シシィは、屍と化した。

「も……無理……っ!」

 レンガの壁に体重を預けて、シシィは呼吸を整えた。表通りでやっていたら不審人物に思われてしまうが、幸い裏路地なので、誰にも見られることはない。
 ――ここなら、ルビーブラッドさんにも分かんないはず。
 シシィの魔力は今、完全にないので魔力を探っても分からない。ルビーブラッドにシシィを見つけ出すことは不可能だった。
 ある程度呼吸が整うと、シシィは壁に手をついたままズリズリと進んでいく。
 ここにいると、何かの拍子に表通りから姿を見られてしまうかもしれない。日が暮れるまではこの路地を逃げ回っていた方が良い。

「つか、れた……」

 ふぅ、と深呼吸のようなため息をついた瞬間、胸元でチャリ、と音が鳴った。
 ――ん?
 いつもの癖で、鍵は首から下げてある。同じ鎖にアステールの指輪も。
 いつもの癖で。
 それは――マズイものまでつけてきてしまったという意味でもあった。

「俺も、疲れた」

 バン!と。
 シシィの目の前を遮った腕が、レンガの壁を殴りつけたような音を奏でた。
 「ひょえ!」と叫び声をあげて下がろうとしたシシィの背後から、また同じ音が聞こえて、背中が何かに当たった。
 考えるまでもない。腕だ。
 シシィは、恐る恐る視線を横にずらした。

「――体力は、戻っていないと聞いていたんだが」
「……こ、これは、マラソンの一環、でして」

 シシィは、泣きたかった。そこにいたのは、明らかに怒り心頭といったふうなルビーブラッドだったからだ。

「そうか。マラソンを邪魔して悪かったが、律義に俺のペンダントをつけてくるのもどうかと思う」

 ――習慣って、恐ろしい。
 つい、今までの癖でつけてきてしまった、というよりは普段から肌身離さないような習慣を癖づけてしまったので、今さら変えるのはかなり大変なのだ。
 しかし、今日つけてきてしまったのは大失態だった。
 ルビーブラッドに壁に両手をつかれた状態で、どこにも逃れられなくなったシシィは、目を泳がしながら口元に笑みを浮かべた。

「と、とりあえず、お話しましょう、か」
「そうだな」
「こ、この状況を何とかしましょう」

 あまりにも近すぎて、心臓が鼓動で壊れてしまいそうだ。
 ルビーブラッドも静かに頷き、離れたと思ったら手を握られ。

『イオス』

 いつの間にか持っていたロッドで、時計台の上へと飛んできてしまった。
 瞬きする暇すら与えられなかった、早技だった。

「え……えぇーー!るる、ルビーブラッドさん、下りるときどうするんですかっ、私魔術は使えないです!」
「俺が責任を持って送る」

 ということは、ルビーブラッドの話をきちんと聞くまで、ここから下りられないということだ。
 シシィはがっくりと頭を垂れた。
 ――ああ、どうしよう。
 握られている手が、熱い。
 春のあたたかな風に頬を撫でられて、ふと頬が赤くなっていないだろうかと気になりだした。春の風は、熱を冷ましてくれない。
 むしろ、助長させる。

「――俺の命を、救ってくれてありがとう」

 優しく、低い声がシシィの耳に響く。
 ――この声を、聞きたかった。

「俺自身ですら、諦めていたものを拾ってくれてありがとう」
「……そんな、ことは」
「酷いことを――言ってすまなかった」

 涙が出そうで、シシィは空いた方の手の甲で額を押さえた。
 ――大好きだから、諦めたくなかっただけなんです。
 自分の諦めの悪さに、呆れ果てそうだ。ルビーブラッドが、そんなに感謝をすることではない。むしろ、時を止める魔術を人に向けたのだから、怒られてもいいくらいだ。
 彼を助けたのは、自分のわがまま。
 失いたくないという、子供じみた願い。
 ――だから、ルビーブラッドさんは責任を感じなくていいんです。

「すまなかった……魔力を、奪ってしまって……」

 ――これは、私が勝手にやったことだから。

「シシィ……俺は、お前の魔力を奪った張本人だ」
「奪われたなんて、思ってないです……だから……」
「――こんな俺でも、いいなら」

 ――お願い。それ以上を言わないで。

「俺と、結婚してくれないか」

 生ぬるい風が、シシィの髪を躍らせる。
 ルビーブラッドとつないでいる手を見つめた後、シシィはつぶやいた。

「……残酷なことを、言うんですね」
「――シシィ?」

 ――もしかしたらって、思ってた。
 責任感の強いルビーブラッドは、自分の魔力を奪ったことに罪悪感を感じるだろう。
 魔術師から魔力を奪うのは、職を奪うということと同義語。
 そんな責任の取り方(・・・・・・・・・)をするのではないかと、ずっと怯えていた。
 言わないでほしかった。
 どんなに彼のことが好きでも、そんな責任の取り方は酷い。
 同情でされるプロポーズほど、酷いものはない。

「ルビーブラッドさんは、冷静じゃないんです。もう少し時間をおいて考えましょう」
「シシィ……何を言っている?」
「私の魔力を奪ったからって……そんな責任の取り方はしなくてもいいんです」

 言葉を発する唇が震える。
 本当なら、何も考えず、何も思わず頷いてしまいたい。気付かないふりさえすれば、
 シシィ自身は好きな人と結婚できる。
 ――でも、それは。
 ルビーブラッドの良心に、つけ込むことになる。
 ――あんまりだ、そんなの。
 もっと、ちゃんとかわいくてきれいで、よく気が効いて、頭もよくて、家事も上手で、支えてくれそうな頼りになる人と彼は結婚するべきだ。
 幸せになってほしい。
 そのために、諦める覚悟をしたのだから。
 ルビーブラッドに、想いを伝えることを。

「――そんなつもりで、言ったんじゃない」
「それに、もう……どうでもよかったんですよね!私、魔術師になったのは治したい人がいたからで、その人を治しちゃって、もう魔術師はいいかなって思って!だからルビーブラッドさんに魔力なんてあげても、本当に平気なんです。何てことな」
「そういうことは」

 あごに手をかけられて、無理やり視線を合わせられる。

「俺の目を見て、言ってみろ」

 ――ああ、私って、本当どうしようもない泣き虫だ。
 涙がこぼれたのが分かった。
 どうしようもないくらい、彼のことが好きだ。傍にいられれば嬉しくて、名前を呼ばれたら心震える。見つめられたら胸が高鳴るし、話すだけで幸せだ。
 誰もが見逃しそうな、自分の細かな傷を見つけて、癒してくれた。
 いつだって、助けられた。
 救われていた。
 だからこそ――素敵な人と幸せになってほしいのに。
 それを想像しただけで、胸が痛む。
 彼が微笑む先に、自分がいないことが悲しい。きっとあの微笑みを見られる女の子は、自分だけじゃなくなってしまうことが分かるだけに、悲しかった。

「……生死の境を彷徨っているときに、夢を見た」

 静かに、ルビーブラッドが口を開いた。
 シシィはにじむ視界で、ルビーブラッドの穏やかな赤い瞳を見つめる。

「俺はあのガーデンの中にいて、地面にアステールが一面に落ちていた」
「……え」
「シシィ」

 ――まさか。

「……夢の中で聞いたシシィの想いは、俺の思い上がりで出来た幻か?」

 ――あのルビーブラッドさんは、幻じゃなかった……!?
 シシィはルビーブラッドの手から逃れて、顔を背けた。口元を自分の手で覆う。
 頭がついていかない。
 混乱、している。

「……沈黙は否ととる」
「あっ、あれは……あれは、ちょっと、その」
「『アレ』は?」

 ルビーブラッドの言葉に、シシィは目も当てられない失態を犯したことに気付いた。

「やはり、幻じゃなかったんだな」
「ち、違います……知りません、そんなこと」
「もし、幻だったとしても、俺は嬉しかった」

 視線が、ルビーブラッドに向かう。
 彼はとても真摯な表情で、こちらを見つめている。
 ――目が、逸らせない。

「あの想いを知る前から、俺はずっとシシィに心を寄せていた」
「そん……っ」
「おそらくは、出会ったときから。ブレックファースト以外に、自分に優しくしてくれる人間がいるなんて、思ってもいなかった。特別扱いも、化け物扱いもしない、普通の人間として見てくれるシシィの優しさに救われてきたんだ。ずっと――好きだった」

 涙が止まらない。
 ――嘘だ。ルビーブラッドさんは、優しいから。
 そう思うのに、嬉しさがこみ上げる。彼を抱きしめたいほどに。
 愛しさが、胸の中で大きくなっていく。

「誤解を……しないでくれ。好きでもない人間に、こんなことは言わない」
「信じられないです……」
「信じてくれないと……困る」

 ――困る。私の方こそ。
 ルビーブラッドの目を見ていると、信じたくなってしまう。彼の良心につけ込んで、縛ってしまうことが怖いのに。
 あんな切ない目で見られたら、勘違いをしそうになる。

「魔力を奪った俺が嫌なら、仕方ない。もう金輪際、付きまとわない」
「……っ」
「俺のことは……嫌いか」

 ――酷い、質問を。
 言えるはずがない、嫌いなどと。どれだけ彼のことが好きなのか、自分自身は嫌と言うほどに知っている。
 だからこそ、言えない想いなのに。
 沈黙が、2人を包む。風の音と眼下の町が奏でる音だけが耳に響いた。

「……分かった。そこまで嫌われているなら、もう姿は現さない」
「!」

 ルビーブラッドが、ふ、と視線を外し、背を向けようとした瞬間。
 彼の瞳が、悲しみを宿していたように見えて。
 ――ずるい。そんな、目をするのは……ずるい。

「大好きに決まってるじゃないですか!」

 シシィの心は、溢れ出た。

「ずっと、ずっとルビーブラッドさんの背中を追いかけて来たんですっ!嫌いになるわけ、なんか、無いに決まってるじゃないですかっ」

 ルビーブラッドの目が大きく開かれて、シシィを見つめる。
 ――止まらない。
 どうしてくれるのか。今まで我慢してきたことが、すべて水の泡だ。

「酷いです……っ!ずっと、言わないって決めてたのに、どうして私を甘やかすようなことばっかり言うんですか」
「本当のことだからだ」
「本当に、私のことを好きでいてくれてるんですか……っ」
「本当だ」
「本当に、ですか」
「本当だ」
「嘘じゃないですか……?」
「嘘じゃない」
「後で違うって、言わないでください」
「言うものか」
「……わがまま、言っていいんですか。卑怯なことを、言います」
「何だ」

「……ルビーブラッドさんと、ずっと一緒にいたいです」

 目尻に溜まったこぼれ落ちそうな涙に、ルビーブラッドが口づけをする。
 視線が交わった後、ルビーブラッドはシシィの額に自分の額をこつんと当てた。
 その表情は、明らかに安堵しきった顔だった。

「……安心した。信じてもらえないかと……頑固にも程がある」
「うう……」
「これを……受け取ってくれ」

 いったん離れて、ルビーブラッドはポケットから小さな箱を取り出した。かなり細工にこだわった箱で、こじんまりとしているわりに、値段が張りそうだ。
 ルビーブラッドがふたを開けて、中をシシィに見せる。
 箱の中に入っていたのは、小さな花の中心でダイヤが光る、指輪だった。

「本当は、俺の故郷では結婚を申し出るとき、オレンジの花を相手に贈るんだが……見つからず、ヴィトランに作ってもらった」
「え、あの、サイズ」
「前に、指輪を作ったことがあるらしいな。そのときの記録が残っていた」

 そう言えば、ヴィトランには全ての指のサイズを測られた。
 その記録が正しいことを現すように、ルビーブラッドがシシィの左手の薬指に指輪をはめると、ぴったりはまった。

「……俺と、結婚してくれないか」
「――はい」

 言うや否や、ルビーブラッドはシシィを抱きしめた。
 強く、その存在を確かめるように、その腕に抱く。
 シシィもルビーブラッドの背中に腕を回した。
 オレンジの香りと泣きたいほどの幸福で、胸が満たされる。

「シシィに、聞いてもらいたいことがまだ1つある」
「?」
「一度しか言わない……」

 ルビーブラッドが、シシィの耳元で小さく囁いた。

「俺の名前は――ジゼル・バレンシア」

 ――え?
 信じられない言葉に、シシィは思わずルビーブラッドから離れた。
 衝撃は、それと同時にやってきた。
 ルビーブラッドの身体から魔力が迸り、放出される。その魔力はいったん高く上空へ上がった後、放物線を描くようにしてシシィのもとへ落ちてきた。
 その魔力は弾かれたりせずに、シシィの体の中にすっぽりと納まる。
 ――う、そ……。
 シシィはルビーブラッドに思わず詰め寄った。

「な……っ何を考えてるんですか!ルビーブラッドさんまで本名を明かしちゃったら魔力が」

 なくなってしまう、と言いかけて、気付く。
 ――なくなってない。
 それどころか、ルビーブラッドの魔力を感じることが信じられなかった。

「――魔術師は、本名を魔術師に知られると相手に魔力を奪われる」

 ルビーブラッドが、微笑みながら告げる。

「が、相手の魔術師からも本名を告げられたら、それは結婚の申し出と承諾となる」
「え……」
「魔力は持ち主のもとへ帰る。本来の分だけ。ほんの少し相手の魔力を交えて」

 ――分かる、魔力が。
 ルビーブラッドの魔力も、町中の人々の魔力も、ここにいてもルウスの魔力やBの魔力、ヴィトランの魔力に――感じにくいブレックファーストの魔力。
 今まで見てきた世界が、また帰ってきた。
 アンティークキーを確かめると、石がまた戻っていた。純粋なオレンジ色――よりは少し赤みが強いオレンジ。
 ほんの少しだけ――ルビーブラッドの魔力を交えている。
 彼の見ている世界を、ほんの少し共有できるように。

「お前は、魔術師だ――『闇色ハット』」

 その世界は、自分が見てきた世界より、優しく見えて。
 シシィは微笑むルビーブラッドを思い切り抱きしめた。