※グロ・虐待・動物虐待表現有り。ご注意ください。 ============ 多くの騎警団員が予想した通り、不審者の目撃情報が報告されて1日経っても、騎警団はその男の行方を掴めずにいた。 そもそも連続殺人が起こっている町で、夜中に出歩く人間の数が少なかった。だから不審者を見たという女性の情報から、足取りを辿ることが出来なかったのだ。 アルトメント地区を中心に、不審者の聞きこみも行ってみたらしいが結果は芳しくない。捜査は行き詰った、と言うに等しい状態に陥った。 だがそこで諦めていいわけがない。むしろ、デバイドウォーネ部隊は激しい緊張感に包まれていると言う。 夫婦が殺されてから、5日目になる。周期を考えれば、犯人がそろそろ殺人を犯しても不思議じゃない頃合いなのだ。 常識的に考えればもちろん、司令塔であるファルガ・イザラントたちもデバイドウォーネ基地から離れられない。 はずなのに。 何故か、ファルガ・イザラントとエレクトハは第4師団の勤務室に戻って来ていた。 ――意味がわからない。 徹夜続きなのか、エレクトハは現在、疲れた顔を無防備に晒して午後のお昼寝中である。例によって床で。ファルガ・イザラントの言葉を信じるなら、まぁ、元気なのだろう。 本当に意味がわからないのはその副師団長である。唐突に本部へ帰還した彼はシャルロアの机から事件資料を奪い取ると、その場で黙々と資料を読み始めたのである。ちなみにシャルロアは現在、机に向かって報告書類を捌いている。ファルガ・イザラントはそのすぐ横で、シャルロアの机に腰掛けて資料を悠々と読んでいるわけだ。 考えてみて欲しい。仕事をしているというのに、常時人を威圧しまくる男が隣に立っているという状況を。完全に嫌がらせである。助けを求めて師団長を見つめたが、無視をされた。 他、わずかに勤務室にいる団員たちに関しては、師団長が見捨てた時点でお察しである。 時計の秒針が、時を刻む音を室内に響かせる。 くあ、と仕事妨害する男が欠伸を1つ漏らした。 威圧感が少し揺らいだような気もした。 「…… 手を止めて尋ねると、金色の瞳がちら、とこちらを見下ろした。 「淹れるなら茶にしろ」 「眠気防止なら 「アレは苦ぇのに酸味があるから嫌いなんだよ」 わずかに顔をしかめたファルガ・イザラントに、はぁ、と頷いてから師団長や他に起きている団員たちにも飲み物が要らないか尋ねた。 大抵の人間が要望したのを聞いてから、給湯室に向かい、ヤカンに水を入れて沸かす。 ――な、な、なななんだ、アレ。 カップを用意しながら、シャルロアは動揺していた。 ――に、苦いのに酸っぱいから嫌い、とか。 確かにキャラバは貴族の嗜みであると同時に、大人の飲み物でもある。シャルロアももっと幼いころは苦くて飲めたものではなかった。だけどいつのまにか、好んで飲むようになった。 それがまさか、あのファルガ・イザラントが、苦くて酸っぱいから嫌い、だとは。まるで子供の言い分のようで、胸がキュンと――いやそんな馬鹿な、これは何かの間違いである。幻痛である。 胸を押さえて、精神を落ちつかせて、これまでのファルガ・イザラントの言動を考えて、やはりないな、と断言する。自分も相当に疲れていたらしい。 お茶とキャラバを淹れて戻ると、書類に向かっていた師団長が顔を上げた。 彼の机にカップを置く際、小声で尋ねられた。 「メル君。イザラント君に胸がキュンとしたり――」 「してないです」 なんだ、と若干鼻白んだような素振りを見せながらも、彼はキャラバの礼を言ってくれた。それに応えながら、シャルロアはひっそりと恐怖する。 ――なんなのこの人、心拍数感知でも出来るの? やっぱり師団長恐い、ということを再認識して、他の団員にもカップを配り、最後にファルガ・イザラントにお茶を差し出した。 「どうぞ」 「ここの勤務室で人が淹れた茶を飲める日が来るとは、思わなかったぜ」 その台詞、この勤務室で何度聞いたか数えるのも面倒になるほど聞いている。何故みんな揃って同じことを言うのだろうか。 シャルロアが椅子に座ると、彼は茶をすすりながら資料に視線を落とした。 「……本部に戻って来て大丈夫だったんですか?」 「捜査が行き詰ってるから、どこにいても同じことだ。周りは聞きこみ捜査で目撃情報が出ねぇもんだから、流れ者の仕業じゃねぇかと言い出すし、うるさくて敵わねぇよ」 彼がそう言う、ということは、ファルガ・イザラントは流れ者の仕業だとは考えていないのだろう。もしくは、可能性はごく薄いと考えている。 ――根拠は何だ?……あぁ、犬猫か。 アルトメント地区近辺で頻繁にあった、犬猫の殺害。ファルガ・イザラントの推測通りなら、あれは人を殺す前哨戦のようなものだ。流れ者であるのならば、あの近辺にそれが集中する可能性はかなり薄い。と言うより、理由がないと言うべきか。 だがここまで目撃情報が出ないのも不思議な話だ。土地勘がある者の犯行ならば、当然その地に住んでいるということであり、その顔は近隣住人に知られているはずだ。親しくはないけれど、顔を見たことがある、という証言があってもおかしくない。 なのにそんな証言は確認されていない。 ――少なくとも、勤め人じゃないな。 女性の情報をもとに似顔絵を作成した時点で、勤め人ではないだろうということは予想出来た。あれほど身なりに気を遣わないでいて許容されるほど、社会は甘くない。 あとは、容疑者は非常に内向的な性格であるかもしれない。人と話すことが苦手で、関わり合うのも苦手。近所付き合いがまったくない。そういうことであれば、情報が全然上がらないのも説明は出来る。 出来るが、そこで終了だ。 ファルガ・イザラントもそれがわかっているから、ここでこうして資料を睨んでいる。 「……被害者の共通点はなんだ?」 彼のつぶやきに、シャルロアは答えられない。 被害者を選ぶ基準は、単純に犯人の好みかもしれない。だが、その中には基準になるものはあるはずなのだ。金髪が好きだったり、大人しそうな子が好きだったり、人の好みは偏るものだ。 なのに今回の被害者たちには共通点がない。性格も外見も、バラバラだ。 ――臓器が健康そうな、人、とか……。 考えて、嫌になる選考基準だった。そもそも見ただけで臓器の健康具合などわかるものだろうか。 おそらくそんな曖昧なものではない。 犯人には明確に、被害者を選んだ理由がある。 わかっている共通点は、腹を裂かれ、喉仏を奪われているのは、女性のみ。 「んーんんー、んんーうん」 緻密に積み上げた思考が、間の抜けた鼻歌で崩された。 シャルロアはがっくりとして声のした方、勤務室のドアを開けて暢気に入って来たケドレ副分隊長を見る。彼はずいぶんとご機嫌な様子だった。 「っと、あん?どうした、メル。旦那と一緒うぉっ!?」 シャルロアはちょうど手元にあったケドレ副分隊長の報告書になってない報告書を丸めて、彼に投げた。もちろん、顔を狙ってだ。 さすがに第4師団に身を置く副分隊長はそれをなんなく避けたが、事務員からの突然の攻撃に驚きはしたようだ。よけいなこと言う口が驚きの声でふさがった。 「あんだよ、メル。今日は生理か?」 「副分隊長、その丸めた紙ゴミ、再提出の報告書です。次はもっとキレイな字で書いてくださいね。もっとキレイな字でですよ」 ケドレの機嫌は急降下したが、そんなものシャルロアが知ったことではない。要求は何も間違っていないし、そもそも先に喧嘩を売ってきたのは彼のほうである、とシャルロアは認識している。 「てんめぇ、この……」 ふと、ケドレの口が固まった。 小首を傾げて彼をよく観察してみると、ケドレの視線はシャルロアに向いているようで向いていない。夕陽色の瞳は、シャルロアの隣――ファルガ・イザラントに固定されていた。 つられて、彼女も隣に視線を向ける。 『雷鳴獅子』は金色の瞳を底光りさせて、ケドレを見ていた。 「ケドレ、よくやった」 彼は瞳孔が開き切った目を、手元の資料に向けた。ばらばらと、褐色の手が忙しなく資料をめくり始める。 その様子を、ケドレもシャルロアも、師団長も呆然として見つめた。 ――何が、よくやった、って? 当のケドレがそれを尋ねる前に、ファルガ・イザラントは「やっぱりだ」と確信を得たつぶやきを漏らした。 「1人目の被害者の趣味は讃美歌。自宅近くの教会にある讃美歌集団に所属していて、殺される前日に発表会があった。2人目は酒場の、歌手だ。3人目の被害者は誕生日パーティーを開いてた。なら当然、 「なるほど、共通点は美しい声ですか」 師団長がいち早く理解して、目を細めた。室内に緊張感が満ちる。 確かにファルガ・イザラントの言う共通点は、盲点だった。被害者たちは死んでしまった時点で、声を発する術を失ってしまっている。自分たちは目に見えるものだけを追いすぎていた。 否。手がかりはあった。 なくなった喉仏。それこそが、犯人が声に執着していた証。 けれど誰もそれに深く着目しなかった。遺体は胸から下腹部まで裂かれて、臓器は並び変えられて、脇腹に何かが刺さっている、というめちゃくちゃな状態で、喉仏がなくなっている異常性に気付けなかった。 ――いや、異常、じゃないんじゃないの……? 喉仏がなくなっているのは、シャルロアにとっては異常な犯行だった。けれどファルガ・イザラントの推測を聞けば、犯人にとっては当たり前の行動であったことが推察できる。 犯人は、美しい声を手に入れたかっただけ。 では、わざわざ遺体の腹を裂いて臓器を弄った意味は、なんだ。 「楽器だ」 凪いだ水面に一石を投じるような言葉が、ファルガ・イザラントから発せられた。 「臓器は、無造作に押し込まれているわけじゃねぇ。これはこれで 彼の開いた瞳孔が、遺体写真を舐めるように見る。まばたきもせずに。 「弦楽器、木管、金管……違う。これほど複雑な造りは機械……機械」 金の瞳に炎が生まれた。 「エレェクトハァ!!」 「ふぁいっ!?」 巻き舌混じりの大音声に、床で寝ていたエレクトハが飛び起きた。 ファルガ・イザラントはシャルロアの机に資料を投げ出すと、エレクトハの首根っこを掴んだ。 「いででっ、何っ、何ですか!?」 「アルトメント地区にある 「 猫の子のように引きずられるエレクトハは、何が何だかわからない様子だった。 ぜんまい。 遺体の脇腹に突き刺さっていた、棒状のもの。 シャルロアは、突如として理解してしまった。 あれは、 「周期的にそろそろ犯人はまた殺人を犯すだろう。これから軒並み自鳴琴関係者を当たる時間はねぇ。だから第2被害者が勤めていた酒場で、アルトメント地区にある自鳴琴店や職人の中でも最近仕事に失敗した人物を探してこい」 「酒場?」 引きずられながら、エレクトハが怪訝げにする。 「あそこにはでけぇ自鳴琴が置いてあった。あれの管理や補修をしていた店や職人がいるはずだ。第2被害者をそこで知った可能性がある」 「副師団長はどこに行くんですか」 「教会と劇場だ。自鳴琴が置いてありゃあ、儲けもんだろ」 『雷鳴獅子』は獰猛さを隠さず、嗤った。 「――絶対ぇ逃がさねぇ」 ******** ケーレン・パポヴォットは、シェルダールダで代々続く自鳴琴職人の家に、長男として生まれ落ちた。長男と言っても、他に兄弟はない。 父親は自鳴琴職人としては優秀であったが、家庭人としては最悪だった。酒癖が悪く、家庭内暴力を振るうことになんの戸惑いも覚えない男だった。パポヴォットは横を通り過ぎたという理由で腹に痣が出来るほど殴られたことがある。そしてそれは決してめずらしいことではなかった。 一方で母親は感情の起伏が激しい性格で、度々理由なくパポヴォットを叱りつけたし、父親に殴られるパポヴォットを庇うこともしなかった。彼女の行動の起因はすべて、彼女の機嫌の上下に因るものでしかなかった。 日常的な暴力と、放任よりも過ぎた無関心。それが虐待であることは、当時の彼は知らなかった。 パポヴォットが自鳴琴製作の手伝いが出来るような歳になると、製作の失敗や父が気に入るだけの仕事が出来ていないという理由で殴られることも増えた。身体の痛みに喘ぐパポヴォットを、母親は時折、気まぐれに慰めた。否、彼女は慰めるつもりなどなく、そのとき単純に歌いたかったのかもしれない。母親はその昔、歌手を志望していたらしい。目指すだけのことはある、それは美しい声で子守唄を歌ってくれた。 まるで父親が作る、素晴らしい自鳴琴のような歌声だった。 父親はクズだが、職人としては本当に素晴らしい腕を持っていた。彼が作る自鳴琴は、天使の鐘の音のようにやわらかくカロンカロンと音がする。 だが父親自身の声は、悪声だった。濁りきっていた。酒に焼けてダメになっていた。おそらく父親の作る自鳴琴には、不必要なものがある。それは父親自身の濁った声だ。あれが天使の音を邪魔している。 父親に暴力と罵声を浴びせられる中、パポヴォットは蠱惑的な妄想に取りつかれた。 すぐに癇癪を起こす母親の喉を切り裂いて、喉仏――クシバを取り出す。そうして父親の喉も切り裂いてクシバを取り出し、母親のものと取りかえるのだ。父親のクシバは母親の方に入れておけばいい。そう、母親の腹を切り裂いて、父親のクシバでも美しい声が出るように改造してやろう。心臓を、胃を、もっと下に、あるいはもっと上に持っていけば声が美しくなる。自鳴琴でもそういう改造は大切だ。 母の美しいクシバを宿した父親が作る自鳴琴は、きっともっと―― それこそ国宝級の自鳴琴となることだろう。 パポヴォットは何度も妄想を繰り返した。妄想に現実味を与えるために、図書館で医学書を読んで人体についても勉強した。結果、妄想の中の母親は整えた臓器によって、父親のクシバでも美しい声を発するようになった。 繰り返した妄想が、根幹から崩れたのは15歳になった年のことだ。 オルヴィア王国が開戦宣言をした。 シェルダールダは敵国に狙われ、町が襲われた。 逃げる最中、母親が命を落とした。 パポヴォットの目の前で、敵国が放った炎の魔法により。 彼は絶望した。 父親が美しい自鳴琴を作るには母親のクシバが必要不可欠だったのに、いつかきっと入れ替えようと思っていたのに、実行する前に部品を紛失した。 素晴らしい自鳴琴を作れない父親は、職人としての価値を失う。 家庭人としての価値など、端からない。 父親はクズだ。 ゴミだ。 パポヴォット家は、シェルダールダで代々続く自鳴琴職人の家。 今度は自分が、素晴らしい自鳴琴を作らなくては。 素晴らしい自鳴琴とは、なんだ? 敵兵が騎警団や町の自警団と交戦する混乱の中で、パポヴォットははぐれた父親と合流することなく、戦場となった町から逃げ出した。 戦火よりも、自分が負った責任から逃れたかった。 彼にとっての素晴らしい自鳴琴とは、いずれ父親が作る自鳴琴のことだった。だがそれを作るに至る部品――母親のクシバは紛失した。 素晴らしい自鳴琴の音色はどのようなものだったか? 長年積み上げた妄想は、パポヴォットに戻って来なかった。母親が死んだことで、根幹から崩れ去ったのだ。今は砂のように散り散りになっていて、掴めない。 国が戦乱で疲弊している中、パポヴォットも浮浪者のようにして、どうにか生きながらえていた。彼は生きなければならなかった。最高の自鳴琴を作るために。 『妄想を取り戻してあげようか』 〈神〉にどのようにして出会ったか、パポヴォットは覚えていない。 気付けば〈神〉は自分の前に佇み、慈しむような笑みを――。 いや、慈しんでいただろうか。胡乱であやふやな記憶となった今では、それすら怪しい。 だがパポヴォットは確かに〈神〉と出会った。 『君は今、空っぽな心を抱えて執念だけで生きているね。わかるとも、私も同じだ。少年、君はとても哀れな子だ』 母親にすら撫でられたことのない頭を、〈神〉は撫でた。 『私が力を与えてやろう。君が君足る妄想を。現実と見間違うほどのめくるめく光景を』 途端に、世界が変わった。 崩れていた妄想が、己すら知らぬ願望によって形作られていく。 砂になった母親の身体が戻り、横たわる。自分の手にはナイフとぜんまい。 母親はギシギシした声を吐き出した。 壊れている。 直さなければ。 直さなければ。 自分は、自鳴琴職人なのだから。 喉を裂いて、クシバを取り出す。やはり錆びていた。だから時折、あんなにも甲高く叫んでいたのだ。それからたぶん、本体の方も壊れている。パポヴォットは母親の腹を裂いた。部品をぎちぎちに詰め込んだ、という体たらく。これでは気まぐれにしか歌わないのも仕方ない。思うように詰め直して、磨いたクシバを戻す。脇腹にぜんまいを刺して巻けば、母親は元よりも美しい音色を奏で始めた。 なぁんだ、とパポヴォットは嗤った。 父親じゃなくとも、素晴らしい自鳴琴は自分の手で作れる。 戦争が終わり、シェルダールダの戦火が鎮火した頃合いに、パポヴォットは家に戻った。幸い工房や家は焼けていなかったが、近隣の住民によれば父親は戦争で死んだらしい。 工房はパポヴォットのものになった。 妄想が瓦解する前よりも鮮やかであったおかげで、パポヴォットは自分が考える自鳴琴の理想を崩さず、質の良いものを作り続けることが出来た。戦場となったシェルダールダに戻る音楽人は思ったよりも少なかったため、彼はしばし壊れた自鳴琴を直すうえでも重宝された。 すべて順調だった。 母親の喉を裂き、クシバを取り出し、腹を裂いて中を並び替えている限り、パポヴォットには絶えず新しい自鳴琴の考えが浮かんだ。 1年前までは。 最初に感じたのは、妄想に触感がなくなったことだった。 気付くまでは母の腹を裂けば、ナイフで肉を切る感覚すら手に感じていたのに、それがなくなった。 次に音がなくなった。 母の喉を裂いてクシバ――喉仏を取って磨いて戻しても、音が鳴らない。 唐突に気付いた。 母親の音は、声は、どんなものだったか? それを覚えていない。 忘れてしまった。 ――自分が追い求めていた音色は、本当に求めていた音色なのか? パポヴォットの妄想は分厚い氷ではなく、薄氷で出来たものだった。それに気付いた瞬間、氷が割れて、パポヴォットは不安の海に沈む。 慄き喘ぎ、3日間寝ずに考えて考えて、やっと鮮やかな妄想を掴んだ。 求めていた声音が戻ってくる。 けれどそれは、寝ればすぐに忘れてしまった。 幾度もそれをくり返し、ようやくパポヴォットは思い至る。 〈神〉が与えたもうた力が、無くなりかけているのだ。 妄想が、理想が、崩れていく。 いつ妄想がなくなるかわからなくなったパポヴォットは苛々するようになり、仕事で失敗を重ねるようになった。比例して、仕事の数が減っていく。罵倒される。昔のように。 それもすべて、妄想がなくなるからだ。 肉を切る感触。ぬるりとした臓物。硬い骨。生々しい想像が、妄想が、必要だ。 でないと、理想がわからなくなる。 暴力と罵倒と無関心の世界で、唯一心に沿ってくれる自鳴琴の、理想が。 パポヴォットは必死で妄想を繋ぎとめようとした。絵に描いて、妄想して、嘆いて、楽譜に音楽を書いて、妄想して、絶望し、逃げて行く妄想をこの世に表そうとして、無理を悟った。 〈神〉の力で助けられていた妄想は、矮小な自分の手では表現できない。 作りあげた妄想がなければ自鳴琴を作ることも叶わない。 しかし虚ろになったパポヴォットを、かの〈神〉は見捨てていなかった。 仕事の失敗を修理先に怒鳴られて家に帰ると、玄関の前に死にかけた黒猫が横たわっていた。 〈神〉が囁いた。 何を遠回りしている。そこに妄想を具現化する道具があるではないか。 パポヴォットは死にかけた猫を家に持ちこんで、 妄想が、戻ってきた。 否、現実となった。 肉を切る感触。ぬるりとした臓物。硬い骨。 閃きが花火のように弾ける。 今ならば、素晴らしい自鳴琴が作れる。 感触や臭いを忘れないうちに作った自鳴琴は、妄想を失ってからなくなっていた何かが取り戻されていた。 もっとだ。 もっと、あの妄想を取り戻さなければ。 パポヴォットは手当たり次第に犬猫を修理して回った。しかしやりすぎたのか、辺りでは犬猫を見かけなくなってしまった。 また、妄想が失われる。 もう耐えられない。 じりじりと焦がされるような日が続く。 とある日、ほぼ無償で行っていた教会の自鳴琴を修理した場で、見つけた。 美しい声。 まるで妄想が具現化したようだった。 感動に震えたが、すぐにそれは失望に変わる。自鳴琴は壊れていた。美しい音色を持っていながら、音程がわずかに外れていたのだ。 修理しなければ。 ――修理?いや、あれは人間だ。 あれは思考して動く。パポヴォットの望みとは違うように手足を動かし、喋る。 だから殺さなければならない。 殺して、物にしてから、修理をする。 だから、殺さなければならない。 ******** 彼女はその日、とても機嫌が良かった。 いつもキャラバを飲みに来てくれる、店の常連。彼は華やかさこそないけれど、とても気さくで、常々気になっていた人だった。そんな気になる異性からのお誘いに、女として首を横に振れるはずがない。 それでも夜遅くなるまでには帰るつもりだった。町を包む異様な緊張は、女の身を凍えさせるに充分で、普段の勤務帰りも警戒を怠らないようにしている。 だが気になる異性との、お酒を交えた会話は思った以上に楽しかった。楽しすぎて、夜が更けてしまった。 彼は「送るよ」と言ってくれた。しかしなんだか気恥かしくて、それを断ってしまった。心配だから、危ないから、と何度も言われているうちに、女性と言うより子供扱いされているような気持ちになって、少し拗ねた気分になったのもいけない。少し気弱な彼は彼女の尖らせた口に負けて、心配しながらも別れてしまった。 別に家に誰かいるわけでもないのだから、送ってもらえば良かった、と人気のない夜道を歩きながら彼女は後悔する。 自分の足音がやけに響いて、不安を煽る。 街灯の明かりで濃くなった暗闇から、今にも誰かがぬぅ、と現れそうだった。 ――大丈夫よ。騎警団だって見回っているんだし……。 恐いと思うから、恐くなる。彼女は強張った気持ちを解そうと、わざと明るい鼻唄を歌った。近所迷惑にはならないよう、ひっそりと。けれど、自分を勇気づけるように。 コ、コツン。 不意に、足音が二重になった気がして、振り向いた。 誰もいない夜道だ。石畳が淡く街灯と月明かりで光っているだけの、何気ない光景。 彼女は前を向いて歩きだす。 コツン、コツン、コツン、コ、コツン。 ――音が、重なってる。 脳裏に過ぎるのは幽霊ではなく、実体のある殺人鬼だ。でもそんな、まさか、と浮かんだ考えを否定する。殺人鬼に遭う確率なんて、どれほど低いか。 コ、コツン。 知らず、彼女は足を速めた。 コ、コツン、ココツン、ココツン。 背後から追ってくる足音は、もはや隠す気が失せたように思えた。気付かれたことに、気付いた、のだ。 ――誰か、誰か誰か誰か! 叫び出したいのを堪えた。叫んだほうが良かったのかもしれないが、そうすることで本当に襲われたらどうしよう、という恐怖が喉に蓋をする。 視線だけが辺りを滑るように見渡す。 いない。誰も。 どこに行けば、騎警団の見回りに出会えるのだろう。 恐怖で息が弾んだ、そのときだった。 「すみません、お話よろしいですかね?」 びくっ、と彼女は身体を震わせ、こけそうになった。 しかしすぐに、それが自分に向けられた言葉ではないことに気付く。 「お兄さん、こんな夜更けに1人で歩くのは危ないですよ」 振り返ってみれば数メートル先、道が枝分かれしているところで、騎警団の服を着た金髪の青年がこちらに背を向けて立っていた。彼の目の前には、誰か――男がいるようだ。 たぶん、後ろにいたのが男だけならば慄いていただろう。しかし騎警団の人間が間にいることで、安堵が生まれた。 瞬間、男が奇声を上げながら騎警団員に襲いかかった。 ひっ、と彼女が息を呑む間もなく、横の路地からもう1人の騎警団員が風のように現れて、襲いかかった男を投げ飛ばして腕を捻り上げた。背中を手酷く打ったのか、投げられた男は奇声すら発せず痛みに悶えている。 「よくやった、エレクトハ。公務執行妨害で楽に逮捕出来たぜ」 「僕を囮にしたような言い方止めてもらえません!?」 「いいから時間確認しろ、ボケ」 「もうやだこの人……午前0時11分、公務執行妨害で逮捕」 ガチャン、と手錠をかける音がして、彼女はいつのまにか詰めていた息を吐き出した。 ――公務執行妨害って……酔っ払いかしら? そこでふと、男を投げた褐色肌の騎警団員と目が合った。 ギクリ、とするほどに鋭い金色の瞳だった。 「エレクトハ」 「了解」 金髪の騎警団員がこちらを振り向いて、駆け寄ってきた。普通夜道で男性に駆けて来られれば恐ろしく思うものだが、彼は騎警団員であるし、雰囲気がとてもやわらかい。警戒する気が起きなかった。 「 「……えぇ、はい」 柔和に微笑むその顔は、目も覚めるような美貌だった。想い人がいなければ、くらりとするような魅力の持ち主だ。 否、月明かりのごとく、わずかに妖しさを感じる視線は想い人がいても心臓に悪い。 「今は何かと物騒な時期です。僕が家までお送りしますね」 「あ、はい、ありがとうございます」 つい先ほどまで心細さを感じていた彼女は、今度はその申し出をありがたく受け取った。 心の余裕が出来たからか、ついつい視線が騒動のもとへ向かう。褐色肌の騎警団員が、細身の男に何か魔法をかけているところだった。 「あの、あの人はいったい……」 「あぁ、ただの酔っ払いですよ、 その言葉を聞いて、彼女は安心した。頭の隅で、もしかしてあの男が殺人鬼なのでは、という馬鹿げた考えが離れなかったのだ。冷静に考えれば、そんなめに遭う確率など低いのに。 お気になさらずに、と笑う彼につられて、彼女も微笑んだ。 翌朝、シェルダールダの殺人鬼を逮捕した、と騎警団より発表があった。 彼女はその発表に、勤務先の喫茶でふぅん、よかったなぁ、と思っただけだった。 背後から迫る足音に殺されそうになっていたことを、彼女は生涯知ることはなかった。 |