勤務2日目。
 昨日の苛酷さを覚悟して出勤すると、シャルロアの予想に反して第4師団勤務室での事務作業を命じられた。
 シャルロアの仕事は元々事務作業であったはずなので、これが業務内容としては正しいはずのだが、最初に変則的な仕事をさせられたせいで、少々面食らってしまった。

「私としても早く目撃証言が出ることを望んでいるのですが、こればかりは地道に聞きこみをしなければなりません。というわけで、イザラント君から呼び出しがあるまで、君には通常の仕事をしてもらいます」

 柔和に微笑みながら渡された書類の山は、重さで人が殺せそうだった。
 ――わぁ。
 シャルロアは腕の中の書類を見て、意識を遠くに飛ばしかけた。一番上にある報告書の日付が2年前だ。2年間も、この報告書は未処理のまま放っておかれたのだ。

「……師団長。こ、これ、マズくないですか?」
「大変よろしくないですよ。だから、君の手腕に期待しています」

 やわらかく微笑んでいるように見えて、緑の瞳がまったく笑っていない。シェストレカ師団長もこの事態を望んで引き起こしているのではないのだ。
 それを瞬時に悟ったシャルロアは踵を返して、自分にあてがわれた席についた。一応師団長付きの事務員、ということで作業効率も考えられた結果、シャルロアの席は師団長の席に近い場所に作られた。新米がこんな場所を取っていいのだろうか、と思ったが、勤務室内にいる、もとい床で寝ている団員たちは特に気にした様子はなかった。ので、シャルロアも気にしないことにする。
 正直、そんな瑣末なことよりもこの書類が捌ききれなかったら師団長に殺されるかもしれない、という恐怖の方が強くて、追われるようにペンを持った。
 その結果、わずか5分ほどで思い至ったのは『第4師団の書類は酷い』ということである。
 総務部門1年生が前期に作った書類か、と思うほど不備がある。むしろ不備しかない。
 誤字脱字があるのは当たり前。さらには領収書の添付忘れや、経費の報告忘れもある。その上で計算間違いも犯してくれているので非常にうっとうしい。極めつけに報告書の日付が入ってないものまである。
 ――え、これ、どうしろと?
 報告書が書かれた日付など、シャルロアは知らない。だがこういう書類の日付とはとても大切なのだ。
 ――あぁぁっ、くそっ、誰だこんな初歩的な失敗を犯してるのは!
 名前記入欄にも、名前がない。
 シャルロアのこめかみに、青筋が浮いた。
 ――次!とりあえずこれは後回しだ!
 次の書類は誤字脱字以前に、ミミズが死に際にのたうちまわったような字で書かれているので、判読不可能。どんな事件だったのかさえわからない。ただ単に、添付されている遺体写真が残虐的であるのを見せつけられただけの、報告書になってない報告書だった。これも名前欄の名前が読めなかったので後回しだ。記入者がわかったら、とりあえず一発殴らせていただきたい。
 そんなふうに、とりあえずは自分の手に負えるものと負えないものに分けてから、簡単な書類不備から補完していく。あくまで簡単な、書類不備、だ。不備であることに変わりはない。
 しかし誤字脱字程度ならとても可愛く思える。むしろこの程度の間違えで済ませてくれてありがとう、なんて血迷ったことも考えてしまうほどだ。
 シャルロアはそれを驚異的な速度で終えてから、どうしようもない、と思って後に回した書類処理に取りかかった。
 兎にも角にも、日付だ。報告書とは記録も兼ねているのだから、日付がなければ意味がない。なんでこんなことになっているんだ、と額に手を当ててから、気付いた。そういえばこの勤務室、時計はあっても暦表なるものがない。
 推測するに、連日の徹夜で時間と日付感覚がなくなった師団員たちが、報告書を書くときに『あれ、今日って何月何日だっけ……ま、いっか書かなくても』という適当な思考に辿りついたのだろう。そして適当な書類が作られたのだ。
 ――暦表くらい置いときなさいよぉぉっ!
 あとは朝礼で『今日は○月×日です。本日もがんばりましょう』という爽やかな挨拶を師団長がやってくれればいい……と思ったが、床に転がる師団員たちを見てそんな幻想は斬り捨てた。死んだように眠る彼らを起こして、爽やかな朝礼など迎えられまい。
 ――本当は、師団員に直接聞くのが手っ取り早いんだけど……。
 死体のように寝転がっている団員から聞くのは非常に戸惑う。睡眠時間的な意味で。
 シャルロアは15分眠ればいいが、彼らは普通の人間だ。最低でも睡眠時間を3時間欲する彼らを起こすのは大変忍びない。
 ――いやでも、この人たち起きたら仕事に行っちゃうんだよね?
 昨日はいたはずのエレクトハを今朝から見ないし、ファルガ・イザラントなんて昨日から現地に留まっている。勤務室で起きているのはシャルロアと師団長のみであることからしても、第4師団員は基本的に現場を駆けまわっているのではないだろうか。
 つまりここにいる人たちは、休みに帰ってきているわけで。そんな人たちの時間を削るのは申し訳ないわけで。
 シャルロアが唸っていると、勤務室のドアが開いた。
 顔を上げてそちらを見る。部屋に入って来たのは30歳前後に見える男性師団員だった。波打つ鉄錆色の髪を後ろに無理矢理に撫でつけ、無精ひげを生やしている。シェストレカやエレクトハのように白い肌ではなく、小麦色の肌をしているためか、首の筋肉が引き締まって見えた。その胸に2赤星紋章をつけているので一等兵ではなく、副分隊長だということがわかる。しかもこの部屋に入って来ておいて、気負いが感じられないことから第4師団員と見て間違いないだろう。
 否、気負いがない、とは少々違う。
 ――なんか、気だるそう。
 夕陽色の瞳を半分まぶたで隠しているせいで、精悍であろう顔立ちが気だるげ、というか、やる気がなさそう、というか、つまり率直に言うなれば『あー、面倒臭ぇー』感が満載なのだ。
 彼は1つ大きな欠伸をしてから、太い首をグギッ、と鳴らした。それからぬるりとシャルロアへ向かって視線が動く。
 目が合った。

「……んあ、アンタが噂の(ラーレ)か」

 ――らーれ?
 困惑している間に彼が近くに寄って来たので、シャルロアは起立して敬礼した。

「初めまして。シャルロア・メル一等兵と申します。昨日より第4師団長付き事務員として配属となりました」

 昨日は見なかった顔だし、もしかすると名前を間違って覚えられているのかもしれない、と思ったシャルロアは自己紹介をしたのだが、彼はにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。

「あー、知ってる知ってる。俺はクード・ケドレ。よろしくな、(ラーレ)さんよぉ」
「いえ、あの、メル、です」
「どうせすぐにイザラントに変わるんだろ?」

 ――は?
 シャルロアは凍りついて、思考が止まりかけた。
 ――らーれ、って、あれか、(ラーレ)かぁぁぁっ!
 てっきり名字を呼んでいると思いこんでいたものだから、単語に結び付かなかった。しかし結び付いた今、それを正さないわけがない。

「変わる予定はありません。どうぞメルとお呼びください」

 上官に対して無礼ギリギリの冷たい声音で返したにも関わらず、ケドレはどこか蛇を思わせるあくどい笑みでそれに応じた。

「くはっ、求婚蹴ったってのもマジなんだな」
「蹴ったのではなく、謹んでお断り申し上げただけです」

 その言い方だとまるでシャルロアが悪女のようではないか。誤解がないように訂正すると、ますますケドレが笑みを深める。

「はーん。副師団長はなかなかに骨のある(ラーレ)を見つけたもんだな」
「結婚予定はありません。ちなみにその噂、誰から聞いたんですか」
「そこに転がってるそいつから」

 ケドレの指した先の顔を、シャルロアは脳に刻みつけた。
 ――そうかそうか、貴方か。この事態の原因は。その顔、今、しっかりと覚えたから覚悟しておけよー。
 とりあえずこれ以上この話を続けるのは激しく嫌な予感がしたし、私語が過ぎるとペンを動かしている師団長に睨まれそうなので、シャルロアは強引に話を切り替えた。

「そうでした、ケドレ副分隊長ならばご存じでしょうか」
「んあ?」

 とりあえず一番上に積んでいた解読不可能な書類を彼に見せてみる。

「これ、誰が書いたかわかりますか?」
「あぁ、俺だな」

 だるそうな声音に思わず流されかけたが、聞き捨てならないことを言われた気がする。

「……この書類の作成者は、ケドレ副分隊長ですか?」
「おー、そうだが?」

 ケドレは悪気もなさそうに、肯定した。
 改めて書類の記入者名を見ても、これがクード・ケドレと書いてあるとは思えない。ミミズだってもっとマシな文字を書く、と言えるほど酷い文字だ。
 シャルロアは、にっこりと微笑んだ。
 自分では見れないけれど、おそらくこめかみには青筋が立っているに違いなかった。

「書き直しです」
「はぁっ!?」

 ケドレは途端に鉄錆色の眉根を寄せて凄んだ。さらに鼓膜を痛いほど震わせるような怒鳴り声も聞いたが、シャルロアは負けなかった。仕事がままならぬほど酷い書類ばかり作ってくれる師団員たちに、腹を据えかねていたのだ。目の前の男は苦情の窓口――でもないか、と考え直す。この男もまた酷い書類を増やしてくれた輩だ。文句を言う筋合いはある。

「よろしいですか、ケドレ副分隊長。報告書とは他人に読めなければ報告書ではないんです。他人に読めない書類は覚書といいます。そしてこの書類は覚書以外のなんでもありません」
「んなわけねぇだろ!この書類、すっげぇ丁寧に書いてんじゃねぇか!」
「読めません」
「適当抜かしてんじゃねぇぞ、てめぇコラァァ!?」
「抜かしてません。読めません。書き直して再提出を要求します」
「だからキレイに書いてじゃねぇか!誰にだって読める!」
「読めません」
「読める!」
「読めません」
「てめぇの目が節穴なだけだろうが!」

 ――ほう。
 彼女は笑顔のまま、水面下でブチ切れた。
 ――私の目が、節穴だと、こんちくしょうが?
 シャルロアは確かに総務部門から引き抜かれたばかりのひよっこだが、第4師団の書類はそのヒヨコが作る書類よりも遥かに酷い。つまり書類作成能力は第4師団員よりもシャルロアの方が上なのだ。そのあたりは伊達に総務部門に在籍していたわけじゃない。
 だと言うのに、この男は、書類仕事に関して、元総務部門の人間の目が節穴だと言い切ったわけだ。
 剣で侮られるのは仕方ない。銃で侮られるのもまぁ、わかる。魔法なんてこちらから申し訳ありません、と謝るしかないのは理解している。それらに関しては見下されていて仕方ない。今はまだシャルロアは新人も同然だし、所属する師団が違うわけなのだから、存分に下に見てくれればいいと思う。
 だがしかし、書類処理に関しては別である。
 相手が上官だろうがなんだろうが、関係ない。そもそも書類は上官になればなるほど、不備がないか神経を尖らせなくてはいけないと言うのに。
 現状、第4師団員の作る書類はシャルロア以下と言って過言でない。
 なのに、この男、暴言を吐いた。
 ―― その喧嘩、買ってやろうじゃないの。

「事務員として申し上げます」

 銀色の瞳を鋭く光らせて、シャルロアはケドレを睨みつけた。

「ケドレ副分隊長の報告書は覚書です。他人に読めない記録はゴミでしかありません。かろうじて読めるのは数字の部分だけで、どういう事件だったのかさえわからない始末です。ただ単に陰惨な遺体写真が貼り付けられているだけの紙ゴミです。他人に読める字で書き直してください」

 ケドレのこめかみが引きつった。夕陽色の双眸が怒りと恥辱に燃えている。

「てんめぇ、そう言うからにはてめぇの字はさぞお綺麗なんだろうなぁ?」

 シャルロアは無言で机に向き直って、適当な紙にペンを走らせた。その動きは流麗で、淀みがない。
 文字を書き終えると、彼女はケドレの目前に紙を突きつけた。
 そこには読みやすくて美しい書体で、クード・ケドレと書かれてあった。まるで教科書の印字のようだ。
 ケチのつけようのない完璧な字を前に、ケドレは密かに自分が書いた書類の字を彼女の字を見比べて、黙り込んだ。この時点でシャルロアは勝利を確信した。
 しかし買った喧嘩は徹底的に、がシャルロアの信条である。普段は挑発されてものらりくらりと喧嘩を避ける穏便なシャルロアも、一旦それを買ったなら以後舐められないように動く。そうすればお互いにそれ以降無駄な時間を避けられるのだから、良いこと尽くめではないか。
 そう言ったら弟に『姉ちゃんのどこが穏便なんだよ』と言われたが、ファルガ・イザラントと比べたら穏便どころか凪いでいるくらいの対応である。
 なので、容赦なく追い打ちをかけることにした。

「お望みであれば、ファーベット書体、レバン書体、ポルフェーン書体、イッセ書体、アイリーン書体、レイマン書体など、お好みの書体でお名前を書いてさしあげますが?」

 毎夜15分しか眠れぬ魔女の暇さを舐めてもらっては困る。自分の文字を美しく書く練習だけではなく、書体を模倣する練習など字を覚えてから速攻でやった暇つぶしだ。おかげで今はどんな書体でも、書くのなんてお茶の子さいさいである。
 ケドレは心底悔しげに、机に放られた自分の報告書をぐしゃりと握りしめた。シャルロアの完勝だ。
 シャルロアはにっこり笑って、数枚の書類を彼の手に渡した。

「これらも、書き直しです。書き直したら私が確認しますので、こちらに持ってきてください」
「この、悪魔め……!」

 そんな恨み言、勝利を告げる鐘の音のようにしか聞こえない。
 シャルロアはふふふ、と笑って受け流してケドレを追い払い、先ほど顔を覚えた師団員の肩を強く揺さぶって起こした。睡眠時間が少なそうだから起こすのはかわいそう、と思っていたのに、非常に面倒な話を広げてくれたのでそんな同情は吹き飛んだ。使える人間は使ってやろうではないか。
 ぐらぐらと揺さぶられた師団員は、まぶたを重そうに開いてシャルロアをとろんと見上げた。

「あー、うん?あ、(ラーレ)……!」
「メルです。どうぞお見知りおきを。それはさておき、書類についてお聞きしたいんですが」
「え、あ、ちょっと待って、俺、3日徹夜続きで……」
「書類についてお聞きしたいんですが?」

 有無を言わさず、日付のない書類を突きつけて、この事件がいつあったものなのかを質問する。しかしその答えは、彼が徹夜明けということを除いたとしても芳しくはなかった。彼らも2年や1年前の事件詳細なんて忘れているし、日付なんて記憶の彼方にも無かったのだ。
 結局過去の日報を読み漁るハメになり、どうやらこの事件はこの日に解決したらしいと思われる記載を見つけて報告書の不備を補完した。
 これ、師団長はどうやって処理してるんだろう、と思ってシェストレカを見れば、彼も日報を読み漁っていた。シャルロアは初めて、師団長に同情した。
 その後もペン先を削る勢いで書類を捌き続けた。
 そうして昼休みが近くなった頃になってやっと、不備がまったくない書類に行き当たった。師団長の判子さえあれば後は完了となる、とても楽な書類である。
 第4師団員の作る書類不備の多さに辟易していたシャルロアは、うっかりその書類にトキめいてしまった。何の修正もいらずに、目通しするだけで良い書類の素晴らしさときたら。
 いったい誰が作成を、と名前欄を見て、シャルロアはトキめいたことを深く後悔した。
 記入者、ファルガ・イザラント。

「メル君。仕事の出来る男って、素敵でしょう?」

 書類の山の向こうから、計ったようなタイミングで師団長の声が飛んでくる。
 シャルロアは、閃いた。
 ――これは、師団長の策略だ!

「素敵ですが、結婚したいかと問われればいいえと答えます」
「……ち」

 小さく聞こえた舌打ちに、背筋が凍りつく思いだった。
 間違いだらけの書類が続いて続いて続いて、そろそろ辟易したなと思った頃に完璧な書類が出てきたら、誰だって心躍るに決まっているだろう。この書類の並び順、絶対に師団長が手を加えている。
 ――まさか、気分の高揚を恋心に結び付けようとするとは……!
 師団長の企みが巧妙すぎて恐い。
 思わず、今まで捌いて来た書類の裏をめくってしまった。また複写紙があったりしないだろうな、という疑いが頭を過ぎったのだ。
 念入りに確認した結果、それはなかった。心の底から安堵したが、そもそもこういう緊張感を与えてくる職場は、何かが狂っている。
 仕事の疲労だけではない疲れを感じながら、シャルロアは再び書類と向き合った。





********





 昼食休憩を挟んで、仕事に戻り、時計の針が3時を指すまで、シャルロアは無心に働いた。その甲斐あってか、途中、ケドレの持ってくる報告書を3回も書き直させたということがあっても、渡された書類のほとんどが片付いた。
 シャルロアは凝り固まった筋肉を解しながら椅子から立ち上がって、シェストレカに声をかける。

「師団長。よろしければ珈琲(キャラバ)を淹れましょうか?」

 勤務室の隣には給湯室があり、そこでお茶や珈琲(キャラバ)を淹れられるようになっているらしい。昼食休憩を取らせてもらったときにちらりと覗いたが、洗われてないカップが山積みで流し台に放置されていたので、黙々と洗って使えるようにしておいた。お茶は無いが未開封の珈琲(キャラバ)があったのも確認済みである。
 なので気軽に聞いてみただけだったのだが、シェストレカは立ち上がったシャルロアを見てめずらしく愕然としていた。

「……きゃら、ば?」

 あまつさえ、外国語を聞き取れなかったような反応になっている。
 ――え、まさかキャラバを知らないってことはないよね?
 キャラバはその昔、貴族だけが愛飲していた高級嗜好品だ。今では庶民も手が届く、お手軽で安価な飲み物となったが、それでもキャラバを嗜むのは貴族としての義務とも言われている。
 師団長の姓名を聞く限り、彼は間違いなく貴族出身だ。名字と名前の間にある名前は統治名と言い、治めている地の名前である。統治名を名乗ることを許されるのはその地を治める直系の家だけなので、シェストレカはファンという地を治めている家の直系血筋だろう。
 オルヴィア王国では基本的に、村を子爵が、町を伯爵が、領と領都を侯爵が治めることとなっている。つまりデバイドウォーネ領を治める侯爵は、姓名を○○・デバイドウォーネ・××、と言うはずだし、シェルダールダを治める伯爵は○○・シェルダールダ・××と言うはずだ。
 ちなみに公爵位は王族の男子に与えられるもので、王の行う政に対して進言を許されている代わりに領地を持たない。そして男爵位は国家に大きな益をもたらした者に与える名誉爵位で、これも領地を持たない。その上一代限りの爵位だ。軍国として名を馳せるオルヴィア王国では男爵位を得るのは鍛冶職人や馬具職人が多い。
 ――……ん?
 色々と記憶を引き出してみた結果、シャルロアは思い出した。ファンは領地名だ。国の西北にある、ダラ芋の名産地である。
 ファン領。
 つまりは師団長は侯爵家の直系血筋である、ということで。
 ―― それはそれで、不思議な人だな。
 彼女は疑問には思っても、驚きはしなかった。
 この国の貴族は原則として、一族に1人は騎警団に籍を置いておかねばならない。それが貴族の義務なのだ。
 だから侯爵家であっても騎警団にいる人間はいるし、むしろいなければ貴族社会から抓み出されてしまう。なので、多くの貴族家は次男や三男を第1部隊・師団に入団させるわけである。入団させられる方も、医師や魔法使いとして生計を立てられるほど頭が良ければ別の道を歩めようが、適性がなければ食い扶ちを稼げる騎警団に入団した方が良い、と割り切ってしまうようだ。どうせ爵位を継げるのは長男だけなのだから、騎警団に入ってあわよくばどこかの婿として拾われる方が良いのもある。
 ここで重要なのはそういう多くの貴族たちは、騎士になる、というところである。
 騎士は貴族しかなれないため、爵位を継げぬ男子にとっては貴族の誇りを保つ職業だ。だから当たり前のように騎士になる者が多いわけだが、もの好きな者が第2や第3に入団することもある。が、にしたって、第4師団に入団する貴族はそう多くはないのではないだろうか。
 いったいどういう経緯でこの男は第4師団に入団したのだろう、と考えていると、シェストレカは突然うつむいて、目頭を揉んだ。

「し、師団長?」
「……この職場で、『キャラバを淹れましょうか』なんて言葉がまた聞けるとは……」

 感無量、とでも言うふうに、彼は軽く頭を振ってから顔を上げて頷いた。

「では、お願いします」
「……はい」

 シャルロアの表情は、実に微妙な笑みとなった。
 キャラバを淹れるくらいでこれだけ感動されるとは、今までの事務員はどういう事務員だったのだろうか。書類の陰惨さに眩暈がして仕事どころの話ではなかったのか。
 シャルロアは初日の事件現場を見たのが良くも悪くも衝撃的すぎて、写真であるなら吐き気を催さなくなった。臭いがない、というのは素晴らしいことである。
 師団長の席の後ろにある、給湯室に続くドアに歩み寄って、それを開けようとしたところで後方から声が上がった。

「メルー、俺にもキャラバをくれぇ」

 振り返ると、机に突っ伏したケドレが手を上げていた。シャルロアが彼の提出する書類に散々ダメ出しをしたからか、部屋に入ってきたときよりも疲労困憊している。

「わかりました」
「あっ、俺も!俺もください!」
「俺もくれぇぇっ!」
「自分も!」
「俺にも!」

 床で寝ていた師団員たちが、ここぞとばかりに起きて主張を始めた。くれぇ、くれぇ、という恐ろしい合唱を全身に浴びて、シャルロアは頬を引きつらせる。それまで死体のように眠っていたから、突然動かれると生ける屍が魂を求めて起き上がったのかと思ってしまうので、止めてほしい。

「事務員が淹れるキャラバ、欲しいんだよぉぉ!普通の職場体験させてくれぇぇっ!」
「ふ・つ・う!ふ・つ・う!」
「事務員が入って来ても『恋仲になる予感!』が欠片も期待出来ねぇんだから、事務員がいるってのを体験させてくれたっていいだろぉぉっ!」

 ――おい、最後。どういう了見だ。
 傾国の美女と呼ばれるほどの美貌を持っているわけじゃないのは、認めよう。しかしだからと言って異性視外通告される所以は――あった。シャルロアはようやく思い出した。
 ――あぁ、そうでしょうとも。ファルガ・イザラントの嫁だって話が広がってんなら、視外通告でしょうとも!
 シャルロアの腹は怒りで煮えたぎった。そもそも副師団長がシャルロアに求婚した、という話は昨日の朝しかしてないから、あのとき寝ていた師団員たちが聞き耳を立てていて、そこから広がったのだろう。それはケドレも言っていたことだ。間違いない。
 だからこうなることは、少なくとも第4師団に身を置くファルガ・イザラントならわかっていただろうに、あの男、口止めを放棄したのだ。
 何なのだ、あの人は。シャルロアは頭を抱えそうになった。普通は自分の求婚失敗話など、口止めするにふさわしい繊細な話であるはずだ。そんな小細工すら必要ないくらいの図太い神経をお持ちなのか。その神経、実は鉄管で出来ているんじゃないか。
 ――思考が読めない相手は、やりにくい。
 あまりの読めなさに、魔女の異能が人の思考を読めるものであったらよかったのに、と思ってしまう。桃色の蝶の異能は人の記憶を覗けるが、思考を読めるわけじゃない。対ファルガ・イザラントでは思考を読める異能が欲しかった。
 キャラバ、キャラバ、普通の職場、とわいわいドタドタと騒ぐ師団員たちを遠い目で眺めていると、シェストレカ師団長が彼女の方を振り向いて、にこりと微笑んだ。

「すみませんが、キャラバをお願いしますね」
「あっ、はい」

 そこで気付いた。師団長の机の上に置かれたインク瓶が、倒れて、報告書に黒い染みを作ってしまって――。
 師団長と、目が合う。
 緑の双眸は、まったく笑っていなかった。
 シャルロアは一度微笑んでから、素早く身をひるがえして給湯室に駆けこんだ。
 直後、背後のドアの向こうからけたたましい音がビリビリと伝わってきた。

「口を閉じて静かにしろ、駄犬ども。そして貴様は地獄の門を叩いて来い」
「ぎゃああああああっ!」

 部屋をひっくり返したような物音と、つんざく悲鳴。
 シャルロアは真っ青になりながらも「聞いてない、私は何も聞いてない、師団長の敬語が崩れたのも聞いてない」と自分に暗示をかけながらヤカンに水を入れた。
 しばし物音が続いていたが、湯が沸く頃には静かになり、キャラバを淹れて恐る恐る勤務室に戻ると、先ほどと何ら変わらない光景が広がっていた。
 別に椅子が倒れていたり、机がひっくり返っていたりしているわけじゃない。師団員たちも大人しく机に向かって書類を書いている。
 逆に、恐かった。
 あれだけの物音があって、書類の位置も一見変わってないのは、恐すぎる。
 震える手でキャラバの入ったカップを師団長の机に置くと、彼はどこかすっきりした笑みで礼を言ってくれた。憑きものが落ちたような笑みはあえて無視して、シャルロアは目礼を返す。
 ケドレや他の師団員にもカップを配って、ふと気付いた。
 カップが1つ、余っている。
 ハッ、として勤務室にいる人間の数を数えると、1人、足りなかった。

「……」

 シャルロアは気付かなかったことにした。
















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