「愛しの闇色ハットォォォォォォォォォ!!」
「ぎゃああああああああああああああああ!?」

 超絶美形が自分に向かって突進してくるのを、シシィはかわした。
 それはもう、死に物狂いで、必死に。
 その必死のかわし方は、彼のルビーブラッドも賞賛を惜しみなく贈るであろう、と思われるほど素晴らしく早く無駄のない動きであったので、当然のごとくヴィトランは図書館の床(じゅうたんを敷いてはあるが)にもの見事なスライディングをかます格好となってしまった。
 しかし、本人はいたって気にせずそのままの格好で、

「ふふ……燃え上がる……」

 と、つぶやいた。
 そのつぶやきにおぞましさを覚えたのは、抱きつかれそうになったシシィだけでなく、その場にいたルウス、依頼人も同様であり。

「連れてきてあげたわよ」

 動じていないのは、ヴィトランを連れてきてくれた張本人――Bのみ。

「……」

 状況確認をしよう、とシシィは自分を落ち着かせる。
 本来ならシシィ自身がヴィトランのもとを訪ねようと思っていたのだが、Bがやっぱり依頼人のそばから離れない方がいいのではないか、ということと、シシィのヴィトランに対するあまりの怯えように哀れみを抱いたのか、代わりに道具を貰ってきてあげる
 と言ってくれたのでお願いしたのが30分前の話だ。
 そう、道具を貰ってきてくれるという話だった。
 のに。

「むむ……この赤いじゅうたんも美しいものだね……さすがパール」

 この、図書館にやってくるなりドアから一直線にシシィのもとへ突進し、避けられ床にスライディングしてダメージを追った後もなお、じゅうたんに何のためらいもなく頬擦りしている物体は何なのか。
 何故、ここにいるのか。
 シシィとルウスは、考えることを拒否したのだが。

「……何だ、あの変態」

 依頼人がつぶやいたことにより、拒否することすら拒否される。
 仕方なくシシィは依頼人に彼を紹介することにした。

「か、彼はヴィトランさん、という人でして。今回必要な魔道具を提供して……くれる人、です……」
「はーはっはっはっ!美しきもののためなら、たとえ火の中水の中宇宙の外!どこでも行くのがこの僕、ヴィトランさ!君が今回の依頼人かい、やぁよろ……」

 シシィがおろおろと説明している間に復活したらしいヴィトランは、依頼人である青年の前に踊るようなステップで近づき、握手を交わすため手を差し伸ばしたのだが。
 明らかに引いている青年の顔を、彼はじ、と見つめる。

「……ねぇ、闇色ハット」
「な、何ですか、ヴィトランさん」
「これ、見るに耐えないくらい醜い」

 時が、止まった。
 これ、と指さしたの先には依頼人の青年がいて。

「……は?」

 シシィの疑問と動揺の声が、しんと静まり返った図書館にこだまする。依頼人とさすがのルウスも完璧に固まっており、Bは「悪い癖が出ちゃったなぁ」という諦め顔。
 そんな状況の中、1人ヴィトランは猛然と喋る。

「ああ、嫌だ、僕の瞳が穢されてしまったじゃないか。帰るときにバラを100本買って帰って家の中に敷き詰めよう、そうじゃなければ僕のこの穢れは落ちないに違いない!何だか寒気もしてきた、帰っていいかな闇色ハット」
「か、帰らないで!帰らないでください!!」
「だって、僕こんな醜いのと同じ空気を吸ってるの嫌だもん」

 かわいく言っても、言ってる内容がかなり酷いので惑わされない。
 固まっている青年の様子を窺いながら、シシィは必死でヴィトランを引き止めた。
 帰る前に今回必要な魔道具を置いていってもらわなければいけないのだ。
 けれど、早く帰ってもらわなければそのうち――。

「誰が醜いだこの野郎ーーー!!」

 依頼人が、爆発する。
 ――ああ、っていうか、しちゃったよ。
 シシィはもう、全部投げ出して泣きたかった。

「ちょっと面貸せや、変態ナルシストがぁー!」
「醜くて馬鹿は最悪だよ。僕の名前はヴィトランだ、ヴィ・ト・ラ・ン。」
「ぬがぁぁぁあ!イラッとする、イラッと!!今まで生きてきてこんなに苛立つ野郎に会ったのは初めてだ、いっそ面消せ変態がぁ!」
「下劣……もう、君、僕の前で呼吸しないでくれる?僕が穢されるから」
「誰か刺せ!こいつ刺せ!!」
「ほんとうすみませんごめんなさい関係ないけど全力で謝りますからここは貴方が大人になって押さえてください、ああいう人なんですこういう人なんです本当にすみませんんん!!」

 自分がしでかしたことではないのに、何故こんなにも必死に謝っているのだろう。
 そう考えると本当に涙が出てきて、頭を下げながらチラリと見えたルウスの哀れみの瞳にさらに涙が出てきた。
 しかし、いまいちヴィトランの美的センスが分からない。確かに彼の所持する調度品は美しいものが多いし、以前貰った魔道具も実用性はもちろんのこと、装飾も素晴らしかった。美的センスはいいと言えるのだろうが。
 ――人、となると。
 別に今回の依頼人は、面立ちが整っていないわけではない。むしろ男らしくて好きだという女の子もいるだろうが、ヴィトランの美的感覚にはあわなかったらしい。

「ヴィトラン、闇色ハットのお客を減らさないようにしてくれるかしら。他ならぬ愛しの闇色ハットが困るんだから」

 さすがに、Bが助け舟を出してくれた。彼女の背後に天使の羽が見えた気がする。

「こんな客ならいいじゃないか。僕は美しい人にしか道具は売らないよ」
「良くないです……」

 ダメだ、反省する気がない。
 失礼ながら今になって、ルビーブラッドが出会ったら真っ先に気絶させていると言った理由と気持ちが分かった気がした。

「あの……とりあえず、商品をいただけますか……」
「ああっ、そうだね!君に売るなら別に僕は構わないとも!!」

 その売った相手が誰に使うのかは、彼にとってどうでもいいことらしい。
 ヴィトランはポケットの中から細長い包みを取り出して、その場でシシィに見せるように開いた。中に入っているのは――。

「……体温計、じゃねぇか」

 依頼人の言葉に、シシィはこくりと頷いた。
 今回必要なのは体温計。彼の異常な体温は普通の体温計では測れない。

「貴方のその、高い体温は貴方の中にある魔力が持っている熱なんです。石の熱を魔力がとりこんでしまったので、魔力が目覚めていない一般の人や普通の体温計では測れません。だから、魔力の熱を測るこれが必要なんです」
「ふーん」
「えっと、それで貴方にはこれから1週間決まった時間に必ず熱を測定してきて欲しいんです」

首を傾げる青年を少し待たせ、シシィはヴィトランに体温計の代金を払ってから再び彼に向き直る。

「熱は日によって違ったりしますから。平均値を知らなくちゃ治せません」
「そういうもんなのか」
「面倒かもしれませんが、お願いします。測り方は普通の体温計のように脇に挟んで、5分後に……」
「おお、麗しの闇色ハット!僕のは1分だよ!!」

 シシィの説明に、ヴィトランが割り込む。
 1分、と言う言葉に思わずシシィはヴィトランを見つめた。

「他の人が作ったのなら5分だけど、僕の魔力温計は1分でいいのさ!」
「そ、なんですか?」
「僕は美しいからね!」

 それは関係ないような。
 にしても、魔術書には5分ほど、と書かれてあったのにとシシィが目を丸くしているとBが笑いながら言う。

「だから言ったでしょう?彼は一流の魔道具師だって」

 ――そう、だった。
 普段どんなにおちゃらけていても、彼の作る魔道具はルビーブラッドが不本意ながらも認める一流品。道具がよければ、魔術を行うのも比較的楽になる、と魔術書にはよく書かれてあるのだが、こういうことならしい。
 確かに、温度を測るのに5分かかるのと1分で済むのは大きな違いだ。

「えと、それじゃあ測る時間は1分です。毎回体温を記録しておいてください」

 「ああ」と頷いてくれた青年に感謝し、シシィはひとまず安堵する。
 ――疲れた……。
 シシィは少しうんざりと、図書館の天井を見上げる。朝から大変だった。
 しかし本当に大変なのは、この魔術薬を作るときなのだ。





********





 それから3日後の昼下がり。
 シシィは図書館内の貸し出しカウンターのイスに座り、ぼんやりと自身の魔力コントロールアイテムである、アンティークキーを見つめていた。
 オレンジ色の石が、キラキラと光る。

「シシィさん、どうかしたんですか」

 あまりにもじっ、と見つめすぎていたためか、隣で大人しく伏せていたルウスが身体を起こし、シシィの顔を下から覗き込む。
 ルウスの正体を知っていながらも、その行動は本物の犬のようでかわいかった。
 ――ああ、これで。

「元気が出るよう、舐めてあげましょうか?」

 セクハラさえなければ、素直にかわいいと思えるのに。
 とりあえずルウスのありがたくも何もない言葉は、にこやかに慈悲の化身のような優しい微笑みで黙殺しておいた。こういうとき何かを言い返したとしても、絶対に負けるのが分かってきたので、最近は微笑みで黙殺することにしている。

「……シシィさん、対応が大人になってきましたね」
「面白くない、って言っているように聞こえますけど」
「言ってますから」

 ――どうやっても、ルウスさんには勝てない、みたい。
 一度でいいからその軽快な口を閉ざさせてみたいなぁ、と今のところ叶う前兆すらないことを願いつつ、シシィはルウスの前にアンティークキーを差し出した。

「不思議に思ってたことがあるんです。このアンティークキー、ときどき震えるのは何ででしょうか?」

 別に震えたとき全てを不思議に思うわけではなく、シシィの記憶にある限りで不思議に思ったのはルビーブラッドとブレックファーストに出会ったとき。あのとき確かにアンティークキーは震えていた。
 Bの店に入るときも震えたりするが、そのあとに必ず何かしら魔術関係のアクションが入るので(Bの店の場合は店内に入っている)特に不思議には思わないのだが。
 ルウスもそのことを見抜いたようで、しっぽをピンと立てながら教えてくれた。

「人と出会ったときに震えるのは、相手が魔術師であるかどうか知らせてくれているんですよ」
「そうなんですか?」
「まぁ、あまり当てになりませんが。魔力が低い相手だと魔術師かどうかなんて、魔力コントロールアイテムは教えてくれません。基本的に自分より魔力が低い相手の魔力が目覚めているかを、感知できないというか」
「……役に立ちませんね」
「だから、当てにならないと。よほど魔力に敏感な人なら信用しても良いかと思いますけど、普通は目安くらいにしかなりません」

 ――ああ、それさえ知っていたなら。
 シシィはアンティークキーを見つめながら思う。そのことさえ知っていれば、ルビーブラッドに出会ったとき名乗る名前を間違えなかったのに、と。
 ブレックファーストのときは彼自身がそのことを考慮して先に名乗ってくれたのだが、ルビーブラッドは魔力がとてつもなく高い。それは魔力を探れるようになった頃から分かり始めたのだが、彼の魔力は探って一発で分かるくらい露骨に高いので、彼自身が名前について気をつける必要がなかったのだろう。
 それに本名を名乗らないのは魔術師として知っていて当たり前のことだったらしいので、ルビーブラッドもまさか本名を名乗る魔術師がいるとは夢にも思わなかったはずだ。

「………………ん?」

 そういえば。
 シシィは思わず固まる。今、不自然なことに気がついた。
 ――そんな重要なこと、どうして初心者用の魔術書に載ってないんだろう?
 別にシシィ自身は読み飛ばすようなことをした覚えはないし、初心者用の魔術書は全てどんな本でも5回は目を通した。モザイクのかかっていない本は全部読破したと思っている。
 なのに、基礎中の基礎、魔術師としてのルールを知らない。
 魔術書には載っていないことなのか、という考えが一瞬頭をよぎったが魔力コントロールアイテムを失くし、ルビーブラッドに静かに怒られたとき彼は言っていたはずだ。
 『魔術書を読んでないのか』と。
 ということは書いてあるはずなのだ、どこかには。
 ――うちには、その魔術書がない……?
 それは考えにくい。何も知らないシシィに、魔術師になってほしいと魔術師の登録準備をしておいたり、ロッドを作っておいてくれたりしたあの祖母が、そんな重要なものを置いていないはずがない。
 ――見つけられてない、だけかなぁ。

「シシィさん、まだ何か?」
「んー……ルウスさん、あのですね……」

 迷った挙句、やはり相談しておこうかとシシィが口を開いた瞬間、入り口の扉が重い音とともに開いたので、シシィはそちらに目を向けた。
 やってきたのは、Bだ。

「こんにちは、闇色ハット」
「こ、こんにちはBさん」
「今、誰かと話してなかったかしら……?」
「いええ!?ぜっ全然!独り言が多くて、あははっ……!」
「そう?」

 危なかった、とシシィは密かに冷や汗を拭う。
 Bにもルウスの正体は言っていない。部外者でルウスのことを知っているのは、ブレックファーストのみだが、そのことをルウスは知らない。何となく話してしまった後ろめたさから、シシィはブレックファーストのことを話せずにいるのだ。
 ――や、でも。ルウスさんが何も言ってくれないのがそもそもの原因だったし。
 そう言い聞かせ、それは自己完結させることとして、とにかくルウスが正体知られるのが嫌な以上はそれに従っておくのがいいだろう。ブレックファーストの仮説どおり、ルビーブラッドが正義感からルウスを犬に変えてしまったのだとしても、ちゃんと理由とルウスの人となりを話せば彼も分かってくれそうだが、それでも犬になっていた、という事実は誰かれに知られたいものではない。
 そして、ブレックファーストの仮説が外れている場合もある。
 やはり、ルウスのことについては慎重でなければいけないのだ。

「あの、Bさん、もしかしてお客さんですか……?今、一応依頼を受けている途中なので、2つ掛け持ち出来るか心配なんですけれど……」
「いえ、違うのよ。ちょっと貴女の耳に入れておこうかと思って」

 Bは口元に軽く手を当てながら、困ったような表情をしてシシィのもとへ近づく。
 何か非常事態なのだろうか。

「あのね、『闇色ハット』はなるべく依頼を受けても名前を伏せておきたいのよね」
「は、はい」

 これはシシィ自身の問題だ。
 ルビーブラッドに本名を教えてしまっているので、ワークネームが広がりすぎると彼に知られてしまう可能性も高くなる。なのでできるだけ伏せておいて欲しいのだが。
 Bはシシィの言葉にため息をつく。

「貴女のワークネーム、どうも広まってしまっているらしいの」
「何ですと!?」

 思わずシシィはイスから立ち上がり、Bを見つめた。

「なっなっ、な!?」
「慌てないで。私は職業柄、色んな魔術師や魔法関係者と会うけれど、最近何故か貴女を知らないかって訊かれることが多いのよ。とりあえず、今は知らないって言っておいてあげているけれど…」

 それも時間の問題だと言いたいのだろう。シシィは頭を抱えた。
 今までの依頼人には厳重に『闇色ハット』の名前を出さないよう言ってきたので、何故名前が広まってしまったのかは分からないが、広がってしまったものは仕方がない。もう、ルビーブラッドに知られないように気をつけるだけだ。

「そもそも、どうして『闇色ハット』を隠しておきたいの?」
「うっ!!」

 痛いところを突かれて、シシィは目を泳がせた。
 正直に話すか、誤魔化すか。どうするべきだろうか。
 助けを求めて隣にいるルウスを見ると、彼は仕方ありません、とでも言うように渋々と頷いた。正直に話せということだろう。
 シシィはため息をついて、カウンターに両手をついてうなだれながらBに話した。

「じ、つは、とある人に……本名を知られちゃってて」
「ええ!?」
「いや、その。その人は私の本名をワークネームだと思ってくれているので、今のところ大丈夫なんですけれど」
「名前が広がって同一人物なんじゃないか、ってバレると困るわけね」

 はい……と力なく返事するシシィを見つめ、Bはずばりと訊く。

「その『とある人』、誰?」
「………………ルビー、ブラッドさん……です……」

 その名前に、さすがのBも一瞬固まった。

「まぁ……闇色ハットってば、あんな無愛想男に知られちゃったの?確かにあの人、変なところで勘はいいけれど変なところで鈍いのよねぇ」
「会ったことがあるんですか?」
「昔一度、あの人の魔力インプットの風景を見たことあるから。そのときに会ったんだけれど、あの人よ。インプットに1日かかる化け物って」

 気が遠くなった。確かに最初、シシィがロッドに魔力をインプットするときBがそのような話をしていたのは覚えているが、まさかその直後に本人と会っていようとは。

「とりあえず、事情は分かったわ。ルビーブラッドの前で貴女のワークネームは呼ばないようにしてあげる」
「あ、ありがとうございます!」

 以前ルビーブラッドがこの町を訪れたときから心配していたことだったので、シシィは安堵した。これでルビーブラッドがBの店を訪れることがあってもバレる可能性は低くなるだろう。気をつけなければいけないのは、ルビーブラッドがシシィの名前をBの前で呼ぶことだ。
 胸をなでおろすシシィをよそに、Bはカウンターの影をのぞきこむ。

「ポチ、元気だった?」
「……」

 どうやらBはポチ―――つまりルウスがお気に入りらしい。ここへ来るたびに撫で回して帰るのだが、微妙にルウスは苦手らしくその間中大人しく静かにしている。
 今回もBがおいで、と手招きをしたので、ルウスは仕方なく重い足取りでカウンターからBのそばまで歩み寄った。

「ポチってば、本当にかわいいわ」
「は、はぁ」

 その中身、セクハラしてくる人間だと言ってやりたい。

「Bさんは犬が好きなんですね」
「ううん、猫が好き」

 ――え、訳が分からない。
 困惑するシシィだったが、Bはそんなこと気にせずルウスに抱きつく。端から見ると愛らしい少女が大きな犬と戯れているようにしか見えない。絵画などの題材にされそうだ。

「でもね、真っ黒なもの好きなの。ポチは黒がキレイなんだもの」
「はぁ……」
「ああっ、持って帰りたいー」

 持って帰ってもらってもシシィとしては構わないが、ルウスが非常に構うだろう。まさに抱きつかれている今、彼は完璧に心を無にしている。
 まぁ、とりあえず、だ。

 ――ルウスさんに勝ちたいと思ったときは、Bさんを連れてこよう。

 ヴィトランにも怯まない彼女は、最強だ。