魔女の一撃 【まじょのいちげき】
 1.心身に致命的な一撃を与えること。転じて、物事に大きな影響を与える決め手のこと。
 2.強く心を奪われ、激しい恋に落ちること。

――オルヴィア王国出版 オルヴィア国語辞典より




 シャルロアは、辞典をそっと閉じた。粗雑に閉じなかったのはその辞典が学校の図書室所有であることと、今この場が静寂を愛する図書室であるからだった。
 書物を読むべき場所が静かであるべき、という決まりは古今東西関係なくあって然るべきものだろう。つまりはこのオルヴィア王国立騎警団付属士官学校の図書室にも。
 ―― その、はずなんだけど?
 シャルロアは細くため息を吐いた。生徒が学習するために並べられた長机と椅子が並ぶ空間に座る彼女は、そこから見える本棚の陰に隠れて……いるようで隠れていない男女の姿に目を向ける。
 男子生徒の容姿は優美の言葉に尽きる。銀糸のごとき長い髪と、前髪から覗くアルレアの花のような紫色の瞳には知的な魅力がある。顔立ちが整っているが故に中性的な印象を受けがちだが、学校の制服である深緑の詰襟ジャケットやズボンがよく似合っていた。
 対して女子生徒は可憐である。淡い金髪で、毛先が少し巻いたロングヘアにリルト石に似た透明感のある緑の瞳。桃色のつやつやとした唇は魅惑的だし、同じくほんのり桃色に染まった頬も愛らしい。彼女の女子生徒の制服である深緑の詰襟ジャケットと、同じ色のスカートは本来なら纏う者の雰囲気を凛としたものにみせるはずだが、彼女に限ってはそのたおやかさが強調されている。
 そしてお互いを見つめあうその姿は、誰の名画かと尋ねたくなるような光景だ。

「テレンゼ君、あの、あのねぇ、この間のテストで私、良い点が取れたの!テレンゼ君が勉強教えてくれたからだね!」
「いえ、エーレンが頑張ったからですよ。貴方の役に立てて嬉しいです」
「また、勉強を教えてもらってもいいかなぁ?」
「もちろんですよ。貴女は優秀だから、教え甲斐があります」
「えへっ、やったぁ。生徒会の書記さんに教えてもらえるなんて贅沢だなぁ」
「かわいい貴女のためならば、どんなこともお教えいたしますよ」
「もう、かわいいなんて、迂闊に女の子に言っちゃダメ!」

 ただしこの会話がなければ、の話だ。
 シャルロアは閉じた辞典に額を乗せた。
 ――あー、誰か言ってよ。ここはお前らの私室じゃねぇんですよって!
 シャルロア自身は、図書館内でのおしゃべりは何が何でもダメ!という主義ではない。勉強する上で必要な会話というものが生まれることだってあるだろうし、少々の無駄話だって気にしない。
 だがそれはああも、普段しゃべるような声量でいちゃいちゃいちゃいちゃした鬱陶しい、もとい、笑みが引きつるような仲睦まじい会話を許したわけじゃない。それはおそらくシャルロアだけの考えではないだろう。周りの人間も、額に青筋を立てて死んだ魚の目をしていた。その目が如実に語っている。『うっせぇ、勉強しねぇなら黙って去れ』と。
 しかし、そう言うわけにはいかないのだ。悲しいことに。
 茶桃色の髪を、シャルロアはぐしゃりと掻く。一つにまとめた髪が崩れた気がしたがどうでもいい。

 オルヴィア王国騎警団付属士官学校。

 騎警団、とはオルヴィア王国内外の防衛を務める機関のことだ。その騎警団が士官を育てるための学校がここ、騎警団付属士官学校である。
 部門は全部で4つ。騎士を育成する騎士部門、犯罪者を捕らえるための技術と知識を習う刑事部門、消防士を育てる消火部門、そして騎警団の裏方を支える者を輩出する総務部門。
 騎士部門は王族と貴族しか入学が許されないが、他の部門は優秀であれば貧乏人であろうとも入学が許される。むしろ消火部門であれば、見習い消防士として扱われ、給料が支払われるくらいだ。
 だから消火部門には平民、貧民の男子生徒が多く、貴族の子息はほとんどいない。刑事部門も風変わりな貴族子息がそこそこいるくらいで、やはり平民が多い。
 そしてシャルロアが籍を置いている総務部門は他の部門と違い、女性が圧倒的に多い部門だ。貴族子女と平民女子の割合が半々といったところ。
 ここでこの図書室、という部屋の役割を考えてみてほしい。図書室は勉強をしたり、本を読む場所だ。間違っても剣の訓練をしたり、消火訓練をしたり、いちゃいちゃするための場所ではない。
 つまり基本的にここを利用するのは犯罪者を捕らえるための法を学ぶ刑事部門の男子生徒と、会計や書類を作るための勉強が必要な総務部門の女子生徒だ。そして図書室を利用するのは、まず間違いなく平民だけなのだ。貴族の子息や子女は図書室に足を運ばずとも、自分の屋敷に蔵書しているのでこんな場所に来なくても、家から本を取り寄せればいい。勉強したければ家庭教師だって呼べる。
 早い話、貴族は滅多に図書室を利用しない。
 だが本棚の陰でいちゃこらした会話を繰り広げている2人は、貴族なのだ。
 士官学校の生徒会役員は慣例として、貴族が就くものである。腹立つ会話を交わす男子生徒の方は伯爵子息で書記、女子生徒の方は男爵令嬢で会計。ちなみに男子生徒は騎士部門、女子生徒は総務部門に在籍している。
 シャルロアは長くため息を吐いた。
 騎警団で重視されるのは出自ではなく、騎警団での階級と実力である。侯爵子息であろうが、騎警団に入団すれば男爵子息の隊長命令に従わねばならない。騎警団で勝ち取った階級こそが物を言う世界だと聞いている。
 それに倣って士官学校では生徒は皆平等な立場にある。王族だろうが貴族だろうが平民だろうが、生徒は一生徒。出自の権力を振るうことは許されない……はずなのだが、あくまでそれは建前というやつだ。実際は平民が貴族に何かを物申すことなど出来やしない。
 だから図書室で迷惑なおしゃべりをしている貴族がいても、そこを利用する平民は我慢するしかないのだ。

「エーレン!」

 図書室の入口から、これまた周り無視な大声が響く。誰何するまでもなく、シャルロアにはそれが誰なのか予想がついた。

「エナハウォール様!」

 男爵令嬢が驚きの声を上げる。やはり、うるさかった。
 げんなりして顔を上げると、向かいに座る男子生徒の頬が怒りで引きつっていた。手元には法律辞典とノートがあるので、刑事部門の生徒だろう。体力と知力がいる部門なので静かに勉強ができる場を切望しているだろうに、哀れであった。彼に比べれば総務部門のシャルロアの苛立ちなどかわいい方だ。
 そんな彼の背後を通り過ぎる男子生徒は、生徒会長であり、この国の第2王子である。
 月の光を浴びた夜の川のように艶めく黒い髪に、海の底をさらってきたような青い瞳をしている。顔立ちは気品を感じさせながらも男性らしく、その体躯も引き締まっていて美しい。国外でも美男と名高い王子だ。
 ただしそのオツムは残念である、とシャルロアは不敬ながら思っている。
 王子は怜悧な瞳に男爵令嬢を捉えると、とろけそうに甘く微笑んだ。

「あぁ、私のエーレン。どこへ行ったのかと思っていたぞ」
「エナハウォール様は心配性ですね。今日はテレンゼ君と図書室へ向かうって言っておいたじゃないですか」
「私以外の男と2人きりになるなど許さん」

 2人きりじゃねぇよ、お前らを迷惑だと思ってる生徒がたくさんここにいるだろうが、と思ったのはおそらくシャルロアだけじゃない。目の前の男子生徒が握る万年筆がミシ、と音を立てたので。

「他の男を見るな。お前は、私だけを見ていればいい」
「エナハウォール様……」

 男爵令嬢の瞳が儚げに潤み、頬がほんのりと紅潮する。照れているらしいのだが、シャルロアにはその感性が理解できない。
 他の男を視界に入れずに、どうやって生活しろというのだろうか。もしかすると貴族様には可能な願いなのかもしれないが、平民には無理な話だ。シャルロアが贔屓にしているパン屋の主人がすでに男なので、食事がままならなくなる。
 ――うちの王子様、王族の癖して狭量すぎるでしょ。
 だからシャルロアはまったくときめかない。どんなに顔が良くても、器が小さくて視野の狭い男などときめく要素が皆無である。
 天は二物を与えず、とは言うが、それなら麗しい容姿ではなく明晰な頭脳を王子に授けるべきだったと思う。第2王子だから暗愚であっていい、わけがない。王族に平民が期待するのはその政治手腕なのだ。第2王子は第2王子なりの立場と振る舞いを理解していてもらわねば国民として困る。
 そう、美男だろうが醜男だろうがシャルロアは心の底からどうでもいい。外見の良し悪しなどという瑣末なことは、国を良く治めてくれているという前提があって、なおかつ美男であれば国外への箔がつくよね、くらいのおまけ要素だ。
 ――でもこれが、うちの国の第2王子なんだよね……。
 この、色ボケが。
 そう非難するのは、16歳という青年たちには酷な部分があるとは思う。誰だって甘酸っぱい青春はしたいものだ。戦争終結から10年経って、やっと平和が国に馴染んできた今だからこそ思う。
 でも、目の前の光景には納得がいかない。

「エーレンさん」
「エーレン!」
「エーレンちゃん」

 ペキン、と音がしたので見ると、向かいの男子生徒の万年筆が折れていた。ご愁傷さまである。
 その背後を3人の男たちが騒々しく駆けて行く。
 1人は銀髪碧眼の、氷の彫像のように美しい男。副会長で公爵子息。
 1人は赤髪に赤眼を持つ、炎の化身のような美丈夫。規律委員長で伯爵子息。
 1人はくせ毛の強い金髪に紫の瞳を持つ、かわいらしい少年。保健委員で侯爵子息。
 ――はぁ。
 生徒たちの大いな虚脱感には、この状況が関係していた。
 1人の男爵令嬢を溺愛する生徒会役員や委員たち。男爵令嬢という花に群がる彼らは、彼女を愛するあまりに各々の権力を行使することを躊躇しない。それは出自の権力も含めてだ。
 甘いものが食べたい、と言えば誰かが家の権力に物を言わせて流行のお菓子を持って来させ、馬に乗りたいと言えば誰かが彼女に馬を贈る。
 それだけならまだしも、男爵令嬢が食堂のメニューに苦手なものがある、と言えば誰かが食堂のメニューの見直しを強要し、寮の部屋の日当たりが悪い、と呟けば誰かが部屋を替えさせるのだから始末が悪い。
 平民どころかいかな貴族子女でも、自分の好き嫌いで食堂のメニューを替えさせることがどれだけ利己的なことなのかわかっている。さらに寮の部屋はよほどの理由がない限り部屋を替えていいわけがない。日当たりが悪い部屋は嫌、なんて理由は言語道断だ。
 それを彼らは押し切った。自分たちが持つ権力を使って。
 その行為に賛同するのは、彼らと同じく男爵令嬢を好ましく思う連中――騎士候補生たちくらいなもので、平民の男子生徒や女子生徒は眉をひそめている。騎士候補生たちにも、男爵令嬢本人にも。
 何せ男爵令嬢自身がこの環境を好んで作っているようなのだ。
 騎士候補生たちに甘い言葉をかけて、心を惹きつけ、彼らの持つ権力を自分のために使わせる。中には婚約者がいる男もいるのに、彼女に心を奪われた者は皆婚約者をぞんざいに扱った。
 そしてそれを男爵令嬢は注意しない。
 シャルロアが1年生のころはまだ良かった。同級生である男爵令嬢も先輩の目がある以上はそれほど大きな顔ができなかったし、王子も己の立場をわきまえていたように思う。
 おかしくなりはじめたのは2年生のころからだ。学校に慣れて、男爵令嬢の取り巻きたちが生徒会や役員に就くや否や、彼女に対するえこひいきが始まった。
 当然、彼女に反発する者が出てくる。多くは女子生徒だった。
 けれど彼女に表だって反発する者は、彼女に魅入られた男たちの権力によって退学させられるか、学校内での立場を失くしてしまった。そうなった貴族子女を、シャルロアは少なくとも10人は知っている。
 3年生になった今では、もはや現状を投げている者しか残っていない。反発する者は学校を辞めるか、辞めさせられたのだから当然の成り行きだ。
 ――大丈夫なのか、この国。
 国の政治を取り仕切るのは貴族だ。ひいては、この学校に通う者たちが次代の施政者。
 その者たちが、たった1人の少女のために学校の規律を乱す。
 その光景が近いうち、国の規律を乱すことに繋がるのではないかと平民たちは思っている。
 ――国を捨てて、家族総出で逃げた方がいいのかな……。
 シャルロアは悟りきった表情で勉強道具をしまいはじめた。向かいを見れば男子生徒も怒りを突き抜けたのか、黙々と勉強道具を片付けている。辞典は貸し出し禁止なのでここで勉強していただろうに、可哀そう過ぎる。
 勉強道具を片付けたシャルロアは何冊か本を借りて、男爵令嬢の興味を引こうとして騒がしい図書室を後にした。





********





「シャルロア、また図書室に行ってたの?」

 夕食を食べたあと、寮の談話室で借りた本を読んでいると、友人からそう話しかけられた。
 物語の本ではなかったので惜しくもなく本を閉じ、シャルロアは肩をすくめて見せた。その意味は「有意義な時間ではなかったけれど」である。

「あんな場所によく行くわね」

 あんな、というのは、あの図書室はよく、件の男爵令嬢とお取り巻きの方々が逢引するのに度々使うからである。おかげで自ら勉強しようという勤勉な人間が減ってしまった。シャルロアが1年生のころに比べ、現在図書館を利用する人間は確実に減っている。考えるだけでげんなりする現実だ。
 そんなげんなりする場所に自ら足を向けようという考えが友人には理解できないらしい。
 シャルロアだって理解していない。仕方ないのだ。

「本を読むには図書室に行くしかないんだもん」
「本の虫だわ」

 親交がある者には、シャルロアは『活字中毒者』として知られている。政治の本から図鑑まで、一文字でも字があれば手に取って読む。そう思われているし、事実そうであった。
 そうだわ、と友人は思い出したように瞬いた。

魔法配置(パスラ)しようと思うんだけど、何かお勧めの魔法ってない?」
「人を魔法不動産屋のように言うのは止めてよ」
「だって、魔法使いでもないのに魔法書をたくさん読んでるのってロアだけじゃない」

 魔法書なんて実益のないものを読むんじゃなかった、とシャルロアは後悔した。実はこの手の相談は多いので、この3年の間にいい加減うんざりしてきている。
 ――まぁ、魔法書を読むのが面倒ってのはわかるけど。
 市販されている魔法書とは、いわば辞典みたいなものだ。目的のものを探そうとするときは便利なものだが、物語性のないそれ自体を読み込むことはかなりの苦痛である。
 シャルロアだって、暇で暇で仕方ないから読んでいるだけで、暇じゃなかったら読もうと思う代物ではない。
 魔法。
 それは誰しもが使える、不思議な現象を起こす技術。
 ただしそれは規則にのっとらなければ作動しない。魔法の呪文には容量(レージ)があり、己が元々持ち得ている容器(クラ)以上のものは詰め込めない。コップに容量以上の水を注げないのと同じことだ。
 そして魔法を使おうとするのであれば、あらかじめ魔法呪文を自分の中に取り入れておかねばならない。それを魔法配置(パスラ)と呼ぶ。水を注がれていないコップでは何も濡らすことができないように、人も魔法を使うことができない。
 はぁ、とため息を吐いて、シャルロアは小首を傾げて見せた。

「どういうのがいいの?」
「猫が寄ってくる魔法」
「ないよ」
「即答!?悩んでよ、思いだそうとしてよ!」

 縋る友人に、シャルロアは面倒そうな表情を向けた。

「なんで、猫?」
「私は今、切実に癒しが欲しい……たぶん学校の皆がそう思ってる」
「あー……」

 理解した。激しく。
 そうして思い出した。馬鹿馬鹿しいが。

「『動植物癒しの魔法書』クラッター出版、で探して」
「やった、ありがとう」

 現金にも喜んだ彼女は、ふとその視線をシャルロアの持つ本に落とした。その内容を確認するや否や、かわいらしい顔を盛大に歪めて「信じられないわー……」と冷えた声音でぼやく。

「あんた、もしかして図書室の本読み尽くしたの?なんで10年も前の教科書読んでるのよ」
「『あの現象たち』から一番遠い本棚で適当にひっつかんできたのがこれだった」
「ごめんご愁傷さまだった」

 間髪いれず友人は謝ってきた。
 まさか本当に好き好んで10年前に使われていた歴史教科書をひっつかんできた、と思われていたわけではないだろうが、すんなりと謝られてしまうとそのまさかの可能性を考えるので止めてほしい。
 シャルロアは読書家なだけであって、勉強家ではないのだ。好き好んで教科書など読まないのだが、借りてきた以上読まないのももったいない。
 それに下手な小説を読むよりも、教科書を読むほうがマシなのかもしれない。シャルロアが読んだ限りで一番最悪だと思った小説は『イセレア家の真実』という題名で、謎解きものかと思ったら『この泥棒猫がー』『豚めー』を地でやる三角関係どころか八角関係の愛憎模様ドロドロの話だった。しかも何が真実かって、主人公がイセレア家の血を継ぐ子じゃなく王家の血を継ぐ子だったのだ、というしょうもない真実が最後の最後で明かされるのだが、実は最初の方で王が私が主人公の父だーと言ってしまっていたのだ。作者と編集、推敲をしたのかと問い詰めたい。
 よけいな記憶を引き出してしまったせいで、シャルロアはげんなりした。
 と、談話室に鐘の音が響き渡る。もう就寝の時間が迫っていた。
 寮長と監督生が談話室にやってきて、手を叩く。

「みんな、就寝の時間よ。部屋に戻りなさい」

 その言葉に反抗する者はいない。シャルロアも寮長と監督生の言葉に従って、友人と就寝の挨拶を交わしてから自室に戻った。
 士官学校には13歳になれば入れる。それからどの部門に籍を置こうとも、3年間寮に入って勉学に努めなければならない。
 最初の年は2人部屋。次の年からは1人部屋が与えられる。入学する前は部屋の使い方がずいぶん贅沢だと思っていたが、入学してわかった。
 士官学校に入れる人数は多くない。
 この学校を卒業できれば新兵、一等兵の階級を飛び越して、すぐさま副分隊長という地位を与えられるぶん、門が狭くなっているのだ。もちろん勉学についていけず辞めた人間もいる。シャルロアの知り合いにも2,3人いた。
 もしかするとその立場にあったのは、自分かもしれない。
 シャルロアが辞めることなくこの学校の勉学についていけるのは、賢いからではない。自分の欠点を勉学につぎこんだからだ。
 寝台と簡素な書き物机にクローゼット。家具らしい家具はそれくらいしか置いていない自室は、月に照らされて空気が青々としていた。
 机のランプは灯さず、制服から寝間着に着替える。髪を括っていた紐を解いて、朝の忙しい時間でも見落とさないように書き物机の上に置いた。
 代わりに図書室から借りた教科書を手にして、ベッドに腰掛ける。
 窓から射しこむ月光を頼りに、シャルロアは本を開いて読みかけていたページの一文を追った。

『疑わしき者を見つけたら、その眠りを見つめなさい。15分で目を開けたならその者は、魔女である』

 ――なるほど。10年前の教科書にも書かれてるのか。
 もちろんその一文は、現在の教科書にも刻まれている。
 魔女とは、畏怖の対象である。
 誰しもが使える魔法。けれど稀に、魔法を使えない女性が生まれる。それが魔女だ。
 魔法を使えないということは、魔力がまったくないということ。しかし彼女たちは例外なく、魔法よりも強力な異能を持っているのだ。
 例えば、炎の雨を降らす者。
 例えば、瞬間移動する者。
 例えば、心の声を読む者。
 それらは魔法でない故に、魔法で防げない。だから古来より魔女は異端の者とされて狩られ、迫害され、畏怖された。辞典に書かれていた『魔女の一撃』の意味がもともと、魔女の持つ異能の力を受けて致命傷を負うことに由来するほど強烈な力なのだ。近年あからさまに石を投げられることはないが、差別的な視線は拭えない。
 何故魔女が生まれるか。それは世間一般的に知られていないが、シャルロアには仮説があり、そしてそれがおそらく正答であることを確信している。
 世界には流人(るびと)と呼ばれる人々が少数いる。流人(るびと)の故郷はオルヴィア王国と異なるどころか、この世界のどの国のものとも異なる。彼らはこの世界ではない異世界から流れてきてしまった人たちだ。
 彼らが元の世界に帰ったという話をシャルロアは聞いたことがない。そのままこの世界に生き、地に骨を埋めるのだ。
 つまり流人(るびと)だってこの世界で結婚する。そこに要因があるとシャルロアは踏んでいる。
 おそらく魔女には、母方の先祖に女性の流人(るびと)がいる。
 ――私がそうだから。
 母方の曽祖母に当たる人物が流人(るびと)だったらしい。その影響は残っており、シャルロアの母は『ポトフ』という、少なくともこの国のものではない美味しい料理を作る。それは曽祖母から受け継ぐ秘密のレシピらしい。シャルロアも士官学校に入る前に嫌と言うほど練習させられて取得済みである。
 目を閉じて、意識を一旦深淵に沈ませてから、一気に浮上する。シャルロアが目を開けると目の前には3匹の蝶が舞っていた。
 1匹は桃色の(はね)を持ち、あとの2匹は銀色の翅を持つ。
 この蝶はこの世の誰にも見ることはできない。
 自分自身以外には。

 シャルロアは、魔女である。

 そうだとまず知ったのは自分ではなく、両親だった。魔法配置(パスラ)もしていない3歳になったばかりの娘が玩具を浮かせて遊んでいるのを目撃し、彼らは娘の魔力を測った。常人ならばわずかにでもあるはずの魔力がいっさいなかったことで、両親は娘が魔女であることを確信した。
 魔女を子に持つ親の対応はおおよそ2つ。存在を隠して育てるか、捨てるか。
 両親はどちらも選ばなかった。捨てるのはもってのほか、存在を隠すように育てられたところで、両親が死ねば生きていけなくなることは目に見えている。それならば最初から、異能と人付き合いとの調整を取りつつ生きていける道を探れるように、と人の目を欺く知恵を授けながら育ててくれた。
 普通に生きるために必要な最初の知恵は、魔力測定をどう凌ぐか。
 幸い、魔力計測器は容器(クラ)そのものを測る機械ではなく、容器(クラ)の残り容量(レージ)を測る機械だ。それを利用し、義務教育中の魔力測定では魔法過配置(トフパスラ)状態で魔力がすっからかんなのだと申告しておいた。両親と頭を悩ませて考えただけあって、嘘はすんなりと通った。
 こうして白い目を向けられることなく生活できる地盤が整ったところで、シャルロアは小賢しく考えた。
 能力がバレぬよう、なるべく人との関わりを浅くするのも手ではある。
 だがしかし、万が一、自分が魔女だとバレた場合、友人知人があまりにも少ないとシャルロアが一般人に危害を加えようとする悪辣な魔女だと誤解されてしまうかもしれない。否、それは友人知人が多くてもきっとそう思われてしまう。そうならないために必要なのは何か。
 高い地位だ。
 若干10歳で、シャルロアはその結論に至った。
 この国で地位があり、好感を持たれる職業と言えば騎警団以外ない。士官学校に入学すれば、高い階級にもつける。それだけで周りは立派な人物だと認めてくれるだろう。
 戦闘職は魔女の異能を隠す関係上難しいが、事務仕事であれば問題ない。ついでに国家公務員扱いだから食いっぱぐれることもない。
 こうしてシャルロアは、魔女の異能の副産物を勉強に費やすことにした。
 教科書に書いてあることは正しいかわからないが、少なくともシャルロアは当てはまる。
 彼女は睡眠時間を15分以上必要としない。と言うよりも、それ以上眠れない。
 長い長い夜の時間を、シャルロアは士官学校に入る前には受験勉強に、入学したあとは予習復習に充てた。おかげで1年生のときのあだ名は『ガリ勉ロア』である。
 だが声を大にして言いたい。シャルロアは元来、勉強家ではないのだ。睡眠時間を削ってまで勉強しているのではなく、時間が空いているから勉強しているだけなので、勉強に飽きたら読書をしたり、手慰みに絵を書いたりして時間を潰している。
 だから成績はほどほどの順位だ。先頃の中間テスト結果はおよそ350人中51位。ほどほどである。

「このまま、王都にある騎警団本部にいられるかしらね……?」

 本部配属になれば、間違いなく出世街道だ。シャルロアとしては別に強く出世を願うわけではないが、ほどほどに高い地位を持っておいて『こんなに国のために働いてるんだから悪い魔女じゃないよ』と周りに無言で訴えておきたい。
 ――でも、国のために働くってあの王子様の下でってことなんだよなぁ……。
 彼女にとって大きな誤算であった。あんな、控えめに言って色ボケしてしまわれた王子様が関わる国は、とても脆そうである。自分が黒と言ったものは黒、とか本気で抜かしそうな権力者がいては、シャルロアの計画は無駄になる。『魔女は悪い奴だからな』の一言で何の弁明もさせてもらえず処刑されそうだ。第1王子が賢明であることを祈るよりない。

「しかしここで培った事務処理能力があれば、どこの国でも通用するよね……いっそ出国するべきか?でも他国のあれ事情って知らないしな」

 他国に移住しようと思ったことがないので、他の国が魔女についてどういう感情を持っているか知らない。のこのこと移住した先がオルヴィア王国以上に魔女に対して悪感情を持っていたら、目も当てられない。

「うーん……」

 悩みながら、パラパラと教科書をめくる。士官学校監修の特別教科書は部門でずいぶんと習うものが違っているようだ。
 特に魔物に関する情報は、シャルロアが現在読んでいる教科書よりも10年前の騎士部門用教科書の方が豊富である。
 ――この知識が必要なのは騎士ぐらいだから、総務部門には必要ない知識なんだけどね。
 暇だから仕方ない。
 なんとはなしにそれを読みながら、シャルロアの長い夜は更けていった。
















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