――花の、香り。

 シシィはそっ、と目を開けた。けれど、起きたわけではない。
 ――ガーデン。
 夢の中のガーデンで咲く花々は相変わらず美しく、流れる星々も輝いている。
 ブランコに揺られたまま、彼女は空を見上げた。キィ、キィ、というブランコが発する音だけが空間に響く。
 石畳の道、芝生、色んな季節の花々、高い生垣に小さな噴水、白いガゼボ。
 所々でチラチラと燃えて灯るランプ。
 全て見慣れたが、ここで見慣れていないものはひとつだけ。

「ルビーブラッドさん、元気かなぁ……」

 彼とはなかなか会えない。最後に直接会ったのは、彼がシシィの住む町に来てくれたときで、もう1ヶ月半以上は前になる。
 ブランコが、シシィを乗せたまま揺れる。

「ごはん、食べてるかなぁ……」

 彼についてはそれが一番、心配だ。





********





「やっぱりブレックファーストさん、昨日旅に出ちゃったんですか……」
「そうなの。ごめんなさいね、闇色ハット」

 本日、図書館休刊日。
 なので彼が旅に出てしまわないうちに、昨日依頼が解決できましたと報告するために朝早くから彼の泊まっていた宿屋を訪ねてみたが、既にそこに彼の姿はなく。
 そこの女主人によると、まさしく昨日旅立ってしまったらしい。しかしもしかして、こちらにいるのでは、とBの店を訪ねてきたシシィだったが、回答は同じだった。
 少し困ったような表情で軽く頬に手を添えているBを見て、シシィはカウンターに手をつき、はぁ、とため息をつく。
 ――遅かった。

「何が何でも、昨日報告に行くべきでした……お別れも出来なかったし」
「また来てくれるわ。それに、貴女の仕事の邪魔にならないように、わざと何も言わずに旅立ったのよ。責めないであげて頂戴?」
「そんな、責めるなんて」

 欠片も思っていない、と勢いよく頭を横に振り、おまけに手もぶんぶん振るシシィを見て、Bは「そう」と微笑んだ。相変わらず艶っぽい表情である。
 ――同性の私でも見とれちゃうんだから、男の人なら尚更だよね……。
 以前、Bと食事をしたときそんな話をした気がするのだが、上手くかわされたような気もする。そのへんも全て含めて、やはりBは大人の女性なのだ。
 思わずぽんやり、とBを眺めていたシシィだったが、Bの「そういえば」という声で弾かれたように思考を取り戻す。

「ルビーブラッドの噂を聞いたわ」
「!? ほ、ほほ、ほほ本当ですかっ!?」

 Bは職業柄、シシィよりも他の魔術師や魔術関係者に出会うことが多い。だからこそ噂話を耳に入れる機会も自然と多くなる。
 「聞きたい?」とBに訊かれて、シシィは勢いよく頷いた。もし彼が今、どんな仕事をしているのか分かれば、おのずと彼の生活リズムもつかめてガーデンで会える時間が分かるかもしれない。
 よく聞こうとして、カウンターに手をつき少し身体を前のめりにしていたシシィに、、Bはにっこりと微笑む。

「天変地異を食い止めたらしいわよ」

 ――は?
 シシィは、固まる。
 ――天変地異、を、食い止めた?

「そ、れは、果たして、人間に可能なことなの、です、か」
「そんなにまともに受けちゃダメよ。噂に尾ひれはつくものなんだから」
「あ……なる、ほど……?」

 そう、噂に尾ひれはつくものだ。
 だがしかし、とシシィはつい思ってしまう。
 ――ルビーブラッドさんなら出来ちゃうんじゃないかって、思っちゃう、んだよね……。
 ルビーブラッド本人がここにいたら、「そんなわけあるか」とあの低い声と厳しい視線であっけなく一蹴されてしまいそうだが。

「……ねぇ、闇色ハット?」
「あ、はい、何ですかBさ……」

 ぼんやりと、どこに向けているわけでもなかった視線をBに戻し、シシィは凍りつく。
 Bが艶やかに微笑んでいる。
 ――な、にかを、企んでる顔だ……!
 シシィは慌てて前のめりだった状態から、Bの不思議で怪しいフェロモン攻撃の餌食とならないよう一歩距離をとろうとしたのだが、先に腕をBにつかまれた。
 にっこり、と冷や汗を流しながら微笑むと、Bも改めて微笑み返してくれた。
 それはもう、逃げ出したくなるほど真っ黒く。

「ルビーブラッドと、仲がいいのね」
「は、あ。そ、れは、あの、なな、仲良く、させて、もらって、マス」
「いつのまに?この前は詳しく聞けなかったけれど、いつか聞こうと思ってたのよ」
「え」
「私、こういう話聞くのが大好きなの」

 こういう話、というのは――仲良し話を?
 Bが期待している方向とは、全く持って完全に違う方向に思考を走らせながら、シシィは何を聞かれるのかと内心ドキドキしていた。
 あまり深く突っ込まれると困る。服の中で揺れている、ルビーブラッドから貰った赤黒い石のペンダントは、誰かに見せてはいけないと言われている。が、Bの性格上その話をすれば「見せて」とせがまれそうだ。
 ――ど、どど、どうしよう。
 上手く誤魔化せる自信はないし、かと言って正直に話すと困る部分もある。
 誰か助けて、とBの輝きに満ちた瞳を見ながら心の中で叫んだとき。

「やぁ、麗しのB!僕の愛しの女神と天使なお花、闇色ハットは来ているかい!?」
「――ヴィトランさん!」

 ――ああ、救いの神様が降臨なさった!
 この際、この状況を何とかしてくれるなら彼の『僕の〜』からくだりの言葉は聞かなかったことにしよう。シシィはBに腕をつかまれたままでも出来る限りで背後を振りかえり、相変わらず美しい容姿をしているヴィトランをその視界に入れた。

「ああっ、闇色ハット!僕は君を求めて1万光年彷徨ったよ!!」

 言っていることは分からないが、なんだか探してくれていたようだ。
 他でもない闇色ハットに用事ならば仕方ない、とBはそこで腕を離し、カウンター奥に置いてあるイスにポスン、と腰掛けた。Bが諦めてくれたことでいささかホッとしたシシィだったが、大変なのはこれからだ。
 果たして彼は、自分に何の用があって探していたのか。

「ヴィ、トランさん、どうされたんです?」
「聞いてくれたまえ、実は……」

 と、ヴィトランは少し離れた場所からシシィを見つめて固まる。

「……?」
「う、」
「う?」
「美しすぎるよ闇色ハット!!」
「何がですかぁぁぁぁ!?」

 腕を広げて突進してくるヴィトランに恐れおののき、それでも視線を外せずカウンターに背中をぶつけた瞬間、ヴィトランの両腕がボタ、と床に落ちた。

 落ちた。

「ああ、しまった」
「あら」

 ヴィトランとBは冷静に床に転がった腕を見つめ、シシィもじっ、とその腕と、ヴィトランを交互に見つめた。
 腕、である。ヴィトランが着ている5分袖のセーターからは腕が出ておらず、ただ袖は肩から両袖ともぺったりと潰れてしまっていた。
 ――つまり。
 ヴィトランの、両腕がない。

「実はねぇ、これを治してほしいんだ闇色ハッ……ああ!」
「きゃあっ!闇色ハット!!」


 シシィは、失神した。





********





 ルウスは思う。
 彼女はいつか、死んでしまうんじゃないだろうか。

「うっ、うっ、腕、腕がっ腕がとれっ……!」
「はいはい、大丈夫ですよ、もう怖くありませんよ、シシィさん」

 しかも、死因は『ショック死』とかで。

 ちょうど12時の鐘が町中に響いた頃、シシィは泣きながら帰ってきた。また魔力コントロールアイテムを落としたのだろうか、とルウスは焦ったが、そういうわけでもなさそうな様子のシシィに、別の意味で困惑してしまった。
 リビングのソファに座り、一向に泣き止もうとしない彼女に業を煮やし、ルウスが無理矢理どうにかとっかえつっかえの説明を聞いたところ、あまりの馬鹿馬鹿しい事態にため息が出た。
 ヴィトランの腕が取れた、というのは、また彼自身が例によって魔術に使う果実に触れたからである。それによる作用だったわけだが、シシィに初見でそんなこと分かるはずもなく、ホラーなことが苦手な彼女は失神したというわけだ。
 一番困っているのは、未だに彼女が泣き止まないことだ。よほど怖かったらしい。

「大丈夫ですって、魔術関係だったんですから」
「でもっ、でもっ、腕っ」
「別に断面を見たわけではないでしょう?」

 ルウスの発言に、シシィは覆っていた手を少しどけて、うつむけていた顔を上げ。
 ルウスをしばらく見つめてから。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
「どうして見てないものを想像するんですっ!」

 再び顔を手で覆って、うつむいて泣き出した。
 怖がりなのに、想像力が強いのは困りものだ。シシィの想像が手にとって分かるようだ、と思いながらルウスは帽子を乗っけた頭を軽く振る。微妙に頭が痛い。

「学校で肝試しくらいしたでしょうに……」

 もしかして、サボり倒したのだろうか。
 ルウスのその言葉に、シシィは涙を流しながら顔を上げてこくり、と頷いた。頷いた上で、言う。

「肝試し、ひ、1人で行かなくちゃ、いけ、なくてっ。でも最初でっ、叫び声、あげたらっお化け役の人が同情して、くれて、一緒に回ってくれることになって」
「……叫び声が断末魔に聞こえたんでしょうね」
「でもっ、怖くて、すごいびっくりしてたら、そのうち、みんな脅かさなくなってくれて、お化け役の人みんなとゴールしました……っ」

 笑えない。

「そのあと、気絶してっ、病院に運ばれましたっ」

 ますます笑えない。
 もしかして心臓の大きさは小鳥くらいの大きさしかないんじゃないか、と本気で疑いながらルウスはまだ泣いているシシィを見つめた。
 彼女の主成分は、おそらく涙で構成されているに違いない。
 とにかく話を変えよう、とシシィのスカートのすそを噛んで引っぱる。

「とにかく、その顔を何とかしなければお父様とお母様に会いにいけませんよ」
「うっ……」

 彼女は休みである今日の午後から、少しだけ実家に帰ることを決めていた。先日、他でもない母親に「冷たい」と言われたからには、一度帰ったほうがいいだろう。
 そのことを思い出して、シシィはあふれ出てくる涙を拭う。

「しかし、お昼から帰っても誰かいらっしゃるんですか?」
「お母さん、は、専業主婦ですし……っ」
「そういえば、お父様は何を?」

 シシィは彼の質問に、さらりと答える。

「マジシャンです」

 微妙な空気。
 が、流れた後、思わず凍っていたルウスは自力で氷を破った。
 改めて、もう一度。

「お父様、は、何を?」
「手品師です」
「…………」
「あ、えっと、ステッキを花に変えたり、トランプを」
「知ってますよ、手品師もマジシャンも」

 その職業も知っていて、人を楽しませる素晴らしい仕事だと理解しているが、シシィの父親が『マジシャン』という肩書きだとは夢にも思っていなかったので、少し、かなり、結構衝撃が大きいだけだ。
 止まってしまったルウスを見て、何を思ったのかシシィは少し眉をひそめながら、さらに話を続けようとする。

「お、お父さん、意外に売れてるんです。私が子供の頃から色んなところに呼ばれて引っぱりだこで、出張ばっかりで忙しいくらいなんですよ」
「はぁ……」
「ほ、本当です!」
「いや、疑ってるのではなく。驚いてるだけですから」

 首を傾げるシシィから目を逸らし、とにかく彼女の涙は止まったようだし落ち着いたようだし、と片付けることにする。終わりよければ全てよし、だ。
 ルウスが安堵のため息をついたところで、シシィがポン、と手を打った。

「あ、そうです、ルウスさんも私の実家に来ませんか?」
「シシィさんのお家にですか」
「これからもしかすると、お母さんがこの家に訪ねてくることもあるかもしれないし、そのときになってルウスさんを紹介するより、ちゃんと紹介しておいた方がいいじゃないですか」

 紹介と言っても、ペットとしてだが。

「……そうですね、ご挨拶はしておきましょうか」

 あくまでも、ペットとしてだが。
 了承したルウスを見て、それなら早速、とシシィは座っていたソファから立ち上がり、残っていた涙を拭いながら廊下の奥へと進み、祖母の残した隠し部屋に上がる階段に足をかけた。ギシギシと板が軋む音がする。
 その後をルウスが不思議そうに追いかけてきた。

「シシィさん?」
「ヴィトランさん、の薬を持っていく約束してるんです」
「今から作るんですか?出かけられませんよ」

 彼女はルウスの言葉に、ふるふると頭を横に振る。

「ヴィトランさんの魔術薬、ちょうど1週間前ほどに作ったばかりのがあるんです。実際に見てビックリ……しちゃ、った、んですけど」

 とっかえつっかえしながら言う、その様子が彼女の動揺っぷりを物語っていた。
 しかし、確かに本で読むのと実際に見るのは全然違う。知識として知っていても、まさか実際に見るとは思っていないわけなので失神してしまったのだが、シシィはきちんと覚えていた。
 身体のあちこちが、少しの衝撃で外れるようになってしまう症状と。
 その魔術薬の精製の仕方、そして作ったことを。

「確か、この辺の……」

 隠し部屋に置かれた魔術薬を保管しておく棚をあけて、手前に置かれた魔術薬の入った小瓶を除けながら探していると、シシィの目当ての魔術薬が見つかった。
 コルクでしっかり栓がされた透明な小瓶中に入っているのは、水のりのようにドロドロとしたオレンジ色の液体。
 ちなみに、飲み薬である。

「……ルウスさん、私が言うのも何なんですけれど」
「はぁ」
「ヴィトランさんって、こういうの飲まなきゃならなくなるって分かってて、それでも魔術用果実に触ってるんだったら……スゴイですよね」

 作ってる本人が言うのもなんだが、自分だったら飲みたくない。
 あきらかに変な味がしそうだ。

「というよりは、変人ですね」

 ――ああ、あえて言わなかったのに…。
 「あ、はは」と渇いた笑いを漏らしながら、シシィは棚の中の魔術薬を元通りに戻し、ヴィトランに渡す魔術薬を持つとルウスをつれて再びリビングへと戻った。

「シシィさん、お昼ご飯はどうするんです?」
「実家で食べさせてくれると思いますよ」
「薬は?」
「だからその家に帰る途中で、渡しに行くんですよ。ヴィトランさん、お家に帰ってるそうですから」

 シシィの言葉に一度頷きかけたルウスだったが、途中でハッと止まり、続いて銀色の瞳で彼女を疑わしげに見上げた。
 その瞳に、シシィはギクリ、と身を強張らせる。

「……シシィさん」
「な、んでしょ、う?」

「あの男に1人で会いに行くのが、嫌なんですね……?」

 シシィはさっ、と視線をルウスから外したが、それは「そうです」と言ったようなもの。

「道連れとは、いい根性してますねシシィさん…」

 その言葉でシシィはルウスに視線を戻し、ルウスはシシィから視線を逸らす。
 ――ダメだ、これはご機嫌を損ねたときの反応……!

「だ、だって、ルウスさん何だかんだでヴィトランさんと一番接触してないじゃないですか!っていうか外にも出ないし!」
「事情がありますから」
「少しは外に出ないと、その黒い毛並み白くなりますよ!」
「日焼けじゃないです、これは」

 せっかく一緒についてきて貰えそうだったのに、後少しのところでもくろみがバレてしまったため、これではルウスはついてきてくれなくなってしまう。
 シシィは仕方なく――最終手段をとることにした。

「……じゃ、いいです。今日は私、実家に泊まります」
「……」
「ご飯とか、全然用意してないんですから。ルウスさん、明日の朝まで絶対何も食べれないんですよ、いいんですか、大丈夫なんですか」
「……ひ、卑怯な……」

 生き物にとって、食事は大切だ。
 ルウスが珍しく負けを認め、シシィが珍しく勝ちを収めた瞬間だった。