人魚の涙を得る【にんぎょのなみだをえる】
 退路を断ち、決死の覚悟をすること。
<語源由来>
 ヘインナルハ王朝末期、後にラオイアント王朝を築くラオイアント王子が暗愚な父王により国が乱れたことを嘆き、猛毒である人魚の涙を用いて父王を暗殺し、自身が王となることを決意したことから。

――オルヴィア王国出版 オルヴィア国語辞典より







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 リシーナイン・ロロフォ・サリアの仕事は、清掃に始まり清掃で終わると言える。
 伯爵令嬢である彼女の身分からすれば、その仕事内容は異様とも言えるものではあるが、別になんということはない。教会に行儀見習いとして預けられた貴族令嬢たちは奉仕と慈愛の心を学ぶべく、修道女たちと同じように生活をするのだ。
 と言っても、あくまで同じように、というだけであって、皿洗いや洗濯などの手が荒れそうな仕事は免除されているし、部屋だって個室をもらっている。それは貴族子女に修道女とまったく同じことをさせるのは、外聞が悪いからであるが――リシーナインは常々、このような生温い扱いで奉仕と慈愛の心とやらが健全に育まれるものなのか、疑問に思っていたりする。
 しかし長年かけて作られた風習を、20歳になったばかりの娘が壊せるはずもない。これも世の流れ、とリシーナインは半ば諦観して行儀見習いの日々を過ごしている。
 諦め、はリシーナインにとっては親友のようなものだ。
 普通の伯爵令嬢は、行儀見習いをするのに教会へは送られない。より高位の貴族の家の侍女となるか、王城で侍女となるか、どちらかだ。そこで将来女主人として必要になるであろう知識を学ぶのである。
 教会で行儀見習いをするのは、せいぜい子爵の娘まで。伯爵の娘が教会で行儀見習いをするのは、よほどの事情があると思われても仕方ない。

 リシーナインには、そのよほどの事情があった。
 この国の貴族にとって、政略結婚はおおむね義務である。父であるロロフォ伯爵も例に漏れず、家格に見合った貴族子女を娶った。
 政略結婚をしても、双方が歩み寄る努力を忘れなければ幸福な家庭を築ける、と貴族社会では言われている。だがしかし、リシーナインの両親は無理だった。歩み寄る努力はしたが、根本的に互いの性格が合わなかった。
 小さなすれ違いは歪みとなり、やがて生理的嫌悪となった。
 ある意味では、母は幸せだったかもしれない。嫌いな男と早々に別れられたのだから。
 リシーナインを産んだ母は産後の肥立ちが悪く、そのまま儚くなった。そして母親譲りの金髪と月色の瞳、母に似た顔立ちをもって生まれたリシーナインは、それはもう、父親に大層倦厭された。
 育児は乳母に任せ、教育は適当に雇った家庭教師任せ。成績が悪くても良くても、父親から何かを言われることはなかった。
 生まれたときからこうであれば、リシーナインが父親からの愛情を諦めるのは必然である。
 同じ家で過ごす他人、もしくは生活を保障してくれる人、そういった距離感で過ごしていたが、7歳になったある日、父は後妻を連れてきた。
 今度は愛で結ばれた妻だ。父は妻を溺愛し、すぐに子をもうけた。生まれたのは妹だった。
 後妻も妹も、意地が悪いということはなかった。むしろお淑やかで、気が弱く、悪いことなど考えただけで胃が痛みそうな類の人だった。だからか、父は2人に対しては過保護となり、リシーナインに対しては無関心から憎悪の感情を向けるようになった。
 リシーナインが妹に近づけば、虐める気かと怒鳴る。後妻と話せば詰るつもりか、とこれまた怒鳴る。
 リシーナインはそのようなこと、一切考えたことがない。ただ、後妻と妹と仲良くしたかっただけだ。
 けれど家の主がそんな態度を示せば、使用人たちもそれに準ずる。リシーナインは2人に近づくことを許されず、離れの邸に追いやられた。
 年を重ねるにつれ、自分の立場を客観的に鑑みるに、父の対応は異様、もしくは愚かと言わざるを得ないものだと嫌でも気付くようにはなった。どんなに父が後妻や妹を愛したところで、総領娘はリシーナインである。弟が生まれない以上、ロロフォ伯爵の爵位を受け継ぎ、夫に預ける権利を持つのはリシーナインなのだ。
 それが覆ったのは、15の歳に父から教会へ行儀見習いへ行けと命令されたときだった。
 貴族には社交界デビューがある。王城で開かれる独立記念祭の祝賀会を皮切りに、様々な場所で社交が行われるのだ。それに参加できるのは15歳からと決まっている。
 15になったリシーナインに、独立記念祭が迫るこの時期に、わざわざその祝賀会に出さずに教会へ行儀見習いに出すという、その意図をわからないほど彼女は幼くなかったし、愚かでもなかった。
 父はリシーナインを社交界に出す気がない。
 ひいては、総領娘にする気がない。
 行き遅れになるまで教会に預け、リシーナインは結婚できなかったから、といって妹の方を総領娘にするつもりなのだ。
 真っ先に浮かんだ感情は――諦めだった。
 仕方ない。父はそういう人間だ。むしろ殺さずにいてくれただけ、まだ娘に対する良心があったのかという驚きさえある。

 こういった経緯で、リシーナインは15歳から20歳になるまで片田舎の教会で行儀見習いとして過ごしてきた。
 今日も今日とて、夕暮れになるまで教会の清掃をしていた。ここ最近は、いっそ修道女になってしまおうかと思うことが多々ある。このまま俗世にいたところで、結婚や自由は望めない。ならば神や精霊に奉仕した方が、人生を有用に使える気がする。
 ふぅ、と細いため息が人気のない、寂れた教会に響く。
 大教会でも修道女院でもない、普通の小さな教会だ。田舎町の人々が、安息日に訪れて祈りを捧げるときだけ活気づくような、どこにでもある教会。ここを終の棲家とするのも、悪くはないだろう。
 ――だって、決して、ロロフォ邸が我が家となることはないんだもの。
 掃き掃除を終えて、箒とハタキを手にしたリシーナインは、ふと片隅にある懺悔室に目を向けた。
 懺悔室は独立した小部屋となっており、神父と懺悔者が入る扉は別だ。それぞれ仕切りで分けられた、大人一人が座るので精一杯な小さな空間で、神父は懺悔を聞く。
 しかし懺悔と言っても、大した罪を吐く人は少ない。恋人が異性と仲良くしているところを見て嫉妬してしまったとか、嫁に辛く当たってしまったとか、日常の些細な――弱音のようなものを聞き、慰めるのが主である。実に平和でよいことだ。
 ―― そうだわ。懺悔室もお掃除をしておきましょう。
 早朝に掃除はしておいたが、今日は懺悔室を利用する者が多かった。汚れているかもしれない。
 リシーナインは懺悔室へ向かい、神父が利用する空間の方の扉から中に入った。扉の裏も掃除するため、きっちりと閉めて、ハタキで埃を払っていく。
 するとまもなくして、かたん、と反対側の――懺悔者が利用する扉が閉まった。
 ――まぁ、どうしましょう……。
 教会の扉はまだ閉まっていなかったので、参拝者が懺悔に来てしまったのかもしれない。懺悔室の扉は利用者がいないときは開いていて、利用されているときは閉められる。これが暗黙の了解だ。
 だから神父側の扉が閉まっているのを見て、相手は神父がいるのだと勘違いし、入ってきてしまったのかもしれない。
 ――困ってしまったわ……。(わたくし)は神父ではないから、懺悔を聞く資格などありませんし……。
 けれど相手は懺悔を聞いてもらいたくて来たのだ。ここでリシーナインが神父ではない、と告げたら、懺悔する気力を失って二度と気持ちを吐露することはないかもしれない。
 どうしたものか、と悩んでいると、かたん、と音がした。
 懺悔室を区切る間仕切りには、小窓がついている。窓、と言っても下から上に押し上げる戸板がついているだけのもので、相手の顔が見えることはない。
 それが、少しだけ上に押し上げられていた。
 ――何かしら?
 小首を傾げたそのとき、ぬっ、と小袋を持った手が出てきた。

「約束のものだ」

 ――約束?
 この人は神父と何か約束をしていたのだろうか、と戸惑いながら、男の低い声に気圧され、リシーナインは小袋を受け取った。
 リシーナインの片手に乗るくらいの大きさなのに、見た目に反してずっしりと重い。固形物、という感じもしない。

「必要になったらまた持ってくる。金は前と同じだと言っておけ」

 そう言って、男は出て行った。
 残されたリシーナインは束の間呆然としていたが、すぐに不安に駆られた。
 ――これ、何かしら?
 状況から察するに、神父に渡されたものだと思うのだが不穏な気配を感じる。何故この小袋を、人目を避けるようにして懺悔室の中で渡すのだろう。それに金銭のやり取りを臭わす言葉も気になった。
 人のものを勝手に見るのはいけないことだ。
 わかっている。
 けれど―― そんな常識を持ち続けるには、状況が剣呑過ぎた。
 リシーナインは恐る恐る、小袋のひもを解いた。
 中には、白い粉が入っていた。香りは、蠱惑的に甘い。
 脳髄が麻痺するような匂いがする。
 気分が良くなるような匂いがする。
 ――これ、は、いけないわ。
 ふわり、と飛びかけた意識を戻し、リシーナインは袋口を縛り直した。
 背中にはじっとりと、嫌な汗を掻いている。
 ――これって、良くないものなのではないかしら。甘い香りで、意識が飛ぶような粉……くす、り?
 麻薬なのでは、という考えに辿り着いたとき、リシーナインは身震いした。途端に手の中の小袋が重みを増したような気がする。
 ――でも、そうだと決まったわけではないわ。もしかしたら、何か、別の……。
 意識が飛びかけたような気がしたのは気のせいだったかもしれないし、そんな効果があったとしても麻薬だと決まったわけではない。気になるなら、これは神父に渡されたものだ。神父に聞いてみればいい。
 神父は優しい人だ。聞けば教えてくれるだろう。
 そう思うのに、リシーナインはその情景を頭に描くことはできなかった。
 どんな人間も、豹変するときはあっという間なのだ。
 リシーナインはそれを知っていた。
 無関心が憎悪へ変わった瞬間を見たことがあるのだから。
 リシーナインは震える手で小袋を椅子の上に置いて、そっと懺悔室を出る。
 ――私は何も見なかった。聞かなかった。
 素知らぬふりを続けなければならない。
 リシーナインは行儀見習いとして教会に預けられた身だ。神父の許可なく教会を離れることを許されないので、すぐに騎警団や自警団に通報しに行くのは困難だ。
 父親に告げたところで、あの父がリシーナインを信じてくれるかわからなかった。下手をすれば、教会から出たいがために嘘をついたのだ、と思われ叱咤される。義母とも義妹とも手紙のやり取りをするほど親しくない。社交をしてないので、友人もいない。頼れる人間を思いつけなかった。
 ――それに、この教会の誰がどこまで、これに関わっているの?
 貴族子女であるリシーナインが問題ごとに巻き込まれないよう、町に出るときは必ず教会の者がついてくる。ついてくるのは主に修道女が多いが、彼女たちまで薬に染まっていたら騎警団や自警団に通報しようとするところを止められてしまうだろう。
 ならば一人で町に出れば、とも思うが、神父や修道女たちが常日頃、町の人々にリシーナインが一人で歩いていたら教会に確認を取ってくれ、彼女をその場で引き留めておいてくれ、と言っているのを知っている。それは伯爵令嬢が危険な目に遭わないようにするための措置であるが、今、このときはまるで監視でもされているかのような措置に思えた。
 ――誰がどこまで関わっているかわかるまで、知らないふりをしなければ……。
 無知。この薄い盾だけが、己を守る術なのだとリシーナインは理解していた。





********





 はた、と気づくと、就業間際に勤務室の魔法灯がつくようになった。夏にはなかったそれは、日が沈むのが早くなってきた証拠である。
 王都の街路樹も赤や黄色い葉を落とし始め、保存食を作るための大瓶が雑貨店で目立ってきている。すっかり冬支度となろうこの季節、もちろん騎警団も装いを冬用に切り替えた。
 制服の上着が七分袖から長袖になり、丈も腰に届くほどまで長くなったし、下に着るシャツも分厚い徳利襟に替わり、外勤の際には外套の着用が認められるようになった。
 シャルロアが事務仕事と少々重くなった制服で凝り固まった首を鳴らしたところで、時計の針が終業時刻を告げた。

「メル君。上がっていいですよ」

 シェストレカ師団長が声をかけてくれたが、シャルロアはどうしようか迷った。このままキリがいいところまでやってしまうか、終えるか。
 数秒黙ってから、シャルロアは「では、お言葉に甘えて」と席を立った。

「資料をまとめた帳面が溜まってきたので、上がりついでに片付けてきます」

 そう言って向ける視線は、シェストレカ師団長の机の隣に山積みされた木箱である。その中に溜まりに溜まった帳面がこれでもかと入っているので、そろそろ資料室に片付けてこなければマズくなってきている。
 師団長もその視線を受けて木箱に目をやり、黙り込んだ。彼もマズい、とは思っていたのだろう。
 だがしかし、日中は事務処理をするのに精一杯で資料を運ぶ暇がない。そうでなくとも、そんな雑用を師団長にやらせるわけにはいかない。

「申し訳ないですが、お願いしますね」
「お気になさらず、シェストレカ師団長」

 シャルロアが勤務記録機を押して、師団長の机の隣に積まれた木箱を一つ抱えた途端、通信機が鳴った。

もしもし(ダー)、第4師団勤務室。……は?仕事を寄こせ?君ね、任務終了したなら一度戻って来なさい。クランケ君が報告に?だとしても君が来ない理由にはならないでしょうが。一度戻ってこない限りは任務はお預けです。いいから黙って帰って来なさい、通信じゃ言えない事柄が山ほどあるってわかっているでしょう」

 ――あぁー、副師団長かぁ。
 シャルロアはシェストレカ師団長に同情しつつ、勤務室を後にした。

 溜池の事件から一カ月が経とうとしているが、ファルガ・イザラントとシャルロアの距離感は何も変わっていない。
 ドストロ分隊長たちに脅されて、しばし警戒心を高めていたシャルロアだが、彼の方は口説く素振りなど一切見せず、顔を合わせても挨拶や業務内容のことしか言葉を交わさなかった。
 ――まぁ、ドストロ分隊長たちの言葉が正しいとは限らないわけだし。
 健全な距離を保っているこの状況を鑑みるに、ファルガ・イザラントはシャルロアを口説くのを止めたと判断していいだろう。そう結論付けたのは、ごく最近のことだ。毛色の違う獲物を見て好奇心の赴くままに構ってみたものの、期限も来たし飽きたので手を引こう、となったに違いない。
 やっと安心して仕事に励める、と思う心の奥で、鈍く痛む何かは無視した。
 木箱を抱え直して、廊下の突き当たりにある資料室に入る。
 この資料室は第4師団専用の資料室で、過去の事件記録などが保管されている部屋だ。図書館のように本棚がずらりと並び、簡易的に資料を広げられる程度の机が一台置かれているだけだ。壁にも本棚が設置されているが、左手は窓になっているため、その一辺だけは棚がない。
 シャルロアは机に木箱を置いて、棚を軽く調べた。年代ごとに保管された帳面を確認し、収めるべき場所に帳面をさっさと収納していく。
 資料室の空気は冷えていた。指先が少しずつ冷たくなっていくのを感じる。
 ――あー、こんなに寒いとポトフが食べたくなるわ。
 自炊をする必要がないからこそ、シャルロアは家庭の味に飢えていた。特に母の作るポトフは、こんな寒いときにこそ食べたくなる。寂しさに負けて、冬が来るたびに自分で作ってみたりするのだが、母の味にはならない。
 故郷の味が恋しい。
 野菜の甘みたっぷりの、あのポトフが食べたい。
 シャルロアはハァ、と指先に吐息を吹きかけて暖を取り、帳面を手にして棚に手を伸ばした。この帳面は少し古いものなので、高い場所にしまわなければならない。
 ――うぐっ、誰だ、この棚を設計したのは!
 シャルロアの背では、絶妙に棚に手が届かない。帳面を入れようとすると、ふらふらと手がおぼつかなくなる。
 ――うぐぐ!
 格闘していると、資料室の扉が開いた。

「おい、ロア。これもだろ」
「は、い?」

 入室してきたのは、ファルガ・イザラントだった。
 シャルロアが目を丸くして彼を見ると、その手にはシャルロアが運んできたものと同じような木箱を持っていた。師団長の机の隣に積んであったものだ。
 勤務室を出る間際の通信から推察するに、ファルガ・イザラントはシェストレカ師団長の言う通り、師団に帰還したのだろう。そこで師団長との話を終えてから、師団長に資料を運んでくださいと頼まれたのかもしれない。
 なんにせよ、二つも木箱を持ってきてくれている。実にありがたい。

「お手を煩わせて申し訳ありません。そこの机にでも置いておいてください」

 扉が閉まり、背後からガタン、と木箱を置く音がした。
 ファルガ・イザラントが木箱を二つも持ってきてくれたおかげで、勤務室との往復が少なくなって助かる……と思いながら、なんとか帳面を棚に入れようとしていると、すっとその帳面が褐色肌の手に取られ、棚に納まった。

「ありがとうございま……」

 振り向きながらお礼を言おうとしていたシャルロアは、振り向いてしまった状態で固まった。

「なぁ、ロア(・・)

 うなじがぞくりとする。
 近距離で、こちらを見下ろすファルガ・イザラントの金色の瞳が、少し擦れた低い声が、笑みが、酷く――。

「俺はな、今、勤務時間外だ」

 熱っぽく、艶めいている。

 ――馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁ!
 シャルロアはギシリ、と体が固まったまま、己を激しく叱咤した。
 何故。
 何故自分は、警戒を怠ってしまったのか。
 そんなの、ファルガ・イザラントが最近そういった気配を微塵も見せなかったからだ。それに伴い、つい先日、溜池の事件が解決してから一カ月近く経つけど何もしてこないし、ドストロ分隊長たちが言っていたことの方が間違いだったんだ、と自己解決してしまった。
 それでどうだ、このていたらく。
 卒業式前ならば、個室で、2人きりになったら絶対間違いなく警戒していたというのに、もう彼の興味範囲外になったと勝手に安心して、警戒を怠った。
 ――というか、この人もこの人でしょ!?卒業式以降、口説く素振りなんて全然見せてなかったのに、なんで今!?ここで!そんな気配を垂れ流すかな!?
 しかも自分の感覚を信じるならば、ファルガ・イザラントがにじませるものが悪化している。
 こちらを見つめてくる視線が、顔が火照りそうなほど熱く甘い、ような気がするのだ。
 口説き方に段階進化とかあったんだなぁ、と若干現実逃避と混乱している間に、ファルガ・イザラントはトン、とシャルロアの右側に手をついた。
 泳ぐ視線で、それを確認する。右側は通行不可能になった。
 背後は本棚だ。もう退がれない。
 ――やばい。刻一刻と状況が悪化してる。
 いやしかし、とシャルロアは左側に視線をやる。
 資料室の扉は、左手側にあるのだ。こちらはまだ塞がれていない。希望はある。はずだ。まだ。

「逃げるんなら、逃げていいぜ。ドアに鍵はかけてねぇよ」

 シャルロアの視線の先をしっかり把握しているファルガ・イザラントは、色っぽく笑って囁いた。
 ドアに鍵。その可能性をまったく考えていなかったシャルロアは、己の甘さに愕然とした。比例して、目の前の綽然とした態度の男に焦りを覚える。
 ――何だろう。
 気付きたくはなかったけれど、さっきからガンガンと頭の中で第六感が警告している。逃げられる気がしないと。
 ――いやそんな馬鹿な、だって左側に手はつかれていないし、隙を突けば逃げられないことは……。
 シャルロアは、ハッとした。
 シャルロアの左側は、つまり、ファルガ・イザラントの右側だ。

 つまり、右手(ききて)が自由だ。

 ――詰んでる!
 右手が自由の『雷鳴獅子』相手に、新米事務員がどうやって逃げ遂せろというのだ。
 むしろ彼の手足を縛って鎖につないだ状態で初めて、やっと逃げられるくらいの実力差なのではないだろうか。
 ――でも、待て。希望は捨てるな!逃げていいって言ってるんだから、逃げていいかもしれないじゃない!
 シャルロアはじわり、と左側に体重をかけた。
 ファルガ・イザラントの右腕が、ぴく、とわずかに反応する。
 ――あ、だめだこれ。逃がす気ないわ。
 シャルロアは、逃げる選択肢を速攻で捨てた。おそらく逃げた方が状況が悪化する。動いたら最後、あの手に掴まれて窮地に追いやられるに違いない。
 現在彼は、獲物をじわじわいいたぶって楽しんでいる状態なのだ。自分に出来るのは、この男を刺激しないこと。これだけだ。

「逃げなくていいのか?」

 逃がす気などないくせに、そんなことを聞いてくるこの男が憎たらしい。
 シャルロアは冷静を保ちながら、慎重に答えた。煽られて、自分を見失ったら負ける。呑み込まれてしまう。
 会話をして、場を繋がなければ。
 絶対に、変な、色めいたと形容されるような空気になってはならない。

「ええ、ちょっと、不審者の撃退法を今必死に思い出してる最中なので」
「別のこと考えるなんざ、余裕だな」

 くつくつ、とファルガ・イザラントは喉で笑って、ふっ、と。
 シャルロアの額に、刹那、唇で触れた。
 シャルロアはきょとん、として目の前の男を見上げる。

「俺のことを考えねぇとマズいんじゃねぇか?」

 ざわっ。
 背筋からうなじにかけてなぞられたような感覚が、音を立てたのかと思った。
 しかしそれは幻聴ではなく、ファルガ・イザラントの背後――窓の方から聞こえるどよめきだった。

「あ?」

 窓の方を振り返ったファルガ・イザラントからは甘さが掻き消え、第4師団副師団長としての威厳が戻る。
 ――今!今しかない!
 シャルロアがその隙を突いて囲いから逃げ出すと、ファルガ・イザラントはそれを――残念そうに一瞥してから窓に近寄り、開けた。
 夜風とともに、外の騒ぎが室内に飛び込んでくる。

「第4師団長に会えるまで、俺は何も言わない!」

 ――は?師団長?
 シャルロアは先ほどまでの状況を忘れて、ファルガ・イザラントが開けた窓とは違う窓を開けて、外を覗いた。
 東棟玄関口の前で、複数の師団員が1人の青年を地面に転がし、拘束していた。その周りを囲う師団員たちが皆、銃を構えて青年に向けている様子が魔法照明灯により照らされている。
 取り押さえられている青年は、栗色の短髪で、切れ長の目は赤い。肌は女性からすれば羨ましいほどに白いが、外套をまとっていてなお、体付きががっしりとしているのがわかるおかげで、なよなよしているふうには見えなかった。
 服装を見るに旅人のようではあるが、取り押さえられているわけだから、何かしら問題行動を起こしたのだろう。
 ――しかし、本部前でやるとは度胸が据わってるというか……。
 それにしても彼は、『何』を第4師団長に会うまで話さないと言っているのだろう。
 小首を傾げるシャルロアの横で、『雷鳴獅子』がゴロ、と喉を鳴らした。

「へぇ?面白ぇ」

 言うや否や、ファルガ・イザラントは開いた窓に足をかけて、窓枠を蹴る。

「副師団長!?ここ2階っ!」

 シャルロアがぎょっ、とする間に彼は軽やかな音を立てて地面に降り立ち、その周囲にいた人間を大層驚かせた。

「ひえっ!?」
「えっ、今、どこからっ」
「上から降ってきたぞ!?」

 なんなら青年を取り押さえたらしいときよりも辺りをざわつかせたファルガ・イザラントは、手を軽く振ってそのざわめきを止め、地面に這いつくばる青年の下へ歩み寄った。

「俺が、お前の話を聞いてやろうか?」

 周囲の団員と同じくして、上から突然降ってきた男に呆然としていた青年は、ハッとした様子で表情を引き締め、唇をキツく噛みしめた。
 決して第4師団長以外にはしゃべらない、という強い意思が表情ににじんでいる。
 『雷鳴獅子』はそれを受けて、凄絶に嗤った。
 薄暗闇に染まりゆくその場が、たったそれだけで鋭い緊張感に包まれた。

「イ、イザラント副師団長。貴方のお手を煩わせることではありません。この男は第2師団が責任をもって引き取ります」

 青年を拘束する師団員がそう言うと、赤目の青年はぴくりと反応した。

「……大戦の英雄、ファルガ・イザラント……?」

 青年の問いかけには答えず、ファルガ・イザラントは嗤ったまま銃を抜いて、照準を眉間に合わせる。

「お前、髪の色は違うが、1カ月前にメイファルバ領リャラン自警団の自警団長と仲間4人を斬って逃げた、ドルキ・フェンナーだろ。手配書は師団にも回ってきてるぜ」

 ぐ、と青年――フェンナーは恥辱を堪えるように顔をしかめた。

「で、俺が誰なのかわかったなら話は早い。俺はな、罪もねぇ一般市民には優しく接するが、敵や犯罪者相手に慈悲をかけるつもりは微塵も、ない。そんな俺の前で、お前は、黙秘を選ぶつもりか?」

 師団員ですら慄く殺気を向けられ、フェンナーの顔色は真っ青になったが唇は硬く閉じられたままだった。
 息の詰まるような沈黙ののち、ファルガ・イザラントは不意に殺気を解いて銃を収めた。

「いいぜ、気に入った。師団長に会わせてやる」





********





 師団員たちが散らばっていくのを見届けてから、シャルロアはぺたん、とその場に座り込んだ。
 ――た、助かった……!
 油断すれば叫びそうになる口元を手で覆いながら、暴れ馬のごとく乱れる鼓動を鎮めるため、深呼吸を繰り返す。
 ――何か知らないけど、ちょっと距離を取ってた間にあの人マズい方向に進化してる!なんだあの色気!やばい、こっちは恋愛経験皆無だから、危うく押し切られるところだった……!
 訳がわからなかった。
 シャルロアは距離感を変えた覚えがない。距離を取ったのはあちらの方だ。自分から遠のいたくせに、なぜ今になって近づいてきたのか。

『つまりだ、副師団長のその発言は一生口説くって言ってんのと同じだ』

 ドストロ分隊長のセリフが、脳内でやけに響いた。
 ――あれ、マジだったのか……。
 今の今まで、まさかそんな冗談だろう、と思っていたが、こうなってくるとドストロ分隊長の言葉が俄然真実味を帯びてくる。さすがファルガ・イザラントと付き合いが長いだけある、と思うと同時に、そういう予測は当たってほしくなかったとも思う。
 しかしこうなってしまった以上、対策をしなければならない。
 ――要するに、卒業式前まで気をつけてたことをすればいいのよ。
 2人きりにならない。距離を取る。勤務時間外には会わないようにする。
 これを守っていれば、大丈夫、なはずだ。おそらく、きっと、たぶん。
 シャルロアが徐々に自信がなくなっていく自分を叱咤していると、がちゃん、と資料室の扉が開いた。

「メールー、師団長と副師団長が取り調べの記録を頼みたいって……なんでしゃがんでるの?」

 入ってきたのはウォーバン・シェイ・ロンカだった。青髪と眠そうな栗色の瞳が特徴の第4師団員で、名が指す通り出自は貴族の青年なのだが、このようにどこか緩く思えるしゃべりが貴族らしからず、他人を脱力させる。
 たとえば、アートレート分隊長が入室してきたのだったらシャルロアもすぐさま立ち上がれただろうが、ロンカ相手だと気が抜けてしまい、なかなか足に力が戻らなかった。

「……いえ、なんでもないです」
「顔赤いけど、風邪?」
「平気です」

 シャルロアは平静をなんとか顔に貼り付けて、やっと立ち上がった。












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