シャルロアに予想外の事態が訪れたのは、独立記念祭の前日だった。 午前の仕事を終え、師団長に昼食休憩を勧められて勤務室を出た彼女に、呼びかける声があった。 「あぁ、メル。よかった、入れ違いにならなくて」 声をかけてきたのは、めずらしいことに第6師団員の女性だった。第6師団の勤務室は西棟になるので、第4師団の勤務室がある東棟に第6師団員がいるのはあまりない。彼女たちは用事がなければ違う棟には来ないし、用事があっても第4師団を魔窟と思っている節があるので、さっさと用を済ませて西棟に帰ってしまう。 そんな存在が西棟、しかも第4師団の勤務室前にいるとなれば、異常事態だ。 目を丸くして、何事かとシャルロアが背筋を伸ばすと、師団員はにこりと微笑んだ。 「あのね、受付にあなたの弟君が来てるわよ」 「……はっ?」 弟、と言われてシャルロアが思い出すのは、自分の唯一の兄弟であるアルコ・メルのことだ。 今年13歳になる、小生意気な――。 「私もちょっと見て来たんだけど、あなたと弟君って髪の色がそっくりね。それに将来美男になりそう」 家族としては頷き難いが、確かにアルコは客観的に見ればそこそこに顔の整った少年なのだ。 明らかに弟の特徴を挙げられて、シャルロアは目の前が真っ白になった。 ――待て!え、なん、アルコがなんで王都に!?聞いてない! シャルロアの故郷から王都まで来るには、およそ一週間強かかる。つまりアルコがここにいる、ということは一週間前には家を出発したはずだ。その間、両親からアルコが王都に向かうという手紙がついていないのはおかしい。 ――あいつ、もしかして家出してきたんじゃないでしょうね!? 動揺が一瞬にして脳をめぐり、次いで即座に回収しなければという使命に変わる。 「すっ、すみません!むっ、むむ迎えに行ってきます!」 走り出したシャルロアの後ろでは、師団員が「一緒にお昼でも食べてくればいいわ」と和やかに見送ってくれているが、それに構う余裕がなかった。 師団に入団してから初めて階段を三段飛ばして駆け下り、西棟の受付に全速力で向かった。 汗だくになって受付に到着したシャルロアは、そこに懐かしい姿を見た。 自分と同じ桃茶色の髪。後姿の背は記憶よりも高くなっていて、少年らしく成長している。 「アルコ!」 大きな声で呼びかけると、受付の女性と話していたらしい弟はシャルロアのほうを振り返って、あたたかみのある茶色い目を大きく見開いた。 「姉ちゃん」 その表情に陰りは見えない。 少なくとも、両親と何か口論になって家出をしてきた様子ではなさそうだったので、シャルロアは安堵のため息をついた。 服の袖で額に浮いた汗を拭いつつ、シャルロアは受付の机に歩み寄り、アルコを預かってくれていた女性師団員に深く頭を下げる。 「愚弟がお世話になりました!」 「ふふ、弟さん、とってもかわいいわね」 あとは家族水入らずを楽しんで、と手をひらひらと振られ、シャルロアは苦笑を浮かべて目礼を返すと、まだ自分よりもかろうじて低いところにあるアルコの後頭部を掴んで外に出た。 「いってぇっ!姉ちゃん、暴力反対!遥々王都まで来た弟に対する態度かよ!」 シャルロアはアルコを睥睨し、ぺしっ、とその頭を叩き離す。 「あのね、私はあんたが王都に来るなんて手紙、全然もらってないの。何事かと思ったでしょうが」 「え、あれ?手紙、出してなかったっけ?」 「もらってないわよ」 「えー、父さんと母さんも手紙出してくれてなかったのかよぅ……」 「それで?一応聞くけど、家出とか、お父さんとお母さんに何かあったとか、そんなわけじゃないわよね?」 「ないない。ちょっと独立記念祭の観光に来ただけだって」 あっけらかんと言い放つアルコの顔を見て、シャルロアは緊急事態が発生したのではないかという疑いを排除することができた。 ただし、ここに来るまでに色々と最悪な事態を考え、気を揉んだので、その腹いせにやわらかい頬をつまんで引き延ばす程度の報復はしておく。 「いてぇいてぇ!なんだひょ、王都の観光に来たくらいで怒んなひょぉ」 「連絡もなしに来たんだから当然よ」 シャルロアは目を吊り上げて見せたが、すぐに止めた。 何の連絡もなしにアルコが訪ねて来たことには驚いたが、うれしいことではある。 頬をつまんでいた手を放し、シャルロアは呆れ混じりに笑みを浮かべた。 「お腹空いてるでしょ。近くにお店があるから、食べに行くわよ」 「そうこなくちゃな!」 調子のいいことを言うアルコを軽く小突いてから、シャルロアたちは騎警団本部の近くにある店に向かった。 師団員の間でも評判の良いその店は、薄く切った鶏肉と旬の野菜にピリリと辛いソースをかけたフェルバという料理が名物で、師団員や旅の者たちが外に設置された席で食事を楽しんでいる光景をよく目にする。 今日もやはり昼時だからか、多くの師団員や旅の者たちが料理に舌鼓を打っていた。 その混雑から人ごみに慣れていないアルコが席を確保し、王都の人ごみで鍛えられたシャルロアがカウンターに食事の注文をしに行くことにした。 とりあえず名物料理でいいか、と聞いたシャルロアに、アルコは任せると言ったので素直にフェルバを頼むことに決めた。この店の煮込み料理もおいしいことにはおいしいのだが、まずはともかく名物料理にしておくに間違いはない。 しばらく注文の列に並んでいると順番が回ってきたので、フェルバを頼んだ。さらに少ししてから料理ができたので、皿を手にアルコが確保してくれている席に戻る。 途中で、足を止めた。 シャルロアの視線の先には、身も凍るような光景が広がっていた。 ――師団長!? アルコが座る席の隣に、まごうことなきシェストレカ師団長が座り、談笑をしていた。 「ししっ、し、師団長!?どどっ、どうされましたか!」 料理を落とさないようにしっかり持って師団長とアルコが座る席に近寄ると、シェストレカ師団長は顔を上げてにこりと微笑んだ。 そのどこか油断ならない笑みは、他の誰でもないシェストレカ師団長だ。他人の空似ではない。 「あぁ、メル君。いえ、私もちょうど昼休憩に行こうと思った矢先に、君の弟さんが来ているという話を耳にしましてね。上官としてご挨拶に。しかし家族水入らずの邪魔をするつもりはないので、戻ります。ごゆっくり」 「あ、はい……?」 シャルロアに追及させる暇を与えず、シェストレカ師団長はさわやかに微笑んで、その場を立ち去った。 お手本にしたいほどの、美しい去り方だ。 呆然とその後姿を見守ってから、はた、と我に返ってアルコに視線を向ける。 「し、師団長、なんだって?」 「んー……」 アルコは幼いながらに整った顔に苦い色を乗せ、ちらりと辺りを見渡してから首を横に振った。 「二人きりのときに話したいかなぁ……」 そう言ってシャルロアに向けるアルコの目は、少々――否、かなり冷たい。 ――師団長に何を言われたんだ! 激しく気になるが、アルコはここで語るつもりはないようだ。あまり人目があるところでしたい話ではないらしい。 仕方なくシャルロアは掘り下げるのを止めて、料理が盛られた皿をアルコの前に差し出し、先ほどまで師団長が座っていたイスに腰かけた。 「話は変わるけど、なんで今この時期に、王都観光なんか来たわけ?あんた、王都の独立記念祭見たいって言ってたっけ?」 「や、姉ちゃんさ、手紙で学校から引き抜かれて師団に入団することになったって連絡はすぐにくれたじゃんか?」 「うん」 「なのにさ、卒業式の時期が近いってのに、卒業式には参加すんのかしないのかはいつまでったても手紙に書いてこなかったから、父さんも母さんも心配してたんだよ。で、今更手紙で聞くにも時間が無くなってきちゃってたし、参加するんだったらとにかく家族が晴れ姿見てないのは悲しすぎるだろ、ってことになって、俺が来ることになった」 「えぇ……。書いてなかったら、普通卒業式には参加しないんだってわからない?」 「わかんねぇから!そもそも、母さんなんか『お姉ちゃんの書く手紙は女の子の手紙じゃない』って嘆いてたぜー?俺も読んでて思ったけど、なんで必要最低限の話しか書いてねぇんだよ。普通は連絡事項とかだけじゃなくて、もっと日常の事とか書いて送ってこねぇ?色気もかわいげもなかったぜ?あと父さんが『なんか息子を持った気分』って言ってた」 「なんで家族に手紙の批評されてんの!?」 しかも散々な評価だ。辛い。 シャルロアとしてはたらたらと日常のことを日記のように書いたところで仕方ない、と思って、あえて、情報を厳選して伝えていたというのに。努力が全然伝わっていなかった。 シャルロアはがっくりとうなだれて、力なく料理に手を付けた。 「まぁ……ともかく……私は卒業式には参加しないことになったのよ。遥々来てもらって、悪かったわね」 「んー、まぁ、王都観光できるから別にいいけどさ」 「明日休みをもらってるから、独立記念祭を見ていくなら案内できるけど?」 「あ、じゃあ頼もうかな。例の副師団長見てみたいし」 アルコがそう言うのは、先の手紙でファルガ・イザラントに魔女であることを疑われているかもしれない、と書いたからだろう。アルコが彼を見たところでどうこうできることではないが、姉の最大の秘密に気付いているかもしれない相手を見ていないのと見ていないのでは、心情的に違うものがある。 シャルロアもそれがわかっていたので、「午後の凱旋行列で見れるよ」とだけ言っておいた。 ******** 独立記念祭当日の空は、雲一つない秋晴れだった。 短い眠りから覚めたシャルロアは出勤日とは違い、制服ではなく私服に着替えて第6師団の寮を後にした。休日であってもズボンを穿くことが多いシャルロアだが、今日はお祭りということで膝より上丈の縦じまスカートにした。 決して、家族から息子を持ったようだと言われたから乙女としての危機感が募った、故の選択ではない。前々からお祭りの日にはスカートにしようと決めていたのだ。 聞いている人間もいないのにシャルロアは心の内で言い訳を重ねながら、アルコが泊まっている宿を目指した。 内郭門から王都に入ると、町の至るところに三角旗を連ねた飾り紐が下がっていた。さらに家のベランダには花が飾られており、オルヴィア王国の国旗も掲げられている。 常の王都にはない、独特の浮かれた雰囲気がある。 普段ならばまだパン屋が開店したくらいの時間帯なのだが、街路には人が溢れ、笑顔と活気に満ちている。祭りが待ちきれず、家の外に出てきた子供たちが目を輝かせる様子に笑みをこぼしつつ、シャルロアはアルコの宿を訪ねた。 アルコが取った宿は、幸運なことに安宿だがそこそこに治安がいい場所にある宿だった。外見は少々オンボロで、レンガ壁に欠けている部分があったりするし、食事を提供しない素泊まり宿ではあるようだが、そもそも王都の独立記念祭を見ようと観光客が集まるこの時期に、宿が取れたのは奇跡としか言いようがないくらいだ。ぼったくり宿でないだけマシである。 宿に入って、不愛想な男の主人に宿泊客を訪ねてきたと一言言い置いて、シャルロアはアルコが泊まっている部屋の扉を叩いた。 少し時間を置いて、がちゃ、と扉が開く。 「おはよ、姉ちゃん」 「おはよう。お邪魔するわね」 シャルロアはそう言って、アルコの部屋に入った。 祭りが始まるのはだいたい朝9時を過ぎてから。現在は7時を回ったところで、町を見て回るには早い。こんな時間にアルコを訪ねたのは、昨日の師団長に関することについて話し合いを持つためであった。 アルコがしっかりと扉を閉めたのを見届けてから、シャルロアは部屋に備え付けてあったイスに座って話を切り出した。 「それで、師団長は何を言ったの?……ケレバに関すること?」 ケレバ、とは一般的には葉野菜なのだが、メル家では少々意味合いが異なる。これはメル家でしか使わない隠語であり、ケレバは魔女を指す。つまり、シャルロアはアルコに、師団長が魔女に関する何かを聞いてきたのか、と訊いたのだ。 アルコはむぅ、と口を曲げて、ぼふっ、と乱暴にベッドに座った。 「正直わかんねぇ。あのさ、姉ちゃん。師団長さんに俺の 「言ってないけど?」 「師団長さん、知ってたぜ。そんで、将来騎警団に入る気はないかって。とりあえず騎警団には興味なかったから、将来の夢は漁師になって自分の船を持つことですって無邪気な子供アピールしておいたけど」 ――あの人、私の家族のことまできっちり調べてたのか……! 思わずぞくりとして腕をさすると、アルコもまた怪談話でも思い出したかのような表情で身を震わせた。 「なんなの、あの師団長さん。話してるときはすっげぇ穏やかだったし、船の話してるときもにこやかだったから何とも思わなかったけど、後々考えて段々恐くなったんですけど!なんであの人、姉ちゃんが誰にも話してない俺の アルコは姉の魔女に関する秘密が暴かれようとしているのではないか、と戦々恐々としているようだが、あいにくシャルロアは別の意味で恐怖を感じていた。 ――これ、なんか、搦め手で来られてる気がしてる……! これがもし、アルコが騎警団の入団に興味がある素振りを示していたら、裏から手を回してアルコが師団とは言わずとも部隊に入団しやすくしていたような、もしくは入団したのちに色々と世話を焼いていたような、そんな気がする。 そしてその対価に、ファルガ・イザラントとの結婚を打診されるような。 そこまでいかずとも、一度くらいイザラント君とデートしてやってください(ますよ)ね、と言われるような。 そんな未来が見える。 顔色が若干悪くなったシャルロアを、アルコは心配そうに見つめた。 「ね、姉ちゃん、大丈夫かよ?」 「あぁ、うん、たぶん、あんたが考える最悪の事態じゃなくて、ちょっと、なんて言うか」 「何?」 「そのね、予想外の問題に見舞われた故の結果って言うか」 「ケレバ嫌いがバレたの?」 「いや、その…………副師団長に、求婚された」 一瞬の沈黙を置いて。 「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」 アルコは驚愕の声を上げた。 直後、隣の部屋と接する壁からドン!と大きな音がする。うるさい、と怒られたようだ。 シャルロアたちはお互いに唇に指を当てて声量は落としながらも、勢いだけはそのままに話し始める。 「なっ、何やって、本当何やってんの姉ちゃん!?なんで!?何がどうなったら英雄の副師団長に求婚される事態になるわけ!?そもそも副師団長って、姉ちゃんのケレバ嫌い疑ってんだろ!?本当なんで!?」 「わかんないわよ!私もびっくりしたわ!」 「いつ!?いつ求婚されたの!?」 「…………入団を勧誘されたとき?」 「はぁぁぁっ!?なんでそんな大切なこと、手紙に書いて来ないんだよ!真っ先に書くことだろ、それ!姉ちゃんの情報取捨選択能力おかしいから!」 「だって最初のほうは、ケレバ嫌いを確かめるためにそんなこと言ってるのかなって思ったのよ」 「何がどうなったらそんな考えに至るのか、我が姉ながら意味がわからない」 実の弟に真顔で言われて、さすがにシャルロアは傷ついた。 黙り込むと、アルコも落ち着いてきたのか、天井を仰いでため息をつく。 「あぁぁ、王都に行く前に、あれだけ男に付け入られるなよって言ってやったのに」 「いや、あんただって副師団長に求婚されたら、絶対付け入られるから」 「やめてよ、俺男なんだからさ!考えただけで気持ち悪い!」 確かに酷な例えだったかもしれないが、シャルロアが言いたいのは、どれだけ気を付けていたとしても、あのファルガ・イザラントはわずかな隙を見出すうえに、隙を作らせることも平然とやってくるので逃げようがないということである。 そもそもいったいどこの誰が、入団勧誘に来たときに口説いてくると思うのか。 ――口説く素振りがあったなら躱しもできたろうけど、あれは無理。 むしろ現在結婚させられていないのを褒めて然るべきだ。 「そんで、その副師団長に求婚されたからって、なんで師団長さんが姉ちゃんのこと気にすんの?」 もっともな弟の疑問に、シャルロアは重く答えた。 「……結婚して、副師団長が丸くなればいいなって思ってるからよ」 「何?副師団長ってつんけんしてる人なの?」 シャルロアは乾いた笑みを漏らした。 「つんけんって言うか、抜身の剣よ」 実情を知らないアルコは、へーん、と胡散臭げに返事する。絶対に信じていない。 しかしその感覚は悔しいことにシャルロアにもわかるものだ。シャルロアだって士官学校に入る前にファルガ・イザラントの噂を聞いていたら、一笑に付しただろう。世間で噂されるファルガ・イザラントは勇猛でかっこいい英雄なのだ。 この印象は、自身の目で見なければ拭えない。 そしてファルガ・イザラントは、一般人相手には必ず猫を被る。つまりはアルコは、永遠に『雷鳴獅子』の実態を知ることはないということだ。 「で、最初のほうは、ってことは、今はその求婚が本気だってわかったってこと?」 「あんた嫌なことを聞くわね……」 シャルロアはげんなりとした。 それは常にシャルロアを悩ませる問題だ。 出会ったばかりのころは、ファルガ・イザラントは秘密を暴くためにシャルロアが動揺しそうなことを言っているのだと思っていたのだが、ここ最近は――どうにも違うのではないかと感じる部分が大きい。 ――なんか、守ってもらってる気がするのよね。 先のエッテル領地であった事件のことは言わずもがな、今思い出せば、自鳴琴事件のときも味方でいてくれた場面はあったような気がする。シャルロアが路地で着替えをしようとしたとき、彼は「痴女行為を揉み消すハメになるとは思わなかった」と言った。 そう、決して彼は騎警団に突き出す、とは言わなかったし、逮捕するとも言わなかったのだ。 もちろんこれは考えすぎかもしれない。こうして油断を誘って、シャルロアが心を開いたときに秘密を暴いてやろうとする魂胆なのかもしれない。一般的に、伴侶になる相手に隠し事をして結婚する人間はあまりいないので、シャルロアもそうに違いないと思われていても、おかしくないのだ。 また結婚とまでいかずとも、女性は好きになった相手に対して自身を委ねる傾向が強い。だから自身に惚れさせさえすれば、シャルロアの隠している秘密がわかると踏んでいるのかもしれない。 それでもあの求婚は本気かもしれない、と信じる割合は増えた。と言っても、一割程度にしかなっていないのだが。 ――本気だった場合、本当に困るのよね……。 アルコも眉をひそめて、それを指摘する。 「本気だったらマズくない?姉ちゃん、ケレバ嫌いってこと言えんの?」 「言うわけないでしょ。結婚するつもりがないんだから」 シャルロアはアルコの問いをばっさり切り捨てた。 ――あの男を、好きだ嫌いだ、で語っちゃいけない。 恋愛感情で語れば最後、それはファルガ・イザラントの望む舞台に上がったのと同じこと。だからシャルロアは彼に対して無関心を貫かなければならないのだ。 存外強い口調で否定したからか、アルコは視線を泳がせて、もごもごと何かを言いたげに口を動かした。 「……あのさ、姉ちゃん」 アルコが喉の奥に詰まっていた言葉を口にしようとした瞬間、外でゴーン、と鐘が鳴り響いた。 「あ、そろそろ祭りが始まるわね。朝食を食べに行くわよ」 「……おう」 アルコは一瞬の戸惑いを見せたあと、ぎこちなく頷いた。 話し合いも目的の一つだが、朝食を屋台で取るつもりもあったので朝早い時間帯に迎えに来ることにしていたのだ。 宿を出たシャルロアたちは街路に並ぶ屋台の内から、朝早くから営業しているところで食事を買った。 出された料理はレイベルという、蜂蜜を混ぜたほんのりと甘く、鈴のように丸い焼き生地の中に甘酸っぱい杏のジャムが入ったものだ。大きさは一口サイズで、大抵どこの店で買っても一袋10個ほど。朝食にするにはいささか甘味的な味付けだが、この屋台は独立記念祭のときにしか出ない屋台なので、祭りの雰囲気を味わうために朝食として食べる人間は多い。 それに見た目ほどは甘くなく、杏の酸味が勝るくらいの味付けなので、さほど甘いものが得意でないアルコも歩きながらぺろりと平らげてしまった。 「王都のレイベルは田舎のレイベルより上品な味付けだな」 「そうね。うちの田舎のレイベルは甘いもんね」 「さっすが王都はうまいもんがあるぜ」 「出し物も田舎とは違うわよ。曲芸とか歌劇とかあるし、夜には広場で都民が踊るの」 「 「そう」 けれど洒落た音楽に合わせなければ舞踏が浮いてしまうので、大きな町や王都でしか踊る機会がないため、田舎の少女たちが憧れる舞踏でもある。 シャルロアも初めて簡易舞踏を見たときは、村舞踏と違う美しいステップに惚れ惚れとしたものだ。 ―― そういえば士官学校の卒業式後のパーティーでも、簡易舞踏を踊るんだよね。 配属先が違うため、会えるのはこれで最後になる……というわけで、密かに好きだった人に告白を兼ねて舞踏相手として誘うのが伝統となっているらしい。しかし今年は間諜が中を引っ掻き回してしてくれたので、果たしてどれくらいのカップルが出来上がるのか、不安である。おそらく、例年よりも少ないであろう。 「姉ちゃん、姉ちゃん、なんか屋台で仮面売ってんだけど、あれ何?」 アルコが指したのは、まだ開店はしていないが準備として竿に並べかけられた仮面だった。仮面の形は様々で、犬や猫、キツネなどの動物を模したものもあれば、羽や宝石(と言っても屑石程度の石だが)があしらわれた豪奢な仮面もある。 「あぁ、あれはね、その夜の広場で踊るときに男の人がつけるのよ」 「なんで?」 「なんていうか、近年の流行り?数年前の独立記念祭の舞踏時間で、確か曲芸師が仮装したまま王都の女の子と踊って、求婚したのよ。女の子が頷いて二人が結婚することになったから、なんか縁起がいいってことになって、男の人は好きな女の人と踊るときに仮装したり仮面を被ったりして踊るようになったんだって」 だがこの話には男性の切なる願掛けだけではなく、乙女心をも大いにくすぐるものがあるのだ。 国民的人気の舞台劇『一度だけ』という劇中で、先ほどの話と似たように旅の曲芸師が女性に舞踏を申し込む話がある。ただこちらは相手の女性が政略結婚が決まっている貴族の女性で、二人は恋に落ちるものの引き裂かれてしまう、という悲恋の劇だ。最後に曲芸師が悲しげに「この憐れな道化に、お手を取る名誉をいただけませんか、お嬢さん」と言って踊りに誘う場面は涙なしでは語れない。 この話で二人が結ばれなかったのを残念に思う乙女は多かったのだが、数年前の曲芸師と町娘の出来事は似たような話でありながら幸せな結末となったので、もやもやとしていたものが晴れた乙女が多数いる。悲恋は悲恋で美しいのだが、やはり幸せな結末を好む人間のほうが多いのだ。 そんなわけで、女性のほうも男性が仮装してお話の曲芸師のように舞踏に誘ってくれて、舞台劇の美しい悲しみを壊してくれるのを待っていたりする。そしてきゃあきゃあ言う女性の気を少しでも惹きたい男性の注目が集まり、仮面や仮装衣装が売れるわけである。 アルコはふーん、と頷いていたが、すぐに別の食べ物に目を奪われた。 「姉ちゃん、あれ美味そう!」 まだまだ色気よりも食い気なお年頃なのだ。 小生意気な弟のまだまだ幼い様子に笑みを零して、シャルロアは財布の紐を緩めてやった。 ******** 食べ歩きながら屋台を見て回っているうちに、大通りの規制が始まった。柵は前日の内に設けられていたのだが、この時間より柵の内側に入ることは許されなくなる。 それはつまり、凱旋行列がこちらに向かっていることを意味していた。 屋台の菓子に舌鼓を打っていたシャルロアはその様子を見て、慌ててアルコの手を引いてとある屋台に向かう。 「すみません、マルハを二袋!」 店主は威勢のいい声で「あいよ!」と袋を二つ渡してくれた。お金を払ってから、シャルロアは一袋をアルコに持たせた。 アルコは目をぱちくりとさせて、袋の中を覗いた。 「なんだよ、これ。……豆?」 「午前の凱旋行列は士官学校卒業生がするの。で、卒業生の凱旋行列にはマルハ豆を浴びせるのよ」 「わざわざマルハを?エイル豆じゃだめなの?」 「エイル豆は騎警団の凱旋行列に浴びせるの。卒業生にマルハ豆を浴びせるのは、自分たちがまだ未熟な団員であるってことを忘れないように、っていう戒めから生まれた慣習だって聞いてる」 エイル豆は成熟した茶色く、丸いころころとした軽く硬い豆なのだが、マルハ豆は楕円型でやわらかい。マルハ豆は成熟しきってしまう前に収穫する青い豆なので、士官学校を卒業したばかりの生徒たちに浴びせるにはちょうど良い豆だ、と長年の歴史の中でなったのだろう。少なくとも60年前にはすでにあった習慣であるらしい。 アルコはふぅん、と面白そうに袋の中の豆を見つめた。 「士官学校がある王都だけの慣習だよなぁ」 「そうね、ちょっと面白いわ」 そんな話をしていると、柵の周りに集まった人々が騒めきだした。人々が顔を向けるほうにシャルロアも目を向ければ、士官学校の校旗がはためいているのが見える。 「来たわよ!」 アルコを連れて、人ごみに紛れて柵の周りに並ぶと、その姿がはっきりと見えた。 士官学校卒業生は、全員で8人。先頭に立って校旗を持ち、軍馬に跨っているのはおそらく消火部門の卒業生だろう。今年の首席は、誰が何と言おうとも従来の通りに副分隊長として入団できる彼しかいない。 消火部門の生徒らしく引き締まったがたいの良い体をしていて、騎警団の式典制服と制帽がよく似合っている。軍馬を操る様も見事だった。 わぁっ、と見物客が歓声をあげてマルハ豆を浴びせている。 ――いつもは騎士部門生が首席になるんだけど、今年は異例だな。 さらにその異例なことは、彼の後に続く卒業生たちにも言えた。 なんと、全員騎乗しているのである。 例年だと、騎乗して旗を掲げるのは、先頭を預かる主席の生徒だけだ。その後に騎士部門生、刑事部門生、消火部門生、総務部門生と続くことになるのだが、首席以外の卒業生は全員徒歩で行進となる。 めずらしいこともある、とシャルロアは目を丸くして全員騎乗して凱旋行列する、という士官学校のそれを見ていたが、はた、と気づいた。 ―― そうか。人数が少ないから、見栄えがしなくて……苦肉の策か。 普通ならば卒業生の凱旋行列は150人ほどの規模になるので、それはそれは見ごたえのある行進となる。しかし今年は合格者数が少ないので、どうしても行進が貧相に見えてしまうのだ。それを軽減するために、卒業生は全員騎乗ということになったのかもしれない。 ――ってことは、かなりの短期間で乗馬訓練もやらされたんだろうな……。 特に総務部門の生徒は今まで軍馬に乗ることが出来なかったので、訓練はかなり厳しかっただろう。 ――お疲れ、レン……。 心の内で友人を労わっていると、行列がシャルロアたちの前までやってきた。 周りの見物人が「がんばれよ!」「未来の英雄!」と声をかけながらマルハ豆を卒業生に浴びせ始めたので、シャルロアとアルコも卒業生たちに豆を浴びせた。 人ごみの隙間から伺い見えたローレンノは、うれしそうに豆を浴びて、目を希望に輝かせている。 その姿を見ただけで、シャルロアは胸にあたたかな気持ちが溢れた。 ――よかった、レン。卒業出来て……。 シャルロアに気付くことなく去っていったローレンノの後姿を見ていると、アルコがシャルロアの袖をつん、と引っ張った。 「姉ちゃん、友達が凱旋行列の中にいたの?」 「うん」 「話して来なくていいの?」 「話したいけど……あんたはいいの?私が友達と話してる間暇になるでしょ」 「いいよ、話せるなら話してきなって。それくらい待ってるからさ」 アルコの気遣いをありがたく受けて、シャルロアは士官学校に在籍していた知識を使って、士官学校卒業生の凱旋行列が終わる地点に先回りし、ローレンノを待つことにした。 もともとシャルロアが豆を投げた場所は凱旋行列の終点の広場に近い場所だった。卒業生は主役だけあってゆっくりと行進するので、シャルロアたちのほうが早く着いた。 一部に柵が設けられた広場でしばらく待っていると、卒業生たちが凱旋行列を終えて広場に入ってきた。 「ローレンノ!レン!」 柵の外で叫ぶと、ちょうど馬から降りているところだったローレンノは若葉色の目を丸くして、シャルロアを見つめた。 「ロア!?あんた、今日は仕事だったんじゃないの!?」 馬を引きながらシャルロアに近づいてきてくれた彼女に、苦笑を返す。 「急に休暇をもらったの。それで、晴れ姿を見に来たのよ。制服、似合ってる」 士官学校生にも式典制服があるのだが、卒業生は騎警団の式典制服を着用して行進することを許される。なのでローレンノが今着ている制服も、騎警団員が普段身に着ける制服ではなく、新兵から副部隊長までの式典制服である黒いズボンと黒い合わせ襟の上着に白いシャツ、黒い制帽を身に着けていた。長い紺色の髪は襟足に近い部分でお団子でまとめられており、いつもより大人っぽく見える。ファルガ・イザラントは剣を下げる、と言っていたが、総務部門卒の生徒や刑事部門卒の生徒は剣ではなく銃を下げることが多く、ローレンノも例に漏れず銃を下げていた。 「やだ、休みをもらったんだったら早く言いなさいよ!私このあと、後輩や卒業しなかった子たちと一緒にお祭りを回る約束しちゃった」 「いいよ、私も弟が来てるから」 そう言ってシャルロアは自分の後ろにいたアルコを紹介した。 「私の弟でアルコっていうの。アルコ、こっちは私の友達のローレンノ・ユーグスエ」 「はじめまして、姉がお世話になってます」 にこ、と微笑んだアルコに、ローレンノはきゃあ、と甲高い声を上げた。 「えー、ロア、弟君ってこんなかわいい弟君だったの!?はじめまして、ローレンノよ。私のほうこそ、お姉ちゃんにいっつもお世話になってるわ」 「家族相手に、お世辞はいいわよ」 シャルロアは苦笑してそう言う。正直言って、持ちつ持たれつの関係なのだ。 士官学校に入学したとき、多くの他人と生活を共にすることで緊張し、人間関係に壁を作りかけていたシャルロアに声をかけてくれたのは、寮で同室だったローレンノだった。彼女は割と社交的で、シャルロアを連れて色々な子と交流を持ってくれたおかげで、シャルロアも学校で浮かずに済んだと思っている。 しかしローレンノは首を横に振った。 「いやだって、私が卒業できたのってあんたの助言のおかげよ?」 「え?助言?」 「夏に会ったとき、言ってたでしょ。第2師団の事件資料を見て耐性をつけておくといいって。私言う通りにして、資料とかを読み漁って試験の後の面談に臨んだんだけど、そのときに殺人事件の資料を学校で読みました、って言ったら第2師団付きの事務員として取ってくれたのよ。あのアピールがなかったら、たぶん卒業出来てなかったと思う。他の卒業できた子にも聞いてみたら、彼女たちも猟奇事件への耐性が評価されたみたい、って言ってたし」 「はぁぁ……」 シャルロアは驚いた。あのときは何気なく言ったつもりだったのだが、まさかそれが卒業できるか否かの分水嶺だとは思わなかったのだ。 ――あー、ってことは、第6師団も師団員の猟奇事件への耐性の無さは頭が痛い問題だったのか。 第6師団は事務仕事が主と思われがちだが、師団のあらゆる裏方を支えている。第2師団で取り調べの記録係がいなければ派遣するし、シャルロアのように第4師団への事務員派遣もする。そのとき必要なのは、例え事件資料をうっかり見たとしても倒れないだけの根性なのだ。 どうやら今回の卒業試験は、それぞれの師団が抱える問題に面と向かったものであったようだ。 まぁ、とローレンノは照れたように己の前髪を忙しなく触る。 「といっても、首席の子以外は全員、1年間一等兵として勤務しないと、副分隊長にはなれないんだけど」 「それは私も一緒よ。だから、がんばろうね」 「……そうね。一緒ね」 ふ、と笑いあって、シャルロアたちは拳を軽くぶつけ合う。 「卒業おめでとう!」 「ありがと!」 このあと、お祭りを回ってから夜の7時から開かれる卒業パーティーに参加する準備(女の子は身だしなみを整えるのに時間がかかるものだ)があるというので、シャルロアはローレンノと別れた。 今生の別れではないので、さみしさはない。彼女も師団勤務になったので、どこかで会う機会もあるだろう。 「さて、待たせたわね。お昼までもう少しあるけど、見たいものとかある?」 アルコに問うと、彼は目をきらきら輝かせながら通ってきた方を指した。 「ここに来る途中で、曲芸やってた!あれ見たい!」 「はいはい」 |