部屋に入るとまず見えるのは古びた木の机とイス、それに縦に長い窓。緑色のカーテンは開け放たれていて、これまた古びた床に太陽の光りが降り注いでいた。壁に沿うように置かれた本棚には、手品についてのものや、心理、目の錯覚のメカニズム、などとマジシャンらしいものが並べられている。
そして床のあちこち、無造作に置かれた箱の中には父の商売道具である手品道具が溢れんばかりに入っていて、シシィはそれを呆然と見つめていた。
同じく、父であるコーファも。
「……」
「……」
お互い、何も言えない。自分の中で整理がついていないのだ。
――でも、分かる。感じる。
シシィはゆっくりと、父のクセ毛混じりな銀髪を見てから、茶色の瞳を見る。
――お父さん。
「何で、魔力が目覚めているの……?」
父の魔力は覚醒している。覚醒しているということは魔力が使えるということであり、使える以上は使っていないはずがない。自分のように無理矢理目覚めさせられたにせよ、普通にゆっくりと目覚めたにせよ、魔力は目覚めると身体の変化に本人が気づかずにはいられない。一番違和感を感じるのは本人だからだ。
つまり、父は知っているはずなのだ。
自分が魔力を使えることを。
そして――シシィの魔力が目覚めていることも。
コーファは重くため息をつくと、シシィと同じようにゆっくりとした動作で彼女と目を合わせた。
そして、苦笑する。
「シシィは、本当におばあちゃんとそっくりだ」
「お、父さん……」
「今まで黙ってだけど、シシィ。お父さんは」
コーファはにっこり笑って胸の前で、ボールを持つような構えをとった。
「マジシャンじゃなくて、魔法使いなんだ!」
部屋の中で弱い風が起こる。
――どう反応すればいいのやら。
シシィはにっこりと笑っている父の顔を他人行儀に眺めつつ、頭の中では思考をフル回転させていた。
何せ生まれてきてからこれまでの16年間、父はずっと普通の人でマジシャンで、魔術師なんて魔法使いなんて魔導師なんて関係ない、と思って生きてきた。が、実際にコーファはたった今、魔法を使って見せたのだ。
――とりあえず、魔術師では、ないみたい、だけど。
――とりあえず、本当に魔力を、使えるみたいだけど。
―ーとりあえず、とりあえず、とりあえず。
コーファを見つめたまま呆然と立ち尽くすシシィを見て、彼はまたもやニコリと微笑むと両腕を大きく広げた。
「さぁ、シシィ。お父さんにもお前の魔法を見せておくれ」
――とりあえず。
「ん?シシィ?」
シシィは無言で父の近くまで近寄り――胸倉をわしっ、と掴んだ。
「とりあえず、『マジシャンじゃなくて魔法使いなんだ』じゃないでしょぉぉぉ!家族に職業を詐称してるってどういうことなのぉぉ!」
「ししししししシシィっ、お父さんゆゆゆゆ揺れてるるからぁぁ」
胸倉を掴んだままガクガクと身体を揺さぶられて、助けを求める父などお構いなしにシシィは涙目で質問を浴びせる。
「お母さんも知ってるの!?私だけ何も知らなかったの!?おばあちゃんが魔術師だってことも知ってたの!?」
「待って待って、シシィ。話すから、全部話すから揺さぶるのを止めてくれ」
その言葉を信じ、シシィが揺さぶるのを止めるとコーファは胸を軽く手で叩きながら息をつき、乱れたシャツとベストをきちんと整えた。
「まず、お母さんは知らないよ。お母さんは魔力が目覚めていないからね」
「それは……分かってるけど」
「お父さんがこの国の生まれじゃないことは知ってるだろ?故郷は魔法使いが比較的多い国で、別に珍しくは無かったんだがこちらの国は珍しいからね。お母さんには魔法使いだってこと内緒で付き合ってたんだよ」
それで、結婚した後も未だに知らないとは。
思わずめまいがしたので、シシィは慌てて壁に手をついた。夫婦とはどんなことも分かち合い、誓い合うものだと思っていたが見事にその夢を壊された。他ならぬ両親に。子供の夢に立ちはばかるのは、いつだって親である。
ショックを受けているシシィを、心配そうに見つめながらコーファは話を続ける。
「その報いは、結婚報告の時に受けたけど。まさかお母さんのお義母さん……シシィにとってはおばあちゃんがあんな強い魔術師だったなんてねぇ」
「お父さんは、知ってたんだ……」
「これもお母さんは知らないけれどね。未だにお母さんの中では、おばあちゃんは至って普通の人だよ」
「……昔、この町を救っちゃったらしいよ?」
「だからお父さんも驚いたんだよ」
祖母はいったいどうやって、15年間も一緒に住んでいた娘に魔術師だと知られないように生活していたのか、かなり気になるところだがいくら考えても分からないことなので、シシィは考えることを放棄した。
それにぽんやりとした母なら、確かに騙されてくれるかもしれない、と思えるところが娘ながら悲しく思える。
「さすがに、おばあちゃんはお父さんが魔法使いだってことに気がついたけれど、結婚には反対されなかったし。それで、シシィが生まれたときにお父さんとおばあちゃんだけが、シシィは将来魔力が目覚めるってことに気がついたんだ」
――将来魔力が、目覚める?
初めて聞く話にシシィが目をぱちくりさせていると、コーファは首をかしげた。
「魔力が目覚めて、魔術師になったんだろう?魔術書は読まなかったのかい?人は魔力を持って生まれるけれど、それが目覚めるかどうかは大抵決まっているんだ」
「魔術書は、読んだ、けど……それは知らない」
「じゃあ、読み落としているのかもしれない」
――違う。
読み落とした魔術書などない、とシシィは言い切れる自信がある。新米で、何も知らない自分が、大雑把に読み飛ばしたり読んでいない本があったりするわけがない。
けれど、知らない。
足し算や掛け算は出来るのに、数の数え方を知らないような。
基礎中の基礎を、シシィは知れていない。
――あの家の、どこかにあると思うのに。
けれど現実としてはどこにもない。近いうち、Bに頼んでそういう魔術書を取り寄せてもらわなければいけないかもしれない。基礎を知らないのは危なすぎる、ということはルビーブラッドの件で十分承知している。
「まぁ、だから将来シシィの魔力が目覚めるのは分かっていたつもりだったけど……お父さんが思っていた時期より早かったから、びっくりした。いつ目覚めた?」
「……お、ばあちゃんの家に行ってから、すぐ」
本当にすぐ。本当に、だ。
「ちなみにお父さんはいつくらいだと思ってたの?」
「シシィは遅咲きのようだったから20歳くらいかなぁ、と。早い子なら生まれた瞬間に魔力が目覚めたりするんだ」
おそらくそれが、本来シシィの魔力が目覚める時期だったのだろう。が、祖母は自分が思ったより早く死が迎えに来るのに、シシィの魔力が目覚めず、その間に『孤独共存の呪い』が解けてしまっては恐ろしいことになる、と考えたのだろう。
そうして、シシィの魔力を無理矢理こじ開け、目覚めさせた。
――大丈夫、おばあちゃん。気にしなくていいよ。
最初は確かに嫌だった。訳が分からなくて怖かった。
それでも今、自分がこの道の上に立っているのは自分の意思だ。
祖母と、ルビーブラッドのような魔術師になりたいと思っている。
「……で、お父さん?まだ聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「……魔法使いって言って、なんで出張が多いの?」
シシィはじぃ、とコーファを睨むように見つめた。その厳しい視線を受けて、コーファは引きつった笑顔で後ずさりしながらまぁまぁ、とシシィを宥める。
「あー……お父さんは、厳密に言うと魔法使いじゃなくて精霊との交渉者なんだ」
「精霊との交渉……」
「お父さん、魔力は普通だけど精霊を見て話すことは出来るんだよ。で、各地で起こる精霊と人とのトラブルなんかを処理しにまわってるんだ」
思わずシシィは肩を落とす。
よくもまぁ、そんなことを黙っていてくれたものだ。
「マジシャンじゃなかったんだ……」
「いや、似たようなものだよシシィ!お父さんもボールなんかを宙に浮かせるよ」
「タネも仕掛けも本当に無いじゃない」
「そう言っても、嘘にならないのが魔法使いのいいところだ」
「騙されるからマジックって言うんだよ……」
ふぅ、とため息をつきながらつぶやくシシィに、コーファは苦笑する。
「褒められてもいいはずなのになぁ……精霊が見える人なんて、そういないのに」
「褒めるって言っても、それ以前に職業をいつわ……」
「お父さぁぁぁん!シシィちゃぁぁぁぁん!いつまでお母さん仲間外れなの、もしかして家庭内イジメなの、お母さん泣いちゃうんだからぁぁぁ!!」
ドンドンドンドンドンドンドン、とすさまじい勢いでドアが叩かれ、おかげでシシィは何を言おうとしたか忘れたし、コーファはビクリ、と身体を震わせた。これを夜にやられたら、泣く自信がシシィにはある。
――って、待って、なんか外でぐすぐす言って……。
と、気がついたときには遅かった。コーファが、これまたすごい勢いでドアを開け、
「そんなわけないだろうっアンリーヌ!!いつまでたっても愛してる!!」
「コーファ、私もよ!!」
と、夫婦で抱き合った。
それと同時に涙が止まるのは、我が母ながらすごいものがある、とシシィはもはや諦めと言うか第三者的というか、とにかく遠くを見る目で自分の両親を見つめた。
見つめて、思う。
――万年新婚夫婦……。
やはり見ているこちらが恥ずかしい、とシシィは視線を逸らした。
「アンリーヌ、もう昼食なのかい?」
「ええ、そうよ。シシィちゃん、お皿出すの手伝って」
語尾に音符マークがつきそうなほどご機嫌な様子で、アンリーヌはシシィに向かって言った。料理はもう出来ているのだろうし、別にそれくらいなら、という気持ちでシシィは頷こうとしたのだが、その前にコーファが口を出す。
「久しぶりにシシィは帰ってきたんだ。それくらい休ませてあげなよ」
いや、その前に抱き合ってるのをそろそろ終了する気はないのかな、とシシィがぼんやりと思っていると、アンリーヌが爆弾発言を落とした。
「ダメよ、シシィちゃんはもうお嫁に行くんだもの。花嫁修業しなくちゃ」
――お嫁に、行く?
「ええええええええぇぇぇぇぇぇぇええええ!?シシシシシシィっ、いつのまにそんな人が出来たんだ、お父さん紹介してもらってないよ!!」
「わわわわわわわ、私だってはじ、はじ、初めて聞いたよ!?ななな、何!?何なのそのいきなり話!?もしかして婚約者がいたとか、そそ、そんな話なの!?」
あまりの衝撃的な発言に、コーファは抱き寄せていたアンリーヌを離して肩を掴み、説明を、とつめよるシシィとコーファだが、その様子をニッコリと微笑みながら見つめ、アンリーヌはそれはもう、夢見る少女の瞳で語ってくれた。
「お母さんね、若いおばあちゃんになるのが夢なの」
「……あの、お母さん?」
「だから愛するコーファと早く結婚して、シシィちゃんを早く産んだんだもの。シシィちゃんも、もう16歳でしょう?早く結婚して、お母さんに孫の顔を見せて?」
「え、あの。アンリーヌ、僕はそんな話聞いてないんだけど」
子供の教育は、親が協力しあい、よく話し合ってするべきだ。
シシィは今、この瞬間、激しくそう思った。
「シシィちゃん、最低でも10代のうちには結婚するのよ!」
「だだ、ダメだシシィ!結婚なんて一生しちゃヤダーー!」
「2人とも意見が極端すぎるよ……」
絶対10代のうちにさせます、いや一生しちゃダメ、という両親のほのぼのとした、しかしすさまじい争いを聞きながらシシィはどっ、と疲れたので無言で2人の脇を抜けて、リビングに戻った。
――ああ、ビーフシチューのなんていい香り。
まだ背後で聞こえている争いを聞きながら、キッチンに置いてあるビーフシチューが入っているだろう鍋を見つめていたところ、ふくらはぎに何かがぶつかってきた。
――ふわふわ、してる。
そう考えたところで、シシィはルウスの存在を思いだした。すっかり忘れていたが、彼も家に来ていたのだ。
――なんて見苦しいところを見られたんだろう。
身内の争いは恥ずかしいなぁ、と思いながらシシィが視線を下げると。
「……ルッ」
ルウスが、リボンまみれだった。
首にリボンが巻かれ、蝶々結びにされて首輪代わりになっているし、背中にも巻きつけられているし、極め付けにしっぽにも巻かれている。
しかも、色はピンクだ。黒に毒々しく映える。
――お、母さん。
哀れなルウスの姿を見ながら、シシィは容易に犯人の予測がついた。こんなことをするのは母だけだ。
「ご、ごめんなさい、ルウスさん……」
シシィの謝罪にも、ルウスはものすごく不機嫌そうな表情と雰囲気でそっぽを向く。
――何てことしてくれたの、お母さん……。
とりあえずルウスのリボンを外しながら、シシィはいらんことをしてくれた母を少しばかり恨んでおいた。
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暗闇の中ランプを掲げながら――ブレックファーストは微笑んだ。
「やぁ、覚えているだろう?」
森の中に隠れるように作られた、小さくてボロボロの小屋。内装も人が住んでいるとは思えないほどで、木の床は所々穴が開いている。
しりもちをついて、何故ここが分かったのか、という表情を見せる自分と同じ年頃の、しかし身なりはボロボロで哀れな男を、ブレックファーストは冷たい目で見下ろした。
けれど、微笑みは忘れない。
この表情が、一番相手の恐怖心を煽ることを覚えた。
――悲しいけれど。
「私にしたことを、まさか忘れたわけじゃないだろう」
「あ、れは、仕方なかったんだ……!」
「良かった、忘れたわけじゃなさそうだね」
やっと言葉を発した男の弁明を、やんわりと彼は退ける。
「す、すまなかったっ、許してくれ!!償いなら……」
「いいよ」
「――な、」
呆然とする男を笑いながら、ブレックファーストは言葉を続ける。
「ははは、おかしいね。今の言葉が欲しかったんだろう?何度でも、望むだけ君に言ってあげよう。いいよ、全てを赦そう、と」
「う、あ……」
望む通り赦されたのに、男は親から見放された子供のようにうろたえた。
――君は彼らの中では一番良心的であったからね。辛いだろうね。
罪悪感を十分に吐露出来ないうちに赦される、というのは存外辛いものだ。
ブレックファーストは、それを理解していた。
だから今、それをやっている。
「どうしたんだい?いいんだよ、あの後、私がどんな道を生きてきたか、何を失ったかなんて君自身には関係ないし、私は君を赦してる。償いもいらない。良き友人だ、昔のように」
「あ……」
微笑みながらブレックファーストは懐に手を入れて、小袋を取り出し男の前に放り投げた。チャリン、と高い金属音が鳴り響く。
「これでやり直すといい。この国でなら十分な額だろう。友人の私から、君へのプレゼントだ」
生活に困窮し、追われるようにこのボロ小屋に住まうことになった男にとって、この金は喉から手が出るほど欲しいものであるはずだ。それを自分に恵まれることで、彼の自尊心は砕かれ、罪悪感は重くなる。
――苦しめばいい。
「……そ、待ってくれ……」
「さようなら」
「待ってくれ!待ってくれ!!」
男の悲痛な叫びには一切耳を貸さず、ブレックファーストはきびすを返すと、その小屋から外に出て森の中へと歩みを進めた。
この森は深くない。自分の足でなら5分もあれば街の外れに出れるだろう。
ランプの灯を見つめたあと立ち止まり、空を見上げて月を見た。
――光りが、目に沁みる。
手で目を覆うと、涙が頬をつたっていった。
「……さようなら」
――彼との幸福な思い出は、たった今消えたんだ。
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祖母の残した家に帰ってきて、夕飯を食べお風呂に入り、就寝の時間。
ベッドの中で寝返りをうったシシィは、そういえば、と思い出した。
――ブレックファーストさん、今頃どこにいるんだろう?
昨日出発した、と言うなら常識で考えれば、まだこの街の近辺にいるのだろうが、彼は魔術師で、魔術アイテムを使える。なのでルビーブラッドのように空間転移を使っている可能性もあるので分からない。
――人を探してるって言ってたしなぁ……。
復讐のためだと、ブレックファーストは言っていた。けれど彼の人柄を知っていくたびに、そんなこと止めて欲しいと思うようになっている。
――優しい人。
彼は優しくて、結局『復讐』に押しつぶされてしまいそうだ。押しつぶされて、悲しくなるだけなら止めてしまえばいいのに、と無責任にも言いそうになる。
カーテンの隙間から見える月を見つめ、シシィは祈る。
――どうか、ルビーブラッドさんもブレックファーストさんも、無事でありますように。
そうしてシシィは重くなってきたまぶたに従い、そのまま眠りに落ちた。
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