時はゆるやかに、けれど確実に進んでいった。

「ルビーブラッドさんと、ブレックファーストさんの傷は、だいぶ良くなったそうですよ」
「ヴィトランが嬉々として話してくれたわ」

 ルウスの話によると、ルビーブラッドとブレックファーストの怪我は全治3カ月という重いものだったらしいが、2週間経った今では、歩けるまでに回復したらしい。
 どうやら、ルビーブラッドが魔導を使って治療したようなのだが、そこまでの重傷を回復させると体に負担がかかるらしく、また寝込むハメになってしまったという。
 そもそも、毒で弱っていた体で、無理に魔導を使うなど無謀だ。
 リビングのソファに座っているシシィはクスリ、と笑いながら雑誌のページをめくった。
 この2週間、図書館は閉館していた。
 もともと、あまり客の来ない図書館だったので、何も支障はない。
 ――それはそれで、悲しい話だけど。
 本当なら開けておきたかったが、魔力を失ったことでシシィ自身の身体も変化を起こし、少し体調を崩していた。

「シシィさんの方はいかがですか?」

 向かいに座っているルウスが、顔を覗き込むようにしてシシィの調子を窺った。

「そうですね……まだ、少し疲れやすいかもしれません」
「魔力が無くなってしまった後遺症です」

 どんな人にも、魔力は宿っているというのに、今のシシィには一滴たりともない。
 だからこそ、体に負担がかかっているようだ。ただこれは、スタミナをつける努力をすればどうにかなるものらしいので、もうしばらくしたら、シシィは散歩を日課にしてみようか、と考えていた。

「……それにしても、良い内職はないですねぇ」

 ページをめくりながら、呟く。
 今までは魔術師としての仕事があったので、食べるに困らなかったのだが、これからは違う。内職でもしないとご飯も食べられなくなってしまう。

「私がお嫁さんにもらってさしあげましょうか?」
「……ル、ルウスさん?」
「私もまだ33歳で、男盛りですよ。いかがですか?」

 シシィは極端に慌てた。
 何を言い出すのか、この人は。あろうことか、自分の妻の前で言う冗談じゃない。
 が、慌てるシシィに対して、Bは至って冷静に返す。

「いいわねぇ。私も、10代の男の子を見つくろって夫にしちゃおうかしら」

 冷静、というか、思案顔が本気だ。
 その表情を見たルウスが、Bに詰め寄った。

「え、それ、本気じゃないだろうね!?私というモノがありながら、本当に見つくろってきやしないだろうね!?」

 その様子に、Bが、ふっ、と笑った。

「やぁねぇ。10代の男の子には、20代も終わろうとしてる女なんておばさんって言われちゃうわよ」
「……それって、君より年上の私はおじさんだという嫌味かな」
「頭のいい貴方が大好きよ」
「……えぇ。私も愛していますよ」

 ルウスががくりとテーブルに額をついた。
 B、完全勝利である。
 ――真面目に心配するんじゃなかった。
 引きつった笑みを浮かべた後、シシィは再び考え始める。
 ――しばらくは貯金があるけど……。
 などと、かなり現実的な悩みにふけっていたところで、キッチンの勝手口がノックされた。シシィは顔をあげる。

「私が出るわ」

 立ち上がろうとしたシシィを制して、Bが代わりに立ち上がる。
 体調を気遣ってくれたのだろう。
 言葉に甘え、彼女に任せることにして、シシィはもう一度雑誌に目を落とした。
 ――薬草の選別かぁ。うーん、いけるかなぁ?
 内職だけで厳しそうなら、図書館を開ける日を少なくして、やはり働きに出るべきかもしれない。もともとは就職するつもりもあったので、それには全く抵抗はない。
 ――うん。

「やみ……シシィ。ちょっとこっちに来れるかしら?」
「はい?」

 シシィがBに呼ばれて勝手口の方に顔を出すと、思わぬ人物が立っていた。

「やぁ……調子はどうだい?」
「ブレックファーストさん」
「もし歩けそうなら、私のリハビリに付き合ってもらえないだろうか」

 晴れた空の下で、左目に眼帯をしたままブレックファーストはニコリと笑った。





********





「眼帯……取らないんですか?」

 屋台のクレープの香りを嗅ぎながら、シシィは隣をのんびりと歩くブレックファーストに尋ねた。
 ――いいなぁ、クレープ。
 店員が、見事な手つきで薄く生地を伸ばし、その上に生クリームなどをトッピングしている。おいしそうだ。
 ――食べたい……けど、我慢。
 節約に越したことはないし、それに運動ができないのに甘いものを食べると太る。
 それは乙女として、かなり避けたいことだ。
 それでも未練がましく視線をやるシシィを、微笑ましく見守りながらブレックファーストは口を開いた。

「そうだね……これは、もう一生外れないんだ」
「え?」

 ブレックファーストが眼帯を撫でてから、そっとそれを外す。
 見るのも痛々しいほどの傷跡が、シシィに向けられた。

「左目は、もう使い物にならない」
「……見えない……ってことですか……?」
「そう」

 と言った瞬間、ブレックファーストは人とぶつかった。
 「すみません」と微笑むように謝ってから歩きだす彼の後を、いつの間にか止まっていたシシィは追いかけた。
 ――見えないなんて。
 左目に見えるように手を振ってみるが、彼は苦笑しながら首を振った。
 先ほど人とぶつかったのも、距離感が上手くつかめないせいだったのだろう。
 やはりどうしても、生活に支障は出る。
 しかしブレックファーストは深刻さを感じさせない足取りで、人ごみを進んでいく。

「これは報いだよ」
「報い?」
「……どんな理由があろうと、復讐はいけないということさ」

 ――きっと、あの傷は消すことも出来たはず。
 目の機能はもうどうしようもないかもしれないが、傷だけなら治せただろう。けれど、それを彼は拒んだはずだ。
 過去を忘れないために。
 あの傷は、戒めだ。
 ブレックファーストはゆっくりと、眼帯でその傷を隠した。
 ――隠しても、傷は残る。自分の過去の行いも。

「まぁ、復讐をして、これだけで済んだなら私は果報者さ」
「……」
「それで、これからのことを話そうと思ってね」

 口を開きかけて、ブレックファーストは動きを止めた。
 ――あ、ありがたい。
 それに合わせてシシィも歩みを止める。少し歩いただけなのに、息が切れてかなり疲れた。普通の散歩ですら、今のシシィには大儀なことだった。
 そんなシシィを気遣ってか、ブレックファーストはそばのオープンカフェを指差した。

「少し休もうか。私より、君の方が疲れているようだ」
「す、すみません……」

 席に座って、シシィは紅茶を、ブレックファーストはコーヒーを注文した。
 今日は天気もよく、最近の気候は完全に春の気候なので暖かい。オープンカフェは繁盛しているようだった。

「――これから、私たちは一度故郷に帰ろうと思う」

 『私たち』という言葉に、心が震えた。
 ――ルビーブラッドさんも、帰るんだ……。
 良かった、という思いと残念、という思いが胸の中で複雑に絡み合う。

「色々と話し合った結果、私はどうしてもルビーブラッドが払っていたお金は取り戻したいと思ってね。取り返して来ようと思う」

 ――そっか。とんでもない大金だもの。
 ブレックファースト本人が払っていた以上の大金だ。親友にそんな大金をだまし取るような形で得ていた者たちが、許せないのだろう。

「……もう、復讐はしないでください、ね?」
「ルビーブラッドにも同じことを言われたよ」

 「全く、似た者同士だな」とブレックファーストは苦笑し、シシィもつられるように微苦笑した。
 『ルビーブラッド』の名前を聞くだけで、胸が痛い。
 心が震える。
 ――会いたい。
 この2週間、ルビーブラッドには全く会っていない。自分も体調を崩していたのでお見舞いに行けなかった。
 ――会いたくない。
 けれど、会いに行くことを拒む声も確かにある。彼の顔を見たら、余計なことを口走りそうで怖いのだ。
 封印すると決めた、自分の気持ちを。
 それと、それ以上に恐れていることもある。
 無意識に、首からかけたアンティークキーを握る。

「…………」

 アンティークキーは、シシィが魔力を失い、魔術師としての資格を失っても手元に残ってくれた。
 ただ、オレンジ色の石はなくなってしまった。この鍵はもう、魔力コントロールアイテムではない。普通の鍵だ。
 同様に、ロッドももうオレンジ色の輝きは取り戻さない。
 ただの杖。
 もう使う事のない、アイテム。
 隠し部屋にすら入れなくなり、魔術の勉強を本当に自分はしていたのかさえ、疑わしくなってきた。
 この1年のことは全て幻で、本当は、ベッドの上で眠って夢を見ているだけなのかもしれない。
 ――いっそ、その方がマシかもしれない。
 ルビーブラッドが生きていてくれて、本当にうれしい。
 あのとき、何でもすると思った気持ちは偽りじゃない。
 けれど。
 それでも――さみしいのだ。
 ずっとそばにいた何かが、無くなってしまった。胸に穴があいたまま、消えない。
 本を読んでいても、料理をしていても、掃除をしていても、お風呂に入っていても、
 ぼんやりしていても、魔術のことが頭から消えてくれない。
 そんな自分の未練がましさが、嫌になってくる。

「いつ発たれるんですか?」
「明日にでも」

 さらりと、コーヒーを飲みながら答えるブレックファーストに、シシィは目を丸くした。

「あ、明日!?いきなりですね!」
「善は急げ……とは違うか。問題は早めに処理するのが良いから」

 ――それはそうかもしれないけど。
 何もかもが、自分の手からすり抜けていくようで、少しさみしい。

「行動は、早くするのがベストというモノだよね」
「はぁ……」
「遅くても、なにもしないよりはいい。ねぇ、そう思うだろう?」

 ブレックファーストは、目を細めた。
 シシィの――後ろを見つめて。

「ルビーブラッド」

 ――え?

「……だから、ここにいる」

 背後から、夢見た声が降ってくる。
 きらきらと。希望のように。
 シシィはゆっくりと、背後を振り返った。

「……久しぶりだな」

 いつもの仏頂面で、赤い瞳で、シシィを見つめる。
 ――あ、服が違う。
 あまりにも衝撃的過ぎて、そんなところにしか目がいかなかった。
 いつもはタートルネックに、黒いカーディガン風のコートを羽織っている彼だが、今日
 は装いが違う。首を少し隠すようなスタンドシャツに、ジャケットのような品のあるデザインのカーディガンを羽織っていた。
 ――かっこいいなぁ。
 長身で細身なので、なんでも似合いそうなのが羨ましい。1つ残念な点をあげるとすれば、それはやはり眉間のしわといったところか。

「話がある。少し、時間をくれないか」
「はぁ……」

 と、返事をした後で、シシィは青ざめた。
 ――無理だ。ルビーブラッドさんと2人は、なんだか気まずい!
 何か、怒られそうな気がして怖い。
 こんこんと、説教をされそうな気もする。
 『あの時』言った『消えろ』が本当だという話かもしれない。
 どんな話をされるか分からない以上、恐ろしくてたまらない。特に最後の『消えろ』という言葉をもう一度言われたら、シシィは死んでしまいそうな気さえしている。
 ――きゅ、救助してくれる人が欲しい!
 慌てて、ブレックファーストを指差した。

「ブレックファーストさんも一緒ですよね!」
「私は嫌だよ」

 思わぬ人に、斬って捨てられた。
 ショックのあまり固まるシシィに、ブレックファースト本人が、にこやかに口を開く。

「2人で、話しておいで」

 ――……あんまりだ。
 そもそも、だ。
 ルビーブラッドを目の前にしただけでも、複雑な感情が胸の中で渦巻き、今にも言葉にして想いを伝えてしまいそうなのに、それは酷というモノだ。
 ぐるぐると、感情が回り、気持ち悪くなってくる。
 ぐるぐる、ぐるぐると。
 回って回る間に、何が何だか分からなくなってきたシシィは、現実逃避をはじめた。
 ――逃げだしたい。
 ――逃げたいなぁ。
 ――そうだ、逃げよう。
 シシィは、突然思い立った。

「ま、幻のオレンジケーキ!」
「は?」
「え?」

 言葉につられて、と言うよりは、シシィの指差した行動につられて、シシィから目を離した2人は、視線を戻したとたん唖然とした。
 シシィが、遠くにいる。
 ルビーブラッドが、ボソリとつぶやいた。

「…………逃げられた?」
「……逃げた、ねぇ…………」

 穏やかな空気にそぐわない、痛々しい沈黙の後。
 ルビーブラッドの目が、完全に据わった。

「……あちらがその気なら、俺もそういう手段を使おう」