男性が前を歩いているのが見えた。

 夜の暗闇の中、シシィはぼんやり男性の後姿を見つめる。
 シルエットだけでも、その人物がルウスであるということがなぜか分かった。

 ――ルウス、さん。戻れたんですか?

 しかし、彼の上に影がかぶさる。
 月夜だった。
 月の中に影をまとって現れたのは――――――


 ルビーブラッド。





◇◇◇◇◇◇◇◇





「――ィさん」
「はっ……!」

 ルウスの声で、シシィは目を覚ましたが、どこに自分がいるのか分からず、寝ぼけまなこで周囲を見渡した。独特の本の香りに、舞うホコリ。たくさんの本棚。
 シシィとルウスのいる場所は、図書館だ。
 シシィは貸し出しカウンターのイスに座り、魔術書を読みながらいつのまにか眠気に誘われて、眠ってしまっていたらしい。

「お、お客さんとか来ちゃいました!?」
「いいえ……来てませんけれど」
「よかった……」

 図書館本来の客にせよ、『闇色ハット』に依頼にきた客にせよ、こんな丘の上まで来させておいて、シシィ自身が眠っていたのではどうしようもない。

 ――それにしても、ヤな夢……。

 ルビーブラッドが去ってから3週間。ここ最近ずっと、ルウスがルビーブラッドに犬にされる瞬間の夢を必ず見ていて、シシィは相変わらず9時にはベッドに入っているというのに寝不足気味だった。
 また落ちそうになるまぶたに喝を入れ、シシィは目をこすりながら再び魔術書に目を通し始めた。実は、重要な時期に来ているのだ。

「シシィさん、無理はやめておいたほうが良いですよ」
「いえ……だって、この魔術が理解できたらモザイクが解けるんですもん」

 それは、中級や上級魔術が使えるようになることを意味する。
 基礎中の基礎、必要最低限中の最低限な魔術しか覚えていないとはいえ、初級魔術を終えるには、それ相応の時間がやはりかかる。それをシシィが3ヶ月強で全て終らせたのは、彼女自身の並大抵ならぬ努力であり、それと同時に彼女の中の『血』が成したことでもあった。
 ――レイモルルさんの血は、確かに受け継がれている。
 ルウスは眠たげなシシィを見上げながら思う。『聖なる魔女』呼ばれた偉大なる祖母の血を、確かにシシィはその身に受け継いでいた。もちろんこの世界は『血』だけで渡ってゆける世界ではないので、やはりシシィ自身の努力が大きいのだろうが。
 彼女はきっと、良い魔術師になるだろう。
 ――しかし。

「貴女が体を壊しては意味がありません。今日はもう、図書館も閉めましょう」
「え、だって、まだお昼をすぎたばかりじゃないですか」
「失礼ながら、今まで本を借りに来た人は?」
「…………0人、です」

 3ヶ月強、図書館を開けていてこれだ。本屋ならまず潰れていたところである。
 本当、祖母が図書館というものにしておいてくれてよかった、とシシィは密かにため息をつき、そのシシィの腕をルウスはぐいぐいと鼻先で押す。早く閉めてしまって休みなさい、とでも言うように。

「……」

 ――休むのは、嫌。
 シシィはルウスに見られないよう、ひっそりと、それでも深く眉間にしわを寄せた。
 休むと眠ってしまう。眠ると必ずあの夢を見る。それが原因で寝不足になる。完全に悪循環なのだ。
 しかしルウスの気持ちをむげにする訳にもいかない。何より、確かにシシィ自身もとても疲れていた。

「……そう、ですね。ずっとこの図書館にこもりっぱなしというのも良くないのかもしれませんし、ちょっとお散歩に行ってきます」
「……ですが」
「それに、モザイクを解く魔術に材料が足らないんです。それ、クロアの森にあるみたいなので、いい機会ですし、採ってきますね!」

 これは本当だ。魔術を行うのに、棚にはもう材料がない。Bから買ってもいいが、節約するに超したことはないのだ。
 それに歩いて、疲れて泥のように眠ってしまえば夢も見ないかもしれない。
 そんな淡い期待を抱いて、シシィはイスから立ち上がった。





********





 相変わらず、森の緑は美しい。
 シシィはぼんやりと木々を見上げながら、森の中の道を歩いていた。気持ちの良い風によって、木々はさわさわと心地の良い音を立ててゆれる。
 ここはクロアの森――ルビーブラッドに初めて会った場所。

「………………」

 どうにもならなくなったら、ガーデンに来いと彼は言っていたのだが、シシィはあえて自分からは、あの美しいガーデンを訪ねてはいなかった。ルビーブラッドのことを考えると、訪ねられないと言ったほうが正しいかもしれないが。
 ――待ってる、のかな。
 ルビーブラッドは、あのガーデンの中で自分を待っているだろうか。
 一昨日に昨日、そして今も。

「……待ってる、かも」

 言葉に、声にするとその考えはやけに現実味を帯びていて、シシィは思わず苦笑してしまった。そう、ルビーブラッドは律儀に、シシィが自分からガーデンに行くのを待っている気がする。
 彼は、優しい人だから。
 優しい。

 ――それなら、何故。

「ルウスさんを、犬にしてしまったんですか……?」

 けれど、違うのかもしれない。ルウスが嘘をついたり、勘違いをしているだけかもしれないのだ。そう思った後、シシィは自分の思考に嫌気がさす。
 ルウスを疑い、ルビーブラッドを疑う。
 この3週間そればかりで、自分の心は荒んでしまったようだった。
 シシィは立ち止まって空を見上げる。やはり外に出るべきではなかったのかもしれないと、後悔が胸中を占めた。自分の汚さばかりが目に付いてしまう。

「ふぅ…………う?」

 シシィが重いため息をついた瞬間。
 ビリビリ、と服の中に閉まってあるアンティークキーが細かく振動した。
 同時に。

「あ」
「え」

 上から、青年が。
 ――あれ、これって前にも……!?

「きゃあああああああああああああああ!?」
「すまないっ、避けてくれ!!」

 ――どすん!

 シシィは―――腰の抜けた状態で、前方のしゃがみこんでいる青年を見た。
 その距離、わずか50cm。
 涙目で震えながら、なおも青年を見つめていると、彼は「まいったな」と笑いながら
 顔を上げてシシィを見つめた。

「あははっ、まさか下に人がいるとは思わなかったんだ。大丈夫かい?」
「は、は、は、はい……っ!」
「いや、私もドキドキしてるよ、あっははっははは!」
「あは、ははは、はは」

 つられ笑いしながら、シシィは改めて青年の格好を観察する。
 グレープジュースのような赤紫の瞳に、緑色で右の前髪だけが長い髪を布でターバンのようにして覆っている。服装は襟のあるインナーの上から腰まであるマントをすっぽりと被っていて、茶色のズボンにロングブーツを履いているところから、彼が旅人であることが容易に把握できた。現に背中には大きなリュックを背負っている。

「はっはっははははは……ああ、痛い……」
「だ、大丈夫ですか……というか、何故上から……」

 足をさする謎の青年に、シシィは圧倒されながらもとりあえずそう聞いてみる。

「うん?いや、私はねちょっと追われていて」
「追われ……?」
「人間、上はなかなか見ないものだろう?だから木の上を跳んで逃げた方が分かりにくいかと思って、そうしていたんだが足踏み外したところに運悪くお嬢ちゃんが」
「お嬢、ちゃん……」
「……ん?……あ、あー、お嬢さんが、ね?」

 今確実に、16歳以下に見られていた。
 微妙にへこみつつ、青年が上から降ってきたわけを聞いて、シシィはルビーブラッドも、もしかしたらそうだったのかもしれない、と気がついた。彼もこの青年とほとんど同じ状況で降ってきたのだ。
 同じ状況で。
 ――あれ。
 と、いうことはだ。まさしくこの青年も。

「待てやこらぁああああ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」

 ――とんでもない人に、追われてるん、だよね……!
 魂を飛ばしかけている彼女を置いて、青年とシシィの前にはあっという間にあくどそうな顔をした体格の良い男たちが10人ほど立ちふさがった。
 慌てるシシィに対し、青年は落ち着きを払った様子で立ち上がる。

「やれやれ、困ったねぇ」
「つべこべ言わず、通行料と――後ろの女を渡して失せな」

 後ろの女。
 と言われてシシィは自分の後ろを振り返った。女の子、なんていない。
 改めて前へ視線を戻すと、困ったような表情をした青年と目が合う。
 ――はい?
 視線の意味が何となく分かって、彼女が呆然としている間に青年は再び男たちと対峙する。

「彼女は私と無関係なんだが」
「そうかよ、じゃあ通行料だけ置いて消えろ」
「彼女をどうするつもりだ?」
「てめぇには関係ねぇよ」

 その言葉に、シシィは全身が凍った。やはり、自分のことを言われているのだ。しかも今回はこれまでと違って、俗に言う乙女のピンチっぽいもの。
 とっさにシシィはカバンに入っているものを確認した。最近、やたらともめごとに巻き込まれるので、あらかじめ準備をしてきたのだ。もちろん戦ったりは出来ないが、時間は稼げそうなもの。

「それはちょっと、いただけないね。彼女に何かあったら私としても後味が悪い」
「へっ、どうするってんだよ、ビビリヤローが」
「ふぅ。そもそも通行料なんてなかったはずなんだが……」

 どさっ、と彼は大きなリュックを地面に置いて、立ち上がりかけたシシィのほうを振り向き、にこりと笑った。しかし、あきらかに笑っている場合な状況ではない。
 もしかしてルビーブラッドのように、何か秘策でもあるのかと思ったが、彼はいたって普通の人と変わらないくらいの魔力だ。目覚めてなくても魔力はみんな等しくあるため、一般人も持っているが、魔術師や魔導師ならもっと魔力が高いだろう。
 ということは、やはり彼は一般人。
 対して相手は、明らかにあくどそうな10人の男たち。
 ――勝てるわけがない。

「だ、ダメです逃げてください!私なら大丈夫です!」
「下がってて、怪我をしてしまうかもしれないからね」

 シシィはカバンから密かにあるものを取り出しながら叫ぶ。しかし彼は退くどころか、むしろ前に1歩躍り出てしまった。

「本当は穏便に済ませようと思っていたのに」
「今からでも遅くないぜ?ほら、金をだしな」

 男たちのうちの1人が、前に出て青年に近づく。彼はそれににこりと笑いかけながら
 普通に歩いていき、そして。
 右腕を軽く伸ばし、腰を下げて重心を低くする。つまり――構えた。

「もう、遅い。君たちは学習することだ」

 青年が右腕を素早く伸ばす。
 その先には近づいてきていた男の腹があり、


「ケンカを売っていい相手と、悪い相手の区別の仕方をね」


 青年の手のひらは、男のみぞおちを正確に打った。

「ぐあっ!!?」

 どすん、と重い音がした。
 格闘に関しては全くの素人なシシィだが、青年の攻撃はすさまじかったことが分かる。それは如実に反応に現れて、攻撃を受けた男は吹き飛び、背後にいた仲間も巻き込み地面へと倒れた。ピクリとも動かない。
場は、しんと静まった。

「なんだったかな……そうそう」

 彼は、にこりと不適に笑う。

「『地面とイチャついてろ』だったか」
「てめぇぇぇええ!!」

 それは、シシィでもさすがに分かった。彼はわざと挑発して、男たちの冷静さを奪っているのだと。
 冷静さを失った男たちのうちの1人が、自分めがけて突進してくるのを利用し、彼はその突進をかわした後、その勢いのまま彼は高く足を上げて回し蹴りを相手の側頭部にヒットさせた。一連の動作は、限りなく速い。
 男が地面に沈んでいくのを横目で確認した彼は、呆然と突っ立っている別の男へ素早く近づいて、至近距離から膝蹴りをアゴにくらわせる。その後も素早く移動しては敵を倒していく青年の後姿を、シシィは唖然としながら見つめていた。
 ――何だか、ルビーブラッドさんに似てる。
 彼の戦い方が、どこかルビーブラッドに似ているのだ。おそらく一発一発が一撃必殺であるところが似ているのだろう。彼は仕事上、それこそ魔物とすら戦うことがあるので、そういう戦法が身についたのであるのだろうが、そのルビーブラッドと似ているということは。
 青年も、戦い慣れしている。
 確かに男たちは、ケンカを売る相手を間違えたのだ。

「すご……い………」

 思わずシシィは状況を忘れて見入っていたのだが。

「きゃあ!?」
「止まれ!この女がどうなってもいいのか!!?」

 背後から体を拘束され、シシィは息を呑んだ。
 男の太い腕は片方がシシィを抱きこむように拘束して、もう片方はシシィの首にナイフを突きつけている。シシィは強制的な直立不動の体勢のまま、動きを止めてしまった青年を見つめた。困ったようにこちらを見ている。
 ――お荷物になって、どうするの。
 ぎり、と歯を噛みしめる。ただでさえ自己嫌悪に陥っている最中だというのに、これ以上自己嫌悪の素材が増えるのはごめんだ。
 シシィは手に握っていた――手のひらサイズの、魚のうろこ形をしている薄いシルバーを男のふとももに、そっと当てた。これは、Bにおつかいを頼まれたときに貰ったアイテムで、護身用にいいと言われたものだ。

『汝、竜のうろこに触れし痴れ者』
「あ?」
『その身を持って、神獣の怒りを知れ――!!』

 パチパチ、と音がする。
 遅れて――電撃の衝撃。

「ぎゃあああああああああ!!」
「ひいやっ!」

 突き飛ばされて、シシィは地面に倒れこんだ。
 後ろでは男が転げまわって、アイテムが触れていたふとももを押さえている。それはそうだろう、あのアイテムは『(いかずち)の鎧』という触れた相手に電撃をくらわせるアイテムだ。Bは容赦なく撃退してやりなさい、とにこやかに言っていたが。
 ――これは、本当に容赦がない。

「さて、見ただろう」

 青年は軽やかに、男たちに話しかけた。

「これ以上やろうと言うなら、私と、不思議な能力を持つ彼女は容赦しない。命をドブに捨てる気があるならかかってきてもいい」
「ひい!」

 情けなく誰かが叫ぶと、それをかわきりに男たちは怪我人を抱えて逃げ出していく。
 シシィに電撃をくらわされた男も地面を這うようにして逃げ出し、結局青年とシシィに戦いを挑んでくるものはいなかった。
 それにホッとして、シシィは地面に手のひらをつく。

「こ、怖かったです……!」
「ありがとう、助かったよ。おかげで大事な商品や金銭を渡さずに済んだ」
「い、いえ……旅商人さん、ですか?」
「ご名答」

 彼は置いていたリュックのそばに戻り、その中から葉っぱを取り出した。
 ――それを、シシィは見たことがある。
 魔術書の中で。

「そ、れ」
「私は『ブレックファースト』」
「……は、へ?ぶっれくふぁーすと、って名前……」
「魔術に関するものを売り歩く旅商人であり、魔術師だ」

 『ブレックファースト』、魔術師。
 単語がシシィの頭の中でぐるぐると回って回る。
 ――魔術師?
 けれど、彼には魔力が一般人並みしかない。まさか、そんな。
 そう思っているのが分かったのか、彼はあはは、と笑いながら手にしていた葉を再びリュックの中にしまった。

「そう、君は優秀な魔術師だね。私の魔力は一応目覚めているんだけれど、魔力は一般人並みしかないんだ」
「あ、あの、他の魔術師さんも、そうなんですか?」
「まさか。魔力に目覚めるなら、もっと高くなければ。私は特例、何かの拍子で目覚めてしまっただけなんだよ。おかげで使えない魔術の方が多いから、こうして旅商人をしているわけなんだ」

 そんなことを笑って話せる彼は、とても強い人なのだとシシィは思った。自分ならきっと、劣等感にさいなまれてこんなに明るく話せないだろう。

「君は?」
「あ、私は『闇色ハット』です」
「闇色ハット?それはいい名前だ」

 名前を褒められて、シシィは照れてうつむいた。しかし、そう言う彼も。

「素敵ですけれど、奇抜なお名前ですね。『朝食』って」
「私は魔力が低いから、魔術師だと気づかれないことが多くてね。ほら、名前の関係があるだろう?向こうが間違って本名を言わないよう、先にこちらから『明らかにワークネームである名前』を言って、それを防いでいるんだ」
「はぁ、なるほど」

 その説明に、シシィは納得した。現に彼が今、先に名乗って正体を明かしてくれなければ、何も考えず本名を名乗ってしまっていただろう。魔術も何も知らない一般人にワークネームを名乗ることはさすがに勇気がいる。依頼人なら別だが。
 ――けど、既に私、本名を知られちゃってるんだよねぇ…。
 と、そこで彼を思いだし、シシィは気持ちが沈んでいった。

「闇色ハット君?」
「あ、はい?」
「うーん、元気がないね。魔力に若々しさがないよ」
「わっ、若々しさ……」

 へこんだ。ものすごくへこんだ。
 少女に向かって、若々しさがない、と言うのはどうなのだろう。
 しかしそんなことは全く気にしていない様子で、ブレックファーストはしげしげとシシィを見つめ、やがてにこりと笑って言った。

「悩みがあるね、闇色ハット君」
「え」
「いやいや、何故それを早く言ってくれないんだ。人の悩みを聞くのが私の趣味、お兄さんがその悩み、解決して見せましょう!」
「ちょ、ちょっと」
「青き春に悩みはつきもの。恋の悩み将来への悩み、人には言えないあれこれな悩み何でもござれ。第1回、ブレックファースト青空リフレッシュ悩み相談!」
「え、えええええ!?」

 慌てて逃げようとしたが、時は既に遅し。
 がっしり腕をつかまれて、人の良さそうな笑顔を向けられたシシィはとりあえず、

 ――ネーミングが、ちょっと胡散臭いです。

 と、現実逃避して。
 ふぅ、とため息をつきながら見上げた空は、ネーミングどおり青かった。