シャルロアとアートレート分隊長の作戦は功を奏した。
 シャルロアが男の記憶を見て、証言と食い違いがあるとわかったときに、アートレートもまた心音により偽証を見抜き合図を寄こす。
 なのでシャルロアは安心して「それは嘘ですよね」とにっこりと嘘を指摘できた。最初は男も頑なに嘘を繰り返したが、シャルロアが「嘘ですね」「それも嘘です」「それは本当ですね」とにこにこ淡々と真贋を区別していくと大人しくなり、本当のことを多く語るようになった。
 やがて一枚、二枚、と関係者の似顔絵はできていくが、昼になったので一旦取り調べは休憩となった。
 アートレートは外回りをしているウルグと話すことがあるというので一度別れ、シャルロアはエッテル基地の食堂で昼食を食べてから捜査本部室に置いた描画帳と鉛筆を取りに戻った。
 問題が起こったのは、そこでだった。
 机の上に置いておいた描画帳はある。けれど、一緒に置いていた鉛筆がどこを探してもなかったのだ。
 ――どっかに落ちた?それとも持ってかれたかな?
 きょろきょろと部屋の中を探してみたが見つからず、また捜査本部室のペン立てを見て回っても鉛筆を見つけることはできなかった。
 ――まぁ、書類はペンとインクで書くものだし……。
 あまり気は進まないが、シャルロアは第6部隊に鉛筆を貰いに行くことにした。こういった備品を管理するのも第6部隊の仕事なので、いくらここの部隊と折り合いが悪いと言っても仕方ない。向こうも仕事ならばそれなりに対応してくれるだろう。
 シャルロアは踵を返して、第6部隊勤務室に向かう。
 昼休憩で多くの部隊員が部屋を離れている中、部屋に残っていたのは階級の低い――若い女性ばかりだった。
 うわぁ、とシャルロアはげんなりしながらも、戸口近くの席に座っていた女性に声をかけた。

「すみません、鉛筆を支給してほしいんですが」
「……はぁ?」

 微笑んでいれば愛らしい顔を盛大に歪めながら、女性はシャルロアの方を振り向いた。

「第6師団の方ですよね?鉛筆なら今朝支給したはずですが?」
「申し訳ありません、紛失してしまいました」
「鉛筆1本でも税金で買ってるのよ?今朝支給したばかりなのに、紛失したなんて。それをなんとも思わずまた支給してくれって頼みに来たの?呆れたわ」
「申し訳ありません」

 これに関してはシャルロアも申し開きようがないので、ひたすら謝った。しかし、部屋にいる女性隊員たちが嫌味にクスクスとそれを嘲笑う。

「師団じゃ鉛筆1本程度なんてことない出費なのかもしれませんけれど、ここでは違います。なのでまず、反省文を書いて提出してくれます?」

 シャルロアは壁の時計をちら、と見た。まだ昼休みが終わるまでには時間がある。反省文を書いて提出し、鉛筆を支給してもらってアートレート分隊長と合流する。可能だ。

「わかりました。反省文用紙をください」

 渡された用紙を手に、シャルロアは捜査本部室に戻って反省文を書き、また第6部隊勤務室に戻った。先程と同じ女性にそれを渡すと、彼女は眉をひそめた。

「反省文が短い。やり直し」

 周りはクスクス嗤う。
 新月の夜に木々が不穏にざわめくような音に似ていた。シャルロアは苦々しく思いながら、また反省文用紙を手にして捜査本部室に戻り、今度は先程よりも長い文章で真摯な気持ちを前面に押し出し、第6部隊勤務室に戻った。
 反省文を受け取った女性は、は、と嗤った。

「字が汚い。やり直し」

 ――なるほど。支給するつもりがないんだな。
 確かに鉛筆を紛失したシャルロアに非はある。だが、提出した反省文は一応士官学校でも及第点を取った形式だった。さらに反省文なのだから字を汚くして書いたつもりはないし、誰がどう見てもシャルロアの字は教科書の字のようだと言うだろう。
 怒りで頭がすっと冷えた。
 時計を確認すると、反省文を書いたり移動していたせいで、休憩がそろそろ終わりの時間に近付いていた。ここでまた反省文を提出しなおしていたら、アートレート分隊長との合流に遅れてしまう。
 シャルロアは女性からまた反省文用紙を受け取って、第6部隊勤務室を後にした。

「税金泥棒」
「役立たず」
「魔女」

 陰口を背に、今度は捜査本部室に向かわずエッテル基地周辺にある文房具店で鉛筆などの筆記具を買い、これを持ち歩くことにした。支給されるのを待つよりも購った方が易いのは火を見るより明らかだ。反省文は後で書くことにする。
 疑うのは嫌な気分になるが、そもそも鉛筆がなくなったのも第6部隊の女性が仕組んだ可能性も充分考えられた。これからは紛失して困る物は絶対に身につけることを念頭に置いておく。
 エッテル基地に戻りながら、はぁ、とシャルロアは重くため息をついた。
 ――しかし『魔女』とは、嫌われたものね。
 国内で女性に魔女と呼びかけるのは、侮辱に値する。嘘つきだとか陋劣だとか尻軽だとか、そういうありとあらゆる悪口をごった混ぜにしたものが『魔女』の意味だ。もしもそう呼びかけた女性に恋人や夫がいたら、殴られても仕方ないくらいの侮辱的な言葉。それをエッテル領地の人間が言うなら、その意味はなお重い。
 ――なんなの?この土地に男があの分隊長しかいないってならともかく。なんでこんなくだらない嫉妬で仕事の邪魔をされなきゃいけないわけ?
 今、シャルロアに恋愛する余裕なんてこれっぽっちもないのだ。仕事ができることを示し続けていなければ第4師団の事務はできないし、魔女の能力を隠さなくてはいけないし、ファルガ・イザラントからの疑いも晴らさなくてはいけないし、求婚問題もどうにかしなくてはいけないし、ひいては師団長の謀略にも気をつけなくてはいけないし、もういっぱいいっぱいだ。
 むしろ、現時点で手に余っている。特にファルガ・イザラントとシェストレカ師団長。求婚問題に関してはファルガ・イザラントとあのムカつく分隊長をとっかえて処理したいくらいだ。
 分隊長相手ならどうとでも逃げ切れる自信があるが、ファルガ・イザラントの狡猾さには自信が揺らぐ。彼を相手にすると、自分が今まで積み上げてきた小賢しさが一瞬にして砕け散るのだ。それならまだ分隊長相手の方がいい。
 イライラしつつ、捜査本部室に戻って机の上に放り出しておいた描画帳を手に取った。
 しかし、違和感を感じる。
 ――薄い。
 はら、と描画帳をめくると、白紙のページがすべて破り取られていた。
 描画帳を机に叩きつけそうになったのを、なんとか、堪える。
 ――いつ?いつ破り取られた?
 答えを探すが、すぐに意味がないことに気付いた。今、白紙がない――捜査にこの描画帳をもう使えない、それがすべてだ。
 ――次から次へと!くそ!最悪だ!
 捜査本部室にいる数人の第2部隊員を見渡すと、2,3人が視線をそらした。明らかにこの描画帳が破られるのを見ていて、何もしていないのだとわかった。事件を捜査する第2部隊員さえも、シャルロアの味方ではない。
 ――魔法の氷柱を肩にぶっ刺して、蹴り込んでやりたい。
 不本意ながらファルガ・イザラントのやった行為に同調し、シャルロアはふー、と少し気分を落ちつかせた。実際にそれを傍目から見た自分の気持ちを思い出すことで、怒りに呑まれるのを防いだ。
 怒りのままに行動するのは構わない。けれど頭に血がのぼったまま行動するのは、魔女である自分には危険すぎる。
 カッとなった結果、魔女の異能を使うのだけは避けなければならない。自分のために。家族のために。
 怒りの炎に水をかける必要はない。しかし冷静になれ。
 幼い頃から、幾度となく自分に繰り返し言い聞かせてきた。今回もできないわけがない。
 シャルロアは澄んだ頭で思考した。
 描画帳は紛失したわけではない。備品の追加要請として通せるはずだ。しかし時間が迫っている。まずはアートレート分隊長と合流することが先決だ。忙しい分隊長に時間を失わせることを何よりも避けなければ。
 誰かに伝言を頼もうか、とも思ったが、すぐにシャルロアは思い出した。アートレート分隊長が以前言っていたことが気になる。伝令ミスがよくあること、と。
 そのときはよく考えなかったことだが、シャルロアは初めてその事実に愕然とした。
 情報が重要であるこの騎警団で、伝令ミスが相次ぐなどとんでもない話だ。ウルグだって、師団長に伝えるべき内容は間違わなかった。アートレート分隊長が、シャルロアを欲している。それを伝えるのが重要で、彼はきちんと伝えた。言い方に問題があっただけだ。
 なのにエッテル部隊では、伝令ミスが多くあるという。アートレート分隊長はあのとき穏やかな顔と声音で話していたが、痛烈に皮肉をぶつけていたのだ。
 ――あれ……もしかしてアートレート分隊長って、内心すっごいお怒りなのでは……。
 あんな穏やかな物言いをする人でも、第4師団員にふさわしい苛烈な面を持ち合わせている。上司を好き嫌いではなく、有能か無能で語れと。その発言はまるっと、部下や部隊にも応用される気がした。
 エッテル第2部隊と第6部隊は、有能か?
 シャルロアなら、否、と答える。
 仕事に私情を挟みまくっているのは、愚かとしか言いようがない。
 そしてこの嫌がらせをアートレート分隊長に報告したら――エッテル部隊との連携に決定的な齟齬が生まれる気がした。

「メル、何してんのー?」

 背後から声をかけられ、シャルロアは机に手をついたまま後ろを振り返った。
 そこには外回りから一旦帰ってきたらしいウルグの姿があった。
 彼の放つどこか温良な雰囲気に、強張っていた身体がほぐれる。

「って、うわ!?何それ、描画帳、白紙のところ破られてねー?」
「あぁ、うんちょっと。ね、それより、ウルグ。アートレート分隊長が怒ったの見たことある?」

 こちらの手元を覗きこんで来るウルグにひそひそと問いかけると、彼は訝しげにしながらも同じようにひそひそと答えた。

「俺、いっつも怒られてんだけど?」
「いや、あれは叱られてるんでしょ」
「あー……そういう分類わけ?そんなら俺は見たことないな。アートレート分隊長って第4師団員の中じゃ、めっちゃくっちゃ温厚なんだぜー?」

 ――その温厚な人物に顔を潰されそうになったウルグって。
 少々呆れはしたが、同時に少し安堵もした。アートレート分隊長が温厚なのであれば、シャルロアが仕事を妨害されていることを相談してもまだエッテル基地と決定的な亀裂は入らないだろう。
 しかしそんな予測が吹き飛ぶような情報を、ウルグはもたらした。

「だから俺、先輩からアートレート分隊長を絶対にキレさせるなって言われてんだ」
「……は?」

 何が『だから』にかかるのか、シャルロアには理解できなかった。
 ぽかん、とする彼女に、ウルグはあぁ、と頷く。

「そっか、メルは知らねぇんだっけ。アートレート分隊長って普段はすんげぇ穏やかだし理性的なんだけどさ、ブチ切れると手に負えなかったらしくてさ」
「らしい……ってことは、アートレート分隊長は過去にブチ切れたことがあるってこと?」
「おー。俺も先輩から聞かされただけだからあんま知らんけど、アートレート分隊長って士官学校時代は騎士部門にいたらしいんだ。そんで実際卒業して数年は第1師団に所属してたんだけど、大戦が始まったときに第2師団に転属願出したんだと。理由は『第1師団員として戦争に参加したくない』からだって」
「アートレート分隊長の家は、戦争反対派だったのかな……?」

 開戦となる間際でも、一部の貴族は戦争に反対していたと聞く。もしもアートレート分隊長の実家がそういう立場をとっていたのだとしたら、アートレート分隊長がそういった行動をするのも理解できる気はした。
 しかし、あっさりとウルグは否定した。

「いや、アートレート分隊長の実家はバリバリの戦争推奨派だったらしいぜ。分家とかじゃなく、本家からずーっと騎士を出してる家系だから戦争は武功をたてる最高の舞台だろ?」
「え、あれ?じゃあ、なんでアートレート分隊長は……」
「分隊長は子供の時からずーっと、魔法使いになりたかったらしいんだ。つまり王国魔法団の方に入りたかったわけ」

 王国魔法団とは、国に仕える魔法使いを集めた組織のことだ。貴族は一族の内必ず一人を騎警団の籍に置いておかねばならないが、例外として魔法団に籍がある場合は許される。つまり貴族は必ず一族の誰かを騎警団か魔法団に入れておけ、という話だ。
 だが正直言って、魔法を実践レベルで使うのは才能に寄るところが大きい。それに比べて剣技は努力すれば磨ける。なので多くの貴族は騎警団に入団するのである。
 ――でもアートレート分隊長は魔法団に入団できそうな実力だったよね……。
 辞典なしに魔法配置(パスラ)できるのは、入団を拒まれないだけの実力だと思うのだが。

「けど、アートレート分隊長の父ちゃんが魔法団に入団すんのは許さなかったんだってさ。なんか父ちゃんが独身時代に色々あったらしくて、恋敵が魔法使いで愛してた女取られたから魔法使い大っ嫌いだったとかで。そんで、アートレート分隊長は魔法学校じゃなくて士官学校に入れられたって聞いた」
「うわぁ」

 そんな父親の超個人的な理由で、才能もあるのになりたかった職業を諦めなければいけなかったなんて、アートレート分隊長が哀れだ。
 なんて、同情していたら。

「まぁ、だからアートレート分隊長もブチ切れたらしくて。その怒りをずーっと持ったまま士官学校卒業して、第1師団で働いて、これから武勲がたてられるってときに異動願いを出した。実家に騎士の誉れなんぞやるもんか、っつって第2部隊に異動して、そこから志願して前線に出て、剣じゃなくて銃と魔法で応戦して戦争終結まで前線を下げずに戦いきって注目されたんだって。でもその功績は騎士としてじゃなく第2部隊員としてだったし、あんだけの魔法を使える人間を魔法団に入団させなかったから分隊長の父ちゃんは人を見る目がない、つって周りの貴族にすっげぇ馬鹿にされたらしい、っつうのをアートレート分隊長が嗤いながら話してたって先輩から聞いたことあるぜ!そのときの嗤い顔がすっげぇ恐かったって」
「アートレート分隊長も第4師団員だったか……!」
「そりゃそうだぜ。分隊長だぞ?だから怒らせんなよって先輩に言われたつったじゃん」

 できればその情報はもっと早くに言って欲しかった。そしてウルグに忠告した先輩に心から同意する。
 アートレート分隊長は、怒らせてはいけない。
 おそらく、たぶん、アートレート分隊長は現在のエッテル基地に対して怒りを覚えている。これにシャルロアの相談事が加われば、どうなるか予想がつかない。
 シャルロアが仕事ができない、というのは捜査が滞るということにもつながる。第4師団分隊長として、アートレートはこれを許せないだろう。
 ――正直言って、分裂のきっかけになりたくないな。
 アートレート分隊長が寸でのところでエッテル基地に留まって部隊を使っているのは、彼なりの仕事に対する誇りからに違いない。
 事件をエッテル部隊とともに解決する。
 その任務を放り出していないからこそ耐えているのに、シャルロアが彼に泣きついてその忍耐を崩すのは良くない。
 ――まぁ、そもそも嫉妬とかも上手くかわしてこその有能だしなぁ。
 士官学校の中でも、成績上位者に対する嫉妬や陰口や妨害行為はあった。それに耐えたりかわしたりするだけの資質がある者だけが、あらゆる意味で成績上位者になれるのだ。
 あのムカつく分隊長のおかげで、シャルロアのスタートは最悪の位置からになったが、挽回できないと自信を早々になくすような繊細な者ではあの第4師団の事務は務まらない。
 ――『魔女』?それが何よ。私は本物の魔女よ。
 小さく息を吐いて、シャルロアは凛とした顔を上げた。

「ウルグ。申し訳ないんだけど、描画帳の追加支給を申請しに第6部隊に行ってくれる?私はその間にアートレート分隊長に尋問開始時間が遅れそうだってことを伝えに行くから」
「えー」
「貴方が分隊長に一字一句間違わずに私の伝言を伝えてくれるなら逆でもいい」
「あー、申請しに行ってくるぜー!」

 よし、とシャルロアは頷いた。おそらくシャルロアが申請するより、ウルグが申請した方が通るのが早い。彼女たちはシャルロアをいじめたいのであって、ウルグをいじめたいとは考えないはずだから。

「ごめん、そのうちおごるから」
「ヴァスティー酒一杯、頼んだ!」
「ボトルでおごるわ」

 ウルグの本来の仕事は、捜査だ。こんなお使いを頼まれる立場じゃない。
 シャルロアは無理を言っている立場なので、報酬を気前よく払うことにした。酒のボトル一本で済むなら、今の状態を考えれば高くない。
 ウルグと捜査本部室の前で別れたシャルロアは、急ぎ足でアートレート分隊長の元へ向かった。





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 その後、シャルロアは手間取りながらも似顔絵を描き続けた。
 手間取った、というのは二重の意味でだ。男は追い詰められながらも嘘を交えて話すので、それを指摘する時間が削られなかった。さらにアヴェール商会に出入りする人間の数が思っていたよりも多かった。
 おかげで人相描きの仕事は一日、二日、三日、と日をまたぎ、その間ずっと第6部隊の女性から嫌がらせを受けるハメになってしまった。
 トイレに入ったら扉が開かなくなったり、廊下で転ばされそうになったり、さっきはとうとう盗みの罪まで被せられそうになった。シャルロアの筆箱にいつのまにか女性隊員の指輪が放りこまれており、それはシャルロアが盗んだのだ、と言いがかりをつけられた。おそらくは昼食のとき、筆箱が開いていたのだろう。そこに指輪を放りこまれたに違いない。
 幸い、シャルロアは筆箱を開けてから指輪に一切触らなかったので「ならこの指輪から私の指紋が出るか、第2部隊の鑑識に回して確かめましょう。それで指紋が出なければ名誉棄損で訴えますがいいですね?」とにっこり反論したところ、女性は今回は見逃してやるだとかなんとか言って指輪を持って引き下がった。
 ――人の行き交う廊下でそんな話してたら、注目を浴びるに決まってたでしょうに。
 あちらはシャルロアがあたふたすればいい、くらいの考えだったのかもしれないが、窃盗事件を起こしたとあれば騎警団が許すはずがない。最悪、シャルロアはクビになって罪を問われる。罪も犯していないのに。
 たかが男のことで、彼女はシャルロアの人生が濡れ衣で重くなって構わないと思ったのだろうか。
 ――さすが、魔女に濡れ衣を着せる土地の人間だけある。そんなだから、呪われたのよ。
 一瞬、そんな最悪な気持ちを持った。
 エッテル領地が魔女の呪いを被ってから、相当に苦しんだのは知っている。ただでさえ北の領地だというのに、呪いで穀物が育たなくなった。それは簡単に飢饉や流行病を呼んだ。
 領主が悔いても、どんな素晴らしい聖職者が祈っても、呪いは未だ止まない。エッテル領地が領地として成り立っているのは、細々とした林業と陶器を売り、外貨を稼いで他所の土地から穀物を買っているからだ。
 今の人々が、当時の魔女には何の関わりもないことはわかっている。
 けれど――この土地の人間は、魔女を見下している。
 仕方ないことだ、と理性的な自分はわかっている。今もなお、領地を蝕む呪い。そのせいで食べ物は他の土地に頼らざるを得ない。だから食べ物が高い。生活に影響する。それは昔の魔女のせい。悪感情は負の連鎖から抜けだせない。
 でも、と魔女の自分は思う。
 でも、魔女が呪ったのは自分たちの過ちのせいだと、エッテル領地の人間が認めず、心根を改めないから、魔女の呪いが今も続いているのではないか。そんな気がしてしまう。
 ――見ればいい、このおぞましさを。この土地の人間の、なんて醜悪なこと。
 任務が終わればいなくなる女一人に、罪を被せようとする心根。
 遠い昔から変わらぬ、エッテル領地の人間の醜さ。
 魔女に呪われて当然。
 そんな気がしてこないか。
 ――冷静になれ。そんな人間ばかりじゃない。
 この三日間、なんとかやってこれたのは妨害する人間もいれば、手助けしてくれる人間もいたからだ。
 第6部隊の若い女性隊員のほとんどはシャルロアの敵に回ったが、中には若い女性でもシャルロアのことをそっと助けてくれる人もいた。トイレに閉じ込められたら開けてくれたり、廊下で転ばされたら捜査本部室に絆創膏が差し入れられたりしていた。
 それに少し年が上の第6部隊分隊長はシャルロアの味方だった。なかなか処理されない書類は、彼女に提出するとすぐに処理された。
 敵ばかりではない。
 けれど、もどかしい。
 貴重な休憩時間が頭の悪い言いがかりで潰れたことに苛立ちながら、シャルロアが取調室に向かっていると、歩く廊下の先に二度と会いたくなかった男が立っているのを見つけてしまった。業腹ものだが、あの赤い髪と瞳は確かに目を惹く。

「よぉ、久しぶりだなメル」

 予想通り、イゼット分隊長はシャルロアのことを呼んだ。なぜそんな予想を立てていたかというと、廊下にはまったく人気がないからだ。
 シャルロアは少し早目の夕食休憩をもらっただけで、これからはまた逮捕された男の嘘を見抜きながら似顔絵を描く作業に戻る。
 なのですっぱり言わせてもらうと、構うだけの気力がなかった。
 シャルロアは彼とすれ違うときにおざなりにぺこり、と頭を下げたが、やはりイゼット分隊長は許してはくれなかった。
 すれ違いざま、手首を握って止められた。
 シャルロアがずいぶんと白けた顔でイゼットを見ると、彼は優しげに微笑みで応えた。

「……なんですか?急いでるんですけど」
「さっきの盗難どうこう、あれって濡れ衣被せられそうになったんだろ?俺にはわかってる。辛かったよな」

 ―― それを。
 怒りの熱が、肺を焦がす。呼吸が上手くできない。
 ―― それを、あんたが、言うのか。
 誰のせいでこんな事態になったと思っているのか。イゼットには心当たりがないなんて戯言は許さない。
 この男さえ女性隊員の嫉妬を煽らなければ、シャルロアは快適に仕事ができていたはずなのだ。この男さえいなければ。
 怒りで頬を赤くしたシャルロアを見て何を勘違いしたのか、イゼットは親密な距離で彼女に甘く囁く。

「他の女が何と言おうが、俺はお前のことが一番好きだ。味方でいてやる」

 シャルロアはイゼットの手を振り払い、冷淡に言い捨てた。

「存外、女心というものをご存じないようですね。女に生まれたからには男性には『一番』ではなく『唯一』と言わせたいものです。あぁ、もちろんこれに関しては私の魅力不足であることは明白ですので、イゼット分隊長のお眼鏡に適わなかったからと言ってつきまとう気は欠片もございません。仕事がありますので失礼します」

 ぽかん、と口を開いたままのイゼットを横目に、シャルロアはその場から足早に立ち去った。
 思い通りにならなかった、と言わんばかりの間抜け顔が頭から離れず胸糞悪くなり、思わず顔をしかめた。
 何故あの男は、シャルロアが縋りつくと思ったのだろう。どう考えてもこの状況に陥れたのはイゼット自身だ。これまでの態度と状況を見ていれば嫌でもわかることなのに、イゼットはシャルロアがそんなこともわからない馬鹿女だとでも思ったのだろうか。
 それは『魔女』と呼ばれるよりも酷い侮辱だ。
 ――誰があんたの手を取るもんか。
 妬みの針の海に落とした男など、味方だと思えるものか。
 あの男は、敵だ。
 ファルガ・イザラントよりも嫌忌する、敵だ。





********





「鶏、狩ってきたぜ」

 黒髪をじっとりと濡らした男が深夜の勤務室を訪ねてきたら、大抵はそれが幽霊の類だと思うだろう。
 しかし勤務室の主であるシェストレカは、騒ぎ立てはしなかった。髪の濡れた男は、自分の部下だからだ。ただしめずらしく胸部の板金鎧をつけておらず、首にはタオルを下げている。

「返り血が鬱陶しかったんで、シャワーを浴びてきた」
「返り血を落とさず勤務室に入ってきたら叩き出しますよ。にしたって湯上り状態で上官の前に来るとはいい度胸ですね」

 にやり、と机を挟んで嗤うファルガ・イザラントに、シェストレカはため息をついた。昔は魔物や敵の返り血を落とさず、仕事を求めてウロウロしていたので、シャワーを浴びる常識が育っただけマシである。

「それから第二級指定の魔物を鶏扱いするんじゃありません。他の人間が聞いたら我が第4師団は鶏を駆除するために副師団長を投入したと思われるでしょうが」

 ファルガ・イザラントに駆除を命令した魔物は、決して鶏じゃない。確かに空を飛ばぬ鳥系の魔物だが、大型で、主食は肉。とにかく肉なら何でも喰う。人間も含み、だ。
 普段は山岳の奥深くにいる魔物だが、時折獲物を求めて人里に下りて来ることがある。人里近くで目撃情報があったのをこれ幸いと、シェストレカは魔物駆除を緊急指令としてファルガ・イザラントに下した。
 もちろん国民を守るための迅速な対応でもあるが、わざわざファルガ・イザラントに割り振ったのはシャルロア・メルがエッテル領地で仕事をしているのを隠すためだ。
 別にファルガ・イザラントは、好きな女が身近にいないから不安になるだとかイライラするだとか、そんな女々しさは持ち合わせていない。そもそも騎警団員であればそのような軟弱な精神は捨てるべきだ、とシェストレカは思っているし、騎警団も団員をそう育てる。
 だからファルガ・イザラントもシャルロア・メルが師団でなく、別の場所で特別任務についていることに関しては何も思わないはずだ。
 だがしかし、好きな女を口説く男が周りをうろついている、と聞いて何も思わない男がいないはずがない。
 シャルロア・メルがファルガ・イザラントの妻ならば、彼の動向を気にするべきことはなんらない。二人の間には確かな絆があるし、普通の神経をしていれば絶対にファルガ・イザラントという夫以外に心が揺らぐことはないだろうと信じられるからだ。
 けれど現在、二人の間には絆を確証するものがない。
 それが重要だ。
 まさかファルガ・イザラントが恋に狂うことはないと思っているが、彼はその手前ギリギリまでなら軽々と行きそうで恐ろしい。しかも故意に、だ。
 つまりシェストレカが何を警戒しているかと言うと、シャルロア・メルが別の男に口説かれていると知ったファルガ・イザラントが嬉々として威嚇行為に出かけそうだということである。
 情報を与えていないから知られないだろう、それに仕事があるから無理だろう、なんて甘いことを考えていたらファルガ・イザラントを従えられない。この男は自身の興味をそそることなら仕事の合間を縫ってでも情報を知るし、やりたいことをやるのだ。
 現在アートレート分隊長とエッテル部隊は、冷え切った関係にある。そこにファルガ・イザラントが面白半分で乗り込んでいって場をめちゃくちゃにしてくれたら、アートレート分隊長の忍耐がすべてパァだ。それは絶対避けなければならない。
 エッテル部隊の腑抜けぶりは、今、第4師団が正すことではない。それをやるのは第2師団だ。その件はすでに第2師団長と話し合い済みである。
 だから、あとはこの男をイイ子に大人しくさせておかなければならない。
 尋問の仕事だと空き時間できるので、物理的に師団から遠ざけ、なおかつ戦闘に意識を向かせる仕事を与えておきたいと思って魔物退治を命令したのだが、よもや三日で片付けてくるとは思わなかった。目撃情報は木こりの証言だけだったし、あの険しい山岳を歩くのだから一週間は大丈夫だろうと思っていたのに。
 忌々しいことに、他に副師団長に受け持たせるだけの理由がある緊急重要案件がない。

「で?報告書上げたら、俺は人身売買組織の尋問に戻っていいのか?」
「そうですね」

 としか、言いようがない。正直、これからアートレート分隊長の受け持つ事件と合同捜査になりそうだから彼を戻したくないが、そうしないとなると賢しい獅子に何か勘付かれる。
 ガシガシ、とタオルで乱雑に頭を拭く部下を見つめながら、有能すぎるのも困ったものだとシェストレカは密かにため息をついた。
 と、そこでキィ、と勤務室の扉が静かに開いた。

「師団長!男からアヴェール商会の寮に奴隷扱いされてる人間が運び込まれてたって証言が取れたんで合同捜査にしてくださいってアートレート分隊長が言ってます!」

 静かだったのは扉を開いた音だけだった。
 シェストレカは夜の穏やかな静寂を割り砕いた青年、ウルグににこりと微笑んで、手招きする。
 招かれたウルグは素直にシェストレカの元に赴き――バチッ、とインクの蓋を顔に叩きつけられた。

「いって!」
「伝令なら伝令と言えとあれほど口を酸っぱくして教えたというのに君という子は」
「伝令です!」
「遅い!」
「よぉ、ウルグ。てめぇは相変わらずおもしれぇな」

 ゴロゴロと喉を鳴らしながらファルガ・イザラントが声をかけると、ウルグは赤くなった額を擦りながら「副師団長お疲れ様です」と挨拶した。
 第4師団員の中ではめずらしいほど擦れたところがないのがウルグだし、それはそれで美点ともなるのだが、この状況に限っては汚点である。
 ――この馬鹿犬……私がどれほど苦労してその情報を与えないようにしていたと。
 伝令だと言ってくれればファルガ・イザラントを遠ざけることもできたのに、部屋に入ってすぐ伝えられたのなら防ぎようがない。
 しかしこれでウルグは決定的な失態は犯さない性質なのだ。普段であれば、第4師団員以外の人間がいれば絶対に「伝令です」と告げてこちらの指示を待つ。今一緒にいるのが他でもない副師団長だから、伝令を告げても大丈夫だと判断したのだろう。最低限の機密保持はできているのが、今は憎らしい。
 ファルガ・イザラントの様子をそれとなく探ると、彼もまたそれとなくシェストレカを探るようにして金の瞳をちらちらと油断なく煌めかせていた。

「で、師団長。合同捜査にすんのか?」
「しますよ」
「なら報告書をくれ。アートレートなら中間報告が上がってんだろ」

 どうぞ、とシェストレカは諦めて中間報告を渡した。
 金の瞳が淀みなく左右を往復し、すぐに報告書を返される。

「どうりでメルの机に埃が被ってると思った」

 ファルガ・イザラントはそう言いながらシェストレカを観察する。シャルロア・メルが師団にいないことを隠そうとしていた節があるのを感じ、シェストレカの思惑を読み解こうとしているようだった。
 しかしシェストレカも伊達に師団長の地位にいるわけでない。腹芸なら得意だ。
 眉ひとつ動かさずに報告書を受け取ったが、思わぬところから刺された。

「あ、師団長。そのメルのことでちょっと相談があるんですけど。なんかメルを口説いたエッテル基地の分隊長のせいで、メルが第6部隊からいじめられてるっぽいんすけど、どうしたらいいですかね?アートレート分隊長は女同士の諍いに男が口出すとよけいもめるから、見て見ぬフリしろって言うんですけど、今日なんて水ぶっかけられてたんすよ!仕事も妨害されて上手く回ってないみたいだし、どうにかしてやりたいです」
「………………あ゛ぁ?」

 ――……この……っ……馬鹿犬……!
 シェストレカはファルガ・イザラントを盗み見て、臓腑がひやりとした。
 いつも眉間にしわを寄せたり、にやにやしていたりと感情表現が存外豊かなあの『雷鳴獅子』がその表情に何の色も乗せていない。
 だというのに、瞳の奥では黄金を融かすほどの勢いで怒りの炎が煌々と燃えている。こうなったファルガ・イザラントが手を付けられないことをシェストレカは経験上知っていた。
 ファルガ・イザラントは、好きな女を口説かれただけでここまで怒らない。
 仕事を妨害している。
 それが彼の逆鱗に触れたのだ。
 まさしく獅子は、身中の虫を嫌う。

「ウルグ。どういうことだ」

 さすがのウルグもファルガ・イザラントの常と異なる冷厳な雰囲気に気付いたらしく、肩を震わせた。しかしそれでも上官の問いに答えられるのは、第4師団員として訓練された賜物だ。

「エッテル基地で人気の第2部隊分隊長がメルを口説いたのを女性隊員が知ったらしくて、嫉妬からメルの仕事が上手くいかないように妨害してるんです。アートレート分隊長が第6部隊員の中でも良識のある人に働きかけてメルを手助けしてくれるように頼んでるっぽいんですけど、それでも描画帳を破かれたり、書類を差し戻されたりして困ってます」
「師団長。エレクトハを連れてく許可をくれ」

 くれ、と言うのは寄こすよな?という確認である。
 シェストレカはにこりと微笑んで「いいですよ」と戸惑いなくエレクトハを売った。
 ――第2師団長と話し合いが必要ですね。教育はこちらでやることになりそうだと。
 物事には諦めが必要である。シェストレカはそれを知っていた。












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