ロロフォ伯爵令嬢の話は、ずいぶん聞きやすいものだった。主観と客観的事実がきちんと区別されており、彼女がどうやって薬の受け渡し現場を見たのか、その場にいる全員がすぐに理解できた。 「つまり5週間前、告解室の掃除をしている最中に、中にいるのが神父だと思った売人が入ってきて薬を手渡して出て行った、こういうことでよろしいですか?」 「さようでございます」 シェストレカの確認に、ロロフォ伯爵令嬢は頷いた。 シャルロアも魔女の異能で、彼女の言うことに矛盾がないことを確認した。 「その翌日、告解室の掃除をしたときにはすでに薬が入った袋はなくなっておりました。誰が回収したのかは存じません。それから5日ほど、教会内の誰が問題に関わっているのか見極めておりました。けれど結局のところ、誰が関わっているのかわからないまま……」 ロロフォ伯爵令嬢に触れている蝶が、映像を伝える。 暗闇が真一文字に裂かれて、薄暗闇へと変わる。寝ていたところ、目を開いたのだろう。ぼんやりと物の輪郭がつかめる程度の暗い室内は質素で、シャルロアの寮の部屋と変わらない内装だった。 「その日の夜、物音がして目覚めました」 令嬢はどうやら、刺繍をしながら居眠りしてしまったようだった。手元の刺しかけの刺繍を見てから、ハッとしたように視点をドアに固定した。異能では音を拾えないが、彼女の言う物音はもしかするとドアの外から聞こえたのかもしれない。 ドアを見つめたままの彼女は、視界の端で刺繍を机に置いて、じりじりと静かに椅子から立ち上がった。 「自室に鍵はかけておりました。けれど、鍵を挿し込む音が聞こえたので……」 令嬢はベッドのシーツを固く手にして、ドアに近寄った。 ドアが開く。 その瞬間、ロロフォ伯爵令嬢は持っていたシーツをドアを開けた人物に投げた。 「部屋にあったシーツを、ドアを開けた男に向かって投げ、相手が混乱しているうちに体を押して逃げ出しました」 「なんと勇敢な」 然しものシェストレカ師団長も、貴族令嬢のまさかの行動に目を見開いた。一方でクランケ分隊長は天晴れ、と言わんばかりに瞳を煌めかせている。それらに対して、ロロフォ伯爵令嬢は微苦笑を浮かべた。 「生き残ることに必死でした。部屋を訪れたのが神父や修道女であれば、扉を叩いたはずです。または、強盗などであれば鍵を壊して入ってきたはず。けれどその夜の侵入者は鍵を開けました。つまり、神父が侵入者に鍵を渡したとしか考えられず、私はそのまま教会から逃げたのです」 それから彼女は夜を徹して、領境にある山の中を逃げ続けた。町へ向かわなかったのは、もし町人の誰かに姿を見られた場合、引き留められて神父の元へ連れて行かれてしまうかもしれない、と思ったからだと言う。 記憶を覗けば、確かに令嬢は暗い夜の山を走り、歩き続けていた。 月と星の明かりだけを頼りに山の中を移動するのは、恐ろしい。異能を持つシャルロアでさえそう思うのだ。身を守る術を持たない令嬢ならば、身も凍るような思いだったに違いない。 そうして丸1日歩き通して、やっとの思いで辿り着いた村がメイファルバ領リャラン――フェンナーのいる村だった。 彼女の口から語られたそこでの出来事は、フェンナーの証言と一致した。手当てを受けた部屋の内装、自警団の男の人相、フェンナーが斬りかかった順番、そういった細かいところまで完全に、だ。 ただ唯一食い違うのは、ロロフォ伯爵令嬢と妹が人質であったか否かである。おそらくだがフェンナーがロロフォ伯爵令嬢と妹に黙って出てきたのは、2人に害が及ばないようにするためだと考えられる。だから2人も罪に問われる可能性があると言われ、人質だと言ったに違いない。シェストレカ師団長もその辺りのフェンナーの言は信じていないだろう。 ともかく事件に関して、蝶が伝える記憶はフェンナー視点からロロフォ伯爵令嬢視点に変わっただけで、光景はまったく同じだった。シャルロアにとっては目新しい情報はなかったが、シェストレカ師団長たちにとって令嬢の証言は非常に意味があるものだ。 フェンナーとロロフォ伯爵令嬢が口裏を合わせている可能性は、もちろんある。だがしかし、人質の件を除いた細かい部分はフェンナーの証言と一致しているし、しかも故意に何度も同じ質問をしても、ロロフォ伯爵令嬢の答えは変わらない。一貫性があるのだ。 事情聴取や取り調べで団員が相手に対し何度も同じ質問をするのは、人間は吐いた嘘を忘れてしまう生き物だからである。吐いた嘘を忘れ、証言を揺らしてしまう。その矛盾を突く。シャルロアのような異能を持たない人間が常套手段とするそのやり方は、士官学校でも基礎的な知識として学んだ。 学んだシャルロアは、これで矛盾がなかった証言は信用度が非常に高いとされることを知っている。 ――シェストレカ師団長は、確認したって感じ? シェストレカ師団長とクランケ分隊長の表情からは、何も窺い知れない。だがしかし、彼らが何も考えていないはずがなく、その脳内では目まぐるしく現状を分析しているはずだ。 特にシェストレカ師団長は、先に聴取したフェンナーの言葉に一定の信用を置いているようだった。ロロフォ伯爵令嬢の証言は、その裏取り、といった面が確かにあったとシャルロアは思う。 ――2人の証言が真実だと理解されるといいけど……。 現時点では、フェンナーと令嬢の証言に矛盾がないことを確認した、程度にしか思っていないかもしれない。シェストレカ師団長たちが何を疑うべきか、それを真に決めるのはおそらく自警団側の証言も聞いてからだろう。 ロロフォ伯爵令嬢も、そのことをうっすらと感じているのかもしれない。彼女は懸命な様子で言い募った。 「フェンナー兄妹……フェンナーさまは、自身が指名手配されていると知ってから、せめて私だけでも家に帰そうとなさっておいででした。危険を冒してまで私の実家まで送り届けていただきましたが、残念ながら先に話した事態となり、第1部隊員に追い払われました。途方に暮れるしかない私をフェンナー兄妹は見捨てず、王都の第4師団に事情を説明しに共に行こう、と励ましてくれたのです。私は2人に深く感謝し、せめて王都までの旅費は出したいと思って自ら髪を売りました。この髪こそが、人質ではなかった証明になるはずです」 「その髪を売った代金ですが、まだ残っていますか?あるいは髪を売ったという証明できるものは?残っていれば証拠として扱いますが」 ロロフォ伯爵令嬢は苦い顔で膝に乗せた手を握りしめた。 「……お金は残っておりません。旅費に消えました。ですが、髪を売った店は覚えております。ロロフォにある『サインド』というかつら屋です」 「そちらのかつら屋に確認が取れるまで、貴女を共犯者として扱うわけにはまいりません。少なくとも本日は重要参考人として師団に泊まっていただくことになります」 「そんな……」 シャルロアの脳裏に、伯爵令嬢の記憶がよぎる。 道を歩きながら、フェンナー兄妹が令嬢を気遣う場面。フェンナーが食事を妹と令嬢に多くよそう場面。フォーラン・フェンナーが令嬢の短くなった髪を精一杯かわいらしく飾る場面。色々な、フェンナー兄妹の優しさに触れたと思わしき場面が目まぐるしく伝わってくる。 ――だめだ。これ以上見るのは、私事の侵害になる。 この記憶は捜査に関係ない、ロロフォ伯爵令嬢が大切にしている記憶だ。シャルロアが盗み見るわけにいかない。 慌てたシャルロアが蝶を消し去る前に、フェンナーのやわらかな微笑が見えた。 その微笑がもう一度繰り返される。 さらにもう一度。 ハッ、とする。 ――この人……。 異能を消しはしたものの、シャルロアは悟ってしまった。 ――フェンナーのことが、好きなんだ……。 彼女がフェンナーの罪が冤罪だと訴えるのは、命を助けてもらった恩人だからというだけではない。好きな人だから、無実だと知ってほしい気持ちもあるのだ。 「最後に。薬の名前を聞いたり見たりしませんでしたか?」 シェストレカ師団長の淡々とした問いかけに、ロロフォ伯爵令嬢はわずかに眉根を寄せた。 「……教会から出るとき、神父と侵入者がもめているような声を聞きました。そのとき『セハンヘナクトを知られている、追え』と言っていました。推察するに、その『セハンヘナクト』というものが薬の名前ではないかと思います」 「なるほど。ご協力ありがとうございました。宿泊施設にご案内致しましょう」 その言葉を聞いたロロフォ伯爵令嬢は、静かにため息をついた。 ******** ロロフォ伯爵令嬢を宿泊施設に送るシェストレカ師団長とクランケ分隊長とは別れ、第4師団勤務室に戻ってきたシャルロアは目を見開いた。 相変わらず床にはベッドに辿り着けなかった師団員が転がっているが、そんなものは今更である。シャルロアの度肝を抜いたのは、ファルガ・イザラントが机に向かって書類仕事をしている姿だ。 思わず入り口でギシリと固まったシャルロアに、書類に向いていた金の瞳が寄こされた。 「何やってんだ、てめぇ。聴取速記してきたんだろうが。早く書類に起こせ」 「はっ、はい」 ギリギリと歯ぎしりする屍たちをひょいと越え、シャルロアは自分の席に着いた。 ――仕事はするけれど!この人、なんで、勤務室にいるんだろう……。 そして何故、シャルロアの席の向かいの机で仕事をしているのだろうか。確かその席は本来、アートレート分隊長の席だったような気がするのだが。 内心混乱しながら無言で速記内容を書き起こしていると、シェストレカ師団長たちがロロフォ伯爵令嬢を送って戻ってきた。 「よろしい、大人しく仕事してますね」 そうからかいながら、シェストレカ師団長は自分の席の引き出しから手袋を出してはめる。 ――あれ? 「シェストレカ師団長、どこかにお出かけですか?」 シャルロアの質問で、シェストレカ師団長は今思い出したかのように口を開いた。 「そうそう。今回の事件は私が指揮を執ることにしましたので、イザラント君にしばし本部を預けます。私が戻ってくるまで、彼の命令に従ってくださいね」 シャルロアは、思わず手を止めた。 ――副師団長が本部勤務だと……!? 衝撃を受けると同時に、激しく納得した。そんな事態でなければ、あの『雷鳴獅子』が勤務室で大人しく書類仕事をしているはずがない。むしろ今の今まで、『雷鳴獅子』に本部勤務などないものだと思っていたくらいだ。あったんだな、という感動さえ覚える。 シェストレカ師団長は、にっこりと微笑んだ。 「良い機会ですので、親睦を深めるように」 誰とだ、とシャルロアが問う前に、床で眠っていたはずの師団員たちが一斉に起き上がった。 「ひっ!?」 恐怖小説のような光景にシャルロアの肩は思わず跳ねたが、上官たちは誰も動じない。心臓に毛が生えているどころの話ではない気がする。 そしてシャルロアを怯えさせた第4師団員たちは、ファルガ・イザラントに向かってそれぞれ敬礼した。 「俺、仮眠室で寝てきます!」 「俺も!」 「ベッドが恋しいところでした!」 「まだ寝足りないので仮眠室行きます!」 「どうぞごゆっくり、副師団長!」 ――え、なんで……なんて言うほど鈍くないぞコラァッ! 彼らの魂胆は、シャルロアにだって見え見えだ。第4師団員たちはなかなか本部に帰ってこないファルガ・イザラントと、本部から出ることが少ない事務員シャルロア・メルの仲を深めたいがために、2人きりにするつもりなのだ。 ―― そんなおせっかいされて堪るか! 適当に書き直しの書類仕事でも大量に押し付けよう、とシャルロアが口を開いた、まさにそのとき。 「何を言っているんだ、お前たちは。有事の際のために2人は残るべきだろう」 至極真っ当な指摘が、クランケ分隊長の口から飛び出した。 彼の発言のあとは、誰も何も言えない。重い沈黙が室内に満ちた。 「……なんだ?」 第4師団員たちは背後から味方に撃たれたような心境になっているはずだが、そうした張本人は不可思議な沈黙に怪訝な表情を浮かべ、小首を傾げている。 そして援護射撃員を撃たれたファルガ・イザラントは、笑いを堪えていた。 「……おう。クランケの言う通りだろ。2人残れ。俺に飯も食わせねぇ気か?」 そう言う彼の声は震えているし、口端もわずかに上がっている。その一方で、シェストレカ師団長は軽く天井を仰いでため息をついていた。反応が逆な気がするのは、シャルロアの気のせいではないと思いたい。 「私の配慮を返してもらえませんかね」 「俺に言うなよ。無下にしたのはクランケだぜ?」 「私に何かご配慮をいただいていましたか?申し訳ありません」 訝しげにするクランケ分隊長を見て、ファルガ・イザラントは今度こそ堪えられずに小さく笑った。 「あー、気にすんな。師団長の配慮がなくても、メルとは飯を食いに行く」 「行かないです」 うっかり流しそうになったが、そんな約束は一度もしていなかったのでシャルロアはきっぱり否定しておいた。冷えた返事に、ファルガ・イザラントは愉しげに笑う。 そのやりとりでようやくクランケ分隊長は思い至ったらしく、普段はキリリとした眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「そうですか。食事に出るなら、3人は残すべきですね」 いや、そこじゃない。第4師団員の声にならない叫びが、シャルロアには届いた。 シェストレカ師団長が呆れたように、クランケ分隊長の肩を押す。 「行きますよ、恋愛ポンコツ。君がいない方が確実に話が進みます」 「はっ」 ――クランケ分隊長、ポンコツって言われてるけどいいのかな……。 特に口答えすることなく、キレの良い返事をしてシェストレカ師団長の後を追って部屋から出て行ったが、彼はあの扱いでいいのだろうか。 戸惑うシャルロアをよそに、ファルガ・イザラントは勤務室に残った団員たちに指示を飛ばした。 「3人じゃなくていい。2人だけ部屋に残れ。人選は好きにしろ」 「あーとだーしまーけのっ、じゃーんけーんぽんっ!」 人選は好きにしろ、と言われて即座にじゃんけんで決める第4師団員たちを豪胆と見るべきか、いい加減と見るべきか。 「ぬぉぉぉ!」 「あああぁぁっ!」 「副師団長がメルを口説くっつう身の置き場が見つからない瞬間に居合わせずに済んだやったぁぁっ!」 「その瞬間を見ちゃう可能性がぁぁっ!」 ――そんな可能性はないから。 じゃんけんで勝った者は雄々しく喜び、負けた者はさめざめと泣きながら膝をつく光景を、シャルロアは冷めた目で眺めた。ファルガ・イザラントは我関せずといった態度で書類を捌いている。 いや本当に、包丁を使っていないだけで、書類を物理的に捌いていた。記入必須項目に記入がない要再提出の書類など、ビーと音を立てて破っているのだ。シェストレカ師団長は何故再提出なのかを説明する注意書きを残して突っ返しているのだが、ファルガ・イザラントは無常に破り捨てて、要再提出箱にガンガン放り込んでいる。 ――見習うべきだわ。 シャルロアは混沌めいてきた光景を横目に、決心した。色々無視しよう、と。 改めて机に向かい、シャルロアは仕事に戻った。 ******** 聴取記録を書き終えると、夜の10時を過ぎていた。 シャルロアはもう一度書き間違いがないかを確認し、真向いで仕事をするファルガ・イザラントに声をかけた。 「副師団長。聴取記録を書き起こしたので確認をお願いします」 「寄こせ」 伸ばされた手に、回り込んだりせずにこのまま渡して良いのか少々悩んだが、ファルガ・イザラントは形式よりも無駄を嫌う気がしたので机を挟んだまま書類を渡した。 思った通りファルガ・イザラントはそれに何も言わずに、ざっと書類を読んでサインする。 「確認した、問題ない。お前はもう上がっていいぞ」 「では……お先に失礼します」 残業はしばしばあるのだが、今日は仕事仲間がファルガ・イザラントに替わったせいか、非常に疲れた。この時間まで食事をとれなかったのも響いているかもしれない。集中が切れると酷い空腹を覚えた。 ――下の食堂で軽食を持っていこう……。 立ち上がったシャルロアに、ファルガ・イザラントが声をかける。 「気をつけて帰れよ。 「 返事をして、シャルロアは勤務室を出て階下に降り、明かりはついているものの人気のない食堂を覗いた。 騎警団の食堂は夜9時を過ぎると食事の提供を止めてしまうが、代わりにパンに肉や野菜を挟んだ軽食が用意される。食事を取り損ねた者は提供が始まる朝の7時30分まで、これを食べて空腹を凌ぐようになっているのだ。 軽食の横には紙箱も用意されていて、持ち帰れるようになっている。量は相当数あるので、夜食に持って帰っても良い。 シャルロアは寮に持って帰るつもりで紙箱に軽食を詰め始めたが、ふと、勤務室で仕事をしているファルガ・イザラントのことを思い出した。 ――あの人、ご飯いつ食べるんだろう……。 シャルロアを食事に誘っていた、ということは、夕食を食べていないのではないだろうか。少なくとも仕事をしている最中、彼は席を立たなかったので、シャルロアが仕事をしている最中は食事に行っていない。 ――シェストレカ師団長は、食事してる形跡があるんだけど……。 師団長もいつ寝ているのか謎なほど働いている人だが、食事の時間はうまくやりくりして作っているようだ。シャルロアが出勤すると、師団長の事務机の上に軽食を入れていたらしき空の紙箱が置かれているのを何度も見たことがある。 だからシェストレカ師団長に関してはそういう心配はしないのだが、あのファルガ・イザラントはどうなのだろうと考えてしまう。 ―― そういえばあの人、一人で食事してるところ見たことがないような……。 ファルガ・イザラントが何か食べているときは、だいたい誰かと一緒にいるときだ。 ――……一人だと食事を忘れてるんじゃないだろうな?いやでも、長年第4師団にいるんだから、ご飯を食べる暇なんていくらでも作れるはず……。 そういう要領は、長年の勤務で培っているはずだ。シャルロアが心配するまでもない。 『気をつけて帰れよ。 ない、のだが。 ――あぁ、もう! シャルロアはもう3つ空箱を取って、軽食を詰めた。 それを手にして、さきほど下りて来た階段を上がり、勤務室前まで戻ってきた。 そっと扉を開けると、気配に敏いファルガ・イザラントがすぐにこちらを見る。 「どうした?忘れものか?」 「あー、えっと」 言いながらシャルロアは中に入り、勤務記録機を一瞥する。ファルガ・イザラントは勤務中となっていた。 ――よし。 懸念事項を確認できたシャルロアはさっとファルガ・イザラントに歩み寄り、軽食が入った紙箱を差し出す。 「軽食を持ってきました。食事に行く時間が作れそうにないなら、どうぞお召し上がりください。そこで寝ているお二人の分もありますので」 ファルガ・イザラントは座っているので、今はシャルロアの方が見上げられることになる。金色の瞳でこちらを直視してくるファルガ・イザラントと目を合わさないよう、ささっと紙箱を机に置いて離れるが、気持ちが落ち着かない。 「……てめぇ」 ファルガ・イザラントは机に肘をついて、顔をしかめてため息を吐いた。 「俺が勤務中なのを狙って、かわいいことしやがって……」 「呪い殺されそうな声音なんですけれど!?」 ため息とともにつぶやかれたセリフの声は、非常に低かった。 「くっそ、明日の休憩時間覚えておけよ……いや、今から休憩を取るか」 真剣味を帯びた瞳に、シャルロアは間髪入れず踵を返した。 「 「ちっ!逃げ足の速い……」 本気で悔しがる声を聞きながら、シャルロアは猛獣から逃げるがごとく走った。 ******** 「レンレンレンレンさんレンさんレンさまレンさまレンさまぁぁぁっ!」 「うっさい!」 シャルロアが寮の同室者ローレンノ・ユーグスエの部屋の扉を小さく、しかし猛然と叩くと、中から迷惑そうな顔をしたローレンノが出てきた。眠ってはいなかったようだが、仕事を終えて私事の時間を邪魔され、非常にお怒りである。 シャルロアは「すみませんレンさま」とぺこぺこと頭を下げてから、ローレンノに迫った。 「レン、この前買った香水の香り気に入らなかったから捨てようかなって言ってたよね!?」 「はぁ?まぁ、言ったけど」 「ください、恵んでください、レンさま!ただとは言わない!何か買って返すから!今すぐください!」 「いいけど、何なの?男と逢引でもするわけ?」 「獣避けに使う」 「第4師団は事務員を魔物狩りに連れて行くの!?」 第4師団怖い、とローレンノが騒ぐが、シャルロアは構っていられなかった。 ――うあぁぁ!口説かれる期間が一時期なかったから、適切な距離感をいまいち思い出せない!やっぱり無視しておけばよかった!軽食持って行っただけなのに、なんであんな今にも口説いてきそうな雰囲気を醸し出すのか! 別にファルガ・イザラントだけに軽食を持って行ったわけではない。床で寝ている第4師団員たちの分も持って行った。恋愛的な好意だと思われる要素を除いたはずなのに、どこがあの男の琴線に触れたのかわからない。 ――待て。本当に、わからなくなってるのか? シャルロアは自身の思考をふと疑った。 自分は今まで、ファルガ・イザラントとは距離を置けていると思っていた。 けれどそれは正しい認識なのか? シャルロアは士官学校時代、同級生の男子の嫌いなものを知ることはなかった。独立記念祭も男子と過ごすことはなかった。 なのにファルガ・イザラントにはどちらも許している。 ファルガ・イザラントは珈琲が嫌いだと知っているし、独立記念祭では舞踏も踊った。 ――……全然距離を置けてないじゃない。馬鹿なの?危機感が足りてない……。 愕然とした。 のんきにファルガ・イザラントの食事事情を心配している場合ではなかった。もっとあの男に対して無関心でいなければならないくらいなのに。 ――とりあえず、明日近寄られないように香水をつけて行かなくちゃ……! ファルガ・イザラントが香水が苦手なのは、騎警団に案内されたときにわかっている。第6師団の勤務室は花臭いから嫌だと言っていた。なので香水をつけて行くことで、ファルガ・イザラント避けとしたい。 「レンさま、お願いします。ください」 「あげるけど、獣避けになるかは知らないわよ」 「なると思いたい……」 ぐったりとしながら、シャルロアは心の底からそう願った。 |