“恋は橋ではない。綱渡りだ。故に、右を見たり左を見たりすれば落ち、二度と歩めない。”

出典:マッケー・ダイダウォン作『曲芸師の靴』







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 朝を告げる鐘の音を、シャルロアはベッドの中で聞いた。
 とは言っても眠っていたわけではない。眠りを知らぬ、と言って過言でない魔女たちのどれほどが、素直に朝の鐘で目覚めるだろうか。
 少なくともシャルロアは鐘では目覚めなかった。夜中に15分眠って起きてから以降、ずっと机の灯りをつけて本を読んでいた。
 ――あぁ、もうそんな時間か。
 ふと気付けば、カーテンの隙間から朝陽が射しこんでいる。机の灯りだけに頼っていた手元もずいぶんと明るくなった。
 彼女が読んでいたのは往年の文豪ミハエ・ヴァーヴァ著作『凍てつく向日葵』という、怪奇幻想小説だ。一昨年の夏、暑さを忘れさせてくれないものか、と図書室で気軽に手を伸ばしたものだったが、思った以上に不思議で不気味な世界観に惹きこまれて、借りるだけでは惜しくなって結局本屋で買ってしまったお気に入りの小説だ。
 夏の話だからか、本の存在は冬になると忘れてしまうのだが、また夏が近づくと読みたくなる不思議な本である。今年もこうして読破してしまった。
 ――ミハエ・ヴァーヴァの本は買ってもいいかもしれないな。
 活字中毒の気があるため、うっかりすると部屋が本で構成されそうなハメになりそうな気がして買うことは躊躇っていたシャルロアだが、給料ももらえるようになって経済的に安定したわけだし、好きな作者の本だけは買うことにしてもいいかもしれない、と思い始めている。
 ミハエ・ヴァーヴァは戦争が始まる前に亡くなった文豪であるため、少々話が古いところはあるが、それが不利にならぬほど文章が上手いし、主人公の思考展開に嫌悪することもない。
 シャルロアはベッドから起き上がり、カーテンを開けて窓の外を見た。
 ――いい天気。
 銀の目の先には、雲一つない夏の青空が広がっている。
 ――今日は休みだし、王都にまで買い物に行こうかな。
 自鳴琴事件解決から3週間働いて初めて与えられた、記念すべきかつ貴重な休日である。
 師団長はもっと早くに休日を与えてくれようとしていたらしいが、それを許さなかったのが第4師団である。何せシャルロアが昼休憩でいない間にこんもりと不備書類を作ってくれる師団だ。昼食から帰ってきて自分の机を見たときに、本気で魔女の異能を使って全員気絶させてやろうかと思った。ふと師団長を見たらにこやかに「やってよし」と言われたので、不穏な気配が隠せていなかったのかもしれない。
 思い出すとうんざりとしてくるため、シャルロアはそこで思考の糸を切った。
 昨日がどんな地獄であれ、今日は休日だ。英気を養うべきである。
 ――お給料出た後だから、懐は潤ってるし。
 シャルロアは本日の予定を組み立てながら、まずは腹ごしらえをするべく着替えを始めた。





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 世間一般の安息日と重ならなかったためか、王都の商業街は賑わっていた。露店に並ぶ穫りたての野菜が香り、どこからか魚介のスープの香りも漂ってくる。王都に店を開くだけあって味の格が高い飲食店から老舗の骨董屋まで並ぶこの街で、シャルロアが真っ先に買い求めたのは暦表だった。
 やはりあの勤務室に暦表がないことは問題である。今日は何日だったか、というわずかな疑問を考えようとするだけの気力が第4師団員にはないから、日付の記入漏れが生まれるのだ。
 それで一考した。勤務記録機付近に日めくり暦表を飾っておけば、嫌でも日付が目に入るだろう。これでダメなら師団長に言って朝礼を開いてもらうしかない。
 ――日付を確認するための朝礼とか、前代未聞すぎるけど……。
 そんな嫌な朝礼を開かせないために、出来ることはやっておこうということで、シャルロアは士官学校時代から馴染みの文具雑貨店まで足を運んだわけである。
 馴染みの文具雑貨店は他の文具店に比べてかわいらしい意匠の文具が多い。帳面の表装に花が描かれていたり、ペン軸の色が淡い緑だったり桃色だったりするのだ。そういう細やかな美が女性客や士官学校の女生徒にうけ、店を訪れるのは女性が多い。
 今日も店のドアを開けて中に入ると、こじんまりとした店内で品物を手にとって観賞する女性客で賑わっていた。
 これが可愛い、あれが可愛い、と楽しそうに連れとおしゃべりする彼女らの間をすり抜けて、シャルロアは値引き籠を覗いた。夏を迎えたこの時期に暦表を買う人間はそういない。なので店に置いてあるのは、年末から新年にかけて売れなかった残りであり、そういうものは値引き籠に放りこまれているものが多かった。
 シャルロアの予想通り、籠の中にはいくつかの暦表が入れられていた。日めくりもある。
 ――んー、どれにしようかな。
 と言っても悩むほどの種類はない。日めくりは猫の絵が日替わりで描かれているものと、鳥の絵が日替わりで描かれているものだけだ。日めくりに限定しなければ他にもあるが、日にちを確認しやすいのは日めくり暦表以外にないだろう、ということで他は範疇外とする。
 好みで言うならば、猫の日めくりがかわいいと思う。思うのだが。
 ――猫かぁ……。
 籠を前に、シャルロアは遠い目になる。この猫の日めくりを勤務室に飾った場合、おそらく暦表を飾ったのはシャルロアだと師団員たちは気付くだろう。あの職場、そういうことをしそうなのはシャルロアだけしかいないので当たり前だ。
 そして飾られた暦表の猫。あの師団には、猫科の獣が1匹飼われている。
『なんだ、お前。猫派か』
 ――はい、終了。暦表は鳥に決まりました。
 からかわれるとわかって、何故わざわざネタを提供してやらねばならないのだ。それが避けられるものであるのなら避けるべきである。シャルロアは鳥の絵が描かれた暦表を買って外に出た。
 買いたいものはまだまだあった。シャルロアは嗅覚と記憶を頼りに、今度は茶葉を売る露店へ向かう。
 師団の給湯室にはキャラバや茶葉があるものの、その味ときたら、まぁ、香りはするな、という感想を述べる程度である。胃が痛くなるような勤務先なのだから、せめて休憩時に飲むお茶やキャラバくらいは香り高いものを飲みたいと思っても罪ではないはずだ。
 実際シャルロアが休憩時にキャラバを淹れるようになってから、師団長は自分専用のキャラバを置くようになった。今まではお茶休憩をするのも惜しいほどに書類を捌いていたのだろうが、シャルロアがお茶を淹れるようになったので味にこだわる余裕が出てきたのだろう。キャラバを淹れて持って行くたびに、香ばしい香りを嗅いで目元を緩ませている。
 ――心の負荷は溜めない方がいい。
 シャルロアも気を抜くときには気を抜こう、と思い、自分用のお茶を買うことに決めたのである。とは言ってもシャルロアの場合職場で気が抜けないのは、時折書類に婚姻届が紛れているからなのであるが。犯人はみなまで言わずとも、師団長である。毎回毎回破って捨てているのに、何故か新しい婚姻届が紛れている。あの忙殺されそうな職務の中、どうやって書類を入手しているのか謎だが、知りたくない気持ちもあるので、シャルロアは徹底的かつ冷静に無視することに決めている。
 そうした努力を助けるためにも、良い茶葉が必要だ。
 露店の茶葉店では、様々な種類の茶葉が扱われていた。露店と言えど、さすが王都で商売をするだけあって、そこらの領都の露店とは品ぞろえが違う。暦表とは違って少々悩んだ結果、シャルロアはフェーベ茶という薬草茶の1つを選んだ。実家でよく飲んでいたので馴染みがあるし、飲むと心が落ち着く作用があると言われている。
 次の休みがいつになるか分からないので、とりあえず一月分購入して露店を離れた。
 それから本屋に向かい、本日の最大の目当てである本を数冊買って、夜の暇つぶしに雑貨店でレース編み用の糸を買おうと思いついた。
 本は読めば目新しさを失ってしまうが、編み物や裁縫は作業であるため暇つぶしには適している。特にレースは服の裾や袖、ハンカチにも縫いつけられるのでいくら編んでも無駄にならない。まさに実益を兼ねた暇つぶしなのである。
 目指すのは士官学校時代より贔屓にしていた雑貨店。
 しばし歩いて、久しぶりに訪れた雑貨店のドアノブに手をかけた瞬間、背後から呼び止められた。

「ロア?」

 懐かしい声に驚いて振り向く。そこには士官学校時代の友人、ローレンノ・ユーグスエが立っていた。
 驚いて目を瞠るシャルロアに対して、ローレンノも若葉色の目を丸くして固まっている。2人ともここで出会うのは予想外のことだった。

「レ、レン?え、だって今日は安息日じゃないでしょ?学校はどうしたの?」

 シャルロアは休日をもらったので王都に出て来れたが、学生であるローレンノは違う。士官学校の休日は基本的には安息日と祝日だけであり、今日のような平日に休みがあるようなことは滅多にない。
 だが彼女は士官学校の制服ではなく、レースのついたシャツと赤い格子柄のスカートという非常に女の子らしい私服でそこにいる。休日の出かける日にしか見ない格好だ。
 ローレンノは授業をサボるような生徒ではないから、今日が授業日だとは考えにくい。
 つまりは学校が休みなのだろう、と推測は出来るが、この時期に授業がなくなる理由がシャルロアには思いつかなかった。
 それこそ、事件でもない限りは。
 嫌な想像が巡って思わず苦い表情を浮かべると、それに気付いたローレンノが手を振った。

「あ、違うわよ。別に学校で何かあったんじゃなくて、今日は試験明けなのよ」
「……試験?」

 答えを言われても、シャルロアにはさっぱり事態が把握出来なかった。何せこの時期に試験があった覚えなどない。あるとしたら卒業試験くらいなものだが、それをするにしたって一月ほど早すぎる。
 まさか今年は前倒しだったのか、とますます眉根を寄せるシャルロアを、ローレンノは昼食に誘った。

「とりあえず、昼食でも食べながら近況報告といきましょ。あんたとの別れも急だったから話も何も出来てないし、あれからのことも知りたいでしょ?」
「まぁ、うん」

 それもそうだ、と頷いて、彼女と出かけたときにはお馴染みの飲食店に入った。士官学校生や学生を客層としているため、学生にとっては値段が良心的な店で、シャルロアたちのような若い青少年たちがよく利用している。
 いつも通りの献立を頼んで食事が来たところで、やっとお互い近況を話す心持ちになった。

「驚いたわよ。急に寮長からあんたの荷物を箱詰めにしてほしいって言われてさ。聞いたら第4師団長付きの事務員になったって」
「あぁ……うん。荷物はありがとう。本当に助かった」
「いいわよ、それくらい。それより、なんでそんなことになったわけ?」

 紺色の長い髪をまとめながら訊ねてくる友人に、どう説明しようかとシャルロアは戸惑った。まさかあの――学校長の肩に氷柱を蹴りこんだ副師団長に勧誘された経緯を事細かに言えるわけがない。

「あー、第4師団の事務員って長続きしない人が多かったらしくて、私が入るまで事務員がいない状態だったんだって。それで、まぁ……校長に氷柱蹴りこんでるところ見てても気絶しない事務員が欲しかったみたいで、偶々目をつけられたっていうか」

 たぶんこれは、あながち間違ってないと思う。少なくともファルガ・イザラントはあのとき、花が枯れるように倒れた子女たちを第4師団の事務員に引き入れることなど考えもしなかったはずだ。彼が――彼らが欲しかったのは、最低限『凶悪』犯罪にしがみつける根性を持った事務員だったのだから。
 しかしその基準は、ローレンノにとっては異様なものであったらしい。もの見事に頬が引きつっている。

「噂に違わず、第4師団……」
「違ってる。実際の第4師団の方が酷い」

 なにかと言えば婚姻届を紛れ込ませてくる師団長、自分の顔を利用することに一切戸惑いのない団員、字が汚すぎる副分隊長、やたら力で解決したがる分隊長、きわめつけは問題児の『雷鳴獅子』だ。人間関係だけでも頭が痛いのに、事件の方も洒落にならないほど陰惨なものが多い。確かにこの仕事は蝶よ花よと育てられた貴族子女には向かない仕事である。
 どんよりと「酷い」と漏らせば、ローレンノが若干引いた。

「シャルロア、大丈夫なの?寮長がすごく心配してたけど」
「入団した直後にえげつない事件に巻きこまれた。でもそれで辞めずにいるから、これからどんな事件があっても大丈夫だってお墨付きもらったわ」
「私、第4師団付きの事務員にはならないようにするわ……」

 それがいいと思う、とシャルロアも頷いた。陰惨な事件の書類を整理し続けたおかげか、今では事件のことを思い出しながら肉が食べられる。一月ほどの労働でこれなのだから、繊細な感性を持ち続けたいのであればおススメしない仕事である。

「それで?レンの方は卒業大丈夫なの?」

 目下気になるのは、その点だ。今年、卒業生が出ないことはファルガ・イザラントから聞かされていたが、その後の風の噂だと10年前級の卒業試験に受かれば騎警団に入団出来ると聞いた。
 ――副師団長の言葉は間違ってない。
 劣化した士官学校生。総務部門はともかく、騎士・刑事・消火部門から10年前級の卒業試験合格者が出るとはとても思えなかった。『バルバンサ』の弱点さえ知らなかった騎士候補生たちが、実技で騎警団のお偉方が頷けるほどの実力を示せる可能性は低い。
 シャルロアの予想を肯定するように、ローレンノはため息をついた。

「私はたぶん、無理に師団を狙わなければ入団出来ると思う。総務部門からは卒業者は出るんじゃないかって話だし……事務員が足りてないって話は士官学校でも聞くわよ」

 ローレンノは成績で見るならシャルロアよりも幾ばくか上位にいた。だからその言葉に嘘はないだろう。
 ―― それに、確かに事務員の手は足りてないからなぁ。
 寮で会った先輩の話を聞く限り、どこの基地も事務員不足に悩んでいるようだ。事務はある程度学がなければ出来ぬ仕事だし、女性団員が多いところは結婚や出産、育児を理由に退職する人が少なくはないので人手の維持に苦労するようだ。
 しかしそんな状況であっても、成績が50位よりも上ならば卒業出来る、という具合だ。騎警団は劣化した士官学校生ならば猫の手よりも欲しくない、と思っていることの表れに他ならない。やはり士官学校生が置かれた状況は厳しいと言わざるを得ない。

「今回の試験でとりあえず手ごたえはあったから、卒業試験は受けられると思うんだけど」
「そう、今の時期に試験があるって異例だよね?」

 卒業試験を控えたこの時期に別の試験があるなど、シャルロアは在籍中に聞いたことがない。怪訝に思って問えば、ローレンノはうんざりした様子でキャラバを飲んだ。

「騎警団の意向で、今年は卒業試験を受けられる人間が限られるんだって。つまり今回の試験は『卒業試験を受けるための試験』ってこと。これに合格しないと、卒業試験すら受けさせてもらえないの」
「なんでまたそんなことに……」
「ダメな奴をふるい落として、早く知識と技術を叩きこみたいんだってさ」
「あー……」

 騎警団と学校は、見込みのありそうな人間には卒業試験へ向けて集中させ、それ以外は徹底的に一から教え直す、といった手法を取るつもりらしい。
 冷徹だが無駄のない方法だ。何せ今年の卒業生はこれから1年間で足りぬ知識や技術を補わなければならない。他の学年に比べて圧倒的に不利な状況なのだ。だからきっと早々に見切りをつけて、出来の悪い生徒たちには知識と技術を詰め込み直すことにしたのだろう。
 ――卒業試験を免除してもらってなかったら、私も合格出来てたかわからないな。
 10年前級、というのがミソである。おそらくは総務部門の試験も難易度が高かったはずなので、シャルロアも必ず合格出来る、とは言い難かった。
 ―― そういうのも見込んでの交渉だったんだろうし。
 ファルガ・イザラントが提示した利点はシャルロアにとって、とても価値ある利点だった、というわけだ。
 この裏取引が知れたら、学校に在籍する士官学校生に罵られそうではあるが、シャルロアはこう反論する。「ならお前が『雷鳴獅子』に目をつけられてみろ」と。
 あの取引は利点に対しての欠点が大きくもあるのだ。諸刃の剣である。
 気が遠くなりそうな考え事は隅にやり、とりあえず卒業試験を見据えることが出来そうな友人に対し、騎警団に入る前にやっておいた方がいいことを助言しておくにする。

「余裕があるなら、今の内に事件資料とか見て慣れておいた方がいいよ」
「事件資料?」
「第6師団だと空きがないけど、第2師団付きの事務員になら空きがある、って言われたらさ、レンは入団する?」

 自己否定の気はない友人は、あっさりと頷いた。

「そりゃ、師団に入団出来れば出世街道だもん」
「だよね。だからもしものために事件資料に慣れておいた方がいいよ。遺体写真とか添付されてるから」
「あぁ、なるほどね……ったって、どこで見れるのよ」
「確か図書室の特別閲覧室に、刑事部門用の事件資料の写しがあるって聞いたことがあるから、申請して見せてもらえば?刑事部門の生徒じゃなくても見せてもらえるでしょ」
「やっぱエグいかな……」

 二の足を踏むローレンノに、シャルロアは虚ろな笑みを返す。

「第4師団よりえげつない資料はないと思うよ。第2管轄なら殺人事件の遺体だろうから」
「聞かないわよ、明らかに爆発物そうなえげつない資料の話は聞かないわよ!」
「守秘義務があるから、どっちにしろしゃべらないよ」

 美味しい食事をわざわざ不味くする道理もない。ローレンノも同意見だったのか、さっと話をすり替えた。

「事件と言えばさ、同級に刑事部門の男子生徒と付き合ってた子いるでしょ?」
「んん?誰だっけ?」
「あんた……相変わらず色恋沙汰に疎いわね。ほら、亜麻色の髪のカトゥーリよ。ほんわかした子で、美男って噂の生徒と付き合ってた」
「んー、あー、女の子は思い出せる。彼氏いたんだ。それで?」

 正直言って、男子生徒の顔はまったく思い出せなかった。以前であれば思い出せたかもしれないが、今は美男と言われて真っ先に思い浮かぶのはエレクトハの顔だ。
 ――まずいな。
 シャルロアは密かに戦慄した。彼の美貌に負けて、士官学校時代に美男だと噂されていた男子生徒の顔が思い出せなくなってしまったらしい。恐るべきエレクトハの美貌である。

「別れちゃったのよ。男子の方から『試験に集中したい』って別れを切り出されたみたい」
「はー。まぁ、一生がかかってるもんねぇ」
「……あんた、他人事みたいに言ってるけどそうも言ってられないわよ」
「は?」

 士官学校から離れている間に起こった出来事に、どうして他人事のように構えていてはいけないのか、と小首を傾げれば、ローレンノはにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。

「今、士官学校じゃ別れる恋人たちが多いの」
「えぇ……試験が近いから?なんか殺伐としてるね」
「違う違う」

 ローレンノは軽く手を振る。

「あんたが殿下相手に喧嘩売ったでしょ?それの影響で、騎士候補生相手に口だけの婚約したお嬢さん方が、次々と別れを告げてるわけ」
「はっ?」

 シャルロアは食べる手を止めた。
 ――いや、いやいや。
 確かに自国の王子相手に、やけっぱちで喧嘩を売った感は否めないが、それが騎士候補生を婚約者としていたはずの女子生徒が別れを告げる行動に繋がった理由がわからない。
 眉根を寄せるシャルロアに、ローレンノが薄く笑う。

「あのね、騎士候補生たちの令嬢への溺愛は思った以上に嫌悪を抱かせてたわけよ。考えてもみなさい、自分の婚約者がデレデレと他の令嬢に優しくしてる姿を見せられることを。それに耐えられなくなった子女は学校を辞めるか、辞めさせられたわけだし、必然とあの時点で騎士候補生を婚約者としながらも学校に残ってた子女は、健気で我慢強い子ばかりになる。文句をぐっ、と我慢して、いつか婚約者の目が覚めることを願ってた子猫ちゃんばっかりだったってことは予想出来るわね?」

 シャルロアは表情を緩めぬままに頷いた。ローレンノの言うとおり、婚約者が令嬢に必要以上に接するのを諌めたり、文句を言ったりした子女は疎まれて、学校を辞めさせられるか辞めるかした。だから学校に残った騎士候補生を婚約者に持つ子女たちはじっと耐える忍耐力がある者ばかりだった。
 ――だからよけいにつけ上がったんだろうなぁ。
 今振り返ってみれば、異常な事態である。さっさと疑問に思うなりおかしく思うなりして、外部に助けを求められていればよかったのだが、腐敗した教員と劣化した士官学校生では現状把握すらままならなかった。

「でも子猫ちゃんたちだって人間なわけだから、負の感情は溜まるわよねぇ。でもそれは吐き出せない。言ったら婚約者に嫌われしまう。そんな鬱屈とした日々の中で、あんたが颯爽と登場した」
「颯爽とって……」
「『1人の女に貢がされるだけ貢がされてる事実に気付くこともなく、そのくせ愛の1つも勝ち得ない馬鹿男どもがすり寄ってこないのは、むしろ願ったり叶ったりですね。凡人万歳です』と言っちゃったロアのおかげで、耐えてた子はみんな忍耐という魔法から目が覚めた。恋の相手としても、政略結婚の相手としても、貢がされてることに気付きもしない馬鹿男を夫にして家庭が安定するわけがないってね」
「落ち着け」

 シャルロアは頭を抱える。ローレンノの言うこともわかるが、それでも騎士候補生たちにも情状酌量の余地はあるのだ。
 彼らが令嬢にメロメロになっていたのは、魅了魔法をくらっていたせいであって、彼らが好き好んで浮気をしたわけではない。そうせざるを得ない心持ちに引きこまれただけなのだ。だからすべてを彼らのせいにするのはかわいそうなのでは、と言おうとすると、予想していたのかローレンノが肩をすくめた。

「もちろん、元の鞘に収まった人もいるわよ。誠心誠意謝ったり、それを広い度量で許したりした恋人たちはそうなった。でも魅了最中に婚約者相手に『魔女の一撃』をくらわせた男子生徒は、ポイッとされちゃったの」
「魔女……あー、暴言とかかぁ……」
「そういうこと」

 魔法が解けた子女たちは、厳しい目で騎士候補生たちの言動を見つめ直し、人間性を見定め、決意を固めたのだ。それならばもはや他人にどうこう言える問題ではない。
 ――でも、悪いことしたかも。
 名目上、士官学校内では生徒は平等である。なのでシャルロアの王子に対する暴言は目をつむってもらっている――むしろ国側が望んで黙っている可能性が高い。まがりなりにも自国の王子が間諜の魅了魔法で頭がお花畑状態になっていたわけだから――ために、不敬罪などの処罰はなかったので安心していたが、その余波があるとは思いもしなかった。
 自身の行動が多くの人に影響を与えたことに苦い表情を漏らすと、ローレンノは彼女の心を慰めるように首を横に振る。

「別に、あんたが原因で別れたってわけじゃない。きっかけになったってだけよ」
「きっかけねぇ……」
「シャルロア自体には、女子生徒は好意的よ?下級生なんて、あんたのこと『銀の君』って呼んでるんだから」

 それは慰めの言葉ではない、とシャルロアはため息をつく。

「『○○の君』なんてまるっきり男子生徒への美称じゃないの……」

 士官学校の中で『○○の君』と呼ばれるのは、大抵美男子か、成績が著しく良い男子生徒に限られる。つまり結婚を考える相手として人気者である、という意味合いだ。
 なんでそんな大層な美称が自分に、とうんざりすると、ローレンノはケラケラと笑いながらフォークで葉野菜を刺した。

「女子生徒の心を代弁して殿下に喧嘩売った上、第4師団に入団したなんて並みの男じゃ出来ない雄々しいことをやってのけたんだから、ありがたく頂戴しときなさい」
「所属は第6なんですけど」
「仕事場は第4なんだから、そう変わらないと思うわ」

 シャルロアは口を尖らせる。傍から見れば同じでも、中で働いてみれば意味がまったく違うのだ。
 自分が事務をこなしていた3週間、第4師団員たちは大なり小なり、戦闘をして事件を解決に導いた。魔物だったり人間だったりと相手は多様だが、話を聞くだけでもよく無事で帰って来れたな、と呆れたくなるほどの戦場から戻ってきていることもある。シャルロアならばその場に放りこまれただけで、即死亡だな、と思える現場だってあった。
 ――エレクトハさんとか、あの顔でさらっと死線越えてるんだからすごいわ……。
 士官学校にいたらまず間違いなく、美称で呼ばれる類の人間である。
 そんな思考が漏れたわけではないだろうが、ローレンノが問いかけてきた。

「あんたはないわけ?何か、師団ならではの恋の話とか」
「ない」

 実際はないどころか、自分が巻きこまれているわけだが、それを言うと面倒なことになりそうなので、シャルロアはばっさりと切って捨てた。
 しかしローレンノは不満げな声を漏らし、抗議する。

「ないわけないでしょ?あんた、精鋭に囲まれて恋の一つもしてないっての?」

 シャルロアはにっこりと微笑んだ。

「確かに精鋭だよ。だけど謀が洒落にならないくらい黒くて、任務を嫌がった部下に脱走容疑で団法会議にかけるってにこやかに言う師団長と、顔がいいのを自覚して女の子から情報ふんだくる気満々の団員と、字が下手くそで報告書が紙ゴミに変わる副分隊長と、生真面目かと思いきや何かと言っては『もう力でねじふせればいいじゃねぇか』って細かい作戦を面倒臭がる分隊長と、学校長に氷柱を蹴り入れた『雷鳴獅子』が働く職場のどこにイイ男がいるのか小一時間話し合おうじゃない」
「第4師団恐い」

 シャルロアも頷いた。そういう普通の感性は持っておいて然るべきである。





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 ローレンノと昼食を食べ終えて別れたあと、シャルロアが細々としたもの買ってから寮に戻ってくると、空は茜色に変わっていた。その色に染まった自室――共有空間の机に手紙が置かれているのをシャルロアは見つけた。寮の管理者が郵便物を届けてくれたのだろう。
 送り主を見れば、母からだった。それを確認して、二週間ほど前に手紙を出しておいたことを思い出した。主に士官学校を出て第4師団長付きの事務員になったことと、もしかするとファルガ・イザラントに魔女であることを見抜かれたかもしれない、ということと。
 返信を見るため、封を開けて広げてみる。懐かしい母の字が、シャルロアの心にじんわりと沁みた。
 否。沁みたのは字だけではなく、言葉もだった。
 今年は冷夏だから、豆の出来が悪いのではないかと今から心配しているとか、豆嫌いの弟は密かにそれを喜んでいるとか、父は相変わらず剣ではなく鍬を作っているとか、シャルロアが実家に置いてきた日常を書き運んでくれている。
 なにより『ケレバ嫌いを一家総出で治してあげるわ』とあるのには、口元が緩くなった。
 これは家族内で決めた暗号のようなものだ。手紙にそのまま「誰それに魔女であることがバレました」なんて書けないので、そういう報告が必要になった場合は「ケレバ嫌いが誰それにバレました」と書くことになっている。今回の場合は「ケレバ嫌いがファルガ・イザラントにバレたかも」というふうに書いた。
 その返信「一家総出で治してあげる」というのは、『一家総出で逃げる準備はいつでも出来ている』という意味だ。
 どうしてバレるようなことをしたの、と責めるわけじゃなく。
 縁を切る、と言うわけでもなく。
 ただただ、一緒に逃げると言ってくれる。
 友人や恋人に決して打ち明けられない秘密を、家族が一緒に背負ってくれているから、シャルロアはこれまでの人生で空しさを感じたことがない。
 自分には理解者がきちんといるのだ。
 家族のあたたかな言葉と思いがある限り、シャルロアは絶対に家族を危地に追い込むようなことはしないし、自身も生き延びてやる、と誓える。

「ありがとう、お母さん、お父さん、アルコ」

 両親と弟に深く感謝し、シャルロアは手紙を自室の机の引き出しにしまった。





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「あ、メルちゃーん」

 ――食事時間、なんであと20分ずらそうとか思わなかったんだろう私馬鹿!
 そうすれば家族から心温まる手紙をもらった穏やかな休日、で締めくくれたのにと、本気で涙しそうになる。しかし休日とはいえ、先輩であるエレクトハに呼ばれた彼女は、食事を乗せた盆を持って彼が座る席に近付いた。
 食堂は繁雑期を過ぎたおかげで人がまばらだった。故に、シャルロアはエレクトハに見つけられたのである。
 彼は花も恥じらう美しい笑みを浮かべ、どうぞどうぞ、と席を移動した。

「いや、わざわざ移動していただかなくてもいいですよ」
「あはは、メルちゃんのために動いたんじゃないよ。我らが副師団長のために移動したんだ」

 我関せず、といった様子で黙々と食事を進めているレッティス分隊長の正面。シャルロアに譲られた席の隣。

「よう、ロア。3日ぶりだな」

 天敵とも言えるファルガ・イザラントがニヤニヤと嗤っていた。

「お疲れ様です、副師団長」
「勤務時間外」

 いつもの指摘は無視して、シャルロアはひっそりとため息をついてからファルガ・イザラントの隣に座った。彼女の正面にはエレクトハが安堵した面持ちで座っている。
 ファルガ・イザラントと会うのも3日ぶりだが、レッティスやエレクトハと会うのも3日ぶりだった。ここ最近、彼らは王都外の事件を追っているので、師団に帰還していなかった。

「レッティス分隊長とエレクトハさんもお久しぶりですね。事件は解決したんですか?」
「僕たちの方はねー」

 人好きのする笑顔でエレクトハが答える。やはり彼は、士官学校に入学していれば『○○の君』と美称がついた類の人間に違いない。

「イザラント副師団長の方はまだだな」

 パンを食べ終えたレッティスがエレクトハの回答に補足を加える。

「こっちは『猫』と共同捜査だから仕方ねぇな」

 退屈そうに目を眇めたファルガ・イザラントは、ふと思い出したように、金の瞳をシャルロアに向けた。

「そういえばお前、実家が東の方にあるんじゃなかったか?」
「はい?そうですが」

 話したことのない実家の位置を知られているのには、あまり驚かなかった。そんなもの彼の地位ならば調べようと思えばいくらでも調べられるのだ。
 それよりも、彼が今ここでそれを話題にする意図が把握できず、困惑する。
 思わず眉をひそめたシャルロアに、ファルガ・イザラントは太い笑みを返した。

「そう警戒すんな。お前、家族に手紙は書いてるか?」
「まぁ、筆まめな方ではないですが、それなりに」
「東の方でも注意は促してると思うが、家族に怪しい儲け話には気をつけろって改めて忠告しとけ」

 ファルガ・イザラントの言葉で思い出したのは、北東にある領都の一つ、チェットスダートルにて現在若者の行方不明が増加傾向にあるという報道だ。ファルガ・イザラントがどんな事件を追っているのか知らないが、もしかするとそれ関連のことを追っているのかもしれない。
 ――第5も関与してるっぽいし。
 どうにもきな臭い忠告を、とりあえずシャルロアは頷いて受け入れた。部屋に戻ってから書く手紙で忠告をしておこう。両親は別として、家には弟がいる。充分若者の範囲だ。

「そういえばメルちゃん、今日は休みだったんだって?何してたの?」

 わずかに緊張した空気を散らすような、やわらかな声音でエレクトハが質問してくる。

「買い物と、偶々会った友人と昼食をしたくらいですね」
「健全だな」
「まんま士官学校生(ガキ)の休日だな」
「友人って、女の子?」

 レッティス、ファルガ・イザラント、エレクトハの順番でそれぞれ好き勝手に言ってくれる。なんとなくファルガ・イザラントの言葉にムカついたのと、エレクトハへの牽制をこめてシャルロアは否定を口にした。

「友人は男子ですが?」
「ぶふっ」

 ちょうど水を口にしていたエレクトハが軽く吹いて、肩を震わせる。シャルロアが胡乱な視線を向けるも、それ以上に生温い視線がレッティスとファルガ・イザラントから向けられた。
 何ですか、と彼女が問う前に、気管に入った水を咳で出し切ったエレクトハが苦しげに笑った。

「死ぬっ、笑いすぎて死ぬ……!メルちゃんそれ、どう聞いてもイザラント副師団長にヤキモチ焼かせたい彼女の言葉にしか聞こえない……!」

 ――なん、だと。
 唖然としているシャルロアの横で、ファルガ・イザラントが目を細めた。

「なんだお前、ヤキモチ焼いてほしいのかよ?かわいい奴だな」
「かわいくないですよ」

 シャルロアはバサッと切って捨てた。

「他の異性の存在をダシにしてヤキモチ焼かせるような女って、誠実さがなくて嫌じゃないですか?」

 少なくとも自分は恋人や気になる人にそんなことされたら、一瞬で情熱が冷めそうな気がする。士官学校で女子たちの恋の話を聞いたりもしたが、恋人や婚約者の愛を疑って他の男子と仲良くするところを見せつける女子生徒の話は、ちょっと引いてしまった。愛情を疑わせた男子にも非はあるかもしれないが、それにしたってその気の惹き方はない。
 シャルロアがそう言うと、男性陣はそろって残念な子を見る目になった。

「お子さまだな……」
「ガキか」
「メルちゃん、恋には駆け引きって楽しいものがあってね……まぁ、恋人にやられると嫌だけどさ、不安にさせちゃったぶん、そういうことにあえて乗っかってあげるのが大人の男と言うか」

 否定するのがエレクトハだけならば、これが世の女性を惑わせるモテ男の技かと流せたのだが、ファルガ・イザラントとレッティスにまで呆れた表情をされると、自分が世間一般の常識から外れているような気分になる。
 ――いやいや、そんなわけないから!
 第4師団は、常識の枠から外れた連中ばかりである。そんな彼らの言うことが正しいはずがない。
 ―― そうよ、あの著名な『曲芸師の靴』の主人公も言ってたじゃない!

「“恋は橋ではない。綱渡りだ。故に、右を見たり左を見たりすれば落ち、二度と歩めない。”そうですよ、お三方。士官学校の男子生徒みたいにならないように、お気を付けて」
「お、『曲芸師の靴』のレーヒットの言葉だね」
「ツッコむべきはそこじゃねぇだろ。士官学校?」
「んぐっ」

 エレクトハの茶々をレッティスが黙らせる。拳で。机の下からゴス、と人体から聞こえてはならない音が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。エレクトハが蒼い顔で机に突っ伏したのも、その音とは関係ない、と思うことにした。
 だが疑問に答えなかった場合の制裁が恐いので、シャルロアは持っていた情報をペロリと吐いた。

「令嬢に熱を上げてた騎士候補生たちが、婚約者に愛想を尽かされてポイッとされてるらしいです」
「婚約を白紙にって、生徒同士が出来るもんか?」

 レッティスの疑問に、ファルガ・イザラントは「出来るわけねぇだろ」と肩をすくめる。

「基本的にお貴族様の義務は政略結婚も含まれてんだ。庶民の結婚たぁ理由が違う。家同士の繋がり、国を繁栄させるための結婚だ。だから士官学校生ごときが勝手に白紙に出来る婚約っつうのは、いわゆる口約束の部類だろ」
「そんな感じらしいです」
「あはっ」

 馬鹿だなぁ、と言うのをかろうじて押しとどめたエレクトハの笑顔が輝く。とても清々しい。シャルロアも似たような感想ではあったが、彼のような女たらしが述べる感想は重みが違う。男として、捨てられた男子生徒たちは本当に馬鹿だったんだな、とまざまざと思い知らされた。
 追いうちのように、エレクトハはつけ足した。

「恋は追うもの、恋愛は向かい合うもの、愛は並び立つものっていうでしょ。気を惹いてる途中ならともかく、恋人や婚約者の関係で、顔ごと『右を見たり左を見たり』したら『縄から落ちる』ってことくらいわかんなかったのかなー」
「今、谷底でそれを理解してるだろうよ」

 くつくつと喉で嗤って、ファルガ・イザラントはシャルロアに意味深な視線を寄こす。

「俺は罠は仕掛けるが、獲物一直線だから安心しろ」

 ――全然安心出来ねぇぇ!
 とは思っても、自分に話しかけられたわけではないのだ、と強く言い聞かせ、シャルロアは彼の言葉を黙殺して、食事を進めたのであった。














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