聞こえますか、
聞こえていますか。
私の声はどこですか。
何が聞こえているのか、分からない。
********
魔術とは、学ぶことが多すぎる。
学校の試験前夜であってもこんなに詰め込み勉強をした覚えはない、とシシィは密かに心に思いながら、午前10時現在、図書館のカウンターにて魔術書に目を通していた。
暇があればとりあえず魔術薬を作ってみるが、それでもまだまだ作っていない魔術薬のほうが多い。
作っても作っても追いつかない状況に、シシィは焦りを感じていた。
「……ルウスさん、これ、後回しにしてもいいと思います?」
これ、と指さしながらシシィは隣で床に伏せていたルウスにとある魔術書の1ページを開いて見せた。見るからに理解がしにくそうなところだったし、実際読んでみても理解がしがたいので、後回しにしたかった。
何よりも先にモザイクを解く魔術を覚えたいのだが。
「へ?でも、この後が分からなくなるでしょう?」
「それは……でも」
ルウスの言うとおり、魔術は順番に覚えていかなければ後々理解できない場所が必ず出てくる。それはシシィも十分理解しているのだが、こんなにトロトロと魔術を覚えていたのでは、ルウスをもとに戻せる日は遠くなる。
日々の忙しさで忘れそうになるが、彼は依頼人だ。
――早く。
早く、治してあげなければ。
「シシィさん」
「は、はい!」
ルウスの真剣な声に、シシィは思わず姿勢を正して彼を見つめた。
銀色の瞳が、ちらりと光る。
「焦る気持ちは分かります。ですが、きちんと魔術を学んでください。私はどれだけ時間がかかっても、シシィさんの作る薬を待ちますから」
「……」
「……まぁ、シシィさんが魔術師になりたいと思っていないのは分かっていますが」
「いや、その」
違う、と言いかけて慌ててシシィは自分の口を覆う。依頼を2回受けて、それ以外でも魔術薬を作ってきて、少しだけだが魔術師と言う仕事にも興味が持ててきた。
何せ祖母がしていた仕事。こういうふうに無理矢理ではなく、祖母から学んでいたなら好きになっていたかもしれない、と思うくらいになっているのだ。
しかし、魔術師になりたいのか、となるとまだ悩む。
「シシィさん?」
「あ、は、いえ。うう、その、あははー」
とりあえず、笑って誤魔化しておく。ルウスに魔術師になりたい、と言うにはシシィには勇気が足りなかった。彼にそれを言うのは、何故か慎重でなければいけない気がするのだ。
彼が依頼者だからだろうか。
ルウスはシシィの曖昧な笑みに首をかしげながらも、それ以上は深く追求しないでいてくれた。
――やっぱり、ルウスさんってお父さんみたいなんだよね。
彼が10代だったらどうしよう、と思わないでもない考えだが、シシィにはそういうふうにルウスという存在を感じている。
「とりあえず、魔術は理解し損ねると大変ですよ」
「はい……」
話は戻って、やはりその結論。
数学なども一度理解し損ねると、どこが分からないのか分からなくなって、そのまま泥沼にはまり、結局数学という学問自体が嫌いになる。
しかしシシィは、ルウスを人間に戻すという使命がある以上、嫌いになって終わり、諦めましょう、というのはあってはいけないことなのだ。
地道にやるしかないか、とため息をついたとき入り口の方からカツン、と足音が聞こえてきた。
「!」
シシィとルウスは慌ててそちらを見る。
図書館の入り口には水色の髪をポニーテールにして、少女らしい花柄のブラウスとピンク色のスカートを着ている、12、3歳ほどの女の子がどこか所在無さげに佇んでいた。
いつからいたのか、気づかなかった。
――もしかすると、今の話し声を聞かれていたかもしれない。
端から見ればルウスは犬であるため、しゃべっているところを見られたら面倒なことになる。冷や汗を流しながら2人は少女を見つめた。
「あ、の」
シシィがしどろもどろで話しかけると。
「あみいろあっとさんはいますか?」
「……へ?」
――あみいろあっと。
もしかして『闇色ハット』のことだろうか、とシシィが固まっていると彼女は忌々しげに耳を押さえたあと、シシィに対してメモを取るような動作を示した。
紙と、ペン。
もしかして、耳が聞こえないのだとすると。
――筆談をしたいんだ。
シシィは慌ててカウンターに置いてあったメモ用紙とペンを掴み、入り口に立ち尽くす彼女の小さな手に握らせた。
近くで彼女を見ると、目の下にははっきりとクマができていて、肌もボロボロだ。シシィはそのことに内心驚いた。自分より小さな女の子が、疲れきってこの世の不幸を全て請け負ったかのような表情ををしている。
とてもじゃないが、普通の様子ではない。
そんなシシィの驚きに満ちた表情には気づかず、少女は握ったペンでさらさらと言葉を書いた。
『闇色ハットさんは、あなたですか?』
その書かれた言葉にシシィは少し大きめに頷く。
『闇色ハット』。
その名を求めてきたからには、彼女もまた依頼人なのだろう。
『Bという人に言われて来ました。紹介状です』
差し出された真っ黒な便箋に、Bという署名を見つけ確認する。確かにBからの紹介状のようだ。またシシィがコクリ、と頷くと彼女はさらに言葉を書いた。
『助けてください、私は――』
シシィの目が、字を追う。
『耳に雑音が聞こえるんです。その雑音以外何も聞こえないんです』
――雑音?
よく、分からない。
混乱しながらも、シシィはとりあえず少女を読書スペースにあるイスまで案内して座らせ、カウンターに置いてある紅茶(以前の依頼後から祖母のブレンド紅茶を置くようにしている)をカップについで彼女の前に差し出した。
その間にルウスもシシィの後をついて、カウンターから出てくる。
一口紅茶を飲んだ少女は、ほぅ、とため息をついたあと、先ほどよりは落ち着いた様子でシシィを見つめた。やはり緊張していたのだろう。
彼女が紅茶を飲み終えるのを待ってから、シシィは話しかけた。
「えっと、それで」
と言いかけて、留まる。
事情はまだ飲み込めていないが、さっき彼女は『聞こえない』と書いた。
ならこちらも、必然的に書くことで話さなければいけない。シシィは少女から紙とペンをいったん返してもらい、紙に言葉を書く。
『落ち着いた?もう一度、詳しく話してもらえる?』
書かれた言葉を見た少女は、シシィから紙とペンをまた受け取った。
『1週間前くらいから、耳の中で雑音が聞こえます。ガザガザというような、頭が痛くなるような音です』
『どうして、聞こえないってさっき書いたの?』
『その雑音が大きすぎて、他の音が届かないんです』
なるほど、とシシィは書かれた言葉を見て頷いた。例えるなら、大きな祭りの中にいるようなものなのだろう。誰かと話そうとしても、例え大声であってもなかなか声が通らず話しが伝わらない。自分の声もかき消されるから、発音が曖昧になる。
少女はさらに言葉を書き加えた。
『いつも、聞こえます。寝るときも聞こえるので、あまり眠れません』
それで、目の下にクマが出来ているのだ。
眠れないのは辛い。シシィはかなり睡眠をとる人間なので、その辛さがよく分かる。
睡眠のリズムが崩れると身体はだるくなるし、頭はボーっとしてしまう。
ぎゅ、と唇をかみしめて、シシィは彼女に質問する。
『1週間前……その前日か、それ以前に変わったことはなかった?どんな小さなことでもいいから教えて』
少女は少し時間を空けて、回答を書いた。
『自信はないけど、変わったことはなかったと思います』
やはりそう、変わったことに遭ったり覚えたりはしていないか。
内心残念に思いながら、シシィは次の質問に移る。
『どこかに行ったとかは?』
『ありません』
と、彼女は書いたところで、しばしペンを止めた。そしてその後何かを思い出したらしく、シシィに向けてこう書いた。
『雑音が聞こえるようになるまでに、一度大きな耳鳴りが聞こえました。その音は街の中で聞きました』
書き終えた後、彼女はペンを持ったままシシィを心配そうにしばらく見つめて、その言葉の下に震える手で書き加えた。文字もどこか、不安げな印象を受ける。
――不安、なんだ。
『助けてくれますか?』
書かれた言葉を、シシィは重い気持ちで見つめる。
助けたい。
けれど、できるだろうか。今回は情報が極端に少なくて不安だ。Bが仲介してくれた依頼なのでシシィの持っている力量以上の依頼は持ってきていないだろう、と分かっているがシシィは相変わらず心配だった。
最初の依頼を、受けたときのように。
「…………」
しかし、そのときと違ってシシィは知っている。
――あの、笑顔。
依頼を成功させたときに、依頼人が見せてくれる笑顔をもう知っているのだ。シシィにとってあの笑顔はとても魅力的で、大好きだ。
――ああ、そうだったのかな……。
シシィはとあることを思いついて、心の中で頷いた。
祖母が魔術師をやっていた理由が、これであったなら。
『助けるよ。貴女のこと、必ず』
――私も、共感できるのに。
********
時計の針は、午後2時を指した。
シシィは一度昼食をとりに自宅へ戻った際、祖母の隠し部屋から『雑音の聞こえる耳』に関する情報が載っていそうな魔術書をありったけ図書館の方に運んだ。
今のこの時間、調べるのはめぼしいもので構わない。
図書館を閉めるわけにはいかないので、ただこうしてめぼしいものを読んでいるだけであって、閉館時間になり図書館を閉めて自宅に帰ればきちんと隅々まで調べる気でいる。
「……雑音」
「シシィさん、見つかりました?」
「あ、いえ」
そういえば、あの少女には結果的にルウスとの話は彼女に聞こえていなかったようだ。が、これからはもう少し慎重になるべきかもしれない、とシシィは改めて思う。
今までは軽い話をずいぶんしてきた(誰かと喋っている方が、シシィとしては寂しくなくていい)のだが、冷静に考えなくとも犬と会話をしているのはとても奇異に映ることであるだろう。しなくてもいい話をここでするのは、やはり考えものだ。
しかし、今はルウスの意見も聞いておきたい。
「情報が少ないですか」
「ええ……まぁ。ルウスさんはこういう症状って耳にしたことありますか?」
シシィの質問にルウスは唸りながら答える。
「もう少し難しい症状なら聞いたことありますけれど」
「どんなのです?」
「耳の中から砂糖が出てくるとか」
「いっ!」
それは何と言うか――気持ち悪い。
だいたい、耳の中に異物が入っているという状態は気持ち悪いものだ。ある意味精神的に一番辛いかもしれない。
そういう依頼人が今後現れたら、必ず早く治してあげよう、と考えたところでシシィはブンブンと頭を横に振る。
違う。違うだろう。
――私は魔術師になるんじゃなくて、図書館の管理人がよかったはずなのに。
いつのまに、今後来るかもしれない依頼人のことを考えるようになったのか。
「ぬぁぁぁ!」
「!? シ、シシィさん……?」
おかしい、毒されている。
それは、人の役に立てるのならシシィだって嬉しく思う。そもそもこういう、裏方や縁の下の力持ち的な仕事の方が、性格的に合っているのは自覚がある。
――拒むのは、どうして?
そういう自覚があるなら、魔術師はうってつけの仕事なのだが、どうしてもシシィにはもう一歩進む勇気が出ない。何が足踏みをさせているのか。
「うぁぁ、だからそうでもないんだって……!」
「シシィさーん……?」
話がずれてきている。
とにかく依頼を一回体験したことと、ここ最近ずっと休まず魔術薬を作ってきたから頭が疲れているのだろう。今後のことは後から考えるとして、今はまず目先にある依頼のことを考えるべき。
シシィはうなだれていた頭を上げて、魔術書に再び目を通した。
以前の依頼と違って、情報が少なすぎる。地道に探していくしかない。
「…………」
シシィは自身の特技である速読のおかげで、他の人より本を読むのは早いがそれだけだ。暗記力がすごいわけでもない。物語を読むだけなら話をつかめればいいので速読は役に立つが、魔術になるとそうもいかない。
理解し、もしくは望む項目を思い出して見つけるのは、速読とは別の分野になる。
有益な情報は書いておらず、役に立たなかった魔術書を閉じて、シシィがため息をついたとき。
――コツ、コツ。
靴音が、図書館内に響いた。
「あの……」
図書館の入り口に、珍しく人が立っている。女性のようだ。
背が少し高めで、シャツにズボン。大人な感じのお姉さんのような印象を受ける。
今日は珍しく人がたくさん来る日だなぁ、と思いながらシシィは微笑んだ。
「本を借りに来られた方ですか?」
「あ、いえ」
「ああ、読まれに?読書スペースはあちらです」
「い、いいえ。違うんです」
――違う?
シシィは首を傾げた。ならば彼女は何をしに来たと言うのだろう。
ルウスも不思議に思ったらしく、珍しくカウンターに手をかけひょこりと顔を出して彼女を見つめている。
「あの」
彼女はこちらを見つめたまま、言う。
「『パール』という方はこちらにいらっしゃいますか……?」
シシィと――ルウスが固まる。
『パール』。その名前は、祖母のワークネームだ。
――この人、誰…?
その名前を知っていたのは、ルウスとBだけ。つまり魔術に関わっている人だけで、一般の人が知っているはずがない。
ということは。
「……魔術関係の」
「はい」
彼女は頷いて、
「魔術で、私を治してほしいんです」
と、言った。
「……は?あの、魔術関係の方、ですよね?」
「え!?いえ、あの、私は全然そんなのじゃなくて!依頼をしにきたんです!」
そんなのじゃない?依頼?
ますます、意味が分からない。一般人であって、『パール』の名前を知っているはずがないのだ。知られているくらいなら、真っ先にシシィ自身が知っている。
シシィは呆然としながら、彼女に告げた。
「『パール』、は、鬼籍に入りまして……」
「ええ!?」
「あの、魔術関係の依頼でしたら私が……」
隣のルウスが、カウンターの影に再び戻り、その影でシシィのスカートのすそを引っぱっている。何がしたいのか、何が言いたいのかシシィには全然伝わらない。
だから、シシィはそのまま続ける。
「私が、お受けできます……」
その言葉に、何故かルウスが固まったのを感じながら。
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