※グロ表現有り。ご注意ください。


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 1、2、3、とダレッタ・クラインは食料箱を覗いて、数を数える。何度数えても、食料はそう長くは持たないというのはわかっていた。
 食べるのを控えれば、一週間は持つかもしれない。だが、到底この空腹感を我慢できそうにはなかった。
 誰でも飢餓を耐えることはできない。食べることは本能だ。
 だがクラインは、他の人間よりもその本能が病的に強かった。
 その原因は、幼いころの体験にある。

 クラインは裕福な家で育ったが、愛情を感じて育ったかと問われると、否、と答えられる。両親は優秀故に裕福な生活を手にしたが、その優秀さを子供であるクラインにも求めた。クラインが高い魔力を持って生まれたのも拍車をかけたのかもしれない。
 3歳から家庭教師がつけられ、経営学、国の地理や特産品、他国の情勢、魔法学を習わされ、音楽や美術、水泳や武術の稽古も行かされた。そしてそのうちの一つでも、両親が納得のいかない点数を取ると、容赦なく食事を抜かれ、罰として暗い倉庫に閉じ込められるのである。その苛烈さは、裕福な家に生まれたはずのクラインに、飢餓感と喉の渇きを覚えさせるほどであった。
 さらに年齢が上がるとその苛烈さは増し、試験で100点を取れなかった、発表会で1位を取れなかった、大会で1位を取れなかった、となれば残飯で作られた腐った食事を出され、それを完食するまで倉庫から出ることを許されなくなった。故に、クラインは母の得意料理というものを今でも知らない。
 腐った食事の何が辛かったかと問われれば、あの臭いもさることながら、食べた後体調を崩すことや、食べ続けているうちに自身の体から腐った食事と同じ臭いがし始めたことであった。
 腐ったものを食べ続けたことで、自分の体内も腐ってしまったのだ。まだ子供だったクラインは、そう考えた。
 図書館で借りた本に、腐った死体が起き上がり、人間の肉を求めて彷徨うという話があった。クラインはそれを読んだ時に気持ち悪い、と思ったが、クラインもまた、あの気持ち悪いものになってしまったのだ。
 今はまだ、腐ってどろどろになった肉と血を、外の皮がなんとか収めているだけで、自分の内側はドロドロになっている。
 その思考は自分の深くに根付き、離れなかった。
 自分は腐っている。あの気持ち悪いものと同じ。人間ではない。

 狂いたくなるような恐怖を抱えたまま、クラインは12歳になった。

 その頃、クラインが住む領地には戦火の陰が見え始め、町はピリピリしていた。その不安をぶつけるかのように、両親はクラインの躾を厳しくする。もう二日ほど食事をとれていなかった。
 そんなときだった。敵軍から魔法攻撃を受けたのは。
 炎をまとった岩が町に降り注ぎ、町は地獄と化した。クラインはその攻撃を倉庫の中で感じた。暗闇の中、地響きと断末魔のような叫びが外から漏れ聞こえてくる。隅でガタガタと震えていると、ガン!と倉庫に衝撃が走った。そのときはわからなかったが、倉庫に魔法が直撃したのだ。
 しかしそのせいで倉庫の錠が壊され、クラインは外に出ることが出来た。
 家には誰もいなかった。高価なものは持ち出されたあとで、食料もない。両親の姿もなく、どう考えても2人はクラインを忘れるか、覚えていても置き去りにして逃げた様子だった。
 悲しみも、動揺も生まれなかった。
 ただ、ただ、――喉が渇き、お腹が減っていた。
 町中から火の手が上がる中、クラインはふらふらと彷徨い歩いた。
 お腹が減っている。喉が渇いている。
 限界だった。
 そのとき、初めてクラインは、道端に転がるものを視認した。
 人間だった。魔法の直撃は逃れたものの、傷を負い、血を流して倒れ、死んでいた。
 流れる血を見て、クラインはごくり、と喉を鳴らした。

 喉が、渇いていた。
 もう1秒も我慢できないほど。

 クラインはふらり、とその死体に近寄って、血が未だ溢れる傷口にかぶりついた。
 血を吸う。飲む。嚥下する。
 その血の、なんと甘美なこと。
 腐った味ではなかった。新鮮な血が、自分の腐った血を浄化する気さえしたほどに、感動的な味だった。
 獣のように血を貪り、渇きと空腹が若干治まると、クラインは正気に戻った。

 死体から、血を貪った。

 そのおぞましさに、クラインは吐き気がしたが、吐けなかった。飲んだ血は、自分の中で吸収されてしまった。
 そう、吸収されて、体内が浄化された。
 今、自分の中身は腐っていない。新鮮な血液で浄化された。
 あぁ、なんと甘美で完璧なものか!これを、これを自分はずっと求めていた。
 クラインは涙を流しながら、燃える街で死体を探した。探して、傷口からどくどくと溢れる血を貪り、自身を浄化していく。
 人間になっていく清々しさがあった。
 人間だった。
 自分は、人間だったのだ!

『そうだとも。君は人間だ』

 血を貪る最中に現れた<守護天使>は、慈悲深い笑みを浮かべてクラインの頭を優しく撫でた。

『かわいそうな子だ。今までずっと、自分を蔑んで生きてきたのだね。辛かっただろう。でも、もう構わないとも。そんな我慢をせずとも、誰にだって必要だと思うものを食べ、飲む権利がある。恐がらなくともいい、君には血が必要だった、それだけだ』

 あぁ、うぅ、と声にならない嗚咽を上げ、クラインは泣いた。
 <守護天使>は笑わず、受け入れてくれた。

『けれどわかるね?君の好きなものは、生半可なことでは本来手に入らない。それではいつか、君は壊れてしまうだろう』

 血をすすりながら、クラインは<守護天使>の言葉を反芻し、頷いた。
 今は戦地だから手に入る血。いずれ手に入らなくなる。手に入れようとすれば、追われる。それくらいの分別はまだ、持っていた。
 でもだからといって、諦められない。
 血を取り入れることを止めれば、自分はまた腐っていくのだ。
 人でない何かになっていく。
 耐えられない。

『恐いかい?大丈夫だ。私が君に守護をあげよう。この守護を受ければ、血を飲まなくても君は腐っていかない。人でいられる』

 <守護天使>がかけてくれた守護は、強大なものだった。
 その後、クラインは町から遠く離れ、流れ着いた孤児院で保護されたが、そこで出される食事はすべて――あの甘美な血の味がした。
 孤児院での生活は良好だった。守護のおかげで体は腐らず、体力が戻った。武術を習っていたからか、健康な体の素地は育っていたらしい。クラインは自分の名前と両親の名前を憶えていたが、あえて家族を探さなかった。家にいるときよりも、健康的な生活を送れたからだ。頑強な体を手に入れたクラインは、それを見込まれ猟師の弟子となった。
 数年もすると猟師に独り立ちを許され、クラインは一人気ままに生活できるようになった。猟は性分に合っていたし、記憶の片隅に覚えていた転移魔法を使えば、どこで狩りを行ってもすぐに獲物を水場に持っていけるため、重宝した。
 狩った肉を売るときは、高頻度で母親と連れ立ったかわいい女の子が必ず買いに来てくれた。その子を好ましく思っていて、もう少し金が溜まれば、結婚を前提にした付き合いを提案してみるつもりだった。
 そんな折だ。
 血の味がしなくなったのは。
 最初は、気のせいだと思った。けれど、段々とその頻度が高くなった。
 野菜を食べても、果物を食べても、肉を食べても、血の味がしない。そしてその分だけ、体内が腐っていく感覚がした。
 人間性が失われていく。
 気持ち悪い何かになっていく。
 クラインは抗った。新鮮な食材を体に取り込み、浄化を図った。けれどダメだった。あの甘美な血の味でなければ、この体は浄化できない。腐っていく。
 体内に蛆が湧き、それが這い回る夢を毎日見るようになった。
 精神が追い詰められていき、そしてとうとう、まったく血の味がしなくなってしまった。
 守護が、切れた。
 理解するのに、時間は要らなかった。薄々感づいていたことだ。

 ――血を。この体に血を。浄化しなければ。

 残飯の臭いがする。腐った食べ物の臭い。体内が本格的に腐り落ちてしまう前に、浄化をしなければ。まだ間に合う。
 <守護天使>は言った。血は、本来生半可なことでは手に入らない。
 では、生半可ではないことをすればいいのだ。
 大変な思いをして、得ればいい。

 ――狩りをしよう。

 見つからないように。密猟をしよう。獲物は人間。若い方がいい。騙しやすい。孤独な人間がいい。いなくなってもわからない。
 さらうのに、転移魔法を使えばいいと思いついた。孤独な人間が新天地へ行くのを狙えばいい。行き先に知り合いはいない。いなくなっても気づかれない。
 案の定、運び屋を名乗って格安で魔法を使ってやる、と言えば、成人したての少年少女は話に乗って来た。大人には自分の存在をばらさないように言いくるめるのも簡単だった。その年代は大人に対して嫌悪感を持っている。ましてや、大人との間に問題ごとを抱えた人間ばかりが寄ってくるのだ。大人には存在が広がらないのは、当たり前だった。
 処理は、さすがに地元であるミッシュ領地でやる気にはなれなかった。万が一にも死体が見つかれば、ミッシュ領地の猟師である自分が疑われる。だから、昔カランタに住んでいたことがあるという猟師仲間から聞いた、カランタ領にある森の水場を使った。案外使い勝手がよかった。なので、カランタ領の人間が行方不明者が多いことに不信感を抱き、人気のない場所を見張るのを防ぐため、カランタ領の人間には手を出さなかった。
 処理については、獣の血抜きと同じでいいだろうと考えた。昏倒させて、吊るし、血を抜く。たらいを下に置いておけば、血は勝手に落ちて溜まる。血液は傷むのが早いので、処理を手早く行うのが重要だ。
 そうして苦労して手に入れた血は、甘くて、芳しくて、クラインの身に隈なく行き渡った。
 この1年、上手く事が運んでいた。食料は定期的に確保でき、あの甘美な血の味で以て、クラインの肉体は浄化されている。

 だが、最近になって困ったことになった。
 処理場が見つかってしまったのだ。あそこは人があまり来ない場所だったからよかったが、さすがに騎警団に目をつけられては使えない。致し方なく、放棄した。
 他に良い場所がないか調べたが、すぐには見つからなかった。仕方ないので、ミッシュ領地内にある人気のない森の水場を使うことにした。
 だからか、失敗した。いつもと違う場所だったからか、上手く処理できなかった。
 さらってきた女には逃げられた。増水した川に落ちたから死んだとは思うが、予定を変えなければならなくなった。食料が足りないのだ。また、誰かをさらって処理しなければ。
 後片付けの面倒を嫌って森の水場を選んでいたが、逃げられる手間を考えると、これからは自宅にさらってきて、地下で処理した方がいいかもしれない。幸い自宅は森のそばにあり、隣家は遠い。叫び声をあげられてもわかるまい。
 何よりも優先されるのは、血だ。血をこの身に入れなければ。

 クラインは、食料箱から赤黒い腸詰を取り出した。
 ――大丈夫だ。手筈は今まで通り。処理は家で。
 そうすれば、彼らはこれまでと同様に、おいしい血の腸詰となってくれるだろう。
 クラインはうっとりと微笑んだ。





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「ん、んん?」

 広大なミッシュ領地の北部にある、ケイスト町。その一帯の猟師を束ねるケイスト猟師組合長の家を訪ね、人相書きを見せたところ、彼は老いた目を擦り、もう一度人相書きを睨みつけた。
 知らない、と首を横に振る以外のその反応に、ケドレはぴくりと反応した。もちろん、連れていミッシュ基地第2部隊員もだ。

「組合長、見覚えがあります?」
「いや……ううん……」

 ずず、と行儀悪く茶をすすりながら、組合長は唸る。

「似たような男は、おるっちゃおるが、ここまでいい男じゃあねぇぞぉ」
「美男じゃねぇんですか」
「おう。あれをかなぁり美化すりゃ、こんな男になるかもしれんがなぁ。それに無口で不愛想だが、疚しい陰なぞまったくない善良な男じゃぞ」

 第2部隊員が、どうしたものかと戸惑っているのを感じた。ケドレもどうしたものか、と悩む。
 できるなら顔を確認したいが、アタリだった場合、こちらに気取られれば逃げられる可能性もある。だからなるべくひっそりと捜査をしているのだ。この人相書きだって、各組合長にしか見せないことになっている。万が一、犯人が組合に出入りしていた場合、指名手配を知られるのがマズいからだ。
 ――かと言って、それらしい人間を確認しねぇってのもねぇな。『猫』に頼むか?
 3日探し回って、やっと得たアタリらしき情報だ。無視するのはあり得ない。
 隠密行動は第5の得意とするところだ。顔の確認ならば、第5部隊の隊員が軽々とやってくれるだろう。
 と、そこに、茶菓子を持ってきた組合長の妻が顔を出した。

「あぁ、お構いなく」
「いえいえ。田舎のお菓子ですけど、ぜひ食べてください」

 にこにこと愛想よく微笑みながら、少々恰幅の良い彼女は机の上に菓子を出した。

「なぁ、おい。この男、クラインに見えるか?」

 組合長はひょい、と人相書きを妻に手渡し、彼女はじっとそれを見つめ――あらやだ、と笑った。

「まぁまぁ、クラインさんそっくりじゃない!」

 隣に座る第2部隊員が菓子を手に、ぎょっとした。とりあえずお前は菓子を置け、と思いながらも、ケドレは組合長の妻に詳しく尋ねる。

「クライン、って男に似てるんですか?」
「えぇ、えぇ。クラインさんって、この辺りではいい男って知られてるのよ。肉の処理が上手いから、あの人から肉を買う人も多いし。穏やかに微笑む人だから、奥様方に人気よぉ。それを考えると、この人相書きはちょっと暗く描きすぎね」
「あぁん?クラインは、あんま笑わん奴じゃろうが。不愛想じゃぞ」
「やだ、ボケたのかしら。クラインさんはよく笑ってるじゃない」
「お前こそボケとるじゃろ」
「なんですって?」
「なんじゃと?」
「まぁまぁまぁまぁ」

 夫婦げんかになりそうな勢いだったので、ケドレは隙を見て会話に割り込んだ。ここで夫婦のボケたボケてないに巻き込まれるわけにはいかない。

「あー……ともかく、この人相書きはクラインって男に似てるんですね?」
「似てますよ」
「クラインを美化すりゃ、こんな感じじゃな」

 第2部隊員は、戸惑いから視線を泳がせている。
 ケドレもそうしたい気分だった。なんなのだろう、その、微妙に違う印象は。捜査をする方としては、非常に困る話だった。
 ――あぁ、いや、面倒くせぇ。第5に依頼しよう。
 組合長も、美化すれば似ている、と言っている。証言者は少女であったし、もしかすると少々整った顔立ちだった犯人を、知らぬ間に美化したのかもしれない。メルがそれに忠実に描いたので、このような齟齬が生まれた可能性もある。
 ――だがなぁ……。殺されかけた相手を美化するか、っつうと……。
 疑問ではある。
 もしくは、この組合長が男の嫉妬で、クラインという男を美形だと認めたくないだけかもしれない。
 その可能性はありそうだな、と淹れてもらった茶を飲んでいると、組合長の息子が部屋に顔を出した。

「親父……あぁ?なんで騎警団の人がうちに?」
「あぁ、すみません。ちょっとこの男のことで聞きてぇことがあったので」

 この男、と人相書きを指すと、息子はそれを覗いて「あぁ」と声を漏らした。

「クラインか。すげぇそっくりだな」
「……そっくり、なんですか?」

 ケドレが思わず尋ねると、息子は首を傾げながら「あぁ」と肯定した。

「まぁ、ちっと痩せすぎに描いてる感じはあるが。陰のあるいい男って感じはよく掴めてると思いますよ。笑顔に陰があるんで、若い女の子に人気なんですよ」

 ここにきて、また微妙に違う印象である。隣の第2部隊員が混乱からか、無心で菓子を食べ始めた。
 人間は単純にできていない。その人物には見せていない一面を持っていて、だからこそ証言が食い違うこともあるだろう。あるのだろうが――どうにも違和感がある。
 ――なぁんか、同じ人間を語ってるように思えねぇんだよなぁ……。
 ざり、とケドレは無精ひげを擦る。しばらく剃っていないので、もう少しすると触り心地がもさっとするようになるだろう。そうなる前には、何とか師団に帰りたいが――無理だろうな、と諦めた。

「確認ですが、それぞれ、同じクラインさんのことを言ってますよね?」
「あぁ」
「ええ」
「ここらでクラインって言ったら、あいつしかいねぇんじゃねぇですかねぇ」

 組合長、妻、息子はそれぞれ頷いた。同一人物を指してはいるらしい。
 ――んぁぁ、ダメだ。俺はこういう頭使う仕事は向いてねぇんだよ!
 とりあえず、アタリらしき情報は引いたことを副師団長に報告して、あとは丸投げしよう。ケドレは潔くそう決めて、残っていたお茶を飲んだ。





********





「お前、ほんと、おま……お前なぁ……どんな星の下に生まれりゃこんなに犯罪に好かれるんだよ……」
「そんなの俺が聞きたいですよ……」
「手錠使わなかった日、ねぇんじゃねぇのー?」
「……いや、ありますって。さすがに」
「何で一瞬考えた?」

 ファイズは後輩であるジレニアの『幸運』にドン引きしつつ、眼鏡を押し上げた。
 2人は今、1人の少年とともにアラダル町集会所の個室にいる。ファイズは扉の前に立ち、ジレニアは椅子に座り、机を挟んで反対側の椅子に座る少年に対して、今から取り調べをするところだった。
 何故こんなことになっているか。なんということはない。ミッシュ領地の東の方にあるアラダル町で、人相書きを手に捜査していたところ、一緒にいたジレニアの幸運が発揮された。白昼堂々、雑貨店から万引きする少年を目撃し、現行犯逮捕したのである。正直、溜池の事件を捜査したいのに、とんだ寄り道だ。
 かと言って、犯罪行為を目撃した以上は逮捕しなければならず、逮捕した以上は逮捕した人間が取り調べをしなければならない。
 うまいこと言って第2部隊員に押し付けるのも手だが、イザラント副師団長が何の連絡もなくこっちに来た関係上、部隊員を軽く見ているような行動は避けるべきだ。よって、自分たちで取り調べするしかない。
 何とか記録員だけは借りて来れたので、彼は部屋の隅で会話を記録してくれている。先ほどのあほな会話も、もちろん記録済みである。

「……んんっ。ええと、君の名前は?」

 少年は、見るからに気弱そうだった。ジレニアの穏やかな声音の質問にもびくり、と体を震わせ、おどおどと視線を泳がせる。
 だがファイズは――おそらくジレニアも――そんな態度よりも気になるものがあった。
 口の端に痣があり、唇が切れている。着古した――否、ボロボロの長袖シャツで隠した腕にも、紫色の痣があった。
 暴力の臭いがする。

「……イーデル・シェス」

 唇から漏れるように出た声は、まだ高い。声変わり前だ。

「年は?」
「12……」

 ファイズの眉が、ぴく、と跳ねる。見た目から判断するなら、10歳くらいだと思っていた。手足が細く、身長が低い。体質どうこうではないだろう。まるで飢えた子供のように、腹だけは膨らんでいる。明らかに発育不足だ。
 ジレニアはひとまず、少年が盗ったものを机の上に並べた。

「盗ったものは、携帯鍋、携帯食料3点、以上かな?」
「そ、そうです……」
「君、どこかに行くつもりだったのかい?」

 少年は、バッと顔を上げた。

「なっ、なんで、わかっ……」
「いや、携帯食料と、旅用の携帯鍋を盗んでるんだから、簡単に想像がつくよ。どこに行くつもりだったんだ?」
「友達のところ……」

 ジレニアもファイズも、眉根を寄せた。

「んん……友達はどこに住んでるって?」
「す、住むところはわからない……でも、ケネット領のリューダって町に行くはずなんだ」
「住む?行く?待ってくれ、友達はケネット領にいるんじゃないのか?」
「これ、これから行くって言ってた。落ち着いたら、僕も呼んでくれるって。でも、もう無理なんだ。ルダが落ち着くまで待てない。待ってたらぼくはころされる。しんじゃうんだ」

 恐怖で舌がもつれ、呂律が怪しくなってきたところで、ファイズは扉から離れて少年の小さな背を擦ってやった。

「落ち着け、大丈夫だから。深呼吸しろ」

 ファイズがそう言って宥めると、少年はとりあえず落ち着いた。
 ――こりゃ、きな臭いな。
 ちら、とジレニアを見て、話を進めるように合図する。

「冷静に話そう。まず君は、殺されそうだから友達のところに行くため、旅道具を盗んだ。誰に殺されそうなんだ?」

 ジレニアの問いに、少年は用心深く口をつぐんだ。話すことを恐れているかのように。

「大丈夫だ。君が何を言っても、守ってあげるから」
「…………父さん」

 硬く結んだ口から一度言葉を吐き出すと、彼は滔々と話した。
 父親の酒癖が悪く、母親が家を出て行ってからますます父親が荒れたこと。暴力を振るわれるのが当たり前になっていること。母親が恋人を連れ込むたびに家を追い出される近所の年上の少年と友達になり、傷の手当をしてもらったりして助けられたこと。
 そしてその少年は、先日成人となったので家を出ることにしたらしい。
 友達の母親の現在の恋人は裏組織に属する人間で、友達をその道に引き込みたいらしかった。友達は裏社会に属する気はさらさらないので、男から逃げるためにいっそ新天地で生活したい、と言ったようだ。

「友達は、まだ旅立ってないの?」
「うん……」
「じゃあ、一緒に連れて行ってもらえば良かったのに。それも本当は良くないけど、盗みを働くよりは良かったと思うよ。自分で旅をしようとして、これを盗んだんだろう?」
「ごめんなさい……」

 少年は謝ると、泣き出してしまった。一応、雑貨店への謝罪はここに連れてくる前に済んでいる。謝罪を素直にしたので、根は腐っていないと判断し、ジレニアも取り調べで厳しい態度を見せなかったのだろう。
 罪は罪だし、万引きは立派に犯罪だ。かわいそうだからと許していいものではない。
 だが、少年に情状酌量の余地がまったくないかと言われると、そうではない。
 悪に手を染めざるを得なかった、非力な子供だ。
 彼からは、追い詰められた臭いがする。確かにこのままでは、そのうちに父親に殺されるだろう。
 ファイズは親の暴力に逆らうことなく、死んでしまった子供を何人も見ている。少年はきっと、その類に入る。

「でも、僕、お金がなくて、プレッヅェルにも払えなくて」

 ――プレッヅェル?
 室内に、静かな緊張が満ちた。
 ――今、なんつった?プレッヅェル?
 ジレニアも目を丸くして固まっている。

「……なぁ、教えてくれるか?プレッヅェルってのは何だ?」

 ファイズの問いかけにも、少年は素直に答えた。

「運び屋さん……」
「運び屋……」
「うん……。ルダが、プレッヅェルは格安で転移魔法を使ってくれるいい運び屋さんだって言ってた。宿の3泊代くらいで運んでくれるって」

 ――おいおい。
 血の気が引いていく音がする。
 ―― そのルダって友達……生きてるのか?
 ファイズと同じことを思ったのか、ジレニアが焦りを隠しながら少年に問う。

「友達は……もう運び屋を使ったのか?」
「ううん。今日の夜に運んでもらうって言ってた。だから僕は、旅をしてルダの後を追いかけようって思ったんだ」

 それで彼は、『行くはずだ』と言っていたのだ。
 ――ヤバいぞ。
 思考がぐるぐると回転する。時間制限は夜。運ばれたら終わり。殺される。あの溜池はもう使われない。今度はどこで殺すつもりなのか。森の水場を探す?全国にどれだけあると思っている。現実的じゃない。少年を保護した方がいい。接触しないように。どうやって保護する?

「友達がどこにいるかわかるか?」

 ファイズが硬い声で問えば、少年は驚き、少々怯えたように首を横に振った。

「母親の恋人に見つからないよう、ギリギリまで隠れてる、って言ってた。僕も知らない」

 ――クソ!
 まず保護だ。人命優先。子供が隠れられそうなところを探すか?時間がなさすぎる。待て。この子。友達の顔を知っている。メル。似顔絵。副師団長。

「ジレニア!すぐに基地に行って、メルに応援要請する許可を副師団長から取って来い!取れたら師団長にも連絡!それから師団に帰還してメルを連れて来い!俺はこの子を基地に連れて行く!急げ!」
「はい!」

 椅子を倒して、ジレニアは取調室から飛び出して行った。
 零れ落ちそうなほど目を見開き、驚いている少年に、ファイズはそっと話しかけた。ここで怯えさせたり混乱させると、人相書きのときに支障をきたす。彼にはできるだけ、落ち着いていてもらわなければならない。

「大丈夫。君の友達にも話を聞きたいだけだ。友達の顔が俺たちにもわかるように、後から来るお姉さんにも教えてくれ」
「う、うん……」
「それから、ちょっとお父さんの話も聞かせてくれな。うまくいけば、お父さんと離れることができるから。そのために一度、ミッシュ基地に行こう」

 それに関しては、診断書でもつければ一発で問題ありとみなされる。親の暴力から子供を守る法だってあるのだ。この子に適用されずに、誰に適用されるというのか。
 ファイズからすればわかりきっていることだったが、少年にとってはそうではなかったらしい。彼はそれまで昏く沈んでいた目に、キラキラした希望を乗せて、ファイズを見つめた。
 ――無事でいてくれよ。
 少年の友達の無事を願う。
 この目が悲しみで曇るのを、見たくはなかった。












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