目の前には数字が並んだ、白い紙。
場所は祖母の隠し部屋。
シシィは腕まくりをして、気合を入れる。
「頑張ります!」
「頑張ってください、シシィさん」
今回、シシィがいつも以上に気合を入れているのには理由がある。
様々な材料が並ぶ、もとは広いけれど物によって使えるスペースの狭い机の上には、何故かやかん。そのやかんの中には当たり前のようにお湯が入っている。
この魔術薬でキーとなるのは、『温度』。
「ええと、彼の平均魔力温が……72℃だったから」
白い紙に描かれた、7日分の魔力温を平均に直すと72℃だった。この72℃という温度がかなり大事で、気をつけていなければならない。
まずシシィは、あらかじめ調合しておいた粉をビーカーに入れた。この調合した粉だけで、何種類もの魔術草や木の実、果実が使われている。この魔術は中級クラスに値するのだが、やはり中級ともなると魔術が複雑化してくる。
次に魔術薬を材料として使うので、それもビーカーに入れて混ぜる。
「……シシィさん、目分量に磨きがかかってきましたね」
「え?そうですか?」
「ええ、最初の頃よりかなり早くなりましたよ」
しみじみ、「成長しましたねぇ」と泣きまねをするルウスはさておき、シシィはそうなのかなぁ、と目の前のビーカーを凝視する。自分ではあまり思わないが、確かに今まで、依頼された薬以外でも結構な数を作ってきている。その分経験値が上がっているということだろうか。
――だとしたら、うれしいんだけどなぁ。
知らないことが多いので、せめて魔術薬だけは早く正確に作れるようになりたい。
「まぁ、今回は素早く作らなくちゃいけないんですけれど」
と、そこでシシィはやかんに手を伸ばし、中に入っているお湯をビーカーに注ぐ。
「……86℃」
温度計は、そう示していた。
ということは、少し冷まさなければならない。
このお湯の温度が、依頼人の平均魔力温と同じ温度でなければ魔術薬が作れたとしても、彼の熱は下がらない。つまり、失敗なのだ。
シシィはビーカーの中に入っている温度計とにらめっこしながら、辛抱強くお湯が72度になるのを待った。
「あ、なりました!」
「急いでください、シシィさん」
「はいっ」
お湯が72℃を保っている間に魔術薬にしなければならない。
シシィは慌ててビーカーを床の上に置き、ロッドを手に持った。ロッドの透明な石がオレンジ色に輝き始める。
『我は有為の門扉を創る者 全てはここから始まりここに終わる』
時間を気にしているためか、魔術発動が遅く感じてしまう。
『荊棘と荊棘の中に安定と造詣有り 内に安定ひしめき星となり 星の中には荊棘と造詣が輝き 包囲と包囲を持って其を封ずる 輝く荊棘・包囲の造詣よ 真理の歪みを我に示せ』
複雑な魔法陣が、ロッドにより古びた板の床の上に描かれ輝いた。
――よし、大丈夫!
『ゲルドフラッド 静まれ滾り!』
成功したかに思えたのだが――
ドン!と。
「あっ!?」
魔法陣がぐにゃりと曲がりくねり、音を立てて消えてしまった。
モザイクを解くための魔術とは明らかに反応が違う。
つまり、だ。
「……失敗してしまいました……」
「シシィさん、ビーカー内の温度は?」
「あ」
慌ててシシィはお湯に温度計をつっこみ、測ってみる。きっちり72℃を示すかと思われたのだが、予想は裏切られ。
温度計が示したのは、70℃。
「……下がっちゃったんですね」
早く発動したつもりだったのだが、何せ呪文が長いためその間に冷めてしまったのかもしれない。
シシィはしょんぼり、としながらビーカーを持ってため息をつく。
「やっぱり、材料を多めに作っておいて良かったです」
このビーカー内の材料はダメになってしまったが、こういう事態を予測してあらかじめ多めに粉や魔術薬は作っておいてある。なのでもう一度最初の最初からやり直し、というわけではないのが幸いといったところだろう。
シシィはもう一度気持ちを入れ替えて、魔術薬の調合に臨んだ。
「次はもっと早くやらなくちゃダメですね!」
調合して、温度を測って、再度挑戦。
が。
『荊棘と荊棘の中に安定と造詣有り 内に安定ひしめき星となり 星の中には荊棘と造詣が輝き 包囲と包囲を持って其を封ずる 輝く荊棘・包囲の造詣よ 真理の歪みを我に示せ ゲルドフラッド 静まれ滾り!』
――ドン!
「うわぁ!」
「シシィさん、大丈夫ですか?」
また、失敗である。
やはり魔術発動が遅いらしく、お湯の温度は70℃だ。
「ま、まだまだ!頑張ります!!」
と、言ってから3時間後。
「…………………………………………」
「シシィさーん」
シシィは床にただ黙って座り込み、呆然と力ない瞳で床を見つめていた。
「…………………………………………」
「……死んでますね」
成功はしていない。それどころか何度も失敗するので、魔力だけを無駄に奪われてシシィはもうヘトヘトになってしまい、今日魔術が発動できるのはおそらくあと1回のみとなってしまっていた。
そろそろ夕闇も迫ってくる頃、切り上げるには頃合かもしれないが。
――早く、助けてあげたい。
依頼人には身体が重く感じる中、必要だったとは言え1週間も既に待たせてしまっている。一刻も早くその辛さから解放してあげたいのだ。
そのためには、なんとしても薬を今日仕上げておきたい。
「何で、温度が下がっちゃうんだろう……」
失敗する原因は、お湯の温度が下がったことによるものばかりだ。それは逆に言えば温度さえ下がらなければ成功しているはず、だがしかし、温度は下がる。
そもそもこの国は1年中春から初夏くらいの気温なので、北国のようにそう簡単にお湯の温度が下がることはないはずなのだ。
いくら魔術発動に時間がかかっていると言っても、その時間はせいぜい1分強。
湯が2℃も冷めるには無理な時間だろう。
「原因……」
今まで全てお湯は、必ず2℃きっかり下がっている。
魔術発動前は、72℃。
魔術発動後は、70℃。
――魔術が、原因?
もしかすると、お湯の温度が下がっているのは時間の問題ではなく、魔術を発動したからこそではないだろうか。魔術発動の際に熱が奪われているとしたら。
「ラ、ラスト、です……!」
シシィは最後の力を振り絞って立ち上がり、机の上においてある調合物に、お湯を加えて冷めるまで待つ。しかし今度は72℃ではなく。
――74℃。
2℃余計に高くして挑戦してみる。これでダメなら、明日に回してもう一度最初からやり直すしかない。けれど出来るなら、今日の内に成功を。
「シシィさん、頑張ってください」
「……はい」
乱れてしまっていた精神を集中させる。
最後。これで後はもうない。
『我は有為の門扉を創る者 全てはここから始まりここに終わる』
ロッドの石がオレンジ色に輝く。が、やはり光りに勢いがない。シシィが使える魔力も限界に来ているのだということを再認識させられて、シシィは静かに息を吐いた。
――大丈夫、必ず、成功させる。
『荊棘と荊棘の中に安定と造詣有り 内に安定ひしめき星となり 星の中には荊棘と造詣が輝き 包囲と包囲を持って其を封ずる 輝く荊棘・包囲の造詣よ 真理の歪みを我に示せ』
その瞬間、今までと違う手ごたえを感じた。
『ゲルドフラッド 静まれ滾り!』
隠し部屋に響く音はなく、ただ光が部屋を包み込む。
まぶしさに目を閉じたシシィだったが、まぶたの裏で光を感じなくなると窺うようにそっと目を開いてビーカーを視界に入れ、恐る恐る、指先でビーカーに触れる。
「……っつめた……!」
――冷たい。
中身は透明な液体で、濁りもない。
ということは、これは。
「シシィさん!」
「ルウスさん、やりました!成功ですーー!」
魔術発動時に熱が2℃奪われているのでは、という仮説が見事に当たり、シシィは満面の笑みを浮かべた。
これで明日には依頼人の熱も下がるだろう。
********
翌日、図書館内の読書スペースにて。
「……で、俺に、これを、飲めと」
一区切りずつで止まりながら、やっとそう言葉を発した目の前にいる青い顔をした青年を見つめながら、シシィは苦笑いをする。
やはり何と言っても、今まで存在を知らなかった魔術。目の前の液体は得体の知れないものに見えるだろう。
――まぁ一応、ソーダなんだけどなぁ…。
と言ってももちろん普通のソーダではなく、中にはばっちり魔術薬を混ぜてある。彼のようなタイプは、魔術薬をそのまま出しても飲んでくれないだろうと思ったので、飲み物に混ぜる作戦を取ったのだが、どうやらそれすらも彼には効かないようだ。
「……味、とか」
「たぶん、変な味はしないです」
「たぶんってどういうことだよ」
「あの、この魔術薬は私が試しに飲んでみるわけにはいかないんです。魔力温を下げてしまう薬なので普通の人が飲むと寒くて震えが止まらなくなるんですよ」
魔力温に異常があると、彼のように体調にも異常をきたすので飲み薬ではあるのだが、今回ばかりは一緒に飲んであげることは出来ない。
青年は恐る恐る、奇妙なものに触るようなようすでコップを人差し指でつついた。
「な、なんかやけに冷てぇし」
「熱を下げるので、薬自体が冷たいんです」
「……」
「飲んでも、ひやりとするくらいですよ」
と、魔術書には一応書いてあったのだが。
とりあえず、精一杯飲んでも大丈夫ですよとアピールしてみるが、青年はじっ、と難しい顔をしてイスに腰掛けたまま動こうとせず、シシィも彼が薬を飲もうとしているのか、逃げようとして逃げられないでいるのかがよく分からないでいた。
実際、彼の頭の中では会議中なのだろう。飲むか、飲まないかを。
シシィは辛抱強く待っていたのだが、彼女のそばに『おすわり』の体勢で待機しているルウスは、そろそろイライラしてきたようだ。耳が小刻みに動いている。
――ああ、どうか、噛み付きませんように。
「あの、どうしますか?飲むの、止めます……?」
「………………」
「あのぉ……」
「待て、今、気合を入れてるとこなんだよ」
ぴしゃりと言われて、シシィは口元に手を当てた。せっかく飲もうとしてくれているところを、変な茶々を入れて台無しになどしたくない。
「……うしっ!」
ぱちん、と自分の両頬を叩いて気合を入れた青年は、勢いに任せるがごとく素早く魔術薬入りソーダの入ったコップをつかみ、一気に口へと含んだ。
ごくごく、という音だけが静かな図書館の中でこだまする。
一気飲みでソーダを飲み干した後、コップを机の上に戻し、青年は不思議そうに自分の身体を見つめながらあちこちを触り始めた。
「……?」
「え、どうしました?」
「何か、身体の中の熱がぬるく……」
なってきた、と青年は続けようとしたが思わずその言葉が止まる。
身体から―――霧のようなモノが出始めた。
「な、なんだこれ!?」
「成功ですよ!それは水蒸気なんです、ちゃんと熱は中和されました!!」
シシィが叫んだ瞬間、青年の身体から一気に水蒸気が噴き出され、彼の視界は一瞬濃い霧の中にでも立っているかのように真っ白になる。
そして、視界がクリアになったときには――体の中の熱は感じなくなっていた。
熱があるような感覚もない。
だるくもない。
青年は目を丸くさせて、目の前に座るシシィを無言で見つめた。
「寒いとか、まだ熱いとかありませんか?」
「……あ、いや」
「身体の重さを感じたりは?」
「いや、ない」
――でも、とりあえず。
シシィは立ち上がって机の向こう側にいる青年の手を両手で取り、熱を測ってみる。
このあいだ触ったときのような熱は感じられず、きちんと人肌を保っているようで長時間触っていてもやけどをする、いった事態には陥らずにすみそうで、シシィは心の中で安堵のため息をついた。
魔術薬は成功していたが、やはり依頼人に飲んでもらうとなると別。シシィもちゃんと熱が平常に戻るか心配だったのだが、これで本当に大丈夫そうだ。
「……おい」
「はい?」
ふと見ると、依頼人である青年が、何とも言いがたい表情でシシィを見ていた。
「……手」
「ああ、ちゃんと熱が下がったかな、と思って。これだけ長く触っていられるなら完璧に治りましたよ!」
「いや、だから、手」
「へ……って、うわ!?」
がくん、と後方に力強く引っぱられてシシィはバランスを保つため、とっさに足を後退
させる。何?と引っぱられた方を見るとルウスがスカートのすそを加えて引っぱったようだった。
その光景に、シシィは思う。
――ルウスさん、いたずらまで犬っぽくなってる!!
「なっ、何でそんな大人げないことするんですかルウ……ポチ!!」
「いや、犬に大人げを求めるなよ、あんた」
青年にしてみればそうなのだろうが、生憎この黒い犬は中身は人間だ。しかしなおもルウスがすそを引っぱるので力には逆らえず、シシィは大きく机から離れることになってしまった。
青年から十分離れた所で、ルウスはすそを離す。
あまりの不審な行動に、シシィはこそこそとルウスに話しかけた。
「何やってるんですか、ルウスさん」
「それはこちらの台詞です。あんなことしたらダメじゃないですか、男は勘違いで出来ている生き物なんですよ」
「かんちがい?」
首をかしげながら、そっと青年を見てみるがシシィの目に映る青年は普通だ。
ただし、ルウスの目から見れば青年はシシィに対して淡いながらも好意を持っているように見えた。それは、当たり前と言えばそうである。何せ彼女は自分自身を必死で救ってくれた、いわゆる恩人。どういう種類の好意にせよ抱かない者はなかなかいないだろう。
しかし、シシィにはそれが伝わっていない。
「別に、普通に見えますよ?」
一緒に数ヶ月暮らして分かったが、彼女はこういうことに鈍感である。よく恋愛小説を読んでは「この人がこの人のことを好きだって、全然気づかなかった!」と叫んでいるのを耳にする。非常に気持ちの分かりやすい恋愛小説でそうならば、現実のそういう感情など理解不能だろう。
ある意味安心だが、それ以上に不安だ。ルウスはがくり、とうなだれる。
ルウス自身は気づいていないが、それはもはや父親の葛藤である。
嫁に行ってほしくないけど、行かなきゃ行かないで不安だ、というような。
ルウスが悩んでいる間に、青年は少し照れた表情で頭を掻きながらシシィに礼を言った。
「……あんたに、礼を言う。ありがとう」
「あ、いえ!」
「いや、色々迷惑かけたし……その、悪かったなとは思ってる。あーだから、今度よかったら」
おそらく彼は、「食事でも」とか、「どこかに行かないか」という類のことを言いたかったのだろう。もしかすると恋愛感情抜きで、お礼がしたかったのかもしれない。
が、もし、そういう感情が少しでも入っていたとすれば。
青年の言葉を遮るように放たれたシシィの言葉は、兵器の威力を持っていたに違いない。
「いいえ!弟ができたみたいで、楽しかったですよ!!」
しかも、満面の笑みだった。
これ以上ないくらい、極上の。
図書館内にいる男2人の時は、完璧に止まった。というより、凍った。
「私、兄弟がいないので弟がいたらこんな感じかなぁって……ああ!年上の方に弟っていうのは失礼でした!?す、すみません!!」
いや、それもそうだが、どちらかというとそっちではなく。
そうツッコミたかったが、依頼人である彼ににそのような体力はもはやなかったし、人前ではしゃべれないルウスは放棄した。
ここまでくると、いっそ青年が哀れである。
ルウスは密やかに、「ガンバレ青少年、こうして男になれ」と軽く固まっている青年にエールを送っておいた。
――とりあえず。
「また、何かあれば来てください!」
「あ、ああ……」
シシィは、ある意味手ごわい、と。
ルウスの中でそう認識されたのは、言うまでもない。
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