事態というものは観測していようがしていまいが、関係なく動くものである。
 そんな当然のことを忘れていたシャルロアは、昨日に引き続いて黙々と書類不備を直していた。
 第4師団の勤務室には相変わらず屍、もとい床で眠る団員たちがわずかにいるだけで、後は師団長とシャルロアがペンを滑らせる音しかしない。時折、日誌をめくる音が紛れる程度である。
 ――なんだこの書類、最後の方眠くて適当に書いた感がすごい。
 誤字どころか文法自体がおかしくなっている報告書に目を通す。見る書類見る書類、こうまでして不備だらけだと、いっそ第4師団員全員に『こどもでもわかる!ただしいしょるいのかきかたこうざ』をやったほうがいいかもしれないとさえ思う。その準備に忙殺されても、今のシャルロアならば文句は言わない。
 本気で師団長に進言しようか悩んでいると、勤務室のドアが勢いよく開いた。
 驚いて顔を上げる、前にシャルロアは室内の空気ががらりと変わったことに気付く。
 日向水に氷を落としたような冷たい緊張感が、唐突に部屋に満ちた。

「師団長。メルを借りて行く」

 冷気の発生源――ファルガ・イザラントは上官に何の説明もなく、端的に用件を述べる。対して師団長もそれが当然であるかのように頷き、シャルロアに視線を移す。

「メル君。以降はイザラント君の命令に従いなさい。武器を携帯するように」
「りょ、了解しました」

 今、手元にある書類をどうすればいいかなんて、聞かなくても察しが付く。目の前の紙束を片付けるよりも、ファルガ・イザラントの呼び出しの方が優先順位が高いのだ。これらは放っておくしかない。
 机の引き出しにしまっておいた拳銃嚢を制服のベルトに取りつけて、彼女は慌ただしく立ち上がった。
 いかな愚か者でも、シャルロアが呼ばれた理由は察するだろう。
 ――目撃者が見つかったのか。
 ファルガ・イザラントが宣言したとおりに。
 だが副師団長自らが呼びに来た、ということは、大きな問題が発生したのかもしれない。
 ドアの方を見れば、ファルガ・イザラントの背中が扉の陰に隠れようとしていた。その姿を見失わぬよう、シャルロアは彼を追って小走りで勤務室を出る。
 追いついた広い背中に、シャルロアは硬い声で問いかけた。

「副師団長が自らおいでになったということは、何か問題が発生しましたか?」
「適材適所だ」

 予想外の答えに、彼女は眉根を寄せる。
 ファルガ・イザラントは少しこちらを振り返り、口端を吊り上げた。金色の瞳が自分に向けられただけで、心臓に冷や水を浴びせられたような心地になる。

「俺は『雷鳴獅子』だからな。一般人は俺を前にすると畏縮するそうだ。だから普段から聞きこみ捜査にはあんま参加しねぇんだよ」
「あぁ……はい」

 つまりエレクトハが目撃者の相手をしているから、自分が呼びに来たに過ぎない、と。それを師団長はわかっていたから、平然と指示を出したのだろう。
 おそらく一般人相手でも今のような威圧感を醸し出しているに違いない、とシャルロアが考えると、その思考を睥睨するように金の双眸が鋭くなった。

「納得してんじゃねぇよ。俺だってな、師団長に言われて一般人相手にゃ猫被ってんだぜ」
「猫なんて愛らしいものを被れたんですか……」

 するっ、といらんことを漏らしてしまって、シャルロアは慌てて口を覆った。肉体的な疲労は無いが、酷過ぎる書類を捌いたり、師団長の罠に警戒したりするので精神的な疲労が溜まっているのかもしれない。思ったことが推考する間もなく口に上ってしまう。
 にしたって、よりにもよって失言をファルガ・イザラント相手にやってしまうとは。
 恐る恐る彼の様子を窺う。
 何故かゴロゴロと喉を鳴らしながら、機嫌良さそうに目を細めていた。

「なんだ、お前。猫派か」
「え」
「猫がかわいいっつったじゃねぇか。知ってるか、獅子も猫の仲間なんだぜ」
「全力で鳥派です」

 いや確かに猫はかわいい。街中で見かけたら触らせてくれ、と思うくらいには好きだ。しかしだからと言って猫の仲間である大型獣が好きかと問われれば、戸惑いなくいいえと答えられる。はいと答えられる人間は少数だろう。
 ファルガ・イザラントはちっ、と軽く舌打ちして鼻白んだ。機嫌がコロコロと変わる様は猫科である証明のように思える。
 ――信じられないことに、この人、人間なんですけれどね……。
 直後、本当に人間なのか不安になった。実は獣人だったと言われてもすんなり納得出来そうだ。
 一瞬、桃色の蝶を彼に止まらせてみようか、と彼女は本気で考えた。
 銀色の蝶と同じように、桃色の蝶にも制限はある。無機物の記憶は読みとれないし、どうやら犬や猫など、自分と会話が成り立たない生物の記憶も読みとれないようだ。それは幼い頃試したので、確かである。
 獣人も人とは違う言語を持っている。しかし言語を持っているから意思疎通は可能だろう。なのでおそらく、まったく見えないということにはならないだろうが、記憶映像は乱れるだろうと推察し、結論としている。もしかすると獣人も問題なく映像を見られるかもしれないが、シャルロアは思考する生命体の記憶映像を意味なく見ることをあまり良しとしていない。緊急時や自分に危機が迫った場合はやむなしとしているが、私的領域、個人情報は本来見るべきものではないからだ。
 というわけで、こればかりは他人に聞くことが出来ない問題なので、自分で予想し結論付けるしかない。
 それから死者の記憶も読みとれないことは知っている。
 シャルロアが8歳になった年、母方の祖父がこの世を去った。その葬式で祖父の遺体を前にした彼女は「おじいちゃんは今、なにを思いだしているのかな」という好奇心につられて異能を使った。
 蝶からは、何の光景も伝わって来なかった。
 魔女の異能を以ってしても、死者と生者の境界線を越えることは出来なかったのだ。
 だからシャルロアは事件現場で、遺体に異能を使わなかった。使ったとしても、何も見えないことを知っているのだから無駄なことだ。
 ――ともかく、敵のことを知っておくのは良いことだし……。
 獣人だったからどういうことはないが、知れる情報は知っておいて損は無い。ファルガ・イザラントにおいては自分の命に関わる可能性があるので、魔女の異能を使うのもやむなし、だ。
 しかしシャルロアが宙に桃色の蝶を出現させた途端、焼けた金の目が細くなる。
 ――ふぉっ!?

「……あ?なんか、首筋がざわつくな……」

 ――獣かよ!
 褐色の首筋を不快げに撫でるファルガ・イザラントに、彼女は思わず心の内で突っ込んだ。
 確かに。
 確かに野生動物は、魔女の異能を察する様子を見せることもあるが、まさかそれを人間がやってのけるとは思いもしなかった。
 念のため蝶を消してみると、彼は小首を傾げながら首筋を撫でていた手を止めて思案顔になる。魔女の異能を察知しているとしか思えない。
 ――ファルガ・イザラントの第六感、恐るべし……。
 自分の魔法を怪しんでいるのも、この第六感があるからじゃないだろうか。彼女はうすら寒い気持ちを抱えながら、ファルガ・イザラントの後ろをついていった。





********





 再び訪れたデバイドウォーネ基地は、以前よりも緊張に包まれているようだった。転移室で会った師団員や、廊下ですれ違った師団員の表情は硬く、歩く速度も速い。目撃者が見つかったことで、誰しもが気が急いている。
 それも無理からぬことだ。今回の連続殺人犯の犯行速度は速い。わずか半月のうちに5人も殺している。このまま捜査がもたもたしていれば、1ヶ月のうちに犠牲者は10人になるだろう。それだけは避けねばならない。
 ファルガ・イザラントの後をついて行った先にあったのは、第2部隊の取調室だった。その部屋の前にある長椅子で、エレクトハと30代後半くらいの女性が和やかに話をしていた。
 女性はこちらに背を向けていたので、先にシャルロアたちに気付いたのはエレクトハの方だった。心なしか少し見ない間に、やつれているような気がした。それでも美貌を失っていないところが彼のすごいところかもしれない。

「副師団長、こちらが目撃者の女性です。2日前に怪しい人物を見たと」

 描画帳を持ったエレクトハが、目撃者の女性の手を取って立たせる。
 女性は不安げな表情でこちらを振り返った。
 途端に、斜め前に立つ男の威圧感が薄くなった。
 ――は?
 あまりの薄らぎように、思わずずっこけそうになったシャルロアだが、それは他でもないファルガ・イザラントによって押し止められた。

「第4師団副師団長ファルガ・イザラントと申します。ご婦人(フェレン)、貴重な目撃情報とそれを提供してくださる勇気に感謝致します」

 ――だっ、だっ、だっ、誰だこれぇぇっ!?
 少なくとも『被害者の名前が言えなかったら撃つ』とか言っていた人間ではない。
 目撃者の手前、動揺はなんとか隠しつつ、彼女は斜め前の男の顔を盗み見た。見て、後悔した。
 いつもの飢えたような、獣の笑みではない。少しばかり威圧感はあるが、それも軍人であるからと言い訳出来る程度のなまぬるい笑みを浮かべている。
 つまり違和感が仕事をし過ぎていた。
 エレクトハを見れば、英雄の登場に目を丸くする女性の後ろであらぬ方を見て遠い目をしていた。違和感を激しく感じているのは自分だけではない、と知れただけでも心強い。
 ――なるほど。副師団長、マジで猫被ってるんですね……。
 こればかりはそう教育した師団長を褒めるべきかもしれない。今思い返せば、シャルロアだってファルガ・イザラントのとんでもない伝説を聞いたのは士官学校に入学して2カ月過ぎたころだった。それまでは普通に、ファルガ・イザラントは国の窮地を救ったすごい英雄だと思っていたのだ。
 なのに2カ月を過ぎたころからほろほろと、やれファルガ・イザラントに敵の本拠地を偵察させにいったら敵組織をぶっ壊して帰って来ただの、やれ己の謀殺を完膚なきまでに叩き返して首謀者を団法会議にかけただの、恐ろしい噂が聞こえ始めたのだ。それでも、話半分くらいの気持ちでいた。まさか、全部が全部本当の話なわけないだろう、と。
 この目で、校長の肩に憤怒の形相を浮かべて氷柱を蹴りいれる彼を見るまでは。
 今はあの噂、本当じゃない噂を探すほうが大変だと思っている。
 上官の変貌ぶりに鳥肌を立てていると、その彼に紹介をされた。

「彼女が似顔絵作成に協力します。無理に思い出そうとせず、記憶にあるものだけを伝えてください」

 言って、ファルガ・イザラントは下がった。なるほど、猫被りはよけいなことを言わないようにするのも込みで猫被りであるらしい。
 シャルロアとしても、目撃者の記憶がファルガ・イザラントの威圧感に押されてぽーん、と飛んでいってしまわないうちに仕事にとりかかりたかった。
 彼女はにこやかに後を継いだ。

「初めまして、シャルロア・メルと申します。硬くならず、思い出せることから思い出していきましょう」
「は、はい」

 目撃者の女性は、それでもどこか緊張した様子だった。その気持ちは、まだ騎警団員新米であるシャルロアには理解できる。一般国民は普通、騎警団基地に来る用事などほとんどない。堅苦しく厳しい仕事である印象が強いため、いらぬ緊張もしてしまうだろう。
 くわえて、迎えに来たのは目も覚めるような美男、さらに現れたのは国の英雄だ。この顔ぶれでどこの女性が安堵すると言うのか。
 エレクトハから描画帳と鉛筆を受け取ったシャルロアは、笑みを絶やさぬことに気をつけながら、取調室のドアを開いて彼女を招いた。
 ――副師団長、よりはエレクトハさんの方がマシそうだな。

「……エレクトハさんも来ていただけます?」
「え、僕も?」

 意外な申し出だったらしく、エレクトハは青い目を丸くした。その視線が副師団長に向かう。
 ファルガ・イザラントはちらとシャルロアを見てから、エレクトハに対してあごをしゃくって見せた。行け、という合図、なのだろう。エレクトハも視線で頷いた。
 2人で取調室に入ると、女性は所在なさげに部屋の中央に置いてある事務机と椅子の前に立っていた。2つあるうちの一方を勧めて、シャルロアは机を挟んだもう1つの椅子に座った。エレクトハはありがたいことに、シャルロアの後方に待機してくれた。
 ――さて、とりあえずは申し訳ないけど魔女の異能を……。
 発動しよう、としたところ、女性から不安げな言葉が漏れた。

「あ、あの、私、変な人だなぁって思った人を見ただけで、その人が本当に犯人なのかは自信がなくて、こんな情報をお話していいのかわからないんですが」

 自分の目撃証言次第で騎警団の捜査が左右される、と彼女はわかっているらしい。すっかり恐縮してしまっている女性に、シャルロアは穏やかな笑みを向けた。

「どのような情報でも大丈夫です。お話ししてくださった情報が事件と関係あるかどうかの精査は、私たちの仕事ですから。どんな些細なことでも結構ですから、変だと思ったことはなんでも気軽に言ってくださいね」

 シャルロアの言葉に女性はやっと緊張を解いた。
 では、とシャルロアは描画帳を開いて鉛筆を持つ。それからごく自然に魔女の異能を発動させた。
 桃色の蝶が、女性の肩に止まる。
 翅も、はためかさない。
 彼女と記憶の回線が繋がった感覚がする。
 脳内に直接送りこまれてくる映像は、暗かった。夜道だ。街灯は少なく、家の灯りも夜の美しい静寂に敬意を表すかのように、眠りに落ちていた。
 ――夜の目撃証言。2日前、夫婦が殺害された事件の犯行推定時刻も夜。矛盾は無い。
 記憶映像が歪んで、いきなりエレクトハが出てきた。玄関――おそらくこれは目撃女性の家の玄関だ――を開けた先で、エレクトハが非常に優しげな笑みで何事かを喋っている。
 ――聞きこみされたときの記憶?
 見たいのはその記憶ではない。シャルロアは鉛筆を持ったまま、にこりと微笑んだ。

「とりあえず、その怪しい人を見た状況を思い出していきましょう。いつ頃見かけましたか?」
「あ、えぇ、夜……深夜です」
「深夜?お仕事が長引きましたか?」
「いえ、私、酒場で働いているので」

 映像が歪む。今度は酒場で床を磨いている場面だ。視界にちらちらと、モップを持った彼女の手が見え隠れする。

「その日は、お客さんが来なくて。いえ、最近は色々物騒だから、お客さんが減っていたんです。それで、酒場の主人が『客も来ないのに開けてるのも馬鹿馬鹿しい』と言って、その日はむしろ早めに閉めることになって。と言っても片づけをしていたら、店を出れたのは結局深夜の2時半過ぎでした」
「誰かに送ってもらったりは?」
「いいえ。いつもより早く上がれるんだから大丈夫だろう、と思って」
「1人で帰られたんですね」
「はい」

 場面がまた変わる。最初に見た、眠った街並み。灯りは乏しく、中途半端にある光が、一歩を踏み出すのも不安になるような濃い闇を作っている。
 記憶の中の女性が、自分の腕を擦る。彼女も不安がっていた。

「でも、やっぱりなんだか不気味で。自宅があるサラガ地区を速足で歩いていたら、前から……なんだか嫌な感じがする男がふらふら歩いて来たんです」

 ――来た。

「何時ごろだったかわかりますか?」
「家が近かったから……たぶん、3時過ぎくらいじゃないかしら」

 集合住宅が並ぶ道。濃くなった闇からぬるりと抜け出すように、男が街灯のもとに現れた。夏が近いというのに、真冬に着るような分厚い薄汚れた外套を着ている。ズボンも靴も、それに似つかわしくボロボロだった。少し長めの黒い髪にもまとまりや潤いはなく、毛先が赤茶色になるほどに痛んでいる。まともな格好ではない。
 しかし何よりシャルロアをぞっとさせたのは、男の体型だった。
 痩せぎすだった。外套からわずかに見える首は頭を支えているのが不可思議に思えるほどに細く、頬がげっそりとこけている。
『重度の妄想癖を患ってる奴は食事を摂らねぇ。だから痩せてる』
 ふっ、と女性の視線が男から外れた。異様なものを感じた彼女はおそらく、男と目を合わせないようにしたのだ。見えるのは石畳になった。

「……男はどちらの方面へ向かっていました?」
「ええと……東の方だったと」

 シャルロアが尋ねると、彼女の記憶が巻き戻る。男がぬぅ、と街灯の下に現れた瞬間。

「どんな印象を持ちましたか?」

 映像が止まった。彼女は今、懸命に思い出そうとしている。

「……目が、ぎょろりとしているふうでした」
「ぎょろりと」

 相槌を打ちながら、シャルロアは記憶映像を頼りに鉛筆を動かす。おそらく目がぎょろりとして見えるのは、頬があまりにも痩せこけているからだ。
 しかし男の目に生気が感じられないのも、不気味に思える要因だろう。
 深く潜った海のように、濃く暗い青色をしていた。

「目の色は覚えていらっしゃいますか?」
「え、ええと……」

 目の前の女性は困ったふうに眉根を寄せた。おそらくそこまでは思い出せないのだろう。
 桃色の蝶を使うとき、気をつけなければならないのはここにもある。本人が覚えていない事柄も、桃色の蝶で読みとれば写真を見るかのように鮮やかに仔細がわかるのだ。
 だから彼女が怪しい男の目の色を覚えていなくても、シャルロアは彼女の記憶でわかっている。深く濁った青い瞳を、シャルロアだけがわかっている。
 ―― それじゃあ、困る。
 シャルロアはあくまで似顔絵作成をしているのだ。本人が出さない情報を出してしまっては意味がない。偽情報扱いになるし、最悪は魔女の異能の発覚に繋がる。
 そうならないために、目の前の彼女から、上手く言質を取らねばならない。

「暗闇の中、それに反するような色だな、と思ったりしましたか?月のように明るい、とか、炎のように赤い、だとか」
「……いいえ。思いませんでした。どちらかと言えば、周りにとけこみそうな……」
「ということは、寒色系の瞳ですね?それも暗めの。髪の毛はどうでしたか?」
「ボサボサしていました。髪を梳いていないような……色は黒です」
「鼻の感じはどうでしょう?高かったですか、低かったですか?」
「普通……だったと思います」
「唇は薄く感じましたか?」
「……あぁ、ええ。そう、とても薄そうで、それがなんだか恐くて」
「神経質そうに感じたり?」
「はい」
「顔の形は丸顔でしたか?それとも面長でしょうか。顔の線は鋭いように感じたりしませんでしたか?」
「面長……だったのかしら。なんだかそう、げっそりしているような」
「頬がこけたような感じでしょうか?」
「えぇ、そうです」
「ということは、全体的に痩せぎすの男だったんですね」
「はい」
「背丈は、彼よりも高いと感じましたか?」

 シャルロアは背後に立つエレクトハを示した。おっ、というふうに彼は背筋を伸ばす。女性は口元に手を当てて、しばし黙り込んだ。

「同じくらい、か、低かったかも……」

 シャルロアも彼女の記憶を見つめる。周りの建造物から推測するに、確かにエレクトハと同じかそれより若干低い身長であることが確認出来た。

「エレクトハさんは……175センチ以上ありますよね?」
「178だね。だから180から173くらいまでを目安にするといいかな」

 なるほど、と参考にして、シャルロアは女性への質問、という名の誘導に戻る。

「服装は覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。夏なのに、冬の外套を着ていたので……」
「外套?」
「はい。黒い、すごくボロボロの外套を。ズボンや靴もそんな感じでした」
「外套はどんな形でした?」
「イセレン型です」

 ――よしよし。記憶に近付いて来てるぞ。
 この女性の記憶力は思った以上に高い。人によってはここまで事細かに覚えていなかったりするのだが――もしかすると彼女は仔細に覚えるほど、この男に不気味さを感じたのかもしれない。
 しゃかしゃかと鉛筆で犯人を描き、シャルロアは出来た似顔絵を彼女に見せてみた。

「どうでしょう?こんな感じですか?」

 見せられた女性は、わずかに眉根を寄せて、小首を傾げた。

「すごく、似ている、と思うんですが、何かが……」

 ――おおっと、さすがに意図的に間違えた部分はわからないか。
 一発で似せてしまっては目立ちそうなので、シャルロアはわざと目元を違うように描いてみせたのだ。女性が違う点を指摘してくれれば儲けものだったが、さすがにそこまでは望めなかった。

「そうですね、目元とかどうでしょう?目付きが違うだけで、人間の印象ってすごく変わるので……もっと吊り目だったり、逆に垂れ目だったりしませんでしたか?」
「あぁ、言われてみればもっと吊り目でした」
「直してみましょう」

 ささっと描き直して、もう一度見せてみる。
 女性は目を丸くした。ぎくり、と身まで強張らせる。

「この人だわ……!」
「間違いありませんか?」

 後ろに立っていたエレクトハが乗りだして、描画帳の似顔絵を見つめている。表情は穏やかだが、瞳は険呑だった。
 彼もファルガ・イザラントから、痩せぎすの男に注意するように言われていた。似顔絵の男はまさにそれに当てはまるので、緊張しているのだ。
 女性は幸いにも、その緊張に気付かずに頷いた。

「えぇ、本当にそっくりよ。記憶が曖昧で不安だったけれど、間違いないって言えるわ。今にも金臭い臭いがしてきそう」
「……金臭い?」

 シャルロアの呟きに、彼女はそうなの、と補足する。

「最初は私も浮浪者だと思ったの。だけどすれ違ったときに、金臭いと言うか……」

 言い淀んで、その目が伏せられた。

「……私、酒場に勤めているから、殴り合いの喧嘩もしょっちゅう見ているの。それで流血騒ぎになったときと、同じ臭いが……」

 つまりそれは。
 思わず言いかけてしまったシャルロアを制するように、エレクトハが先に口を開いた。

ご婦人(フェレン)、ご心配はごもっともです。必ず我ら騎警団がその憂慮を取り除いてみせます」

 力強く言い切ったエレクトハは、模範解答をしたようだ。女性の不安げな表情は薄れ、肩の力が抜けている。
 ――つまり彼女は、血の臭いを纏うような男とすれ違った。
 酒場にすら人が集まらなくなった、殺人鬼に怯える町。そんな町で深夜、血の臭いがする人間と出会ったなんて、下手な怪談話よりもぞっとする。
 改めて実感する。
 新聞紙の中にいる犯罪者ではない。
 5人も殺した殺人鬼は、この町で生きているのだ。
 ――もしも。
 もしも、この似顔絵の男が犯人であるならば。
 目の前にいる女性は、とてつもない幸運に恵まれて、今を生きている。
 その動揺を押し隠すのに、酷く苦労した。ここで自分が怯えてはならない。そんな状況だったと、少なくとも今、彼女に印象付けるのは避けなければならない。
 微かに震えるシャルロアの手から、エレクトハがひょいと描画帳を奪った。

「それじゃあ僕は一旦この似顔絵を第2に提出したあと、彼女を家に送ってから戻ってくるね。それまでに副師団長とどうするか話を詰めといて」
「はい。ご協力、ありがとうございました」

 手を引かれて立ち上がった女性に敬礼すると、彼女も目礼を返してくれた。そしてそのままエレクトハに付き添われて、取調室を後にした。
 ――っだぁー、エレクトハさんってマジ優秀だな!後方支援がすっごい上手い。
 シャルロアは再び椅子に座りこむと、がん、と事務机に額をひっつけるように突っ伏した。
 魔女の異能を隠す方に集中していたので、それ以外のことに気を配れていたかよくわからない。だが背後にいるエレクトハが口を挟んだのが最後だけ、ということを鑑みるに、上手くやっていた、のかもしれない。
 そうであってほしいと思う。ここでは役に立てなければ生き残れない。
 第4師団を追い出されても騎警団には残れると思うが、その場合、第6師団に移れるのか不安なのだ。第5師団が何かよけいなことを言ってくれそうな気がする。あの副師団長すら人事には逆らえないと言っていたのだ。諜報がお手のものな第5なら、人事の人間の秘密を色々握ってそうで恐い。
 ――第5で諜報活動するくらいなら、第4で事務員やってた方がマシだわ。
 とりあえずは第4師団から追い出されないように、最善を尽くす。
 よし、と顔を上げた先に、ファルガ・イザラントが座っていた。

「ふぶっ!?」

 動揺しすぎて、変な声が出た。
 ――いやだっておかしいよドアが開く音とかしなかったし歩く音もしなかったし椅子に腰かける音すらしなかったしそもそも気配がなかったし!
 幽霊もびっくりするようなことをしでかしてくれた副師団長本人は、頬杖をついて、火に焼けた金の瞳を細めてシャルロアを見つめていた。
 一見、無関心に見せるその奥に、好奇心と猜疑心が巧妙に隠れている。
 シャルロアはぎくりとしたことを、隠した。

「……お前、ずいぶん不思議な質問を繰り返したな」
「不思議な質問?」

 ――というか、この人、部屋にいなかったのにどこでやり取りを見てたんだろう。
 さすがに訝しげな気配が伝わったのか、ファルガ・イザラントは頬杖をついたまま、ちらりと壁にかかった鏡に視線を向けた。

「騎警団の取調室にかかっている鏡は特殊だ。鏡を通して映像と音声が別室に届くようになってる」
「そうなんですか」

 驚きながら、冷や汗も掻いた。つまりこの男は、自分の似顔絵作成を見ていたことになる。
 ――うわぁ、危なかった。エレクトハさん対策だったけど、1回描き損じておいてよかった!

「犯人を目撃した状況を確認することは、よくあることだ。位置によっては顔の作りが違うように見えるからな。が、お前の質問の仕方は目的(・・)が違う気がする」

 ――相変わらず、嫌なところに注目してくれる。
 シャルロアの異能は、相手がそれを思い出そうとしていなければ上手く活用できない。だからどうしても記憶を刺激するために、記憶に迫る質問をしなければならないのだ。
 この質問の仕方も絶妙に難しい。最初から記憶の一部分のみを思い出そうとされると、シャルロアに映像が届きにくくなる。演劇の内容を思い出そうとするのと、演劇の光景を思い出そうとするのとの違い、なのかもしれない。
 一部分を思い出すのではなく、あくまで全体を思い出してもらう。今回の場合は不審者の内容ではなく、不審者を見た光景を思い出してもらいたかったのだ。
 なんて説明を、出来るわけがない。
 シャルロアは伝家の宝刀を抜くことにした。

「不手際があったのなら申し訳ありません。さすがに似顔絵捜査のやり方は総務では習わなかったもので……。目撃状況を確認したと言うよりは、世間話で女性の緊張を解こうと思っただけです。副師団長と会って、ずいぶん肩の力が入っていたようでしたから」

 そもそも似顔絵捜査なんて将来すると思わなかったから、やり方なんて全然わからないですよー、目の前にいるのは新米ですよー、主張である。数か月経てばこの作戦は効果が薄れるが、さすがに勤務3日目の新米に「嘘だろ」とは断じきれまい。
 金色の双眸に、ちらりと思案が混じる。
 その隙に、シャルロアは別の話に切り替えた。

「というか副師団長、良かったんですか?目撃情報者に第4師団だと名乗ってしまって」

 第4師団が捜査した初日は、自分たちが関わっていることは外部には秘していたはずだ。なのに、地元住人に第4師団員だと名乗るのは矛盾している。
 ファルガ・イザラントは眉を引きつらせ、低く唸るような声音になった。

「今朝、捜査方針を変えたんだよ。地元の大衆紙(ゲテル)が一面で被害者の遺体状況を報じてくれたもんでな」

 うえっ、とシャルロアは顔をしかめた。

「よりにもよって大衆紙ですか……どっから漏れたんでしょう」
「記事の内容は第2被害者の外見と一致してる。被害者の親族が遠くにいたから、同じ酒場で歌手をやっていた女に顔の確認をさせたらしいぜ。身辺捜査で、その女には借金があるのがわかってる。それに被害者が住んでたアパートの管理人も、家賃の回収が出来ねぇってぼやいてたらしい。おそらくあそこ辺りが、情報料欲しさに大衆紙に売ったんだろ」
「……まさか、遺体をそのまま見せたんですか?」

 もしそうだとすると、確認させられた方に少し同情する。
 ファルガ・イザラントは盛大に眉をひそめて、目を細めた。怒気がこもっているわけではないので恐れる必要はないとわかっていても、狙いを定めた獅子を相手にしている気分になるので止めていただきたい。

「んなわけねぇだろ。女の方には遺体をキレイにしてから確認させたが、腹の傷は服で隠せても、喉の傷は隠せなかったんだよ。あとは管理人の方が現場をきっちり見てるから、腹が割かれてるのも当然見てる。まぁ殴られて喉と腹を切られた、って情報が漏れただけで、腹の中がおかしいことになってたとか、喉仏がないだとか、重要な情報は漏れてねぇから捜査に害はねぇ」

 人々は事件の詳細を知りたがる傾向にあるが、捜査する方からすれば開示するわけにはいかない情報も多い。それは国民に不安を覚えさせるから、というだけではなく、犯人と捜査する側だけが知りえる情報が必要だからだ。
 例えば私が犯人です、と名乗りを上げてきた人物をそのまま逮捕するわけにはいかない。その人が本当に犯人かどうか証明するには、一般には知られていない情報を持っているかを調べる必要がある。
 おそらく今回絶対に一般に秘したい情報は、喉仏がなくなっていることだ。犯行の説明をするときに、その話が出るかどうかが大きな鍵となる。

「だが領民には不安を煽る材料になるってことで、第4師団が捜査していることを隠さない方向に転換した」

 ふむ、とシャルロアは目を伏せる。
 第4師団は精鋭である、ということは一般に広く知られている。その師団が介入したということは凶悪事件である、という宣言に他ならないが、すでに5人も被害者が出ており、なおかつ遺体状況が出回ってしまった今では第4が介入していると公表してしまった方が、領民たちに不安が広がらない、と判断したのだろう。

「あの目撃証言を軸にして追いますか?」

 シャルロアの問いに、ファルガ・イザラントは視線で頷いた。

「目撃者の家はサラガ地区にあるっつってたな。そこより東に向かって歩いてたってことはだ、その先にはアルトメント地区がある。あの証言は無視出来ねぇ」

 彼によると、決定的な証拠があるわけではないので指名手配することは出来ないが、聞きこみ捜査をしていく上で優先的に尋ねる項目にはなるそうだ。
 ――これで捕まるといいけれど……。
 けれど事がそう簡単でないのはシャルロアにもわかる。容疑者の顔がわかっていても、捕まらない者の多いことと言ったら。
 ――顔が割れてるくらいで捕まるなら、盗賊団とかばたばた捕まってるし。
 でも現実はそうではない。彼らは上手く隠れて生きている。
 だから、たぶん、この事件もそうなのだろう。
 そう考えることに、シャルロアは違和感を感じなかった。
















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