武器携帯の許可は今回に限り、ではなく永続的なものであったらしい。 途中立ち寄った武器庫で煩雑な手続きを終えて銃と拳銃嚢を受け取った後、シャルロアたちは西棟2階にある転移魔法陣室へと向かった。 魔法が誰でも使える技術であるのに対し、魔法陣は知的生命体による英知の結晶、最先端技術である。転移だけに使われる技術ではなく、先ほどの通信機器にも通信魔法陣が組み込まれている。転移魔法も通信魔法もあるのに魔法陣が利用される理由は、発動条件を満たせば誰でも――魔力を持たない魔女ですら使えるという点だ。 もちろん魔女うんぬんを知っているのは、現在のところシャルロアとその家族だけだろう。つくづく両親は用心深い人で、わざわざ家に魔法陣式焜炉を買ってシャルロアに使えるかどうか試させてくれたのである。焜炉を毎日掃除する姿を見て、実は母が欲しかっただけなんじゃないか、と時折思ってしまったりもするが、シャルロアは母の愛を信じている。 とにかく、魔力がない者にも魔法陣が使えるということは、 そういった理由から騎警団は移動の際、転移魔法陣を利用する。そのことを学校に入ってから知ったシャルロアは、魔女でも魔法陣が使えて良かった、と深く安堵した。 騎警団に入れば絶対に、転移魔法陣を使わなければならない日がやってくる。そこで他の人は使えるのに、シャルロアだけが使えないとなったら――考えるだけでも悪夢だ。特に『雷鳴獅子』に目をつけられている現在では。 「転移許可書だ」 転移魔法陣室に入ったファルガ・イザラントが、部屋に詰めていた第1師団員におざなりに許可書を渡す。渡された方はあたふたとして日付と『認可』のハンコを押して彼に返した。 転移魔法陣室はシャルロアが想像するよりもこじんまりとした部屋だった。2階の一番端に存在し、窓の一つも無い。最先端技術を有する部屋だから、もっと大仰な部屋だと思っていたが、師団員が座っている椅子と机以外に見当たるのは、奥行きがずいぶんとある棚だけだ。細かく仕切られていて、その1つ1つに巻物が収められている。 「行き先はデバイドウォーネ部隊ですね?」 書類を渡したのはファルガ・イザラントであるはずなのに、第1師団員の問いと視線はエレクトハをも超えてシャルロアに向けられている。 ―― あぁ、一番話しかけやすかったのね。 第4師団はどれだけ爆弾扱いされているのだ、と思いながら、シャルロアはにこやかに頷いた。師団員はホッとした様子で立ち上がり、棚から巻物を1つ持って戻ってきた。 デバイドウォーネ、と紙が貼られているそれは師団員の身長を軽く超えており、運ぶのも女性なら苦労するだろう。 しかしさすがは第1師団員。鎧と剣で鍛えられた彼はそれを軽々運び、紐を解いて、床の上に転がし広げた。 巻物の素材は紙ではなく白い麻布だった。3メートル四方の布地に、紫色のインクで複雑な魔法陣が描かれている。 「私、転移魔法陣を使うのは初めてです」 「え、メルちゃん使ったことないの?」 目を丸くするエレクトハに、ファルガ・イザラントが補足する。 「メルは士官学校から引き抜いてきたからな。あそこは生徒に転移魔法陣を使わせねぇ」 「えっ、士官学校卒業生ですか!?なっ、なんで一等兵って、つうか今年……」 「色々あんだよ。おら、行くぞ」 そういえばエレクトハや他の師団員はシャルロアが引き抜かれた経緯を知らないのだ、と思い至ったが、詳しく説明すると面倒な事態になるのでシャルロアはファルガ・イザラントに便乗し、曖昧に微笑んで黙っておいた。それだけでエレクトハはすべてを悟ったような表情で「あ、うん」と頷いてくれた。おそらく副師団長がまた何かしでかした、と思ってくれたに違いない。それで納得されるファルガ・イザラントの普段の行いは、考えないことにした。 『雷鳴獅子』に促されて、シャルロアたちは魔法陣の上に乗った。 それを確認し、ファルガ・イザラントが右足を続けて2回、左足1回、また右足1回、とその場で足踏みする。 その足踏みが魔法陣発動条件だったらしく、魔法陣が紫色の光を放った。 「うわっ」 足から泥沼に突っ込んでしまったような、心許ない感触をブーツの裏に感じてシャルロアは思わず声をあげてしまった。しかしそれは刹那のことで、すぐに床の硬さが元に戻る。 はた、と気付けば目の前の景色が変わっていた。 窓がないのは同じ。だが今いる部屋の壁は、騎警団本部に使われている青黒石ではなく赤レンガだ。それに室内には棚も机も椅子もなく、師団員もいない。代わりに扉の脇に槍を持った騎警団員が2人立っている。 ――え、もう転移した? 床を見れば、足の下にあったはずの巻物も見つからない。表面がわずかにざらついた黒い石のタイルに、師団で見た巻物と同じ図柄の魔法陣が紫色のチョークで描かれていた。 「うっ、きょ、許可書を確認します」 騎警団員は現れた『雷鳴獅子』を見て、明らかに動揺していた。『雷鳴獅子』の畏怖は師団だけではなく部隊にも広がっているようだ。――彼の出世経緯を考えれば当たり前のことかもしれないが。 ファルガ・イザラントが投げるように提出した書類にサインをした騎警団員が、扉を開く。 そこから見える光景はやはり、騎警団本部ではなかった。 デバイドウォーネ領はレンガの産地として広く知られる。オルヴィア王国が生産するレンガのおよそ70パーセントをこの領地だけで生産し、領主がいる領都フェバンタは質の良いレンガをふんだんに使った芸術的な建物が並ぶ。その特徴は領都だけではなく、領地全域に及んでいる。そんな話はシャルロアも知っていたが、現実に目の前にすると目を瞠るしかない。 質実剛健な本部と違い、デバイドウォーネ部隊の建物は廊下1つをとっても典麗なのだ。真っ白ではない、月の色のようにやわらかな白色の壁紙は柱となっている赤レンガを際立たせている。飴色の寄木細工の床とそれよりも深い色合いの木の窓枠の絶妙な釣り合いは、素人目から見ても職人のなせる業だと知れた。 ――こっちが本部だと言われても、信じちゃうわ……。 本部の徹底的にまで無駄を削ぎ落とした様式との違いに、シャルロアは軽く衝撃を受けた。 「何ボーッとしてやがる。置いてくぞ」 噛みつかれるような声音に肩を跳ねさせ、シャルロアは魔法陣から出た。脅すファルガ・イザラントとエレクトハはいつのまにか部屋の外にいる。 ドアの脇に立つ騎警団員に目礼しつつ、彼女も続いて部屋を出た。ようやく動きだしたシャルロアを一瞥してから、ファルガ・イザラントは自分の庭を歩くような軽い足取りでどこかへと向かう。 「第2部隊の勤務室は知ってるんですか?」 一緒に彼の後を追うエレクトハに尋ねると、彼は頷いた。 「騎警団の施設は大抵どこも本部と同じ造りだよ。西棟と東棟があって、3階建てになってるんだ。有事の際転移した先で迷子になって駆け付けられませんでした、じゃお話にならないから」 ――なるほど、確かに。 ということは、デバイドウォーネ部隊基地も本部と同じような構造になっているらしい。つまりはこの建物のこの階に、第2部隊の勤務室があるということだ。 そう思った矢先、前を行くファルガ・イザラントが急に立ち止まって、傍にあったドアを遠慮なく開けて入った。きっとあの男の中に遠慮や人見知りという言葉はないに違いない。 1秒後、開け放たれたドアの向こうから困惑したざわめきが聞こえてきた。 「……副師団長の顔って、やっぱりどこでも知られてるんですね」 「騎警団関係者で知らない人間は、士官学校生だけじゃないかな」 「士官学校生も知ってますよ」 「あ、じゃあ知らない人間はいないな!」 断言するエレクトハに、返す言葉がない。 エレクトハとともに第2部隊勤務室に入室すると、ファルガ・イザラントはすでに部隊長と話をしていた。 勤務室も廊下と同じような内装で、本部よりも威圧感がない部屋だった。壁が青黒くないだけで、これほどまで圧迫感がないとは思わなかった。本部もこのような内装にしてほしい、と思ったが、おそらくは頑丈性を重視した結果だろう。万が一にも王都が落とされることがあってはならないので、あれはあれで良いのだ、と彼女は自分を納得させた。 ――第4を先に見たからかな?人数が多く感じる。 ざっと見る限り室内には80人近くいるように見えた。それに比べ第4師団の勤務室には10人程度しか詰めていなかった。人数の多さに圧倒されて、入口で二の足を踏んでいると、こちらに気付いた部隊員たちが再びどよめいた。 なんで、のなを思う前に、彼らから答えが漏れる。 「第4に女の子……?」 「マジかよ」 「第4に女子が入団したって聞いたことあるか?」 「初めてじゃねぇ?」 「あの見た目で一騎当千かよ」 「つうか、あの子も現場に連れてくのか?」 違う。シャルロアは声を上げて言いたかった。 確かに自分は第4師団に勤務しているが、所属は第6だ。戦闘員じゃない。剣を振るのがやっとな腕を見ればわかるだろうに、どこから一騎当千なんて言葉が出たのだろうか。 ――いや、第4師団員は一等兵ですら一個分隊と同じ力量があるって聞いたっけ。 一個分隊は分隊長含めて8人編成であるから、隣にいるエレクトハはそれと同等の戦力となる、ということだ。 この優しげな風貌の男が戦う姿を想像できない、と彼を盗み見ていると、隣でファルガ・イザラントの様子を監視していたエレクトハもシャルロアをちらと見て微笑んだ。――やはり、彼が誰かをねじ伏せている様が想像出来なかった。 「メルちゃん、モテモテだねぇ」 「モテてるわけじゃないです。珍獣を見てるんでしょう」 注がれているのは異性を見る視線と言うよりは、物珍しいものを見る視線だ。そしてその中には女であるということで見下した視線も混じっている。 ――どうせわかんない、とか思ってんだろうけど、こっちは悪意に敏感な魔女ですから! 騎警団は男社会だ。第6や総務部門が特殊だったのであって、このような視線を向けられるのはめずらしいことではない。刑事部門に移った女子生徒たちも、男子生徒から少なからずそういう視線や言葉を向けられたと言っていた。涙する女子生徒もいる中、射撃が上手かった友人は男子生徒に「どうせ色仕掛けで成績をもらってんだろ」と妬みを言われたので、「そう思うなら自分も色仕掛けに行けば?あ、性別以前にその顔じゃ……ごめんね」と煽って射撃対決をして完封したらしい。ちなみにその友人の射撃成績は男女合わせて1位であった。 ――ああいう視線を覆すのって、実力を見せないと意味がないんだよねぇ。 せめて所属を聞いてくれれば誤解も解けるというのに、シャルロアたちに近付くツワモノはいないようだった。皆遠巻きにして、仕事を続けている。 「第4師団は、こういう雰囲気じゃなかったですね」 含みを持たせて小声で言えば、エレクトハは隠された言葉に気付いたらしい。わずかに瞠目してから、苦笑を浮かべた。 「事務に散々逃げられたあとで、あの師団長がただの無能を入れるわけがない。そんなことしたら副師団長が確実に師団長を殺りに行くから」 その方向の信頼は正直どうかと思うが、否定出来ないのが現実である。 「それにしても、第2部隊って人数が多いんですね」 「第3よりは少ないと思うよ。領にもよるけど多いところで180人前後くらいで、捜査分隊と交通安全分隊と鑑識分隊がいる」 「へぇー……第4師団はどれくらいいるんですか?」 「今は5分隊あるから40人、に師団長と副師団長で42人だね」 第2はともかく、第4の人数は思っていたよりも少ない。少数精鋭の名は伊達ではない、ということか。 「まぁ、うちの場合はあんまり分隊は関係ないんだけどさ」 「関係ない、んですか?」 「盗賊団とか魔物とか、大捕り物の場合は分隊で動いたり副師団長が率いたりするんだけどね、こういう単独犯である可能性が高い事件は2人組で捜査するんだ。今回もそうだろうから2人組捜査だけど、殺しの周期が早いからより危険性が高いと判断されて、副師団長が投入されたんだ」 そういえば、とシャルロアは思い出した。 士官学校の事件も派手に暴れたのはファルガ・イザラントだが、その後彼が倒れてから応援の師団員が来ていた。あの時点で数人の教師が捕まっていたらしいから、あの事件は分隊で担当したものだったのだろう。 『雷鳴獅子』が動くほど重大な汚職であったとは思うが、その内実はファルガ・イザラントが近年の士官学校卒業生の劣化っぷりの原因を知って、怒り心頭で自ら動いたのでは、とシャルロアは思っていたりする。でないとあの氷柱蹴りに殺気がこめられていた理由が他に挙げられない。 ――まぁ、40人しかいないんだったら有能な人が喉から手が出るほど欲しいはずなのに、裏でせっせと無能を作られてたら殺意を覚えるわ……。 めずらしくファルガ・イザラントに若干の同情を寄せたところで、その本人が第2部隊長を伴ってシャルロアたちの方へ戻ってきた。 「鑑識分隊と『虎』は先に現場に行ったらしい。俺たちも行くぞ」 歩み出そうとしたファルガ・イザラントを、部隊長が慌てて呼び止めた。 「副師団長。その、彼女も連れて行くのですか?」 40代半ばほどに見える青髪の部隊長は、娘くらいの年頃のシャルロアを気遣った。厳しそうな視線の中には嘲る様子などなく、陰惨な現場を見てほしくないという思いだけがちらりと見える。 「部隊で待機をしておいた方が良いのでは……」 正直に言ってデバイドウォーネ部隊への好感度が若干下がり気味だったシャルロアは、その気遣いに胸があたたかくなった。部隊長、という重い責任を担っているだけあって、遠巻きにしてひそひそ話すような団員たちとは一線を画している。シャルロアの中で部隊長の株が上がった。 問われた『雷鳴獅子』はきっぱりと返した。 「連れて行く。所属は『兎』だが、仮にも『欄外』で勤務してんだ。慣れてもらわねぇと困る」 ――おっ? ファルガ・イザラントの意外な言葉に、シャルロアは内心驚いた。彼が今、シャルロアの所属を第6だと言ってくれたおかげで、険のある視線が散った。それはそれで腹立たしい思いはあるが、難癖をつけられて絡まれるよりは耐えられることである。 ――狙ってやってくれたなら、思ったより良い人、かも……。 なんて思った瞬間、彼の表情を見て考えが覆る。 「――慈悲があるなら、桶と水を用意してやっとけ」 『雷鳴獅子』は、それはそれは愉しそうに嗤っていた。 ******** 現場となった寂れた港町、シェルダールダは元は音楽が栄えた歴史ある町だったとシャルロアは記憶している。路上には木管や金管、打楽器の音が溢れ、多くの優れた作曲家を輩出、養成する音の芸術都とまで呼ばれた町だ。 そんな華やかな町が寂れた原因は、先の戦争である。艦艇が入れるほど大きな港を持っていたために、シェルダールダは海戦における補給地として重要視され、敵国に幾度か攻め入られた。そうなれば戦場で芸術を育むことなど出来るはずもない。優秀な作曲家や演奏家たちはシェルダールダを捨てて、あっさりと国外に逃亡してしまったのである。 戦地となって疲弊したシェルダールダには、音楽以外の産業が何もない。しかしその音楽を生み出す宝は、戦争が終結しても戻ってくることはなかった。 かつて華やかであった港町はじりじりと寂びていき、今は覇気のない町になってしまったという。 なんてことをつらつらと思い出しながら馬を走らせ、1時間強。現場となったシェルダールダ町ミズルワ地区に到着した。 ちなみに馬は、根性で軍馬を乗りこなした……と言ううちに入るのかはシャルロア自身にもわからない。何せ本当はファルガ・イザラントが乗るはずだった軍馬が彼を見た途端、肉食獣を目の前にしたかのような危機迫った走りを見せて怯え暴れたのだ。なるほど、ファルガ・イザラントは嘘を言っていなかったのだな、と思えるほどに。 彼にはすぐに別の経験豊富な軍馬が用意され、すっかり怯えて大人しくなったその軍馬がシャルロアに回ってきた。まるっきり虎の威を借るなんとやら、であるが、今は軍馬を1時間も駆けさせることが出来た自分を素直に褒めてやりたい。 「馬は集会所の裏にある、厩舎に繋いでおきますね」 そう言って軍馬を預ってくれたのは、ミズルワ地区集会所の初老の管理人だった。 集会所はどの都町村の地区にもある、緊急時や祭りのときに住民が集まることのできる公的施設のことだ。戦時はもちろん、こういう事件が起こった際は騎警団が一時的に簡易基地として利用する。 ――さて。 シャルロアは馬に慣れていないから、というエレクトハの配慮により、集会所の表で管理人に馬を預けることが出来た。ファルガ・イザラントたちは自分の手で馬を厩舎に預けに行っているので、今はいない。 その間に、情報を頭の中で整理することにした。 ミズルワ地区は、2件目と3件目の現場であるイシャメル地区の東に位置する地区だ。さらに1軒目の事件現場はアルトメント地区。これはイシャメル地区よりは西に2つ地区を挟むほど遠い。 ――殺人現場が動いてるのは、不気味だな……。 資料を読む限り、被害者が殺された現場と遺体が放置された現場は同じである。つまりこの犯人はその場で殺して遺体を置き去りにしているのだ。どこかで殺して遺体を動かしているわけではない。 その当たり前の事実を突きつけられたようで、心の奥底に沈めたはずの不安が舞い上がろうとする。 ――いや、不安になってどうする。私は一般人でも学生でもない。騎警団なんだから。 民に不安を与えてはいけない、と忠告されている。この不安は隠さなければならない。 ざわめく心を落ちつかせるべく深呼吸すれば、嗅ぎ慣れない潮の臭いが肺に充満した。シャルロアの故郷は内陸の方にあるので、潮風は異国の地に来たような心地になる。 「第4師団の方ですか?」 集会所の入り口前で、副師団長とエレクトハと案内を務めてくれた第2部隊員の青年を待っていると、騎警団制服を着た2人の男に声をかけられた。そのうち、真面目そうな男の胸には副分隊長を意味する2赤星紋章がつけられている。 シャルロアは慌てて敬礼した。 「はい、そうです……と言っても私は事務員ですが」 頷くと副分隊長の男が目を丸くしたので、補足を加えた。彼自身、シャルロアが第4師団員であるのかどうか疑心があったのところで肯定されて、驚きが隠せなかったのだろう。事務員だと言えば、明らかに緊張を解いた。 「私は第3鑑識分隊副分隊長の、レーゲン・ボナハックと申します」 「シャルロア・メルと申します」 「副師団長がお見えになると伺いましたが、今はどこに?」 「厩舎に馬を繋ぎに行っています」 「そうですか。至急お耳に入れたいことがあるので…………行ってきます」 行ってきます、の言葉がやけに重い。だがファルガ・イザラントの噂を考えれば、当然のことだろう。それでも職務を全うしようとする副分隊長は、騎警団員の鑑である。 部隊長といい、副分隊長といい、デバイドウォーネ部隊の士官は実に真面目な仕事をするなぁ……と尊敬のまなざしで彼の背を見送る横から、声をかけられた。 「名前、シャルロアって言うの?キレイな名前だね」 ――あ、これは。 デバイドウォーネ部隊に向けていたあたたかい気持ちが、一気に冷え込むのを感じた。 シャルロアは嫌そうな表情を隠しもせずに、副分隊長と一緒にいた騎警団員に向けた。優しい面立ちの二枚目風――真に申し訳ないが、エレクトハを見た後だと生半可な男ではその評価から抜け出せない――な男だが、彼女の冷たい視線に動じることはなかった。 反応からするに、面倒な類の男だとシャルロアは推定する。 「お近づきの印に、ロアちゃんって呼んでもいいかな?」 面倒そうな男の割に、礼儀は弁えていた。 いや待て、とシャルロアは己にツッコミを入れる。愛称で呼んでいいかどうかを尋ねるのは、普通の、ごく一般的な礼儀である。早朝に一般的じゃないことを体験したばかりなので、うっかり当たり前の礼儀に感動するところだった。 「すみません、家族以外に愛称を呼ばれるのは苦手ですし、仕事中なので」 「そっかー。じゃあこの事件が片付いて、今度休みが合った日にでも、ミロッラ会場の讃美歌公演を聞きに来ない?俺、この町の出身なんだ」 シャルロアは首を傾げた。この町は戦争で音楽が廃れたと聞いたのだが、そんな公演が今でもあるのか。 尋ねると男はもちろんだ、と微笑んだ。 「廃れた、って言っても前と比べてだから。他の領地よりは音楽公演に事欠かないよ。ちなみにミロッラ会場前の広場にある屋台の、イスナ魚のくるり焼きがすごくおいしいんだ。食べに行こうよ」 シャルロアは残念ながら魚より、山菜を食べたいと思っている。 なのでお断りをしようと思った次の瞬間、男が宙に浮いていた。 ――は? 彼女の銀色の瞳は、宙に浮いた後の動作をつぶさに見つめることが叶った。 男の首には――エレクトハの足が巻きついており、それは男の左腕をも巻き込んでいた。この時点で男の顔が苦しそうに歪んでいたが、エレクトハは男と共に宙返りをして、刹那浮いた状態を保ち、一気に男を地面に叩きつける。 ドン、と音がすると同時に、エレクトハは男の左腕の関節を極めていた。 「見てください!」 エレクトハはこちらを振り返って、そう言った。 ――いや、見てましたけど! 人が宙に浮くのを見るのはこれで2度目だ。しかし今回は直前まで話していた男が急に宙を舞ったのだから、心臓に悪い。 文句の一つでも言おうとして。 本能さえも震わすような悪寒がシャルロアを襲った。 よくよく見れば、エレクトハの顔色も死にそうなほど悪い。 「僕の シャルロアは背後を振り返った。 「だから魔法を消してぇぇぇぇっ!」 数メートル先。 ファルガ・イザラントは遠くからでもわかるほどに、焼けた金の眼光を そしてその頭上。 紅く燃える炎の玉が、浮いている。 その大きさ、岩ほどはある。 ――こっ、こわぁぁぁっ!? シャルロアは思わず腕を上げて防御の姿勢をとってしまった。魔法の矛先は明らかに自分の方へ向いているのだ。防御しない方がどうかしている。 ファルガ・イザラントは鼻白んだように褐色の首筋を撫でて、頭上の炎を消した。 「レーゲン・ボナハック副分隊長」 冷え冷えとした声が、副分隊長の名を呼んだ。 「はっ」 「部下に、仕事中、女を口説くな、と教育しとけ。勤務時間外なら好きにしろ」 ――胃が、死ぬ。 傍から見ているシャルロアさえそう思うのだから、ファルガ・イザラントの横で注意されている副分隊長なんて吐血するのではないだろうか。案内役の団員は桶をぬいぐるみか何かのように抱えて真っ青になっている。 しかし副分隊長は、凛々しく敬礼を返した。 「了解しました。改めて厳しく躾けます」 敬礼する手が若干震えているが、そんな言葉を返せただけでもこの副分隊長、たいしたものである。 「現場まで案内しろ」 「はっ」 副分隊長と案内の団員が駆けてきて、ナンパ団員を回収した。幸か不幸か――否、彼のためを思えば幸福なことだろう。この状況を生み出した彼に意識はなく、案内役の団員が少々乱雑に肩に担いだ。 「もーホントに僕に感謝してよ僕が気絶させてなかったらこの男今ここで焦げてたんだからねマジで比喩じゃなく焦げてたんだからね!」 泣きそうなエレクトハに、でしょうね、以外の言葉が返せない。 あの人本当に着火線皆無の爆弾だな!と考えていたのが悪かったのか、ファルガ・イザラントが音も無く彼女の隣に立った。 「ふぉっ!?」 「冗談だ、とは言ったが」 『雷鳴獅子』は狡猾に嗤った。 「魔法を使わない、とは言ってねぇ」 今朝の会話を思い出したシャルロアに、同意以外の何が出来たというのであろうか。 |