午後の授業はどの部門も、当然のごとく中止となった。
 校長と男爵令嬢が拘束された上、教師にも拘束者が出た。そんな状態で通常授業ができるほど、現在の士官学校は有能ではない。
 騒動の詳しい背景がわからぬまま自主学習を言い渡され、なんとなく落ち着かない夕食を食べ終えた生徒の多くは、今日の出来事を談話室で話し合っている。しかしシャルロアは誰と話せる心境でもなかったので早々に自室にこもった。
 ――あー、マズい。マズい気がする。
 自分が酷い失態を犯した、ような気がするのだ。シャルロアはベッドに腰掛け、頭を抱えた。
 ファルガ・イザラントの気絶は、食堂にいた生徒どころか、後片付けに寄こされたらしい第4師団員たちも大層驚いていた。任務で気絶したところを見るのは初めてだ、とか、そもそも眠ったところを見たことがなかった、とか、副師団長も人間だったんだな、とか、人間だと思ってたけど悪魔から生まれた魔物だと思ってた、とか、最後のそれは結局人外じゃない?と突っ込みをいれたくなるほどに、彼らも動揺していた。
 何せ目撃情報を繋ぎ合わせるに、副師団長は間諜の投げたナイフを受け止めて気絶した、のだから動揺や混乱もしよう。
 1人真実を知るシャルロアの動揺はその比ではないが。
 はぁ、とシャルロアはため息を吐いて窓の外を眺めた。
 夜は魔女の時間。だから闇も星も月も、シャルロアに寄り添うものなのに、今日は酷くよそよそしく思える。
 それはシャルロア自身が魔女であることを恐れているからかもしれない。
 ――大丈夫、周りはあれを魔法だと思ったはず。
 物体を浮かせる魔法など、腐るほどある。誰があれを魔女の異能だと断じることができようか。
 その証拠に、第4師団員はファルガ・イザラントが倒れたのは過労が祟ってだろう、という結論に落ち着いた。どうやら彼は面倒事に首を突っ込むのが大好きらしく、寝る間も惜しんで他の師団から仕事を強奪しているらしい。はた迷惑な仕事中毒である。
 ――だから、大丈夫。
 魔女だと、バレているはずがない。
 そう言い聞かせるのに、どうにも落ちつかない。
 気になるのは、『猫』と呼ばれた少女がいつのまにかいなくなっていたことだ。後始末にやってきた第4師団員が来たときには、姿も形もなかった。
 ファルガ・イザラントと顔見知りだった風な少女。
 獲物を見つけたと言わんばかりの目。
 その目を向けたのは少女だけではない。ファルガ・イザラントもだ。
 はた、とシャルロアは気付いた。
 そう懸念材料は周りではない。ファルガ・イザラント本人だ。
 いっそ記憶がなくなってくれていればいい。もしくは訳がわからぬ状態で倒れたことを放置するか、周りの言う通り過労だと思ってくれるほど暗愚ならいい。

「でも、あの『雷鳴獅子』だからなぁ……!」

 シャルロアは、再び頭を抱えた。
 噂通り、ファルガ・イザラントが苛烈なだけの男だったらこれほどまで不安に苛まれることはなかった。彼の厄介さはおそらく、まさに野生の獣のごとき勘の良さと観察眼。
 生徒の誰もが気付けなかった魅了魔法に気付いた彼が、自身が突然倒れた理由をうやむやにしておいてくれるだろうか。
 ――しておいて、くれないかな……!
 心底願うのと同じくして、寮の鐘が鳴った。就寝時間だ。
 シャルロアは顔を上げて、テーブルの上の明かりを消した。

「よぉ、悪い子の時間だぜ」

 にやついたファルガ・イザラントが、窓の下枠に腰かけていた。
 しかも何故か、カップを手に持って。
 ――はんっ!?
 なんでここに、とか。
 私に何の用が、とか。
 いつのまに室内に、とか。
 ご機嫌ですね、とか。
 悪い子の時間って、とか。
 なんでカップ持ってるんですか、とか。
 色々言いたいことがありすぎて、シャルロアは絶句した。
 黙り込んだ彼女を幸か不幸か、ファルガ・イザラントは不快に思わなかったらしい。むしろ炎を生む金の瞳を愉快気に細めた。

「喚き立てねぇのは、いい判断だ。騒がれたら面倒だし、みぞおちに一発入れて拉致るかと考えてたからな」

 とてつもなく理不尽なことを言われている自覚はあったが、シャルロアは青い顔で頷くに留めた。今、ここで、騒いだら数秒前に絶句した幸運が泡である。総務部門は非戦闘部門だ。誰が好き好んでみぞおちに一発入れられたいと思うか。
 彼は頷くシャルロアを見つめながら、カップに入ったグラーヴェ茶をすすった。あまりに堂々としたふるまいなので、一瞬ここが彼の部屋かと錯覚するほどだった。
 ――なんだ、この状況。
 寮の就寝時間を過ぎた、自室で、ファルガ・イザラントが茶をすすっている。
 非現実的な光景である。

「ふ、副師団長……あ」

 上官の前で座ったままだったことに気付き、シャルロアは慌てて立ち上がろうとしたが、ファルガ・イザラントはそれを制した。

「勤務時間外だ。座ったままで良し。質問も許可する」

 許可されたので、シャルロアはとりあえず尋ねてみることにした。

「……何故、カップをお持ちで?」
「あん?寮部屋にゃ給湯設備がねぇからな。なんだ、お前も飲みたかったか?」
「……いえ」

 そんな斜め上の答えを求めていたわけじゃない。否、そもそも人の部屋にカップを持って忍び込んでくること自体が斜め上である。
 予想外のことばかりやってくれる男は、茶を嚥下してから――瞳に鋭さを混ぜて嗤った。
 たったそれだけのことで、部屋の空気がこれ以上なく引き締まる。

「シャルロア・メル士官学校生。お前の今後について3つ選択肢を与えてやる」

 右手の親指を立てて、「1つめ」と言う。

「卒業後、第5に配属される」

 ――は?
 ぽかん、と口を開けるシャルロアに、ファルガ・イザラントは「2つめ」と言って人差し指を立てた。

「卒業後、騎警団に入団しない」

 最後に中指が立った。

「3つめ。今すぐ第6師団所属、第4師団長付きになる」

 ――待って。待って!
 はくはく、と口を開閉させ、シャルロアはどうしたら良いのかわからず頭を抱えた。
 意味がわからない。どの選択肢もなぜそんな結論に至ったのか、過程がまったくもって見えない。しかもどれも選びたくないときた。
 シャルロアはとりあえず、挙手してみた。
 ファルガ・イザラントは面白そうに目を細め、発言を促す。

「ふ、副師団長。自分は総務部門生徒なので第6部隊に配属希望なのですが」
「あぁ、じゃあ3つめか」

 騎警団の制服上着の内側を何やら漁り始めた姿に、大変嫌な予感がしたので、シャルロアは慌てて制する。

「はっ、早まらないでくださいっ!」
「うるせぇ。次に騒いだら、みぞおち殴って拉致する」
「あ、はい」

 こっちは女子寮に忍んで来てる身だぜ、見つかったらさすがに世間体が悪いだろ、なんて言ってるがおそらく彼は世間体など気にしてない。純粋に、騒がしくしたのが気に障ったから物騒なことを言い出したのだと思う。シャルロアは、遠い目をして大人しく頷いた。
 意識まで遠くなりかけて、なんとか踏みとどまる。ここで意識をなくしたら、自分の将来設計がおかしくなってしまう。
 シャルロアの望む将来はただ1つ。いつか魔女だとバレてしまっても、シャルロアならば害ある魔女にならないという信頼。それにはそこそこの地位が必要不可欠だ。
 そしてそれは、騎警団の事務を担当する、第6部隊で得ることが望ましい。
 ――今なら騎警団に絶望することもなさそうだし。
 王子たちを見れば絶望しかなかったが、破天荒だが言っていることは正しいファルガ・イザラントを見ればこの国の未来も捨てたものではないかもしれない、と思える。
 シャルロアは重ねて申してみた。

「あの、第6部隊に配属希望です」

 この希望は別段非常識なわけじゃない。騎士部門の生徒が騎士だけで構成される第1に配属されるように、総務部門の生徒は事務を担当する第6に配属されるのが慣例である。
 ――おかしいのは、この人、だよね?
 総務部門のシャルロアが、何故に第5部隊配属になったり、第4師団長付きになったり、あまつさえ入団を諦めなければならないのか。
 そんな困惑を、ファルガ・イザラントは一笑に付した。

「残念だが、お前は入団したら第6に配属されるこたぁねぇ」
「は」
「人事、っつうのには俺だって逆らえねェんだよ。第1師団に異動しろっつうお達しがありゃ第1師団に転属するし、第3師団に異動しろって言われりゃ了解しか言えねぇ。つまりお前の入団後の配属先は第5か第6所属の第4師団長付きしかねぇんだよ」
「えっ、でも、人事だって非戦闘部門の人間を戦闘部隊に配属したり、しないですよね?」
「今回に限っては、するぜ?」
「なっ、何故に?」

 その一言で、ファルガ・イザラントは獰猛な獅子の笑みを浮かべた。
 故に、それが失言だったのだと、シャルロアは気付いた。

「てめぇは勘が良い方だな。もの見事に罠を避けるもんだから、どうしようかと思ってたぜ」
「やっぱり今の質問な」「第5師団員の任務を覗き見た生徒は、過去いなかったからだ」

 し、が言えなかった。
 ――第5師団員の任務?
 何だそれ、と叫びたいのを我慢して、なんとか小首を傾げるだけに留めると、ファルガ・イザラントは「あぁ」と褐色の首を撫でた。

「士官学校生は知らねぇんだったか?俺が『猫』って呼んだ女がいただろ」

 あの、王子たちに非難されても冷静を貫いた少女。いつのまにか消えていた少女。

「騎警団員が『猫』と呼んだら、そりゃ第5のことだ」

 断片でしかなかったものが、一気に繋がった。
 ――任務か!
 第5の任務は諜報活動。昼間の会話を思い出す限り、そこに属しているらしい彼女は男爵令嬢を間諜だと見抜いていた。
 何故見抜いていたか。それは調査していたからだろう。
 そして昨日の昼、『猫』の彼女が西校舎の音楽準備室にいたのは、仲間に調査報告するためだったのではないか。
 きっとだれにも見つからないように、周りに気を配っていただろう。報告内容を聞かれたら任務失敗だってありえる。
 だがシャルロアは、証言してしまった。
 似顔絵まで描いて。彼女が男子生徒と、音楽準備室で会っていた、と。
 彼女にとってそれは、どれほど驚くべきことだったか。
 シャルロアが背景を理解したことを、ファルガ・イザラントも理解した。

「頭の回転も悪くねぇな?あの『猫』がてめぇが卒業したら第5師団に欲しい、と人事にかけあってるらしいぜ。ま、第5師団員の報告場面を覗き見できるだけの技量がある生徒を事務方にやるなんざ、適材適所とは言えねぇからおそらく要求は通る」

 ――あぁぁぁ、馬鹿!私の馬鹿!
 昼間の自分を殴りつけたい。その人に味方しようなんて思わなくても、後に乱入してくる副師団長様が色々と木っ端みじんにしてくれるから大丈夫なんだと言いたい。
 ――今さら、見てなかったです、とか、言えない。
 シャルロアは『猫』である彼女の記憶を読み取っただけなのだ。その場にいたらまず間違いなく彼女たちに警戒され、姿を見ることはなかった。
 だが実は見てなかったです、なんて言っても信じてもらえまい。何せシャルロアは報告相手の男子生徒の顔をきっちり模写してしまっている。あれで、現場を見ていないとはどういうことだと問い詰められたら、芋づる式に魔女の異能までバレかねない。
 しかし第5に入る気もない。諜報活動なんてやったら、いつか魔女だとバレてしまったときに『魔女は国家機密を探ろうとしていた!悪い魔女だ!』なんて因縁をつけられるではないか。だから事務仕事がメインの第6を希望しているというのに。
 ずず、とファルガ・イザラントは茶をすすってから、小首を傾げて見せた。

「が、俺としちゃお前は第5向きの性格じゃねぇと思ってる」
「……え」
「あ?第5に入りてぇのか?」

 まさか、とシャルロアは首を勢いよく横に振った。ついでに手も振っておく。
 身体全体を使った拒否を見て、ファルガ・イザラントは呆れたように軽く目を眇めた。

「シャルロア・メル、16歳。身長165センチ。家族構成、父、母、弟。前テスト順位は51位。成績と品行は良好。魔力は魔法過配置(トフパスラ)状態が6歳時より続いている。好物は母親の作るポトフ、苦手な物はレン入り茶。親しい友人はローレンノ・ユーグスエ。1年生時の初成績は学年5位だったようだが、その後急激に20位に落ちている」
「……」
「同じくして、図書室で借りる本の数が増えてるな。勉強に関係ねぇ小説、雑学、図鑑。文字が書いてりゃなんでもいいって有り様だな。成績が良すぎて目立ったことが恐くなって、勉強する時間を抑えた結果だろ?かと言って、その後の成績は本部配属から外されない成績にある。野心家の小心者っつうよりは、安定志向の小心者だな、てめぇは。どっちにしろ小心者にゃあ潜入調査は向いてねぇ」

 鳥肌が、立った。
 何故。誰も気付いてなかったことを、たった一度会っただけの男が気付いている。
 ぐる、と『雷鳴獅子』は喉を鳴らして嗤った。

「そう警戒すんなよ。俺は引き抜きに来てやった、救世主みてぇなもんだぜ?」

 救世主はそんな獰猛な笑みを浮かべない、とは突っ込めなかった。

「このまま卒業して騎警団に入団となりゃ、お前は向いてない第5に配属されることになる。が、今ここで、俺と契約を交わすなら第6師団所属、第4師団出向扱いの団員としてすぐに招いてやる。もちろん卒業試験はパスだ」
「……申し訳ありません、ちょっと意味を掴みかねます」
「第4師団長付きの事務員になるなら、今すぐ士官学校を卒業させてやって、なおかつ所属を第6にしてやる。要するに引き抜きってやつだ」

 ――裏が見えない。
 ファルガ・イザラントが提案したのは、シャルロアにとってあまりにも都合の良いものだ。学校を卒業できて、騎警団を諦めずに済んで、第6師団に入団できる。ここまで都合が良いと、何か裏があるに違いない。
 探るように見つめるが、彼はそれを軽くいなしてしまう。
 ――探り合いは不利か。
 魔女の異能を使いたくなったが、桃色の蝶は思考ではなく記憶を読む能力だ。こういう場面では使えない。

「そう睨むな。別に裏があるわけじゃねぇ。第4師団は俺含め、脳みそのすべてが戦闘に向いてる奴ばっかりでな。書類仕事は師団長が主に負ってるんだが、さすがに人手不足だ。事務員がちょうど欲しかったんだよ」
「それは、私である必要性がありませんよね?」

 小首を傾げ、彼は嗤う。

「そりゃそうだ。ただの総務部門生徒だったら引き抜きにまでは来ねぇ。だが調査した結果、お前は似顔絵が得意らしいな?凶悪犯の似顔絵作成に役立つし、魔物の知識も第4師団の事務員としては欲しいと思ってた。お前以上に適任の人間はいねぇよ」

 この人どこまで探ってんだ、とシャルロアが冷や汗を垂らしたのは仕方ないことだ。彼と出会って1日も経ってないうえ、そもそも名前だって教えていないのに何故ここまで調べがついているのか考えるだけで恐ろしい。
 思わず黙ったが、そんなことお構いなしにファルガ・イザラントは追い打ちをかけてくる。

「言っておくが普通に卒業して入団したらお前は確実に、第5に配属になる。これは決定事項だ。それに今年、卒業者を出さないことが上層部で決まった」

 衝撃的な言葉に思わず息が詰まった。
 当然だろ、と彼は肩をすくめる。

「知ってるべき知識を知らねぇんだぞ。今年の卒業生は全員1年留年させることになってる。それは国の落ち度になるから授業料は全員免除だが、出世しようと思えばこの経歴はかなり不利になる。それともいっそ入団を諦めるか?だがお前の家の財政事情を鑑みるに、これまでの授業料をふいにできるほど裕福ではねぇだろ」

 ファルガ・イザラントの言うことは的を射ていた。
 卒業予定生に基礎知識がないのでは戦力として使えない。つまりシャルロアたちは新兵相当の実力さえないと騎警団にみなされたのだ。そこまで劣化したとされた者たちが這い上がるのはかなり難しくなるだろう。
 かと言って入団を諦めるということは、これまでかかった授業料も無駄にすると同義語だ。シャルロアの家は決して裕福ではなかったが、シャルロアの強い希望と優秀な成績のおかげで士官学校に入ることができた。
 今さら諦めることなんてできない。許されない。
 そして出世が難しくなるのも痛い。

「……結局、選択肢は1つしかないじゃないですか。どうせなら副師団長権限で命令すればよかったのでは」
「勘違いすんな」

 甘えを叩き落とすような声音だった。

「あくまで俺が提示できる選択肢は3つってだけで、てめぇはそれ以外の選択肢も選べることを忘れるな。第5に入るために部門を変えることだってできるし、今すぐ士官学校を辞めて働いて授業料を家に入れることだってできるだろうが。それに第4に入るなら、いくら事務員と言っても惨殺死体を見ることや危険な魔物と遭遇すること、頭のおかしい凶悪犯の取り調べにも同席しねぇといけねぇってことも頭に叩きこんで選択しろ」

 そう言って、彼は上着から羊皮紙を取り出した。
 机の上に置かれたそれを月の光で読むと、任命書と書かれてあった。騎警団の紋章入りの紙は正式な書類であることの証だ。

「未来を強制された人間は簡単に裏切るから、うちには必要ねぇ。俺の誘いに乗るなら、選択に納得した上でサインしろ」

 ――どこまでも、苛烈で厳しい人だ。
 シャルロアが望む楽な道をファルガ・イザラントは許してくれない。いっそ命令された方が何も考えずにいられたぶん、どれだけ楽だっただろうか。けれどおそらく、本当に納得して従うわけではないからそのうちに辞めてしまうか、裏切ってしまうかするだろうという予感があった。
 そんな人間なら要らない、と副師団長は言っている。
 ――でも、私は騎警団に入団することが必要だ。
 魔女であることが、人生の負担とならないように。
 ――人の命を奪う覚悟がないわけじゃない。
 そんな覚悟は士官学校に行く前に決めた。たとえ事務職だろうが、今後戦争が起きて戦況が悪化すれば戦地に引きずり出される。そこでシャルロアは国家を守るために、騎警団員として、人を殺すだろう。
 だがその恐ろしさよりも、魔女として排除される恐怖の方が勝ったのだ。
 だから、選んだ。士官学校に入学することを。
 ――戦闘職ではなく事務職として入団できる機会は、今だけ。
 今回も、選ぶだけだ。
 第4師団の事務は苛酷極めるだろう。だがそんなもの、魔女と非難されることに比べれば。
 シャルロアは立ち上がって机上のペンを取り、任命書にサインをした。
 署名したそれを渡すと、ファルガ・イザラントは金色の瞳で一瞥してから懐にしまった。窓辺に寄りかかって長い脚を放り出したまま、気だるげに小首を傾げて言った。

「シャルロア・メル。第4副師団長の権限を以って、明日より第6師団属第4師団長付きに任命する」

 どうでもよさげに任命されたのは少し悲しいが、望み通り事務職として働けるのなら文句は言わないことにしよう、とシャルロアは心的に目をつむった。
 左胸に手を当て、気をつけ、の姿勢を取る。

「拝命いたします」

 シャルロアがそう言った瞬間、焼けた金の目が――さらに熱くなったように赤みを増した。

「さて。それじゃあ、俺個人がてめぇに興味を持った理由を教えてやろう」

 ――副師団長、個人が?
 強張ってファルガ・イザラントを見れば、犬歯を見せて獰猛に笑んでいた。

「ただの引き抜きごときで、俺が出張るわけがないだろうが」

 言われてみれば、そうだった。
 一介の生徒ごときに副師団長がわざわざ引き抜きに来るはずがない。交渉など第4師団の新兵でも一等兵でも任せていればいい。
 耳鳴りがした。
 それは警告音に似ている。
 ――この男は『雷鳴獅子』だ。
 獰猛で、狡猾な、誰も飼い馴らせない獣なのだ。

「何か私に問題でも?」

 シャルロアが探る様子を隠しながら問うと、彼は軽く首を鳴らしながら答える。

「気絶したのが解せねぇ」
「副師団長はお忙しいと聞いておりますし、寝不足が祟ったのでは……」
「生憎と3日徹夜したあと追いかけっこできるくらいには、第4師団の連中は体力が有り余ってる。俺も例外じゃねぇな」

 その話を聞いて、シャルロアは明日からの勤務が激しく嫌になった。なんの意味もない3日徹夜は常識だ、なんて言われたら暴動を起こせる自信がある。眠りたいから、ではなくて、眠たいフリをするのは案外大変だからだ。
 半ば現実逃避しかけた頭に、コン、と音が響く。窓辺にカップを置く音をわざと立てて、己に意識を向けさせたというファルガ・イザラントの意図がありありと伝わってきた。

「お前が魔法を使ったのはわかってる」
「使いましたが、あれは無機物を浮遊させるだけの魔法です。間諜がナイフに何か仕込んでいたのではないですか?」
「調べたが、そんな形跡はなかった。ナイフに問題はない」

 仕事ができる男とは結婚しない、とシャルロアは今密かに、だが固く誓った。

「どう考えても怪しいのはてめぇの魔法だ。『ラン』なんて魔法はどの辞典にも乗ってねぇ」
「それはそうでしょう。あの魔法は魔法使いだった父方の曾祖父が創り上げた、メル家にしか存在しない魔法です」
「なるほど」

 納得したかのように見えたファルガ・イザラントは、次に身も凍る言葉を落とした。

「確かにてめぇの曾祖父は魔法使いだったな。言い訳としては筋が通る」

 ――マジか。この人……。
 シャルロアの曾祖父が魔法使いだったのは本当だ。だからシャルロアが使う偽物の魔法の存在を疑われたとき、彼が独自に創り上げた魔法だと説明すると決めていた。
 それは調べられても裏が取れるように、という用心からだったのだが、本当に疑われて調べられたことは今まで一度たりともない。
 そんな奥の手を調べた張本人は、それでも納得しているようには到底見えなかった。

「俺が気絶したのは、お前の魔法が宿ったナイフを持った直後だ。普通なら、あの秘伝魔法に『何か』が付随されていると考えて然るべきだよなァ?」

 シャルロアは、わずかに迷った。
 ファルガ・イザラントの言うことはおおむね正しい。魔法書に載っていないような秘伝魔法は何か仕掛けがあることが多いのだ。むしろただ浮遊させるだけの魔法ならば秘伝魔法とする意味がない。
 ――餌を与えるべきか。
 あの魔法は浮遊させるだけではなく、浮遊物に触れた対象を気絶させる、という効果付きだと言えばこの男も納得するだろう。あまり強硬に秘してもっと探られても痛い。
 獅子に骨付き肉を放るような心境で、シャルロアはため息を吐いた。

「……内密にしていただけるとお約束してもらえますか?」
「約束する」
「本当はあの魔法、浮遊させた物体に触れた対象を気絶させるものなのです。一族外にあまり知られぬように、と曾祖父は言い残したらしく……」

 ――さぁ、喰いつけ!
 これで満足して帰ってくれるだろう、という嬉々とした思いを隠し、シャルロアは自身の秘密を晒すことを嫌がっているふうな演技をした。軽く眉間にしわを寄せ、口調も重々しくする。自分でも驚くほどよい出来栄えだった。

「魔法か……魔法なぁ……」

 くつくつ、とファルガ・イザラントは喉で嗤った。

加護魔法(パッケージ)が生涯己を加護する魔法だってのは知ってるな」
「え?はい」
「とっておきの秘密を教えてやる。俺の加護魔法(パッケージ)は『インゼプラント』だ」

 その魔法は、加護魔法(パッケージ)にするには容量(レージ)が高すぎる状態異常治癒魔法だった。
 そんな馬鹿な、とシャルロアの顔が真っ青になる。
 『インゼプラント』は毒、怪我、火傷、病、興奮、どんな状態異常でもそれが魔法に因るものであるのならば10秒もかからず治癒する高レベルの魔法であり、人によっては発動することさえできないほどの容量(レージ)を求められる。
 だが彼は間諜との戦闘で、他の魔法も見せている。つまり高レベル魔法を加護魔法(パッケージ)としても、まだ空き容量(レージ)があるのだ。
 ――なんて恐ろしい……。
 魔力なんて一かけらもないシャルロアは、口端を吊り上げる目の前の男の底知れぬ力に、思わず後ずさりしそうになった。
 が、すぐさま硬直する。
 ――あれ。
 『インゼプラント』は容量(レージ)が高い分、本当にどんな状態異常であってもすぐに回復すると魔法辞典には書かれていた。
 毒、怪我、火傷、病、興奮――睡眠、気絶状態さえも。
 気絶状態も。
 ――あ、あ、ヤバい!
 シャルロアは、唱えてしまった。魔法を。
 そしてファルガ・イザラントは魔法がかかったナイフを手にして、気絶した。
 その気絶から10秒内に回復することはなかった。少なくとも、部下に食堂から運び出されるまで、彼は気絶しっぱなしだったのである。
 目の前の男は、獲物、シャルロアを見て笑みを深めた。

「その様子だと『インゼプラント』の効果は知ってるな。なんで俺は、10秒以内に、気絶から回復しなかったんだろうなァ?」

 餌を放った手に、噛みつかれた。

「その、そ、そ、それは……」

 ――気付くべきだった!
 ファルガ・イザラントが、何故自身が気絶したことを執拗に気にしていたのか、その理由に。
 並みの人間なら魔法効果で気絶することなんてありえるのだから、間諜のナイフが原因でないとわかったら、この聡い男ならばシャルロアの魔法が原因だという答えに落ちついただろう。そしてそれ以上の追及はしなかったはずだ。自分の中で明快な答えが出たら、それを確認するような手間はしない。間違いなくそういう人種だ。
 だが彼は状態異常を治癒する魔法を加護魔法(パッケージ)としていた。だから明快な答えが出なかった。故に追及に来た。そういうことだったのだ。
 ギッ、と立てられた音に肩をすくめた。我に返ると目の前の男は獲物を前にした獣のように、静かに身体を起こしていた。そのまましなやかな動きで、シャルロアに近寄ってくる。

「ま、魔法ですっ、魔法。曾祖父の特殊な魔法ですから、色々と作用するものが違うと申しますか、詳しくは秘伝魔法なので非公開ですっ」
「へぇ、興味深ぇな」

 本能的に、シャルロアは後ずさった。だが離れた距離はすぐに詰められる。
 1歩、2歩、と同じことを繰り返して、シャルロアのひざ裏にベッドの端が当たった。あ、と思った瞬間にはシャルロアは無様にもベッドの上に仰向けに転んでいて――ファルガ・イザラントが覆い被さるようにして自分を見下ろしていた。

「ふっ、ふく、副師団長っ、そのぶっ」

 唇に硬いものを当てられた。見ると、カップの縁を当てられていた。
 にやりとファルガ・イザラントが嗤う。

「俺に『魔女の一撃』を叩きこんだのは、お前が初めてだ」

 ――魔女。
 バレた。バレていた。どうしよう。どうすれば。いっそ異能を使って叩きのめせば。無理だ。相手は『雷鳴獅子』なのに。害されてしまう。
 様々な単語が脳裏を過ぎる。

「明日から、勤務時間外は覚悟しろ」

 ――ん?
 言葉の裏に秘められた何かを感じ取り、シャルロアは瞬いて彼を見つめ直した。
 その視線が硬直する。
 視線の先にあるファルガ・イザラントは、シャルロアが予想していたのとはまったく別の方向で好戦的な表情を浮かべていた。

「同級生が卒業する頃には、婚姻届に名前を書かせてやる」

 言葉が出なかった。
 ――こんいんとどけ?
 理解が及ばなかったので、とりあえずなるべく刺激しないように息を潜めたのが功を奏したのか、それとも反応しなかったことがつまらなかったのか、彼は途端に視線を外して身を起こした。押さえつけられていたわけでもないのに動けずにいて息苦しかったシャルロアも身を起こし、密かにため息を吐く。
 ――どういう状況よ、これは。
 考えがまとまらない。言葉が意識を上滑りしていく。そんな混乱の最中で得られた答えはやはり上滑りしたような現実味の薄い答えだった。
 よくわからないけどらいめいししにきゅうこんされたようなきもしなくもない。
 たぶんからかいだ。からかいであってくれ。
 縋るようにファルガ・イザラントを見ると、彼は窓の縁に足をかけたところだった。

「あの、副師団長……」

 帰る前に混乱を解いて行ってくれないかな、と思って声をかけた。シャルロアの呼びかけに視線を寄こした彼は、ほんのりと嗤っていた。
 ごろ、と『雷鳴獅子』は不穏に喉を鳴らした。

「せいぜい長い夜を楽しめ、シャルロア・メル」

 待って、と言う前に、彼は夜の闇に姿を消した。
 数分、足かける者がいなくなった窓を見つめてから、シャルロアはばたりとベッドに突っ伏して唸った。
 ――長い、夜……。
 急に落ちつかなくなった。
 初心に見えたシャルロアに求婚じみたことをしてからかったから、眠れなくなるだろうと当たりをつけてああ言っただけかもしれない。だが、あの言葉に他意はあるとすれば見過ごせない。
 ――魔女だと、バレているかもしれない。
 彼の推察力を以ってすれば、その回答に行きつくのも不思議でない。だが現時点で確実にバレている、とも言い難い状況だ。
 理論上は『インゼプラント』が発動しない魔法があってもおかしくはない。それが秘伝魔法であるのであれば信憑性は上がる。だからファルガ・イザラントは確証を以ってシャルロアの言うことが嘘であるとは断言できないだろう。
 しかし『魔女の一撃』なんて言葉も飛び出たくらいだ。警戒しておかねばならない。
 ――いや、あの『魔女の一撃』はどっちの意味だ!?
 はた、とシャルロアは恐ろしいことに思い至った。
 あれは辞書で言う1番の意味か。2番の意味か。
 致命的な一撃、という意味でも通る。だが、そのあとの――壮絶なまでに好戦的な色気を宿した目を鑑みると、辞書で言う2番目である激しい恋に落ちる、という意味の可能性を否定できない。
 ふとカップの縁を唇に当てられたことを思い出した。
 ――あれって、いわゆる、間接キスにあたるのでは?
 悪役じみた嗤い顔が過ぎった。
 2番目の意味を否定できないどころか、可能性が濃くなった、ような気がした。

「ふぉぉ……っ!」

 シャルロアは、悶えた。
 ファルガ・イザラントは自分が魔女であることをわかっているのか。
 ファルガ・イザラントの求婚は、冗談ではないのか。
 ファルガ・イザラントの興味から外れるにはどうすればいのか。
 悩める魔女の夜は、これから深まるばかり。
















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