瞬きすると、そこは夢で見る美しいガーデンだった。
ただ、いつもと違うのは、
「花が、咲いてる………」
ピンクや赤や黄色や紫など、様々な色の花が咲いていたこと。いつもならそっけない緑の葉っぱだけなのに、今日に限って花が咲き乱れガーデンと呼ぶにふさわしい景色となっていた。この細いレンガの通路がこうであるのならば、アーチを抜けた先にある広い場所はもっと美しいだろう。
――ああ、嫌だな。たぶん私、現実逃避してるんだ。
そう思うと、もうそこから歩く気すら起こらなくなる。早く眠りから覚めて、ヴィトランに渡す薬を作らなければならないのに。
ぐす、とシシィは鼻をすすりながらしゃがみこみ、「早く目が覚めろ」と願う。
「――今日は捕まえられたか」
声。
人間の声、だった。ここに来て初めて聞く自分以外の声に、シシィは涙を流したままの顔で上を見上げる。
背が高い。
髪の色は深い夜の森の緑で、瞳はルビーのように赤くて。
黒く長いコートを着ていて、何ヶ月か前に会ったきり。
そこにいたのは、他の誰でもないルビーブラッドだった。
「何で泣く」
「……ううっ、どうしよう……私とうとうおかしくなっちゃった……ルビーブラッドさんの夢を見るなんて、どうしようおばあちゃん」
かなり前に会っただけの彼を夢に見るなんて、どれだけ自分は追い詰められているんだ、と自問自答していると、ルビーブラッドは呆れたようにため息をつき、シシィをガバッ、と自分の肩に担ぎ上げた。
「うぐ……うう、せめて現実であった担ぎ方を夢の中ででもしなくていいじゃないですか……乙女の憧れはお姫様抱っこなのに」
「あんなのをやって格好つけられるのは見目がいい奴らだけだが」
「……それもそうです、ね」
自分の脳はよく出来ている、いかにもルビーブラッドが言いそうなことではないか。
何だかんだと言っているうちにルビーブラッドはアーチを抜けて(ここだけの話、彼とこのガーデンは微妙にミスマッチしていて、それが少しだけ微笑ましかった)、アイアン製の白いガゼボの中にあるガーデン用チェアの上にシシィを下ろした。
テーブルの上には相変わらずティーセットが置いてあるのだが、今日は何故か中身があったようで、ルビーブラッドはそれを少々乱暴に注いでシシィに手渡す。
「夢の中で紅茶を飲むのは初めてです……」
「今までは紅茶の中身がなかったからな」
「はい…………へ?」
ぱち、とシシィを目を大きくして、隣のチェアに座って紅茶を飲むルビーブラッドを見つめた。
今までは紅茶の中身がなかった、確かにそれはそうだ。シシィが見てきた夢の中で、紅茶が入っていたのはコレが始めてだ。
それを、何故ルビーブラッドが知っているのか。
――ああ、夢だもんね…不条理なことの1つや2つ……。
「お前、ここが自分の夢だと思ってるだろう」
「それは……そうですよ。だって、私が眠ったときに見てるんですもん」
「俺の夢でもある」
紅茶を飲む手が、思わず止まった。
「…………」
「何を驚く、ペンダントが光っただろう。これは俺の魔術だ」
「ま、じゅつ」
「夢の中で会う魔術」
本来なら『電話』か『電報』があればすむ話だがお前の国にはどちらもそんなにないというか電気というものが中々通ってないからな、とか何とか言う言葉は全てシシィの左耳から右耳へと流れて消えた。
「このいかにもなガーデンはお前の影響だろうが、夜空の流星群は俺の夢だ」
そういえば、祖母に見せてもらった絵本の中ではガーデンは昼間だったはず。
夢だから、と気にしなかったがよく考えれば流星群を過去見た覚えはなかった。
と、いうことは。
「俺は俺の意識を持って動いている」
「うわわわぁぁぁああーーーーっ!!」
一気に、目が覚めた気分だった。シシィは紅茶を持ったまま椅子から思いきり立ち上がって叫び声を上げる。今までの恥ずかしい言動が頭の中に流れてきたからだ。
「いいい今までのことは忘れてくださいっ私じゃないんです、ちょっと何かが乗り移っていたんです!本当です!」
「姫抱き所望と泣いていたことか」
「うわぁああああぁあ!」
真顔で。真顔で言われた。これほどまでに人生でキツイことはあっただろうかたぶんない。自分の密やかな夢が漏えいしてしまうのは恥ずかしいことである。
紅茶を持ったままでは危ないと思ったのか、「いくら叫んでもいいがとりあえず座れ」と言われてシシィは顔を真っ赤にしたまま言われたとおり大人しく座った。
――ああ、夢の中でも泣きそう。
「何で泣く」
「! な、泣いてません……」
ごしごしと目じりを拭って、シシィは手元の紅茶に視線を落とす。隣に座る彼を見ないですむように。
が。
――すごい、見られてる?
ひしひしと、隣から視線を感じて正直怖い。
「……この魔術はお前が不安に陥ったら発動するものなんだが」
「ど、どどどうやってそん……」
問う声が、詰まる。
「……?」
訊くのが怖かった。
訊くということは知らないということ。
知らないことは、恥ずかしい。
「……また泣く」
「ええ!?な、泣いてなんか」
ないはず、とシシィが頬に手を当ててもやはり涙は流れていなかった。
「泣いてないな」
「……」
「慌てたのは泣きそうだったからだ」
つまりは誘導じゃないですか、と言いたいところをぐ、と我慢した。その様子をじっと見つめていたルビーブラッドは、ため息をつきながら紅茶のカップを手に取った。
かちゃり、と静かに音が鳴り響く。
「話したくないならいい。この夢はレム睡眠の時間を使っているから長くなると、どうしても睡眠の質は下がる」
「れ、れむすいみん」
「今回は強制的にお前を眠りにつかせたし、何もないなら帰る」
「帰るって、どう……」
夢から強制的に覚めることができるのだろうか、と思って訊こうとしたのだがそれはどうしてもためらわれた。臆病になっている。
「は、はい……あの、私には構わず……」
「お前も帰ればいい」
「へ……」
「帰ったらどうだ」
真っ直ぐ見つめながら言われて、シシィの手の中の紅茶が震えた。
帰ればいい、と言われても帰り方が分からない。
いつもはここで眠りにつくといつのまにか現実世界のほうで目が覚めているのだが、それで帰り方はあっているのだろうか。
間違っていたら、どうしたらいいのだろう。
紅茶のカップが震える。身体が震える。
「訊けばいいだろう」
「……え?」
「なるほど、『これ』か」
よく、分からない。
が、彼には何か分かったのだろうか。
分かって、しまったのだろうか。
――軽蔑、される。
「何も知らないのは恥じゃない」
びくり、とシシィが肩を揺らしたのを確かに横目ででも見たはずなのに、彼は構わず話を続ける。
「何も勉強できていないのに、魔術師を名乗らせたお前の師匠が悪い」
「おば……だって、祖母は、時間がなかったから苦肉の策で!祖母は悪くないです!」
「それじゃあ、誰も悪くない。お前も」
ぽつり、と涙が紅茶の中に入った。
「知らないのは恥じゃない。必要なことを知ろうとしないのが恥だ」
――そう、なのかな。
心がその一言で軽くなった気がした。
とても辛くてたまらなかった。知っていなければいけないことを知らなくて、魔術師を名乗っていながら魔術師として出来ないことの方が多い。
勉強しても勉強しても、追いつかない。
自分が落ちこぼれのような気がして、怖かった。
祖母が、ルウスが、落胆している気がして悲しかった。
悪いのは全て自分だと、そう思っていたのに。
彼は悪くないと言ってくれる。
ルウスも、大好きな祖母も。
――いつの間にか、魔術師になりたいと思うようになっていた自分も。
今までの思いが溢れてきて、言葉が口から漏れだした。
「わ、私、魔術師になりたいって、思うよ、になって……っ、でも、も、魔術師で、なのにいっぱい、色んなこと知らなくて……っ!」
たった何人か、依頼人を助けただけなのに祖母が何故この道を選んだ理由が分かったような気がする。
あの、依頼が解決したときの笑顔。
ずっと見ていたかった。心の底からの安堵の笑みに自分が関われたと思うと。
祖母もきっとそうだったのだろう。自分が微笑むと、にっこりと微笑み返してくれるような人だったのだから。
「別にいい。最初は誰もそうだ」
「……っく……う……っふえ……っ!でも、私、魔術師なのに……っ」
「だから、これから知れ。魔術師になりたいと思うようになったなら、今より知識を増やすことは必要だ。時間はある、これから知ればいい」
涙が紅茶に波紋を作っていくのを見ながら、シシィはその言葉を心の中で噛み砕くように聞いていた。
低い声が、とてもやさしく聞こえる。
「よく泣くな」
「う、ううっ、すみません……」
「……責めたわけじゃ、ない」
少し間が空いて、そんな言葉が返ってきた。こぼれる涙はそのままに、顔を上げてみるとルビーブラッドはシシィではなく別の方向をいつもの仏頂面で見つめていた。
戸惑ったような声音から察するに、どうやら怒っているのではないらしいことが分かって、シシィは安堵する。
気持ちが少し落ち着いてきたシシィを察したのか、ルビーブラッドはシシィを指しながら言った。
「この魔術は新しく作ったから慣れてない。だから少し、お前の魔力を捕捉するのに時間がかかった。悪かった」
何度か近くにいた気配がして呼んだんだが、という言葉でシシィは花の咲いていないガーデンでのことを思い出した。
あの、安心する音のような声。
あれはもしかして、ルビーブラッドの声だったのではないだろうか。
何度も何度も聞こえていたということは、その分だけ彼は自分のことを呼んでいてくれていたのだろう。この魔術はシシィが不安に陥ると発動すると言っていたので、心配してくれていたのかもしれない。
――顔はちょっと怖いけど、不器用に優しい人なんだ。
シシィは涙を拭いながら、微笑んでルビーブラッドを見つめた。
「ありが……とうござい……ます。元気、出ました」
「そうか」
「はい!」
ずっ、と鼻をすすって涙を完璧に拭った。泣いて終ってみて冷静になると、ちょっと気恥ずかしいものがある。
しかしながらルビーブラッドのほうは気にしてないのか、気を使っているのか、紅茶を一口飲んでのんびりとしていた。彼はなんだか食べたり飲んだりするのが好きそうに見える。口に含むものがおいしそうだからだ。
――私ももうちょっとのんびりしようかな……。のんびり……。
そこでようやく、シシィは思い至った。
「あ、あああああ!!」
「……驚いた」
「あ、すみません……。あの、これって私たち話してるけど夢なんですよね?」
「あぁ」
言葉少なにルビーブラッドは頷く。
「ああっ!ということは私、現実の方では依頼をほったらかして寝ちゃってる!」
「依頼中だったのか」
「……いえ……あの……逃げ出しちゃい、ました」
かなり恥ずかしい。ルビーブラッドはシシィの言葉に訳が分からず首を傾げたが、とりあえず依頼の邪魔をしたのでなければいいか、と(何せ強制的に眠らせてしまったので)深く追求することはしないようだ。大変ありがたい。
「あとでヴィトランさんとルウスさんに謝らなくちゃ……」
と、シシィがつぶやいた瞬間横でガタン!とすさまじい音がした。隣を見ると、あのルビーブラッドが紅茶を持ったまま立ち上がっていて、しかめ面と言うよりは恐怖におののいた厳しい顔つきで、シシィを見ていた。
言っては何だが、めちゃくちゃ怖い。
「ヴィトラン……?」
「ぴっ!」
地獄から届いたような低い声でつぶやいた後、ルビーブラッドは口元を手で覆った。
「気分が……」
「うわわっ、ルビーブラッドさん!?」
「……シシィはどっちだった」
シシィ。
その言葉にシシィは一瞬完璧にフリーズした。何故彼が本名を……と思いかけたところで記憶がよみがえる。
そう、彼には間違って本名を教えてしまっているのでこれで正しいのだ。知られてはいけないのは『闇色ハット』の名前だ。
しかしどっちだった、というのはどういう意味なのだろうか。
「気に入られたか、気に入られなかったか」
「……殴ったけど、怒られませんでした。喜ばれました」
「気に入られたな」
どういう確認法だ、とも思ったが当たっているような気がしたのでシシィは大人しく黙っておいた。
それより、この様子だとルビーブラッドはどうやらヴィトランと親交があるようだ。
そういえばBが彼は腕が立つ魔道具師だと書いていた気がするので、その関係だろう。
――そこで、シシィは気がついた。
いつもしかめ面。強い。美しい……のだろう。目つきさえ良ければ。
「……噂のつれないお客さんですか、ルビーブラッドさん」
「…………不本意ながら。腕がいいのを悔やむ」
そうじゃなかったらどうしていたのだろう、と思うととても怖かったのでシシィは考えることを放棄した。現実、彼は腕がいいらしいではないか。あの一流魔導師のルビーブラッドが認めているのだ。
「……嫌な予感がするな。今の仕事が終ったら、お前の町に寄ることにする」
「へ?」
「気に入った相手にはしつこい。シシィの町に居座るかもしれない、アレが」
「ヴィトランさんが?まさか……」
「昔、俺の後をついて回ったことがあるぞ、アイツ」
やるかもしれない。
とても残念なことに、やるかもしれない。彼なら。
「……依頼を引き受けたなら、もう起きたほうがいいだろう」
「あ、はい」
「…………教えるか?」
言葉は少ないが、ルビーブラッドが何を言いたいのかシシィには分かっていた。
きっと依頼で困っていることに見当がついていて、分からないなら教えてやる、と言っているのだろう。けれどシシィはその申し出に静かに首を横に振った。
「頑張ります。ルビーブラッドさんから元気を貰ったし」
「そうか」
「はい。それに頑張らないとおばあちゃん……祖母に顔向けできません」
「……その、祖母の名前は?」
きっと本名ではなくワークネームを聞いているのだろう。同じ過ちをしないように、シシィは慎重に祖母のワークネームを口にした。
「『パール』です」
「ああ……なるほど。どおりで魔力が似ている」
「おばあちゃんを知ってるんですか!?」
「お前の祖母はこの世界では有名だ。多くの魔術師が憧れている。俺も彼女に対しては欽慕の念を抱く」
ルビーブラッドの言葉に、シシィは胸が温かくなって嬉しさがこみ上げてくるのを感じていた。今の言い方は、ルビーブラッドが気を使って言ってくれたのではなく、本心からだということが分かる。
「しかし、パールは亡くなったと聞いていた」
「はい、鬼籍に入りました」
「……惜しい人を亡くした。それで、魔術を教わる時間がなかったのか」
「はい」
立ち上がりながら、シシィはそのことを残念に思う。最初はルウスに騙されるような形でなってしまった魔術師という職業だが、働いてみると案外楽しい。
もちろんその分苦悩も多いが、大丈夫な気がする。
魔術師になりたいと思えてきた今だからこそ、祖母に色々と教えてもらいたかった。
「手を」
「え、あ、はい」
差し出されたルビーブラッドの手のひらの上に手を重ねると、シシィの身体は夜の暗闇の中で輝き始めた。きっと、現実の方に帰してくれるのだろう。
光に包まれながら、シシィは背の高いルビーブラッドを少しだけ後ろにのけぞるような形で見つめた。
「これからは俺がいなくても、ガーデンに花が咲いているはずだ。アレはお前の魔力を捕まえ損ねていただけで、もう捕まえ損ねることはない」
「は、はい」
「ここから帰るときは眠ったらいい。あまり長居すると現実で疲れる」
「……あの!」
シシィの声に、ルビーブラッドは無言で続きを促す。
――これは、これだけは訊いておきたい。
「私は、祖母に恥じないような魔術師になれると思いますか……?」
「……お前が」
ルビーブラッドが口を開く。早くしないと――現実世界で起きてしまいそうだ。
それでも彼はゆっくりと、シシィに言い聞かせるように続けた。
「シシィ自身がその気持ちを忘れなければ」
――起きて、しまう。
「恥じないどころか、祖母を超える魔術師になれる」
目覚めるための光の中で、ルビーブラッドがかすかに微笑んでいた気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
目覚めると、見慣れている祖母の隠し部屋だった。
シシィは横になっていた身体を起こし、冷たい感触のする頬を拭った。こちらの世界でも涙を流していたらしい。
けれど、気持ちは眠る前と違って驚くほど穏やかだ。
「ルビーブラッドさん……ありがとうございます」
彼から貰った赤黒いペンダントにお礼を言って、最初言われたとおり誰にも見られないよう再び服の中にしまいこむ。
もう、祖母は亡くなって、いつも味方してくれる人はいなくなってしまった。
けれど。
元気をくれる人は――いる。
なら、大丈夫に決まっている。頑張れるはずだ。
と、そこで背後の階段がギシリ、と鳴った。
「……シシィさん」
「ルウスさん」
恐る恐る、といったふうに様子を伺うルウスが少しだけおかしくて、そしてとても申し訳ない。気を使ってもらっている。
おそらくヴィトランも困惑したことだろう。
「ごめんなさい、ルウスさん。私、頑張りますから見捨てないでください」
「シシィさん、見捨てるだなんて……!」
「決めたんです、私」
祖母のように尊敬されるような。
ルビーブラッドのように強く優しいような。
「魔術師に、なります」
驚いたようなルウスの顔に、シシィはやっと晴れ晴れした気持ちで微笑んだ。
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