“「彼女が美しい、と?以前の君はそう言わなかったのに。あぁ、彼女が美しいのは、間違いなく君が彼女を美しいと思っているからさ」”

出典:チャイキー・セゼリンス作『忘却の芳香』







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 年末のオルヴィア王国王都は、雪が降ることが多い。
 と言うより、この時期の騎警団員の体力向上訓練には大抵雪かきが含まれるくらいだから降るのが普通で、降らなかった年は新聞記事になるほどめずらしいことだ。
 今年の年末も例に漏れず、昼過ぎから降り始めた雪は、午後9時を過ぎた今も降り続けている。このぶんだと新年の朝まで降り続けるだろう。
 暗闇にちらちらと混じる白い雪片を眺めてから、シャルロアは机の上に積まれた書類に向き直った。
 ――終わんない……。
 年末は第6師団にとって忙しい時期である。予算や経費の最終決定書類の決裁、新年の人事公表に向けての準備などなど、やることがいっぱいなのだ。第4師団長付きであるが所属は第6師団であるシャルロアも、第4師団員の人事公表やら給与最終決定の確認やらを任されている。
 その結果、一年最後の日はこの第4師団勤務室で迎える、と覚悟した。
 幸い、夜は魔女の味方であるので15分の睡眠を取れば大丈夫だ。徹夜を覚悟している今ほど、この魔女の体質に感謝したことはない。
 ――シェストレカ師団長は、さすがにしんどそうだもんね……。
 シャルロアが横目を使う先にいる師団長は、年末の激務で隈ができていた。上級士官も、作成しなければならない書類が山ほどあるので忙しいのだ。居眠りをしているところは見ていないが、それでもそろそろ限界であろうことはシャルロアにもわかる。
 シャルロアはペンを置いて、シェストレカ師団長の席の前に立った。

「シェストレカ師団長。そろそろ仮眠を取った方がよろしいかと思います」
「…………」
「師団長?」
「……えぇっと、メル君?すみません、ぼんやりしていました。もう一度言っていただけますか?」

 ぼんやりしていた、と言いながらも手元はしっかり署名を続けていたことが、逆に疲労を濃く感じる。

「シェストレカ師団長……仮眠を取られた方がいいと思います」
「あぁ、そうですね……これでも今年は君がいるので、まだ楽な方なんですが」

 毎年これ以上の激務を続けていた、と暗に語る師団長に、シャルロアは涙が出そうだった。ただでさえ年末特有の書類に忙殺されそうな勢いなのに、第4師団員たちは不備満載の書類を変わらず作ってくれるのだ。もはや軽々と殺意を通り越して、泣きたくもなる。
 師団長はペンを置いて、疲れた様子で目頭を揉んだ。

「えぇ……これは少々指揮にも影響が出そうなので、さすがに三時間ほど仮眠を取ってきます。通信があった場合、イザラント君か分隊長がここにいれば彼らに伝えて判断を委ねてください。いなければ、仮眠室へ私を起こしに来てください」
「了解しました」

 立つことさえ億劫そうな様子でシェストレカ師団長は目頭を揉みながら立ち上がり、勤務室を出て行った。
 その疲労困憊な後姿を見て、シャルロアは放置していた疑問を思い出した。
 ――第4師団って、なんでソファを置いてないんだろう。
 冬は床が冷えるためか、師団員は椅子に座って仮眠を取ることが多くなった。今も勤務室内には机に上半身を伏せて眠っている師団員が幾人かいる。どうせここで眠るならば、長いソファでも端から入れておいた方が仮眠を取りやすいのではないだろうか、とシャルロアは入団して一カ月もしない間に思ったのだ。
 シェストレカ師団長が寝る間を惜しんで仕事をしているのは、おそらく仮眠室が遠いせいもあるだろう。いっそ勤務室内に仮眠できるソファがあれば良いのでは、と考えていると扉が静かに開いた。

「あれ、メルだけか?シェストレカ師団長はどこに?」
「ネイド分隊長」

 普段は猫のような吊り目を丸くして入って来たのは、ラジ・ネイド分隊長だった。席に姿がないのを確認した青い瞳は、なおもシェストレカ師団長の姿を探してきょろきょろしている。

「師団長は仮眠を取りに行かれましたよ」
「そうなのか。報告書書き上げてきたんだけど、机に置いといていいのか?」
「提出前に、私に見せていただけますか?書類に不備がないかどうか、確認させてください」

 シェストレカ師団長の仕事を減らすべくそう申し出ると、ネイド分隊長はシャルロアの元へ寄ってきて報告書を渡した。
 ざっと確認した――時点ですでに不備がある。

「ネイド分隊長。日にちが抜けています」
「あっ」

 うっかりしてた、と苦く笑いながら彼は後ろに撫でつけた栗色の髪を掻いた。
 シャルロアが報告書を返すと、彼は近くの机にあったペンを借りて日付を書き足す。

「他、直すところは?」
「私が指摘できるのはそれだけです」

 第4師団員であるわけではないので、基本的な書類不備を指摘するくらいの知識しかシャルロアにはない。足りていない子細な報告の指摘などはシェストレカ師団長の仕事となる。

「そうか。ありがとうな」
「いいえ」

 ネイド分隊長はシャルロアの返答を聞いて、師団長の机に報告書を提出した。
 ――そういえば、ネイド分隊長なら勤務室にソファが置かれてない理由を知ってるかも?
 ネイド分隊長は現在35歳で、第4師団に入団してから10年経つベテランだ。もしかすれば、シャルロアの疑問の答えを持っているかもしれない。

「あの、ネイド分隊長。お聞きしたいことがあるんですが」
「ん?」
「師団長がなかなか仮眠を取られないのでずっと疑問に思っていたことなんですけれど、どうして勤務室に大きめのソファを入れないんでしょうか?簡易的なベッド代わりに出来そうな気はするんですが」
「あー」

 ネイド分隊長は、理由を知っているらしい。何かを思い出すように宙の一点を見つめて、渇いた笑みを浮かべた。もうこの時点で、嫌な予感がシャルロアにはあった。

「俺が入団したころにはあったんだよ、ソファ」
「そうなんですか?現在ないのは何故……?」
「10年くらい前の第4師団って、マジで人手が足りなくてな。一時期勤務室が寮みたいになった結果、仮眠するのにソファの争奪戦が始まって、流血沙汰になった」

 ――は?
 さすがに理解が及ばず、シャルロアは呆然とネイド分隊長を見るが、彼の表情からは冗談の欠片も見つからなかった。

「それは……比喩ですよね?」
「いや、文字通り」

 一瞬の無言が二人の間に横たわる。
 目の前の人は、昔あったことを嘘偽りなく話している。魔女の異能を使わずとも確信できる説得力がそこにあった。

「それでシェストレカ師団長……いや、あの頃はまだ副師団長だったか?まぁ、シェストレカ師団長がブチ切れて、当時置いてあったソファをバッキバキに壊して捨ててから、第4師団勤務室にソファを入れることを禁止して、当時の師団長もそれを許可した」
「わぁ」

 それ以外に何が言えただろう。シャルロアは死んだ目のまま微笑んだ。

「この話の教訓は、第4師団員でも食事と睡眠を削ると人間性がなくなる、ってことだな」

 教訓とすべきところはそこではない気がしたが、言っていることはあながち間違っていないので非常にツッコミづらい。
 しかしとりあえず机に伏して眠っている団員たちの姿を見て、現時点でも勤務室にソファは入れない方が平和かもしれない、とは思い直した。あった方が便利なものをシェストレカ師団長が入れていないのには、それなり以上の理由があるのだ、と改めて思い知るハメにもなったが。
 少々頭が痛くなってきたシャルロアの耳に、また扉が開く音が聞こえた。

「――からさ、お前は真正面からのやり合いに弱いわけ。不意打ちも立派な戦術だけど、それが通用しなかったときのために剣の腕も磨いておけよ、フェンナー」
「うっす……」
「ウルグは腕を上げたな。ちょっと力加減間違えたが、大丈夫か?」
「大丈夫です、エメレーク先輩!俺、回復力あるんで打ち身とかなら1日で治ります!医師のお墨付きです!」
「まじか……。え、あー、ジレニア先輩は……。運で引き寄せた犯人相手に死ななきゃいいんで、気を落とさずに」
「止めろ。新米に負けかけた俺にだけ優しくするの本当止めろ」

 そんなふうにわいわいと話しながら入って来たのは、第4師団員最年少のウルグに、同い年で最近入団したばかりのフェンナー、運によって犯罪を吸い寄せる体質のジレニア、ネイド分隊に所属するダタン・エメレークだった。
 エメレークは、少々人の目を惹きやすい容姿の師団員である。
 と言っても美男であるとかそういったわけではなく、光の当たり方で色が変わるように見える榛色の美しい瞳と、その瞳を際立たせる褐色の肌の取り合わせが神秘的かつ野性味を感じられ、見る人の記憶に残りやすいのだ。

「なんだ、お前ら。訓練帰りか?」

 ネイド分隊長が笑いながら問いかけると、ウルグが答えた。

「あ、お久しぶりですネイド分隊長!エメレーク先輩に戦闘訓練してもらってました」
「へぇ。エメレーク、お前はもう仕事上がってんだろ?熱心なこった」

 ネイド分隊長の言葉を聞いて、疲れた顔をしていたジレニアが目を丸くしてエメレークを見つめた。

「そうだったのか。悪いな、訓練に付き合ってもらって」
「いいんすよ。明日丸一日休み貰ってるんで、身体がなまらねぇように体を動かしておきたかったし」

 エメレークは榛色の瞳を細くして、自分の赤毛を触りながら気負わずに笑う。
 明日は休日、と聞いてウルグがうらやましそうな顔をした。

「エメレーク先輩、明日休みなんですか?いいなー、新年の一日に休みなんて」
「いいだろ?おかげで三年ぶりに『明星の祈り』に参加できるぜ」
「へぇ、『明星の祈り』なんてうちは爺さんと婆さんしか参加してなかったのに……エメレーク先輩、信心深いんですね」

 『明星の祈り』とは、新年一日目の陽も昇らぬ早朝に教会で神への祈りを捧げる行事のことだ。ウルグの言うとおり、近年ではその風習は廃れ気味であり、熱心に行っているのはシャルロアの祖父母やそれに近い世代くらいなものだ。若者たちは新年の早朝に教会へ行くことはあまりない。
 あるいはかなりの田舎であれば、と村出身のフェンナーの表情を見れば彼も驚いていたくらいなので、やはり出身地に関わらず若者全般が『明星の祈り』に馴染みがないのだろう。思い返せばシャルロアも幼いころに一度行ったくらいだ。

「お前たちは知らなかったか。エメレークは験を担ぐ人間でな、初めて担当した事件が解決したときクイムを食ってたから、つって今でもクイムを持ち歩いて食ってる」

 笑うネイド分隊長に促され、エメレークはズボンのポケットから殻がついたままのクイムを取り出した。クイムとは硬い殻に覆われた木の実でおいしいことをシャルロアは知っているが、それ以上に気になることがあった。
 ――持ち歩いて食べてるって言ったよね?
 クイムの可食部は硬い殻に覆われた中の種子である。殻がどれだけ硬いかと言うと、殻を割る専用の器具があるほど硬い。
 しかしエメレークのポケットには、どう見ても器具が入っているようには見えなかった。

「エメレークさん、そのクイム……」

 どうやって割ってるんですか、と問う前にエメレークはシャルロアに向かってニカッと笑う。

「食うか?」

 バキ、と手の中から聞こえてはいけない類の音が聞こえた後、開かれた手には粉々に砕けた殻と丸々とした種子があった。
 机越しに投げて寄こされたクイムを受け取り、シャルロアは遠い目をしながら微笑んだ。
 ――林檎以上のものを潰せる人、いたんだなぁ……。
 それ以外の感想を持ってしまってはいけない気がして、シャルロアは深く考えるのを止めてもらったクイムを口に入れた。とりあえず、香ばしくておいしいクイムに罪はない。

「あ、そうでした。皆さん、制服に関する連絡事項は聞かれましたか?」

 ふと思い出してシャルロアが確認すると、ネイド分隊長とジレニアとフェンナーは頷いたが、エメレークとウルグは怪訝な顔をして小首を傾げた。

「なんか連絡あったっけ?」
「嘘だろエメレーク、お前俺と一緒に聞いたじゃねぇか。徽章の仕様変更に伴い徽章部分が新調されるって」

 少々呆れ顔のネイド分隊長に言われて、エメレークは思い出したらしい。あぁ、と声を漏らした。

「アレか」
「お前らはいいよな、分隊長は仕事が増えるんだぞ」
「俺らだって死んだ仲間の徽章を持ち帰らなきゃいけないようになるんだから、お互い様じゃないですか」

 軽い言い合いになりそうなところで、シャルロアは口を挟んだ。

「ご負担でしょうけれども、新しい制服に関しては新年から着用する努力義務が課せられるので、お手隙のときに第6師団か第6部隊を訪ねて徽章を受け取ってくださいね」

 ちなみに騎警団での『努力義務』は『とっととしないと懲罰課すぞ』と同じことだと、第6師団の先輩方から聞いた。

「はいはい」

 了承するエメレークの傍らで、ウルグが自身の制服をじっと見つめる。

「騎警団の制服って、ちょくちょく細かいところが変わりますよね。なんでなんだろ?」

 ウルグの言葉に、シャルロアは少々驚いた。今年入団したばかりのシャルロアは、制服が頻繁に変更されているのを知らなかったのだ。
 ――でも見てわかるほどの意匠変更には覚えがないんだけど……。
 第4師団員の中でも新人とされるウルグが『ちょくちょく』変わると言っているのだから、ここ数年の間に何度か変更があったのは推察できる。しかし士官学校にいたシャルロアが気がつかないほどの変更、となると細部の変更としか考えられなかった。
 ――ボタンとかを変えてるのかな?でもそんな微妙な変更をなんで……?
 疑問に軽い口調で答えたのはネイド分隊長だった。

「偽装防止だ。ネズミがどっからかうちの制服を入手できたとしても、こうやって度々細部を変えてりゃネズミを暴きやすくなるし、いつの時代の制服か絞れることで入手経路がわかるだろ」
「あー、なるほど」
「フェンナーの事件のときに、ネズミが内部に入った可能性が高いっつってシェストレカ師団長が団長に報告して、ちっとばかし制服新調時期を前倒しにしたらしいぜ」
「それ、みんなに言われるんですけど、俺が犯人みたいな言い方やめてくれませんか……」

 フェンナーはげんなりした表情で力なく抗議する。その様子から察するに、第4師団員のほとんどがフェンナーの入団経緯を語るときはネイド分隊長のような言い方をするのだろう。
 一時的には犯人扱いではあったが、結果としてフェンナーは犯人ではなかった。だから『フェンナーの事件』と呼ぶのを止めてほしいようなのだが、そんなかわいらしいお願いをこの第4師団員たちが聞いてくれるはずがない。
 ――エレクトハさんも、最近『奇跡のしもやけ』って呼ばれてたもんな……。

「お前が持ってきた事件だろ」
「しかも師団長にな」

 エメレークがにやにやしながら指摘して、続いてネイド分隊長がにやにやしながら補足する。明らかにからかっていた。
 それに対してぶすっとした表情でフェンナーは答えた。

「だから師団長に恩を返すために入団したんじゃないすか」

 ――あー。
 フェンナーの言葉に、ウルグ以外の師団員たちは同情的な視線を彼に送った。
 ――そっかー、恩を感じてしまったかー……。
 それはある意味、悪魔に契約書を握られたのと同義語ではないか、と思うがシャルロアも他の師団員も指摘はしなかった。フェンナーが感じている恩が例えシェストレカ師団長による作為的なものであったとしても、今更知ったところで過去に与えられた恩はどうすることもできないのだ。
 おそらくフェンナーの性格からするに、作為的な恩であったとしても返す努力はするだろう。であれば、知らないままでいさせてやった方が幸せなのではないだろうか。
 シャルロアの考えに同じく至ったらしいネイド分隊長たちは、生温い笑みでお茶を濁した。





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 肩に重い痛みを感じてシャルロアが顔を上げると、時刻はちょうど新年を迎えたところだった。覚悟していた通り、何の高揚感もない年始を迎えてしまったものだ。
 ――あー、肩痛い。
 ネイド分隊長たちが退室してからずっと書類に向かい合っていたせいで、肩がひどく凝っている。シャルロアはいったんペンを置いて、目頭を揉んだ。この肩こりはおそらく、目の疲れからきている気がする。
 ―― そういえば、この時期に家族と連絡出来てないのは変な感じ……。
 去年までは学生だったから、家族とは新年を迎えるための最後の挨拶を手紙で交わしていた。なので寂しさとは無縁だったわけだが、今年は騎警団員となり、年末の仕事が洒落にならないほど忙しいため、手紙を書く暇すらなかった。一応両親やアルコ側からの手紙は届いたが、返事は返せていない。
 家族との穏やかな手紙のやり取りさえない年末年始はどこか物足りなくて、肌寒い。
 しかしこれからは、それが当たり前の年末年始の過ごし方になっていくだろう。
 ――これから、か。
 未来のことを考えると、シャルロアは時折恐くなるときがある。
 今はまだ、両親と弟がいる。離れていても繋がっている。
 けれど、遠い未来。両親が死去し、弟にも家庭ができたとき。
 この寂しさを抱えきれることができるのだろうか、と恐くなる。
 ――やらなければ。
 いつも思う疑問に、出る答えは同じだ。
 抱えきる。それを覚悟したはずだ、と。
 魔女である自分の心に深くに入れるのは、家族だけ。他人は入れない。
 友人には線を引き、恋人は作らない。そういう人生を歩むと決めたのは、他ならぬシャルロア自身だ。今更できない、なんて弱音は許さない。

『黙って、送られとけ。狼にはならないでやるし、あんな面もさせねぇよ』

 唐突に脳裏を過ぎったセリフに、シャルロアは息を呑む。
 ――どうして、思い出すの。
 記憶をよみがえらせるな、と命令しているのに、脳は勝手にあのときのことを思い出す。
 賑やかな光景を見て、寂寥感を募らせていた夜。あの男は無遠慮にシャルロアに近づいて、その気持ちを吹き飛ばして行った。
 ――考えるな。
 今なら、わかる。ファルガ・イザラントはあのとき、英雄としての観察眼ではなく、恋する男の観察眼によってシャルロアのわずかな異変に気づき、寮まで送ってくれたのだ。
 一つ気づいてしまえば、あとはもう芋づる式に、あれも、あのときも、と気づいてしまう。
 そうしてその結果、ファルガ・イザラントはどうしようもなく自分に惚れているのだ、と理解してしまった。
 ――これ以上、考えるな。
 理解したところで、止めなければならない。ファルガ・イザラントの恋心を理解したとして、それを――自分がどう思っているかを、思案してはいけない。
 シャルロアが彼に返すものは、拒絶か無視だけだ。
 決して、あの男を好き嫌いで語ってはならない。
 自分がまだ、あの人を好きでも嫌いでもない、と思っている間に、その不文律を心身に刻まなければならない。

「戻りました」

 扉が開くと同時に、シェストレカ師団長の声が室内にやわらかく響き、シャルロアはハッとして顔を上げた。
 短い仮眠から戻った師団長は、それでも先程よりは顔色が良くなっている。
 勤務記録機を押しながら、師団長はシャルロアに微笑んだ。

新年おめでとうございます(ジェシタ・オグ・デッヘン)、メル君」
「あ……新年おめでとうございます(ジェシタ・オグ・デッヘン)、シェストレカ師団長」

 まさか新年の挨拶をされるとは思っておらず、少々呆然としてからシャルロアが挨拶を返すと、師団長は笑いながら机に向かった。

「すみませんね、新年最初の御挨拶をイザラント君から奪ってしまいまして」
「いえまったくそれは全然何の惜しげもなく貰っていただいていいものなんですが」

 今まで脳裏にあった人物のことを話題にされて、シャルロアは内心ギョッとした。その動揺が思わず早口となって出てしまった。
 執務椅子に座ったシェストレカ師団長が、何やら自分をまじまじと見ている気がする。

「……なんでしょうか?」

 沈黙と視線に耐えきれず、シャルロアが尋ねると、師団長は「いえ」と微笑んだ。





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新年おめでとう(ジェシタ・オグ)

 カウンター席にて、カン、とグラス同士を合わせると、中に入っていた酒が揺れて少しだけ木の机に落ちた。ポタリ、という音さえも新年を祝う周りの声にかき消され、些末なことはどうでもよくなるような気分になる。
 乾杯したグラスをそのまま、一度も口を離さずグビグビと酒を飲んでいると、隣に座る男がぶん殴りたくなるようなニヤついた笑みを浮かべていた。

「カヴェット、言っとくが俺ぁ、お前が潰れても師団まで送ったりせずここに置いてくぜ」

 ユースル領地特産の琥珀色の酒を半分ほど飲み干して、レッティスはグラスから口を離した。

「アホ抜かせ、これぐらいで潰れるか。新年祝いの酒ぐらい好きに飲ませろ、ファルガ」

 ここ数年、新年に休みを取れたことなどなく、今日はたまたま受け持っていた魔物退治が完了したが故の休みだ。部下のエレクトハはさっさと師団に帰還したがレッティスと――イザラントは、この琥珀色の酒を味わうためにユースル領都の酒場にやってきた。
 第4師団内でも知る者はあまり多くないが、レッティスとイザラントは同郷の者であり、さらには幼馴染とも言えるような、言えないような、絶妙な関係にある。
 レッティス自身に語彙力がある方ではないので、この男との関係を正確に言い表すのは難しい。だが、一番正解に近い言葉は馬鹿な悪友、というものになるのだろう。
 何せ幼い頃から生活圏内に互いがいて、普通の遊びをするときには関わり合いにならないというのに、大人に叱り倒されるような遊びをするときには必ずお互いがいる、といった有様だ。別に示し合わせたわけではないが、大概馬鹿らしい遊びを思いつく時機が同じで、それを実行できるだけの馬鹿がお互いしかいなかった、ということが多すぎた結果である。
 その奇妙な意気投合のせいか、今でもレッティスとイザラントが同じ任務に就くと、必ずシェストレカ師団長から「君たちは行動を起こす前にエレクトハ君に一言考えていることを話すように」と苦言を呈される。信頼の欠片もない言葉である。

「そんで」

 レッティスは皿の上の腸詰肉をフォークで刺し、口に入れた。パキン、と皮が割れ、肉汁が溢れ出す。燻製されていたらしく、良い香りがした。

「せっかくの新年の休みだっつぅのに、何でお前は愛しのメルんとこに押しかけてねぇんだよ?」

 香りごと腸詰肉を琥珀の酒で流し込むレッティスに、イザラントも酒をちびりと飲んだ。

「年末年始だぞ。俺が休みでもあっちが勤務中に決まってんじゃねぇか」
「ん?そうなのか?」
「てめぇ、何年師団に居んだ。この時期の事務が暇なわけねぇ」
「初めて聞いた」

 イザラントはぶふっ、と盛大に噴き出した後、にやにやと笑う。

「それ今度、俺がいるときに師団長の前で言ってみろよ?」
「あー。わかった、わかった。お前がそう言うってこたぁ、師団長に言ったら絞め殺される案件か。止めとく」

 この男は、平気で人を危地に追いやるので油断ならない。イザラントが全部発案、実行したことなのに、何故か自分が主犯になっていた遊びがたくさんあり、その度に自分だけがしこたま叱られた。まぁもちろん、逆も相当にあるのだが。

「つまり、メルの方が忙しいからファルガは寂しく俺と飲むしかねぇってわけか。はー、世の中何でもお前の手のひらの上じゃねぇってだけで、酒がうめぇな」
「悪友の恋くらい、応援しろよ」

 呆れた表情でこちらを睥睨するイザラントに、レッティスは首を傾げた。
 応援しろと本人が言うくらいだ。埋まっていると思っていたメルの外堀は、どうやら今の時点で埋まっていないらしい。

「あ?応援が必要なくらい、口説き落とせる見込みがないのか?」
「いや、ある」

 イザラントは、獲物を目の前にした獣のような笑みを浮かべた。
 女から見ればそれは、男の色気が溢れた微笑だったのだろうが、あいにくとレッティスには背筋がぞわぞわする気持ち悪い笑みにしか見えなかった。

「根拠は?」
「お前、ロアになんて呼ばれる?」

 思わぬイザラントの問いかけに、ぽかん、とした後、レッティスは記憶を探った。

「レッティス分隊長、もしくは分隊長」
「だろうな。他の分隊長も苗字か分隊長呼びだし、師団長にもそんな感じだ。エレクトハとかウルグも苗字で呼んでる」
「まぁ、そうだな」

 レッティスが同意すると、イザラントは笑みを深くした。

「俺は呼ばれたことがない」

 ――は?
 レッティスは言葉の意味が理解できずに唖然とした。
 ――呼ばれたことがない?

「は?お前、でも、呼びかけられるときはあるだろ」
「ある。が、ロアは俺を『副師団長』としか呼ばねぇ」

 そう言われて、記憶を探る。
 確かにレッティスが知る限り、シャルロア・メルはイザラントのことを『副師団長』としか呼んでいない。
 そのことに気づいたレッティスは、うわぁ……という感情を隠さず表情に表し、悪友から少し距離を取った。

「お前それは……見込みねぇんじゃねぇ?」
「アホか。逆だ、逆」

 引いているレッティスに、イザラントは眉根を寄せながら酒を口に含んだ。

「他の団員は苗字を呼ぶのに、俺だけ頑なに呼ばねぇのはある意味特別扱いになる。あの小賢しい小娘が、そんなこと知られたいはずがねぇだろ」
「あん?つまり、お前の名前を呼ばねぇのはわざとだと」
「それも違ぇよ。あいつは俺の気を惹きたくて呼ばねぇわけじゃねぇ。自分の無意識を制御することに手いっぱいで気づいてねぇんだよ」
「無意識?」

 イザラントは、それはそれは悪辣に微笑して見せた。

「あいつはな、俺の名前を呼んだら、俺を自分の領域に入れるような気がして避けてる。他の人間の名前は容易く呼ぶのに、俺だけ頑なに呼ばねぇのは、そりゃあもう、意識してますって言ってんのと同じなのにな。かわいい女だろ?」

 ――かわいい女、なぁ。

 カヴェット・レッティスは、ファルガ・イザラントのことを馬鹿な悪友だと思っている。
 世間がどれだけ『英雄』だの『雷鳴獅子』だの言おうと、レッティスだけはこの男のことを、馬鹿な、本当に、馬鹿な悪友としか見ていない。
 だからなんとなく、レッティスにはイザラントがシャルロア・メルのどこに惚れたのかがわかっている。
 あの少女は確かにかわいい、というか美人だが、イザラントはそこに惚れたわけではないだろう。おそらくメルの本質が、『雷鳴獅子』ではなく『ファルガ・イザラント』が抱える傷を埋めるものだったに違いない。
 それを踏まえて評するなら、シャルロア・メルは『かわいい女』ではなく、『男前な女』が正しい。

「……まぁ、誰かも言ってただろ。『あの女が美しく見えるのは、お前が美しいと思って見てるから』だとかなんとか」
「カヴェットとは女の趣味が違うからな」
「何もかも違うだろ。合ってんのは馬鹿やるときぐらいだ」
「違いねぇ」

 他の師団員が聞いていたら、そこだけは合わないで欲しい、と懇願しそうな話をして、二人はケラケラと笑った。

「つまるところ、メルはお前の名前を呼んだら惚れそうになる、と無意識に感じてるってことか。なんだ、勝ち戦じゃねぇか」
「それも逆だ。俺はずっと負け戦をしてんだぜ」
「あぁ?」

 笑うイザラントに、レッティスは顔をしかめた。
 イザラントはにやりと口端を持ち上げる。自信に満ちた表情だった。

「よく言うだろ?惚れた方の負けだってな」
「……そんなに悲壮感のない負け戦も珍しい」












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