住居スペースは細長い廊下を進んだ先にあり、扉を開けるとすぐにリビングとなっているのだが。
ドアを開けた途端、香ばしい香りがただよってきた。
「……帰りましょう、ルウスさん!」
「待ってください、帰る場所はここでしょうに」
Uターンしようとしたところを、服のすそをあむ、と噛まれて引き止められ、シシィは涙目で恨めしそうにルウスを見つめた。
怖いから、帰らせて欲しいのに。
「怖いって何がですか」
「だ、だって、祖母が亡くなったのは2週間も前なんですよ!祖母の最期は私の家で看取ったから、私が来るまでここは使われてなかったハズなのに」
「のに?」
「〜〜っキ、キッチンから香ばしい香りが!!」
リビングとキッチンは一緒の部屋に作られているので、香りがただよって来るのだ。
ルウスに涙ながらに訴えると「犬だからそれくらいは匂いますよ」と軽く流された。
結構ちょくちょく思ってたが彼は意外と酷い人だと思う。基本善人ではあるだろうが。
「もうそろそろ慣れましょうよ、これも魔術です」
「か、香る魔術ですかっ」
「時を止めてたんでしょう」
ふんふん、と実に犬らしく宙の香りを嗅ぎながら、ルウスは暗い部屋を見渡す。
灯りはシシィの持っているランタンだけで、全てを照らすことは出来ない。
「オレンジケーキを作っておいて、出来上がった時点で時を止めて家を出たのでは?これはどう考えても焼きたての香りですから」
「……ルウスさん、本当に魔術使えないんですか」
ここまで詳しいのなら、魔術が使えてもよさそうなものだ。シシィが少し疑いを交えながらルウスを見つめると、彼はため息をつきながら「使えたらよかったですけど」とつぶやく。
「知っているのと使えるのはまた別でしょう。魔術師とは職業柄会うことが多かっただけで、本当に私は使えません」
「と、いうかそんなに魔術師さんって多いものなんですか?」
「まぁ……普通の職業人よりは少ないですが」
本物の魔術師は表に出てきませんからね、とルウスは言う。
「シシィさんのように、魔法を珍しがる人のほうが多い国ですから魔術師だなんて名乗ったら、大変なことになったり嫌なめにあったりもするでしょう」
「そういうものですか?」
「そういうものです。そんなことよりキッチンへ見に行ってみましょう」
「うう」
やはり避けられないことだったか、とシシィはさすがに観念してバッグとトランクをその場においてランタンと鍵だけを持ってキッチンへと恐る恐る近づいていった。近づく分だけいい香りも強くなる。
この香り。
よく知っているこれは。
「……オレンジケーキ?」
の、香りのような気がする。
キッチンの台の上に灯りを照らしてみるとやはりオレンジケーキで。
『オレンジケーキを食せ』
――もしかして、これのこと?
「シシィさん?なんでしたか?」
ルウスは4本足歩行なため、台の上が見えないらしくシシィのスカートのすそを引っ張って状況説明を求める。ちょっと現実逃避しかけながら、シシィは彼に先ほど拾った紙のことと目の前のオレンジケーキを説明し、相談してみた。
食べた方が、いいのかと。
「いいと思います」
「ああっ、やっぱり!」
あっさりと、何の問題もないように言われてシシィは思わずその場に座り込んだ。
食べたくない。
ものすごくめちゃくちゃ食べたくない。
だって、怪しいじゃないかどう考えても。
横にいるルウスをじ、と見つめてみる。
「ルウスさん食べる気ありま」
「せん。どうぞおいしく頂いてください」
――ああ、かわいいと思っていた帽子さえ憎たらしく見える。
ルウスの上に乗っている帽子を睨みつけながらシシィはのたり、と立ち上がりランタンの灯りに照らされた、2週間前に作られたはずの焼きたてオレンジケーキを見つめる。食べたくはない、が。
おそらく食べなければ先に進めないのだろう。
シシィは観念し、傍においてあったナイフでケーキを切り分けると一切れ分だけ手に持って。
「――っいただきます!!」
ぱくり、と一口食べた。
懐かしい、優しい味が口に広がる。
「……おい、しいです」
「そうですか、それはよかった」
いや、良かったのだが。この場合何か起こってくれないと困る。
自分の体に何も変化が起きないので、シシィはもう一口、こんどは最初より少し多めに含む、が何も変わった様子は起きなかった。
オレンジケーキを見つめた後、シシィは再びルウスを見つめる。
「……何も、起きませんね」
「ふむ。懐かしの味を孫に食べさせたかったのでは?」
「そう、でしょうか」
そう言われるとそうなのかもしれない、と思ってしまう。シシィは残りを食べて、とりあえず後に残った1台のオレンジケーキは残しておくことにした。何もないならそれはそれでいいのだ。祖母の最期の手作りケーキ、おいしく大事に食べたいと思うのが人情と言うものだろう。
「そういえばオレンジケーキは、レイモルルさんから習ったんでしたっけ」
「はい。オレンジケーキだけじゃなくて、お菓子なら結構作れますよ」
再びリビングに戻りながらシシィは答える。
そう、お菓子作りは得意だ。しかし料理となるとこれはまた別の話で何故か味付けがいまいち不評になる。思うに甘く味付けしすぎなのかもしれない。
「えっと……ルウスさん、どうしましょう?」
「奥に進んでみましょう。寝室は奥にあるのでしょう?」
彼の質問にシシィはコクリと頷き、奥に通じる扉をゆっくりと開いた。微妙に警戒していたのだが特に何も飛び出してくることはなく、ただ暗い廊下が続いているだけだ。
少し進んだ右側に、祖母の寝室、さらに奥がトイレ、バスルーム、洗面所。
祖母の1人暮らしだったので、それ以外に部屋はない。
はず、が。
「……っ!?」
シシィはごしごしと目をこすり、よく奥のつきあたりを見てみる。
ぼんやりと、弱くランタンの灯りに照らされて見えた。
見えてはいけないもの、今日まではなかったもの。
あるはずのない2階に続く階段が、そこにある。
「ルルルルルルルルウスさん!かかかっ階段があります!!」
「いや、あるでしょう」
「ないですよ!い、今までこんなところに階段なんてなかったです!!」
シシィのその言葉に、さすがにルウスも表情を渋くした(ように見えた)。耳がピクリと動いて、しっぽがパタリと一度動く。
「……むぅ、怪しいですね。もしや先ほどのオレンジケーキ、魔術が使われていたかもしれませんよ」
「魔術だらけですかこの家は」
「魔術師の家ですから」
それはそうなのだが。
つまり、先ほどのオレンジケーキは今までシシィには見えないよう隠しておいた階段を見えるようにするための魔術が仕込んであったということなのだろうか。食べ物にも魔術が仕掛けられるとは驚きな話だ。
そうシシィがつぶやくと、ルウスが軽く訂正する。
「本来魔術は飲食物に混ぜて使うものですから。ほら、例の惚れ薬だって何かに混ぜてという話が多いでしょう」
「あぁ……そういえばそうです!」
童話などでは魔術は食べ物に仕込まれることが多い。彼女はその言葉に納得する
と、ランタンを高く掲げてその階段の近くまでゆっくりと近づいていった。
やはり、階段があるからには2階があるようだ。
見慣れない2階に上がるのは、かなり怖い。しかも隠されていた2階なのだから絶対に何かある部屋。が、だからこそ行かなければ。
ルウスの魔術を解くヒントになるものがあるかもしれない。
「い、行きましょう!」
シシィは勇気を振り絞って、踏むとギィと鳴る木の階段を上がって行き、彼女の後ろをルウスがスタスタとついて行く。ギ、ギ、と鳴るのがまた嫌な感じに怖いなぁと思いながらシシィはランタンの灯りを掲げて、階段の途中から2階を照らしてみる。
床だけは、照らされた。
「う……っ」
やはり、上がってみるしかないようだ。
恐る恐る右足を2階の床に踏み入れる。
と。
「っひょわぁぁああ!!?」
パ、と灯りがついたのだ。自動的に、何もしていないのに。
しかもその灯りはどう考えても火じゃなく、もっと白く明るいもの。見たことのない明るさに目をぱちくりしていると、シシィの後ろからルウスが顔を覗かせて「おや」と声を上げた。
「照明は『ムーンストーン』でしたか」
「むむむムーンストーンって、ほほ宝石のっ?」
「ええ。宝石は魔力を通すとよく光ってくれますからねぇ」
そんな話聞いたことない。
と、心の中でツッコミを入れた後、ポケットの中からアンティークキーを取り出してみると思ったとおり鍵に装飾されているオレンジ色の石が光を放っていた。どうやらこの家に仕掛けられた魔術は、この鍵で反応してくれるらしい。
ルウスが『貴女の魔力に反応するように書き換えられた』と言っていたのはこういうことが含まれていたのだろう。
「それにしても……大きな隠し部屋でしたね」
ルウスはしみじみと言いながら、部屋を見渡す。
壁紙は地味な灰色、床はじゅうたんは敷かれていない古びた色のフローリング。
上がってすぐ見えるのは、たくさん物が乗っている大きな机。本や紙束、訳の分からない道具が並んでいて、両手を広げたくらいの机を覆っている。
その左側にはまた訳の分からない道具や機械が並んでいて、反対の右側には図書室のように本棚が奥に向かって並べられていた。本で、床が抜けるんじゃないかと心配したくなるくらいだ。
「い、1階の間取りをまるまるこの部屋に使っちゃったみたいですね」
広さ的には一緒なのだろうが、なにせここは物が多すぎる。
見上げた天井にとりつけられたランプには、ルウスの言うとおり火の変わりにムーンストーンが入っていた。
と、呆然と見渡したところで。
「あ!こ、ここならルウスさんの魔術を解く方法が絶対ありますよ!!」
「そうかもしれません」
手始めに目の前の大きな机の上に置かれた本に何かヒントがあるかもしれない、と古く赤い表紙の本を手にとってページをめくってみた。
――そして、静かに閉じる。
「シシィさん?」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいね……」
声が震えているのを自覚しながら、シシィはバクバク音がしている自分の胸に言い
聞かせる。大丈夫、自分はクール。
今度は緑色の表紙の本を開き――また閉じた。
――どうしよう。
「ル、ルウスさん」
「はい」
「字が、読めないんです」
おそらくここから聞いたなら、シシィの事を馬鹿だと思う人間もいるかもしれないが、一応断っておくと彼女は字は読める。
「読めない?」
「ももももも」
「も?」
「モザイクがかかってるんです!!」
ばっ、と広げた本。
内容は――確かにモザイクがかかって読めなかった。
読めない、というより判読不可能。
「いかがわしい本なんじゃぐふっ!!」
「おおおお女の子に何てこと言うんですかっ!!」
とりあえず、ルウスの頭を本でどついておいた。が、どんなことをしても判読不可能な事実は残るのだ。シシィは必死で頭を使って考えるが、なぜ本にモザイクがかかっているのか分からない。つまり祖母はやはり、自分を魔術師にしたくなかったと言うことなのか。
頭を抱えてシシィが悩んでいると、ふとルウスがあるものを見つけて、口にくわえて彼女のもとに戻ってきた。くわえているのは、やはり本。
「シシィさん、これは読めませんか?」
「はひ?」
恐る恐る手にとって表紙を開いてみると、
――ぼん!
「うぎゃああああぁぁぁあぁぁああ!?」
と、ものすごい音がして、シシィは本を放り投げたのだが、図書室のとき同様その本は光を放ちながらゆっくりと回転して――喋り始めた。
『新規魔術師登録準備完了。ワークネームをどうぞ』
「わわわ、ワークネーム…?」
「魔術師としての名前です。魔術師は本名を名乗らないことになっていますから、何でも構いません、名乗ってください」
「そそ、そんなこと言われても!」
「何を名乗っても大丈夫ですよ、『赤ステッキ』なんて名乗ってる人もいます」
いわゆる、ペンネームのような物らしい。
登録準備完了、と言っていたからにはもしかしたらそのような準備は祖母が亡くなる前にやってしまっていて、後は名前だけ、というところにまで設定していてくれたのだろうか。
しかしそんなこと急に言われても思いつけるはずない、とシシィが部屋の中をキョロキョロ見渡していると、あるものが目に付いた。
ルウスの頭の上に、ある。
「――っ『闇色ハット』!!」
『認証……完了。『闇色ハット』を正式に魔術師として登録。この通知は同盟魔術師全てに送られます』
「へ!?」
待って、と言う前に本は閉じられ光は消える。ぼた、と落ちたその本をルウスが拾いに行って、再び呆然としているシシィの手に戻した。
「おそらく魔術師になりました、っていう通知が仲間内にいったと思いますよ」
「いいいい嫌ですっ、私は魔術師になりたいんじゃないですーー!」
「それなら黙ってればよかったんですよ。確かアレに答えなければ通知はいかなかったはずですから」
今なんて言った、この犬。
シシィがわずかばかりの殺意を向けながらルウスを睨みつけると、彼は相変わらず犬なのでよく表情は分からないのだが、確実に笑いながら言う。
「魔術師、おめでとうございます」
「歯を食いしばらないでください、殴りますから」
避けられたためぶん、と空振りしてしまったのが悲しい。
「それより、その本。読めます?」
「読めるわけないじゃないですか、こんなの……」
と言いながらシシィが開いてみると、そこには見慣れた文字が書かれていた。
モザイクなどかかっていない、理解できる内容。
何故この本だけ、と慌ててシシィが表紙のタイトルを見てみると、ピンク色の表紙にはこう書かれてあった。
『はじめてのまじゅつ』
――いわゆる、初心者向け。
「先ほどシシィさんが手に取ったのは、難しい魔術の本だったようです」
机の上にあるものを見てみると、確かに『魔術理論』やら『返しの返しの魔術』など訳の分からないタイトルが書かれている。
だから、なんだと。
ルウスはため息をついて、説明してくれた。
「おそらく、高レベルの魔術書は読めないようにモザイクがかかる魔術が仕掛けられているのでしょう。安全の為に」
「じゃ、じゃあ、これを読んだらモザイクが解けるようになるんですか」
「そうでしょうね、きっと」
それを聞いてシシィは目次のページを開き、まず始めにルウスの魔術を解くようなものがないか調べてみた。が、ない。やはりルウスのそれは高等魔術のようだと諦めて、今度はモザイクを解く魔術を探す。
すると、発見した。
「最後のページ!」
発見したはいいが……分からない。
「用意する物ペテレントリシャヌ、ギャンドリドリルト……ショルフォーワヌル法を応用して…何そのショル…なんたら法って」
「その魔術だけを覚えようとしても無理ですよ、魔術は数学と似てますから」
「へ?」
「たし算やかけ算を知らずに連立方程式は解けないでしょう」
確かにそれはとんでもない無茶だ。何事にも基本と言うものはある。
と言うことは、この魔術書を順に追っていかなければ無理なのか、とシシィががくりと肩を落としたところで。
嫌な、予感がした。
そぉ、とルウスを見つめてみる。
「頑張って、私を元に戻してください」
「い、いや、他の人のところ行った方が早いんじゃないですか?」
「嫌です、魔術師は偏屈な人が多いですからシシィさんがいい」
そんなワガママ言われても、全然かわいくない。
「それとも、放り出すのですか?」
「う」
「ああ、また明日からごはんに困りますねぇ」
「う」
「寝るところもなく、悪ガキに石を投げられるのですか」
「ううっ」
シシィは――負けた。
「…………うちに、どうぞお泊りください」
「よろしくお願いします」
こうして不本意ながら魔術師を目指すこととなった少女と、謎の犬との奇妙な共同生活は始まったのだった。
「ベッドで一緒に寝ていいですか」
「断固拒否します」
かなりの不安と共に。
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