フェンナーたちが満ち足りた表情で宿泊施設から離れ、王都へと向かうのをシャルロアは建物の影から見ていた。 ――ひ、人の求婚場面を盗み見してしまった……! 好きで覗き見したわけではない。シャルロアは早めの昼休憩をもらったので、ロロフォ令嬢――否、サリア嬢にシェストレカ師団長が手配したという家の場所を記した地図を渡そうと思ってやって来たのだ。 運よく彼女はまだ出発しておらず、フェンナーの妹であるフォーランが出てくるのを玄関先で待っていたようで、シャルロアは地図を渡そうとしたのである。 しかし突然背後から手が伸びてきて口を覆われ、体を拘束され、建物の影に引きずり込まれた。 騎警団本部の近くで犯罪の真似事とはいい度胸だな!と軽く怒りながら、以前苦くもファルガ・イザラントに教えられたとおり上半身を曲げようとしたところで、囁かれた。 「黙ってろ」と。 その声と、自分を拘束する褐色肌の手を見て気づかないわけがない。 背後にいるのはファルガ・イザラントだ。 何を考えているのか、と頬を引きつらせているうちにフェンナーがやってきて、求婚し、話がまとまったようだった。 想いあっていたらしい2人が幸せになるのは素晴らしいことだと思うし、こうして覗いているのではなくその場に居合わせたら「おめでとう」と素直に祝福したことだろう。 実際はそんなこと叶わず、幸せそうな3人の後姿を見送るしかなかったが。 「良し。上手くいったな」 ――ん? 背後のファルガ・イザラントがそうつぶやいたので、シャルロアは内心首を傾げた。 ハッキリ言って、人の恋路の行方などどうでもいいと思っていそうなこの男が、何故フェンナーの恋を見守っていたのか理由がわからない。 困惑していると口を覆っていた手が離れた。体の拘束は解かれないが。 「で、副師団長。貴方はいつのまに愛を運ぶ天使の真似事を覚えたんです?」 「勤務時間外な。あと俺が愛を運ぶのはお前にだけだぜ」 「説明する気がないんですね。いい加減離してもらえますか?」 「フェンナーをうちに入れるための布石だ」 ――は? シャルロアは耳を疑った。 今、なんだか信じられないことを聞いてしまったような気がする。 「あ、あの?フェンナーは指名手配犯だったんですけれど?」 「無実の罪で、指名手配されてたな」 「まぁ、そうですけれど」 だからと言って第4師団に入れるには、と考えかけたシャルロアは、思考を改めた。 ――フェンナーって、自警団の人間数人を相手にして逃げられて、なおかつ騎警団の捜索からも逃れ続けてたんだったわ……。 十分に有能すぎる。指名手配犯だったとしても、それは無実だと証明された。となれば、あの師団長とこのファルガ・イザラントが見逃すはずがない。 それが分かった今、師団長がサリア嬢に色々と世話を焼いていたのが腑に落ちた。 将を射んと欲すればまず馬を射よ、である。 「あぁぁぁ、シェストレカ師団長がご令嬢に恩を売っておけば、世話焼きのフェンナーが彼女が受けた恩を返しに来てくれるからですよね……!あっ!フェンナーの釈放許可の書類をなんで師団長自ら持って行ってるんだろう、と思ってたら焚きつけるためか!」 「あとは令嬢に王都での仕事を紹介しておけば、フェンナーも王都に残るからだな。仕事を探そうと思ったときに騎警団への入団勧誘が来たらアイツは受けるぜ。新兵でも師団は給金がいいからな」 「なんつう悪徳勧誘!」 しかしシャルロアは、それをフェンナーに教えるつもりはなかった。薄情と言われてもいいが、師団長とこの男に狙われた時点で詰んでいるのだ。 ――シェストレカ師団長も副師団長も、すぐ死にそうな人は入れないでしょ、うん。 そう言い聞かせてシャルロアは罪悪感を誤魔化した。 「……で、いい加減離していただきたいんですが」 さっきから緩みそうにない、腹部に回された腕と背中に感じる熱が気になって仕方ない。昼間と言えど冷えるこの季節、他人の体温を敏感に感じ取ってしまう。 ――だから、困る。 この男は空気のように扱わなければいけないのに、その存在を鮮烈に感じてしまうなんて。 「副師団長」 一向に外される気配のない腕に少し苛立ちを込めて低く呼びかけると、案外あっさりとファルガ・イザラントが離れた。 シャルロアが機を逃さぬよう、少々慌てて距離を取って振り返れば、彼は笑みを浮かべて降参とでも言いたげに軽く両手を上げていた。 「結局のところ」 金色の瞳が、煌めく。 「俺は、お前に愛を乞うしかできねぇんだよ」 シャルロアは、呆然とした。 ――急に、この人は何を言い出すんだ? 愛を乞うこと 目的のためならば無茶をし、無理を通す嵐のようなこの男ならば、そもそもシャルロアの意思や心を無視して手に入れることなんていくらでもできるはずだ。 英雄が望めば、周りの人間は叶えようと動く。シェストレカ師団長のように。 だから、それを今までしてこなかったからこそ、シャルロアには目の前の男が自分に本気で求婚しているわけではないのだろう、という考えが頭の片隅にあった。 シャルロアの考えを肯定するように、ファルガ・イザラントは肩をすくめた。 「そりゃあ、お前を手に入れるためにありとあらゆる権力を使うことはできる。命令だってできる。だが、それをやったらおしまいだ。退路を塞いだ囲いを作った瞬間に、お前の心が完全に俺から離れるっつうのはこの数カ月で十分わかった」 「……それは」 図星をつかれた。 ファルガ・イザラントの求婚が本気であり、なおかつそれが強制的なものになれば、シャルロアは家族とともにオルヴィア王国から逃げるつもりでいた。 ファルガ・イザラント相手に自分が魔女であることを隠し通せるわけがない。いずれはバレる。 自分を愛してくれているのだから、彼は黙っていてくれるだろうなんて甘いことは考えない。シャルロアが無条件に信じられるのは家族だけだ。他人の愛情なんて目に見えない不確かなものを根拠に、自分の秘密をしゃべれるはずがない。 嫌な人間だ、と自分でも思う。 向けられる愛情の深さを測り、それを疑うなんて卑しい心根としか言えない。 けれどそれぐらい必死でいなければ、大切な人たちを守れないのだ。 その大切な人たち、の中にはファルガ・イザラントは入っていない。 入れては、いけない。 「さすがに、師団を辞めるなんてことはありませんよ。結婚することが国王陛下や上官の命令ならば従います」 逃げることに勘づかれていたのは痛手だが、それをあっさりと認めるわけにはいかない。シャルロアが皮肉めいた笑みを零せば、ファルガ・イザラントはげんなりした表情でため息をついた。 「俺は好きな女をただ傍に置いておきたいわけじゃねぇ。俺に心を向けない女を無理矢理隣に置いたとして、そりゃあ人形を置いておくのとどう違うってんだ?」 まっすぐ問いかけられても、シャルロアは何も言えなかった。 ファルガ・イザラントと同じく、自分に心を向けない人間を伴侶にしておくなんて人形相手に結婚するのと何が違うのかシャルロアにもわからない。 「恨まれても嫌悪されててもいいから傍に置いておくってのも、俺には無理だ。なんで好きな女を、そんなひっでぇ精神状態に追い込んでまで縛り付けておきたいと思うんだかわかんねぇ」 ――それも、同意するけれども。 「俺は好きな女を愛したぶんだけ、同じように愛されてぇんだよ」 シャルロアは目を瞠った。 あの、破天荒で問題児なファルガ・イザラントが、ずいぶんとまっとうなことを言っている。酷く驚きはしたものの、しかしすぐにそれは当然のことなのだ、と納得もした。 ファルガ・イザラントは確かに型破りな人間だ。無茶もする。 けれど徹頭徹尾、その根底にある精神は健全なのだ。そうでなければ凶悪事件に関われない。 凄惨な悪意に、至純な怒りで応える。 犯人に対して怯えも同情もせずに。 だからこそ彼は、第4師団の副師団長なのだ。 「まぁ、退路を塞がねぇ程度の囲いは作るが」 「色々台無しすぎる!」 思わずつっこむと、ファルガ・イザラントは眉根を寄せた。 「あぁ?退路を残してやってるだけ、ありがたく思え。師団長が裏工作してんのを潰すの、大変なんだぞ」 「ちょっ、今恐ろしい言葉が耳に!何!?師団長の裏工作って!?」 「あー、お前の弟の親方の漁師に裏から手を回して、師団長の息がかかった商会が新しい仕事を持ちかけて、出資代わりに新しい船を持たすついでに弟にも将来独立したらそこの商会が船を贈るって契約を交わさせようとしたり、お前の親父が働いてる鍛冶屋を伯爵家御用達に推そうとしてたり、あとは俺が使ってねぇ褒賞を国のお偉いさん方に思い出させようとしたり」 「ひえっ……こっ、こわ……!」 さすがシェストレカ師団長である。囲い方がえげつない。 「あー……ご面倒をおかけして申し訳ありません……」 非情に面倒臭い事態を処理してくれていたと知っては、謝らずにいられなかった。何せ本来それは、ファルガ・イザラントへの援護なのである。彼が援護を潰して回る必要性はない。 シャルロアが謝ると、ファルガ・イザラントは笑った。 「お前のせいじゃねぇよ。それに、嫁にしてぇほど好きな女のためならどういうこたぁねぇ」 ――あ。この人。 どくん、と鼓動が響く。 ――この人、本当に私が好きなんだ。 何故か、今になって、はっきりとわかった。 それは炎を生みそうなほど熱く灼けた金の瞳に、一切打算や疑心が映っていなかったからかもしれない。 ファルガ・イザラントは、恋をしている。 けれどそれは、不毛な恋だ。 ファルガ・イザラントにとっても、シャルロアにとっても。 シャルロアが魔女である限り、ファルガ・イザラントが英雄である限り、二人の人生が交わることはない。 「副師団長」 ――断らないと。 シャルロアは、明確な拒絶の意思を以って、口を開いた。 ――今ここで断っておかなければ、この人は、絶対手に入らない獲物を追うことになる。 ここまで真剣に想いを寄せてくれている人に、無駄に自分を追わせるような不実をしたくなかった。 「私は、貴方とは結婚で」 「お前の答えを、今は求めてない」 ファルガ・イザラントは言葉を被せて、有無を言わさぬ艶めいた笑みを浮かべた。 「俺は勝手に、お前を口説いてるだけだ。今すぐ頷く必要なんざねぇし、律儀に答えを返す必要もねぇよ」 言い捨てて、ファルガ・イザラントはその場からあっさり去っていった。 引き止める間なんて与えられなかった。 シャルロアは、呆然とその背を送ることしかできなかった。 ――なんて、ずるい人だ。 気遣いからじゃない。あの言葉は、正真正銘ファルガ・イザラントにだけ都合のいい言葉だ。きっと『はい』以外の答えを受け取る気なんてないに違いない。 唯我独尊、という言葉はあの男のためにあるのではないかとさえ思えてくる。 なのに口説いてくる態度そのものは真摯だから、嫌悪する隙を与えてくれない。いっそ厚顔無恥に迫ってきてくれたなら、心の底から軽蔑して嫌ってやれるのに。 ――いっそ嫌えたら、よかった。好き、じゃないけど、嫌えもしないなんて。 ファルガ・イザラントが英雄と呼ばれて驕り高ぶり、横暴で、人の気持ちを無視する最低な男であればなんの戸惑いもなく嫌えただろう。 でも彼は、シャルロアの戸惑いや頑なさまで愛おしむように、包むように接しては、追い詰めないように離れていく。 だから自分も真摯にありたいのに。 ファルガ・イザラントは、シャルロアの真剣な拒否を受け取る前に封じた。 人魚の涙も得させてくれない。 「……ずるい人だ」 吸い込んだ空気があまりに冷たくて、胸がきしりと痛んだ。 ******** 「背負うべきじゃねぇ業まで背負うこたぁねぇでしょう」 勤務室に戻る途中、錆声に呼び止められて振り向けば、ドストロ分隊長にそう注意された。 シェストレカはやわらかく苦笑を浮かべて見せる。入団当初は先輩だったドストロ分隊長は、その表情だけでシェストレカが改める気がないことを悟ってくれた。 彼は疲れたようにはぁ、と白い息を吐いた。 「贖罪だなんて、あんたらしくもない」 「贖罪のつもりはないですし、そうだったとしても贖罪とは罪が終わったあとに始めるものです。罪はまだ終わっていない。あの男が生き続けている限り」 脳裏を過る赤い吊り目。火の海となったイサン。 シェストレカは今でも、あの男をこの手でもっと早く確実に殺しておくべきだったと後悔している。上官として、隊を率いる者として、判断を誤った。 「自覚があるぶんだけ結構ですが、それでも今回の師団長には冷静さがちっとばかし足りてません。副師団長がずいぶん訝ってましたよ。これは師団長が出るまでもない事件のはずだ、と」 「相変わらず鼻が利きますね」 結果的に、セハンヘナクトに関する事件は裏にいるとみられる人物の残虐性から第4師団預かりとなった。しかしあくまで結果的に、ということであって、シェストレカが関わると決めたときには師団長が動く妥当性がこれといってなかったことは事実だ。 その判断に、あの男は思うところがあったのだろう。 「まぁ、私が師団長の座から落とされていない、ということは彼なりに納得できることがあったということでしょうかね」 「そういう嫌な思考の一致、しないでもらえませんかね」 非常に苦々しい表情でドストロ分隊長が吐き捨てる。 どうやらファルガ・イザラントも同じようなことを言ったらしい。大方、自分が少しでも納得できるところがない判断ならば、今頃師団長は団法会議にかけられているだとかなんだとか言ったのだろう。 油断ならない部下ではあるが、その油断ならない部分がシェストレカを支えているとも言える。 シェストレカが誤った判断をしたとき、あの男ならば迷いなく自分を師団長の座から下ろしてくれると信頼しているのだ。 耄碌して味方殺しになるよりは、この座から下ろしてくれるか、いっそ殺してくれる方が良い。 ――まぁ、そこまで耄碌するまでには引退するつもりですけれども。 この歳になるまで身を粉にして国のために働いてきたのだから、老後くらいはゆっくり過ごしたいと思ってもいいはずだ。 「ともかく、フェンナー君が入団したら貴方の隊に預けますからね、ドストロ分隊長。良き第4師団員に育て上げてください」 「ええ、入団したら。儂の隊に入れる前に、貴方が一度手合わせしてぶん投げておいてくださいよ。あとの教育が楽なんで」 ひらひら、と手を振ってドストロ分隊長はその場から去った。 シェストレカも彼に背を向けて、勤務室に戻った。 室内の床には相変わらず歯ぎしりしながら寝転がる団員たちがいて、少しばかり頭が痛くなる。メルは早めの昼休憩を取らせたので、姿はなかった。気分転換を兼ねて、シェストレカは仕事を再開する前に珈琲を自分で淹れて飲むことにした。 給湯室に入り、ヤカンで湯を沸かしていると扉が音もなく開く気配がしたので振り返る。 「シェストレカ師団長。『変わり黒』を見せろ」 忍ぶように現れた割には爆撃をかましてくれるファルガ・イザラントに、シェストレカは思い切り苦い顔を浮かべてやった。 「君、それ『見せろ』って言われておいそれと見せられる代物じゃないって知っていますよね?」 「特別秘匿指名手配犯名簿、隠語は『変わり黒』、別名は『騎警団の黒手帳』だろ。わかって言ってんだよ、見せろ」 「見れば新婚旅行先に海外を選べなくなりますし、騎警団退団後も国境間際をうろつくだけで監視がつきますよ」 その存在を知る者から伊達に『騎警団の黒手帳』と呼ばれているわけではない。 特別秘匿指名手配犯名簿は、騎警団で出回る指名手配犯名簿とは全く違う。表向きの罪状と真実の罪状が違う指名手配犯を載せた名簿である。 そこに記される者は、表沙汰になると騎警団が困る罪を犯した者ばかりだ。手配書は書かれた日から百年間有効とされ、時間が経つごとに青から黒に変わる超長期保存に耐えるインクの特性から『変わり黒』と隠れて呼ばれている。 まさに騎警団の闇の部分を記したそれを閲覧すれば、以後オルヴィア王国から出ることは叶わない。国外に出ようとしただけで、国家内乱未遂に問われ処罰される、と言えば国と騎警団の本気度が窺い知れるだろう。 ファルガ・イザラントは、ふっと鼻で嗤った。 「仮にも 「おや。新婚旅行先について話せるほど仲を深めたのですか?」 「話を逸らすな。見せる気はあるのか?ないのか?」 相変わらずせっかちな男だ。シェストレカはため息をついた。 「諸刃の剣なんですよね。君にあれを見せるのは。見せれば確かに国内に縛り付けやすくはなるんですけれど、手を噛まれる憂慮も増えると言いますか……何故見たいのですか?」 金色の瞳がひたとシェストレカを見据える。 「あんたの判断の揺らぎが人間的感傷によるものか、耄碌したことによるものか、その判断材料を増やすためだ」 ――ドストロ分隊長ですね。 目の前の男にこう言うよう助言したのは、間違いなくドストロ分隊長だろう。シェストレカがイサンにこだわるのを知るのは、今はドストロ分隊長だけだ。 ――さて。どうしましょうか。 『雷鳴獅子』に特別秘匿指名手配犯名簿を見せる利点と不利点を脳内で挙げて連ねて、よくよく吟味してから――シェストレカは上着の内ポケットに入れていた鍵をファルガ・イザラントに向かって放った。 彼はそれを難なく掴み取った。 「許可しましょう」 そこに書かれてある情報を使ってファルガ・イザラントが自分を陥穽にはめようとしても、返り討ちにして足枷をつける程度の備えはすでにしてある。 シェストレカを師団長の椅子から蹴落とそうとしてファルガ・イザラントが返り討ちにあったなら、それはその程度の器の男になったのだと思うまで。 この男が自分を第4師団から追い出そうとするときは、シェストレカが耄碌したときだ。そういう信頼はしている。耄碌したシェストレカに反撃を食らうならば、ファルガ・イザラントも老いたということだ。 老いた獅子など騎警団には必要ない。 ともに座から蹴落とされれば良い。 にっこりと笑うと、ファルガ・イザラントも好戦的に微笑んだ。 ******** 自宅に帰るのはおよそ一月ぶりになるのではないだろうか。 クランケは愛馬を下男に預け、まじまじと自宅を眺める。実家のメイファルバ辺境伯家の屋敷に比べるとずいぶん小さな家だが、第4師団の分隊長が住む家としてみれば十分な広さである。クランケがほぼ家にいないため、料理人と下男が一人ずつとメイドが三人、警備員が二人いれば使用人は事足りている――のはやはり妻であるカミアの働きが大きいのだろう。 臨時に雇ったらしい庭師が整えた美しい庭を通り抜け、扉を開く。玄関広間に、そのカミアとメイドが立っていた。 「まぁ。お帰りなさいませ、アモン様。今日はお休みですの?」 カミアは外出用のドレスを着て、めかしこんでいた。これからどこかへ行くつもりだったのだろう。今日の気温は低いが天気は良く、絶好の外出日和である。 しかしクランケが頷くと、彼女は手袋を外した。 「出かけるなら、気にせず出かけるといい。夕方までは寝ているだけだ」 「いいえ、よろしいのです。今日の集まりは騎警団員を夫に持つ妻たちのお茶会ですので、急にお断りを入れても眉をひそめられたりはしませんわ。夫の急な休日や出勤には慣れていらっしゃる皆さまですもの」 ふふふ、とやわらかに笑うカミアに、クランケは言葉少なに「そうか」と言って頷いた。 眠るだけの夫に付き合って家に残る理由はないはずだが、彼女はいつも義理堅くクランケが家にいるときは家にいてくれる。 感謝を表したいとは思うが、連日勤務帰りのこの体で抱きしめるのはどうなのだろう、と悩んでいると向こうから抱きついてきた。と言うよりは、抱き締めてきた、と表現するべきか。カミアの抱擁はやわらかいのではなく、がっしりしているように思う。 「お食事を食べられますか?」 「いや。食べてきた」 「ではお風呂に?」 「汗だけ流してくる」 「新しく買ったお花の香りの石鹸をお出しします」 「普通の石鹸でいい」 「はい」 そして抱擁時間が長い。 しっかり抱き締められている、と言ってもしょせんはか弱い女性の力である。第4師団員連中を相手にする体術で急所を締め上げられるのに比べればまったく苦しくないのでクランケは別に構わないのだが、カミアの外出用ドレスが汚れてしまうのは良くないだろう。 クランケはやんわりとカミアから離れて、メイドに湯の支度を命じた。 すぐに支度がされ、汗を流して寝室へ向かうとカミアが微笑んで待っていた。 「ベッドで横になってください。マッサージ致します」 「あぁ……いつもすまないな」 「趣味ですから」 元は伯爵家の娘であったカミアの趣味がマッサージ、というのは毎回聞くたびにいささかおかしな気がするのだが、下手なマッサージ師よりも上手いため、ついつい言葉に甘えて頼んでしまう。 うつ伏せになって凝り固まった筋肉を解されながら、政略結婚だったとはいえこんなに良い妻を持てた自分は果報者だ、とクランケは夢うつつに思う。 もしも貴族社会が恋愛結婚を推奨していたら、クランケは今も結婚できていない自信がある。仕事漬けで口下手な自分についてきてくれる女性がこの世にどれほどいることか。もしかするとカミア以外いなかったかもしれないことを考えると、やはり政略結婚で出会って良かったと思う。 「フライメールは、最近どんな様子だ……?」 「楽しそうに学校に通っておりますよ」 フライメールはカミアによく似た亜麻色のふわふわした髪とクランケに似た灰色の瞳を持つ一人娘だ。顔立ちはカミアによく似ているが、口数が少ないところはクランケに似てしまった。カミアに似れば社交的な性格になれただろうに、とそこは残念に思わざるを得ないが、利発でかわいい娘だ。文学に対する理解力はクランケよりもすでに高い。 なかなか家に帰れず寂しい思いをさせてしまっているだろうが、クランケはきちんとフライメールを愛している。どうでもいいから放っておいているわけではない、と直接伝えているし、カミアもフライメールに日頃からそう教えてくれているからか、父の愛情を疑わずに育ってくれている。 政略結婚でできた家庭だが、クランケとしては満足している。 一方で、政略結婚した結果壊れる家庭もある。 サリア嬢の事情を思い出し、クランケは迷いながら薄く口を開いた。 「カミア。もし……」 「はい」 「もしも……万が一だが。フライメールが事件に巻き込まれた結果、私がフライメールを貴族籍から除籍する、と言ったら君はどうする?」 カミアは変わらず背中を押しながら、答えた。 「何がなんでもそれを止めます。アモン様がメイファルバ辺境伯家の皆様に袋叩きにされてしまいますもの」 「そうか……そう……ん?」 自分の愚かな行為を止めてくれる、と知ってクランケは少し安堵したが、続いた言葉に疑問が湧いた。 ――うちの家族に袋叩き? 「最近、カダットお義兄様とマリアールお義姉様とお義父様とお義母様からフライメールをディティーグ様の妻にどうか、と言われていますの」 愛娘の思わぬ結婚話に、クランケは眠気が覚めた。 「お義父様とお義母様なら、フライメールの貴族籍を抜こうとしたアモン様を全力で潰しにかかってくると思います。さすがに私の実家の力では辺境伯家には勝てませんし、私もフライメールの貴族籍を抜きたいなんて思わないでしょうから、メイファルバ辺境伯家につきますわ。ごめんなさい、アモン様」 「いや、それはいい。存分にメイファルバ家についてくれ。それより問題は結婚の話だ。フライメールはまだ9歳だ。向こうだって12歳だろう。婚約するにしても早すぎる」 「ディディーグ様がダメなら、次男のドナード様でもいいと」 「フライメールと同じ年齢ではないか。我が一族の9歳や12歳など、洟垂れ小僧と変わらん思考能力だ。どうすれば強くなれるかしか考えてない獣だぞ。絶対に断る」 ディティーグもドナードもメイファルバ辺境伯家長兄の息子で、クランケにとっては甥にあたる。同じ血を引く者だからこそわかるが、ディティーグもドナードもその下の子供たちも、全員自分と同じ筋肉馬鹿だ。 メイファルバ辺境伯家の本家は呪われているのか、と思いたくなるくらい筋肉馬鹿の男児しか生まれず、女児が生まれない。だからカミアの血を色濃く継ぎ、読書好きで勉学ができるフライメールを欲しがっているのだろう。 何せ代々武官の家に嫁いでくる娘もやはり武官の家の娘が多く、身体能力が優れた素質を持っている。となれば生まれてくる子もやはり身体能力が優れた、と言うよりも身体能力しか優れない子しか生まれなくなり、その結果が第4師団狂いの家である。 カミアはめずらしく、むしろメイファルバ辺境伯家始まって以来初めて文官の家から嫁いでくれた才女だ。その血を引くフライメールを本家に欲しがるのはわかる。クランケだって長兄や両親の立場ならそうする。 だが婚約はまだ早い。早すぎる。 フライメールの誕生祝いに鉄アレイを贈ってきそうな甥たちに愛娘を預けられるか、と己のことを完全に棚上げしてクランケは憤慨した。 それをまぁまぁ、とカミアが宥める。 「フライメールはまだ『お父様のような方と結婚したい』と言っていますから、少なくともディティーグ様たちがアモン様のような殿方になるまで興味は湧かないと思いますわ」 「そうか……」 自分のような――師団長曰く恋愛ポンコツを好きになられるのも将来的に不安だが、とりあえず現時点で娘がすぐさま嫁に行きそうな気配がないことにホッとし、クランケはまたうつらうつらし始めた。 ロロフォ伯爵は今回強引に長女の籍を貴族籍から抜いたが、それは醜聞としてそのうち社交界に広まるだろう。公文書を偽造してまで死亡を偽り、騎警団に捜査までされたのだから隠し立てはできない。 オルヴィア王国の貴族は長男長女に家を継がせることがほとんどだ。長男長女が正当な理由なく家を継げない場合、その家は長子への貴族教育すらまともにできなかった家として、白い目で見られる。今回のサリア嬢は身体が弱かっただとか、障害を持っていただとか、そういった理由なく継がされなかったのでロロフォ伯爵家はこれから陰口を叩かれるだろう。 なにより面白く思わないのは、亡くなった前妻の実家であるキュスワーズ伯爵家だ。孫にあたるサリア嬢をこうまで冷遇されたと知れば、キュスワーズ家への侮辱だと捉えるに違いない。 キュスワーズ伯爵領では最近、質の良い鉄鉱山が見つかった。オルヴィア王国では武器の材料となる鉱山を持つ家は発言力が強い。 社交界において、ロロフォ伯爵とキュスワーズ伯爵では後者の方に味方する者が多くなるだろう。 ――馬鹿なことをしたものだ。 サリア嬢の死亡を偽装し、貴族籍を抜いたロロフォ伯爵も、その妻も。 今回のことは伯爵だけの責任ではない。妻もまた、愚かなことをしようとする夫を止めなければいけなかったのだ。夫の言うことに従うだけが良き貴族の妻ではない。家を守るために、夫に意見しなければならないときもある。 被害者は間違いなくサリア嬢と、下の娘になるだろう。 これから先、キュスワーズ家の発言力が増していく中で、ロロフォ伯爵家に婿入りを希望する家がどれほどあるか。あったとしても、間違いなくそれはろくな家や男ではない。金に困っていたり、素行が悪い息子を引き取ってもらおうとする家だ。 ロロフォ伯爵は、下の娘の幸せを願うならばサリア嬢に家を継がせて、下の娘は本人が好いた裕福な男に嫁がせればよかったのだ。 ――愚かな真似を止めてくれる人間がいないのは、不幸なことだな……。 クランケはわずかばかり、ロロフォ伯爵を哀れに思う。 自分にはカミアがいる。馬鹿なことをしでかしそうになれば、止めてくれる妻がいる。 「……カミア」 「はい」 「私の……そばにいてくれて、ありがとう……」 「こちらこそ、アモン様」 やわらかく笑う気配を感じながら、クランケは目をつむった。 クランケ――メイファルバ家がカミアを妻として欲したのは、宰相の覚えめでたい彼女の父との繋がりが欲しかったのと、文系方面で才女と噂されていたカミアの血が欲しかったからだが、実はカミアの家の方には婚姻で結ばれる利点はそれほど多くなかった。 せいぜいが辺境伯家と繋がりができる、程度の利点だ。カミアの父は大層な野心家、というわけでもなかったので、そんな繋がりは特筆するほどの利点ではなかっただろう。クランケ自身も女性受けする男ではない自覚があったので、いくら辺境伯家からの見合い話であったとしても、この見合いは失敗するに違いないと思っていた。 けれど予想に反し、婚約は成った。 ちょうど婚約した時期が隣国との緊張が高まっていたきな臭い時期と被り、結婚は何度も延期になった。見合いした当初はカミアに対して何も思っていなかったクランケだが、結婚が延期となり婚約期間が延びる中、手紙を交わすたびに彼女が綴る文章の美しさに惹かれていった。訓練のことしか頭になかった自分にそう思わせるだけの文章だったのだから、彼女の才がどれほどのものか改めて語るまでもないだろう。 そんな文学少女が折を見て自分の元を訪ねて来てくれるものだから、クランケはものの見事に恋に落ちた。 自分の元を訪れるのが婚約者として最低限の逢瀬回数だと気付いても、その熱は冷めなかった。 戦争が勃発し、紆余曲折はあったが、生きて戻ったクランケは晴れてカミアと結婚してフライメールを授かった。 第4師団の人間はカミアのことを愛夫家と呼ぶが、正しくない。彼女は義理堅いだけだ。騎警団員の妻として夫を献身的に支えてくれているだけで、クランケに恋愛感情を抱いているわけではないと思う。 典型的な政略結婚の妻だが、不満はない。カミアはフライメールを慈しみながら育ててくれているし、家のことや社交もしてくれるし、時折カミアが書いた美しく儚い恋の詩をクランケに読み聞かせてくれる。 クランケ自身ですら、何故自分の元へ嫁いでくれたのだろうと謎に思うほどできた妻だ。父親が宰相の覚えめでたく、彼女自身も才女であったのだから、婚約せずに社交界デビューすれば引く手数多だっただろうに。 よほどメイファルバ辺境伯家からの圧力がすごかったのかもしれないな、といつもと同じ結論を出して、クランケは眠りについた。 「……んんっ。久しぶりのアモン様の広背筋……!なんてたくましくて格好いいのかしら……!先月よりも長背筋がついていらっしゃるし、あぁ、本当、アモン様は理想の旦那様だわ……!」」 幸か不幸か、カミアが恍惚とした様子で漏らした言葉を深く眠ったクランケが聞くことはなかった。 |