『ディアッソ・ソカルナ 吐き出せ不純なる物!』
部屋の中が一瞬明るくなってすぐに静まると、シシィは閉じていた目を恐る恐る開いて、足元にある魔術薬の出来栄えを確認した。
色は黄色。成功だ。
材料、と書かれてあるからには、まずコホルク薬から作らなければならなかったので、シシィは2週間前と同じやり方で魔術薬を作ったのだが、相変わらず目分量で量って作っても狂いはなかったようだ。
しかしながら、彼女は思う。
――まさかもう一度作ることになるなんて。
もしかすると、これからのために魔術薬は暇なときに作り置きしておいた方がいいかもしれない。Bが今回のみで依頼を持ってこなくなる、ということは非常に残念で悲しいことだが、現時点では考えにくい。
「……ふぅ」
――魔術自体が嫌いなわけじゃないけれど。
魔術も勉強し始めると、正直に言えば面白い。面白いが、それを仕事にできるかと言うとまた別の話だとシシィは思う。Bとルウスの話を聞く限り、祖母はとても優秀な魔術師だったということが容易に分かった。その跡継ぎとして選ばれたと言われれば誰だって二の足を踏むのではないだろうか。
つまり、要するに。
――自信が、ないんだよね。
祖母にどうして自分を選んだのか、と聞けたならどれだけ心が軽かったか。今はおそらくBがシシィの事情を考慮してくれて、比較的簡単な依頼をまわしてくれているのが分かるのだが、初級が終わって、中級でつまずいたらどうしよう、という考えが頭の隅に常にある。
中級でつまずかずとも、上級で、かもしれない。
つまずいたときに教えてくれる人は、周りに誰もいない。
彼女は独学で勉強している、と言っていい状態なのだ。
思わずシシィがため息をつきながら魔術薬に見入っていると、後ろからルウスの急かす声が聞こえてくる。
「シシィさん、今日はその魔術薬だけじゃないんですよ」
「う、わ、分かってます」
しかしながら、実は薬を作るのは一つだけでも疲れる。のに今回は後もう一段階踏まなければならず、思わずシシィはため息をついた。
おそらく作る途中で魔力を無意識ながらに使っているか、もしくは『何か』の拍子に吸われているのだろう、魔力を使うということは体力に直結することらしく、シシィは初めて魔術薬を作った次の日なかなかベッドから起き上がれなかった。
猛烈に体が睡眠を欲する、その時の感覚を思い出して少し憂鬱になる。
「……分かってます」
が、あの少年はこの疲れなど気にならないくらい不安な日々を過ごしてきたのだ。
やると言ったからにはやらなければ。
――何より、助けてあげたい。
シシィは再び机に戻って、手に持っているコホルク薬の入っているビーカーを置いて別のビーカーを取る。
「真水が100cc……にドウォン草を……そのまま入れる?」
ドウォン草、というのは葉っぱの形がハート型のような、変わった薬草である。それをすりつぶさずそのまま入れろと書いてあるのだが、本当にいいのだろうかとシシィは不安になる。
溶けるのだろうか。それとも溶かさなくていいのだろうか。
思わずルウスを見てみるが、彼に解るわけもなく。
「……どうにかなるかな」
書かれてあるとおり、真水にドウォン草を入れてみた。
すると、
「うわ!」
みるみるうちに、草が溶けてしまった。
残っているのは緑色の液体のみ。
「どうにかなるんだぁ……ええと、これに水晶くずを……」
50グラム、とまた彼女は目分量で水晶くずをつかみ、液体の中へ。水平にガチャガチャと揺らして、じ、と中の様子を見てみるが特に変わった様子はない。
今のところ失敗はしていない……だろう。
そう予測して、最後にコホルク薬をビーカーの中に入れてかき混ぜると緑色と黄色が混ざり合わさって――赤に、なった。
「……絵の具の色の常識は通じないんですね」
「まぁ、魔術ですから」
魔術だかららしかった。
とりあえず調合できた魔術薬のもとは床に置いておいて、今度は魔法陣を描かなければならない。魔術書を読む限り今までの魔法陣とは図柄が違うようだ。
――魔法陣を描くときが、一番魔力を持っていかれる気がする。
その感覚が嫌で、わずかに顔をしかめながらシシィはロッドを手に取った。
『我は有為の門扉を創る者 全てはここから始まりここに終わる』
パァ、と床とロッドが光り始め、ロッドがオレンジ色に染まっていくのを見ながらシシィは呪文を続けた。
『荊棘の中に安定と包囲あり 四囲を見つめる荊棘 内に造詣を秘めたるものよ 真理の歪みを我に示せ』
床に光りながら浮かび上がった魔法陣は、今まで描いてきたどんな魔法陣よりやはり図柄が複雑になっている。どうやら魔法陣は難易度が上がると形が複雑になっていくらしく、呪文も長くなるようだ。
そんなふうに難易度が上がった魔法陣でも何とか正常に働いているようで、光が魔術薬を包み込み、空気が動き始める。
風が、起きようとしている。
『リアド・フォレンオ 透過せよ四季の物!』
ごぉっ、というすごい音とともに風が魔法陣の中で渦巻く。
「わぷっ!?」
一瞬の風の後、魔法陣の中に見えたのは透明な魔術薬。
「……赤じゃなくなっちゃった」
慌てて魔術書を確認してみたが、どうやらこれでいいらしい。魔術薬の入ったビーカーを持ち上げて軽くふってみると、少しとろみのついた液体がゆらりゆらりと揺れる。
薬の名前は、アイサ薬。
これを目に入れることで、ステンドグラスの瞳が治る。
********
「……これが、薬?」
改めて図書館を訪ねてきた少年の目の前に置いたのは、先が細く尖ったような形の小瓶。目に薬を差し込むのに一番適している形だ。
恐る恐る手を伸ばして、少年はその小瓶をつかんで中身を振ってみる。わずかに揺れたその透明な液体は少しだけトロリとしているようだった。
その魔術薬を少年は不安げに机と戻す。
「……治る?」
「し、心配……だよね……」
「ちょっとだけ怖いかも」
それはそうだろう。自分だって、得体の知れないものを「薬です」と渡されてもそれを飲んだりできるかと問われれば、間違いなく「NO」と答えるに決まっている。
なおさら、彼はシシィよりも幼い。不安で当たり前だ。
シシィは机に置かれた魔術薬を手に取り、少年の瞳を見つめながら微笑んで言う。
「私が、お手本見せるね」
この薬は特にだれが目に入れても害はないらしい。ただ、瞳をステンドグラスにする成分をなくしてしまうだけだからだ。
顔を天井に向けて、シシィは1滴、目に魔術薬を落とす。
――あたたかい涙を落とされたみたい。
魔術薬は手で触るとひんやりとしているのに、目にいれるととてもあたたかった。
ポツポツ、と涙がスカートの上に零れ落ちてしまう。
涙、が。
「……闇色ハットさん、痛い、の?」
「え、えと、違うよ。これがこの魔術薬の効用……なの。涙で目の中のステンドグラスを追い出しちゃうの」
「……そっか」
少年はつぶやいて、自分の足元を見るようにうつむいてしまった。
やはり怖いのかもしれない。もう少し探せば目薬じゃなくても何かを食べて治せるような魔術薬が見つかるかもしれないが、彼の右目がそれを待ってくれるだろうか。
何か手立てはないか、と頭をフル回転で活動させていると、やがて少年が決心がついたかのように机の上に置かれた魔術薬を手に取った。
「右も左も?」
「う、うん。どっちもいれてね」
彼の瞳はどちらも症状が出ているので、両方の目に入れなければならない。
彼はこくり、と頷いた後、天井を仰ぎ。
緊張した面持ちで――瞳に魔術薬を落とした。
「あ……あ、ああ、あああ・あ!」
「!?」
初めに変化が起きたのは、左目。
彼のステンドグラスの瞳から、虹色の涙が溢れてくる。
右目も遅れてわずかに七色が混ざった涙が少年の頬をつたって、赤いじゅうたんの上に落ちてしみこむ。
「色が……抜ける……!色が抜ける!!」
ぱち、と瞬きをした瞬間にこぼれ落ちた涙が最後の1滴。
ゆっくりと顔を上げた少年の瞳は、どちらもステンドグラスには到底結びつかないような秋の枯葉色の瞳だった。
不自然に、意図的に作られた芸術品のような色ではない。
自然の色。
「見える……」
少年は自分の手を掲げながら見つめて、つぶやく。
「僕の腕の色だ……服も、風景も……」
ぐるり、と自分のいる世界を確かめて、少年は――笑った。
「ありがとう、闇色ハットさん!」
「え、ええと、そんな」
「僕の好きな色を、取り戻してくれてありがとう!」
その言葉を聞いたシシィは、顔を赤く染める。
――この瞬間は、とても素敵。
最初、喉が渇く少女を助けたときもお礼を言われて、シシィはなんとも言えない不思議で嬉しい、おそらく幸福と言うべき気持ちを味わった。
この少年もそう。彼が眼帯をして目の前に現れたとき、その表情はおよそ彼くらいの年代の子供がするようには見えない、苦悩に満ちたような表情だった。なのに今はとても幸せそうに、かわいらしく微笑んでくれている。
それが、嬉しい。とても嬉しいのだ。
頑張った分だけこの気持ちは大きくなる。
ただ。
その分だけ、次にあるだろう依頼に対する不安も大きくなる。
********
「ひゃめれす……もほーげんかひれす。ねまひゅ」
「何言ってるか分かりませんよ、シシィさん」
夜。シシィは7時という時間にもかかわらず、もう既にベッドの中に入ろうとしていたので慌ててルウスが止めに入った。いくらなんでも早すぎるし、彼女はお風呂にこそ入ったがご飯を食べていないのだ。若いからといってもそれは体を壊す。
ルウスに構わず、ベッドの枕に顔を押し付けるようにもぐりこんだシシィはドアを指し示して「ごはんはオレンジケーキを食べてください」といった意味をろれつの回ってない口で言った。
「きっひんにやひておひてまふ」
「シシィさん、どんなに疲れててもご飯は食べるべきですよ、さぁ起きて」
「やですー、ねむいんですー」
どうやら本当に疲れているらしかった。
普段から彼女は早寝早起きの習慣がついているが(何せ就寝時間が夜の9時で起床時間が朝6時なのだ)、こんなに早い時間から眠ることはしなかったのに。彼女はどうやらたくさん寝なければダメなタイプらしい。
補足を加えるなら、彼女が早く寝るのは夜遅くまで起きているのが怖いからなのだそうだが。
昔、親戚の大人に「夜遅くまで起きているとやってくる幽霊」の怪談話を無理矢理聞かされ、失神したとき以来彼女は夜9時以降の人生は知らないのだ、と本人からこの前聞いた。彼女の人となりが大変分かるエピソードだ。
「分かりました……オレンジケーキをここに持ってきますから、せめて一口でも食べてください。いいですか、寝ちゃいけませんよ」
「ぬぅ」
「変な生物になってますね……」
沈みかける意識を必死に拾いながら、シシィは心の中で「変な生き物って何ですか」ととりあえず文句を言っておいた。が、ルウスには届いていないだろう、確実に。
「……ほんと、ちょっと疲れてるんです」
「……」
「ルウスさんは、ちゃんと食べてくださいね……オレンジケーキは切ってありますから」
「シシィさん、身体だけでなく、精神的にも疲れているんじゃないですか?」
ぼんやりとした頭でも、その言葉に隠された意味を感じ取りシシィは泣きたくなった。
彼は言っている。
悩みがあるのですか、と。
――悩みはあるよ。
けれど残念ながら「それ」を魔術師ではないルウスに言うのは卑怯だし、心配してくれているのは嬉しいが彼に言ってもきっと解決はしないだろう。
余計な気遣いをさせるのはずるいだけだ。
もっとも、気付かれてしまった以上「ずるい」のとは変わらないかもしれない。
シシィは枕に顔をうずめるようにして、首を横に振る。
「疲れただけです」
その言葉に、ルウスがどんな表情をしたのかシシィは見なかった。
「……そうですか。それなら今日は、私はリビングのソファで眠ることにしましょう。今日はゆっくり眠ってください」
「……はい。ありがとうございます、ルウスさん」
ルウスの声は、いつもより心なしか優しかった。異性としての優しさというより、彼の優しさは「父」のような鷹揚さがある、安心できるものだ。
ルウスがテーブルに前足をかけるように立って、そこに置いてあるランプの火を消してくれた。部屋は暗闇に包まれるかとも思ったが、夏が近いせいなのか外はまだ微妙に明るく、トテトテ、とどこかかわいらしい足音を聞きながら、シシィは目をようや
くつむる。
ベッドの中、それも顔に近い場所で何かが光ったような気がしたが、シシィはもうまぶたを上げる力すらなかったため、気のせいだと思うことにした。特に嫌な感じはしなかったのも大きな要因だった。
「……ルウスさん」
「はい?」
彼が完璧に部屋の外に出てしまう前に、シシィは彼にぼんやりとした声をかける。
「明日は、夕食がんばります……」
「……楽しみにしていますよ」
微笑んだ声を最後に聞いて、シシィの現実世界はそこで途切れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
花の咲いていないガーデンが、目の前にある。
というより、その中に立っているといったほうが正しいかもしれない。
――どこ、ここ……。
シシィが立っているのは、木々や葉に隠されるように存在している細いレンガの小道の上で、右を見ても左を見ても花がついておらずシシィより背が高い生垣しか見えない。
そんな生垣がただでさえ狭そうな小道を両サイドから圧迫しているので少し息苦しいし、心細い気持ちになる。
――違う。
心細いのはここが夜だからだ。
あたりは夜、空を見上げると大量の流れ星が輝いていた。
線を残すように輝いては消えて、というそれを空を覆いつくすほどの星々が一斉にするのを見るのはとても美しく幻想的だ。 しかし。
――……あれ、これって流星群……?でもそんなのがあるって噂聞かなかったのに。
そこでシシィはやっとこれが夢であることに気がついた。
夢の中でこれが夢だと気がついたのは初めてで、彼女は少し不思議で、楽しい気持ちになる。
夢だと分かれば、戸惑いも多少消えた。
前方で道が右へと緩やかにカーブしていて、先が見えないので動くことを恐れていたのだが、幸いこのガーデンには外用のランプが備え付けられているので、道が分からなくなることはなさそうだ。
シシィは細いレンガの道を進んでいくことにした。
――あ、アーチだ。
カーブを曲がると、少し先にアイアン製で植物が絡まっている門扉付きアーチを見ることが出来た。そのさらに先には広く円形なスペースがある。
門を開けて、そのスペースに一歩入ってみた。
相変わらず高い生垣がぐるりと周りを囲い、その囲われた四角いスペースの中には花が咲くだろう植物や、ミントなどのハーブが素焼きのプランターに植えられていて、大人2人が座れそうなブランコも置いてあった。さらには中央に小さな噴水もあり、地面には石畳で出来た道が延びていてその脇に背の低い草が植えられている。
これもおそらく花が咲くものだろう。石畳の道以外はきれいに揃えられた芝生が生えていて、スペースの片端にはアイアン製の白く繊細そうなガゼボがそこにあった。
ガゼボとは四方の柱だけで壁はないが屋根のついている簡易的な建物で、よくガーデンなどには休憩所として置かれてあることが多い。
――どこかで、見たことあるような……。
この風景を、シシィは頭のどこかで覚えているようで覚えていない。
でも確かに、懐かしいような、憧れるような風景だ。
「――――――」
「……え?」
不意に『音』が聞こえた気がして、シシィは辺りを見渡してみる。
が、誰もいない。
「――――――」
音、というよりは声なのかもしれないが言葉に聞こえない。
なのでシシィにとってはその声は『音』でしかなかった。
何となくその音はガゼボの方からしている気がして、彼女はそこに近寄り中に足を踏み入れた。そのガゼボの中は、ガーデン用の丸いテーブルが一つ、同じくガーデン用のチェアが二つ。
テーブルの上にはティーポットが一つとティーカップが二つ置かれてあった。カップの中に紅茶は入っていない。
「――――――」
音が聞こえる。
ここは懐かしく思えて美しい。
涙が出てきた。
シシィはこぼれた涙を拭いながら静かに近くにあったチェアに座る。
「―――」
「……おばあちゃん」
意味なく漏らした言葉で、シシィはハ、と気がついた。
――そうだ、この風景は昔おばあちゃんに見せてもらった絵本の風景。
祖母が気に入っている、と言った絵本を、シシィは読んでもらった覚えがある。
もうどんな話だったかは忘れてしまったのだが、絵だけは覚えていた。
――確か、こんなガーデンが登場したはず。
なら、この音、声は。
「おばあちゃん、なの」
「――――――」
祖母が残した魔術が何かのきっかけで働いているのかと思ったが、その音はどうやっても祖母のやわらかい声には思えなかった。
声、ではないのかもしれない。
けれど、安心する音。
「……紅茶がないのが残念」
ティーポットの中にも紅茶はない。
仕方なくシシィはガゼボの中から出て、ブランコに座って揺られながら夜空の星を眺めた。夜のガーデン、というのもきれいだ。
「――」
安心する音を聞きながら、シシィは思う。
――幽霊とか、出てこないよね……?
そんな心配は不要だったようで、結局シシィが朝になって目覚めるまでその夢の中で幽霊はおろか、生きた人間すら誰も出てくることはなかった。
ただただ優しくて、少しだけ寂しい夢だった。
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