「……ずいぶん、手癖が悪かったみたいだな」

 そんなつぶやきを聞いて、シシィはハッ、と我に返る。
 既に街の中か、と思いきやまだ路地の途中だったのでそんなに長く意識を飛ばしていたわけではないらしい、とシシィは密かに安堵する。
 ――それにしても、彼らは。
 手を引いて先を歩くルビーブラッドの背中を見つめながら、彼女は恐る恐る自分が考えた、彼らの身に起こったことの推測を口にしてみた。

「さ、さっきの人たち、闇を見ちゃった、んですか?」
「自業自得というところは一緒だが、あのときとレベルが違う」

 と、いうことはあれでも軽めだったのだ、とルビーブラッドは言いたいのだろう。シシィは頷いたあと、少し考えてから「ありがとうございました」と彼にお礼を言った。
 その言葉にあと少しで路地から出られる、というところで足を止めてルビーブラッドは黙って振り返り、シシィを正視する。

「な、何でしょうか」
「……おかしな奴だな、と」
「そ、そ、それは酷いです!何にもしてないじゃないですか!!」

 心外だ、とシシィは慌てて発言の撤回を求めた。おかしな奴、とはもの凄く失礼かもしれないがヴィトランみたいな人のことを言うのであって、自分みたいな平凡な人間が言われる所以はないはずなのだ。

「普通、アレを見られたら人間のすることじゃないと言われる」
「う」

 そこまでは思いもしなかったが、さすがにやりすぎでは、とは思ったりもした。
 しかしおそらく、シシィ自身のためにやってくれたのであろうことを非難するほどに、わからずやでもないつもりだ。
 それに。

「た、多分ルビーブラッドさんは正義感が強すぎるだけ、なんですよ。人の物を持って行って返さなかったから、というのでお仕置きだったんでしょう?」
「………………」
「な、何か間違ってました……?」

 彼はふい、といきなりシシィから顔を逸らした。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか、と頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらよく観察してみるとルビーブラッドの耳が、赤い。
 ――照れて、る?
 シシィは密かに心の中で驚いた。
 あの、無愛想で必要なことしか喋ってくれないルビーブラッドが感情を見せたところをまともに見たのは初めてだ。最初に会ったときや、夢の中で会ったときに微笑んでいたような気もしなくもないが、どうにも定かでないのだ。しかしながら、やはり彼にも人間らしいところはあるらしい。
 ルビーブラッドの身長がもう少し低ければ、頭を撫でくりまわしていたに違いない心境なのだが、もちろん実際にすると後が怖いので出来なかった。

「……何だ」

 なおも名残惜しくじっ、と見つめていたが相手はすぐさま立ち直ってしまったようで、もう既にいつも通りのルビーブラッドに戻ってしまった。少し残念、とは言っていられずシシィは慌てて言い訳を探す。

「あ、あの、その、お、お礼をしたいと思って!」
「いらん」
「そ、そんなぁ!」

 少し思考はズレてしまっていたが、心からそう思っていたことをあっさり一刀両断されて、シシィは目に涙を浮かべる。こんなにも助けてもらっておいて、お礼もしないとなると自分がとてつもなく酷い人間に思えてきてしまう。

「わ、私を助けると思って!お、お金とかはないですけど、せめて寝る場所くらいはお貸しできますから!やっぱり屋根のある場所で休んだ方がいいです!」
「……落ち着け、腕に抱きつくな」
「ルビーブラッドさんが『うん』と言うまで離しません!ああ、腕も細い気がしますっ、ご飯もつけますから!ぜひともうちで1泊だけでも!」
「宿屋か、お前は。なんと言われても、仕事じゃない限り魔術師の家に泊まることは避けたい」
「仕事……」

 何かなかっただろうか、とシシィはルビーブラッドが逃げてしまわないよう(実際には逃げようと思えば彼には色々な手段があるかもしれないので無理だろうが)腕に抱きつきながら、必死に家の中を想像する。
 魔導師、ルビーブラッドの仕事になりそうなものは何か。
 ドアが開きにくくなっているのは立て付けの問題だし、ぎしぎし床が軋むのも家が古いからで、どれもこれも直すなら魔導師じゃなく大工の仕事だ。
 困ったなぁ、と思って、不意に。

 あの、闇色ハットを思い出した。

「ああああぁぁぁぁぁーー!」

 ルウスだ。
 今まで何故気づかなかったのか不思議でならない。彼はそもそも魔術師に犬の姿にされて祖母を頼ってきた依頼人なのだ。シシィには今の段階では元の姿に戻してあげることは出来ないが、魔導師と呼ばれる魔法でのプロ中のプロ、ルビーブラッドになら必ず解けるに違いない。自分に依頼をされてはいるが、彼もきっと早く人間に戻りたいだろうから、この際自分でなくとも構わないだろう。
 ルビーブラッドなら、性格も魔法の腕も保障できる。

「ああああるんです!あります、すごく大きな問題を抱えてて、ルビーブラッドさんに助けて欲しいことがあるんです!私にはまだ解けない魔術で!」
「……上級魔術か」
「お願いしますっ、助けてください!!」

 彼ならルウスを、元に戻してあげられる。





********





 家に戻ると、シシィはやっと取り返したアンティークキーでキッチンの勝手口の扉の鍵を開けた。やはり家に入れる、というのは気持ち的に安心できる。
 ルウスが出迎えてくれるかと思って、シシィはゆっくりと扉を開けたのだがキッチンにはルウスの姿はなく、また、リビングにもその姿を確認することは出来なかった。
 もしかすると眠っているのかもしれない。

「……良い家だ」
「え?」

 ぼそり、とつぶやいたルビーブラッドの言葉に驚き、シシィは彼のほうを振り返る。
 自分の感覚から言うと、この家は祖母が住んでいた家なので思い入れはあるのだが、おそらく客観的にはどう見ても少し古いので、良い家とは言い難いはず。
 そんな疑問の視線に気がついたのか、彼は言葉を付け足した。

「魔術が働いている。悪意を持ってこの家に入ることは不可能だ」
「おば、あちゃんが……?」

 ――ずっと、守ってくれていたんだ。
 そういえば言われてみれば確かに、シシィ自身とは別の魔力が家中にはりめぐらされているような気がした。シシィ自身の魔力がオレンジなら、この魔力は水色。祖母の魔力だろう。
 澄んだ、湖のような魔力だ。

「あ、すみません。どうぞ入って、ソファに座っててください」
「問題は」
「それを見てもらうために、ちょっと奥に行ってきますから」

 まずはルウスだ。彼を連れてきてからでないと何も始まらない。
 ルビーブラッドには座って待っていてもらうことにして、シシィはリビングに灯りを灯してから奥の寝室へと足を運んだのだが、部屋の中が薄暗くてルウスの姿が見えない。
 灯りを持ってくるべきだろうか、そう思いもしたのだが、そもそもルウスの気配をこの部屋には感じないのだ。
 ――この部屋にいないとすると。
 後はもう一部屋しかない。祖母の隠し部屋だ。

「ルウスさんっ、ルウスさん!」

 ぎしぎし、と音のなる階段を上がっていくと、思ったとおりそこにルウスがいるのがぼんやりながらも確認できた。こういうとき黒い体の彼は少し不便である。
 その黒い体のルウスはシシィを確認した途端、安堵のしたように体の力を抜いた。

「シシィさんっ、無事でしたか!」
「ちょっと死にかけたけど無傷ですー!」

 と、シシィが言った瞬間、ルウスが固まった。『ちょっと死にかけた』が果たして無傷になるのか考えているに違いない。
 そんなこと考えもしないシシィは、ルウスが何故こんなところにいるかの方が気になっていたのだが、ルウスが再び脳の通常運営を始めてシシィに話しかけてきたので、そんなことは彼方に吹き飛んでしまった。

「本当に、よくこの時間まで無事でした」
「はぁ……そういえば、私、魔力コントロールアイテムって、お風呂に入るときとかはのけちゃうんですけど、アレは大丈夫なんですか?」

 ルビーブラッドに話を聞いたときにも思ったのだが、あの時は急いでいたので聞くことが出来なかった。生活をする上で、どうしても魔力コントロールアイテムを外すときどれくらいまでの時間なら大丈夫なものなのだろうか。

「自分の意思で外すときは、大丈夫なんですよ。認識して外す場合は無意識のうちにでも、平常心であれば魔力をコントロールするものなんです」
「へ?」

 認識して外す場合は大丈夫、ということはたとえ盗まれて失くしても、それに気づいて平常心でさえいれば自分でも魔力をコントロール出来るらしい。
 おそらくルビーブラッドはそれを知っていたのであろうが、慌てて平常心を保てていなかったあのときのシシィに魔力のコントロールは無意識のうちでも無理だっただろう。それを見越して魔力コントロールアイテム代わりになっていてくれたのだ。
 しかしそれなら盗まれたり失くしたりしても、慌てなければ良かった、とシシィがため息をつくとルウスは彼女が何を考えたのか察したように続ける。

「魔力コントロールアイテムというのは、いわば魔力の塊ですから。盗まれたりして魔法の専門知識のない人に悪用されると危ないですから、気づかれない間に取られて使われたりしないように、気をつけなければいけません」
「そうなんですか」
「まぁ、魔法を使う職業の中では魔法使いや魔導師より、魔術師が一番繊細に魔力を扱わなければいけませんから。だから魔力コントロールアイテムに頼ったほうが楽ですよ」

 へぇ、と納得したところで。
 シシィはルビーブラッドを下で待たしていることを思い出した。のんびり喋っている場合ではなかったのだ。

「ルウスさんっ、聞いてくだ」
「そういえば……誰か、と一緒でしたね?」

 誰、とはルビーブラッドのことだろうか。一応この隠し部屋にも窓というものは存在するので、机を台にそこから見たのかもしれない。
 窓の外から、陽が沈んでいくのが見えた。あとわずかに沈むだけで夜になる。

「えへへ……実はルビーブラッドさんが来てくださったんです!」
「……っ!!」
「ルビーブラッドさんがルウスさんの魔術、解いてくれるんですよ!」

 はやる気持ちを抑え、けれど頬は緩みながらシシィはルウスに言う。
 きっと喜ぶだろう。すでに2ヶ月以上は犬のままなのだから。
 しかしルウスは、酷く静かで冷静な声で告げた。

「………………彼は、いけません」
「え?」

 ――いけ、ない?
 シシィの笑顔が固まる。ルウスがルビーブラッドの前に現れ、魔術を解いてもらえたなら、彼は人間に戻れるのだ。いつその魔術薬を作れるか分からないシシィより、そちらの方が確実で早いはずなのに。

「や、やだな……ルウスさん、まだ魔術師に偏屈な人が多いからって、い、嫌がってるんですか?ルビーブラッドさんは怖いけど優しい人、ですよ……」
「違います。彼だからこそ、ダメなんです」

 ルウスは、彼は――ルビーブラッドはいけないと言う。
 シシィは耳に手を当てた。耳鳴りがしている気がする。
 何か、警告音のような。

「な、んで、ですか?だって、ルビーブラッドさん、なら、解いて、」
「解けるなら、かけることもできる」

 ――聞きたく、ない。


「私をこの姿にしたのは、彼です」


 ――ルビーブラッドさんが、ルウスさんを犬の姿に……?

 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
 そんな馬鹿な、ルビーブラッドがそんなことをするはずがない、とシシィは耳鳴りがする中で考える。ルウスは夜に奇襲を受けたかのように、いきなり犬にされてしまったのだと言う。
 そんな卑怯なこと、あのルビーブラッドがするはずが、ない、はずなのだ。あの、正義感の強い彼が。
 ――だけど。
 シシィは気がつく。ルビーブラッドと初めて出会ったのは、ルウスと出会った翌日の、この町の近くの森で。
 何故、ルビーブラッドほどの魔導師が、こんな大きいとは言えない国の片田舎である町の近辺をうろうろしていたのか。普通なら必要性を見出せないのだが。
 ――それは、ルウスさんを犬にしたあと、だったから……?
 彼の依頼は国からの依頼が多いらしい。けれど、それは個人からも請け負うことがあるということでもあり、そうであれば説明がついてしまう。

 ルビーブラッドが、ルウスを犬に変えてしまったのだ、と。

「暗闇の中でも、姿は確認しました。おそらく彼です。なので私は彼の前に出て行くことは出来ません」
「あ…………」

 嘘だ、と叫びたい。
 けれどそれは、ルウスを疑うことになる。
 普通に考えて、信じるとしたならばルウスのほうなのだろう。色々とつじつまは合うし、彼は現に犬となってしまっているし、嘘をつくメリットがないのだから。それに2ヶ月以上ずっと一緒に暮らしてきた相手、それ相応に信頼度はある。
 信じるなら、信じなければいけないのは、被害者であるルウス。

「ですから、何とかその話を断ってきてください」
「わ、かりまし、た……」

 ――アンティークキーは、魔力コントロールアイテムはあるのに。
 頭が痛くて、気持ち悪くて、視界が揺れる。
 シシィはふらふらとしながら、ルウスをそこに残して階段を下りリビングへと引き返した。何と言って誤魔化せばいいのかも分からないまま、ソファに座っているルビーブラッドの姿を目に捉える。
 彼は、リビングのいたるところを見ていた。
 とても――優しい瞳で。

「る、びーぶらっど、さん」
「シシィ」

 声をかけて、やっと気がついたように彼はシシィをその視界に入れた。
 ――訊けば、いいんだ。
 ルウスの話が真実かどうか確かめるのは簡単だ。ルビーブラッド自身に聞いてみれば話は早く、簡単に済む。
 数ヶ月前、人を犬に変えませんでしたか、と。

「あ、の……」
「……」

 ルビーブラッドと、静かに目が合う。
 その、赤い、紅い、深紅の瞳。


「――――――――っ」


 ――訊け、ない。
 とてもじゃないが、訊けなかった。先ほどまで祖母の魔術が残るこの家を優しい目で見ていた、見た目より繊細で優しい彼に、そんなことは訊けない。
 それと同時に、シシィは心の奥底で恐れている。
 「変えた」と――肯定の返事をされることを。
 肯定されてしまえば、否が応でもルビーブラッドがルウスを犬にしてしまった張本人だ。それが悲しくて怖くて、嫌だった。
 胸が痛むほどに。

「……想像はしていた」

 ルビーブラッドの言葉に、シシィはおおげさなほど震える。
 想像していた、とは。
 ――ルウスさん、自分が犬にした人間がここにいること、を?
 何故分かったのだろう。そういえば以前どこかで、「ルウス」という名前を出してしまったような気がする。彼もターゲットの素性くらいは調べてから仕事をするはずで、もしかすると名前を覚えていたのだろうか。

「お前の様子、変すぎたからな」
「………っ!あ、の、その……!」

 ルウスをどうするつもりなのだろう。


「仕事がないなら、ないと言えばいいだろう」


 ――仕事。

「……は」
「とっさの嘘はすぐバレる。特にお前はな。これに懲りたらやめておけ」
「仕事……嘘……」
「俺も頑固と言われるが、お前も相当だ。それほどまで礼がしたかったとは」

 ふぅ、と軽く観念したようなため息をつくルビーブラッドを見ながら、シシィは必死に思考が停止しそうになる脳をフル活動させて状況を整理する。
 これはつまり、ルビーブラッドは。
 ――彼を招くために、シシィが嘘をついたのだと思っているのだ。

「ええ!?あ、あのその、ちがっ」
「あるのか」
「うっ、あ、い、……ありま、せん……」

 彼に頼んだときはあると思っていたのだから嘘ではないというのに、大変不名誉な勘違いをされてしまったものだ。けれどルウスのことをうやむやにするのであれば、ルビーブラッドの考えに乗っておくのが良さそうだ、とシシィは涙を呑んで「ない」と言うことにした。
 しかしルビーブラッドの重い嘆息を聞き、シシィはまたビクリと体を震わす。

「す、すみません……」
「……すまん、不機嫌な訳じゃない」
「え?」

 てっきり怒っているか、不機嫌にさせてしまったのだと思ったが、彼がそういう訳ではないと言うので、シシィは首を傾げた。今の彼の雰囲気は、どう見ても楽しいとか(そもそも彼のそういう雰囲気を感じ取ったことがないが)感じられない。
 ルビーブラッドは頭をガシガシとかきながら、シシィから目を逸らした。

「変な奴だ」
「へ、変な……」
「……俺の負けか」

 負け。
 シシィが目を丸くしてルビーブラッドを見つめていると、彼は頭をかいていた手を離してシシィと視線を合わす。
 心なしか、表情が柔らかかった。

「……今日だけは世話にな」

 ビービービービービー。

「!?」
「……ろう、と思ったが急ぎの仕事だな」

 言いながらルビーブラッドは小指の爪くらいの大きさの、真っ黒な石のついたストラップのようなものをポケットから取り出した。その黒い石が細かく震えているのでさっきのビービー、という音は振動音だったようだ。

「……ラフルタか」

 つぶやかれた言葉は、シシィには国の名前なのか地域の名前なのか、それとも人の名前なのか分からない。それでもどうやら、彼が思ったより早くここを離れなければいけないらしいことは把握できる。
 シシィはキッチンへと行き、台に置いてあった朝食べようと思っていたパンとチーズを引っつかむとルビーブラッドのところへ戻り、その二つを彼の手の中に押し付けた。
 持って行ってください、と。

「あの、ご、ご飯はやっぱり食べた方がいいと思うんです。結局お礼もできなかったし、せ、せめて持って行ってどこかで食べてください」
「……」
「あ、ええと、朝作ったものですけどすぐに傷むものじゃないし、だ、大丈夫です。ち、チーズとか栄養が良いって聞くし、その」
「分かった、貰っていく。ありがとう」
「いっ、いえ!」

 ありがとう、と言われてシシィの胸はズキリと痛んだ。
 ――私は、ルビーブラッドさんを疑っている、のに。
 ルウスからあの話を聞いても、彼に優しくしてしまうのは何故なのだろう。誰かを疑うということが辛いと思っている自分は、心のどこかでこれを贖罪のように思っているのかもしれない。
 シシィは自身の胸の辺りを、ぎゅ、と強く掴んだ。

「まだ吐き気がするのか」
「へ?あ、いいえ!大丈夫です!」
「なら、いい」

 ルビーブラッドが「ロッド」と、この空間に呼び寄せ、長い自分専用のロッド持つ。

『イオス 誇り高き二藍(ふたあい)のかわひらこよ 妖艶な羽と神秘の羽 我は奇怪の扉を開く者 浮き世に囚われず汝の力を望む』

 新しい魔導だ。
 今まで聞いたことのない呪文に、シシィがちんぷんかんぷんで立ち尽くしていると、ルビーブラッドの足元に魔法陣が現れて彼自身の体も光を帯び始めて、どんどん足元から姿が薄くなっていく。
 これは、どうやら空間転移の魔導らしい。

「何があったか知らないが」
「え?」
「もっと、いつも通りへらへらしていろ」
「へ、へらへら……って……言うか、何のことですか」

 消えていく中、ルビーブラッドは顔をしかめるように目を細めてシシィを見つめる。

「心配事があるのがモロ分かりだ」

 ひゅっ、とシシィは息を呑んだ。

「……詳しくは聞かないが、どうにもならなくなったらガーデンへ来い。泣き言くらいならいくらでも聞いてやる」
「………………」
「……まだ礼を貰ってないからな。暇になったら――オレンジケーキを食いに来る」
「は……い」

 気を使ってもらったのだろう。また来るから心配するなと。
 シシィは無理矢理笑う。
 最後は笑って別れたかった。たとえそれが、無理矢理作った微笑みでも。
 胸が――軋んでいても。

「また焼いておきます……いってらっしゃい、ルビーブラッドさん」

 ルビーブラッドは―――奇妙な顔をしたまま、その空間から消えた。
 消えて、しまった。

「……話せないんです、ルビーブラッドさん」

 どんなに辛くとも、これだけは彼に相談することはできない。
 数えたくらいしか会っていない彼より、ルウスを信じなければいけない。ルウスの言っていることはつじつまがあっているし、嘘などないだろう。
 けれど、心のどこかで嘘であれば良いと思っている。
 それならたった今までそこにいて、とても優しかったルビーブラッドを悪者にせずにすむのだから。そんなことを考えている。
 シシィは静かに、両手で顔を覆った。

「私、最低だ………………」

 ルウスに嘘をついていて欲しくない。
 けれど、ルビーブラッドのことが真実であって欲しくない。
 あまりにも矛盾していて、どちらかの望みしか叶うことがないのを知っている。
 そして、おそらくはルウスの言い分が正しいのであることも。
 その後姿を、ルウスはリビングの入り口の影から見つめていて、声をかけようと口を開いた。が、すぐに閉じて、そのまま彼女の後姿を見守る。

「……っく……ふえ………っ」

彼女が泣き終わるまで、彼はひっそりと夜の闇の中に佇んでいた。