士官学校にある食堂の料理は、そこそこおいしい。 というのも、味覚の基準を貴族のお坊ちゃんお嬢さんに合わせているからだ。しかし彼らの舌を真に満足させるわけではない、絶妙な味付け具合になっている。何故ならば、贅沢な食事に慣れすぎて戦地で簡易食を食べることができない、という事態にならないようにである。 そういった理由から、シャルロアが友人たちと一緒にそこそこにおいしいリダ肉の葡萄酒煮込みを食べていると、食堂の中央がざわめいた。 何事、とシャルロアが騒ぎのもとを振り返るころには、食堂の端までどよめきが波紋のように広がった後だった。 「この女狐め!」 怒鳴る声に聞き覚えがある。 見れば食堂の中央で、色ボケ王子を筆頭とし、図書館まではた迷惑な求愛をしに来ていた男たちが男爵令嬢を守るようにして背に庇っていた。令嬢は小鹿のようにふるふると震えている。 対峙するのは、麗人という言葉がふさわしい少女だった。長い銀髪を1つに括り、氷のような青い瞳で男爵令嬢の取り巻きたちを見つめている。美形たちを目の前にしてもその瞳や顔に媚びや甘えはなく、むしろ怒りを突き抜けたようにどこまでも淡々としている様子だった。 何故だろう、と思いかけた疑問はすぐにわかった。少女の制服が濡れている。そして王子の手には空になったコップが握られていた。 ――何やってんの、あの男。 もはやシャルロアには第2王子を王子と呼べるだけの尊敬はなくなってしまった。むしろ女性に水をかける大馬鹿野郎である。 そしてそれを止めたり非難したりしない取り巻きたちも、同様。 「……先ほど申し上げた通りです、殿下」 少女は濡れた銀髪を掻きあげながら、淡々とした言葉を返した。 「私はライトル嬢に嫌がらせなどしておりません。昨日の昼は所用で西校舎におりました故」 「エーレンがお前に泥水をかけられたと言っている。言い逃れるつもりか」 「それは東校舎の裏庭で、と殿下自身がおっしゃいました。私はその時間西校舎におりましたと再三申し上げております」 「エーレンが嘘を言うはずがないだろう!」 「そうです。エーレンはむしろ貴女を思って庇ったくらいですのに」 書記の彼が少女を軽蔑する視線を向けながら、第2王子に続く。 「なんと醜い。おおよそ嫉妬からエーレンに害をなそうと思ったのでしょう」 取り巻き連中はそうに違いない、と各々頷いた。 ――馬鹿じゃないの? シャルロアはふつふつと煮えたぎるものを感じた。 王子たちの物言いや振る舞い、視線から感じ取れる。彼らには最初から、非難される少女の言葉に耳を傾けようとする気がないのだ。愚かなことに一方的に男爵令嬢の言葉だけを信じ、少女を悪だと断じている。 それは、魔女への姿勢にも思えた。 畏怖され、厭われる魔女。どんなにシャルロアが害意を持たないと訴えても、周りに協調を見せていようとも、魔女だとバレるだけできっと排除の対象となる。 努力など一瞬で無駄になるのだ。 ――腹が立つ。 軽く瞬く。そうするだけで、シャルロアの前に桃色の翅の蝶が現れた。蝶を少女に向けて飛ばし、その美しい銀髪に髪飾りのようにして止まらせた。 シャルロアの異能は2つある。そのうちの1つ、この桃色の蝶の能力は『触れた相手の記憶を読む』こと。 音は聞こえないし、シャルロアが望む記憶が読み取れるとも限らない。けれど触れた相手がその記憶を思い出そうとしていれば、確率は格段に上がる。今ならきっと、あの少女は嫌がらせをしたとされている時間のことを否が応にも思い出しているだろう。 シャルロアの読み通り、彼女の記憶が頭の中に流れ込んでくる。この光景は東校舎の、音楽準備室。そこの窓から見える時計塔の針は昼休みの12時を指していた。 しばし窓の外を眺めて、窓から室内に視線が移った。部屋の隅にいつのまにか青年が立っていた。青髪の短髪、緑の瞳は切れ長で端正な面立ちだ。制服を着ているので男子生徒だろう。そこでシャルロアはピンときてしまった。 ――あぁ、これ逢引だわ。 私的な時間を覗き見している罪悪感があるが、彼女を助けるためだからと割り切ることにする。蝶から流れ込む記憶をもとに、シャルロアは手元のノートと鉛筆を手繰り寄せて青年の顔を描き始めた。 あまりある夜の時間、実家では弟の寝顔を写生して潰していた。そのうちに技術が向上し、似顔絵を描くのが得意になった。異能を使って得た記憶をもとに似顔絵を描くなど、簡単である。 記憶の中の彼女の顔は見えないが、相手の男子生徒は冷静な男らしく、恋人に向けてあまり甘い顔を浮かべない。音は聞こえないので何をしゃべっているのかわからないが、まるで仕事の話をしているようなつれなさである。しかしながら少女の方も王子たちへの対応を見る限り冷静な性質であるようなので、相性が良いのかもしれない。 ――いや、忘れよう。これは得てもいい情報じゃないんだし。 記憶の中の時間は進んで、視線が窓の外に向けられた。12時半を過ぎている。 昨日の昼過ぎ、男爵令嬢は泥を被った様子もなく午後の授業に出席しているのをシャルロアは知っている。もし寮に戻って泥を落として、着替えて、授業の準備をして、ということをしていたのだとしたら、どう考えても12時30分までには泥を被っていなければならない。犯行は不可能である。 証拠はシャルロアの中で揃えられた。 ならばもう、少女が非難されるのを見ていることもない。 ――昨日の昼、友達と一緒じゃなくてよかった。 学校には食堂以外にも購買があって、そこで軽食を買うこともできる。シャルロアは昨日、ふと購買の『丸パンのイサル肉詰め』が食べたくなって、食堂へ向かった友人たちとは別行動をしていた。なのでシャルロアが昨日どこにいたのか知る者はいない。好都合だ。 似顔絵を描きあげたシャルロアは、ノートを持って立ち上がった。 「あの、私、その子が西校舎にいるのを見ましたよ」 食堂中の視線がシャルロアに集中した。 取り巻きも、男爵令嬢も、少女さえもシャルロアを注視する。 ――あぁもう、注目されないように生きてきたのに! けれど腹が立つのだ、王子たちのやり方は。 いつ魔女として差別されるかわからないシャルロアにとって、最初から悪だと決めつけるそのやり方は非常に癇に障る。 「恋人と会っていたみたいだったから、私はすぐに見ないようにしたんですけど。お昼休みが始まってからすぐ、西校舎の音楽準備室で何か30分くらいお話してからお別れしてました。この人です」 彼らに近寄って似顔絵を見せると、何故か王子たちよりも少女の方が唖然とした表情を浮かべていた。 まさか援護射撃があるとは思いもしなかったのかもしれない。 ふ、とシャルロアは笑った。 「いやぁ、どっちも美男美女だったんで覚えてたんですよね。すっごく仲良さそうだったし。で、昼休みが始まってから30分間彼女は西校舎の音楽準備室にいたわけですが、そこから東校舎の裏庭まで、泥水とかも用意する時間を考えたら10分以上必要ですよね?まぁ泥水被せるだけなら1秒もあればできますけど、ライトル令嬢は午後の授業に非のない完璧な美しいお姿で出席しておいででした。泥水被せられたとなると、寮まで帰って、シャワーを浴びて、髪を乾かして、着替えなければなりません。所要時間は貴族のお嬢様ですから30分は必要でしょう。でも私は彼女が12時30分過ぎまで恋人と会っていたのを目撃しています。この矛盾はどういうことなのでしょうか?」 にっこりとシャルロアが笑ってやると、食堂の空気が一気に冷え込んだ。 「……嘘だ」 王子は零すようにつぶやいた。 けれどその瞳は敵意でギラギラと底光りしていた。 「エーレンが嘘を言うわけがないだろう。どうせお前も、この女と同じでエーレンの美しさに嫉妬した狐に過ぎん。そのような心根と容姿では誰にも見向きされなかったのだろう」 シャルロアは冷や水を浴びせられたかのように、頭が冷えるのを感じた。 ――馬鹿だわ、こいつ。 失望した。 こんな男が、こんな男たちが、将来騎警団を動かすと思うといっそ絶望すら感じる。 ――ダメだ、この国。きっと近い将来崩壊する。 愛しいと思う女の言葉にしか耳を傾けず、己の過ちを認めて正すことができない施政者など害悪以外の何者でもない。 ――こんな国で地位を得ても、無駄だわ。 一気に脱力して、馬鹿馬鹿しくなった。やはり家族を説得して別の国に移り住んだ方が賢明であるようだ。そうとなればもはやここに、未練はない。 ――言いたいことを言ってやる。 嘲りを隠すことなく、鼻で嗤ってやった。煽ったところで学校内での魔法使用は固く禁止されている。武器も持っていない彼らにできるのは、せいぜいが自分に殴りかかることだけだ。ただし女にそれをすれば、彼らの名誉に傷が付く。体面が大事な貴族の坊やたちが、暴力をふるうことはないだろうとシャルロアはあざとく計算した。 した上で、言ってやった。 「1人の女に貢がされるだけ貢がされてる事実に気付くこともなく、そのくせ愛の1つも勝ち得ない馬鹿男どもがすり寄ってこないのは、むしろ願ったり叶ったりですね。凡人万歳です」 「貴様……!」 王子だけでなく、取り巻きの男子生徒たちも気色ばんだ。 瞬間。 その後ろを、人が飛んでいった。 ――え。 戸惑いを口にする間もなく、続けてドォン!と大きな音が食堂に響く。 王子たちは驚いてシャルロアのことも忘れ、背後を振り返った。 彼らの真後ろには何もなかった。が、その右方向、食堂の壁には――校長が血まみれで寄りかかっていた。 刹那の静寂が広がって。 すぐさま食堂は阿鼻叫喚に包まれた。 「な、なんで校長が怪我を!?」 「っていうか飛んで来た!校長が飛んで来た!」 「音が響く前に飛んで来たぞ!えっ、校長が音速を超えた!?」 「止血!誰か止血!」 食堂は混乱を極めた。当たり前だ。最高責任者である校長が、血塗れで飛んで来たのだから恐ろしくもなる。 斯く言うシャルロアはおろおろとした。なんだこれは、敵襲か。事件か。校長が倒れている逆方向を見ると、食堂のドアがなくなっていた。ドアはどこに行ったのだ。ドアの行方を探して周りを見渡すと、校長の傍にへし折れたドアが落ちていた。あの重厚な木のドアが、よくもまぁ見事に折れたものである。惚れ惚れとしそうになって、自分は思ったよりも混乱していることに気付いた。数秒前までは予想もしなかった事態にどう対応すればいいのかまったくわからない。 ――あれだ、先生を呼んで来た方がいいのか……? 「黙ってろヒヨコども!!」 鼓膜どころか、全身が震えるほどの声量。 咆哮かと思った。 思わず声のした方に視線をやると、食堂の入口に男が立っている。 獣のようだ、とシャルロアは思ってしまった。 褐色肌の首筋にかかるほどある黒髪を、無造作に後ろに流している様は、色は違えどどこか獅子のたてがみを思い起こさせる。溶解した黄金のように赤みのある金色の瞳は、絶対たる王者の不興を表しているように眇められており、覇気、と満ちていてはいけないはずのものに満ち溢れていた。 おそらく、食堂にいる全員が感じている。 まごうことなくそれは、殺意、である。 先ほどの王子の敵意など稚気に思えるほど、男は荒ぶる殺意を露わにしていた。今にも腰に提げた剣を抜いてしまうのではないか、と危ぶむほどだ。 ――誰だ、あの人。 その疑問は男の着ているものを見て、すぐに解消した。 胸部を守る板金鎧。深緑色のズボンと、同じ色で詰襟の、丈の短い上着。その胸元には4本爪の獣の引っかき傷に似た紋章と、青い星が2つ描かれた紋章をつけていた。 爪痕の紋章の意味を、ここにいる人間が知らないわけがない。それは騎警団の紋章だ。 ――しかも、 その紋章をつけられるのは、騎警団の副師団長である6人だけだ。 何せ騎警団に師団は6師団しかない。王都にある本部だけが師団と呼ばれ、他の地域に存在する支部は部隊と呼ばれる。故に副師団長は6人。 あれ、とシャルロアは気付いた。 第6師団までしか存在しない本部騎警団。その中で、褐色肌の、黒髪で、金の瞳を持つ副師団長の男ときたら。 「『雷鳴獅子』……?」 誰かのつぶやきが響くのと同時に、乾いた音と火薬の匂いがした。 まさしく獅子のような男は、後ろ腰に提げていた複銃身式銃を掲げている。銃口からは煙が立ち上っていた。 「喜べ。次に許可なく喋ったクズは、鼻血が出るようなキスを床とさせてやる」 たぶんそれは、顔を地面に叩きつけると言う。 もちろん銃を手にした獣に、そんなことを突っ込めるツワモノは存在しない。 シャルロアは信じられない思いで、銃を 板金鎧の下に着ている黒いシャツは彼の身体にフィットしており、服越しでも一見するだけでその身にしなやかな筋肉がついていることがわかる。無駄なものなど削ぎ落しきった体躯だ。年の頃は20代後半といったところだろう。 本来なら副師団長の地位につけるような年齢じゃない。 だからこそ、該当する人間は確実に1人しかいない。 ファルガ・イザラント、27歳。騎警団第4師団副師団長。 騎警団の部隊や師団はそれぞれ担っているものが違う。 第1部隊、師団は騎士で構成された部隊。国境の警備や戦闘、魔物の退治を担う。 第2部隊、師団は刑事。国内の犯罪を取り締まる。 第3部隊、師団は消防。各地の火事の消火や防止を行う。 一つ飛ばして第5部隊、師団は特殊な部隊で、諜報を専門とする。騎警団付属士官学校に籍を置いていても、彼らが何をしているのかはようとして知れないし、そもそもどうすればそこに所属できるのかも謎な部隊だ。 第6部隊、師団は騎警団の事務を担当する。このまま卒業となればシャルロアが配属されるであろう仕事場がここだ。 そして第4師団。 第4に部隊は存在しない。 本部に第4師団があるのみ。なので各支部の第4は永久欠番であり、部隊は実質5つしかない。それは第4師団の役割が第5よりも特殊であるからだ。 第4師団の仕事は『凶悪』の解決。所属や管轄の壁を越えて、ただただひたすらに第4師団は『凶悪』を追う。 『凶悪』な魔物の退治だったり。『凶悪』犯の逮捕だったり。 その任務特性故に、騎警団の中でも武闘派が集まるのが第4師団となる。一等兵ですら支部の一個分隊と同等と言われる力量。そこの副師団長と言えば数多くの伝説を残すほどの器である。 ファルガ・イザラントは、首を軽く傾げてゴキ、と音を鳴らすと、食堂に足を踏み入れた。 「 朗々と、彼は唱えた。 魔法を。 「ぎゃああああああ!」 この世の終わりを見たような、つんざく悲鳴が食堂に響く。 壁にもたれるようにして倒れていた校長の右肩に、子供の腕ほどある太さの氷柱が突き刺さっていた。 ばたん、とシャルロアの背後にいる貴族の令嬢が青い顔で倒れた。 「イッ、イッ、イザラント殿!話せばわかる!話せばわかっ、ぎゃあああ!」 校長に近付いたファルガ・イザラントは、実におもしろくなさそうな表情で氷柱をめりこんだ肩に蹴り打ちこんだ。 周りの貴族子女たちがばたばたと倒れる。 「人語を解さねぇ豚と話しても、クソの無駄だ」 「止めろ!止めてくれ!そもそもここは、魔法行使禁止だ、ぎゃああっ!」 再度、ファルガ・イザラントは氷柱を蹴った。 痛みに喘ぐ校長の姿を見ていられなくなったのか、庇った男爵令嬢が怯えて震えるからか、公爵子息で副会長である男子生徒が「止めてください!」と声を上げて2人に駆け寄った。 「校長のおっしゃる通り、ここでは魔法行使を禁止されています!いかに副師団長と言えど、このような……っ!」 金の双眸が副会長を睥睨するのと同時に、剣ダコのある拳が彼の彫像のような美貌を殴りつけた。 容易く床に転がされてた副会長は呆然として、ファルガ・イザラントを見上げる。 「思い上がるな」 傍から聞いても底冷えする声音だった。 「忘れたのか?それとも教えられてすらねぇか?士官学校生は籍を置いている限り『新兵』相当だ。てめぇが世間でどんな地位や権力を持っていようが、騎警団に属する限りは階級が物を言う。上官への正当なき口答えは罰則に値する」 見ろ、と彼は上着の内側から羊皮紙を取り出した。 指令書、と大きく書かれている。 「ここにある通り、俺は特別に学校内での戦闘行為を許可されている。てめぇがやるべきだったのは制止じゃなく、魔法行使許可の確認だった。ここで何を学んでやがったボケ」 ファルガ・イザラントの顔と声には失望が露わだった。そして失望はすぐに、校長への怒りへと変わる。 「この売国奴が。こんなにも士官学校生を劣化させやがって」 「ちがっ、違う!」 「黙れクズ!てめぇのせいで第1部隊の一個分隊が壊滅した!」 ――なんですって? さすがに聞き流すことができない話だ。周りも動揺を隠せず、副師団長の言葉を忘れてどよめいた。幸いファルガ・イザラントはそのことについては咎めようとする気配がない。 むしろ皮肉混じりの笑みを浮かべ、声高々と叫ぶ。 「いいかヒヨコども、耳の穴かっぽじってようく聞け!先日、クァツゼーノに現れた魔物を第1部隊の一個分隊が討伐しに向かった。だがよりにもよって副分隊長と分隊長が魔物の生態と弱点をご存じなかった結果、一個分隊が壊滅し、手負いとなった魔物が近隣の村を襲って死者を出した!」 そんな馬鹿な、と言いたいのをシャルロアは必死になって我慢した。さすがに叫んでしまっては、副師団長に制裁されかねない。おそらく彼は本当の意味で男女平等者だろう。 ――魔物の生態と弱点を、知らなかった? 新種の魔物だったのか、とも思ったが、それならば副師団長がここまで怒り狂っているわけがない。おそらく、否、確実に、その副分隊長と分隊長は、知っていて当然の魔物のことを、知らなかったのだ。 「何故知らなかったか、わかるか」 何故知らなかったのか。 疑問の答えを見つけた瞬間、シャルロアは身を強張らせた。 ファルガ・イザラントの怒気を含んだ声が、それを助長させた。 「ヒヨコども、誰でもいいぜ。――バルバンサの弱点を挙げろ」 それを知っていて当然のはずの騎士部門の生徒たちは、皆一様に凍りついた。あの王子さえも顔を真っ青にして黙り込んでいる。 「どうした、誰でもいいっつっただろ」 副師団長の言葉には、沈黙しか返らない。 彼は、咆哮した。 「上官の質問を無視するつもりかァ!?あぁ!?誰でもいいから答えろ!!」 ――知らない、んだ。 いや違う。習っていないのだ。 「――うそでしょ」 呆然としてシャルロアはつぶやいた。 杞憂だと思いたかった。だが騎士部門の生徒の様子を見る限り、そもそもバルバンサという魔物の名前すら知らないようだ。つまり授業で習っていない、そういうことだ。 だが昨日読んだ10年前の教科書には、しっかりと『バルバンサ』という魔物について記述があった。生態と、弱点と、有効な戦術まで。 なのに、現在の騎士部門生徒は知らないでいる。 ――私だって、知ってるのに。 思った刹那。 炎を生んでいるように赤みを帯びた、金の双眸と視線が合った。 「答えろ」 疑問の余地なく、それは自分に向けられた言葉だと理解した。 視線が合った、それだけなのに射殺されそうな威圧を感じる。背中に冷や汗がにじんだ。 ――答え、ないと。 喰われる。 理不尽に向けられた、怒りに。 「バルバンサの弱点は、牙です」 しゃべると存外口内が渇いていたので一旦口を閉じて唾を飲み、また開く。 「折れば力の源を断たれ、大人しくなります」 怒りの気配が、薄れた。 代わりにファルガ・イザラントは喉を鳴らして、獰猛な笑みを浮かべる。 獲物を捕らえたような、笑みだった。 「てめぇ、どこの部門だ」 「総務部門であります」 「総務!」 声をあげて彼は笑った。 ――正解、だったのか。 昨日得たばかりの知識とは言え、間違っていたら殺されそうな雰囲気の中答えるというのは精神的に堪えた。 思わずホッとして、全身の強張りが解けた。 直後、ファルガ・イザラントは憤怒の形相で校長に刺さった氷柱を蹴った。 「ぎゃああ!」 「騎士部門の生徒じゃなく、総務部門の生徒がバルバンサを知ってやがるってぇのはどういうことだ!てめぇ、どういう教育してやがる!」 ――えぇぇぇ。 きちんと答えたのに、校長が蹴られるとは考えもしなかった。 なんという理不尽か、と思いかけて、すぐにシャルロアはそれを撤回した。それからなるべく副師団長の気を惹かないよう気配と呼吸を押し殺す。 たった今、気付いた。 彼の怒りやふるまいは理不尽ではない。むしろ、正当だ。 何故現士官学校生が魔物のことを知らないのか、その原因ともたらした結果を鑑みれば、おそらくどうふるまっても、ファルガ・イザラントの――騎警団の怒りを削ぐことは不可能だという結論に行きつく。 「俺の同期がここを卒業するまでは、バルバンサの記述が確かにあったっつうじゃねぇか。だが調べてみりゃあてめぇが着任した8年前から魔物の記述が減り、逮捕術の訓練が減り、消火訓練の時間が減っている。これは明らかに士官の質を落とすための、売国行為だ」 学校は学ばせておかねばならないことを学ばせず送りだし、結果騎警団と国に多大な損害を与えた。 今回は国内でのことだったからまだマシだった。問題発覚が戦時中だった場合、質の落ちた士官学校卒業生が前線にいたのではオルヴィア王国は確実に負けることとなり、戦勝国の属国となっていただろう。 だから士官学校生の質を落とすことは、売国行為に等しい。 ―― それで、第4師団の管轄ってことになったのか。 間違いなくこれは騎警団と国家にとって、『凶悪』事件なのだ。 校長は額に汗をにじませ、そんなつもりではなかった、と首を横に振る。 「私は、そんな大それたことなど!」 「思ってなくても、やったことは結果としてそういうこった、小悪党。教科書制作費や人件費の横領、賄賂、情報漏洩、色々と訊きてぇことがあるから、御同行願うぜ?」 細められた金色の目は、有無を言わさぬ迫力に満ちていた。 蒼白になった校長が力なく頷くと、ファルガ・イザラントは鼻白み気だるげに小首を傾げた。 「…… 副師団長が魔法を使った途端、校長はがくりと頭を垂らして深い眠りについた。 ――あぁ、いいなぁ、あれ。私も魔法が使えるならあの睡眠魔法欲しい。 そうしたら自分にかけて、長い夜を短くする。15分で眠りが足りるとは言え、長い夜を1人きりで起きているのは退屈で、孤独だ。 しかしそもそも、魔法を使えるだけの魔力があれば短睡眠者であることもなかったはずなので、考えるだけ無駄である。 「で?」 校長を眠らせたファルガ・イザラントは、先ほどの気だるそうな雰囲気はどこへやら、金の瞳を爛々と光らせながら、シャルロアの方に向き直った。 否。 正しくは、つい先ほどまで王子たちに非難されていた少女の方に、向き直った。 「面白そうなこと独り占めしてやがるな、『猫』。こいつぁ、どういうこった?」 少女の方を向いたまま、ファルガ・イザラントは険呑とした笑みを浮かべて――男爵令嬢を見つめる。 褐色の手がしなやかに腰の剣を抜いた。 「魅了魔法は 思わず息を呑んだ。 ――どうして、気付かなかったんだろう。 ファルガ・イザラントの言葉は学校内にいる誰よりも正確に、事実を見つめていた。 だがメリットもある。 上手く使いこなせば大きな力となる 指定をした場合、どうなるか。 ―― そんなの決まってる。 魅了魔法に対して防御魔法を張らない限り、この学校で起きたようなことが不和が起こる。 恐ろしいことに気付いた刹那、空気を切り裂く音がした。 ――え。 瞬きしか許されぬほどの時間の中で、ファルガ・イザラントは取り巻きの男子生徒たちの間を縫うようにして、男爵令嬢を斬りつけていた。 赤い滴が宙を舞う。 副師団長は喉を鳴らして嗤っていた。 「――きゃあああっ!」 見ていた女子生徒たちが悲鳴をあげる。 その声にやっと反応し、王子たちは男爵令嬢へ振り向いた。 彼女は斬られた左腕を押さえながら間合いを取り、常ならば愛らしい笑みを浮かべているその顔を冷たく凍らせた。瞳だけは憎々しげにギラつかせ、ファルガ・イザラントを睨んでいる。 その姿は、甘やかされた貴族子女のものではなかった。 ファルガ・イザラントは令嬢の様子を観察し、にぃ、と片頬を吊り上げる。まるっきり悪役の嗤い方にしか見えず、シャルロアは無意識に後ずさった。 「ちょうど暇してた。もらうぜ」 目的語がない言葉に答えたのは、『猫』と呼ばれた少女だった。 「殺さないでいただければありがたい。どこの間諜かはっきりさせる必要があります」 「邪魔させなければ善処する」 ファルガ・イザラントが床を蹴ったのと同時に、『猫』は口を開く。 「 冷然とした声音が魔法を紡ぐと、王子だけではなく取り巻きの男子生徒全員の動きが止まった。それを横目に、副師団長は令嬢に剣を振り下ろす。 エーレン、と誰かが叫ぶ前に、令嬢は後ろ腰からナイフを取り出して剣を流した。ファルガ・イザラントは獰猛な笑みを浮かべたまま、2撃目を繰り出した。喉を突こうとする攻撃を弾き、令嬢は後ずさりする。 一連のやり取りをシャルロアは信じられない思いで眺めていた。 ――相手は『雷鳴獅子』なのに。 10年前に終結した戦争の末期、騎警団は戦地に騎士だけではなく第6以外の師団と部隊を投入していた。国境防衛戦において、劣勢が続き騎士を多く失っていたからだ。そんな激戦地で大将の首を取り、名を馳せたのは当時第2部隊新兵だったファルガ・イザラントだった。 敵の大将首を取ったおかげで味方の士気は息を吹き返し、劣勢にあった戦況を優勢に戻した結果、オルヴィア王国は相手国に対し有利な条件をつけて停戦することができた。 ここで終われば、ただの武勇伝として扱えるのに。 ファルガ・イザラントという人物は、武勇伝で語る人物ではなかった。 兎にも角にもファルガ・イザラントは気性が荒いどころの話ではなく、苛烈なのである。軍属であるため命令は聞くが、その命令が理に適っていなければ規則に則って逆に上司を拘束する、同僚の不正を見つければ逮捕するついでに乱闘する、部下が失態を犯せば容赦なく殴りつけ、捕らえる犯罪者はもれなく病院送り。それらを喉を鳴らして嗤いながらやるものだから、ついた異名が『雷鳴獅子』。笑えることに異名は戦時中、敵からつけられたのではなく、戦後の騎警団員たちからつけられた。 『雷鳴獅子』がゴロゴロと喉を鳴らしているときは気をつけろ、が合言葉となった。 もはや刑事ばかりの第2部隊では手に負えない、という理由で彼は終戦から1年で第4師団に引き取られ、以降水を得た魚のように活躍して副師団長の地位まで上り詰めた。 そんな根っからの戦闘狂であるファルガ・イザラントと、一介の総務部門生徒であり、貴族令嬢である彼女が渡り合えるはずがないのに。 ――間諜。 令嬢は、一介の生徒などではなかったのだ。 令嬢――間諜はファルガ・イザラントの攻撃をいなしながらスカートをめくりあげた。貴族子女であれば絶対にしない行為だが、彼女は恥じらう様子も見せず、太ももに提げていた投げナイフを手にして、投げた。 ファルガ・イザラントにではなく、近くにいた男子生徒に向かって。 ファルガ・イザラントは一瞬の間に標的を確かめた。しかし何をするでもなく、間諜に斬りかかる。 ――マジか! 考える前に、シャルロアは魔法を唱えた。 「 唱えるよりも先に、銀の翅の蝶が投げナイフを捉えていた。翅が美しくはためけば、ナイフは軌道を変えて、宙に浮かんで止まる。 もちろんこれは魔法ではない。シャルロアが持つ2つめの異能。 銀の蝶は無機物であれば自在に操ることができる。そして操っている物体に触れた者は気絶する。 桃色の蝶に比べて特性上、人の目に触れやすい恐れがある異能だから、幼い頃より魔法に見せる練習を絶やさなかった。銀の蝶を使うときは口が勝手に魔法を唱えるまで、修練を積んだ。おかげで今や、シャルロアが魔法を使えないなんて思う人間などいない。 ――練習してなかったら、ヤバかった。 蝶を消すと、ナイフは浮力を失って床に落ちた。男子生徒は腰を抜かして、その場にへたりこむ。 ファルガ・イザラントは確かに標的を確認していた。その上で、放置した。噂に聞く苛烈な性格から想像するに、いかに士官学校生と言えどナイフごときも避けられないのでは騎警団に入団する資格なし、と思ったのかもしれない。 それを惨い、と思うのはおそらく、世代の差だ。ファルガ・イザラントが新兵として入団した時期は戦争末期。しかも劣勢だった。新兵と言えど即戦力になりえなければ死ぬしかない、そういう時代を生き抜いた。 対してシャルロアたちは牙を抜かれた士官学校生。ファルガ・イザラントの言葉を借りるならば「劣化した」新兵候補。平和ボケしているのは否定できない。 「……素晴らしい」 落とすようにつぶやかれた言葉にシャルロアが顔を向ければ、『猫』と呼ばれた少女が、まさに獲物を見つけたと言わんばかりの目をして、こちらを見ていた。 シャルロアは、反射的に顔を背けた。 おそらく、たぶん、きっと、彼女と関わり合いになってはいけない気がする。 背けた先で、ファルガ・イザラントが間諜の左肩を剣で貫いていた。 「ぐっ!」 間諜は初めて呻き声をあげた。 ファルガ・イザラントは剣を引き抜き、間髪いれず袈裟懸けに斬り下げる。 間諜の胸から脇腹にかけて、どっと血が溢れた。 「……っ 「 間諜の魔法に合わせて、ファルガ・イザラントも魔法を唱えた。 間諜が唱えた魔法は止血魔法。さすがに袈裟懸けに斬られては失血死する、と恐れたのだろう。ファルガ・イザラントはそれを予測して、拘束魔法を唱えた。 あれが高位の拘束魔法であることを、シャルロアは魔法書で知っている。身体の自由を縛るだけでなく、口も利けなくする。ファルガ・イザラントが許すまで間諜は口を開くことができない、そういう魔法だ。 いかな魔法使いでも、同時に唱えられたのではそれを防ぎようがない。 だが間諜は、声を縛られ、身体を封じられようとしてもなお、職務を全うしようとした。 完全に身体が動かなくなる前に、投げナイフを手にする。そして、投げた。 ――ヤバい、また誰かに当たる! また考える前に、口が動いた。 「 蝶を出して、ナイフを捉え。 瞬きする間しかなかった。 だが、シャルロアの脳はめまぐるしく働いた。 ――あれ、この軌道は。 先ほど間諜が投げたナイフは、生徒に向けられたものだった。 だから今回も誰か生徒に投げられたに違いないと思った。 しかし、ナイフは真っ直ぐ――ファルガ・イザラントの首を狙っている。 刃の先で、彼はナイフを受け止めようとしていた。 素手で。 ナイフに、触れてしまう。 魔女の異能が宿った、ナイフに。 ――あ。 掴んじゃダメだ、と叫ぶ前に、ファルガ・イザラントは指先で軽々と刃を挟んで止めた。 瞬間、『雷鳴獅子』は気絶した。 |