魔法火傷治療薬が盗まれた製薬商会はパッフェル製薬という。国内第2位の製薬市場占有率を持つ、大商会だ。
 本店があるエッテル領地に留まらず、支店は全国各地に広がる。普通の傷薬や火傷薬の評判はイマイチなため2位に甘んじているが、魔法薬に関しては定評がある。故に騎警団からのお墨付きと在庫管理を任された。
 という情報までは、シャルロアは思い出せた。しかし実際にパッフェル製薬の本店を見たことがなかったので、今、度肝を抜かれている。
 本店の建築様式はどうと言うものではない。雪国にふさわしい堅牢で熱を逃がさない構造の、至って普通な様式だ。だが外壁はどピンクだった。と言っても下品でない色合いだが、非常に色彩溢れた外壁であることは否めない。しかも何が真に恐ろしいかと言うと、この外壁の色はエッテル領地においては珍しい色合いではないということだろう。
 エッテル領地の領都マヴィスの基地から少々歩けばピンク、赤、青、紫、緑とおよそ家の外装の色としてはめずらしいと言える色ばかりが建ち並んでいた。さらに家の前に植えられた花々も加わるのだが、不思議と極彩色とまでは言えなかった。一つ一つの色の衝撃は大きくとも、全体的に見れば不思議と丸く収まるような色配置になっているのである。

「夏は派手に思われるでしょうが」

 苦笑して補足するのは、パッフェル製薬商会本店まで案内してくれたエッテル部隊の第2部隊員だった。年齢は30代半ばほど見えるので、案内役が出来るほどにエッテル領地勤めが長いか、そもそもここの生まれだったかのどちらかなのだろうとシャルロアは予測する。

「この地は毎年雪が深いのです。空は灰色、地面は白ばかり、というのは中々に人の気分を鬱々とさせるものがありますので、自然と家が派手な色になりました。内装も他の土地の方が見ればかなり色彩豊かに見えるそうです」
「へぇ!そうなんですか!」

 すげー、と言わんばかりに微笑むのはウルグであるが、シャルロアは突っ込みを我慢するので精一杯だった。
 ―― そういう説明って、最初来たときにも聞いたんじゃないだろうか。
 案内してくれた部隊員の口ぶりを聞くに、他所の領地から訪れた人間は大抵この色彩豊かな街並みに驚くようだ。そして何故こんな建築になったのかを説明するのはエッテル領地に育った人間にしては日常茶飯事であるらしい。
 だからつまり、ウルグがアートレート分隊長にひっついて、早朝ここを訪れたときにもそういった説明はされていただろう、と予測できるのに、隣に立つ男ときたらそんな説明まったくされていません、と言わんばかりの頷きっぷりだ。案内してくれている部隊員は怪訝そうな表情を見せていないので、ウルグとアートレート分隊長を先に案内した部隊員は別の者なのだろう。というより、そうであってくれというのがシャルロアの心底からの願いだ。
 ――この事件、彼が担当で大丈夫なのかしら……。
 一抹の不安を部隊員に見せないようにするのに苦労した。

「では、自分は聞き込みに戻ります」
「案内ありがとうございました」

 シャルロアは丁寧に彼に目礼し、今にもパッフェル商会の周りを走りだしそうなウルグをひっつかみ、建物の中に入った。雪国の建築物らしく、一枚目のドアをくぐり、二枚目のドアを開けると受付の女性が目に入る。さすがに会社の顔とも言われる受付に座る女性は、同性であるシャルロアから見ても美しかった。
 あちら側も入ってきた騎警団員を見とめ、シャルロアたちが声をかける前に駆け寄ってきた。

「第4師団員の方でいらっしゃいますか?」
「はい、そうです」

 厳密に言うなればシャルロアは違うのだが、そんな内部事情を外部者に語ったところで理解はされまい。ウルグがいる、ということで嘘でもないし、とシャルロアが頷くと、受付の女性はどうぞこちらに、と彼女たちを奥の部屋に案内した。
 さすが国内占有率第2位の商会本店だけあって、中も華やかだった。通って来た玄関広間には高級大理石が敷かれ、天井にはシャンデリア、広間を彩る美術品も恐ろしくて手が触れられそうにないほどに美しいものばかり。
 廊下や階段にもそういった高級美術品が並んでおり、シャルロアは歩くだけでも冷や冷やした。間違って服の裾をひっかけて花瓶など割ったりしたら、シャルロアの給料で弁償出来ない気がする。
 そんな心臓に悪い廊下を歩いて案内された先は、応接間だった。

「こちらでアートレート様がお待ちです」
「ありがとうございます」
「後ほどお飲物をお持ちいたします」

 捜査の話があるだろう、と思われたのか受付の女性はそう言って、扉を開かずに下がった。捜査の方針について早々に話を聞いておきたかったシャルロアとしては、この配慮はとてもありがたかった。
 軽く目礼してから、受付の女性の姿が遠くなったのを見届けてドアをノックする。

「シャルロア・メル一等兵、参りました」

 隣に立つウルグも続いて口を開いた。

「コモエ・ウルグ一等兵、参りました」
「入れ」

 清涼感のある声が扉の向こうから返された。
 ドアを開くとこれまた輝かしい内装の応接間が目に飛び込んできたが、シャルロアの目を奪ったのは部屋の中央に置かれたソファに座るアートレート分隊長その人である。
 もの見事に部屋と調和している、と言っていいほど彼はその場に馴染んでいた。
 今、この目で見るまでシャルロアはアートレート分隊長がどんな外見の人物だったかおぼろげにしか覚えていなかったのだが、この瞬間頭に記憶された。櫛で梳いても引っかかりを覚えないであろうと想像できるほどにさらっさらの銀髪を後ろに流し、切れ長の銀目を伏せ、背筋を伸ばして座るその姿はどこからどう見ても、部屋にある調度品を普段使いしていておかしくない貴族であった。
 ――貴族オーラが、すごい……。
 しかも30代前半くらいの男性とは言え、整った顔立ちをしているぶん王子様っぽくもある。士官学校で本物の王子様を見ているシャルロアだが、本物がかなり残念だったためか、アートレート分隊長の方がよっぽどらしく見えて仕方ない。
 シャルロアが立ちつくしていると、アートレート分隊長はふと切れ長の目をこちらに向けた。

「どうした?入って構わないぞ」

 発音も実に美しく、それがより王子様らしさに拍車をかけている。思うに彼を端麗だと思わせるほとんどは、優美な振る舞いに起因するものだ。そしてその立ち振る舞いは、粗野な第4師団に驚くほど馴染まない。
 戸惑うシャルロアの脇をウルグがすり抜けて入って行った。

「分隊長ー!俺、ちゃんとメルを連れてきましたよー!言われた通り師団長に『分隊長がメルを下さいって言ってました』って伝えました!」

 大型犬が久しぶりに会った飼い主にじゃれるが如く、ウルグはアートレートの元へ駆けて行く。はしゃぐウルグにアートレート分隊長はふっと微笑み、

「そうか。ここに座れ」

 と自身が座る前の空間を指さした。
 ウルグが素直にそこに跪くと――その大きな手が、がしっ、とウルグの顔を掴んだ。
 否。音ががしっ、ではなく、ミシッ、だった。

「いでででででででっ!」
「貴様、あれほど伝言は正確に伝えろと言っただろう……!私は『メルを似顔絵捜査員としてよこしてください』と伝えろと言ったんだ!それがなんだ!その台詞だと、まるで私がメルを妻にしたがっているようではないか……!」

 清涼感を感じた声音はどこへやら。今の彼の声は地獄の底から響いているのかと思うくらい低かった。さらに銀色の瞳も冷たく、据わっている。
 その姿はまごうことなく、第4師団の分隊長であった。

「分隊長、死ぬっ!顔が潰れて死ぬっ!」
「貴様は自業自得だから死んでもいいだろう!私は濡れ衣で副師団長に殺されるのかもしれんのだぞ!」

 シャルロアは唐突に思い出した。
 確か、第4師団員の多くはりんごを砕けるほどの握力を持っていると聞いた。その多くにファルガ・イザラントは確実に入るだろうが、目の前のアートレート分隊長はどうなのだろうか。ミシミシ、とウルグの顔からヤバい音がしている時点で察するべきことかもしれない。
 そして薄々感じていたし、別に困りはしないが、ファルガ・イザラントに求婚され続けている限り、シャルロアには男性と恋愛関係になる機会がない気がする。
 ふぅ、と気が遠くなりかけたシャルロアと、アートレートの目がかち合った。

「メル。その場に副師団長はいなかっただろうな?」
「いませんでしたし、その場にいたとしても婚約者でもない部下に言い寄ったからと言って抹殺にかかるとは思えません」
「君はファルガ・イザラントという男をわかってない……いや、彼がいなかったならいいんだ。ありがとう」

 案ずる必要はない、とわかったためか、アートレート分隊長はウルグの顔から手を離してため息をついた。そしてハッとした表情で再度シャルロアを見る。

「言っておくが、君が魅力的ではないと言っているのではなく、私はただイザラント副師団長と女性を争うつもりはないということで」
「あぁ、ええと、わかりました」

 本人は言い訳ではなく事実を述べているのだろうが、何故だろう。こういう問題は触れられれば触れられるほど『お前に魅力はない』と言われているような気がして空しい。
 ズキズキと痛む胸を無視して、シャルロアは早々に話を切り上げた。アートレートも気付いて、賢くその話題についてはそれ以上触れるのを避け、ゴホンと咳払いする。

「改めて。私はナダ・ブエアッシュ・アートレートだ。一応士官学校卒なので、君の先輩にあたるな」

 ――あ、本当に貴族だったんだ。
 それも士官学校卒であるなら、かなりの確率で騎士部門の卒業生であるはずなのだが、今こうして第4師団にいることを考えるとそれであっているのかわからなくなる。
 多くの貴族にとって、騎士であることは誉れだ。だから騎士であることを辞める人間はそういない。
 はず、なのだがシェストレカは貴族なのに師団長をしている。聞き及ぶ限り、他にも貴族出身の第4師団員はちらほらいるそうなので、何事にも例外はいる、ということなのか。
 ――にしても、私なんかが後輩と言うにはおこがましいな。
 アートレートの年齢ならば、士官学校を卒業したときにはまだ腐敗が始まっていなかったはずだ。つまり本当に狭き門を潜った猛者である。
 対してシャルロアは劣化した士官学校の劣化した生徒。同じ学校を卒業した、とは言えないだろう。
 シャルロアが複雑な心境をこめて苦笑を浮かべると、アートレート分隊長も苦笑を浮かべた。

「母校が腐敗していたからといって、君の能力にケチがつくわけではない。今回は君の描く似顔絵を捜査に役立ててもらいたいと思っている。頼むぞ」
「了解しました」

 頷いたアートレート分隊長の下で、うぐぐ、とウルグが呻く。

「なんか今日、俺、顔ばっか狙われてる気がする……」
「は?ウルグ、私以外の誰に顔を掴まれたと言うんだ」
「師団長にもインクの蓋を投げつけられました!」

 ハキハキと朗らかに答えたウルグに、アートレートは眉をひそめて頭を抱えた。瞬時に何がどうなってそういう結果になったのかを理解したようだ。

「帰ったら私もこれの監督不十分で説教か……。胃が痛い……」

 アートレート分隊長は第4師団の中では極めて珍しい、胃痛持ちの立ち位置にいるらしい。
 あまりの悲壮さに、ウルグがうっかり伝令ミスして師団長が大層お怒りだったことを伝えられなくなった。今から捜査だというのに、気を重くさせるのも哀れだ。
 可哀相な立場だが、ウルグがこの調子なので今回の事件に関してはアートレート分隊長がいてよかった、と思うシャルロアだった。
 アートレートは長く重いため息をついてから、顔を上げた。

「今回の事件について詳細は?」
「師団長より伺いました。騎警団所有の魔法火傷薬が盗難。容疑者候補としてパッフェル製薬の秘書が挙げられており、私はその秘書の似顔絵を描く、と。それ以上は存じ上げません」
「商会側が盗難に気付いたのは2週間に一度の在庫点検を行った今朝方だったそうだ。つまり盗難自体は昨夜行われたわけではない可能性もある。それから件の秘書は3日前に『田舎の母が病に臥せっているのでまとまった休みが欲しい』と言って休暇を取ったそうだが、実家に連絡をつけてみると母親はぴんぴんしていた。だから現在重要参考人として追っている……こういうことはここに来るまでにお前から共有すべき情報なんだぞ、ウルグ」
「はいっ!すみません!」

 アートレート分隊長は非常に苦々しい表情を浮かべていたが、ウルグがあまりにもあっけらかんと謝り返すので、眉間を揉んでため息をついた。この短い間に分隊長相手にため息を何度もつかせるウルグは、もしかしなくとも大物だ。

「似顔絵を描いた後はどうしましょうか?留まって、書類整理でもしておきましょうか?」
「いや、君をあまり長く拘束するのは師団長に申し訳がない。師団の抱えている未処理書類の量は洒落になってないからな。私が書けていれば焼け石に水程度の書類量は問題なかったはずなのだが、生憎後始末に回る方が多くて書類仕事は部下に任せてしまっていた。負担を作ってすまない」
「お疲れ様です……」

 分隊長に後始末をさせる第4師団員、恐るべしである。その最たる原因であろうウルグは二人の会話をろくに気にしてないのか、にこにこしながら立ちあがってズボンの埃を払っていた。

「だが、余力があればエッテル基地の捜査本部で書類を整理してから師団に戻ってもらえると助かる。おそらくこれから目撃証言関連の書類が増えるだろうからな」

 すでに疲れ切った表情のアートレート分隊長に否を言えるわけなく、シャルロアは頷いた。
 その反応にホッとした様子のアートレートは、身体の影に隠れていた描画帳と鉛筆をシャルロアに差し出した。
 彼に近づいて受け取ると、銀の瞳が鋭く光る。

「もうすぐで会長が到着するらしい。彼から上手く人相を聞き出してくれ」
「はい」

 と、返事をしたところでドアがノックされた。

「パッフェルが参りました」

 受付で聞いた女性の声がしたので、シャルロアはアートレートが頷いたのを確認してからドアを開けた。
 廊下に立っていたのは先程案内してくれた女性と、禿頭で恰幅が良く、高級スーツに身を包んだ壮年の男性だった。おそらく彼がパッフェル会長だろう。
 彼は商人らしく愛想よく目礼してくれたので、シャルロアも返した。けれど会長の顔には疲れもにじんでいて、今回の事件が彼の精神に悪い影響を与えているのは明白だった。
 会長が部屋に入り、アートレートが座るソファの対面に腰を落ちつけると、受付の女性がお盆に乗せていたお茶を机に置いて下がろうとした。

「お待ちいただきたい。貴方にも話を伺いたい」

 アートレート分隊長の言葉に女性は戸惑い、会長を見た。彼が頷いたので、女性は会長の後ろに控えるように立つことにしたようだ。
 ウルグもソファに座らず、アートレートの傍らにたたずんでいたのでシャルロアはどうしようか刹那迷ったが、アートレートが視線で隣に座るように訴えかけてきたのでそれに従った。
 わずかに重い沈黙の後、会長が口を開く。

「コールド・パッフェルです。本日は我が商会の不祥事にわざわざお出でいただき申し訳なく……」
「ナダ・ブエアッシュ・アートレートです。私たちは任務で来ただけですので、謝罪は結構です。気兼ねなく、事件に関することだけお話し下さい」

 アートレート分隊長が謝罪を断る傍ら、シャルロアはなるほど、とようやく彼が疲れ切っている理由に思い至った。
 確かに騎警団所有の魔法薬を預かっていた商会としては、この盗難は不祥事なのだ。
 そもそも騎警団が所有している薬を製薬商会に預けているのは、薬の管理が騎警団では難しいからだ。薬の中には保存の際、温度や日光などに気を使わなければいけないものもあるので、それならば最初からその道の者たちに預っていてもらおう、というのが騎警団の考えである。
 つまりパッフェル商会なら薬の管理はもちろん、盗難にも気を配ってくれると信頼されていたからこその管理委託だったわけだ。
 それが身内が関わったらしい盗難となると、これから先管理委託してもらえるか非常に危うい。商会にとっては騎警団との管理委託の更新が出来るかどうかわからなくなる『魔女の一撃』だったのだ。
 普段なら朗々とした笑みを浮かべているであろう壮年の男は、憐れなほど萎れてしまっていた。

「現在重要参考人として、貴方の秘書であるカッツ・キューレイを追っています。彼女に関して、最近変わった様子は見られませんでしたか?」
「変わった、と言えば最近どことなく沈んでいる様子でした。それは母親の病のせいだと思っていたのですが……」

 母親が元気であるのだから、沈んでいたように見えたのは違う理由だったのだろう。しかし会長の話に怪訝そうな表情を浮かべたのは、受付の女性だった。
 目敏くそれを見逃さなかったがアートレートが、彼女に質問を飛ばした。

「貴女はどうですか?カッツ・キューレイについて、何か気になっていたことは?」
「私は……最近とは言い難いですが、ここ3カ月の間に彼女が急激にキレイになったので、恋人が出来たんじゃないかって女性従業員たちの間でも噂になってました」

 ――普通、恋人が出来たら浮かれそうなものだけど。
 なのに会長は最近の彼女は沈んでいた、と言う。シャルロアは単純に恋人と別れたのだろうか、と考えたが、アートレートは別のことを考えているようだった。

「……わかりました。カッツ・キューレイの人相をエッテル領地の騎警団や関係各所に広めたいので似顔絵作成にご協力ください」

 アートレートが口を閉じたのを見て、シャルロアは自分の出番だと悟った。

「似顔絵作成を務めるシャルロア・メルです。どうぞ気を楽にしてください」

 にこりと微笑みながら誰の目にも見えない桃色の蝶を出現させて、その翅をそっと会長の肩に留まらせる。
 雑然とした映像が流れ込んでくる。
 その映像に方向性を持たせるため、シャルロアは話しかけた。

「まずは緊張を解くため、カッツ・キューレイの仕事ぶりのお話でも軽くしてから似顔絵作成に移りましょう」

 映像が一人の女性を映し出したことで、シャルロアは成功を感じ取った。





********





 似顔絵の出来は上々で、仕上がりを見たパッフェル会長と受付の女性から「そっくり」とのお墨付きをもらった。
 これでひとまず役割は果たせた、とシャルロアは安堵した。ファルガ・イザラントの目がなくとも、第4師団員の目は厳しい。使えない、と判断されればすぐさま師団長に報告が上がり、左遷されてしまう。
 なので思ったよりも早く似顔絵作成が済んだこともあり、小賢しく仕事出来ます主張をしておくことにした。「時間があるので捜査資料があまり溜まっていないこの段階で、後々に資料が見やすくなるように整理整頓をしておきますね」と言って、捜査に戻ったアートレート分隊長たちと別れ、1人エッテル基地に戻った。
 ――捜査開始が今朝だったから、まだそんなに資料は溜まってないはず。これから増えるだろうカッツ・キューレイの目撃証言を書類ばさみ別にして作っておいて……あとは今の捜査状況も軽く覚書しておこう。
 どう書類を整理しておけば後々見やすくなるか、を考えながら、本部よりも鮮やかな色合いの基地の廊下を歩いていると、曲がり角で男性部隊員とぶつかった。

「申し訳ありません」
「……気を付けろ」

 ずいぶんとぞんざいで雑な声音だった。わずかに聞こえた舌打ちも相まって、こちらが謝る前からぶつかった相手を見下す、と端から決めてかかっているかのように感じた。
 謝罪に対して喧嘩腰な態度に、思わず腹が立ちかけたシャルロアだったが、相手の胸元を見て怒りを押しとどめた。3赤星紋章がある。どこの所属かは知れないが分隊長であることを示していた。
 上官に文句を言うわけにいかず、シャルロアは改めて申し訳ありませんと頭を下げる。
 胸の内で渦巻く罵詈雑言を悟らせないために。
 ――上の空で歩いてたこっちも悪いけど、気を付けろとか人に言う前に、自分も気を付けてなかったことを反省してよね!うちの師団長やアートレート分隊長なら自分も気を付けてなかったから、とか言ってくれると思うし、副師団長ならそもそもぶつかるような阿呆な真似なんてしないんだから!

「……ん?お前、見ない顔だな」

 上官を置いて自分が去るわけにもいかないので、さっさと目の前の男に去ってほしかったのだが、シャルロアの願いに反して、男は彼女の顔を覗きこむようにして身をかがめた。瞬間、シャルロアの鼻に男性用香水の香りが届く。苦みのある薬草と柑橘系統のそれは、シャルロアはあまり好まぬ香りだった。この手のものは昔から頭痛がするので、嫌いと言っていい。
 しかし男は身につけているものが誰にとっても良いものだと過信しているのか、わずかに身を寄せてきた。

「新人か?」
「パッフェル商会盗難事件の重要参考人とされる女の似顔絵を描くため第4師団所属アートレート分隊長に呼ばれました、シャルロア・メル一等兵であります。所属は第6師団であります」

 なれなれしい距離に辟易し、シャルロアは男を遠ざけるために敬礼してみせた。その動作を避けるため、彼女の思惑通り男は一歩退がる。嫌な匂いも遠のいた。
 それだけの距離が生まれて、やっとシャルロアは相手の顔を見る余裕が出来た。
 歳は上に見ても20代半ばほどだろうか。目と髪はバラのように赤かった。派手な色にくわえて顔立ちも整っているので、群衆に紛れても目を惹く存在だろう。
 とは言っても、それだけであるが。
 ――エレクトハさんって、つくづく規格外だな。
 エレクトハであれば、群衆に紛れたらその群集全員を魅了しそうである、と思わせてしまうのだから恐ろしい。

「ふーん」

 男はシャルロアの足先から頭のてっぺんまでじろじろと眺めると、吊り目がちな目を細めた。

「俺は第2部隊分隊長、アズー・イゼットだ」

 手を差し出されたので、シャルロアは礼儀として握手を返した。正直言って、最初の態度といい、香水といい、値踏みするような視線といい、この男に対して良い感情は抱けない。
 さすがに嫌々、という顔はしなかったが、それでも勘の良い人間であれば、わずかに遅れた握手に何か感じ取っただろう。だがしかし、イゼットは勘が良い類の人間ではなかったようだ。
 手を離した彼は、自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

「仕事終わり、空けとけよ」
「……何故です?」

 意味がわからず、シャルロアはわずかに眉をひそめて問いかけた。

「美味い飯を奢ってやるよ」

 ――はぁ?
 あまりにも唐突で、脈絡もない誘い――にもなってない誘いに、呆然とするよりない。お腹が空いただとか、美味しい食事をとりたいだとか、そんな話はしていなかったはずなのに、どうしてそんな台詞が口から飛び出たのだろう。
 シャルロアは小首を傾げながらも、いえ、と断った。

「資料整理が終わり次第、師団に帰還しますので」

 その言葉にイゼットがムッとして、顔をしかめる。

「あぁ?すぐに帰らなくてもいいだろ。奢ってやるつってんだから」
「……それは上官命令でしょうか?」

 念のため確かめてみると、イゼットは嘲笑した。

「仕事終わりだっつってんだから、そんな野暮なもんじゃねぇよ」
「ではお断りします」

 シャルロアがきっぱりと断ると、そんな答えは予想していなかったのか、イゼットは唖然とした表情で固まった。
 それに一礼して、第6部隊勤務室に向かう。
 ――何で知り合いでもないし、これから仲良くなる必要性もないいけ好かない男と食事に行かなきゃいけないんだ。そんな時間あるなら、寮に帰って編み物でもするわよ。
 苛立つような男と2人で過ごす被虐趣味はない。上官命令であれば致し方ないことだと割り切るが、もし本当にそれをしたら公私混同の命令だ。団規違反を訴える。
 怒りを鎮めるべく、少々速足で第6部隊勤務室に駆け込んだ。
 師団と同じ造りの勤務室で、書類仕事をしている部隊員に声をかける。

「すみません。第6師団所属シャルロア・メルと申します。パッフェル商会盗難事件の資料や書類を作りたいので、用紙をいただけますか?」

 事件を記録するための書類用紙をもらう申請をすると、シャルロアよりも2つほど年上に見える女性部隊員は、にこりと笑って承諾してくれた。

「ええ。ちょっと待ってね」

 彼女が机の引き出しを探っている間、シャルロアはエッテル基地の第6部隊勤務室をなんとはなしに眺める。働いている女性は10代後半から20代前半の女性が多く、それより上の年齢となるとちらほら見える程度だった。第6師団を見た後であれば年齢層が低く感じられるのだろうが、デバイドウォーネ基地の第6部隊を見たことがあるので、シャルロアはあまり驚かなかった。師団の先輩の話を聞く限り、どうやら師団よりも部隊の方が女性が働く年齢層が若いようであるらしい。
 主な理由としてはやはり結婚への価値観の違いがあるようだ。王都で働く女性師団員の中には男よりも仕事を取る、という意気込みのある不屈な女性もそこそこいるのだが、田舎の基地ほどその割合が少なくなる。結婚して退職してしまう人の割合が多いというわけだ。
 仕事と結婚と、どちらを選ぶのが幸福であるかは軽々に判断しかねるものだが、やはりどうしても田舎の方では女の幸せとは家庭を作ることにある、と思われがちだ。
 ――改めて考えても、副師団長の話を受けれたのは僥倖だったかも。
 下手に部隊所属になって、結婚せずにいらぬ注目を浴びるよりは、師団所属で結婚に興味ない仕事に生きる女であると思わせておく方が疑惑の目を逸らせる。シャルロアが魔女ではないか、と疑われる材料は少ないに越したことはないのだ。
 師団へ勧誘してくれた副師団長本人に、色々と怪しまれているのは正直痛いところではあるが。
 ――い、今だけ。今だけ、耐えたらどうにかなるわ。副師団長もそんなに暇じゃないんだし、飽きるって。そのうち飽きる。現にもう1週間くらいは会ってないし、私のこと忘れてくれてるんじゃないかな。
 現実逃避であることは、重々承知だった。
 逃避せず、きちんと問題と向き合うのであれば――ファルガ・イザラントの疑念が晴れるには、まさしく暗雲を竜巻で吹き飛ばすような出来事でも起こさない限りありえないとシャルロアもわかっている。
 ――起きるのを待ってるじゃダメなんだ。何か有効な手を打たないと。
 シャルロアとしては短期決戦で、すぐにでもファルガ・イザラントの注意を他に逸らしたい。しかしその願望は叶わぬだろう。彼に対するあれこれは、完全に長期戦を視野に入れておかねばならない。
 ――なんと厄介な。
 この世に、あの男以上に厄介な男などいるのだろうか、と考えたところで、部隊員が書類用紙を机の中から見つけたらしく取りだす。あとはこれで、第2部隊に保管されているであろう捜査資料をまとめていくだけだ。
 そう考えたシャルロアの背後から、伸びる手があった。

「えっ、イゼット分隊長?」

 用紙を持っていた女性部隊員は、驚いて頬を赤く染めた。目もキラキラと輝く。
 シャルロアがその反応の意味するところを理解する前に、背後から伸びた手が部隊員が手にしていた書類を奪い取る。
 同時に視界がぐるり、と回った。
 別れたはずの赤い髪と瞳が、目の前にあった。

「6時に迎えに行くから、待ってろよ」

 どこかで見たような――けれどそれよりも遥かに腹立たしい獣の笑みを浮かべて、イゼットはシャルロアに用紙を押しつけた。
 ――は?
 呆然とするシャルロアに向かって笑みを深くし、イゼットは踵を返して第6部隊勤務室を出て行った。
 ――何がしたかったんだあの人……。
 待ってろ、と言われても何を待っていればいいのか理解出来ず考えてしまったが、すぐに廊下での話のことかと思い出した。むしろ奢ってやるからだとか言っていたあの話しか、思い当たる節がない。
 だが待っていろと言われて待つ気にはなれなかった。上官命令だとは言われなかったのだから、さっさと事件書類や資料を作って帰還しよう、という目標すら出来た。
 ともかく用紙を出してくれた事務員にお礼を言おう、と振り向いたところでシャルロアは気付いた。
 先ほどまでにこやかに対応してくれていた彼女の目に、険がある。
 ――え?
 凍りついて、思わず視線を逸らした先で、さらに気付く。
 険のある視線を向けているのは、彼女だけではない。
 勤務室にいる、若き事務員のほとんどがシャルロアのことを睨んでいた。
 ――なんで?
 理由はわからない。だが、彼女たちから憎悪と言って過言でない感情を向けられている。
 魔女だとバレたわけでもないのに。

「……あ、ありがとうございました。失礼します!」

 針のような視線に気圧されて、シャルロアは急いで頭を下げて勤務室から逃げた。
 ――何?私、何かしたっけ?
 冷え冷えとした空気が、まだ身体にまとわりついている。あんな悪意に満ちた視線を向けられるには、相応の原因が必要となるはずだが、シャルロアにはとんと思いつかなかった。何せあの部屋に入ってから、行動らしい行動はしていないのだ。言葉だって最低限しか発していない。
 理由のわからない憎悪は、不安を覚えさせるに十分な威力を持っていた。
 ――……早く師団に戻ろう。書類を作って整理したら、もうここに関わることもない。
 シャルロアは二の腕をさすりながら、本来の居場所に戻るべく足を速めた。














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