人生は、日々戦いだ。
 いや、毎秒戦いかもしれない。
 例えば――こんなふうに。

「……そろそろ、観念したらどうです、ルウスさん……」
「……シシィさん……私にもプライドというものがあるんですよ」
「そんなこと言って……実は、怖いだけじゃないですか?その身体ですからね……」

 図書館休刊日、家のリビングにて。時間は午前10時。

「別に怖いわけじゃないです。けど、嫌だと言っているんです」
「それが怖がってる証拠じゃないですか」
「怖いと嫌では、気持ちの種類が違うんですよ」
「屁理屈はいいです!」

 シシィは、手にしている武器(・・)を握り締めた。
 今日は勝つ、必ず勝つ、絶対に勝つ。いつものらりくらりとかわされるが、今日はそういかない。やる気が違うのだ。何よりこれは、ルウスのため。
 シシィはさらに手に握っている――スポンジとシャンプーを強く握りしめた。

「今日こそはルウスさんを、洗ってみせます!!」
「洗ってみせなくて結構です!!」

 (おそらく)引きつった表情で叫ぶルウスに、シシィは決意固く仁王立ちしてみせる。
 別に、ルウスも身体を洗っていないわけではない。
 毎日お風呂に入ってはいるが、何せそこは犬の身体。どうにかこうにかお湯に浸かることは出来たとしても、確実に身体を洗うことは出来ていないはずなのだ。
 手伝おうとして風呂についていったこともあるが、頑なにルウス本人に拒絶されて結局洗えていない。
 ――ノミが湧いたら大変だもの!!
 その考えの方が大変失礼なものであるのだが、シシィは全く気がついていない。

「全然怖くないですよ!ほら、スポンジなんてりんご型です!かわいいです!」
「私は子供ですか。それに男性にりんご型スポンジを勧めるとは……」
「シャンプーだって犬用ですよ!さらさらです!毛並みがつっやつや!なんとバラの香りという素晴らしさです!これはもう、洗われるしかないですね!」
「花クサイのは勘弁してください」
「今なら乾かしたあと、ブラッシング付き!お得セット!」
「シシィさん、セールスマンみたいですよ」

 ありったけシャンプーについての素晴らしさを語ってみたが、どうにもルウスの心は動かなかったらしい。なんという頑固さだ。
 ――こうなったら、もう。

「実力行使です!!」
「くっ!!」

 逃げようとしたルウスの黒い体を捕まえて、シシィはずるずるとリビングから風呂場へと引きずっていく。ルウスの身体は大型犬ほどあるので、意外に重い。犬になるなら小型犬くらいにしてくれたほうが楽だったのに、と密かにルウスを犬にした人物を恨みながら、なおも抵抗するルウスを引きずっていく。

「いっ……ちょ、ルウスさん!しっぽを振り回さない……った!!観念しなさい!」
「嫌ですよ、私にも男としてのプライドが……!」
「いっつも犬であることを利用してセクハラするくせに、何をいまさら!」
「使えるものは使うのが、私のポリシーです」
「最悪です!その汚れきった心も洗ってやります!!」

 しかしその汚れ、たわしで洗わなければ落ちそうにない。
 意気込むシシィが奮闘し、風呂場との距離があともう少し、というふうになったところで、何故かいきなりルウスが抵抗を止めた。不気味だ。
 シシィはなおも油断せず、しっかりとルウスを捕まえる。

「……の……」
「何です?」

 ぼそり、とルウスが何か言ったのを聞いたがはっきりとは聞き取れなかった。
 シシィが聞き返すと、今度はルウスははっきりした声でもってしゃべる。

「シシィさんの、覗き魔」

 ――のぞきま。
 シシィの身体が、ピタリと完全に止まる。おまけに脳も思考停止だ。

「私は男だと言っているでしょう。そぉんなに、シシィさんは私の身体が見たいんですねぇ………?」
「は……」
「そんなに見たいなら……」

 ルウスが、黒い。
 いや、外見のことでなく。

「一緒に、入ります?」

 笑みが、黒かった。

「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああんっ!!」

 ――負けた。また、負けた…っ!!
 シシィは顔を真っ赤にしてルウスから電撃の速さで離れて、そのまま家の外に飛び出した。無理だ、ルウスと一緒にいられない。

「絶対おかしい……おかしい、こんなの!!」

 シシィは泣きながら叫んだ。


「普通は嫌がるほうが逃げるのにぃぃ!!」





********





 ワッフル一つ手に持って。
 青空の下、広場の真ん中にある噴水のふちに座って。

「……甘い」

 シシィは叫んで走った分の疲れを取り戻し中である。
 広場にはお昼どきだからか、人々はシシィと同じように噴水のふちに座るか、置いてあるいくつかのベンチに座りお弁当を広げている。今日は気候的にも外でランチを楽しむのに適しているだろう。
 シシィも弁当を作る時間か、もっと豪華な食べ物を買うお金を持っていればそうしていただろうが、生憎逃げるようにして家をでてきたため所持金が寂しい限りで、ワッフル一つしか買えなかった。
 家にさえいればもっとマシなものを食べれたのに、と思うと腹立たしい。まだルウスと顔を合わせて大丈夫な自信がない。
 ――ルウスさんのお昼ご飯は、遅くしてやるんだから!
 憤慨しながらワッフルを一口含み、

「あら、闇色ハット」

 という声を聞いて、ごくりと飲み込んだ。

「び、Bさん……っ!?」
「ごきげんよう」

 斜め後ろから話しかけられシシィが振り返ると、そこには相変わらず子供の姿でも艶やかさ溢れるBが、パンや野菜の入った紙袋を抱えるように持って立っていた。

「こ、こんにちは」
「珍しいわね、こんな時間に外にいるなんて」
「あ……今日は、図書館休みですから……」

 と言いながら、シシィの視線は紙袋の中に集中する。
 食べ物、だ。いたって普通。日用品。
 しかし見た目が天使と女神と小悪魔的なBが持っていると、ものすごく違和感があってとても戸惑う。

「あ、の」
「ん?何かしら」
「……Bさんも、ピーマンとか食べるんですね……」
「ええ、子供じゃないし食べれるわよ」

 その外見で子供じゃないと言われても。

「それで、闇色ハットは何をしているの?外で……ランチ?」

 Bはシシィの正面にまわりながら、シシィが手に持っているかなり貧相なワッフルを見て、不思議そうに首をかしげた。
 確かに、トッピングも何もしていないワッフルを何の戸惑いもなくランチと呼ぶには、悲しすぎるというもの。
 シシィはあはは、と曖昧に笑って誤魔化して(まさか犬にセクハラされて泣いて出てきたとはさすがに言えない)、Bに質問を返す。

「び、びびBさんはこれからご飯ですか?」
「ええ」

 と、そこでBは視線を宙で迷わせたあと、再びシシィを見て、また逸らし。
 ふふ、と艶やかに笑う。

「そうね……一緒に食べましょう、闇色ハット」
「へ?」
「ちょっとね、あそこに気になってたカフェがあるのよ」

 女2人でランチもいいでしょ?とかわいく艶やかに、こくり、と首をかしげながらお願いされたら、シシィに首を横に振る術はない。
 無心で頷くと、Bは花のような笑顔を浮かべてシシィの手を取り立たせ、広場の近くにあったカフェへと入っていく。カフェの中は、お昼時なので混んでいたようだが、オープンテラスの方にならシシィとBの座る席はあったらしく、店員の案内に従い席についた。今日は日差しが少し強いので、影である店内の方が人気が高かったのだろう。

「さぁ、何を食べる?」
「……え、あ、チキンのコンフィが食べたいかな……って!いやいや、Bさんだけ食べてくださいっ、私、そっその、持合わせがっ」
「大丈夫よ、私が払ってあげるから」
「い、いえいええ!そそそそんなっ!!」
「闇色ハット」

 Bは――にっこり、笑う。

「お姉さまの言うことは、聞いておきなさい……?」

 笑みが。
 笑みが、今日目にするのが2回目となる黒い笑みだ。

「……ご、ちそうに、なります」
「いい子ね。私はクリームコロッケにしようかしら」

 基本的にルウスもBもいい人なのだが、何故こうも笑みが黒くなるのか。
 端から見れば完璧に自分が奢らなければいけない立場なんだけどなぁ、とシシィが意識を遠く飛ばしている間に、Bはさっさと注文し、しばらくするとおいしそうな料理が運ばれてきた。Bのクリームコロッケは衣がサクサクしていそうだし、シシィの頼んだチキンのコンフィはやわらかそうである。

「さすがに、少し話題になっているだけあるわね」
「そうなんですか」
「ええ、貴女は丘の上に住んでるからあまり聞かないでしょうけれど、結構このお店は最近話題になってるのよ」
「ほあー……」

 確かに図書館は街の中とはいえ丘の上に建っているし、シシィにも友人はいるのだが友人たちも仕事を持っているので、丘の上の図書館まで来る時間がない。
 そうなると必然的に、街の情報は全然聞こえてこないのだ。年頃の少女としては少し、悲しい仕事環境であるが仕方ない。
 Bの店は街の中にあるため、一歩外へ出れば情報は聞こえてくるので羨ましい場所に建っていると言える。

「まぁ、食べましょう。いただきます」
「あ、はいっ、いただきます」

 肉にナイフをいれると、すぅと抵抗なく切れてシシィは内心驚いた。そのまま一口大に切ってフォークで差し、口へ含む。外はカリカリで中は柔らかくジューシー。
 思わず、笑みがこぼれる。

「おいしいです……」
「本当?コロッケもおいしいわ……ふふ、当たりね、このお店」

 Bも気に入ったらしい。このおいしい料理なら、しばらくすればもっと繁盛するようになるだろう。もしかすると行列が出来るほどに。

「なかなかに、スタッフもいい人をそろえているし」
「あ、そうなんですか?」

 Bはふふ、と微笑みながら視線でとある店員を指す。シシィがつられてその視線の先を確認すると、そこでは店員の青年が忙しそうに店内を動き回っていた。

「格好いいと思わない?」
「……は」

 Bのいきなりの言葉に、思わず持っていたフォークを落としかけたが何とか持ち堪えたシシィは改めて店内にいる先ほどの店員を見てみる。こちらのほうが明るくて、店内の方が少し暗いためよく見えないのだが、確かに顔は整っていそうな人だった。
 Bはコロッケにフォークを差しながら言う。

「思わない?」
「あ、いえ、あのその、お、おお、思い、ますけど。あの、そ、そういうところもBさんはしっかりチェックなさる、んですね」
「ふふ」

 笑うBを見てシシィは不意にとあることを疑問に思い、彼女の顔をじっと見つめる。
 子供の幼さを前面に出しているのに、艶やかで美しい顔。

「Bさんなら、そ、そんなチェックをしなくても男の人のほうから近づいてきてくれるんじゃないですか……?」
「そんなことないわよ」
「え、だって、Bさん、今の姿でもキレイなのに……!大人の姿ならもっと美人さんに決まってます!」

 シシィの偽りなし、100%本音の賛辞にもBは慌てる様子もなく、ただ優雅にシシィに「ありがとう」と微笑みながらお礼を言っただけ。その一連の動作に、大人の女性の余裕を見た気がして、シシィは鶏肉にフォークを突き刺したまま固まった。
 その間もBはもくもくと優美な動作でコロッケを切り分け、口に運んでいる。

「たった一人から愛されれば十分」
「……へ」
「それ以外はいらない。愛してる男性に愛されれば、女は幸せなのよ」

 ――B、さん、それって。

「そそそ、そういう人がいるってことですかっ、Bさんにはっ」
「さぁ、どうかしら?」

 くすくす、とBに微笑まれて、全力直球な質問はあえなくひらりとかわされた。
 ――見た目は子供だけど、やっぱりBさんって大人なんだぁ……。
 顔を少し赤く染めながら、シシィは突き刺したままだった鶏肉を口にいれる。こういう話は興味がないとは言わないが、少し苦手分野だ。友達ともあまりこういう恋愛話のようなものはしなかった。
 なんとなく気恥ずかしさから味覚が麻痺しているような気もするが、それでも料理はとてもおいしかった。

「話は変わるんだけど、闇色ハット」
「はい?」

 ごくん、と噛んだものを飲み込みながらシシィはBを見つめる。彼女は少し身をシシィのほうへと乗り出して、内緒話をするように少し声をひそめたが、周りの人たちの声が大きいので、よく注意していないと聞き逃しそうな声だった。

「ちょっと、お願いがあるの」
「な、な、何で、しょうか……?」
「『プラントリー』を作ってくれないかしら」

 プラントリー。
 と、言われても、シシィには何のことか分からない。きょとんとした瞳でBを見つめると、彼女もまたきょとん、とした後にハッ、と何かに気づき口元に手を当てた。

「あのね、『プラントリー』っていうのは魔術薬の名前なの」
「あ、ああ……そうなんですか」

 魔術薬、と聞いてシシィは「なるほど」と頷きながらも――自分の胸の内にモヤモヤしたものが現れ始めたのを感じた。
 ざわざわと、不安をかきたてるようなもの。
 ――何だろう……。
 胸の中で、波紋が広がっていく。

「全然急ぎのものではないんだけど、闇色ハットが作れるようなら作ってもらおうと思って……」
「あの、でも、わ、私そんな魔術薬、聞いたことも見たこともなく、て」
「ええ、分かってるわ。でも、一応初級の魔術薬だから貴女もすぐに作れるようになるわよ。大丈夫」
「は、はぁ……」

 Bは微笑みながら励ましてくれたが、シシィは最初の頃のようには頷けない。
 ――プラントリーって、どんな魔術薬、なんだろ…。
 そこからして、もう分からない。以前、依頼をこなしたことで沈殿していた不安が、またかき乱されて胸の中いっぱいに広がっていくような気がした。
 ――本当に、大丈夫なの?
 もしかして、Bはその魔術薬が早急にいるのではないだろうか。だからこそ魔術師である自分に頼ってきたのに、まだ自分はその魔術薬の名前すら知らないでいる。

「……」

 ――私は、魔術師を名乗るのに、ふさわしい技術を持ってない……。

「闇色ハット」
「え、あ、はい」
「本当に気にしないで。さっきの話は予約程度に思っていてちょうだい?作れるようになったら届けて欲しいだけよ」
「は、い……」

 シシィは、どこか遠くを見つめながら料理を口にする。
 おいしかったはずの料理。
 それは、砂のような味気のないものに変わっていた。

 ――私は、魔術師でいて、いいの……?

「……そういえば」
「あ、はい?」
「ポチ、元気?」

 ポチ=ルウス。
 ふと時計を見ると、1時も過ぎている。

「ああっ!」
「?」
「いいい、いえ!なんでもないですっ、元気です!!」

 ――どうしよう、ごはん……!
 すっかり忘れていたルウスの昼食をやっと思いだし、先ほどまでの不安が吹き飛んでしまうほどシシィは焦る。さすがに、そろそろ帰らないと、昼食を作って出す頃には2時になるかもしれない。
 しかし。

「どうしたの、闇色ハット」

 ――ごはん代、出してもらっている以上、勝手に帰れないし……。

 結局、腹をすかせたルウスが昼食にありつけたのは、おしゃべりするBと何とか折り合いをつけたシシィが帰った2時。
 の、30分後だった。