ひっ、と息を呑んだのは一瞬のことだった。 考える前に、身体が勝手に動いた。 シャルロアは両腕を跳ね上げ、腹部に回されかけた腕と口を覆っていた手を弾いた。手から離れたランタンが宙を舞ったが、気にしていられない。弾いた腕を取って、背負って投げようと背を丸めた。 しかし背後の人物は巧みに重心をずらし、それを逃れる。さらにシャルロアの手を簡単に振り払った腕が、身体を拘束するように巻きついた。 丸めた上半身が、強制的に伸ばされ、再び口を覆われる。払いのけようとしたが、シャルロアの腕はまったく動かなかった。 ――マズい。 ようやく頭が回りだしたシャルロアは、冷や汗を流した。一度目と違って二度目の拘束は完璧であるため、跳ねのけることが出来ない。返し技を封じられているうえ、背後の人物とは力の差がありすぎるのか、シャルロアが暴れてもビクともしない。 体格差と力からして、男だろうと断定する。衣服越しでも熱を感じる。盗賊だろうか。まさか本当に出るだなんて思わなかった。仲間はいるのか。魔女の異能を使うべきか。しかし口を塞がれている今、魔法のようなものを使ったら確実におかしく思われる。しかし使わなければ危うい。 ――命あっての物種。 散らばった思考の中で、一閃する。 ――言い訳なんて後から作ってやる! 銀色の蝶を現す。蝶が足元の石に触れた。 「赤点だ」 皮肉めいた低い声。 どっ、と心臓が跳ねた。 ゴロ、と喉を鳴らしながら、背後の男は強張ったシャルロアの肩にアゴを乗せた。 その重さに痛みすら覚えつつ、彼女は視線を真横にずらした。どうか予想が間違いであってくれ、と切に願いながら。 「よぉ、奇遇だなァ?」 『雷鳴獅子』は月光を浴びて、愉悦げに笑んでいた。 ――なんで、ここにいるの。 幻であってほしい、と思うのに、背中や肩から伝わる熱がまぎれもない本物であることを証明する。予測外の出来事に脳が現状分析を放棄しそうになるが、それをなんとか留めた。 この男を前にして、考えられなくなったら一巻の終わりだ。 とりあえず、蝶を消すことで石を持ち上げようとしていたことを中止する。まだ1ミリも動いていなかったので、さすがのファルガ・イザラントも目に留めなかったはずだ。 ――あと1秒、判断が早かったら致命的だった。 ファルガ・イザラント相手に、上手い言い訳なんて出来ない。 詰み。その単語が重くシャルロアにのしかかった。 鼓動が暴れ馬のように速くなる。 ――しっかりしろ、まだ大丈夫。異能はバレてないんだから……! 「いいか、吐いて現場を汚すなよ」 囁きかけられた忠告に、シャルロアは素直に頷いた。それでやっと、口を覆っていた手が外される。 呼吸が楽になって一息つきたいところだったが、そんなことをしていたらファルガ・イザラントに話の主導権を持っていかれてしまう。ここにいる理由を作れていない今、質問をされるわけにはいかないのだ。彼を納得させられるような言い訳を思いつくまで、のらりくらりと会話で時間を稼がなければならない。 シャルロアは無理矢理に口を開いた。 「とりあえず、赤点って何のことですか、副師団長」 「あぁ?体術のことに決まってんだろ。あんなんで、よく合格もらえたな」 「どう考えても副師団長が特殊ですよ……」 シャルロアが実践しようとした体術は、腐っても士官学校で仕込まれたものだ。力量の差からファルガ・イザラントに勝つのは無理だとわかっていたが、拘束すらまったく解けないのは予想外過ぎた。投げようとしたのに、何故この人投げられていないのだろうか。理解がまったく及ばない。 「お前、抱きつかれたときに男かどうかわからなかったのかよ」 「投げに失敗してから気づきました」 「投げる前に気づけ。それで投げるために上半身を曲げるんじゃねぇ。相手の足をすくうために曲げろ。1回目の好機を逃したから、こうやって拘束されてんだぜ」 「はい、ものすごく身に染みたので、もう解放してもらえないですかね?」 「その前にてめぇに訊きたいことがあ」 「っていうか、そもそも何故副師団長がこんなところにいるんですか」 一瞬ひやりとするような間が空いてから、ファルガ・イザラントは答えた。 「仮眠を取ったあとに、ふと閃いた。第1被害者と第2被害者では、遺体の傷……つまり殺害の熟練度がかなり違うってな。第1被害者はボコボコに殴られた形跡があるのに、第2被害者の殴打痕は1発だけ。妄想で模擬殺人を繰り返して練習したにしても、熟練しすぎている。アレは間にもう1人被害者を挟んでんじゃねぇかと思ったんだよ」 ――しまった、その観点からの手がかりがあったか。 パポヴォットの記憶に固執し、そういった示し方があることに気づけなかった。 内心悔やむシャルロアを、ファルガ・イザラントは睥睨する。 「そうなると、お前が言ってた楽譜がやたら気になった。師団長に確認したら、書かれた曲は初期と後期でかなり曲調が違うらしい。特に最後の方の5曲は負の感情が生々しく出てるっつってな。もしそれらの曲が被害者を殺したことで閃いた曲だったとしたら、やっぱり被害者はもう1人いる可能性が高い。で、お前はその内の1曲を森のような曲だと言ってたから、パポヴォットの自宅から近い森をしらみつぶしに歩いてみるかとやって来た」 なるほど、とシャルロアは口に出さずに納得する。どうやら自分は――よけいなことをしたらしい。 ――あぁもう本当馬鹿、大人しく副師団長が気づくのを待ってればよかった! もう少し。もう少し自分に堪え性があれば、すべてはシャルロアの思い通りの展開となっていただろうに、無念すぎる。というよりも、ファルガ・イザラントと自分は時機の相性が悪いのではないだろうか。 今までのことを振り返るとそんな気がして、ファルガ・イザラントは改めて天敵だなと認識する結果になった。 「すると、不思議なことにこんな場所でお前に会ったわけだが」 シャルロアの腕を握る褐色の手に、わずかに力が込められた。 偽りは許さない、とでも言うように。 「お前は何故ここにいる?」 冷えた声は、狩りをする前の咆哮であるように思えた。 叫ばれたわけではない、むしろ、囁かれただけなのに心臓が凍りつくような心地になる。こんな声音を向けられて、真実を喋らない愚か者がいったいどの程度いられることか。 しかし彼女の口は凍ることなく、するりと真実ではない言葉を紡いだ。 「なんでって、ペッティ狩りですが?」 森の静寂がその場を支配する。 「は?」 ファルガ・イザラントから、めずらしく間抜けた声音が漏れた。 「ですから、ペッティ狩りです。知らないんですか、ペッティって今すごく女子に人気の果実なんですよ。食べると肌にすごくいいらしいですし、体重減量にも効果的なんですって。特に南で採れるペッティが質がいいらしいですよ。私もこれで女子の端くれですから、流行に乗るっきゃないと思っていたところだったんですよね。ちょうど第4師団にデバイドウォーネ基地の書類が紛れ込んだので返しに行かなければならないってお話があって、私自身この前基地に行ったときにペンを落としていたので、志願したんです。それで書類を返して、ペンを見つけたあとに、ふとシェルダールダでもペッティが採れる森があったなぁーっていうのを思い出して。思い出したら食べたくなるじゃないですか。ってことで馬を借りて、地元の人に穴場を聞いて採りに来たんですよ」 「…………」 「ちなみにペッティの栄養素は加熱しても壊れないのでジャムにするのにとても」 「あー、いい。おう、お前すげぇな。俺の意表を突くってなかなか出来ねぇはずなんだが」 ファルガ・イザラントはシャルロアの肩に額を当てて、くつくつと嗤い始めた。 「ペッティ狩り……くっくっ……」 毒気も何もない言い訳は、功を奏したようだった。 ファルガ・イザラントがこの言葉を信じるとはとても思えないが、それはおそらく何を言ったところで同じことなのだ。もう1人被害者がいることに気づいた様子がなかったシャルロアが、隠されていた遺体のもとにいる不自然はどうやっても拭えない。 だからもう、この際とびっきり気が抜けるような言い訳を選んだ。追求するのが馬鹿馬鹿しくなるような、頭の悪い言い訳を。 しかし理由が奇抜なだけで、これを嘘だと断じることは出来ないはずだ。ファルガ・イザラントはおそらくこの言い訳を信じていないが、否定できる材料を持っていない。師団長に確認したところで、シャルロアがデバイドウォーネ領に来た理由は一致するのだから。 ――副師団長は、私の思考を覗けるわけじゃない。 シャルロアが何を考えてここに来たかは、シャルロアだけが知っている。証拠は頭の中だ。彼にはそれを取り出すことが出来ない。 「ペッティ狩りなぁ……」 「人を変人のように言わないでいただけませんか。まぁ確かに、おつかいついでに私用を済ませようとしたのは悪いことかもしれませんが、軍馬を使ってここに来たわけじゃないですし、見逃してもらえませんかね?」 「あー、まぁ、色気はねぇが私服だしな。見逃してやるよ。どうせ勤務は終わってんだろ?」 「書類を返した時点で終了しました。色気がないってのはよけいなお世話です。そもそもいつまでひっついてるんですか、とても暑いんですが」 ぐるる、と背後の男は喉を鳴らして笑いながら、肩にアゴを置いた。背中に当たる胸板が、わずかに密着したような気がした。 「俺は肌寒い」 「嘘ですよね!この筋肉の塊が寒いはずないでしょう!私よりぬくいじゃないですか!」 「1つ、教えてやろう」 肩から重みがなくなった、と同時に、耳をぬるりと這うものを感じた。 ――え、今、耳。 吐息が吹きこまれる。 「俺は今、勤務時間外なんだぜ、ロア?」 それは『何故ここにいるのか』と聞かれるよりも明確な、死刑宣告だった。 数日前、勤務時間外に2人きりになるような状況になるのは避けよう、と決めた人物が勤務時間外でここにいる。 つまり、2人きりだ。 背後から抱きついて、耳を舐めてくるような男と、2人きりである。 シャルロアが蒼褪めるのとは逆に、ゴロ、と背後の獣が愉しそうに嗤った。 「宣言しておいてやっただろ?勤務時間外は覚悟しろっつってな」 「ふ、副師団長?」 「勤務時間外、だ」 耳の裏に、唇が当たる。 何故だろう。 今、とても、嫌な予感がして堪らない。 喰われるような、気がする。 「ぎゃああああ!ちょっ、ななな何やってんですか副師団長今すぐ離れてくださいここどこだと思ってんですかすぐそばに死体があるんですよ時と場所と場合を考えろぉぉっ!」 叫んで暴れるシャルロアを、ファルガ・イザラントは大した苦もなさそうに押さえこむ。 「別に死体は俺らを見ねぇんだから、いいだろ」 「何1つ良くない!全然良くない!まず私が嫌がっているうえに死体がある場所で性的嫌がらせとかどんだけ倫理観が欠如してるんですか!?落としてきた倫理観今すぐ拾って来い!」 「わかったわかった。ギャアギャア騒ぐんじゃねぇよ、意表を突かれたお返しみてぇなもんだ。意外なことされて、楽しかっただろ?」 手のかかる子供でも相手するかのような態度で、解放された。シャルロアは慌ててファルガ・イザラントから距離を取って彼をキツく睨んだが、ファルガ・イザラントに堪えた様子はなく、むしろにやりと笑みを返された。 ――くそ、余裕か!大人の余裕か!こっちは異能を隠すのに必死で異性との付き合いなんて考えたこともないヒヨコですが!? 文句を言おうかと思った瞬間、金色の双眸が逸らされて、遺体のある場所を見つめる。 どっ、と疲れた。 ――この人といると、油断ならなくて死にそう。 その場が明るくなったので顔を上げれば、ファルガ・イザラントが魔法で辺りを照らしていた。それはランタンの灯りよりも明るく、白い光がシャルロアたちの周りにあるペッティの赤を照らし出す。ファルガ・イザラントはずいぶんと便利な魔法ばかり覚えている。魔力のないシャルロアにとってはうらやましいばかりだ。 「ロア、ここで待ってろよ。先に遺体の状況だけ調べて来る」 「帰っちゃダメですか」 舐められた耳を触りながら言うと、金色の瞳がちらとこちらを見た。 瞳の奥に愉悦が隠れている。 「俺が戻って来たときにここにいなかったら、追いかけてさっきの続きをするぜ」 「待ってます」 「よし」 犬を褒めるみたいにして頷いた彼は、さくさくとペッティの葉を踏みながら遺体のもとへと向かった。シャルロアはその間に、投げてしまったランタンに、もう一度火を付ける。月明かりだけで青々としていた空気に、やわらかな橙色が入り混じった。 ――予定は狂ったけど、遺体を発見させられてよかった、のか。 ファルガ・イザラントが思い通りに動いてくれたわけではないが、一応シャルロアの与えた手がかりをもとに遺体を捜しに来てくれた。これでパポヴォットの罪状が正しく記録される。 ファルガ・イザラントは生い茂るペッティに隠された遺体状況を確認してから、戻ってきた。シャルロアが灯りを持っているためか、ふつりと魔法の灯りが消える。 「腐敗が進んでるが、腹を捌いたあとがある。そばに石とハサミも落ちてた。ありゃあ、パポヴォットの犯行で決まりだろうな」 「そうですか……」 シャルロアはあの被害者がパポヴォットに殺されたことを知っているが、他の人間にはわからない。特に今回の被害者は喉仏を奪われていないのでどう転ぶかわからなかったが、凶悪犯罪捜査の精鋭がそう言うのであれば、他の人間も信じてくれるだろう。 「お前、どっちから来た?」 「町の方からです」 「俺と逆から入ったか。道のりは覚えてるか?」 「草が生い茂っていたので、踏んできました。なのでその道があると思いますが」 言ってから気づいた。どちらにしても、シャルロアがここを訪れた時点でその形跡は残ってしまっていたのか、と。 ファルガ・イザラントがもし今日気づかずに、明日あたりに資料箱を探って被害者の遺品を見つけたとしよう。様々な手がかりをもとにこの森に到達したとき、シャルロアが踏みしめて来た草の道が残ってしまっている。これを怪訝に思わぬ騎警団員はいないだろう。 ――今さらながら、現場に遺品を取りに来るって言うのは、かなり危険な選択肢だわ。 気が急くあまり、視野が狭くなっていた。 次、があってほしくないが、もし次があるなら今回みたいな軽挙は慎むべきだ。ファルガ・イザラントはかなり小さな手がかりでも見逃さない、ということがわかったことだし、今後は大人しくしておこう、とシャルロアは己に言い聞かせた。 「じゃあ、辿って帰るか。デバイドウォーネ基地にも報告しねぇとな」 「え、いや、副師団長」 「勤務時間外なんだが?」 「……は逆から入ったんでしょう?入口に馬を置いて来てるんじゃないですか?」 言外に「別行動しましょうよ!」と訴えたはずなのだが、ファルガ・イザラントはそれを無視してニィ、と口端を吊り上げた。 「馬なんかいるわけねぇだろ。俺、転移魔法持ちだぜ?」 シャルロアは世の厳しさというものを垣間見た。 ――何でだ。何で、私が欲しかったものをこの人が持ってんだよぉぉっ! 自分が移動にどれだけ気を遣い、悩んだことか。いっそ魔女の異能が転移だったら良かった、とまで考えたりもしたというのに。 ひとしきり恨んだところで、恐ろしい事実に気づく。 転移魔法は高 ごくり、とシャルロアの喉が鳴った。 ――この人、どれだけ魔法を覚えてるんだろう……。 そもそも 「……副師団長、どれだけ 思わず問うと、『雷鳴獅子』は底知れぬ笑みを見せた。 「俺を名前で呼べたら、ご褒美に教えてやるぜ」 「さっさと帰って、遺体を調べてもらいましょうか」 情報は欲しいが、親しくなりたいわけではないのでさらりとかわすと、ファルガ・イザラントはあからさまな舌打ちをした。華麗に無視をして来た道を戻り始めると、後ろから足音がついてくる。やはり別行動、というわけにはいかないようだ。 それでも往生際悪く、シャルロアは後ろをついてくるファルガ・イザラントを睨む。 「転移魔法があるなら、先に基地に報告に行った方がいいんじゃないですか?遺体と現場の状況を少しでも早く解析してもらいたいでしょう」 「そらそうだが、お前は馬で来たんだろ。シェルダールダは今、治安が悪い。好きな女が夜道を帰るっつうのに、送らねぇ阿呆はいねぇよ」 シャルロアは辺りを見渡した。 「おい、何で今辺りを見た。どう考えても女どころか人間はお前しかいねぇだろうが」 「うぇっ、えっ、す、すみません」 金色の双眸で睨まれたシャルロアは、慌てて謝ってから前を向いた。 ――びっくりした。びっくりした! じわじわと、面映ゆい思いが胸から頭に上がっていく感覚がした。今、手元にあるのがランタンの灯りだけで助かった、と心底思うほどに顔が熱い。おそらくは耳まで真っ赤になっているだろう。 ――こ、この人、予告もなく、す、好きな、とか言うから心臓に悪い。 だがしかし、今から好きって言うからな、と予告されても心臓に悪いことには変わりない。田舎でも、士官学校でも、魔女の異能のことがあるから異性と距離を置いてきたシャルロアにとって、ファルガ・イザラントの言葉は猛毒に等しいものがあった。 仕事の話ならばいいのだ。魔女だとバレないように会話するのは疲れるが、慣れている。 だがさらりとした口説き文句はどうにも苦手だった。どう流せばいいのかわからない。 ――マズい。冷静になれ。 この際、ファルガ・イザラントの好意が本物か偽物かだなんて、どうでもいい。大切なのは自分が彼の行動に流されないことだ。 魔女であることは、生活をともにするほどバレやすくなってしまう。短眠者は世にあれど、さすがに15分間しか眠らない人間は奇異に映る。結婚し、魔女であることを隠すのであれば、最低でも2時間45分はベッドで何もせずに眠っているフリをしていなければならない。 ――無理。暇すぎて死ぬ。 かと言って、結婚相手に魔女であることを告げる度胸もない。ファルガ・イザラントが指摘した通り、シャルロアは基本的に安定志向の小心者で、もう1つ言い足すならば現実主義者である。魔女への畏怖が色濃く残るこの国で、「愛があれば私が魔女でも受け入れてくれるわ」なんて口が裂けても言えない。愛と憎悪が表裏一体であるならば、偏見は憎悪の親戚だ。魔女という事実を受け入れてくれる人間を探すより、1人で生きた方がいい。 シャルロアは改めて自分に言い聞かせた。 ファルガ・イザラントを好きだ、嫌いだ、と論じてはならない。それ以前の問題として、自分は絶対に結婚をしないのだ、ということを忘れてはならない。 ――副師団長も、今は好奇心にそそられているだけ。 シャルロアが異能をごまかしきれれば、興味を失って離れて行くだろう。そう、嵐が過ぎ去るのを待つような心境でいればいいのだ。 1つ深呼吸すれば、頭に上った熱が下降するのを感じた。わずかに弾んでいた鼓動も、通常に戻る。 「で、お前、前と後ろどっちに乗る?」 「……はい?」 要領を得ない質問に、シャルロアが眉をひそめて振り返ると、ファルガ・イザラントも何故か不思議そうに小首を傾げていた。 「あん?お前、2頭も馬を連れて来たのか?」 「何でですか。1頭ですよ」 「だろ。人間2人に馬1頭。相乗りするしかねぇだろうが」 ――は? 動揺のあまり手が震えたのか、ランタンの持ち手部分がキィ、と軋んだ音を立てた。 「お前が手綱取るなら俺が後ろでもいいが、たぶん俺が走らせた方が速ぇぞ」 「いや、ちょっと待ちましょうか。なんで自然に相乗りする話になってるんですか?」 「何だお前、俺に走ってついて来いっつってんのか?どこの女王様だ」 「やめてくださいよ、想像したら何か恐い!」 疾走する馬を追走する『雷鳴獅子』。恐ろしいことに、想像上の彼は楽々と馬を抜いて行きそうだから恐い。 「そもそも副師団長、馬と相性が良くないんでしょう。ついて来たところで、乗れないんじゃないですか?」 シャルロアとしては的確な指摘をしたつもりだったが、ファルガ・イザラントは一笑に付した。 それから、堂々と言い放った。 「俺は勝負運に恵まれてる。だから今回の馬は乗れる」 結果、馬はファルガ・イザラントを乗せることが出来た。 ******** デバイドウォーネ領都フェバンタに戻って来たシャルロアたちは、とりあえず貸し馬を返しに行った。そのときのおじさんの「へぇ、アツアツだねぇ」と言いたげな視線は記憶から抹殺することにした。別にイチャイチャしたいから相乗りしたわけじゃない。むしろファルガ・イザラントが操る馬の乗り心地は最悪だった。シャルロアが予想する何倍も速かったから、少し酔ったほどである。 疲れてふらふらになったシャルロアは、もう全部を投げ捨ててシャワーを浴びて寝たくなったが、デバイドウォーネ基地に入る前にやることがあった。 「副師団長、お先に基地に戻ってください」 領都と言えど、日付が変わったこの時間帯では歩く人もまばらだ。しかしシェルダールダと違って領都は表通りにある街灯の数が多い。やんわりとした橙色の光が裏路地まで届くことはないが、表通りを歩くくらいなら充分明るく、犯罪に対する不安感が薄れる。 なので1人でも大丈夫だと思って足を止めたシャルロアだったが、ファルガ・イザラントも立ち止まった。振り返ったその顔は、怪訝な色に染められている。 「あぁ?何だ、どっかで酒でも飲むか?」 「飲みません」 異性と飲むお酒は気をつけなければいけないことくらい、シャルロアも知っている。しかしそういう意味で否定したのではなかった。 「ちょっと着替えてきます。私服で基地に入るのはちょっと気が引けるので」 「着替えるって、どこでだ」 シャルロアは暗くなった裏路地を指した。 「そこで」 ファルガ・イザラントは無言で、彼女が指した裏路地を見つめた。 奇妙な沈黙のあと、シャルロアが小首を傾げると、彼は重いため息をついて手で顔を覆う。 「まさか好きな女の痴女行為を揉み消すハメになるとは思わなかったぜ……」 「ちちちっ、ち!?」 何でだ、と叫ぼうとして、シャルロアは己の説明不足であったことに気づいた。 「全部脱ぐわけないじゃないですか!チェニーの下のシャツは騎警団制服のシャツですから!チェニーを脱いで、騎警団の上着を着るだけですっ!」 「着るだけって、お前なぁ」 ファルガ・イザラントは何かを言おうとして、めずらしく止めた。言葉になるはずだった彼の息が、はぁ、と重く石畳に転がっていく。 「魔女の一撃かよ……えげつねぇ」 魔女という単語を聞いて、思わずビクッ、と肩を跳ねさせたシャルロアに、ファルガ・イザラントは気づかなかったようだ。もう一度ため息をついてから、彼は気だるげに裏路地を親指で指した。 「領都っつっても物騒な時間であることに変わりはねぇからな。見張っててやるから、さっさと着替えろ」 「いや、先に帰っていただいても」 「うっせぇ、ぐだぐだ言ってっと剥ぐぞ」 「さっさと着替えてきます!」 路地裏の陰に飛びこんで、ごそごそと着替えながら後ろを盗み見ると、ファルガ・イザラントはシャルロアに背を向けて路地裏の入口の壁に肩を預けていた。 ――魔女の一撃、って何に対してだろう。 心身に致命的な一撃、という意味でも、激しい恋に落ちる、という意味でも、あの場面でつぶやく理由がよくわからない。 少し考えてもわからなかったので、シャルロアは理由を探ることを放棄した。ファルガ・イザラントの考えていることは規格外すぎてわからない、ということで納得しておく。 着替えたシャルロアがファルガ・イザラントに声をかけると、彼はゆっくりとこちらを一旦振り返ってから、歩きだした。シャルロアも無言でその後をついて行き、デバイドウォーネ基地に入った。 そこで別れるか、と思っていたシャルロアだが、ファルガ・イザラントは師団長への報告をするために一度本部へ戻るから待っておけ、と言って、第2部隊に向かってしまう。 先に帰るか本当に迷ったが、帰ったら後が恐い気がしたので、シャルロアは大人しく待つことにした。彼が遺体の場所を地図で示して指示を出し終えたのを待って、2人は慌ただしく本部へ帰還した。 そこでふと気づいたシャルロアは、第4師団勤務室に向かおうとするファルガ・イザラントを呼びとめた。 「私も報告に向かった方がいいですか?」 勤務時間外扱いになるが、遺体を発見したことに変わりはない。なので証言が必要になるかと思ったが、ファルガ・イザラントはいや、と否定した。 「俺はともかく、お前が発見したって説明は死ぬほど面倒臭くなる。ペッティ狩りに行ったってことは師団長に黙っといてやるから、今日はもう帰れ」 「はぁ」 そんなんで良いのだろうか、と間抜けた返事をすると、ファルガ・イザラントは愉快そうに目を細めた。 「 「…… 広い背をぽつん、と見送ったシャルロアは、ほたほたと本部の廊下を歩きだした。 今日は、色んなことがありすぎて疲れた。犯人の記憶映像。騎警団が知らない被害者の存在。それをどうやって見つけさせるか、どうやって現場まで行くか悩み、走り、動き回った。 15分の眠りが早く欲しい。もう何も考えたくない。 なのに頭には――ファルガ・イザラントの広い背中が思い浮かぶ。 ――副師団長、こっちを見ずに着替えを待っててくれたなんて、案外紳士だよね。 その思考は不思議と、疲れた脳に染みついた。 |