依頼人が帰るのを見送るついでに、シシィは町へ出かけることにした。今日はもう、図書館を開けているなと天が言っているのか、図書館の扉が開いていた時間はわずかに数時間。大変申し訳ない気分なのだが、シシィにはどうしても、もう一度町へと出て、言わなければいけないことが出来たのである。
 依頼人を無事に家まで送り届けた後、シシィはポケットに入っていた白い紙を取り出し、そこに書かれている文字を改めて見つめた。

『困っているようなので、君を紹介しておいた。私には解けない、中級の魔術だ。どうかよろしく頼む。宿は『ロシャックイーヌ』という宿屋にいるので何かあれば来てくれ。

ブレックファーストより』



 依頼人より渡された、ブレックファーストからの伝言。
 彼があの依頼人を紹介してきたというなら、一応依頼を受けることにしたということは報告に行くべきだろう。そう思って、シシィはわざわざもう一度町まで出てきたのだ。
 しかし、ブレックファーストが泊まっているという宿屋は、生憎シシィの現在位置からだと意外に遠い。
 そういうときのために、馬車はあるものだ。ちょうど目の前を人が歩くよりは速いスピードで過ぎ去ろうとした馬車にシシィは捕まり、落ちそうになりながらも荷台へと入り込んだ。荷を入れる四角いスペースの中には、人々がそこそこ乗っている。これは荷馬車の荷を入れる部分に人を乗っけているだけの、お粗末な乗り合い馬車なわけなのだが、これが庶民の足である。シシィも実家から図書館へ移り住むときに利用したものだ。

「……」

 ガタガタと、馬車は揺れる。
 立っているのも疲れるので、シシィは適当に空いている場所へ座って、考えごとを始めた。
 気になり、不安に思っていることがある。
 ――ワークネーム……。
 Bが以前、教えてくれた情報。
 何故、『闇色ハット』の名前が広がったのかが分からない。祖母は、それは有名な魔術師であったが、別にシシィ自身はその名前を継いだわけでもないので話題になるとも考えにくい。『パール』と『闇色ハット』を結びつけるものなど何もないのだ。
 ――可能性としては、今までのお客さんかなぁ……。
 一応、今までの依頼人とは『闇色ハット』の名前を決して出さないことを約束してもらっている。が、依頼人たちだって、話している間のちょっとした油断でついポロリと言ってしまう人もいるかもしれない。
 現に、『パール』のことを自分の娘に話した人だっていたくらいだ。
 ――けど、それで広まるものなの?
 依頼人たちは、魔術を使えない一般人。そしてこの国では魔術は公に存在しない。
 そんな人々が、こんな国で魔術のことをしゃべったとしても大抵は鼻で笑われて、てんで相手にもされない。例えその噂話を魔術関係者が聞いたとしても、一般人からの情報であれば信じはしないだろう。

「……ん?」

 今、何か分かりかけたような。
 と思ったシシィだったが、ちょうど降りなければいけないところに来ていたので、馬車の騎手に代金を払い、よいせっ!と飛び降りる。

「きゃう!」

 こけた。

「あっはっはっは!」
「ははは!」
「姉ちゃん、大丈夫かぁー?」
「う、うう……っ」

 その辺にいた人々と、馬車に乗っていた人々両方から笑われてシシィの顔は真っ赤に染まる。恥ずかしかったので、すりむいてしまった足は痛かったが、素早く砂がついてしまったスカートのすそを払いながら立ち上がり、そそくさとその場所を立ち去った。

「は、恥ずかしい……」

 ぐす、と鼻をすすってから、シシィは前方に見えてきた目的地、『ロシャックイーヌ』という宿屋をその視界に入れる。
 宿、と言っても、いつぞやヴィトランが泊まっていた立派な宿屋ではなく、どちらかというとこじんまりとした、歴史ある趣が特長的とでも言うような宿屋。つまり端的に言うと、小さくてボロボロだ。
 きぃ、と音をさせながら扉を開けると、中から女性が出てきて対応してくれた。
 人の良さそうな笑顔を浮かべる、すこし恰幅のいい40代くらいの女性だ。

「お泊りですか?」
「あ、いえ。知人がここに泊まっているんですが……」
「なんとおっしゃる方ですか?」
「ブレッ……」

 クファースト、と言いかけてシシィは留まった。
 ――ブレックファースト、なんて名乗ってるのかな……。
 それはさすがにないだろう。宿には偽名では泊まれないし、魔術師であるからといういいわけもこの国では通用しない。
 ――じゃあ、なんて言うべきなの……?

「あ、あの、その」
「? お名前は?」
「えっと……」

 せめて、泊まっている部屋さえ分かればいいのだが、あの紙には書かれていなかったのでどうにもならない。次第に疑いの色が強くなってくる、女性の目。
 シシィは目を盛大に泳がせながら精一杯考えたのだが、結局いい案は思いつくはず
 もなく。
 ――ええい、こうなったらままだ!

「あのっ、ブレック」
「やぁ、マリア!!」

 とん、と肩を叩かれて背後を振り返ると、そこにはまさしく現在進行形の悩みの種であったブレックファーストがにこやかに立っていた。
 いきなりのことに呆然としているシシィを置いて、ブレックファーストは宿の主人であるらしい女性に向かって、微笑みながら話しかける。

「すみません、彼女は私の客なんですよ」
「あら、クロスさんの?」
「彼女は少し、人見知りで。気を悪くされていないといいのですが」
「やぁね、いいのよー。さぁさ、どうぞあがってちょうだい」
「ありがとうございます」

 微笑み、礼を言う姿は見るからに好青年だ。
 ――いや、そうじゃなくて。
 『クロス』とは、誰で、『マリア』とは誰のことを指しているのか。
 固まるシシィの背中をやや強引に押しながら、ブレックファーストは女性に微笑んでその場をあとにして、奥にある自分にあてがわれた部屋へと向かった。
 ギシギシと鳴る床を踏み、ギィ、と音のなる扉を開けると、以外にも中は小奇麗でいて泊まるのには何ら不便もなさそうな部屋だった。少し狭いが窓もあるし、クローゼットもベッドも、小さいながらもテーブルに来客用のイスもある。十分だろう。

「悪かったね、闇色ハット君」
「……クロスって誰です?マリア?」

 シシィの質問に、ブレックファーストは苦笑しながら答える。

「さすがに『ブレックファースト』という明らかな偽名で泊まることはできないし、本名で泊まるにはリスクが高すぎる。だからそれっぽい偽名を使って泊まることにしているんだ」
「はぁ……。あ、それで私がマリアですか」
「とっさに思いつかなくてね。もっと可愛らしい名前がよかっただろうが……」
「い、いいえ!」

 自分に比べれば立派だろう。何せルウスの偽名はポチだ。

「それならよかった。ところで、用があってきたのだろう?座ってくれ」
「あ、いいえ。あの、依頼を受けることにしましたというご報告を」

 示されたイスを断り、シシィはその場で手短に告げる。長居するのは時間的にもよくないし、シシィ自身も早く帰って魔術薬を作らなければいけない。
 その報告に、ブレックファーストは安堵のため息をついた。

「ありがとう、私にはもう手の施しようがない域だったのでね。君ならきっと助けてくれるだろうと思ったよ」
「あ、あの、ブレックファーストさんは、どこまでの魔術なら……?」
「そうだね……あの魔術の2,3手前くらいだろうか。そこまでの魔術ならギリギリ使えるが、彼女のケースになるともうお手上げだ」

 やはり魔術のクラスが上がるにつれて、魔術薬を作る工程の複雑さだけでなく、使う魔力も上がっていくのだろう。

「どんな魔術かは分かったかい?」
「いえ……依頼人からは特に変わったことは聞けなくて」
「ふむ。それじゃあ私からヒントをあげよう」
「本当ですか!?」
「答えはあげれないけれどもね」

 にやり、と笑うブレックファーストに、シシィも思わず微笑んだ。きっと気を使ってくれているのだろう、シシィ自身が自分の力で答えにたどり着けるように。
 そうして、魔術の上達が早くなるように。
 やはり、ブレックファーストは優しい人だ。

「変わったことがなかったなら、日常の中に溶け込んでいるのさ」
「……日常の中?」
「自分の生活をよく考えてみなさい。何か依頼人に変化が起きたのは、習慣の中に隠れているからだ」
「……考えてみます」

 今は分からない。が、家に帰って考えれば分かるかもしれない。
 依頼人が言っていたことをよく思い出してみよう、とシシィが考え込んでいると、ブレックファーストはその様子を見つめながら言う。

「君に任せたら安心だな」
「い、いえ、そんなことは……」
「いやいや、本当だ。そのうち世界中の魔術師がそう言うようになる」

 ――世界中?
 目を丸くするシシィに、ブレックファーストは微笑みながら告げる。


「君は将来有望だと思ったから、行く先々で宣伝しておいたんだ。『闇色ハット』という魔術師は凄腕だと」


『貴女のワークネーム、どうも広まってしまっているらしいの』

「あああぁぁぁぁあぁああああぁぁぁぁぁぁあっ!!」
「っ!?」
「ななななっ、あああっ、ぬぁぁぁぁぁぁ!」

 シシィは言葉になっていない声をあげながら、頭を抱えた。
 ――この人、だ……っ!!
 『闇色ハット』の名前を広めたのは、彼だ。
 よく考えれば、彼の名前をあげてもおかしくない。『闇色ハット』の名を知っている知人で世界中を飛び回っていると言ったら、ブレックファーストくらいなものだ。ルビーブラッドは『闇色ハット』の名を知らないし、Bとヴィトランはこの町から動かない。今までの依頼人は一般人なので、魔術師にしゃべったとしても信じてもらえないだろう
 が、彼となれば話は別。
 ブレックファーストは魔術師で、魔術関係の商人。
 その道を行く人で、プロだ。

「ど、どうしたんだい、闇色ハット君?な、何か私はいけないことをしただろうか?」
「ああ、う……。ブブ、ブレックファーストさん……」

 涙目で見つめると、完璧に彼の動きは止まった。何故泣き出したのか分からないのに、おそらく原因が自分にあるというのが分かっているからだろう。

「あの、悪かったところがあったならぜひとも言ってくれないだろう、か」
「な、なな、名前……広められると困るんですぅっ!!」
「え」

「わ、私、名前を知られたくないんですっ!!」

 知られたくない?とオウム返しで訪ねるブレックファーストの赤紫の目を見つめながら、シシィは涙をこぼしそうなところを堪えて説明する。

「間違えて、ルビーブラッドさんに本名を名乗っちゃってるんです!」
「……うっわぁ…君と言う人は、すさまじい秘密を持っているな……」
「と、とにかく困るんです!これ以上私の名前を広めないでください!ルビーブラッドさんの耳に入ったら……!」

 勘がよければ、気がつくかもしれない。何せこの国には魔術師が少ないらしく、その少ない魔術師たちのなかで名前が一致しなければ誰だって怪しむに違いない。
 ――っていうより、絶対ルビーブラッドさんは気づくよ……!
 彼の勘は鋭そうだ。
 ブレックファーストも同じ結論に達したのだろう、口元を手で覆っているが顔は青い。

「……分かった。すまない、よかれ、と思ったのだが完璧にいらんことしいだ」
「い、いえ。お気持ちはありがたいです……」
「いいや、こういうとき、君は怒っても構わないんだよ」
「で、でも元はと言えば話してなかった私が悪いですし……」

 ブレックファーストは悪意があって名前を広げていたのではない。善意だ。
 しかし彼は、シシィを心配するように首を横に振る。

「本当に、構わないんだ。怒ってくれても」
「え、でも、私本当に怒ってないです。むしろ、申し訳ないくらいで」

 その言葉にブレックファーストは、珍しく眉をしかめた。
 彼にしては珍しい表情に、シシィは驚きながらそれを見つめる。

「……君は、少し私にも似ている」
「え?」
「傷つかないように、自分を守りなさい。自分を守ることは悪いことではないんだ」
「………………」

「……決して、私のようになってはいけないよ」

 寂しそうに、悲しそうに。
 彼は笑った。





********





 帰りの馬車にガタコト揺られながら、シシィは考え込む。

『……決して、私のようになってはいけないよ』

 その言葉と悲しい笑みに、復讐という行為の空しさを見た気がした。
 恨むという行為や感情は、案外辛い。けれど復讐をする以上その気持ちは常に持ち続けていなければいけないもので、だからこそ復讐は容易に出来るものではない。
 ――疲れる、よ、ね……。
 ブレックファーストは優しい人だ。おそらく心の奥底では、復讐というものが正しくないことも空しさも全て分かっているだろう。
 それでも彼は、復讐を続ける。
 ――そんなに、酷い裏切りだったの、かな……。
 と、考えてシシィは頭を横に振る。どんな小さなものでも、裏切りというものは酷く、最低な行為だ。

「って、ああ!お、降ります!」

 不意に視線を足元から上げると、既に景色はよく見知った場所になっていた。これ以上進んだところで馬車を降りると、かなり歩くことになってしまう。
 慌てて騎手にお金を払い、慌てて飛び降りる。

「うぎゃ!」

 ――また、こけた。

 どうしてこんなにトロくさいのか、と自分で自問しながら起き上がるが、今度は周りで笑いが起きなかった。それはそのはずで、もうあたりは暗くなってきている。普通ならばもう家に帰っている時間なのだ。
 シシィも完全に暗くなってしまう前に(怖いので)帰ろう、と丘に向けて足を進めようとしたところ、後方より名前を呼ばれた気がして振り返った。
 暗いのでよく見えない、が、
 ――子供?

「闇色ハット」
「……Bさん?」
「ええ、こんばんは」
「こ、こんばんは!」

 金色の長い髪を持つ子供で、大人びたしゃべり。
 となればもう知り合いの中ではBしかおらず、シシィは慌てて挨拶を返した。こんなところでBと会うのは、というより外で会うのは珍しい。いつも大抵彼女は店にいる。
 彼女はシシィの近くに来ると、にこりと相も変わらず艶やかな笑みを見せた。

「珍しいのね、こんな時間にお出かけだったの?」
「はい、あの、ブレックファーストさんのところへ」
「彼のところへ?」

 Bは首をかしげる。
 確かにこの説明だけでは分からないだろう。

「ブレックファーストさんから、依頼人を紹介されたので依頼を受けましたって報告に行ってたんです」
「まぁ、そうなの……。出来そう?」
「中級の魔術ではあるそうなので、何とかします」
「なら、よかったわ」

 と、そこでシシィは思い出した。そもそも『闇色ハット』の名前が広まっているらしいと教えてくれたのは、他ならぬBである。あれだけ騒いでしまったので、一応ブレックファーストが名前を広めていた人物で、ケリはついたと彼女に報告しておくべきだ。
 シシィが事の顛末を告げると、Bはそう、と頷いた。

「これ以上広まらないで済むなら、それに超したことはないわ」
「それは思います……」

 済んでしまったことより、これからのことだ。これ以上広まらないでくれたなら、人の噂などすぐ廃れるもの、そのうち忘れられるだろう。それまで、どうにかルビーブラッドの耳に入らなければいいのだ。

「引き止めてごめんなさい、闇色ハット。もう遅いし、帰ったほうがいいわ」
「あ、はい。Bさんもお気をつけて」
「ありがとう」

 そう言って去っていくBの背中を見つめ、
 はた、とシシィは思う。
 ――Bさん、こっちのほうに用事でもあったのかな……。
 本当に珍しいところで珍しい時間に会った。もしかすると、助けを求めている人でも感知してこちらに来ていたのだろうか。

「んー……まぁ、いいか」

 よく分からないが、聞くタイミングを逃したため今更追いかけてまでは聞けない。
 それよりも早く家に帰って依頼のことについて調べよう、とシシィは足早に図書館の見える丘を登りはじめた。