エッテル基地で人相描きを務めること4日目。その日数だけ師団には帰れていない。師団長も仕事にキリがつくまでは戻らなくていいと言ってくれているので、シャルロアはずっとエッテル基地に泊まっている状態だった。
 はっきり言って、疲れる。
 眠りが15分で済むシャルロアは寝不足になることはないし、士官学校の教育のおかげでどこでも眠れるだけの図太さは培った。
 しかしながら、まさか戦場でもないのにトイレの一室で眠ることを強いられるハメになるとはさすがに想定していなかった。
 エッテル部隊にも寮はあるだろうが、第6部隊の寮なんて恐ろしくて使えたものじゃない。故にシャルロアは捜査本部室とシャワー室に泊まっているようなものだった。仮眠室もあるが、そこは第6部隊の女性も利用できる。何をされるかわからないのに、そこを利用する馬鹿はいないだろう。
 そんなわけでシャルロアの眠る場所はあまり使われない女子トイレの一室。座ったまま15分の睡眠を取った後はシャワー室で手早く汗を落とし、捜査本部室で書類仕事をしているか、取調室で人相描きをしている。
 そう、書類仕事だ。
 人相描きの仕事が終わっても、捜査本部室に戻れば嫌がらせの一環で第4師団員が提出した書類が積まれている。彼女たち曰く、貴方が担当するべき書類でしょ、とのことだ。
 いつからは自分は第6部隊所属になったのか。
 イライラするが、眠れぬ魔女の性で書類を整頓し、後は部隊長のサインが必要なだけの完璧な書類にまで仕上げた。
 すでに第2部隊員からは「この人いつ寝てるんだろう」みたいな恐ろしいものを見る目で見られているが、ウルグは別に気にした様子がないので第4師団員としては違和感がない睡眠時間なのかもしれない。もちろん、15分しか寝ていないとは感じられないよう、深夜の人があまりいない時間帯に1、2時間捜査本部室のソファで仮眠をとっているフリをしている。件のイゼット分隊長は別事件を担当になったのか、魔法薬盗難事件の捜査本部室に顔を出すことがないのが救いだった。彼が捜査員としているなら、別の場所で仮眠をとらなければならないところだった。まさに僥倖。
 工作は完璧だ。
 そう自負しているが、それ故に疲れる。精神的にずっと張りつめているのが自分でもわかるのだ。
 はぁ、とため息をつきながら書いた文字がかすれた。インクが無くなったようだ。
 シャルロアがインク瓶を見ると、こちらも空だった。元々寄こされたインクが使いかけかと突っ込みたくなるような微妙な量のものだった。無くなるのも早くて当然だ。
 他の机のインク瓶も覗いてみたが、量が少ない。昨日確認した時は満タンだったはずだが、どうやら入れ替えられたようだ。シャルロアは乾いた笑いを漏らした。地道な嫌がらせに頭が下がりそうになる。
 ――嫌がらせに使う力があれば、仕事に使えばいいのに。
 インクの追加を申請しなければいけないのは、避けられない。ついでに出来あがった書類も提出しておくべきだ。面倒事は一度に片付けるに限る。
 脳内であらゆる罵詈雑言を吐きながら、シャルロアは書類を手にして、重い足で第6部隊勤務室に向かった。
 勤務室には、シャルロアに味方してくれる分隊長の姿があった。朝早い時間のためもしかしたらいないかもしれない、と思ったが幸運に恵まれた。
 彼女にインクの補充をお願いしよう、と室内に足を踏み入れると、戸口から比較的に近い席についていた若い女性に行く手を阻まれた。

「何か御用かしら」
「……マレア分隊長に用事があってまいりました」
「何?備品の補充なら分隊長のお手を煩わせないでもらえる?」

 ――じゃあ、備品の補充に私の頭も痛ませないでほしいわ。
 シャルロアはにこりと微笑んで、彼女に向き直った。

「インクの補充をしたいのですが」
「また?書き損じが多いんじゃないの?」

 周りの、仕事に就き始めた女性隊員たちがクスクスとささやかに嗤う。
 彼女たちとは話を交わすだけ無駄だ。シャルロアは極めて冷静な口調でもう一度繰り返した。

「インクの補充をお願いできますか?」
「じゃ、申請書に書いてくれる?キレイな字でね」
「では申請書をください」
「ごめんなさい、今用紙を切らしてるの。他の子からもらってくれる?」

 ねぇ、誰か持ってない?と彼女が周りの女性隊員に尋ねると、彼女たちはクスクス笑いながら持っていない、と返す。
 穏やかな、けれど絡みつくような嘲弄だ。
 じわりじわりとその輪は広がり、勤務室を覆っていく。
 シャルロアの心にも、じわり、と広がる。
 失望が。
 ――この土地は、呪われて然るべきだったのかもしれない。
 そうとまで考えさせられたとき、シャルロアの手助けをしてくれているマレア分隊長がハッとこちらに気付いて顔を上げて――凍りついた。
 蒼白になった顔色。
 なんだ、と思った背後から怒声が響いた。

「てめぇ、こんなところで何を油売ってやがる!」

 耳障りな嗤いが、止まった。
 嘲弄が満ちていた室内は、身も凍るような緊張に取って代わった。
 その緊張感には、覚えが、ある。
 シャルロアが振り向くと、勤務室の戸口にはすさまじい相貌でこちらを見つめるファルガ・イザラントがあった。
 ――なんで、ここに?
 思わず呆然としそうになったが、シャルロアは必死に止まりそうになる頭を働かせた。
 何をしている、と問われた。
 おそらくその問いはシャルロアに向かっている。答えなければファルガ・イザラントの機嫌を損ねる。それは士官学校で知っている。彼は質問を無視されるのが大嫌いだ。

「……書類提出と、備品補充です」

 ぴく、とファルガ・イザラントの眉が動いた。眉間にはこれ以上ないほどしわが寄っている。
 どう見ても不機嫌だ。
 誰もがそう言うに決まっている。
 なのに、何故だろう。
 ――すごい顔してるけど、怒ってるわけではない……?
 シャルロアには、彼は器用なことに顔だけで怒っているように見えた。あれだけ険しい表情をしていれば、シャルロアの持つ感想こそがおかしいはずなのに、それをわかっているのに、否定できない。
 少し考えて、彼の放つ威圧感に違和感がある、ということに気付く。
 ファルガ・イザラントが激怒したときは、呼吸音も気付かれたくないほどの絶対的恐怖を覚える。なのに今はそれがない。

「てめぇの仕事は人相描きだ!それ以外の仕事して、第6部隊の管轄を侵害すんじゃねぇ!二度とすんな!誰に言われてもだ!わかったか、あぁ!?今度やったらてめぇに仕事をやらせてやった奴も処罰すると覚えとけ!」

 ファルガ・イザラントの大音声は勤務室の窓ガラスをビリビリと震わせた。みな、呆然、と言うよりもファルガ・イザラントの剣幕に怯えて固まっている。
 シャルロアも、若干驚いた。
 何せあの自由奔放なファルガ・イザラントから、管轄侵害という言葉が飛び出すとは思いもしなかった。シャルロアがやったこと以上の管轄侵害を、この男は過去に平然とやってきているはずなのだが、今さらものすごく常識的なことで叱責されている衝撃がすごい。
 えぇ……と思わない部分がないでもないが、シャルロアは上官の言うことに頷いた。

「了解しました」
「わかったらその紙をとっとと返して、アートレートんところに行っててめぇの仕事をしろ!グズグズしやがったらケツ焦がすぞ!」

 そう言い捨てて、ファルガ・イザラントは執務室から荒々しく踵を返し、去って行った。
 交代するかのように、やはりここにいるはずのない人物が顔を出した。

「メルちゃん、何やってんの。さっさと仕事に行ってくれないと副師団長のご機嫌損ねるよ」
「エレクトハさん……!?」

 彼が入室すると、女性隊員の視線が全てエレクトハに集結した。エレクトハは向けられた視線にちらりと甘く微笑んでから、シャルロアのところにやってきた。
 それからぱらぱら、とシェルロアが抱えていた書類をめくって読む。

「あー、ダメじゃん。これ、第6部隊さんのお仕事ね。侵害しちゃダメ。まぁ、やっちゃったもんは仕方ないけど、これからはしないようにね」
「は、い」

 ――いや、普通にしゃべってるけど、何でこの人ここにいるんだろう……。
 エレクトハはアートレート分隊所属ではない。だからここにいるのはファルガ・イザラントよりもおかしい事態なのだが、シャルロアは聞くに聞けなかった。
 エレクトハが黙らず、会話の主導権を握り続けているからだ。

「それで、ここに来たのは書類提出と備品補充だっけ?何が足りないの?」
「インクです」

 エレクトハはシャルロアから書類を受け取って、その美貌に呆然としている女性隊員にそのまま流すようにして渡した。にっこりと、蕩けるような笑みを添えて。

「うちの事務員が迷惑かけてごめんね。これからは君たちの仕事を侵害しないようにするから。ただでさえ普通の事件の事務処理で大変なのに、第4師団なんて異物が入って来て事務作業も混乱してると思う。でも君たちが支えてくれるおかげで、僕たちも捜査に専念できるんだ。よければ、これからも力になってほしい」

 エレクトハは、決して手を握ったり、触れたりしていない。
 なのに相手の女性、どころか周りにいる女性たちは全員ぽわん、と白馬の王子様に跪かれて手にキスされたとでも言わんばかりの表情で「はい、力になります」と頷いた。
 ――あ、これ。
 悪寒がする。
 ――『二枚目に弱い女から情報をふんだくって』くるときのエレクトハさんなんじゃ……。
 エレクトハはありがとう、と照れたように微笑んだ。口の角度が完璧である。

「それから、新品のインクをくれるかな?申請書は僕が書くよ」
「あ、はい……ええっと、申請書……」
「僕の前では焦らなくていいよ。でも、副師団長の要求はなるべく通してくれると、僕が怒られなくて済むかな」

 ははっ、と爽やかにエレクトハが笑うと、第6部隊の女性たちは名画でも見たかのように陶然とした。シャルロアは戦慄した。
 ドン引くシャルロアに、エレクトハは「ほらほら」と手を振る。

「副師団長がキレる前にお仕事に戻って」
「はい……」

 小さく頷いて、シャルロアは勤務室を後にした。背後ではファルガ・イザラントが来た形跡などまったくないかのように、和やかな雰囲気が築かれている。
 ファルガ・イザラントがいたことは幻だったのか、と少し疑ったが、捜査本部室に戻ったことで幻ではなかったことを悟った。部屋にいる部隊員の顔色が、真っ青だったからだ。
 『雷鳴獅子』の姿はすでになかったが、こちらにも姿を見せたのは明白である。
 シャルロアは描画帳と筆箱を持って捜査本部室を出て、取調室に続く廊下でアートレートと落ち合った。

「アートレート分隊長、おはようございます。あの、副師団長とエレクトハさんが……」

 言いかけて、シャルロアはギクリとした。
 アートレート分隊長の目が、死んでいる。

「……おはよう。あぁ、イザラント副師団長とエレクトハが合流したのは知っている。残夜にウルグから伝令を聞いた」
「だい、大丈夫ですか……」
「大丈夫だ。事件の方向性からして、副師団長の受け持っていた事件と合同捜査になるだろうという予測は薄々立ててあった。想定内……想定内だ……」

 自分に言い聞かせているようにしか思えないのだが、アートレート分隊長が言うのであれば想定内なのだろう。シャルロアは深く突っ込むのを止めた。

「それより何か騒動があったみたいだが、イザラント副師団長は何をした?」

 騒動、というのは十中八九第6部隊勤務室でのことだろう。
 シャルロアが詳細に話すと、アートレート分隊長は思案顔で腕を組んだ。

「……信じられないかもしれないが、副師団長は君には怒っていない」
「はい、それはなんとなくわかりました」

 アートレート分隊長が意外そうに片眉を上げたので、補足する。

「私は士官学校の事件のとき、副師団長が激怒していたのを見たことありますが、あのときと威圧感が違いました。少なくとも殺されそうだとかは思わなかったので、怒っていないのかなと思っただけです」
「そうだ。怒っていない。君を怒鳴りつけたのは、おそらくは君を守るためだ」

 ――守る?
 シャルロアがその意図を理解できずに眉をひそめると、アートレート分隊長は小声になった。

「すまない。君が第6部隊員にくだらない嫉妬を向けられて仕事を妨害されているのはわかっていたんだが、女性の諍いに男が割り込むと泥沼になると思って、表立っては助けられなかった」
「それはそうしてくれて助かりました」

 まさに男のことで嫉妬を向けられているのに、これでアートレート分隊長やウルグから庇われたらさらにいじめや妨害が酷くなっていたことだろう。見て見ぬフリをしてくれて助かった。
 ――表立って。

「……もしかして、部隊員の中に私を手助けしてくれる人がいたのは、アートレート分隊長が手配してくれていましたか?」
「何事にも派閥はある。君をいじめる女性と対立する女性の良心に働きかけただけだ」
「いえ、すごく助かりました」

 彼女たちの手助けがあったから、シャルロアはここまでやってこれたのだと思う。敵ばかりだったら、このエッテル領地自体が嫌いになっていた。

「しかしそういった手助けも、無意味になりかけていた。なまじ君が優秀だったので、相手も憎しみが募ったのだろう。だからイザラント副師団長が悪役を買ってくれたのは、非常に助かった。彼にしかできない方法だ」
「悪役……」
「君の話を聞くに、副師団長は君を怒鳴りつけた。一見すると君が悪いようにだ。あの天下の『雷鳴獅子』の激怒に第6部隊の女性はさぞ怯えただろう。自分たちも仕事ができないとあんなふうに叱責されるかもしれないと。さらには彼女たちは本当は君が悪いんじゃなくて、仕事を妨害している自分たちが悪いのを知っている。それは知られたくない。これまでのことをなくすのは無理だ。けれどこれからはなくすことができる。だから君がこれ以上仕事を妨害されることはないだろう。それをすれば今度は副師団長の叱責が自分に来るかもしれない、というのを彼女たちは実感しただろうからな」

 ――守られた。
 しかも、ファルガ・イザラントは公言してくれた。シャルロアが人相描き以外の仕事をするのは許さない、と。それ以外の仕事をシャルロアに割り振った人間にも処罰を与えると。
 これから先、シャルロアに余計な仕事をさせる人間は現れない。処罰されるのは誰だって嫌だし、あの『雷鳴獅子』に叱責されたいと思う人間なんていない。
 『雷鳴獅子』の言葉が、シャルロアを守る。
 あらゆる妨害から。悪意から。
 ドキッ、とした。
 わずかに跳ねた鼓動を鎮めるべく、シャルロアは静かに息を吐く。
 アートレート分隊長は「それに」と話を続けた。

「エレクトハが来たから、君への分隊長をめぐる嫉妬はなくなる」
「エレクトハさんが来たから、ですか?」
「そうだ。今日中にエッテル基地の女性の関心はすべてエレクトハに向かう。分隊長など視野の外だ」

 それはまた、すごい信頼だ。
 シャルロアが思わず絶句すると、アートレート分隊長はほんの少し、年長者らしい底知れぬ笑みを見せた。

「人生は顔と才能で渡っていけるほど甘くない。エレクトハはそれをきちんと理解している。私は彼ほど世を上手く渡る男を見たことがないな。女性たちに対して彼は『君たちが支えてくれるおかげで』と言ったんだろう?」
「はい」
「その台詞は彼女たちが地方出身の女性だからだ。地方の女性は裏方の仕事をしていても、同僚の男性からはそれが当たり前だと思われて感謝されない。仕事だからそれに文句は言わないが、それでも不満は溜まっているはずだ。エレクトハの台詞はその不満を見事に解消している。『君たちが支えてくれているおかげで』『自分たちは仕事に専念できる』と。仕事を評価されて嫌な気になる勤め人はいない。ちなみにこれが王都だったらエレクトハの台詞はおそらく『君たちが一緒に働いてくれるおかげで仕事がしやすい』になる。王都の女性は仕事を評価されるのに慣れているから、『一緒に仕事をしている』という部分を強調するわけだ」
「ひえぇ……っ」

 エレクトハの台詞が予想以上に計算し尽くされていて、シャルロアは慄然とした。

「副師団長が、エレクトハさんは二枚目に弱い女性に甘い言葉をかけて情報をふんだくってくる役割だと言っていたので、にっこり笑って口説いてるのかと思ってました……」
「微笑みはするが、容姿だけに頼った雑なことはしない。エレクトハの美しさはすべて緻密に計算された美なんだ。君はエレクトハが自分の美貌を使って捜査や人間関係を優位に進めることに、嫌悪感を抱いたか?」

 そう問われると――シャルロアは否、としか言えない。
 傍から聞けばなんて酷い男だと思わなくもないが、しかしエレクトハと実際に接すると、心底彼を嫌悪することはむずかしい。先程の『二枚目に弱い女から情報をふんだくって』くるときの彼には空恐ろしいものを感じたが、ファルガ・イザラントやシェストレカ師団長に良いように使われているのを見ると、どこか憎めない。己の美貌を私利私欲のために悪用している姿を見かけたことがないのも大きいかもしれない。
 たとえば、あれほどの美貌だ。普通なら女性をとっかえひっかえしていておかしくない。
 でもエレクトハには恋人がいない。仕事の多忙さは大いに関係あるかもしれないが、彼が口にする女性の名は酒場の看板娘くらいだ。

「まぁ、私事ではあの美貌を使って酒場の女性にちやほやされに行くくらいでしょう?男性ならそれくらいは許容範囲内ですかね。好きな女性に会いに行く、くらい言ってもらえると夢があったかもしれませんが、嫌悪するまではいかないです」
「だろう。男の私ですらそう思う。それくらいなら別に、と。だからエレクトハは第4師団の中で浮いたり嫌われたりしていない。任務で女性の目が彼に集まっても、あの美貌だから仕方ないと思える。同性からも異性からも嫌われないよう、あの男は機知を利かせて振舞える。それがエレクトハの美しさの真実だ」
「……エレクトハさんは第5師団に入った方がいいのでは」
「美貌がありすぎて目立つし、仕事に関して絶対失敗しないというわけでもない。第5師団の任務失敗は命を落とすという意味合いが他の師団よりも強いので、エレクトハの気質は第5師団向きではないな」
「なるほど」
「ともかくエレクトハは世の中を舐めていない。美貌があっても許されないことがあると知っている。対して、あの分隊長はわかっていない。君は知らないだろうが、あの男に対する同性の評判はすこぶる悪いんだ。それに経験を経た女性もアレの軽薄さとずる賢さに気付いている。元々奴の天下は持って2,3年ほどだっただろう。副師団長がエレクトハを連れて来たのは崩壊を早めるためだ」

 アートレート分隊長は朗らかに微笑んだ。

「今後のために、魅力がなくなった男の末路を見ておくといい」

 清々しい笑みを浮かべながら言うことではなかった。





********





 ファルガ・イザラントとエレクトハが来てから、シャルロアの環境は激変した。
 まず、魔女の異能の調子が良い。初めて気がついたが、どうやら魔女の異能は精神の乱れに影響を受けやすいらしく、知らぬうちに不鮮明になっていた映像が、頭痛の種がなくなったことで鮮明になった。
 次に女性隊員が絡んでくることがなくなった。彼女たちはそんな暇があるなら、エレクトハの情報を入手することに労力を費やすからだ。
 シャルロアは、同じ食堂内で男性部隊員と談笑するエレクトハを眺めながら、その手腕に改めて拍手を送りたくなった。
 アートレート分隊長の言う通り、エレクトハはエッテル基地の話題をさらっていった。すごい美男が来た。優しい。誠実そう。女性たちからはそんな台詞が飛び出し、男性たちからは気の良い奴、話のわかる奴、仕事ができるけど鼻にかけない奴、という高評価をつけられているという無双っぷりだ。ちなみにファルガ・イザラントへの感想は男女一貫して「めっちゃくちゃ恐い」である。シャルロアもそう思う。
 たった一日で話題の人になったエレクトハと、彼に熱い視線を送る女性たちを観察しながら食事を進めていると、シャルロアの前の席にウルグが座った。

「ウルグ。もう夕食食べに来れたの?早かったね」
「うん。今日はなんか仕事が潤滑に回った」

 肉や野菜がごろごろ入ったスープを飲みながら、ウルグが答える。

「副師団長が来てから場が締まった感じっつうの?やりやすい」
「アートレート分隊長は一緒じゃなかったの?」
「仮眠に行ったぜ?しばらく寝てる姿見たことなかったから、たぶん飯より先に睡眠を補給しに行ったんだと思う。指揮権は副師団長に移ったし、自分がいなくても多少は大丈夫って判断したんじゃねぇかな」

 それを聞いて、頭が下がる思いだった。シャルロアから見ても、エッテル基地の第2部隊の士気は低い。第6部隊も協力的じゃなく、連れてきた事務員は仕事を妨害されている。こんな状態でよく今まで持ったと思う。

「メルは首尾どう?」
「関係者らしき人物は全部描けた」

 逮捕した男は、日数をかけてじわじわと追い詰められていっていた。男は関係者の人相だけでなく、彼が犯したとされる罪についても追及を受けていた。疲労して当然だ。昨日の時点でほぼ虚偽の証言をすることはなかったが、何せ関係者が多かった。男が売買された子を見たことがあるとわかってからは、売買された子の人相も描きだしていたのだ。
 その作業も、とりあえず目途がついた。魔女の異能は記憶を読みとれるが、男自身が売買された子の特徴を覚えていなければ描くことができない。何度か誘導を試みたが、男が新たに子供の特徴を思い出すことはなく、シャルロアもアートレート分隊長が一緒だったので、それ以上の誘導は諦めるしかなかった。
 ――……この国が、魔女に対してもっと優しければ……。
 そうなら、シャルロアは思う存分この異能を活かせることができたのに。
 けれどそんな日は遠い、ということはわかっている。エッテル領地で使われる『魔女』という罵り。その根底にある畏怖。数年で風化するものではない。
 皮肉な話だ、とシャルロアは嗤いたくなった。
 人間が傷つけられることを恐れて魔女を拒む故に、助けられたはずの人間が死んでいく。

「暗い顔すんなって。俺らが必ず捕まえるから」

 さらっと断言できるウルグの強さが、今のシャルロアにはありがたかった。

「んでも、メルは任務終了したから師団に帰れるのか。いいなー」
「後は任せたわ」
「おう」

 にっ、と笑うウルグを見て、鬱々とした気持ちが少し晴れた。
 食事を終えたシャルロアは食器を返し、捜査本部室に戻った。ウルグの言うとおり、任務は終えたことになっているので荷物を持って師団に帰ることになっているからだ。
 捜査本部室に安心して置きっぱなしだった筆箱を取りに入室すると、室内の空気がピリピリしていた。
 さもありなん。
 ファルガ・イザラントが捜査室の中央を占領し、しかめっ面で捜査資料を読んでいる。
 しかも抜け目なく、入室者は目の端で確認しているようだった。
 ――あー、指揮官に何も言わずに帰るのはマズイ。
 ファルガ・イザラントやアートレート分隊長がいないなら、他の分隊長に言ってから帰ろうと思っていたが、天はそれを許さなかったようだ。
 シャルロアがファルガ・イザラントに挨拶をしてから帰ろうとしたとき、本部室の扉がばたん、と勢いよく開いた。

「イザラント副師団長はこちらにいらっしゃいますか!?伝令です!」
「どうした」

 駆け込んできた青髪の部隊員に『雷鳴獅子』が冷静に問うと、彼はごくりと喉を鳴らしてからわずかに声を震わせながら言った。

「じっ、人身売買されたらしき子供が、アレベルの町立病院に搬送されたので、すぐに話を聞きに来てほしいと」
「メル、描画帳と筆記用具を持ってついて来い。ウルグはどこだ」

 ファルガ・イザラントの問いはシャルロアに向けられたものではなかったが、先程別れたばかりだったのでシャルロアが答えた。

「食堂で食事中です」
「ウルグも連れていく。他はそのまま自分の仕事をしろ。何かあったらアートレートを叩き起こして指示を仰げ」

 部下がしばらく寝ている姿を見ていなかった、と証言しているくらい睡眠不足であろうアートレート分隊長に関して非道な扱いを命令しながら、ファルガ・イザラントは捜査本部室を足早に出ていく。
 シャルロアも置いて行かれないように描画帳と筆記具を持って、追いかけた。
 すぐに出たつもりだったが、ファルガ・イザラントに追いつけたのは彼が食堂の入り口で声を張っているところだった。

「ウルグ!仕事だ、ついて来い!」
「はいっ!」

 もがもがっ、とパンを口に詰め込んでからウルグは食事を中断して食器を返し、突然現れた『雷鳴獅子』に畏怖する食堂の中を駆けてきた。一方、ファルガ・イザラントは彼が動き出すのを待たずに玄関――ではなく裏口へ向かう。
 シャルロアは玄関はそちらじゃない、という念を込めて問いかけた。

「副師団長、どこへ?」
「厩だ。乗れる馬を探す」

 そうだった。『雷鳴獅子』は動物との相性が最悪だった。
 ファルガ・イザラントが馬に相性を求める体質でなければシャルロアとウルグが馬を連れて来れるのだが、連れてきた馬がファルガ・イザラントに怯えたら意味がない。それなら最初から本人に厩に来てもらって、乗せてくれる馬を見繕ってもらったほうが早い。
 前を歩くファルガ・イザラントが、不意に金色の瞳をシャルロアに向けた。

「念のため聞くが、自分がついてこいと言われた理由はわかってんだろうな?」
「被害者が売買に関係した人間の顔を覚えている可能性があるためです」
「よし」

 『雷鳴獅子』はゴロ、と喉を鳴らして太く笑った。
 その笑みが酷く懐かしいものに感じて、知らず息をついた――あとに、ぞっとする。
 ――あれ?この人のこういう癖のある笑み、ここに来てから見てないぞ。
 ここに来てまだ一日も経っていないからか。しかし、デバイトウォーネ基地に行ったときはもっと表情が豊かだった気がする。いくら任務中だからと言っても、クスリとも笑わなかったという覚えはない。むしろにやにやと悪辣な笑みを浮かべていた。
 ――あれ?
 やっと気付いた。
 ファルガ・イザラントはシャルロアには怒っていない。
 けれどエッテル部隊には不快感を感じている、のでないか。
 何故か?
 彼がこの部隊を無能だと判断したからだ。
 現に彼は捜査に、エッテル基地の部隊員を連れて来なかった。
 臓腑がひやりと冷えたシャルロアの横に、ウルグが並んだ。

「エレクトハはどんな様子だ?」
「いつもどおりカッコよく誑かしてシンパを作ってます!」
「よし」

 全然よくない、とシャルロアは隣で会話を聞いていて胃が痛んだ。ウルグとファルガ・イザラントの会話をここだけ聞かれたら、どこの悪の組織の会話だと思われてしまう。
 裏口から外に出ると、ファルガ・イザラントは冷え冷えと嗤笑した。

「腐ったもんは叩き潰してぇが、任務が先だ」

 シャルロアの背中に冷たい汗が流れる。腹を空かせた大型獣の隣に座っているのと同じ気分だ。

「メル、今回の乗馬時間はおよそ2時間ほどだ。いけるな?」
「大丈夫か?無理なら俺が乗っけるぜ?」

 ウルグの申し出を、ファルガ・イザラントは呆れ顔で却下した。

「阿呆か。てめぇ、ただでさえ馬鹿みてぇにでけぇうえに戦斧下げてんだぞ。二人乗りなんぞしてみろ、馬が潰れる」
「でも途中でついて来れなくなる方がまずくないですか?」
「来させる。お前のことだ、練習はしてんだろ?」
「はい」

 シャルロアは時間を見つけて、師団長に許可をもらって乗馬の練習をしている。こういう場面がいつ来るかわからなかったので、備えたのだ。
 ファルガ・イザラントの背に、朗々とした返事を返した。

「やれます」

 ウルグが隣で笑う。

「さすが(ラーレ)
「違う」

 ファルガ・イザラントは何も口を挟むことなく、グルル、とおかしそうに喉を鳴らして笑った。












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