目の前がぐらぐらと揺れている。
 気持ち悪くて、頭が痛くて、身体の表面は凍りそうなほど寒いのに内側は燃えたぎるような熱さで、身が焦がれてしまいそうだ。
 動けない。
 心細い。

「ごほっ……!」

 ――お父さん、お母さん。お祖母ちゃん。ルウスさん。助けて……。
 人通りの全くない路地裏で倒れこんでしまったので、シシィを見つけるものは誰もおらず、彼女はそこで血を吐きながら倒れているしかなかった。

「ぐ……っ」

 身体の中で、何かが大きな心臓を持ったように鼓動を打っているのが分かる。
 ――違う、鼓動なんてものじゃない。
 爆発しそうなのだ、自分の中にある何かが。身体が粉々になりそうな勢いの不明な力にシシィは心の底から怯え、力の入らない手をぎゅ、と握った。
 目を静かにつむる。
 このままでは、死んでしまう。
 たった一人、誰にも看取られず死んでしまうのが怖い。
 悲しい。
 涙がこぼれていくのが分かったが、もう拭う力もシシィには残されていなかった。
 誰か。

「……っ」

 助けて欲しい――。

「ルビーブラッドさん……」


 その瞬間、強い力でシシィの身体は抱き起こされた。


「意識を保て」

 安心する声と、あたたかな体温が身近に感じられる。
 この、声は。

「る、びーぶらっど、さ……」
「落ち着け、しっかりしろ」

 そうシシィに言い聞かせながら――ルビーブラッドは片方の手で彼女の身体を抱き起こし、もう片方の手で彼女の左手を手に取った。繋がれた左手から、あたたかな何かが身体をめぐっていくのを感じて、シシィは閉じていた目をそっと開ける。
 そこにはやはり、朝に別れたはずのルビーブラッドがいた。
 しかしいつもより険しい表情をしていて、端から見ると近寄りがたさは5倍に増えているのだが、今のシシィにそんなことを考えられる余裕はなかった。

「ど、して……ここに……」
「起きたら異変を感じたから、ピアスで飛んできた」

 怖さより、安堵感の方が勝る。

「ひっく……うえぇ……っ!」
「また泣く……。いいか、お前のガーデンを思い出せ、そうでなければ死ぬぞ」
「し……っ!?は、はい……っ」

 死ぬ、と言われて、シシィは夢の中のガーデンのことを頭に思い浮かべた。祖母の好きだった絵本のガーデンだ。白いアイアン製のガゼボに、小さな噴水、ブランコ、色とりどりの季節の花々。鮮やかな緑。
 思い浮かべていると、何故か心が落ち着いてきて、先ほどまで酷かった頭痛も吐き気もだんだんと和らいできた。何より、身体の中で暴れていた不明瞭な力が治まっていっている。
 身体が癒されていくのを感じて、シシィはこのまま眠りたい気分だったのだが。

「シシィ」
「ぴぃっ!?」

 ルビーブラッドの超低音不穏な怒り声にて、その気分は一気に吹き飛んだ。
 ギ、ギ、ギ、と油を差し忘れたロボットのごとく、恐る恐る彼の表情を確認してみたが、先ほどの険しい顔とは比べ物にならないくらい怖かった。後ろに悪魔やら魔王やら鬼やら般若やら、とにかくそういうものが見えた気がする。

「魔力コントロールアイテムは、どうした」
「な、なな何故しょれをっ!?」
「答えろ」

 静かに怒られるのが、人間一番怖い。まさしくルビーブラッドはその静かに怒るタイプであったようで、シシィは彼の声と表情を見て、また少し泣きべそをかいた。
 しかし悲しいことに、泣いていても状況を説明する人は誰一人としてシシィ以外にはいないので、彼女はつっかえながらも今まで起きた出来事をしかめっ面をしたルビーブラッドに話した。ルウスのことや魔力がなくなった、と思ったことについては説明をあえてしなかったが。
 全て説明し終えると、ルビーブラッドはシシィをちゃんと座らせて、抱きかかえていた方の手を離しながら深く重くため息をついた。

「……魔術書を読んでないのか」
「は、はい?」
「見てみろ」

 と、彼は服の中から首にかけていたらしい大振りな宝石のついたペンダントを取り出してシシィに見せた。シシィは宝石に詳しくないので何の石なのか分からなかったが、彼のワークネームどおりルビーか、もしくはガーネットだろうか、と考えながら見つめる。
 何の宝石にしても思わず手に取りたくなるような、深い赤の美しい石だ。

「キレイですね……えっと、ルビーですか?」
「魔力コントロールアイテムだ」
「へ?」
「何の宝石でもない」

 そんなこと言われても、にわかには信じられない。
 シシィが目を丸くした状態で、なおも魔力コントロールアイテムだと言われたものを見つめていると、ルビーブラッドは「そういうことだ」とシシィに言った。

「本人にとってはそうでもない。が、他人には魔力コントロールアイテムについている石は高級な宝石のように美しく見える」
「はぁ……」
「盗って売ろうとする輩まで出るほどだ」
「そっ、それは危険です!ルビーブラッドさん、早くしまわないと!!」

 キョロキョロと辺りを見渡しながら、ルビーブラッドの持つ魔力コントロールアイテムを手で覆い隠すシシィを彼は呆れながら見ていた。

「まさにそれが、今のお前の状況だ」
「……は?」
「朝の人ごみの中でスられたんだろう」
「……拾った……だけかも」
「拾ったにしても、普通の人間はどんな美しい宝石であったとしても持ち主が現れたなら返す。が、やましい考えがある輩は逃げる」

 そういえば、とシシィは青年たちの裏路地での会話を思い出す。確か「売ればよかった」やら「買ってくれる人物が」どうやらと言っていたのが耳に入ってきた。
 売る、買う。
 あのときは身体の調子が悪かったので、ぼんやりとして分からなかったのだが、今ならその意味が恐ろしいほど分かる。
 売られてしまえば、アンティークキーはシシィの手元に帰ってこない。

「あああっ!どうしよう!!」

 アンティークキーを最初に手に入れたとき、ルウスは言っていた。『いつも身に付けていなさい』と。Bに初めて会ったときも『人の目に触れないよう隠しておきなさい』と言われていた。よく考えなくともそれだけ大事なものを、シシィは急いでいたからと人ごみの中でさらしてしまっていたのだ。
 Bの店の前から家に帰るまでの道のり、鍵を服の中にしまっていない。
 自分の失態だ。

「と、取り戻さなくちゃ」
「待て」
「わ、私、Bさんにちゃんと隠しておきなさいって言われてたのに……。何で気づかなかったんだろう、本当に私、バカだ……」
「だから待て」

 シシィが立ち上がろうとすると、ルビーブラッドはそれを止めた。

「でも、早く取り戻しに行か、ない……と……」

 止められて、ようやっとシシィは気づく。
 ルビーブラッドと、手を繋いだままだ。

「……あの?」
「魔力コントロールアイテムをなくしてから、体調を崩しただろう」

 確かに、自分の体調が悪くなったのはアンティークキーをなくしてしまってからだ。
 しかしそれを何故彼が知っているのだろう。
 こくり、と頷きながらも頭の上にクエスチョンマークを浮かべるシシィに、ルビーブラッドは自身の魔力コントロールアイテムであるペンダントをしまいながら言葉を続けた。

「魔力コントロールアイテムは、魔術師には必要不可欠だ」
「あ、はい。それは聞いたことあります」

「魔力コントロールアイテムをなくすと魔力が暴走して死ぬからだ」

 地面の赤いものがシシィの目に入る。
 自分の吐いた、血。
 そう、シシィは吐血していたのだ。

「……わ、私もしかして、死ぬ一歩手前でした……?」
「ああ」
「ひぃえっ!!」

 ぞわり、と背筋を冷たいものが駆けていく。本当に危ないところを助けてもらったのだ、と今になってようやく実感した。

「あ、ありがとうございました!」
「……」
「……あ、あれ?でも、今は私何とも……」
「何のために手を繋いでいると思っている」

 そう言われて、シシィは再び繋がれた左手に視線を向ける。自分の手は今、ルビーブラッドの右手と繋がっていて、何故そうなっているかと言われてもシシィには分からなかった。おそらくはルビーブラッドが抱き起こしてくれたときに手を握ったのだろう、と予測はつくのだが。
 それが、今も何故繋いでいるかについてはさっぱりである。
 分からない、といった表情をしているシシィに、ルビーブラッドはいつもの仏頂面でとんでもない爆弾を落とした。

「今現在、俺がお前の魔力コントロールアイテムだからだ」

 ルビーブラッドが、魔力コントロールアイテム。

「……は?」
「魔力コントロールアイテムを失った魔術師は、魔力が暴走して死に至る。要するに魔力が暴走しなければ死にはしない」
「と、いうこと、は」
「俺が今、お前の魔力をコントロールしている。魔力コントロールアイテムから離れると、またさっきみたいに血を吐くぞ」

 つまり、ルビーブラッドがアンティークキー代わりで。
 アンティークキー、魔力コントロールアイテムの代わりである以上身に付けていなければならないということで。
 それが、手を繋いだままな訳。
 そして手を離すと、また具合が悪くなってしまう、ということならしい。

「す、すすっすみません!こ、コントロールとか、疲れるんじゃないですか!?」
「別に疲れはしないが……」
「が!?が、なんですか!?」

 しかめっ面で言われたシシィは、やはり何かあるのでは、と心配したのだが。

「…………………………照れる」
「……照れ?」

 何が、と問おうとしたシシィは、無意識にルビーブラッドの視線の先を追ったのだが、ルビーブラッドが見ているのは自分たちが繋いでいる手のようだ。
 ――これが、照れる?
 もう一度相手の手から腕をたどって、ルビーブラッドの顔を見つめる。

「……!!」

 今更ながら、意味が分かった。

「うわぁっ!すみませんっ、すぐに手を離します!!」
「だから離したら死ぬぞ」
「ああっ!」
「気にしないように努める」

 真っ赤になりながら慌てるシシィに、ルビーブラッドは先に「照れる」と言っておきながらそんなこと微塵も感じさせない仏頂面で、手を離そうとした彼女を冷静に引き止める。
 その様子に、本当にこの人は照れているんだろうか、と思いながらもシシィはとりあえず深呼吸して自分を落ち着けた。気にしないように努めると言われても、こちらも意識してしまったので困る。

「とりあえず、アレはお前の魔力の一部だ。どこにあるか探せ」
「探すって、ど、どうやって」
「深い湖に潜るようなイメージをしろ。そのうち魔力を感じ取れるはず」

 深い湖に、潜る。
 シシィはゆっくりと目を閉じてイメージする。
 深く、澄んだ青い湖。その中をどんどん潜って下の光の当たらない場所まで行く。
 水色から青へ。青から蒼へ。
 蒼から――黒へ。
 その黒の中に、オレンジ色の光。

「……あれ?」
「感じたか」
「あ、はい……。けど、意外に近くにあるような……」
「そうだな」

 その返事に、シシィは思考を止める。
 ――『そうだな』?
 そうだな、と同意した、ということは分かっているということであり、分かっているということはシシィの魔力を感じているということだ。
 それならば教えてくれても良かったのに、としょんぼりしながらルビーブラッドと共に立ち上がると、彼はシシィのその心を読んだかのように言う。

「探す手伝いはしてやるが、アレはお前のもの。自分で見つけて取り戻せ」

 言い方はかなり無愛想なのだが、これはこれでルビーブラッドなりの気遣いだ。人に頼ってばかりいると、自分が成長できなくなる。結局困るのは自分だ。

「行くぞ」





********





 本当に、青年たちは近くにいた。
 シシィたちがいた路地をさらに進んでいくと、この町の路地は袋小路が多いためか、行き止まりだったらしい。建物という壁の前、そこで何やらもめている3人をちょうど角になっている建物の壁からシシィとルビーブラッドは観察する。
 人を見かけで判断してはいけないと言うものの、落ち着き改めてよく見ると、青年たちは3人とも大変ルーズな格好をしており、まさにシシィの中にある『不良』のイメージをわざわざ具現化しているような感じだ。

「あ、あんな格好でも、い、いいひとたちかも」
「それは後で分かる」
「?」
「それより、どんなに急いでいて人ごみの中でもああいうのは避けて通れ」
「……き、今日は周りが見えてなくて」

 まさか、魔力がなくなったと勘違いしていましたとはいえない。どうやら魔術師の魔力がなくなるという事態は、名前を知られて相手に奪われた時だけらしいので、下手に言うと勘のいいルビーブラッドは気づくかもしれない。
 『シシィ』はワークネームではないのかもしれない、と。

「――――――ろ」
「……へ?」
「……緊張感がなさすぎるぞ。だから、取り戻してみせろ」

 この場合、アンティークキーを指すのだろう。
 しかし、取り戻せと言われても。

「えっと……お願いしてくればいいんですか?」
「あいつらが聞くか」
「……すみません、体育は万年1だったんですけれど、5段階で」
「……戦闘を強要する気もない」

 それならしなくてもいい恥ずかしい告白をしてしまった。

「言っただろう、アレはお前の魔力の一部、ひいてはお前自身」
「はい」
「強く心の中で呼べ。お前の魔力がお前の呼びかけに答えないはずがない。呼べばお前の手元に必ず帰る」

 手元、とシシィはルビーブラッドと手を繋いでないほうの手のひらを見つめる。
 呼びかけろ、と言われてもそれこそ戸惑ってしまうものだ。心の中で呼びかけた程度で本当に鍵が帰ってくるのか疑わしくも思いながら、シシィは手のひらを見つめながら心の中で呼びかけてみる。
 ――戻ってきて。

「――え!?」

 たった一瞬。
 シシィが瞬きをした間に、アンティークキーは何の前触れもなくシシィの手の中に戻ってきていた。光も予感もともなうことなく、ただ当たり前のように。
 シシィはまじまじとアンティークキーを見つめる。古びているが、どこかあたたかさを感じる鍵に、オレンジ色の石。
 間違いなく自分の魔力コントロールアイテムだった。

「それだな」
「は、はい!ルビーブラッドさんのおかげで戻ってぐぶぶ」
「声がでかい」

 ルビーブラッドの言葉で、シシィはこの魔力コントロールアイテムを返してくれなかった青年たちの近くにいることを思い出した。嬉しさのあまり忘れかけていたが、大声を出してもいい距離ではない。
 ルビーブラッドの大きな手で口をふさがれたまま、シシィは建物とルビーブラッドの影から青年たちの様子がどんなものか盗み見る。

「おい、鍵がいつのまにかねぇぞ!!」
「バッカ、落としてきたのかよ!」
「落とすかよ!」

 すさまじい口論に発展していた。というより、そろそろ殴りあいに発展しそうだ。
 見ているシシィのほうがハラハラして、思わず飛び出そうとしたが繋いだ手をぎゅ、と強く握られてルビーブラッドに止められた。それでも目は彼らから離せないでいると。

『シュヴァルツ 永劫(えいごう)彷徨(ほうこう)する漆黒の(からす)よ』
「…………………………へ?」

 たった今至近距離にて、とんでもなく物騒な呪文詠唱を聞いた気がした。
 シシィが恐る恐るルビーブラッドを確認すると、彼はいつのまにかシシィの口から外した左手に、これもいつのまに出したのかロッドを持って、魔導を、発動していた。
 長いロッドの先には黒い球状の光、しかも、その詠唱は以前一度聞いている。
 確か。

陋劣(ろうれつ)な獣と心神(しんしん)の腐敗 其の者共は汝が渇望せし奸悪(かんあく)なる芳香の果実 惨禍と懲戒 汝の(かて)とせよ』

 闇を、見せるものではなかっただろうか。

「ルルルルルルッ、ルビーブラッドさん!?」

 何故にそんなことを!と叫ぶ前に、空しくもその黒い光は以前見た光景と全く同じに3つに分かれ言い争っている青年たちの身体の中に、それぞれしみこむように入っていってしまった。そして間髪いれず、

「ぎゃあああぁぁああああああ!」

 と、いう断末魔のような、聞いているほうが恐ろしく思える声を発しながら青年たちはみんなその場に倒れこみ、何故か自分の腕を恐ろしい形相で凝視する。
 信じられないものでも見てしまったような顔だ。
 シシィがその異常な状況に精神をどこかに飛ばしているうちに、ルビーブラッドはさっさとロッドをしまい、固まったままのシシィを引き連れてその場を素早く後にした。

「反省するかどうかは、自分たち次第だ」

 そんなことを言いながら。