辺りはまだ薄暗いが、かろうじて空の下のほうに朝日は見えている。

 そんな時間帯に、シシィはオレンジケーキを手に持って広場に来ていた。
 庶民の憩いの場であるこの広場は、噴水が設置されていて、ほとんど1年中が常春か初夏の気候であるこの国では暑い日に重宝されている。
 それでもさすがに、こんな早朝から広場を利用するものはおらず、誰もいない広場でシシィが手持ち無沙汰に石畳を見ながら待ち合わせをしている人物を大人しく待っていると、彼女の前にいきなり魔法陣が浮かび上がり、辺りを白い光が覆った。
 そして同時に、
 グウウウゥ。
 という、奇妙な音も聞こえて。

「………………」
「……また、何も食べてないんですか」

 と、シシィは呆れ気味に、目の前に現れたルビーブラッドに言った。
 とりあえず手に持っていた、オレンジケーキの入った容器をルビーブラッドに差し出す。彼はどこか気まずげに、それでもありがたそうに受け取った。
 こういうやりとりは、もう3日目だ。
 2人は噴水のふちに座り、まだ朝の気配の薄い空を見上げるシシィの横で、ルビーブラッドがカポリ、と容器を開ける。

「あの、3日間ずっとオレンジケーキなんですけれど、飽きません?」
「人類は主食をオレンジケーキにするべきだと思っている」
「……好きなんですね」

 本当にそうなったら、オレンジケーキが好きなシシィだって困る。彼のオレンジケーキ好きはもはや『狂い』までいっているのは明らかで、彼に合わせて、オレンジケーキが主食になったなら人類みんな堪らないだろう。そもそも主食とは簡単に作れるものであるべきではないだろうか。
 そう思いながらも、彼自身が飽きた、と言わないのでシシィはこの3日間作ってきているわけなのだが。

「他のものも、食べてますよね?」
「……」

 あのルビーブラッドが少女のたった一つの質問に、大変気まずげに目を背ける。
 世界中の魔導師や魔術師がこの光景を見たら、きっとこれは夢だ、と100人中、99人は思うであろうが、生憎その中に含まれない1人である少女は臆することなく「ダメですよ」とルビーブラッドに忠告する。

「ご飯は食べないと!」
「……空腹でも緊急のときは動けるような魔導がある」
「そういう問題じゃないです……」

 そのときは動けたとしても、空腹とは脳からの危険信号なのだ。身体に危機が迫っていることには変わりがないので、食べなければ意味がない。

「……不思議なんですけれど」
「?」
「ルビーブラッドさんって、あの、依頼を受けてますよね?」
「ああ」

 いただきます、と律儀に言ってからオレンジケーキを食べはじめたルビーブラッドをシシィは見つめた。ずっと、それこそはじめて会って、その後ルウスに彼のことを聞いてから不思議に思っていたことなのだが。

「じゃあ、どうしてご飯を食べるお金もどこかに泊まるお金も持ってないんです?」

 そもそも、こんな時間に会っているのもルビーブラッドの微妙な事情にあった。
 彼曰く、ここ最近ずっと魔物退治をしていたらしい。が、その魔物退治こそがとんでもない話で、どうやらこの国ではないどこかの国の広大な森に住み着いた、人に害をなす魔物全てを排除するか追い払ったのだと言う。
 その作業はおよそ2週間にわたり、おかげで彼は魔物の襲ってこない昼に眠り、夜に起きて退治する、というとんでもなく物騒な夜型生活になってしまったようだ。
 そんなとんでもないときに助けてもらったのか、と思うと頭も上がらないのだがそれはそれとして、終ったのであれば通常のリズムに戻してもいいのでは、と思ったがどうやらまた魔物退治の依頼が入っているらしい。同じような生活になるため今リズムを直すと辛いのでこのままだ、というのまでは分かる。
 なら、その魔物退治をしたことで得た報酬のお金は、どこに消えたのか。

「絶対に野宿より、どこかベッドで眠った方が良いに決まってます」
「もっともだが、金がない」
「いえ、あの、だから依頼報酬はどこに消えてるんですか」
「借金」

 もぐもぐと食べ続けるルビーブラッドの横で、シシィは頭を抱えたい気持ちになる。
 ――忘れてた。ルビーブラッドさんには借金があったんだった……。
 にしても、だ。

「で、でも、お金を全部渡しているわけじゃないでしょう?」
「いや、渡しているが」

 今度こそシシィは頭を抱えた。
 せめて必要不可欠なくらいは懐に持っておかないと、絶対に困るはずなのに。現に彼は、昼は町から離れた場所にある森の中で眠っているらしい。野宿だ。町に休養で滞在しているはずなのに、野宿とは矛盾している気がしてならない。

「借金……いくらでした?」
「あと42億」

 確実に減ってはいるようだ。この間は確か50億だと言っていたのだから。

「そもそも、どうしてそんなに借金作っちゃったんでしたっけ……」
「知人が作ったのを払ってる」
「それって、ルビーブラッドさんは関係……」

 ないのでは、とシシィは言おうとして、言葉を詰まらせる。

 空気が、雰囲気が変わった。

 ピリピリと、緊張感がこの場を支配している。
 ルビーブラッドは相変わらずオレンジケーキを咀嚼しているが、その表情はいつもよりほんの少し険しいように見えて、それ以上訊くのはためらわれた。
 というよりも、訊けない。
 ――踏み込んじゃ、ダメなことだ、これは。
 訊いたら、もしかすると答えてくれるかもしれない。ルビーブラッドという人物はそういう人であるような気がした。けれどそれは無理強いに他ならず、必ず嫌な思いをさせるだろう。
 シシィは心の中で首を横に振る。それはいけない。

「……?」
「あ、あのっ」

 ――待ってればいいんだ。ルビーブラッドさんが話してくれるようになるまで。

「何か言いかけたろう」
「え、えっと……だからやっぱり、ルビーブラッドさん、うちにくればいいんですよ!」

 そう誤魔化しながらも、実はこれは立派なシシィの本音である。
 いくらルビーブラッドが夜型生活で昼間に町を出歩くことがなく、Bとヴィトランに出会うことがない、と言ってもそれはやはり確かではない。しかしルビーブラッドが自分の家に泊まってくれさえすれば、彼の動向をつかむのが格段に簡単になるのだ。
 ――そう、まだ名前の問題が解決していない。
 Bかヴィトランかルビーブラッド、誰かがシシィの名前を口にした時点で、シシィの魔力はなくなってしまうかもしれないという危険が伴っていた。ここ3日、生きた心地がしていないのである。ということで、初日も提案してみたのだが。

「ありがたいが、断る」

 と、今回も初日と同様、あっさりと断られてしまった。

「うっ……どうして、ですか」

 そのシシィの言葉にルビーブラッドは食べる手を止めて、少し厳しく諌めるような視線でシシィを見つめた。おそらくルウスもこの場にいればそうしたであろう。「1人暮らしの女の子が、異性を簡単に連れ込むな」と。
 だが。

「魔術師が他人を簡単に自分の家にあげるな。魔術師はそれぞれ、自分なりの魔術研究をしている。人に盗まれれば面倒だろう」
「なるほど……」

 微妙にずれた忠告をするルビーブラッドに、頷くシシィ。
 これはこれで大変正しい、まさしく正論なのであるが、何か違う2人だった。





********





 ルビーブラッドがもう眠る時間になったので(世間的には朝の7時くらいなのだが)シシィは彼と別れてBの店の前まで来ていた。と言っても今日は買い物に来たわけではなく、Bにあるお願いをしに来たのである。
 ルビーブラッドの前では、名前を呼ばないでくれ、と。
 色々と今日までの2日間考えたのだが、もうそういうふうにダイレクトにお願いするしか、シシィにはいい方法が思いつかなかった。理由を聞かれるかもしれないが、それもきっと教えてはいけないことだ。Bを疑うわけではないのだが、やはり秘密を知っている人は最小限の方が良いに決まっている。何とか誤魔化さなければ。

「鍵は……あるし。よしっ」

 壁の前で立ち止まり、さぁ、いざ中へ。

「……あれ?」

 ――と、思っても入れない。
 シシィは不思議に思いながら壁を触ってみる。なんら変なところはなく、この向こうにBの店があるはずなのに何故か入ることが出来ない。慌てて服の中にしまっておいたアンティークキーを取り出してマジマジと見つめてみたがコチラも変わった様子はなかった。
 ――合言葉がいるようになった、とか。
 色々と可能性を頭の中に浮かべてみるが、分からない。何故入れないのだろう。
 嫌な想像が、頭をよぎる。

『本名を同じ魔術師に知られた場合、魔力は本名を知った相手に奪われます』

「……私、魔力を奪われちゃった……?」

 『闇色ハット』の名を知っているのはBだけではない。ヴィトランもだ。もし、万が一、仮に、ヴィトランとルビーブラッドが出会い、自分のことについて会話をしていたらアウトなのだ。あの2人は会話どころか、そもそも会うことも成り立っていないので急ぐべきはBの方だと思っていたのだが、読みを違えたのだろうか。
 ――こんな、簡単に終ってしまう。

「ルウス、さん」

 呆然としながらシシィはつぶやいた。
 彼のことをどうすればいいのだろう。
 まだ全然、人間に戻してあげられるレベルまでいっていないのに。

「あ、わ、私……っ!どうしよう!!」

 ルウスのことまで考えが及んだところで、やっとシシィの中に現実が形を持って入り込んできて、心が不安で塗りつくされる。
 ――帰らなくちゃ、ルウスさんところへ。
 その考えで頭がいっぱいになり、シシィは1歩2歩、と後ずさりしてから再び大通りへ向けて走り始めた。大通りはもうすでに人でにぎわいはじめていて、人ごみの中を無理に避けてすり抜けていくたびに、胸の辺りでアンティークキーが揺れる。

「っ!すみません!」

 人にぶつかっても気にならない。それよりもっと大変なことが自分の身に起きているのだから。
 人生でこれ以上走ったことない、というくらいのスピードと距離で何とか自分の家に帰りついた頃には、シシィはもうへとへとで泣きべそをかきそうだった。

「うっ……ふぇ……っ」
「シシィさん?朝早くからどこに行って」

 キッチンの勝手口のドアノブをつかんだとき、中からルウスの声が聞こえた。

「ルウスさん……!!」
「……!?何で泣いているんですか?」

 シシィの涙声に素早くルウスは気がついたらしく、声音が心配したものに変わる。
 そのことに新たな涙を浮かべながら、シシィはとりあえず中に入ろうとドアノブを回したのだが、開かなかった。鍵がかかっているのを忘れていた。
 慌ててアンティークキーを取り出そうとして――

「あ……れ……」

 気がつく。

「あれ……あれ、あれ?」
「シシィ、さん?」

 アンティークキーが、ない。
 首からかけておいたはずの、アンティークキーがなくなっている。
 これでは家に入ることが出来ないが、ルウスがドアの近くに来てくれているため話すことは可能だ。鍵は後から見つけに行けば、特に問題ではない。
 それか、魔力がなくなってしまったから鍵も消えてしまったのかもしれないが。

「あ、あ……ルウスさん、ど、どうしよう!待って……待ってください!とりあえず大事なことから話します!」
「大事なこと……?」
「私……魔力をなくしちゃったかもしれないんです!!」

 しばしの沈黙の後。

「……シシィさん、悪い冗談はやめてくださいよ、何事かと思いました」
「じょ、冗談じゃないです!本当なんです!」
「悪い冗談ですよ、魔力はあります。だってこの家の魔術、働いてますよ」
「……え?」

 そういえば、と自宅の2階部分を見てみる。というか、見えないのを確認する。
 最初にアンティークキーを手に取ったとき、シシィは祖母からこの家にかけられた魔術も知らないながらに受け取ったのである。解きかたは知らないのだが、存続させておくだけであれば魔力さえあれば誰にでも出来ることだ。
 祖母の自宅の2階部分は外から見えないようになっていて、端から見ると1階しかない平屋のような家に見える。――今もそういうふうに見えている。
 つまりそれは、シシィが魔力を失っていない証拠。

「あ、え?でも、Bさんのお店に入れなかった、のに……」
「シシィさん、お店である以上開店時間というものが存在しますよ」
「ああ!」

 言われて、初めて気がついた。
 ――そうだ。まだ7時すぎだし、開店時間になってなかったんだ……。
 穴があれば入りたい気持ちで、シシィは顔を真っ赤にさせる。あれだけみっともなく騒いでしまった自分が、どうしようもなく恥ずかしく思えた。

「……シシィさん?そもそも何故魔力が無くなったと考えたんですか?」
「うっ!!」

 ルウスの冷静で鋭い声に、シシィは動揺しながら胸をおさえた。
 実は、ルウスにはルビーブラッドが来ていることを教えていないのだ。余計な心配をかけるかと思って最初は内緒にしておいたのだが、なんだかこの雰囲気だと何を言っても怒られそうな気がする。何せ2日も黙っていたのだ。
 何を言っても怒られるのであれば、正直に言うべきだろう。

「……2日ほど前から、ルビーブラッドさんが来てます」
「………………」

 沈黙が。沈黙が痛くて怖い。

「まさか、一昨日昨日今日と、オレンジケーキを持って朝早く、こっそりと出かけていたのはそれをルビーブラッドに渡すためじゃないでしょうね?」

 気づいておられた。そしてまさしく、まさかも何もなく、大正解である。
 しかしシシィにここで「ピンポン大正解でっす」などと言う度胸はなく、どう答えるべきか黙っていると、彼はそれを肯定と取ったようで(これも当たりだが)ドアを挟んでもシシィに伝わるような怒りのオーラを向けた。

「シシィさん?お入りなさい、説教したいことがあります」
「い、いえ、あの」
「シ・シ・ィ・さん?」

 本気で入りたくない。
 と、思ったところで、たとえ入りたい思っても入れないことを思い出した。鍵をどこかに落としてきてしまっている以上、家に入ることが出来ない。中から鍵を開けることは出来るし、ルウスもいるが、彼は現在犬。鍵を開けれることはないだろう。
 そして合鍵もない。鍵はあれ一つだけなのだ。

「あ、あの、ルウスさんそれが、入れないんですよ」
「大丈夫ですよ、優しくねちっこく説教してあげますから」

 嫌過ぎる。もし入れたとしても入りたくない。
 シシィは青ざめながらも、引きつった笑顔でドアの向こうにいるルウスに説明した。

「いえ、その……アンティークキーを落としてしまって」

 その一言に、ルウスが息を呑んだ。

「……冗談はおやめなさい、シシィさん」
「あの、本当なんです。そうじゃなければ、まず最初にドアを開けてますよ」
「………………っ!!」

 ドアの向こうから伝わってくるルウスの様子に、シシィもだんだんと不安になってきて頭まで軽く痛みはじめる。普段運動していないのに、激しく走ったからだろう。
 とりあえずシシィが、どこか戸締りをしていなかったところはないだろうか、とその場を離れようとしたとき、いきなりルウスが荒々しい声で叫んだ。

「シシィさん!早く鍵を探して来なさい!!」
「え?あ、えっと」
「早く!早くしないと……」
「わ、分かりました!」

 あまりの剣幕に、シシィは恐ろしくなってきびすを返し、その場から逃げ出した。後ろではまだルウスが何かを言っていたのだが、シシィは彼に対する恐ろしさでそれどころではない。ルウスが、あんなに荒々しく怒鳴ったのは初めてだ。
 涙がにじんできたが、それを拭う。悪いのは鍵を落としてきた自分。

「どこで、落としてきたんだろう……」

 道を走って戻りながら考える。最後に確かめたのはBの店の前の路地で、それ以降はシシィ自身がパニック状態に陥っていたため、全く覚えていなかった。
 ――ううん、確か走ってる途中まではあったと思う。
 確信はないが、胸でアンティークキーが揺れていたような気がする。
 と、いうことはやはり家に戻る道の後半で落としたのだろう。

「カギ、カギ、カギ……」

 シシィは図書館のある丘から下りきると人々が行き交う中、たったひとつの小さな鍵が落ちていないか道を舐めるようにして見て回る。オレンジ色の石がついているので、落ちていればすぐに分かるはずなのだがそんなものは見当たらなかった。
 ――誰かに拾われたのかもしれない。
 それなら軍警に行けば落し物として扱われているかもしれない、そう思いシシィはBの店の近くまで運びかけていた足を軍警へと変えた。





********





 結局、軍警に行っても落し物としては扱われておらず、そんなものは届いてないと言われたシシィは、再び町をずっと探した。見つからない不安からなのか、どんどん体調が悪くなってきてしまい、シシィはとうとう午後4時を過ぎたところで噴水のふちに座りこんでしまった。結局、朝から何も食べていないのが辛いし、ルウスのことも気になる。きっと何も食べれていないはずなのに、鍵がないので家にも帰れない。
 気を抜けばお腹の音がなってしまいそうで、シシィは人のいるこの広場でそれは恥ずかしい、と必死に耐えていた。
 が、色々と限界だ。

「うう……気持ち悪い……」

 もはやお腹のすき具合が、気持ち悪さのレベルまで達したらしい。
 朝に、ルビーブラッドに食事の大切さを説いたばかりだと言うのに、何とも悲しく空しい事態に陥っているなぁ、と泣けてさえくるというものだ、。
 頭の痛さも相まってシシィはもう1歩も動けず、ただ人の行きかいが少なくなってきた広場でぼーっとしていると、青年が3人、隅の方で何かを話しているのを見つけた。
 何気なく見ていると、青年のうちの1人が何かを取り出した。

「………………」

 どうやら鍵のようだ。それも古びた、オレンジ色の石のついている――。

「ああっ!!」

 シシィの、アンティークキー。
 どうして彼が持っているのかは分からないが、とりあえず拾ってくれていたのだろう。
 シシィは何とか力を振り絞って、ふらふらと青年のところに近づいた。

「あ、あの」
「あ?」

 よく見ると青年たちは怖そうな雰囲気を持つ人たちで、シシィは一瞬怯みかけたが、それでも大事なものだから、と鍵を指さしながら言葉を続けた。

「それ、私のなんです……拾ってくれてありが」

 しかし、シシィの顔を見た瞬間、彼らの表情は一変し。

「げ!朝の女だ!!」
「やべっ、逃げろ!!」
「へ?」

 一目散に、逃げられた。
 シシィは訳が分からず、ぽかんとしばらくその3人の後姿を見つめていたが自分の目的を思い出すと、慌てて彼らの後を追う。アンティークキーを返してもらっておらず、そのまま走り去られてしまったのだ。
 しかし自身の体調が思わしくないのと、彼らは男性であるためシシィと走るスピードが全く違い、どんどん引き離されていく。

「待って……大事な、もの、なんです!返してください!!」

 叫んでも、彼らは止まってくれない。街の人々も何事か、と傍観するだけで彼らを引き止めてくれそうにはなかった。
 青年たちがシシィを撒くためか、路地裏に飛び込んだのを見てシシィも路地裏へと方向を変える。路地裏は人通りが少ないため、青年たちの声がよく通って彼らの会話内容がシシィの耳にも入ってきた。

「だからとっとと売れっつったろ!!」
「買ってくれる奴がいなきゃどうしようもねーだろ!!」

 ――?
 よく分からないが、もめている。
 もめている以上近づけるチャンスだと分かっているが、シシィのスピードは速くなるどころか遅くなっていった。身体がついていかないのだ。
 ――のどに、何かひっかかる感じがする……。

「こほっ……ごほっ!げほっ!」

 口を押さえながらせきをすると、手のひらをつたってポタリ、と。
 地面に何かが落ちていった。
 シシィは驚きながら自分の手のひらを見つめる。
 赤い。

「え……?」

 赤い液体が、口から。
 鉄の味がする。


 ――血、だ。


「なん、で……」

 気持ち悪い。
 頭が痛い。
 視界がグラグラ揺れている中で、青年たちが走り去っていくのが見えた。

「待って……!」

 声は霞んで届かない。

「ごほっ!!」

 ボタボタ、と音をさせながら血を地面に吐き、シシィはその場に崩れるように倒れていった。