目を覚ますと、カーテンの隙間から見える外は、真っ暗だった。
サイドテーブルに、いつの間にか灯りがともされていて、その脇にパンが置かれてあった。
シシィは起き上がってじっと見つめてから、それを取って食べた。
咀嚼しながら辺りを見渡す。
ヴィトランは部屋の片隅で、イスに座ったまま眠っていた。
本当に、ずっといてくれたらしい。
かくり、と彼の体勢が崩れ、それで起きたのかヴィトランがまぶたを開けた。
「……起きたかい、闇色ハット。ずいぶん眠っていたね」
「今、何時ですか」
「午前1時を過ぎたところだよ。彼が止まって、3日目だ」
――そっか。
シシィは1人微笑み、立ちあがる。
覚悟は、もう決まったのだ。
ただ、やらなければいけないことがある。
「私はもう一度、隠し部屋にこもります」
「そうかい?じゃあ、僕も家に帰ろう」
立ち上がるヴィトランに、シシィは微笑んで見せた。
「ありがとうございます、ヴィトランさん。傍にいてくれて」
「僕は美しいもののためなら、どんなことだってするのさ」
美しく微笑むヴィトランに、シシィも目を細めた。
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――やっぱり、そっか。
本を見つめながら、シシィはロッドを握り締める。
期待通りの言葉があって、良かったのかもしれない。
それは、さみしいけれど。
――諦めよう。
それしか、道はないのだから。
シシィはただ黙って、ビーカーを手に取った。
********
空がオレンジ色から紫へと変わっていく。
その様子をリビングのソファに座って眺めていたルウスは、かすかな物音で背後を振り返った。
そこには疲れた表情のシシィが、ひっそりと立っていた。
消えそうな、儚い笑顔をルウスに向ける。
「……私、お別れをしようと、思って」
声がかすれていた。
――どれだけの、苦渋の決断だったことか。
立ち上がってシシィを抱きしめてやると、彼女は弱々しくルウスの服をつかんだ。
その力のなさが、余計に悲しく思えた。
「――ルウスさんが、私の師匠で良かったです」
「……?」
「……ルビーブラッドさんに使った魔術のことを、黙っていてくれるから。私、今から解いてきます。話をしたいから……少しの間、誰も通さないでくれますか……?」
「構いませんよ」
それくらいの我がまま、通るだろう。
しかし彼の魔術を解くのであれば、ブレックファーストは呼ばなければならない。
呼んでこようか、と訊こうとして、ルウスは不意に気がついた。
シシィは魔力隠しのショールを羽織っている。
その視線の意味に気付いたのか、シシィは微笑みながら答えた。
「寒かったので」
「そうですか……ブレックファーストさんを呼んできましょう」
「どこにいるんですか?」
「私とBの家で預かっています。ですから、すぐですよ」
よろしくお願いします、と頭を下げてから、シシィはリビングをあとにした。
********
――諦めよう。
シシィは、ルビーブラッドの頬を撫でた。
汗すら止まっている。
それが少し変な感触だ。汗が肌に張り付いたまま凍っているような感触。
――もう、魔術解かなくちゃ。
静かな、穏やかな瞳でルビーブラッドを見つめて――シシィはロッドを握り締めた。
一振り、する。
すると――ルビーブラッドが再び呼吸を始めた。
浅く、荒い呼吸。
死が近づく音さえ聞こえてきそうだった。
「はっ、はっ、はっ……」
「ルビーブラッドさん……?私の声が、聞こえていますか?」
苦しさをにじませた、赤い瞳がシシィのオレンジ色の瞳を捉える。
たったそれだけなのに、シシィの心は震えた。
――諦めよう。
――私には、なくてはならない、存在だったけれど。
額の汗をぬぐってやると、ルビーブラッドは眉をひそめた。
「見る、な……」
「顔を、背けないでください、ルビーブラッドさん。聞いてほしいことがあるんです」
覗きこむようにして、無理やりルビーブラッドと視線を合わせた。
彼の手がのろのろと動いて、シシィの目尻に触れ、拭う。
瞬きをするシシィを、ルビーブラッドは苦しげに見つめた。
「泣くな……」
――たった、今まで、泣かないと思ってたのに。
ボロボロと、涙がルビーブラッドの体にしみこんでいく。
さみしかった。
怖かった。
これからのことを考えると、どうやっても虚無感に襲われる。
――でも、私は選ぶ、から。
はらり、とシシィの肩からショールが落ちた。
「たった……一度しか言わないから、聞いて、ください」
「……?おま、え、魔力が……」
「私の名前はシシィ」
――選びます。
「シシィ・アレモア……」
「……シ、シィ?」
「ワークネームは――『闇色ハット』」
――貴方を生かすために、『魔術師』を捨てることを。
ルビーブラッドの目が、見開かれた瞬間。
シシィは自分の中の魔力が、勢いよく外へ出ていくのを感じた。
自分の中を、激流が走っていく感覚。
そしてその魔力は、何の迷いもなくルビーブラッドの体の中に吸い込まれていく。
――これが、私の最後の魔術。
シシィは自分の、穢れない魔力を感じながら祈った。
思いついたのは、あのガーデンの夢の中でだった。
ドラゴンは、ルビーブラッドの魔力に反応していた。
それに、ドラゴンの毒は最初は紫の光だったのだ。液体ではなかった。
ならあれは――ひとつの魔術と考えてもいいのではないだろうか、と思ったのだ。
だから、シシィは起きてすぐ、自分の魔力を少しだけ取り出し、毒に混ぜてみた。
すると、思ったとおり毒は反応を示した。
そこに普通に薬を垂らしてみても効果はなかったが、シシィはまた魔力を取り出し、薬を垂らして、薬入りの魔力を作った。
それを毒混じりの魔力に合わせてみると――効果は、出た。
毒性反応は、無くなったのだ。
しかしこれには、大きな問題があった。
――時間がかかりすぎる。
魔力同士がなじむのに、酷く時間を要した。
少量の魔力でさえ、1時間も時間を費やしたのに、ルビーブラッドの多量の魔力になじむには1時間では足りない。
けれど、ルビーブラッドの命の残り時間は少ない。
だから、本名を明かすしか――魔術師を捨てるしかなかった。
Bに頼んで、急遽ルウスの持っていた魔術師の初歩ルールを書いた本を読ませてもらった。
相手の魔術師に本名を知られた場合、魔力を奪われる。
奪われる、と言うからには――それは一瞬のことではないかとシシィは考えていた。
本で確認すると、それは正しかった。本名を知られた魔術師は、止める間も拒む間もないくらい、一瞬のうちに魔力が相手に取り込まれてしまうらしい。
一瞬のうちに。
――それが、解毒剤を含んだ魔力だったら?
効果は、先ほどの実験で分かっている。
覚悟なら、とっくに、ガーデンの中で出来ていた。
足りなかったのは時間だけで、それも解消した。
やらない、理由はどこにもなかった。
「シシィ……っ!」
最後の魔力の塊が、ルビーブラッドの体の中に消えた。
ルビーブラッドの汗が、見る間に引いた。
手にあたたかさが戻り始めている。
効果は――あったようだった。
「シシィ……何故、こんな」
「眠りましょう、今は」
シシィは、ルビーブラッドの目に手をかざした。
まだ、ルビーブラッドは苦しげだ。毒は取り除かれても、体力までは返らない。
眠らなければならない、彼は。
だから、シシィは彼のまぶたを優しく閉じさせた。
「――眠ってください」
――どうか、今の私を見ないで。
涙が止まらない。覚悟はしていたはずなのに。
「シシィさん!今の魔力の流れ……っ!」
部屋に入ってきたルウスが、息を呑んだ。
おそらく、気付いたのだろう。
――ああ、ルウスさんの魔力を感じない。
ルウスだけじゃない。この家を包んでいた魔術の気配も、町の人々の魔力の気配も、あんなに強く感じていたルビーブラッドの魔力さえ。
何も感じなかった。
それは魔力を無くし、魔術師としての力を失ったからで。
そんなことは、ルウスにもすぐに知れたのだろう。
――無くなっちゃった……。
最初は、嫌だった。
魔術師なんて、胡散臭くて危ないもの。
けれど、自分を必要としてくれる人々を見てきて、助けられることを学んできて、いつの間にか、魔術師という仕事が誇りに思えるくらい大好きなものになっていた。
自分という人間を作る、1つの要因だった。
それを、自分の意志でなくした。捨てたのだ。
「何てことだ……っ」
ルウスが、ひざから崩れ落ちる。
その後ろから、音を立ててBと、彼女に支えられたブレックファーストがやってきた。
さらに後ろから、ヴィトランも。
――感じない。何も。
ぽっかりと、胸に穴があいたような気持ちとは、こういうことを言うのだろうか。
「……闇色ハット!貴女は、自分のしたことが分かってるんですか!」
「分かってます……ここにいる、誰よりも。私自身が分かってます」
ルウスの叫ぶような問いに、シシィは冷静に答えた。
目頭はやけに熱いのに、頭の中は冷静だった。
「――もう、『闇色ハット』ではなくなったことくらい」
――私は選んだ。
魔術師であることと、ルビーブラッドの命。
これから自分を頼ってくるかもしれない依頼人を見捨て、目の前のルビーブラッドの命を選んだ。
祖母の期待を裏切り、好きな人の命を選んだ。
それが正しいことなのかは分からない。
ただ、1つ言えるのは。
「……私の最後の患者さんが、ルビーブラッドさんで良かった」
――最後に、大好きな貴方を助けられてよかった。
もうきっと、彼を助けられることはない。むしろ、傍にいても、足手まといにしかならないだろう。
――だから、この気持ちは言わないでおこう。
――封印しよう。
――この人の重荷に、なりたくない。
――あのガーデンで言えたんだから、もう十分でしょう?
深い眠りに落ちたルビーブラッドを見つめながら、シシィはただ涙を流した。
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