シェストレカは好きな季節を聞かれたら冬と答えることにしている。加えて、好きな時間帯を聞かれたら夜だと答える。
 つまるところ、シェストレカは冬の夜を好ましく感じているのだ。
 星の輪郭さえ感じられそうなほどに澄んだ、身が引き締まる寒さと静けさは思考を明瞭にしてくれる。逆に暑いのは苦手だ。茹だるような空気は、何もかもを溶かしてしまう気がする。
 ふぅ、とシェストレカは白い息を指先に向かって吐いた。呼気の湿り気を帯びた熱が、わずかに指を温める。しかし夜風がすぐにその熱を奪っていった。
 寒いのは好きだが、それは防寒が万全であればの話である。自身の筋肉で熱は保っているものの、外套も着ずにフェンナーを留置所に移すハメになったので普通に寒い。留置所が本部から少々離れた別棟にあるため外に出るしかなかったのだが、こんな七面倒臭い設計にした先人を恨めしく思える程度には寒い。
 ――若い頃はなんともなかったんですがねぇ。
 年を取って、多少なりとも筋肉は落ちたかもしれない。それ故、寒さが身に堪えるのか。
 隣を見れば、同じく外套を羽織っていないのに平然とした顔をしているクランケがいる。
 ――やはり年かもしれないな。
 はぁ、と白い息を吐いてから、シェストレカは本部に戻る道すがら、最近のメイファルバ領地に関することを彼から聞くことにした。

「君、最近巌君とやり取りをしていますか?」
「人並み程度には」
「頻度は?」
「季節の手紙のやり取りはします。荊妻が出せと口うるさく言うので」

 季節の挨拶となると、冬の手紙はまだ一月先の話で、秋の手紙ならば二月ほど前となる。情報としては微妙なところだ。
 しかしそれでも、領地の情報がないよりはマシである。シェストレカは、父親と手紙をやり取りするように助言してくれたクランケの妻に感謝した。

「メイファルバ領内で、麻薬が出回っていると聞いたことはありませんか?」
「あります」

 クランケははっきりと答えた。
 シェストレカの質問は、メイファルバ家に属するクランケにとっては話したいことではないはずだが、彼に上官の質問を無視したりはぐらかしたりするという選択肢はない。どこまでも騎警団員らしい男である。
 あくまでも質問されたならば、という但し書きはつくが。

「半年ほど前から新種の麻薬が出回っているようですが、売人から先を辿れずにいるそうです。次兄が『生産者を並べて端から銃殺したい』と手紙に書いてきました」
「君の家は相変わらずですね」

 シェストレカは呆れ顔を浮かべるしかなかった。
 メイファルバの次兄が非常に物騒な発言をしているが、これが武官の名門と名高い彼の家である。通常運転――よりも、少々過激であるが、それだけ相手が尻尾を出さずイライラしているのだろう。

「どのような麻薬ですか?」
「ハマると、得難い幸福感を感じるそうです。それから従順になるとも」
「……従順に?」

 あまり聞いたことのない症状にシェストレカが眉根を寄せると、クランケは補足した。

「気分がいいときに頼まれごとをされると、聞いてやりたくなることがありませんか?」
「あぁ、なるほど」
「これに加えて全能感もあるようなので、よけいに従順になります」

 どんな頼まれごとも、自分は叶えてやることができる。だから叶えてやる。それは傍から見れば、従順と言えるだろう。
 シェストレカは納得して頷いた。

「その麻薬の名は?」
「セハンヘナクトです」

 麻薬の名前を聞いたところで本部の玄関に着き、シェストレカたちは中に入った。廊下はひんやりとしているが、外に比べればずいぶんマシである。
 改めて今回の事件に関することをクランケに軽く説明しながら2階に上がった先に、自分たちを待ち構えていた様子のファルガ・イザラントがいた。
 彼はにやり、とあくどい笑みを浮かべた。

「悪巧みをしようじゃねぇか」

 後ろにいるクランケはファルガ・イザラントの言葉に首を傾げているが、シェストレカは同じくにっこりと微笑んだ。
 ――さすが、優秀な部下だ。
 ファルガ・イザラントに連れられて、使われていない小会議室に入った。もちろんクランケも道連れ……もとい、一枚噛んでもらうために連れてきている。
 扉を閉めたファルガ・イザラントは、月明かりが室内を静かに照らす中、獰猛に笑った。

「俺は、あいつが欲しい」

 シェストレカも目を細めた。緑色の瞳が、湖畔のように冷たく輝く。

「気が合いますね。私も欲しいです」
「あんたならそう言うと思ってたぜ」

 微笑み合うシェストレカたちの横で、クランケが額に手を当てて天を仰いだ。

「……確認ですが、お二人が欲しいとおっしゃっているのはドルキ・フェンナーのことでよろしいですか」
「そうだ」
「そうです」
「犯罪者を第4師団に入団させるのは、反対します」

 前を向きなおし、渋い表情を浮かべるクランケの言葉には、シェストレカも頷いた。

「それはもちろん、私だってそうですよ。犯罪者を第4師団に入れることは、絶対に許しません」
「俺もだ。クズを入れるつもりはねぇ」
「つまり、お二人はフェンナーが犯罪者だとは考えておられないのですね?」

 シェストレカは、笑みでそれに答えた。
 ――あの性根では、犯罪に手を染めることの方が難しいだろう。
 長年第4師団で勤めてきたからこそ、わかる。フェンナーの受け答えや振る舞い、雰囲気は非常に健全だ。やましいことをした人間の昏さがないし、説明にも一貫性がある。自分にとってマズいことを隠したり、はぐらかしている素振りがまったくないのだ。むしろ他人のために、自分の立場が悪くなることを選べる度胸がある。
 ――それが賢明なのか愚かなのか、善なのか悪なのかは、知りませんがね。
 彼が確かに愚かだと言える点は、問題に対する処理の仕方だ。フェンナーは何が何でも自警団の人間より先に、事件のことを騎警団に話すべきだった。捜査機関に事情を話した、という証拠作りが何よりも大事だったのだから。
 けれどフェンナーにはその愚かさを補って余りある、才能がある。

「集団の中で自我を保つのは難しい。君たちにもわかるでしょう?集団の意識に染まって当然なのが人間なのです。なのに彼は、自我を保ち続けた。染まることのない自我。あの稀有な才能は、第4師団にこそ置くべきです」

 フェンナーの言葉がすべて本当であると仮定すると、彼の成し遂げてきたことは第4師団員に欲しい資質だった。
 悪徳に染まることは容易い。ましてや周りの人間が皆そうであれば、流されても仕方ない。他人のことを気にせず、自分を貫ける人間など多くはいないのだ。
 だがフェンナーは染まらなかった。
 抵抗の仕方を知らない愚かさが足を引っ張っていたにしても、自身が周りと同調し、暴力に走ったり薬物に手を出すことはしなかった。閉鎖された村の中で、そうすることがどれほど難しかったかは想像に難くない。
 あの精神は、何にも揺るがないだろう。
 例え凶悪犯を目の前にしても、その思想に触れても、悪の魅力に心を奪われることはないに違いない。
 ―― それに自警団員たちの証言に関して気になることもありますしね。
 シェストレカはフェンナーの尋問前に、全騎警団宛てに送付された彼が起こした事件についての簡易資料を読んだ。そこでの捜査結果はフェンナー及びその妹(・・・)
が現在行方不明、である。
 それ以上もそれ以下も書かれていない。
 明らかにおかしい話だ。フェンナーは修道女――貴族の娘を連れていると言う。つまり、人質を連れているのだ。騎警団がそれを知っているならば、簡易資料や手配書には必ずその旨が一番最初に書き加えられる。例外はない。人質が殺されているかもしれない状況下であっても、生きている可能性が全く無くならない――死体が上がらない限り、人質あり、の表記は外されない。
 だがフェンナーの手配書や簡易資料には記載がないのだ。
 考えられるのは、騎警団はフェンナーが妹以外の女性を連れていることを知らなかった、これしかない。そして何故知らなかったのかを推察していけば、自警団員たちがその場に修道女がいたことを話していないという結論に達する。
 もしも自警団員たちが本当にありのままあったことをしゃべっているのであれば、何故真っ先に、連れ去られたはずの修道女のことを騎警団に話していないのか。疑問に思わざるを得ない。
 現在シェストレカが自警団員たちの証言ではなく、フェンナーの証言を信用する方に心が傾いている要因は、これであった。

「俺もフェンナーが犯罪者たぁ思えねぇな」

 ファルガ・イザラントもシェストレカの意見に続いた。

「ロンカに件の令嬢について探らせてみたが、確かに死亡届が出されてた。だが、死亡届を出す前に貴族籍除籍届も出してる。どう考えてもきな臭い」

 9歳の娘がいるクランケは不快そうに眉根を寄せ、口を開いた。

「娘が賊に襲われたというのに、貴族籍除籍?仮に、賊に純潔を散らされたという醜聞があったとしてもお粗末な対応です。能ある貴族ならば、もっと穏便に問題を処理する」

 貴族籍除籍は、重い処罰である。除籍者が出たとなると、それこそその一族の良識を問われかねないほどの醜聞であるため、滅多に除籍者は出ないし、出させない。その昔、当主に対して反抗めいたいざこざを起こしたシェストレカでさえ、父親と縁を切られて没交渉となったものの、貴族籍除籍までは至らなかった。実家の権力を使うことはもうできないが、ファン侯爵家の籍には一応名前がある。
 ファン侯爵家がおかしいのではない。むしろ、ロロフォ伯爵家の苛烈ともとれる後始末こそが異常だ。
 ――ロロフォ家には何かあるな。
 己も貴族であるが故に、シェストレカは稚拙な陰謀の臭いを嗅ぎとった。

「ある意味、フェンナーが令嬢を無理に家に帰さず連れてきたのは英断だったかもしれねぇぜ。除籍するような家だ、戻ったら謀殺される可能性がある」
「……確かに」

 クランケはしばし悩んでから同意した。可能性があることを視野に入れた方がいい、と思ったのだろう。

「それからあいつは、戦力としても期待できるだろ。何せ仲間の自警団員4人と自警団長を斬ったあげく、令嬢を連れて逃げてる。殺してねぇのがいいな。いくら第4師団勤務になるたぁ言え、容疑者を殺すしかねぇ程度の腕だと困る」

 ファルガ・イザラントの言葉に、クランケが興味を持ったかのように目を輝かせた。

「自警団の人間、それも5人相手にして逃げられたのですか」
「それは事実だ。手配書にもそう記載されてる」
「鍛えれば即戦力になりそうですね」

 武力に重きを置くクランケは、非常にあっさりとフェンナーの入団に鞍替えた。
 ――まぁ、フェンナーの話が本当ならば、ですがね。
 さすがにシェストレカも自身の勘だけで、フェンナーの話がすべて本当であると信じるわけにはいかなかった。勘と、せめて状況証拠が整わないことには、信じるに足るとは言えない。都合の悪いことを隠している可能性も無い訳ではないので、現時点で彼のすべてを信用してはいない。
 フェンナーの現在の罪状は、傷害、殺人未遂、逃亡、拉致といったところだろう。逃亡と拉致に関してはフェンナーの無罪が証明されれば問題ない。傷害罪と殺人未遂は幸いなことに、貴族令嬢が本当にその場にいたならば令嬢に危害を加えられる恐れがあった、ということで正当防衛が認められやすくなっている。これがフェンナーだけであれば、よほどの事情がない限りは過剰な正当防衛とされて罪に問われた可能性が高い。
 とどのつまり、フェンナーは貴族令嬢を守るために人を傷つけざるを得なかった、と証明できれば良いのだ。そのためには自警団の人間に話を聞く必要がある。
 ――幸い、証言者は5人。
 口裏を合わせる時間があったにせよ、5人の人間が真実でないことを語るのは難しい。どこかで、必ずそれぞれの話に合わない矛盾点が見つかるはずだ。メイファルバ基地の騎警団員が彼らの証言を聞いたのは、随分前だろう。時間が開いたことで以前話した内容を覚えておらず、馬脚を現す可能性もある。人間は本当に起こったことすら忘れる生き物だ。本当に起こっていないことを覚え続けられている人間がどれほどいるか、見ものである。

「今回『虎』絡んでんだろ?言っとくが、探りを入れるなら俺には向いてねぇ事件だぜ」
「わかっています」

 ファルガ・イザラントは国民には受けが良い英雄だが、貴族にも受けが良いか、と問われると違うと言わざるを得ない。
 優雅とは正反対な、苛烈な気性。荒事に慣れている騎士たちも、その出自は貴族である。特に名ばかりの貴族でない、生粋の貴族階級の騎士たちは、ファルガ・イザラントの粗野な振る舞いを否定的な目で見ている。
 もちろん騎士たちも命令や任務には従う。それができぬなら騎警団を辞めなければならない。
 だからファルガ・イザラントが陣頭指揮をしても彼らは従うだろうが、士気は高揚しないだろう。第4師団に属する貴族階級の人間は、多少なりともファルガ・イザラントに敬意を持っているが、それが特殊なだけで、第1の騎士はそうではない。
 一線を引かれている状況で、メイファルバ基地第1部隊の誰が、どれだけ、元傭兵の男と親密であるかを探るのに『雷鳴獅子』は向いていないのである。

「今回は私が率います」
「あんた自ら?」
「クランケ君とロンカ君を連れて行くので、君はいい子でお留守番していてくださいよ」
「本部勤務かよ」

 あからさまにファルガ・イザラントは顔をしかめた。

「君までいなくなったら、誰が第4師団の指揮を執るんですか」
「アートレートに任せりゃいいだろ。将来の予行練習として」
「副師団長を差し置いて、分隊長が本部を仕切ってどうするんです?書類仕事もやろうと思えばできるんだから、つべこべ言わずやりなさい。しばらくは仕事終わりにメル君を食事に誘うことができるんですよ」

 彼女が頷くとは限らないが。
 ファルガ・イザラントはそれを百も承知で、にやりと笑った。

「仕方ねぇ。餌に釣られてやる」

 大人しく引き下がったファルガ・イザラントに驚いたのは、クランケだった。

「嫁を娶る気になった、というのは本当だったのですか」
「あん?本当じゃなきゃ、お前がそんな話を知ってるわけねぇだろ」

 所帯を持たせたがる上官がいるんだぜ、とファルガ・イザラントがこちらを見るが、シェストレカは黙殺した。英雄の身でありながら、いつまで経っても独身なのが悪いのである。
 そこでふと、シェストレカは思い出した。

「そういえば、クランケ君のところは愛妻家の反対なんですよね」
「あぁ、愛夫家の嫁さんな」

 クランケは真面目な顔で小首を傾げた。愛されている本人は、自覚がないらしい。
 仕事に関しては手腕を振るうクランケだが、私事――特に男女のことに関しては、有り体に言ってポンコツである。政略結婚だったことも、愛されている自覚がない要因になっているかもしれないが。
 少なくとも生粋の貴族のお嬢様だった女性が使用人を使ってではなく、自ら夫の着替えを持って渡しに来るのだから、愛されているだろう。それもかなり、と言っていいほどには。

「あー、鈍い男はいけません。燃えるような恋をする男が良い男ですね、やはり」
「ふーん?俺や、フェンナーのような?」

 口端を吊り上げるファルガ・イザラントは、シェストレカの言葉の裏を探っている。否、わかっているだろう。
 シェストレカは微笑んだ。

「恋に浮かれる男は扱いやすい」
「それでこそあんただ」

 『雷鳴獅子』は喉を鳴らして嗤った。





********





「今日はこのまま上がりだと思っていたんですけどねー」

 『フェイヅランの宿』へ向かっている途中、部下のロンカがそうぼやいた。

「仕方あるまい。命令だ」
「僕だってわかっていますよぅ。でも、あたたかいベッドの誘惑がぁ」
「寮の部屋だろう。ベッドは冷えている」
「僕、下に毛布を敷いて寝る派なので」

 眠そうな目をキリリと吊り上げているつもりらしいが、クランケからすればいつもと変わりない、とぼけた顔がそこにあるだけだったので無視した。
 無視するなんて酷いですよぅ、と言うロンカの声が、夜の王都のざわめきに溶けていく。
 フェンナーが部屋を取ったという『フェイヅランの宿』は貴族が使うような宿ではなく、平民、それもあまり裕福でない人間が好んで使う類の宿である。その近隣は飲み屋が多い繁華街だと言えば、どのような層の人間が使うか想像が容易につくであろう。
 しかし治安が悪いというわけではない。何せ王都は、王と騎警団のお膝元だ。そもそも都内はオルヴィア王国一治安が良いので、繁華街があるからという理由だけでその区画が犯罪に塗れるようなことはない。せいぜい酔っ払い同士のいざこざがある程度だが、それだって騎警団の留置所に一晩放り込んでおき、頭が冷えて反省の様子があれば釈放するようになっている。
 ――令嬢が本当に伯爵令嬢であれば、ふさわしくはない区域の宿だが……。
 最低限の安全は保障されているはずだ。そこは目をつむらなければならないだろう。
 家路を急ぐ者たちよりも、酒や華やかな女を求めて歩く者が多くなってきたところに、目的の宿を見つけた。
 クランケとロンカが宿に入ると宿の店主は当然のごとく目を丸くして、何事かと受付の机から慌てて出てきた。騎警団の制服を着た者が訪ねて来たのだから、店側としては肝が冷える思いにもなる。
 ロンカが身分証を提示して事情を軽く説明すると、店主は快くフェンナーの連れが泊まっている部屋を教えてくれて、鍵を預けてくれた。
 ロンカがやり取りしているその後ろで、クランケは素早くその店の雰囲気や細かいところを油断なく確認する。受付広間は清潔に保たれており、そこに置かれた椅子や机も安物ながらキレイなもので、壁や床の争い跡は目につくほど多くはない。店主の態度もおかしな様子はないので、ぼったくりなどする粗悪な宿ではないようだ。
 鍵を受け取って振り向いたロンカにわずかに頷くと、彼もその意図を理解し、店内をじろじろと見ることはしなかった。
 教えられた部屋を訪ねるために宿の2階に上がり、薄い木製のドアをロンカが叩いた。

「はい」

 わずかな間のあと、扉が開いた。
 そこに立っていたのは、あごまでしかない金色の髪と秋の月のように少し冷ややかな黄色の瞳を持つ女性だった。
 ――短い金の髪。月色の瞳。
 面識はないが、シェストレカ師団長から伝えられた特徴通りの女性だ。おそらく彼女がリシーナイン・ロロフォ・サリアだろう。
 ロンカとその後ろに立つクランケの装いを見て、彼女は一瞬目を瞠りはしたものの、すぐに動揺を隠して静かな笑みの仮面を被った。

「何か、ご用でございますか?」

 ――確かにこれは、貴族の女性だ。
 感情の隠し方が滑らかだ。平民であればもっと感情豊かなものだが、目の前の女性――ロロフォ伯爵令嬢は感情を押し殺していることを不快に思わせない術を知っている。それは貴族が身に着ける技術である。
 それに扉の開け方、姿勢、話し方、すべてに礼儀作法を習った気配があるので、どう見ても良家の出だとしか思えなかった。
 ――少なくともフェンナーが騙されていたわけではなさそうだな。
 クランケが密かに納得している前で、ロンカが眠そうな顔に笑みを浮かべ、真摯にロロフォ伯爵令嬢に話しかけた。

「僕たちは第4師団員です。先ほどドルキ・フェンナーが騎警団に出頭し、伯爵令嬢と妹を人質として連れていたと話したため、貴女方を保護しに参りました。ご同行お願い致します」

 ロンカの言葉にロロフォ伯爵令嬢の顔色がサッと蒼くなった。
 と、同時に、彼女の後ろから「なんですって!?」と若い女性の声がした。
 クランケが部屋を覗く前にドアが大きく開かれて、声の主がロロフォ伯爵令嬢の隣に並ぶ。
 クランケとロンカは、声を失った。度肝を抜かれた、と言ってもいい。

「兄が、出頭したですって?彼女と私を人質として連れていたと?」

 怒りで赤い瞳が濡れてキラキラと光る彼女は――美しかった。
 神がかり的な美しさ、と言うしかない。肩までしかないが老婆とは違う艶やかな白髪も、それに負けぬほど白い肌も、赤い頬と唇も、鼻や目の配置も、完璧な美しさだった。
 第4師団には美男と呼ばれるエレクトハがいる。しかし彼は男であるので、クランケもロンカも、彼相手に良い奴だなと思うことはあってもうっとりと見惚れることは、ほぼない。初対面したときに美男だな、と心底感心した程度だ。同性相手にそう思わせること自体が稀有であることは認める。
 だが目の前の少女はエレクトハとは違う、異性で、嫋やかで、儚げで、神秘的な雰囲気が実に男心をくすぐる。守ってやりたいと思わせる少女だ。
 クランケは妻帯者であるのでその美しさに目が眩むことはなかったが、ロンカは独身で付き合っている女性もいないものだから、頬を赤らめて彼女に見入っていた。天使でも拝んでいるかのように。

「あの、クソヘタレ……!」

 しかし天使は、口が悪かった。
 おかげでロンカが正気に戻ったので、クランケは少女の口の悪さに感謝した。正気を失ったままだと仕事にならないので、手早くどつくかと思ったところだった。女性の前で手荒なことをせずに済んで良かった、と他人が聞けばまず間違いなく物騒だと言われることを考えながら、クランケは口を開いた。

「貴女がフォーラン・フェンナーさんですね。こちらの女性がリシーナイン・ロロフォ・サリア伯爵令嬢とお見受け致します」

 クランケの淡々とした低い声は女性たちに威圧感を与えたらしく、2人は顔を強張らせた。
 しかしすぐにフォーラン・フェンナーは眦を決して、クランケを見据える。

「……そうです。私はフォーラン・フェンナー。ドルキ・フェンナーの妹です。リシーはともかく、身内の私が人質として連れられていたなんておかしいでしょう。私は兄の逃亡の手助けをしていました。兄が犯罪者なら、私も共犯者です。犯罪者としてお連れください」
「ならば、(わたくし)もです」

 怒りか恐怖か、震えるフォーラン・フェンナーの白い手にそっと自身の手を重ねたのは、ロロフォ伯爵令嬢だった。
 顔色は青いが、その物静かな瞳はしっかりとクランケを捉えている。

「私が彼らとともにあったのは、私自身の意思です。フェンナー兄妹は一度たりとも、私の意思を尊重しなかったことはございませんでした。どうぞ、私も犯罪者としてお連れくださいませ」

 凛とした一歩も譲らぬ声音を聞いて、クランケとロンカは共通の認識に至った。
 この女性たちは――非常に面倒臭い。





********





 シャルロアが本日2回目となる記録係としての仕事を始めたのは、午後8時を回った時間だった。夕食を完全に食いっぱぐれてしまったが、仕方がない。仕事が最優先であるのはわかっているし、何より事情聴取を行うシェストレカ師団長とクランケ分隊長だって食事をとっていない。不満の垂れようもなかった。
 シェストレカ師団長の対面に座るのは、緊張した面持ちのロロフォ伯爵令嬢である。
 貴族の令嬢に第4師団長直々の事情聴取は辛いのでは、とシャルロアは内心ハラハラしたが、ロロフォ伯爵令嬢は凛とした態度で聴取に臨んだ。

「手錠をかけなくてもよろしいのですか?」

 ロロフォ伯爵令嬢の問いに、シェストレカは微苦笑を返した。

「被害者に手錠をかける規則はありませんので」
「私は、被害者ではございません」
「その訴えはとりあえず後で聞くとしましょう」

 伯爵令嬢の決死の訴えは柳に風と受け流し、シェストレカ師団長は手元の資料に視線を落とした。一方で、当然のことながらロロフォ伯爵令嬢はきゅっ、と唇を噛み、わずかに恨めしげな色を瞳に乗せた。
 ――おおう、さすが師団長……。貴族のご令嬢にも冷淡な対応……。
 会話の記録を取りながらチラ、と戸口に立つクランケ分隊長を見れば、こちらも眉尻をピクリともさせずに2人を見ている。今日の聴取は逃げたくなることばかりで、実に胃が痛い。

「これは形式上の確認ですが、貴女はリシーナイン・ロロフォ・サリア嬢で間違いありませんか?」
「はい」
「面倒で申し訳ありませんね。先ほど指紋を取らせていただいたので、すぐに正否がわかるかと思います。さて現在、貴女は戸籍上死亡したことになっています」
「存じております」
「では、貴族籍除籍となっていることは?」

 ロロフォ伯爵令嬢は、儚く消えてしまいそうな薄い笑みを浮かべた。

「存じませんでした。ですが、予想はしておりました」
「……心当たりがおありに?」

 ロロフォ伯爵令嬢は目を伏せ、微苦笑する。

「恥ずかしながら、愚父は愛で盲目となりました」
「思い出した」

 静かな聴取室に、クランケ分隊長の低い声が響く。その瞳はわずかに開かれ、やっと掴んだ記憶の切れ端を離さまいとしているかのような表情だった。

「ロロフォ伯爵は一度妻と死別しているが、そのあと後妻を取った。後妻との間には娘もいる。だが前妻との間にできていたはずの跡取り娘がまったく表に出てこないので、前妻に似て病弱なのではと噂されていた」

 シャルロアは速記し続けながらも、ひしひしと嫌な予感がしていた。
 ――ロロフォ伯爵令嬢、まったく病弱そうじゃないんだけど……。
 痩せているし、肌も貴族の令嬢としては荒れてしまっているが、病を患っているようには見えなかった。
 そもそも病弱であれば、逃亡生活など耐えられなかったに違いない。国家権力に追われる、というのは想像以上に精神や体力を削られるものだ。健康でない人間が騎警団の手から逃げ続けられるはずがない。
 ロロフォ伯爵令嬢は健康。これは疑いようがない。
 そして、社交が苦手だから出てこなかったというわけでもなさそうだった。先ほどからロロフォ伯爵令嬢は、立派にシェストレカ師団長に応対している。むしろ貴族の令嬢が第4師団の長を前にして、よくこれほど冷静さを保っているものだと感心するほどである。社交が苦手、この説もない。
 とくれば、簡単かつ平凡でありふれた答えが真っ先に出てくる。
 平民のシャルロアでさえ思い浮かんだのだ。貴族のシェストレカ師団長とクランケ分隊長はもっと早くに、その可能性に思い当たっただろう。
 と、そこで聴取室の扉が叩かれた。
 戸口に立っていたクランケ分隊長が扉を開けると、眠そうな顔をしたロンカが一枚の紙を分隊長に手渡した。
 それをざっと読んだクランケ分隊長が、師団長を呼ぶ。

「師団長。確認が取れました。目の前の女性はロロフォ伯爵令嬢です」

 その言葉を受けてシェストレカ師団長は改めてロロフォ伯爵令嬢に向かい、目礼した。

「これまでご無礼をお許しください、ロロフォ伯爵令嬢」
「気にしておりません。すでに貴族でもありませんので」

 ――いやいや、十分そのやり取りは貴族っぽいよ。
 交わされる上品でありながら形式ばったやり取りは、平民にはないものだ。しかしそれを物珍しく思うのはシャルロアのみで、ロンカはあっさりと扉を閉めて出て行ってしまうし、クランケ分隊長も見慣れているふうだった。
 もちろんシェストレカ師団長とロロフォ伯爵令嬢もそうであり、早々に本題に戻る。

「では話を戻しますが、貴女の御父君は今回の騒動をこれ幸いとして、貴女を貴族籍から抜いた上で死亡届を出したということでよろしいですか?後妻との間にもうけた娘に跡を継がせるために」
「……おそらくは」

 シェストレカ師団長の問いかけに、ロロフォ伯爵令嬢が小さく頷いた。
 その答えに、師団長はため息を吐く。

「申し訳ありませんが……御父君の伯爵としての資質を疑いたくなります。貴族籍に入れるには国王陛下の許可が必要ですが、籍を抜く方は許可を求められません。それぞれの家の当主に一任されています。報告は必須ですがね。なのでそれは問題ありませんが、死亡届は貴女がこうして生きている時点で、どう好意的に見ても偽造された可能性がある、としか言えません。有り体に言うならば、公文書偽造罪の疑いがあります」
「そうですか」

 ロロフォ伯爵令嬢の声音は、渇いていた。そこにどんな感情も乗っていない。
 彼女の態度と、貴族籍を抜いたという父親の対応から鑑みるに、ロロフォ伯爵家の親子関係は非常に希薄なものであったのだろうと思われる。聞いているシャルロアの胸の方が痛くなるほど、令嬢は父親に関して無関心だった。

「ロロフォ家の者として、何か申し開きなどはありませんか?」
「ございません。私が存じておりますのは、家に戻ったときには私の死亡が確認されている、と家の者が言ったこと、自分が生きていると言っても無視され、追い返され、無一文のまま放り出されたこと、これだけでございます。愚父が何を思ってこのようなことをしたのか、直接事情を聞いておりませんので申し開きようがございません」

 ――それ、開きようがないっていうより、する気がない、だよね。
 いっそ清々しいほどまでに、ロロフォ伯爵令嬢は自身の家――当主が犯した罪を庇いたてなかった。騎警団によって罪を暴き立てられることが貴族にとってどれほどの醜聞か理解していない、わけではないように見える。彼女の瞳には、無感情と静かな覚悟があった。

「正直に申し上げるならば、私は私を捨てた家に何が起ころうとも興味はございません。ただ……」

 そこで初めて、ロロフォ伯爵令嬢の瞳が潤んだ。

「フェンナー兄妹が……私を連れていたことであらぬ誤解をされる、これだけは見過ごすことができません」

 彼女の声音からは、真摯な気遣いと愛情が溢れていた。

「……あらぬ誤解、と言うと?」
「ドル……フェンナーさまとフォーランさんが、私を人質として連れて逃げていたと思われることです」
「状況だけを見れば、そう取られてもおかしくはありません」
「いいえ。私は彼らの逃亡に自ら力を貸しました。人質ではなく、共犯者でございます。それはこの髪を見れば、明らかではありませんか」

 ロロフォ伯爵令嬢は、肩までもない短い金色の髪の毛にそっと触れた。
 その短さは令嬢としてはありえない短さだ。シャルロアのような平民であれば髪の長さは気にしないが、貴族の子女は長い髪であることが望ましいとされる。長い髪を美しく保つには、労力と財力がいる。その余裕を見せつけるのも、貴族の矜持なのだ。
 実際、士官学校にいた貴族子女たちもほとんどは長い髪だった。ほとんど、というのは、何事にも例外とされる変わり者はいるということである。
 ともかく、ロロフォ伯爵令嬢の髪が貴族女性としてありえないほど短いのは、訳ありだと考えるよりない。
 その訳を、シャルロアたちは先にフェンナーから聞いて知っている。
 シェストレカ師団長は、ほんのわずかに目を細めた。

「……念のために聞きますが、髪はどうされましたか?」
「逃亡資金とするために売りました」

 シャルロアは静かに異能を発動させ、ロロフォ伯爵令嬢の記憶を覗き見た。
 どこかの粗末な宿の部屋の鏡の前で、髪にハサミを入れる光景が見える。周りには誰もいない。背中を覆うほど長い髪をまとめてうなじあたりでざっくりと切っていくその姿は、決意に満ちていた。
 彼女が髪を切り終えると、視線が鏡から部屋の戸口に動いた。戸口にフェンナーの妹であるフォーラン・フェンナーが立っていた。彼女は目を丸くしたあと、震えて、ロロフォ伯爵令嬢に駆け寄ってきた。明らかに動揺している。
 どう見ても、令嬢が髪を切ることを知らなかった様子だ。
 ――強要されて切ったわけではなさそうね。
 蝶が伝えてくる映像によると、ロロフォ伯爵令嬢は衝撃を受けて泣き始めたフォーラン・フェンナーを抱きしめ、宥めている。さらに妹の泣き声を聞きつけたのか、フェンナーまで部屋に駆けつけ、戸口でロロフォ伯爵令嬢の姿を見た彼は顔色を青くしてその場にへたりこんだ。
 そのことから察するに、フォーランもまた、知らされていなかったのだろう。
 大人しげなロロフォ伯爵令嬢は、見た目にそぐわず思い切りの良い女性であるらしい。
 ただし、この場においてそれがわかるのは記憶を覗いているシャルロアだけであり、シェストレカ師団長とクランケ分隊長はロロフォ伯爵令嬢がフェンナーと口裏を合わせていないか疑っている。人質になっていた人間が犯人に恋愛感情を持ち、犯人の味方をする場合もあるので、気が抜けないのだ。
 シェストレカ師団長は、ロロフォ伯爵令嬢のどんな些細な変化も見逃さないよう、注視する。

「始まりから聞きましょうか。貴女が教会を逃げ出すきっかけとなった事件のことを話してください」












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