※グロ表現有り。ご注意ください。


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 容疑者が逮捕された、という話は寮ですでに聞いていたし、朝食を食堂で食べるころには容疑者は犯人と見て間違いないだろう、という話も聞いた。デバイドウォーネ基地で行われた軽い取り調べで、すでに自白と思わしき言質が取れ、容疑者の自宅からは4つの喉仏が見つかったという。無事に犯人を捕まえることが出来た喜びの声が、あちこちから聞こえた。
 第4師団の勤務室もさぞ明るいことだろう、と意気揚々と出勤したシャルロアだったが、予想は裏切られた。
 部屋の奥、師団長の机の前で、ファルガ・イザラント、エレクトハ、シェストレカ師団長の3人が苦い顔を突き合わせていたのである。
 彼らの頭上に暗雲を見たシャルロアは、こっそりと勤務記録機を押して、近くの席で朝刊を読んでいたレッティス分隊長に話しかけた。

おはようございます(ウラーヴァ・デッヘン)、レッティス分隊長」
「あー、おはよう(ウラーヴァ)
「容疑者が逮捕されたって聞いたんですが、誤報ですか?」

 正直、容疑者が逮捕されたという朝なのに、あれだけ物々しい雰囲気でいたら誤報かと思って仕方ないと思う。
 レッティスはちら、と青い瞳で3人を見たあと、シャルロアを指先で呼んだ。
 少し身をかがめると、小さな声が耳をくすぐる。

「逮捕されたのは事実で、こちらに移送もされている。だが、不審な点がいくつかある」
「不審?」
「目撃情報が少なかっただろ」

 シャルロアは頷いた。確かに騎警団が手こずるほど、今回の犯人は目撃者を残していなかった。あの女性が不審者の情報をもたらさなければ、まだ捕まっていなかったに違いない。
 しかし彼女のもたらした情報こそが、混乱の元になっているようだった。

「お前が描いた似顔絵は、よく似ていた。捕まえてから、誰もがそう言った」
「はぁ」
「似ていたから問題なんだ。容疑者は最近まで、わずかながらも自鳴琴の修理仕事を請け負っている。つまり人に会っているんだ。あの似顔絵が出来てから、当然容疑者が関わっていた人間……酒場の主人や神父にも訊いて回ったが、誰1人として証言者が現れなかった」

 シャルロアは目を丸くした。
 ―― それは、確かにおかしい。
 仕事で容疑者と関わっていた人間が似顔絵を見せられて、心当たりがない、など言うだろうか。よほど他人の顔に興味がなかったというならば話は別だが、レッティス分隊長の話ぶりから察するに、かなり綿密な聞きこみが行われただろう。関係者の誰もが知らない、と言うなんてありえない。
 そもそも目撃情報どおりであるのならば、容疑者は常に浮浪者のような格好をしていたはずだ。犯行現場に指紋がついた凶器を捨てていることからして、周りに気を配る類の人間ではないと予想される。故に、経済的安定を手に入れている人間からすれば、自鳴琴修理を頼んだ容疑者の身なりはかなり奇異に見えたに違いない。
 ――なのに、証言者がいなかった?
 眉をひそめると、レッティスも難しげな表情を浮かべた。

「それに、関係者の証言もあやふやというか、胡乱というか……」
「自鳴琴の修理に来た人間が、本当に容疑者かどうかわからない、とでも?」
「わからないでいてくれた方がマシだった。ケーレン・パポヴォットの名前を出したら、関係者の誰もが自鳴琴修理を頼んだことを覚えてた。が、容姿がてんでバラバラだ」
「はい?」
「だから、バラバラだったんだ。修理を頼んだ酒場の主人はパポヴォットのことを気弱な青年だと思っていたし、神父や修道女には無口な好青年に見えていたらしい。容疑者の家の近隣住民は地味で大人しい男、とも証言した。外見の特徴もそれぞれ微妙に違っていて、とてもじゃないが同一人物について話しているとは思えない」

 レッティスの言わんとすることが、シャルロアにもわかった。
 人間は相手によって話し方や雰囲気を変えることが多々あるが、この場合は印象があまりにも違いすぎる。さすがに浮浪者のような格好の男を指して、好青年とは呼ばないだろう。
 ――まさか殺人を犯すときだけ、浮浪者のような格好をしていたとでもいうの?
 その考えは即座に否定する。やはりどうしても、現場に凶器を捨てて行くような人間が身なりに構うとは思えなかった。凶器を残す、ということは騎警団に追われても気にしない、というのと同義語だ。まともな神経をしていたら、まず真っ先に凶器を隠すだろう。
 それでも凶器が見つかったのが一度だけだったら、凶器を隠すことに失敗したのだと考えたかもしれない。けれどこの犯人は、すべての犯行現場で凶器を放棄している。どう考えても、騎警団に追われることを気にしない、ひいては周りのことを気にしない人間であるように思えるのだ。

「まぁ、自白も取れてるし、自宅からは喉仏も4つ見つかったから、犯人であることには間違いねぇんだろうけど」

 釈然としねぇんだよなぁ、とレッティスが短い黒髪を掻いていると、シャルロアの後方にあるドアが勢いよく開いた。
 ばたばた、と駆けて入って来たのは第4師団員たちであった。

「師団長っ!容疑者の意識はありますか!?」
「容疑者は喋れますか!?」
「容疑者、生きてます!?」
「えっ」

 逮捕、という一報を受け取ったにしては、物騒な単語が舞っている。
 頬を引きつらせたシャルロアに、レッティスは呆れたようなため息をついてみせた。

「メル、副師団長が逮捕したんだぞ。それぐらい確かめるに決まってる」
「えっ」

 決まってるのかよ、と心の内でツッコむ前に、師団長が答えた。

「何を言ってるんですか、貴方たち。今回は殺人の現行犯逮捕じゃないんですよ。怪我なんてされたら入院で事件処理が長引いて面倒ですから、無傷で逮捕させたに決まってるでしょう」
「そういう理由だと……?」

 硬直したシャルロアを尻目に、他の団員たちは「ですよね」と朗らかに笑った。違う。明らかに今、朗らかに笑う場面ではない。師団長の言葉の裏を読むなら、殺人の現行犯逮捕であれば入院させるような大怪我を負わせて構わない、と言っているのではないだろうか。むしろ場合によっては射殺、斬殺、魔法殺も赦す、と言っている気がする。
 いやしかし、国民の安全を守るためであればそういった判断も必要だろう。必要だろうが、それでもやはり朗らかに笑うのは何か違うと思う。
 ――やっぱり第4師団はどこかズレてる。

「おう、メル。出勤したか」

 師団長の隣に立っていたファルガ・イザラントが、気だるそうにシャルロアを見た。近くにいるエレクトハなど眠そうな顔を隠しもしていないので、彼らは昨日徹夜だったのだろう。
 ファルガ・イザラントはシェストレカ師団長の机から、紐で束ねた書類を拾い上げた。

「これから調書を取る。お前が記録しろ」

 歩み寄って渡された紙束を、シャルロアは目を丸くして見つめた。

「えっと、私が記録していいんですか?」
「調書は記録に失敗するわけにいかねぇから、普段は師団長に頼むんだがな」

 待て、とシャルロアは顔を上げて師団長を見た。調書の記録など、どう考えても下っ端のやる仕事である。明らかに師団長がやる仕事ではない。
 しかしこの数日、第4師団の書類に関わってきたシャルロアは、その判断に納得せざるを得なかった。少なくともケドレ副分隊長のような、死にかけのミミズが這ったような字で記録を取られたあげく、内容が間違っていたら目も当てられない。
 悲しくも、適材適所という単語が脳裏をよぎった。

「師団長も別件で連続徹夜中だ。ちょっと負担を減らしてやれ」

 ―― そういえば師団長、私の退勤より先に上がったのを見たことない。
 なおかつ、出勤すればいつも席に座っているのだ。あれはどうやら残業ではなく徹夜した結果だったらしい。
 ――このままだと、師団長が死ぬ!

「あの、師団長。私記録を取りますから、よければ仮眠でもなさってください」

 シャルロアが提案すると、シェストレカ師団長は「そうですね」と言いながらちらりと自分の机の上を見た。まだ未処理の書類が山のように積まれている。
 しかし仮眠に充てる時間を書類捌きに充てたところで焼け石に水だと判断したのか、彼はまとめていた髪紐を解いた。長い金髪がさら、とわずかに広がる。

「作業効率も悪くなってきたところでしたし、休憩を挟むことにします。メル君、事務の方をしばし頼みます」
「はい」
「エレクトハ、お前は今日はもう上がっていい。そのまま休日だ。明日の朝出勤しろ」
「やったぁぁぁぁっ!」

 ファルガ・イザラントの言葉に、エレクトハはその場で文字通り飛び上がって喜んだ。眠たげだった目がカッと開いている。その様子を、隣のレッティスが冷めた目で眺めていた。
 その気持ちは、シャルロアにも理解できる。あの様子、まんまと副師団長が投げた甘い餌にありついた忠犬のようではないか。

「夕方まで寝てからアレーノちゃんに会いに行く!」
「メル、行くぞ」

 ファルガ・イザラントに促されて、シャルロアは勤務室を後にした。

「エレクトハさんには恋人がいらっしゃるんですね」

 アレーノ、というのはおそらく、恋人の名だろう。この激務でよくぞ女心を掴めているものだ。やはり美男のなせる業か、とシャルロアが感心していると、ファルガ・イザラントが否定した。

「違ぇよ。よく行く酒場の看板娘だ。アイツ、娼館に行かなくても美人な女にチヤホヤしてもらえるからな。チヤホヤされに行くんだろ」
「へぇー」

 シャルロアは棒読みな相槌を打っておいた。
 男ばかりの職場であるから覚悟はしていた。覚悟はしていたが、男性視点の会いに行く動機を聞かされると幻滅する感は否めない。そこはせめて、君に会いたかったから、くらいの純粋な動機が欲しい。
 ――忘れよう。
 考えるとエレクトハに対しての好感度が下がる。頭を切り替えて、シャルロアは手元の書類を見た。

「副師団長が取り調べをなさるんですか?」
「あぁ」
「相手が威圧されて喋れない、なんてことになりません?」

 ファルガ・イザラントの淡々とした声音が、廊下に響いた。

「あれだけ狂ってる奴には、俺が誰かなんてわからねぇよ」





********





 ケーレン・パポヴォット容疑者の取り調べは異例ではあるが、拘置所で行われることになった。これは事前の軽い取り調べ中に、パポヴォットが突如として暴れ出すことがあったので、それを考慮した結果なのだと言う。
 また、パポヴォット自身も軽い拘束着で身を固定されることとなった。興奮時に自傷行為がみられたため、その対策であるらしい。
 西棟からさらに西へ歩くこと5分の場所に、騎警団の拘置所があった。
 そこも本部の外壁と同じく青黒石で出来ており、堅牢な印象がする建物だった。入口には第1師団員が立っており、そこを抜けて寒々しい玄関に入ってからも部屋の隅に第1騎警団員がいた。
 本部自体も物々しくて緊張感を煽る場所ではあるが、ここはそれに輪をかけて緊張する。
 鉄格子と錠で出来たドアを第1師団員に開けてもらって、シャルロアたちは奥に進んだ。飾ることを放棄した簡素な廊下を歩いて、幾度か角を曲がってようやく目当ての部屋についたらしい。
 ファルガ・イザラントは気負いなく、鉄製のドアを開けて部屋に入った。
 中に入ると真っ直ぐ短い廊下が奥まで伸びており、その左右に2つずつ鉄格子に囲まれた小部屋がある。ケーレン・パポヴォットは左手の一番奥の小部屋に収容されていた。他の小部屋には誰も入っていない。
 そこで取り調べをすることは先に連絡していたらしく、パポヴォットが収容されている小部屋の前にはイスが2脚と簡素な机が1台置かれていた。
 ファルガ・イザラントは迷いなく、イスに座った。
 シャルロアも机の前に置かれたイスに座って、書類を広げた。そうして、鉄格子の向こうにいるパポヴォットを盗み見る。
 彼は皮の拘束具で固定された腕を重たそうに足の間にぶら下げ、猫背気味でイスに座っていた。
 確かに、シャルロアが描いた似顔絵と瓜二つだった。
 青白く、病的に痩せこけた頬。瞳は深海のように深い青色だったが、濁って光をなくしていた。落ちつきなく視線を動かすからか、ぎょろりとした印象が先立つ。髪はボサボサ、着ているものも5年は着古したようなシャツとズボンで、彼自身の投げやりとも言えそうな痩身と相まって、身なりに興味がない、ということが如実に伝わってくる。
 手元の書類によれば、彼は28歳になるという。
 ――副師団長の予想は当たっていたわけね。
 書類の文字を追っていた視界の端で、ちら、と何かが煌めいた。
 何だろう、とシャルロアが顔を上げてそちらを見れば、パポヴォットのパサパサに乾いた黒髪に、金色の粉がかかっていた。
 ――なんだ、あれ?
 ペンを懐から取り出しながら、シャルロアは内心小首を傾げた。書類によれば、パポヴォットの部屋からは画材も見つかっているとのことなので、絵具か何かかもしれない。
 シャルロアが筆記体勢に入ったことを確認したファルガ・イザラントが、質問を始める。

「お前はケーレン・パポヴォットで間違いないな?」
「……」

 ファルガ・イザラントの低い声に、パポヴォットは虚ろに反応した。返事はなかったが、濁った視線が彼に固定された。

「ケーレン・パポヴォットで間違いないか?」
「俺はケーレン・パポヴォットだ」

 シャルロアは速記でそれを記録していく。一言も聞き漏らしがあってはならない。

「28歳。職業は自鳴琴職人だな?」
「自鳴琴……俺の自鳴琴……あぁ、見えない、俺の自鳴琴はどこだ?」
「自鳴琴職人であってるな?」
「職人……そう、職人だ。俺は自鳴琴職人だ!」

 突如として口角から泡を飛ばして叫んだパポヴォットに、シャルロアの肩が跳ねた。彼の真正面に座るファルガ・イザラントは微動だにしない。
 冷厳な金色の双眸が、ひたとパポヴォットを睨みつけていた。

「アイネ・メメリカという女を知ってるか?」
「女……女は自鳴琴……」
「シェルダールダで起きた連続殺人事件の1人目の被害者の名前だ。喉を切られたうえ、胸から下腹部まで切り裂かれ、内臓の位置を変えられていた。この犯行に身に覚えは?」
「……自鳴琴だ。自鳴琴にした。クシバが錆びていたから磨かないと」
「クシバとはなんだ?」
「自鳴琴の命。命。喉を裂いて、クシバを取り出さないと錆びが……」
「お前の言うクシバとはなんだ?」
「クシバ。喉……喉仏?違う、あれは物にした。だからクシバだ」

 ――喉仏。
 ファルガ・イザラントが故意に隠した情報を、この男は漏らした。一般人が決して知ることの出来ない情報を知っていた。
 犯人だ。シャルロアは確信すると同時に、うすら寒くなった。
 パポヴォットには、ファルガ・イザラントの言葉があまり届いていないように思える。それはほとんど成り立っていない会話からして明確だった。
 ――この男に、正気は残っているのかしら。
 オルヴィア王国では、善悪の判別もつかないほどの心神喪失状態であれば実刑を免れる。代わりに精神病院で厳しい監視と治療を施されるが、死刑にはならない。
 5人も人を殺しておいて。
 あんなに惨たらしく、遺体を放置しておいて。
 ――正気じゃないフリをしているなら、魔女の異能でわかるかもしれない。
 ふと、シャルロアは思いついた。
 桃色の蝶の制約は、会話が成り立たない生命体の記憶映像を読み取ることが出来ない、だ。
 もしも彼が正気でないなら、シャルロアと意思疎通を図るのは難しい。高い確率で記憶映像は乱れているだろう。
 ――覗いて、みる?

「アイネ・メメリカを殺した、と受け取っていいのか?」
「殺し……あぁぁぁぁ、自鳴琴にしたんだ。物になったから自鳴琴の修理をした」
「アイネ・メメリカを殺したか?」
「自鳴琴自鳴琴自鳴琴……」

 会話になっていない会話を、2人は続けている。速記を続けながらも、シャルロアはこの質疑応答は不毛であると感じていた。
 ――あまりにも、パポヴォットと話が通じなさすぎる。
 わずかに迷ってから、シャルロアは1つまばたきをした。
 桃色の蝶が音もなく出現する。彼女はそれを、パポヴォットの肩に止まらせた。

「犯行動機はなんだ?」

 ファルガ・イザラントの低い声がシャルロアの鼓膜を震わせた瞬間。
 脳に暴力的な記憶が流れ込んできた。
 家の中。金髪の女性。恐怖を湛えた青い瞳。殴る。陥没。弱々しい抵抗。殴る。殴る。斬りつける。血。血。喉を裂く。傷口。ぐちゃぐちゃ。骨。胸に。下腹部。裂いて。蠢く内臓。切る。切る。内臓。戻す。脇腹。刺さって。森。茶髪の女性。殴る。裂く。家。銀髪の女性。殴って。裂いて。裂いて。骨。内臓。暗い倉庫。金色の髪。殴る。裂いて。脇腹に。家。男。興奮。争い。殴って。女。泣き喚く。殴る。切る。骨。裂いて、内臓を。腕。落とす。刺す。
 臓物。だらりとした腸が、指に絡みつく。血も。骨も。
 黄色い脂肪。

 シャルロアはイスを蹴飛ばすように立ち上がった。

「メル?」

 訝しげなファルガ・イザラントに、構っていられない。
 今にも吐きそうだ。
 真っ青になったシャルロアは、震える手で口元を覆いながら、拘置室から飛び出した。
 ここに来る途中に手洗いがあった。早くそこに。
 驚くほどの速さで、シャルロアは女性用手洗いに駆けこんで、洗面器に顔を突っ込んだ。苦い胃液が逆流し、喉を焼く。
 ――なんだ、あれ。
 涙がにじんだ。胃液で焼かれた喉が痛い。けれど、記憶で覗き見た女性たちはもっと痛いめにあっていた。
 音は聞こえないはずなのに、開いた口が何度も何度も「やめて」「助けて」と叫んでいるのがわかった。
 あの男は、あの悲痛な懇願を無視して、凶行に及んだのか。
 殴って、喉を裂いて――。
 再び胃液がこみあげてきて、吐いた。
 口の中が苦い。
 気持ち悪い。
 5人分の開腹場面を見せられたのだ。しかも犯人視点で。吐かない方がおかしい。
 蛇口をひねって、水を出す。口をゆすごうとしたが、また吐き気がこみあげてきたので、シャルロアは胃の中のものを吐きだした。
 胃が痙攣しているのを感じる。
 とても正気では行えないことなのに、シャルロアが記憶を読めたということは、彼には正気が残っているのだ。
 それが逆に恐ろしい。
 5人も残虐に殺しておいて、まだ正気でいるなんて。

 ――5人?

 ざー、と蛇口から水が落ちる音が、冷え冷えとした手洗いに響く。
 ――5人?私、5人分の開腹場面を見た?
 おかしい、とシャルロアの心臓が凍りついた。
 殺されたのは、5人だ。しかしその中の被害者、夫婦で殺されたうちの夫の方は腕を切られただけで、腹を捌かれてはいないのだ。
 見るなら4人分の開腹場面でなければならないはずなのに。
 もう1人分はどこからきた(・・・・・・・・・・・・)

「……茶髪の、女性?」

 流れ込んできた映像の中に、茶髪の女性がいた。捜査資料を懸命に思い出すが、被害者の中に、茶髪の女性は――いない。
 シャルロアたちは、殺されたのが5人だと思っていた。
 ――違うんじゃない?

 騎警団が知らぬ被害者がいるのではないか?

 蛇口から落ちゆく水が渦を巻き、吐いた胃液を水道管の奥に流していく。シャルロアはそれを呆然と眺めながら、細くつぶやいた。

「知らせないと……」

 今までの手口からして、遺体は殺されたままの状態で殺害現場に放置されているはずだ。
 ファルガ・イザラントに知らせて、遺体を発見してもらわなければ。
 そう考えた自分に、別の自分がささやく。
 ――どうやって知らせる気?
 動こうとした身体が強張る。
 そうだ、自分はどうやってこれをファルガ・イザラントに報告する気だ。パポヴォットが喋っていない情報、騎警団が手に入れていない情報をシャルロアが知っていれば、怪しく思って当然だ。どうやってそれを知ったのか、彼は必ず追及する。
 シャルロアは、それを説明出来る術を持っていない。
 魔女の異能を使った、なんて言えない。
 こんな異能を持っていると知られたら、害される。
 騎警団員たちの魔女観。それは怪しい力を持った犯罪者。彼らにとってはパポヴォットもシャルロアも、等しく犯罪者という括りにされる。
 ――言えない……。
 言えば、迫害される道しかなくなるのだ。シャルロアだけでなく、家族も。
 ――言えない……!
 ここで魔女であることをバラしたりなんてしたら、今までやってきたことの意味がすべて無駄になる。これまで慎重に積み上げてきたものを捨ててまで、自分は正義に走るのか。
 人として、国民を守る騎警団員として、これを報告しないのは間違っている。
 だけどその結果、自分が、家族が、迫害されることになってもいいのか。
 ――放っておけばいいじゃない。
 ガサガサしたささやきが脳に甘く響いた。
 ――放っておけばいいのよ。わざわざ私が知らせなくたって、副師団長や師団長は優秀なんだから、見つかってない被害者だってすぐに見つけるはず。
 別に正義感から騎警団に入ったわけじゃない。誰にどう言われようとも、保身のためだ。それで何が悪い。自分は他の人間よりも危険を負って生きている。異能がバレたら迫害されるのだ。他人よりも自己保身欲が強くて当然だ。
 家族や友人ならばともかく、見ず知らずの他人の遺体を発見させるためだけに、危険を犯す必要がどこにある。
 ――大丈夫。きっと、副師団長が見つける……。
 覗いてしまった記憶を見ないようにする。森の中、籠を持った少女が襲われて、殴られたのなんて、自分は知らない。
 彼女が「助けて」と悲痛な懇願をしているのも、知らない。
 見なかったことにする。
 ――だって、仕方ない。話したら、私が迫害される……。
 心の中の天秤が話さない方へ傾いた。
 ――仕方ない。私は、害されて生きたくない……。
 ――でも、それでいいの?
 胸の奥へ押し込めようとした良心が、喘ぐように叫んだ。
 ――騎警団を選んだのは確かに自己保身のため。そのために、人を殺す覚悟はしてきた。魔女だと排除される恐怖よりも、人を、敵を、殺す恐怖を選んだ。覚悟した。でも、その覚悟の中に、何の罪のない善良な自国民が殺されるのを見捨てる覚悟はあったの?
 ――あった。
 ――嘘だ。そんなこと出来るはずない。殺された人たちは弱者だ。大きな力に抗えなかったかわいそうな人たちだ。そんな人たちを見捨てる弱者(まじょ)がいるわけない。魔女は敵を殺すことは出来ても、自分たちと同じ弱者を見殺しに出来ない。そうでなければ、自分たちを助けてくれる存在がどこかにいるんじゃないかって、信じられなくなるから。
 シャルロアは吐き気が治まったのを感じて、苦い口の中をすすいだ。もう胃の中には吐くものがない。
 ――よく考えて。自分の家族や友人が行方不明であれば、生きて見つかってほしいと思わない?もしもその願いが絶望的であれば、せめて一刻も早く遺体を手厚く葬りたいと思うでしょう?森で殺された子にだって、家族がいるかもしれないのに。それを無視するの?
 ――やめてよ、私だって死にたくない!
 胸にはもやもやとしたものがいっぱい溜まっていて、今すぐに吐き出してしまいたかった。深く、長くため息を吐いてみたが、胸につっかえたものが取れた気はしない。
 重たいものを抱えた気分で手洗いのドアを開けると、ファルガ・イザラントが佇んでいた。
 予期せぬ厳しい眼差しを受け、シャルロアの身体はびくりと強張る。
 ―― そうだ。失態の、言い訳を、しないと。
 取り調べの記録中にその場を離れるなんて、やってはならぬ失態だ。言い訳したところでファルガ・イザラントの失望は拭えないかもしれないが、やるだけのことはやっておかねばならない。
 シャルロアが口を開く前に、ファルガ・イザラントの方が一瞬早く口を開いた。

「ひっでぇ面しやがって」

 炎を生む金色の瞳が、忌々しげに眇められる。
 さらには褐色の大きな手が、真っ青になったシャルロアの頬を掴んだ。わずかにアゴが持ち上がり、何もかもを熱で呑みこみ焼きそうな金色に見つめられる。

「てめぇ、馬鹿なこと考えんじゃねぇぞ。奴らの闇は限りなく深い。観察するのは結構だが、その闇を理解しようなんざ夢にも思うな。理解した瞬間、てめぇは『ネルトの黒き守護手』に成り下がる。めでたく犯罪者の仲間入りだ」

 金から生じた炎が、シャルロアの胸にくすぶっていたものを焼き払う。

 『ネルトの黒き守護手』とは、泥棒から高価な根を守る守り人が、一転して泥棒に成り下がる故事だ。善なる者が悪に触れているうちに、己も悪に染まってしまうという意味。
 その故事が今、シャルロアの心に鋭い切っ先を以って突きつけられていた。
 シャルロアは、騎警団員だ。
 例え入団した動機が保身のためであっても、善良な自国民を守る義務がある。
 善良な国民を見殺しにして得る保身は、果たして本当に己のためになるのか。
 ――……ならない。
 もしこの先、シャルロアの異能がバレたとき。この事件で知り得ていたことをここで知らせていなかったと、バレたとき。その事実はシャルロアを窮地に追いこむだろう。
 何より、自分がそれを許せない。弱者(まじょ)を助けてくれと願いながら、弱者を切り捨てるなんて反吐が出る。
 学校で1人、理不尽な罵倒に晒されていた少女を見捨てられなかったときのように、今回も孤独に殺された少女を見捨てられない。見捨てては、魔女として人との共存を望めなくなる。
 ――……副師団長は、神様じゃない。
 ファルガ・イザラントが優秀であることに疑いはないが、もう1人被害者がいることに気付くとは限らない。何せ犯人は会話をしようとしないのだ。己の世界に籠もりきっている。彼から事情を聞くのは困難を極めるだろう。
 それに彼は、シャルロアの心の内が読めるわけではない。実際今の言葉も、シャルロアが具合が悪くなったのはパポヴォットの心情を理解しようとして思考の深みにハマったからだ、という考えから出た言葉だ。犯人に感化されて、犯罪に走るなという警告をしに来たのだ。
 シャルロアがパポヴォットの記憶を見たから、吐き気を催したなんて考えていない。
 考えられるはずがない。
 その思考に至るまでのきっかけは、まだないのだから。
 ファルガ・イザラントは有能な男だ。警戒に値する。
 だが、怯えて縮こまる相手ではない。
 全知全能な相手でない限り、必ず目を眩ませる隙はあるはずだ。
 ――やってやる。
 今はまだ、魔女だと名乗れる時代じゃない。
 だからシャルロアは魔女だと名乗らない。
 けれど騎警団を――『雷鳴獅子』を、自分が知り得た情報で導くことは出来る。
 銀色の瞳が煌めいた。

「もう大丈夫です。お手数をおかけしました。戻りましょう」

 強い意志がこもった視線を受けて、ファルガ・イザラントはぐる、と喉を鳴らして嗤った。
 ――まだ、大丈夫。見捨てられてはない。
 自分に注目してくれなくていい。けれど、無い者として扱われるのだけは避けなければならない。発言力を失うのは最悪の事態だ。
 シャルロアは、挑戦的に『雷鳴獅子』を見つめた。

 ――この猛獣に、獲物を見つけさせてやる。
















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