※暴力表現有り。ご注意ください。 ============ ウルグは夏の緩みきった空気はあまり好きじゃない。 けれど、捕り物をするときのピリピリするような緊張感は嫌いじゃない。 細い三日月の控えめな光が、悪の詰まった寮を照らす夜。限りなく暗黒に近い闇夜は、腐りきった人間を捕縛するにはふさわしいように思えた。ウルグは周りの部隊員に気付かれないよう、薄く笑んで唇を舐めた。 今、ウルグとアートレート分隊長、それに副師団長と第2部隊五個分隊は各々街角からアヴェール商会の寮を見つめている。 商会の寮は、立派なものではなかった。壁にひび割れが目立つ、ボロアパートくらいの佇まい。その周辺を見ても似たような建物が多いので、この辺りは低賃金の人間が住む地域なのだろう。 実際に被害者の少年を見て、さらに資料を読んだウルグは、あの寮でどんな卑劣で下衆な行為があったのかを知っている。 ――さっさと捕まえてぇなぁ。 被害者と話して傷ついた心を慰めたり、犯罪者に怯える国民に微笑んで安心を与えるのを特に面倒だと思ったことはないが、できることなら被害者の心や身体を傷つけたり国民を不安にさせる元凶を手っ取り早く叩いてしまう方が、ウルグにとっては易いことだった。 今回もアヴェール商会に魔法薬を盗んだ男が出入りしているのを押さえたのだから、商会ごと拘束してやれば良かったのに、と思う心がないわけではない。 しかしアートレート分隊長はそう言ったウルグに、冷静に言い聞かせた。すぐに拘束すると、そのとき商会に出入りしていなかった関係者を逃すかもしれない。一網打尽にするために、捜査をもっと綿密にするべきだと。 そうしてじっくりと捜査した結果、商会の人間は総勢21人いることが判明した。全員が一堂に集まることはなかったが、商会から出て行った後をつけたおかげで、居場所は全員知れている。この寮以外の場所にも、分隊が送りこまれているのだ。 アートレート分隊長の思慮深さは、獲物を見つけたら暴走しがちなウルグにとって指針でもあり、抑止でもある。 時折他の先輩師団員がアートレート分隊長は慎重すぎる、と言うこともあったがウルグにはその慎重さが非常にありがたい。自分の上司がレッティス分隊長や副師団長だったら、一緒に暴走して師団長にしこたま叱られる。アートレート分隊長は師団長に叱られる前に穏やかに止めてくれるので、自分には合った上官だと感じている。 今回任務が一緒になったエレクトハも「僕もアートレート分隊に行きたい……今回の任務なんて僕、男女無差別に顔と口で口説けって言われたようなもんだよ」と遠い目をしていた。とりあえず「エレクトハ先輩は顔だけじゃなくて振る舞いもカッコいいっす」と慰めたら、お菓子をくれた。やはりエレクトハは男前な先輩である。 ―― そういえば、エレクトハ先輩にメルのフォロー頼まれてたっけ。 今回のエレクトハの任務は、第4師団とエッテル基地の齟齬をなくすことだ。そのためにはシャルロア・メルに優しい顔をするわけにいかず、むしろ突き放すような言動をすることが多くなったのを気にしているようだった。 でも大丈夫じゃないか、とウルグは思っていたりする。 おそらく、メルはわかっている。エレクトハが彼女になんとなく冷たいのは、彼女に女性の嫉妬を向けさせないためだと、理解していると思う。 大丈夫だと思う根拠は、メルが理解し、それでへし折れない芯の強さを持っているからだ。 冷たくされる理由がわかっていても、弱い人間は折れてしまう。 ウルグは先輩師団員で一人だけ、心を病んで辞めてしまった人を知っている。彼は肉体的に強かったが、精神的には弱かった。 初めて捕まえた犯人の育った環境を捜査で知るうちに同情し、取り調べで言葉を交わすうちに情が芽生え、犯人に乞われるがまま形の軽減を求めてあちこちを走りまわったが上手くいかず、手酷く罵られた。そして刑が執行されて犯人が銃殺されたとき壊れてしまった、らしい。 第4師団の勤務室にて、銃で自殺しようとしているところを副師団長とケドレ副分隊長が取り押さえた。後に聞いた話だと、病んだ彼は心割いた犯人に口汚く罵られたのが悲しく、生きている価値がないと思うようになったらしい。 犯人が彼を罵ったのは、銃殺になる未来が覆らなかったからだ。冷たくされた理由なんて誰でもわかっているのに、犯人に同情を寄せた彼は耐えられなかったのだろう。 彼は病院に入院となったが、その後どうなったかはウルグは知らない。 当時、アートレート分隊長は新兵だったウルグにキツく言い聞かせた。 第4師団では、彼のようになる人間がわずかながらいる。犯人に情を寄せてはいけない。奴らはその情を喰い物にする。第4師団で捕えられる人間の多くは、我々が触れてはならない黒い湖を心に持っている。 ウルグは信頼する上官の言いつけを守ってきた。新兵のころ、アートレート分隊長によって植え付けられた心の芯は年を増すごとに太くなり、自分の中で折れたり揺らいだりしないものとなった。 今までも、そしてこれからも、第4師団で捕えた人間に同情する日は来ない。 ――メルもきっとそうだ。 女の子らしい感傷は持っていても、それが犯人に向く気配はない。悪人の黒い湖を見ても、魅了されて触れることはないだろうという確信がある。彼女の中にはすでに芯があるのだ。 ――師団長と副師団長、いい事務員連れて来てくれたなぁ。 「あとは、早く副師団長の嫁になってくれればなー……」 ぼそ、と呟いたつもりだったウルグだが、前にいたファルガ・イザラントには聞こえていたらしい。 彼はちら、と視線をウルグに寄こすと、金の目を細くした。 「任務が終わったら、飯をおごってやる」 「マジですか」 「だからそれ、メルにも言っとけよ」 「了解です」 軽口を言ったあと、ファルガ・イザラントは懐中時計に視線を落とした。 時刻は午前3時。誰もが深い眠りの中にいる。 ――時間だ。 ウルグが薄く笑んだ瞬間、ファルガ・イザラントの手が上がる。手首を振るその合図は『対象を囲め』だ。 第2部隊と第4師団員たちが速やかに動き出し、寮を包囲した。 このときが来るまで、長かった。今回は特に、地元部隊と協力関係を上手く築けなかったので強くそう思う。下手をすると病院に運び込まれた少年が目覚めるまで寮に突入できないのではないか、と思っていたが、そこは副師団長が速やかに手配してくれて、たった一日で突入準備が整った。 そしてアートレート分隊長は、静かな笑みでそれを補佐していた。 その様子を思い出すだけで、ピリリ、と肌に緊張感が刺さる。 ――アートレート分隊長、確実に怒ってるよなぁー……。 彼が指揮官としてあったとき、非常に色々なことに気を配っていたのを知っている。第4師団員はだいたい異分子となる場合が多いので、地元部隊から反感を買わないように立ち振舞うことを要求されるのだ。指揮官級は、特に。 アートレート分隊長はずっと努力していた。悪い部分を穏やかに指摘したし、無理な命令はしなかった。その努力を足蹴にしたのはエッテル部隊だ。穏やかな 第4師団に在籍する副分隊長以上の士官たちの多くは、侮られることを非常に嫌う。先の大戦を経験した者が多いので、侮られた上官のみじめな末路を知っているからだ。 アートレート分隊長も、その例に漏れない。むしろ模範かもしれない。 何せ彼が大戦中、前線を下げずにいられたのは魔法の巧みさもあるが、そもそも無能な上官を牢にぶち込んで自身が指揮をしていたからだと聞いている。 ウルグの前にいるファルガ・イザラントが、円の反対側にいるアートレート分隊長に向かって声を出さずに視線で呼びかけた。アートレート分隊長は副師団長の合図に気付き、冷たく目を細める。 彼の銀の目には、氷水で濡れた銀食器のような煌めきがあった。 アートレート分隊長の口が開く。 「 地に落ちた水滴ほどの音量で囁かれた呪文は静かに夜の静寂に染み入り、その場の空気を一気に下げた。部隊員が吐いた息が白くなり、戸惑う彼らの背後に青い氷が積み上がっていく。 それはまるで、寮を囲む氷の鳥かごのようだった。 氷の柱と柱の間は、人が通れるほどの隙間はない。誰も逃げられない。 そう、誰も。 ウルグはあっ、と思った。 瞬間、耳元でアートレート分隊長の声が聞こえた。 「いいか」 少しがさついて聞こえるこれは、魔法による伝達だ。ウルグはアートレート分隊長がこの魔法を使うところを何度も見たことがあるし、体験もしているので知っていた。 周りの部隊員はざわつきはしないものの、身を硬くして驚いている。 そんな彼らに、アートレート分隊長は底冷えするような声を向けた。 「伝令ミスやら連絡ミスやらが起こらないよう、全員に見えるようにしてやった。罷り間違えて氷に触れてみろ。触れた 自分たちと寮を囲む氷の鳥かごに触れると、凍りつく。敵味方関係なく。 この無差別攻撃ともとられなかねない魔法をアートレート分隊長が使ったのは、この部隊では逃走兵が出るに違いない、という皮肉と、本当にそれをしたら氷漬けにしてやるという脅しだ。 否、すでに脅しではない。おそらくアートレート分隊長は氷に触れた者を助けてやるつもりなんて、さらさらないのだろう。 犯罪者を前にして逃げ出す臆病者は、騎警団に必要ない。故にどうなっても構わない。 アートレート分隊長もイザラント副師団長も、本気でそう考えている。 考えるほどに、エッテル部隊に失望しているのだ。 「死に物狂いで敵を捕らえろ。捕えられたら魔法を解除してやる」 ――馬鹿だよな。第4師団の分隊長が優しいだけのはずがねぇだろ。 顔色が真っ青になった部隊員たちを横目に、ウルグはにやりと笑って白い息を吐き、戦斧を構えた。 副師団長と師団長は、商会に出入りする連中を絶対に逃すな、と言った。 捕えろ。逃がしそうになったら迷わず殺せと。 その言葉の裏に、何か大きな陰謀が張り巡らされていると感じたが、ウルグは難しいことを考えるのは放棄した。 裏の処理は偉い人がやるものだ。 自分は忠実に任務をこなす。 「アートレートの警告は聞いたな?」 ファルガ・イザラントの目が剣呑に底光りした。 「行け」 『雷鳴獅子』の号令とともに、ウルグは心を躍らせながら、第2部隊員たちは退路を断たれた恐怖で震えながら、静かに寮に突入した。 部隊員やウルグたちが正面玄関から入るのと同時に、裏口から別分隊の部隊員たちやアートレート分隊長が入り、挟み撃ちをする作戦なのだが、相手は眠っているので突入時には大きな混乱はない。 寮を包む闇に紛れて、ウルグたちはまず1階の部屋で眠っていた人間を拘束・無力化した。眠っている相手の口に猿轡を噛ませて手錠をかけるだけなので、非常に楽な作業だった。しかも部隊員たちは万が一にでも犯人を逃したら殺されると思っているらしい。今までの働きが嘘だったかのように速やかに仕事をしてくれた。おかげでアートレート分隊長が率いた分隊も特に問題なく犯人を拘束でき、1階は楽に制圧できた。 階段前で合流したアートレート分隊長が冷ややかな視線で部隊員に、2階に上がるよう合図を送った。 震えあがった部隊員たちは、魔法による効果で冷えた空気をぎこちなく吸いながら階段を上がっていく。ウルグもそれに続いた、そのときだった。 「――あっ!?」 部隊員ではない誰かの声が、静寂を割った。 部隊員でないのなら、その声は犯人の声だ。 ウルグは思わず、といった様子で一瞬固まった部隊員たちの間をすり抜けて階段を飛ぶように上がり、声のした方に駆けた。 ドアを開けた状態で、犯人と思わしき男が口を開いていた。 「おいっ、奇襲――!」 廊下の奥に向かって叫んだ男に向かって、ウルグは戦斧を躊躇いなく投げた。 恐るべき筋力によって一直線に飛んだ斧は、ウルグが狙った通りその硬い柄で男の額を叩き、黙らせる。 ぐるん、と男が白目を向いて崩れ落ちるのと同時に、ウルグの戦斧は床に落ちた。それを素早く拾ってウルグが開いていた戸口から部屋の中に視線をやると、ベッドから男が起き上がってきているところだった。 男が武器を取る前にウルグは部屋に足を踏み入れ、戦斧の腹で男の頭を殴りつけた。 「うげっ」 呻き、衝撃によって転がり飛んだ男はウルグから逃げようと床を這ったが、ウルグは逃亡を許さなかった。 副師団長と師団長は、逃がすな、と言った。 だから、逃がさない。 ウルグは男に足に、斧を振り下ろした。 「ぎゃあああ!」 刃ではなく戦斧の背を当てたのだが、それでも振り下ろした威力で男の足は曲がってはならぬ方に曲がった。悲痛な叫びが男の喉奥からせり上がったが、すでに別の男が叫んでいるので悲鳴を上げられたところで問題はない。 むしろ男の足が折れたのは良いことだ。手錠をかける手間を省けるし、逃亡の可能性が低くなる。 「騎警団の病院ならキレイにくっつけてくれるぜ。良かったなー?」 ウルグは第4師団員らしい物騒な笑みを浮かべながら、もう1本の足も斧で折った。 この男は幸運だ。足を折っても病院で適切な手当てを受けられるのだから。 でも人身売買された子供たちは違った。 病院で、紙のような顔色で眠っていた少年は、違った。 確かにアヴェール商会の人間は人身売買は書類上していない。少年たちは契約の下、アヴェール商会に雇われた人間だ。 でも実際は違った。最初に捕えた男が証言した通り、実態は奴隷よりも酷い扱いだった。 彼らは隣国へ薬瓶を密輸するためだけに、陶器の欠片を食わされた。その後、適切な治療を受けられるはずがないのに。 この男たちはそれを百も承知でやっていたのだ。 同情する余地などない。 ウルグはぎゃあぎゃあと痛みで喚く男を捨て置いて、廊下に戻った。すでにあちこちで戦闘が始まっていて、怒号と血の臭いがしている。 「ウルグ」 名を呼ばれるのとほぼ同時にウルグが階段に視線を向けると、アートレート分隊長が銃を構えて立っていた。 「外は副師団長に任せてあるから、好きに暴れろ。始末はつけてやる」 彼が手錠をいくつか持っているのを見て、ウルグはにやりと笑った。 「部屋の中に両足折った奴がいるんで、頼みます」 そう言って、ウルグは忠犬から狂犬へと変貌する。 戦斧を持ち直し、くん、と鼻を鳴らして血の濃い方へと駆けだしたウルグの頭には、難しいことは浮かんでいない。 ただただ、逃げる輩の足はとりあえず折っておこう、という恐ろしい考えがあるだけだった。 ******** ファルガ・イザラントたちが寮への突入を決行した日の朝、彼らは成果を連れて戻ってきた。 商会に関与していた人間は残らず捕まり、寮にいた人間においては半数が足を折られたり腕を折られたりしているという。 そのことで顔色が青くなっているのが商会の人間たちならばまだわかるのだが、部隊員たちまで顔色が優れないのはどういうことなのだろう、と朝食を食べていたシャルロアは首を傾げた。 部隊員たちの話を盗み聞きしようにも、作戦に参加した部隊員たちは頑なに口を閉じて黙したまま食事に努めて――本当に『努めて』――いるし、噂話の一つも拾えない。 ――副師団長がまた何かやったのかな。 身内が青くなっている大抵の原因は、ファルガ・イザラントである。 一人頷いて黙々と食事を進めていると、その向かいの席に座ろうとする影があった。アートレート分隊長だった。 「……えっ。あ、あの、アートレート分隊長、お疲れ様です」 「あぁ、君もご苦労」 まさか色々と後始末で忙しいであろうアートレート分隊長がここにいるとは思わなかったので、シャルロアは大いに驚いてしまい、挨拶が遅れてしまった。 しかしアートレート分隊長はそれを咎めず、トレイに乗せられた大盛りの朝食を品良く食べ進めていく。彼は存外、健啖家であるようだった。 シャルロアの視線に気付いたのか、アートレート分隊長は苦笑を浮かべた。 「このあと、第2部隊に訓練をつけることになっているからな」 「……第2部隊に、訓練を?アートレート分隊長が?」 それはまた、ずいぶんと管轄違いの話だ。本来なら第2部隊員に訓練をつけるのは第2部隊の分隊長や部隊長、あるいは第2師団の人間だろうに。 しかも捕り物が終わった直後に訓練とは、ずいぶんと苛烈である。 小首を傾げたシャルロアに、アートレート分隊長は焦点の遠い目を向けた。 「イザラント副師団長が主に指導する」 ――うわぁ。 シャルロアも遠い目をした。 帰ってきた部隊員たちが青ざめている理由がよくわかった。そして食事を懸命に食べている理由も。 あの『雷鳴獅子』の指導が生温いわけはないし、厳しい訓練になるのであれば栄養をつけておかなければ死ぬかもしれない。冗談ではなく。 何せファルガ・イザラントは大変にご立腹なのだ。エッテル部隊を『腐った』と評するほどに。 訓練で死者が出たら洒落にならないので、アートレート分隊長も胃が痛かろう。シャルロアが同情の目を向ける先で、彼は重いため息をついた。 「私もついうっかり部隊員を殺しそうだ」 違う。そういう理由で胃が痛かろうと思ったわけではない。 シャルロアは素早く同情の視線を引っ込めた。アートレート分隊長もまた、まごうことなき第4師団に籍を置く男であった。 「あぁ、それから。君は朝食を食べ終えたら師団に帰還して構わない、と副師団長が言っていたぞ」 「え。少年の証言は構わないんですか?」 「彼から証言を取るより先に、事件が片付いたからな。彼が目を覚ませば事情聴取はすることになるが、君がしなければならないことではない」 「了解しました」 帰っていい、と言われたのであれば、シャルロアはとっととこんな基地からは去ってしまいたい。エッテル基地の関心は今やエレクトハに集中していて、イゼット分隊長の陰などどこにも見当たらないが、ここで嫌な思いをしたことは忘れられない。 だから帰れるなら、すぐに帰りたい。 苦々しい記憶がよみがえったせいか、少々眉間にしわが寄ってしまい、それを見たアートレート分隊長が微苦笑を漏らした。 「今回、君には苦労をかけた。これに嫌にならず、また私たちの力になって欲しいのだが」 ――ふむ?今回の私の働きは、アートレート分隊長的には及第点だったと思ってもいいかしらね? 仕事を妨害されたせいで、あまり有能な働きはできていなかったように感じていたシャルロアだが、アートレート分隊長の台詞を聞く限りは、そう悲観するものでもないらしい、と当たりをつけた。 「アートレート分隊長には充分なご配慮をいただきました。もちろんこれからも私の力が及ぶ限りはお役に立てるよう努力いたします」 「よろしく頼むよ」 差し出されたアートレート分隊長の手を握ってから、シャルロアは一言断って立ち上がり、食べ終えた食器を食堂に返した。 そのまま食堂を出て、捜査本部室に一度立ち寄ってから師団に戻ろうと思ったが、厩番の部隊員にシャルロア用の早馬を取っておかなくても構わないと伝えておかなければ、と思い出し、基地の裏口から厩へと向かった。 師団基地はもとより、部隊基地も大抵は町の端に建っていることが多く、エッテル基地もその例に漏れない。なので本部よりは町に近いが、それなりに剥き出しの土が広がる、いかにも町外れらしい地面を歩いていると、 「おい」 と背後から呼びかけられた。 その声には聞き覚えがある。が、非常に不快だった。 辺りに人はいないので、呼びかけられているのは自分だと言うことは重々承知だ。自分が呼びかけられているとは思わなかった、という言い訳は通用しまい。 だから気付かなかったことにしよう、とそのまま厩に向かって歩いていると、呼びかけてきた男は苛立ったのか、シャルロアの肩を強く掴んで無理矢理振り向かせた。 「呼んでるだろ!」 振り返った先にいたのは、イゼット分隊長だった。 相変わらず赤い髪と赤い瞳の派手な顔立ちだが、先日までにじみ出ていた華やかさが枯れて、どこかくたびれたような印象を受ける。 余裕たっぷりだった笑みも今はなく、よく見ればわずかに目の下に隈ができていた。現在の彼には美麗さが欠けている。 ふぅん、とシャルロアはわずかに目を細めた。 ――色男の座から蹴り落とされたわけだ。 ほんの数日前に、エレクトハは来たばかりだ。なのに男女関係なく話題をエレクトハに持って行かれて、彼の地位は簡単に崩れたのだろう。女性たちはこれまでイゼットを持て囃していたのに、あっさりとエレクトハに宗旨替えした。 以降は女性たちの興味を奪えていないに違いない。 そうなると、アートレート分隊長が語ったことが活きてくる。 イゼットは同性からの評判が悪い。つまり、異性からの助けをもらえず、かと言って同性からの助けももらえない。孤立した立場になった。 『魅力がなくなった男の末路を見ておくといい』 ――なるほど。 これは、みじめだ。 そう考えるシャルロアに、イゼットは枯れた笑みを向けた。 「喜べよ、お前と付き合ってやる」 「…………は?」 思いがけない台詞に、固まってしまった。 ――この人……。 どう思考すれば、そんな考えに至れるのかがまったくわからない。シャルロアはあれほど彼から口説かれることを嫌っていたというのに、何故喜ぶと思ったのか。 ――あれか?私が喜ぶ、というより、自分が他の女の子に見向きもされなくなったから、自分の価値を落とさないために師団勤務の私と付き合うことにしたのかな。 そんなふうに付き合ってやる、と言われてもシャルロアの出す答えは永遠に一つだけ。 「お断りいたします。私は恋愛をするつもりがありません」 シャルロアが屹然と返答しながら肩を掴んでいた手を払いのけると、イゼットは枯れた笑みすら引っ込めて、怨色あらわに眉根を寄せた。 「お前も、あんな軽薄な男のほうがいいのかよ……!」 彼がエレクトハのことを言っているならば、シャルロアは真っ向から否定する。エレクトハは美男だが、そういった対象になることはない。 ――彼に自分が『魔女』だと、明かせる光景がまったく思い浮かばないもの。 エレクトハだけではない。家族以外の、この世のすべての人間に対して、シャルロアは自身が魔女である告白をすることは生涯ないだろうと思っている。 だからシャルロアは、恋愛と結婚を人生のうちに数えない。 その決意は目の前の男では破れないほど、強固なものなのだ。 シャルロアの冷ややかな視線を受けて、イゼットはぎり、と歯ぎしりした。 「お前、自分が師団勤務だからって王都の令嬢にでもなったつもりか?お上品ぶってるが、どうせ田舎出なんだろ?お前程度の女、掃き捨てるほどいるって現実を見ろよ」 ――口説いた相手にそうやってすぐ手のひらを返すから、見限られたのよ。 シャルロアは知らず、冷笑した。 「現実を見たからと言って、貴方を見るわけではありません。それに、山札の詐欺札を仕掛ける男なんてこっちから願い下げです」 自分に火の粉を被せておいて、恩着せがましく水をかけてくる男に惹かれる女がどこにいると言うのか。 イゼットはシャルロアに小賢しい策がバレていないつもりだったのかもしれない。大きく目を見開いたあと、わなわなと身が震え、顔が紅潮した。 「この『魔女』め……っ!」 怒りと屈辱で首まで真っ赤になったイゼットは、拳を振り被った。 腐っても、第2部隊分隊長にまで成り上がった男だ。身体能力は高く、少なくとも一般人相手の護身術しかできないシャルロアに、その拳を避ける術はなかった。 ――殴られるしかない。 迫りくる衝撃に思わず目をつむりかけた、その一瞬。 拳を掴み留める手が、イゼットの背後から伸ばされた。 「隊員同士の暴力行為は禁則事項だぜ?」 留める手は、褐色肌だった。 イゼットは足を掬われて体勢が不安定になったところ腕を引かれ、乱入してきた人物と立ち位置を入れ替えさせられた。シャルロアを守るようにイゼットとの間に入ったその人は、間髪いれずイゼットの首元を己の腕の内側で打撃する。衝撃でイゼットは軽々と投げ飛ばされた。とっさに受け身は取ったようだが、それでもバァンッ、とおよそ土の地面に叩きつけたのではないような音が、辺りに響いた。 ――ヤバい。 シャルロアは、その一瞬の攻防で顔色が真っ青になった。 褐色肌。黒い髪を後ろに流している。それにあの声。 この、殺気。 背中しか見えないが、顔なんて見なくてもわかる。 ファルガ・イザラントだ。 ――殺したかも……! 「うぐ……っ……げぇっ」 イゼットが悶えながらうつ伏せになり、胃液を吐いたことでシャルロアは安堵した。 いや、げぇげぇと胃液を吐いている状態で安堵するのが間違っていることはわかっているのだが、第2部隊分隊長を務める男が殺気がだだ漏れ状態のファルガ・イザラントに攻撃されて生きている、というのが奇跡だと思える。 もしかして手加減するほどには慈悲が残っていたのだろうか、とシャルロアが少し前に出てファルガ・イザラントを窺うと、彼は獰猛な獣の笑みを浮かべていた。 「吐く元気があるなら平気だな。立て」 慈悲はなかった。むしろ鬼畜だった。 いったいどこの世界に悶えて嘔吐する相手に対し、吐く元気があるなら立てよと言う非道な人間がいるというのか。ここにいる。 イゼットはもちろんそう言われても立てるはずがなく、赤い髪を土まみれにして胸を押さえ、這いつくばったままだ。 「立てっつってんだろうが」 ファルガ・イザラントはイゼットの腹をガッ、と抉るように蹴りあげた。 「うげっ!」 「戦場で嘔吐してたら、敵が『大丈夫ですか』と介抱してくれるとでも思ってんのか?あ゛?とんだ箱入りだな。てめぇはどこの家の ファルガ・イザラントの台詞が、酷い侮辱であることはシャルロアにもわかる。 男性に向かって『フェレン』と呼びかけるのは、女性に『魔女』と呼びかけるほどではないが、それに似た感じの侮辱だ。端的に『お前は男じゃない』と言っているのだと思ってもらって構わない。 さらに『ニィーマ』は幼児が使う『お母さん』の意味。つまりファルガ・イザラントはイゼットに対して『母親のところに帰ってろ、甘ったれ』と侮辱あらわに言ったようなものだ。 イゼットも意味をわかっている。耳まで恥辱で赤くなっているのだから。 けれどファルガ・イザラントがくれた攻撃は一撃一撃が重すぎて、立てないのだ。 ファルガ・イザラントの足がもう一度イゼットの腹にめり込んだところで、シャルロアはハッとして彼を止めた。 「副師団長!そっ、それ以上は暴力行為を止めたにしても過剰になります!禁則事項に触れたなら然るべきところで罰則を……」 「これは、訓練だ」 ファルガ・イザラントは、鳥肌が立つような笑みを浮かべてシャルロアを横目に見た。 「エッテル部隊は緩んでるを通り越して、腐ってやがる。煮詰まったクソだ。だから早急に根性を叩き直す必要があると見なし、捕り物直後に訓練を入れたんだぜ。特に、このアズー・イゼット分隊長は」 怒りで赤く焼けた金の瞳が、イゼットを見下ろした。 「よけいな仕事を実に増やしてくれたんで、念入りに訓練しておかねぇとな。そうだろ?てめぇがうちの事務員を人目のあるところで口説いてくれやがったもんだから、今回の事件は連携に齟齬ができた。おかげで連れてこなくて良かったエレクトハを連れてくるハメになったんだぞ、あァ?くだらねぇ役を振らざるを得なかった俺の気にもなってみろ、ボケ」 彼から溢れる怒気と殺気に、シャルロアの背中にはじわりと冷や汗が浮かぶ。 『雷鳴獅子』は怒っている、どころの話じゃない。 怒り狂っている。 イゼットは、エッテル部隊は、踏んではいけない尾を踏んでしまったのだ。 その怒気と殺気をもろに受けたイゼットは、顔面蒼白で涙目になっていた。悲壮な有り様だが、シャルロアは助ける気がみじんも起きない。ここで下手に庇えば、『雷鳴獅子』の怒りの矛先は自分にも向く。 ひたすら息をひそめるシャルロアの前で、ファルガ・イザラントは怒りの形相を浮かべた。 「仮にも分隊長なら、自分の行動がどういう結果を招くか予測して動けクソガキが。それとも予測した結果がこれか?そりゃあさぞ楽しかっただろうな、自分に心酔する女どもが自分を巡って黄色い声をあげながらもめる様子はよ。あァ?」 彼の怒りの炎が、辺りの酸素を食いつくしたかのようだ。呼吸がままならない。 イゼットは言い訳をしようとしたのか、口を開いた。しかし声が出せないようで、意味無く口をはくはくとさせるだけだ。 それを見て、『雷鳴獅子』が吠えた。 「楽しかったかって聞いてんだよクソ野郎!」 怒鳴り声を浴びせられたイゼットは身を震わせて、慌てた様子で答えた。 「じっ、自分はそんなつもりじゃありませんでした!」 「てめぇ、這いつくばったまま上官の質問に答えていいと思ってんのか!とっとと起立しろノロマ!」 追い立てられるようにしてイゼットは立ち上がったが、吐き気はまだ治まらないらしい。ぐ、と喉からせり上がった苦いものを飲み下している。 「で?そんなつもりじゃなかったっつうわけだな?」 「はっ、はいっ」 『雷鳴獅子』は嗤笑した。 「なるほど?てめぇが言うならそうなんだろうな。連携齟齬を指示したわけでもねぇし、私事の延長線である以上は正式な罰は下せねぇ」 その言葉を聞いて、イゼットの顔に安堵が広がった。 しかしすぐにそれは凍りついた。 「ただてめぇの人間関係における危機管理能力のお粗末さとこの基地の事務能力の低さは俺がしっかりと覚えて、師団の人事に話しておいてやる。ありがたく思えカスが」 師団の人事に悪評価を伝えられるのは、ほぼ降格間違いなしと見ていい。 ―― そうか。この人、第6部隊にもしっかり怒ってたんだ……。 いったい第6部隊の何人が減棒や降格になるだろう。おそらくはアートレート分隊長も評価を伝えると思われるので、ざっと10人以上処分者が出る。 イゼットはもとより、シャルロアもひやりとして血の気が下がった。 このエッテル基地に、はたして何人の上級士官が残れるかは人事のみぞ知る、だ。 「理解したら、とっとと訓練場へ向かえ。逃げ出したりしてみろ、脱走兵扱いで団法会議にかけてやるぜ」 ここで散々痛めつけておいて、なおも訓練場で訓練を受けろと言うファルガ・イザラントは悪魔だ。シャルロアは確信した。 ファルガ・イザラントがしっしっ、と犬を遠ざけるように手を振ると、イゼットはふらふらと青い顔で踵を返し、何かに突き動かされるように基地へ戻って行く。 その丸まった背に、ファルガ・イザラントは呼びかけた。 「あぁ、それと」 イゼットがこちらを振り向くのと同時に。 シャルロアはファルガ・イザラントに抱きよせられた。 イゼットどころかシャルロアの隙をも狙ってなされた行動はあまりに素早く、シャルロアは呆然として、ファルガ・イザラントの褐色の手が頬を撫で上げるがままに、顔を上げさせられた。 ――顔、が。 近い。 金の双眸はシャルロアではなく、イゼットを睨んでいる。 けれどその金の虹彩に、わずかな赤が混じっているのがわかるほど、近い。 近すぎる。 吐息の熱さも、唇の熱も、わかってしまいそうなほどに。 ふ、と吐息が遠くなった。 「――こいつは、俺の唯一だ。掃き捨てる存在じゃねぇ。それを覚えておけ」 ふらり、と。 イゼットはその場から逃げた。 シャルロアは彼の背が遠くなり、やがて完全に見えなくなるまで見送ってから――やっと思考が通常を取り戻し始めた。 ――私、抱きしめられてない? 脳が動き出すと、シャルロアは羞恥で顔を真っ赤にしながらファルガ・イザラントの胸を強く押して、彼の腕から逃れた。 「なななななっ、何するんですか!?」 「するっつうか、したあとだろ」 いけしゃあしゃあと述べるファルガ・イザラントを睨めば、彼はあくどい笑みを浮かべた。 「後々禍根を残さねぇように、敵は叩けるだけ叩き潰しておくべきだろ?」 「敵!?敵がどこに!」 「あの野郎が、お前を口説いてたっつうのを小耳に挟んだんでな。俺の嫁予定を口説くなんざ、敵以外のなんでもねぇだろうがよ。だからクソガキに現実を教えてやったまでだ」 「嫁にはなりません」 「なんだ、恋人ならいいのか。さっさとそう言えよ」 「どこをどう聞いたらそういう結論になるんです!?なりませんよ!」 「あの野郎の中では絶対ぇそういう結論になってる。アイツの角度からならキスしたように見えてるからな」 ――は? シャルロアは一瞬固まって、すぐに眩暈がしそうな光景を思い出した。 あの、近すぎた顔。 決して唇は触れていない。けれどあのとき、ファルガ・イザラントは自分の手でシャルロアたちの口元を巧妙に隠していた。 それはもう、見えただろう。キスしているように。 ぐるり、と様々な感情が体内をめぐって、言葉が漏れた。 「あっ、あんなことして、イゼット分隊長が『2人はそういう仲だからえこひいきがあった』なんて言い出したらどうするんです!?エッテル部隊と師団にしこりが絶対生まれるに決まってるじゃないですか!」 人の噂はどう変化するかわからない。第6部隊に多くの処分者が出たのは『雷鳴獅子』の恋人を虐めたからだ、なんて噂されたら、今後第4師団との協力関係にそれこそ支障が出てくる。第4師団はえこひいきで他部隊を貶める輩なのだと思われたら終わりだ。 そんなシャルロアの心配を、ファルガ・イザラントは一笑に付した。 「アイツは部隊での影響力を失ってる。それに俺は第6部隊の前でてめぇに怒鳴り散らしてんだぞ。あの剣幕を見たうえで俺がお前をえこひいきしてるだのなんだの言い出したら、そいつは頭がおかしいと思われる。しかもお前にフラれた男の話だぜ。誰も信じねぇよ」 ――あの剣幕は、これも狙ってたのか……っ! 一つの布石で二つの効果を得る。本当に油断ならない男である。 色々と文句を言いたい。けれど今回は、ファルガ・イザラントが来てから助かったことが多すぎて、言える気分になれなかった。 ぐぬ、と唇を噛んだのち、シャルロアはすべてを諦めてため息をついた。 「お気遣いいただいて、その、助かりました。ありがとうございます」 本当に悔しいけれど。ファルガ・イザラントはシャルロアを守ってくれた。 礼の一つも言えないのは魔女として廃る気がしたので、シャルロアが視線を逸らしながら小さく感謝の言葉を述べると、彼は一瞬きょとんとしてからにやりと笑う。 「……勤務時間外だったら礼はキスで寄こせと言えたのによ。惜しいことしたぜ」 「副師団長にお礼を言うのは勤務時間中にすることを頭に叩き込んでおきます」 「そもそも勤務時間外だったら、キスのフリじゃなくて本当にやって見せつけたから、それを礼代わりにできたっつうのに。つくづく惜しいぜ」 ちっ、と堂々と目の前で舌打ちするファルガ・イザラントに、シャルロアは「厩に寄ってから師団に戻ります」と言い置いて、そもそもの目的地だった厩へ足を向けた。 ファルガ・イザラントも訓練指導の仕事がある。シャルロアを追いかけてくることはなく、彼も厩とは反対の訓練場へと向かった。 『女に生まれたからには男性には『一番』ではなく『唯一』と言わせたいものです』 自分は以前、イゼットにそう言い放った。恋愛に重きを置かないシャルロアにとってはほぼ売り言葉に買い言葉くらいの気持ちしか入っていない言葉だったのに。 あの男は、シャルロアのそんな言葉知りもしなかったはずなのに。 『――こいつは、俺の唯一だ』 そう言った。 ――偶然だ!偶然。深い意味はない! もしかしてファルガ・イザラントの中には、自分と重なりあう価値観があるのかもしれない、なんて幻想は忘れるべきだ。 シャルロアはほんのりと赤くなった頬を手の甲で擦りながら、ふるふると首を横に振った。 |