。不安に思いながらいつもどおりガーデンのあるほうへ歩いていると、ゆるやかなカーブを曲がった所で気がついた。
――いつもより、花の香りが濃い……?
ハッ、と気がついて、シシィは走った。すぐに門扉付きのアーチが見えて、シシィは門を勢いよく開ける。
美しいガーデン。
小さな噴水に、ブランコ、色とりどりの花やハーブ。
片隅のガゼボには、
「――久しぶりだな」
ルビーブラッドが、座っていた。
「――――――っ」
「……どうした?」
懐かしい、低く優しい声を聞きながらシシィはルビーブラッドを見つめた。
瞳が、合う。
「また、泣いてるのか?」
鋭くてもあたたかな目を見て、シシィは思わず涙が溢れた。
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