挨拶したあとにかけられる「兄君によろしく」という言葉は、想像以上にマドレーヌを 消耗させた。 職人『キイト』として見られていないわけではない。だが必ず『クロード・シャールの 妹』という立場も付随する。できるだけシャール家とは距離を置きたいのに、挨拶の 度にそのように言われるのでは「逃げても無駄だ」と会場中から言われている気分 になり、鬱々とした。 くわえて、人の多さに酔ってしまったようだ。 挨拶回りを一通り終えたマドレーヌが静かにため息を吐くと、隣にいたヴァンはそ れに目敏く気付いた。 「キイト、体調が悪そうだね」 内心ぎくりとしながら、マドレーヌは首を横に振った。が、彼はそれに構わずマドレ ーヌの細い手首を取り、手のひらを見る。 「手のひらの色が真っ白だ。貧血気味になっている。今日はずいぶん無理をさせてし まったようだね。無理せず帰った方がいい」 ――うぐ、顔色はメイクをしているから大丈夫だと思ったのに。 やはり彼はこと女性に関して、百戦錬磨であった。 ――帰る、か。 それは大変魅力的な言葉だったが、飛びつくわけにはいかなかった。ピサンリが ちゃんとヴァンをダンスに誘えるかを見届けたいし、クロードに無断で帰るわけにもい かない。 少し休めば大丈夫、とブランシェに伝えたのだが。 『わかりました、帰ります』 ――ブランシェ!? 自分の意思とは違う言葉に驚いて問い詰めると、厳しい声が返ってきた。 (ならん。マドレーヌ、自分が思っているよりも消耗しておるぞ) ――だから、どこかで休ませてもらえれば。 (ここで倒れる方が、主催者としてヴァンの迷惑になるだろう) それを言われると、マドレーヌは反論する術を失う。確かにブランシェの言う通り、 パーティーで病人が出る方が主催者として困るだろう。病院などの手配もしなけれ ばならないし、場の空気も盛り下がってしまう。 ――でも、あの人になんて言えば……。 気分が悪くなったから帰る、などと言えば叱責されそうで恐ろしい。普段であれば 仕方ないことだと思えるが、心身が弱っている今叱責されるのは避けたいことだ。 悩むマドレーヌの背を押し、ヴァンは彼女を空いている椅子に座らせた。 「シャール氏には私から後で伝えておくよ。馬車の手配をしてくるから待っていて」 ヴァンの言葉は少なからずマドレーヌを安心させてくれた。どうせ後で情けないだ の、みっともないだの、色々と嫌味を言われるのはわかっているが、今はクロードと 対峙したくない。ヴァンが伝えてくれるというのならば、それに甘えてしまおうと思っ た。 ヴァンはマドレーヌのそばを離れ、会場を出て行く。 ――疲れた。 テーブルの食事はおいしそうなのに、人の匂いと混ざった香水の匂いで食欲はす っかり萎えてしまっている。ここで食事するくらいなら、家で固いパンでも食べていた 方がまだマシだと思える程度には、げんなりしていた。 目を閉じてもう一度ため息を吐く。 すると、隣に誰かが座ったような気配があった。 何気なく目を開けて隣を見て、マドレーヌは仰天した。 「ごきげんよう、キイト」 ―― デーア! 彼女はリオンやピサンリとは違い、挑発的なドレスを着ていた。マドレーヌが店で 諦めた、鮮やかな赤いシルク生地で作られた深いVネックのロングドレス。足はくる ぶしまで隠されているが、胸は谷間がばっちり見えている。ネックレスはないが、そ んなものがなくても充分華々しい。胸で着る、ということはこういうことなのだ、とまざ まざと見せつけられた気分だ。 さらに金糸のように美しい髪はゴージャスに巻かれ、右耳の後ろ辺りでゆるく1つ にまとめられている。そこに挿されたバラの髪飾りは黒なのだが、それが彼女の妖 艶さを引きだしていた。 デーアは組んだ足に手を置いて、しなやかに首を傾げた。彼女がつけたイヤリング とブレスレットの宝石が光を纏って揺れる。 「……不合格」 ――え。 ぽかんとするマドレーヌの代わりに、ブランシェが『なんだと?』と険を含んだ声で 聞き返した。 デーアは美しい顔をしかめ、マドレーヌを検分する。 「あの男、全然ダメじゃない。ドレスとか、靴とか、そういうものに統合性はあるのに、 アクセサリーは顕示欲が強くて全然ダメ。センスがないわ」 ――あの男? まったく話が読めず困惑するマドレーヌに、デーアはむくれた表情で確認した。 「そのアクセサリー、エルガレイオンからプレゼントされたでしょう?」 またか、とマドレーヌはますます困惑した。 何故彼女もエルガレイオンからのプレゼントだと思うのだろう。彼からもらう理由が ないのに。 眉根を寄せながら首を横に振ると、デーアは驚いた。 「そうなの?じゃあ誰からプレゼントされたの?付き合うかどうか迷っているなら止め た方がいいわよ、その男」 『……どうしてこれが、贈りものだってわかったんですか?』 ヴァンはわかった。ピサンリはわからなかった。その違いは何なのか。 「ドレスは買いに行くと言っていたでしょう。だからドレスは貴女のお財布から出せる 値段のもの。でもアクセサリーは明らかに値段が上過ぎる。これほどのものを貸して くれる人はほとんどいないはずだわ。だから贈られたもので、高級アクセサリーを贈 るのは一般的に男でしょう。それもアクセサリーを身に着けさせることでこの女は自 分のものだって主張したい、束縛が強いタイプよ。止めておきなさい、そんな男。場 所によっては笑い者にされることもあるのに、最低な男だわ」 『……笑い者?』 デーアは目を眇め、マドレーヌの腕にあるブレスレットなぞる。 「グレードが違うと言ったでしょう。ブレスレット、チョーカー、髪飾り、どれも素晴らし い品だけれどもドレスとの等級が違いすぎるわ。コーディネートとして釣り合わない の。このアクセサリーならイブニングドレスくらいの格式高いものでなければダメ。今 日は男が多いパーティーだからマシだけれど、上流階級の女の集まりでだったら笑 われているわね」 体内の温度が急激に冷えた。 ヴァンが何かを言い淀んだ理由がわかった気がした。彼はデーアと同じく、不釣り 合いなバランスのコーディネートに気付いたのだ。 クロードは――知っていただろうか。 知らないはずがない。彼は上流階級の事情に詳しく、こういうことにも精通していて 然るべきだろう。 ――笑い者に、したかったのかな。 マドレーヌの頭の中は殴られた直後のように真っ白になった。 コーディネートの中にわざと格差をつけて、陰で無知で馬鹿な人間だと笑い者にし たかったのか。 集まっていた視線は、本当に『クロード・シャールの妹』だからという理由でだった のだろうか。その中に、恥ずかしい格好をしている、との嘲笑がまったくなかったと言 い切れるだろうか。 憎まれている。マドレーヌは改めて思った。 そうされて仕方ないことをしている。 ――でも。 考えかけたことを止めた。辛い、と言える資格がないことを知っている。 ――気持ち悪い。 震える手で口を押さえた。 「キイト?キイト、大丈夫かね?」 俯いていた顔を上げると、ヴァンが目の前に立っていた。心配顔で跪き、膝に置い たマドレーヌの手に自分の手を重ねる。 「馬車の手配ができた。今日は無理をさせすぎたね、帰ってゆっくりするといい。ブラ ンシェ、キイトを頼むよ」 『あぁ。さぁ、キイト。もう帰ろう』 マドレーヌは半ば呆然として頷いて、立ち上がった。少しふらつくが、ヴァンとその 後ろにいたホテルのスタッフが支えてくれた。 「キイト」 デーアはするりと立ち上がり、マドレーヌの頬に手を添える。 自分と違って彼女の瞳には芯のある、強い女性の意志が宿っていた。 「ドレスの趣味、私は好きよ。いいこと、悪いのは貴女じゃなくて、これを贈った男の 方よ。次からはプレゼントなんて目の前で捨ててやりなさい」 それができる日は来ないだろう。わかっていたが、彼女なりの励ましだと思ったの でマドレーヌは弱々しく微笑んで頷いた。 『ありがとう。それじゃあ、お先に失礼します』 軽く会釈して、マドレーヌはホテルスタッフのエスコートで会場を後にした。 ロビーでボレロを返してもらい外に出ると、空には星が瞬いていた。遠い波音が連 れてくる潮風が心地よい。 人の匂いに疲れきっているところだったので、自然の匂いがすると多少気分が落 ち着いた気がした。 ふぅ、とため息をついて、玄関前につけられている馬車に乗り込む。行先はヴァン がすでに伝えておいてくれたのか、ホテルのスタッフが馬車のドアを閉めるとすぐに 動き出した。 窓からホテルが遠くなっていくのが見える。 同時にパーティーの喧騒も遠くなっていった。 ――終わった。 窓にもたれ、マドレーヌは目をつむる。煩わしいことも、気だるいことも、とりあえず は過ぎ去った。これが逃げ帰ったことになるとしても、今はとにかく何も考えず、泥の ように眠りたい。 規則正しく響く蹄の音と馬車の振動がそれを煽る。まるでゆりかごの中にいるよう な安寧があった。 『眠ってはどうだ?』 惹かれる提案だが、今眠ってもすぐに家についてしまう。短時間で起こされるくらい なら眠らずにいた方がマシだ。マドレーヌは窓にもたれかかったまま首を横に振る。 それでもしばしすると、まぶたが重くなってきた。 うつらうつら夢の世界に足を踏み入れては、馬車の振動で現に戻る。 それを繰り返し、もう少しで完全に意識が落ちる寸前、マドレーヌは外を見て眉根 を寄せた。 ――ねぇ、ブランシェ。道が違うと思わない……? ブランシェも窓の外を見る。 家に戻るには海の方面に向かわなければならない。だがこの道は依然ピサンリと 食事に行った店がある方角――山間部に向かう道だ。正反対へと走っている。 どうやら御者が道を間違えているらしい。 目が覚めたマドレーヌは馬車の壁を叩いて、御者に告げた。 『道が違います。海の方に向かってください』 だが御者からの返事がない。 ――聞こえてないのかな? 『海の方へ向かってください』 二度目はブランシェにもっと大きな声で言ってもらった。だが返事はない。 代わりに、馬車の走行スピードが上がった。 ――……。 マドレーヌの胸に不安がにじむ。 それまで心地よく感じていた蹄の音と馬車の振動が、不気味で恐ろしいものに変 わり始めてきた。 ――ブランシェ。 震える手でブランシェを抱きしめると、ブランシェはマドレーヌを落ちつかせるように 手を撫でる。 (落ちつけ、私がついている) ブランシェの言葉に安堵する前に、馬車の馬とは違う蹄の音を聞いた。 窓の外を見ると馬車の後ろに2頭馬がぴったりとついてきている。それを操る人間 は黒いフードを被っていて男か女かさえわからない。 仮に男として、彼らの目的はマドレーヌを救うため、馬車を止めることではなさそう だった。むしろ馬車の妨げになるものを排除しようという気概がある。 ――なに?誘拐……? 誰か気付いてくれないか、と外を見るが、この辺りは商業地域だ。住宅と店舗が 一緒になっているわけではないので、夜になって店が閉まると人通りがとんと無くな る。今がまさにその時間帯だった。助けは期待できそうにない。 新たにくわわった不穏な要素に、ブランシェが厳しい声を漏らす。 (……走れる力はあるか?) ――う、うん。 正直に言えばあまり自信はないが、否と答えている場合ではないことがブランシェ から伝わってくる。 (雷を落として隙を作る。御者は冷静でも馬は驚くだろう。スピードが下がったら馬車 から飛び降りて逃げろ。援護をしてやるから、絶対に止まるな) 不安を押し隠して頷く。助けは期待できない。自分が頑張るしかない。 (やるぞ) マドレーヌは目を閉じて姿勢を低くした。バチ、バチ、と耳元で弾けるような音がし た刹那、窓の外を閃光が包む。遅れて雷が落ちる音が響いた。 馬が嘶いて驚き、馬車がコントロールを失ってスピードが失速した。 (今だ!) 目を開き、マドレーヌはドアを開けて馬車から飛び降りた。 馬たちはまだ驚いており、御者や騎手は馬を落ちつかせるのに苦心している。そ の脇をマドレーヌは必死に駆け抜けた。 「追え!」 背後から声がする。 マドレーヌはブランシェを胸に抱きしめ、走り続けた。 追いつかれたら終わりだ。もう逃げられなくなる。 辺りは静寂に包まれているのに、自分の心臓が爆音で聞こえ続けている。 ――恐い。 泣きそうになりながら走るマドレーヌの耳に、蹄の音が聞こえてくる。 ――追って来てる……! どうして自分を誘拐しようとするのだろう。一介の魔法布織りでしかない自分が狙 われる理由がわからない。それとも誰かと間違われているのだろうか。 (走れ!よけいなことは考えるな!) 後方で光が奔り、大砲のような音が大気を震わせた。蹄の音が少し遠くなる。け れどすぐにまた馬を走らせる音が聞こえてきた。 ――どうしよう! 十字路に差し掛かり、マドレーヌはどこに逃げればいいのか戸惑った。それを感じ 取ったのか、背後から深い声が響いてマドレーヌを捉まえる。 『我が意識下の黒き獣よ 我は汝に力を与えん 牙を ――呪文!? 思わず振り返ると、フードを被った人物のうちの片方が馬上から杖を振りあげてい た。ブランシェが忌々しげに毒吐く。 (あれは、防げん……!) ハッ、とする。 ブランシェは雷の精霊だ。だから雷しか操れない。奇跡を起こせても、魔術師や魔 導師とは違うのだ。 それを思い出したときにはすでに、マドレーヌは足を止めてしまっていた。 『我らに逆らいし愚かなる者に ――もうダメだ! 『我が意志は其に背く意志 拒絶の幕を引け 汝にこの幕は破れぬ 我は其を認容せぬ 鉄板で何かを殴りつけたような音が響いたすぐあと、マドレーヌの前に広い背が躍 り出た。 誰何する間もなく、マドレーヌはその白いロングパーカーと腰に巻かれたグレーチェ ックの布で気付いた。 ――エルガレイオン!? マドレーヌを背に庇い、髪を月光に輝かせながら、エルガレイオンは冷厳な目で対 峙する3人を睨みつける。 「今のは禁止されているはずの黒魔術だ。……どういうつもりだ?」 エルガレイオンの質問に答える者はいない。 「何の思惑があろうと、魔法執行署まで付き合ってもらう」 その言葉に御者の格好をした男が反応し、長い金属ロッドをエルガレイオンに向け て口を開く。 『シュヴァルツ 魔導詠唱に反応し、エルガレイオンも口早に対抗する呪文を唱え始めた。 『ヴァイス 『イオス 誇り高き 別の男が唱える魔導呪文にエルガレイオンは目を丸くし、慌てた様子で呪文を替 える。 「……っ『ベルデ だがすでに遅かった。 『妖艶な羽と神秘の羽 我は奇怪の扉を開く者 浮き世に囚われず汝の力を望む』 相手の呪文詠唱が終わった直後、紫色の光が3人を包み、溶けるようにして馬ご とその場から消え去ってしまった。 「くそっ、逃がした!」 エルガレイオンは悔しげに目を眇め、3人が消えた場所を睨んだが、ややあってマ ドレーヌを振り返る。表情はすでに負の感情が消えて、笑みを浮かべていた。 見知った顔がこれ以上なく心強く思え、マドレーヌは極度の緊張から解放されたせ いで、その場に座りこんでしまった。 エルガレイオンは慌ててマドレーヌの手を差し伸べる。 「君、大丈夫?」 ――あれ? いつもと違う感じに、マドレーヌは面食らった。彼はもっと親しく話しかけてくれた気 がするのだが、思い違いだっただろうか。 戸惑いながら手を借りて立ち上がる。足はまだフラフラしていて、走れそうにはな いが立っているだけならばなんとかなりそうだ。 ――とにかく、助かってよかった。 何故誘拐されかけたのかわからないが、どんな理由であろうともろくな目にあわな いことは想像に難くない。逃げる隙を作ってくれたブランシェにお礼を言いながら抱き しめると、エルガレイオンはハッとしたあと、頭を掻いた。 「ごめんね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、その人形どこかで拾った?」 ――ん? おかしな質問に、マドレーヌは小首を傾げる。 エルガレイオンはその美しい顔に憂いを見せた。 「その、友達が大切にしている人形に似ているんだ。一点ものだから同じものは絶 対にないし……ちょっと見せてくれないかな」 ここでようやくマドレーヌは気付いた。 ――エルガレイオン、私だって気付いてない。 女の子らしい格好で『キイト』だと気付かれなかったことに若干ショックを受けてい ると、ブランシェが『愚か者め』とエルガレイオンを詰った。 『気付かんか、馬鹿者!この子はキイトだ!』 「………………えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」 夜の静寂に、間抜けな声が響き渡る。 「え、え、キイト?え、すっげぇかわい、いやあの、髪がある、っていうか、やっぱ足キ レイだよね、っていうか、首細っ、じゃなく、えっと、キイトさん?マジで?」 『色々とダダ漏れだぞ、お前』 「あぁぁぁ、っていうかブランシェが超かわいい格好してるぅぅ、キイトと相まって超か わいいぃぃぃ」 ――どうしよう。 さっきとは違う意味で、マドレーヌは困り果てた。この目の前で顔を覆って悶える男 にお礼を言いたいのだが、本当に助けてくれたのか危うく思えてきた。あの真剣な エルガレイオンは幻だったのではないだろうか。 とりあえず正気に戻すため、マドレーヌはエルガレイオンの袖を引いた。幸い彼は ハッ、と正気に戻ってくれた。 「今度、その服のブランシェを撮らせてくれないかな?」 ただし常人と比べると正気の度合いが違う。 とりあえず彼のお願いを聞いていたら話が進まないのでまるっと無視をして、マド レーヌはエルガレイオンに頭を下げた。 『危ないところを助けてくれてありがとう』 「あぁぁぁっ、そうだよキイト!ごめん、ちょっと混乱して正気を失ってた、大丈夫か、 いったい何があったんだ!」 やっと事情を尋ねられ、マドレーヌは経緯を話した。それを聞いたエルガレイオンは 難しげな顔をしてしばし黙り込んでいたが、やがて夜空を仰ぐと、ぽん、とマドレーヌ の頭を撫でた。 「ともかく、無事でよかった。こんなことがあったし、送っていくよ」 『そんな、悪いよ』 「いいのいいの、どうせちょっと自棄酒飲みに行こうと思って出てきたから。だから海 岸方面に歩いてたんだけど、稲光が見えたからなんだろうと思って駆けつけたんだ」 言われて気付けば、この辺りはエルガレイオンが住んでいる、と言っていた地域だ った。バーがある飲み屋街は、確かにマドレーヌが住む海岸方面まで出なければな い。酒は船乗りがよく飲むので、彼らが集まる方角に自然とそういう店が立ち並ぶよ うになったのだ。 ―― それにしても、自棄酒? 思い浮かぶのは仕事の失敗や失恋などであるが、エルガレイオンに限ってはそん な理由からではないような気がした。 彼は遠く、海の方角を見つめて、憂い顔をする。その光景はまるで花の儚さを嘆く 天使のようだった。 「レーネルモデルの抽選に落ちた……」 予想を外さない男である。 『あの、お気の毒に……』 「まぁでも、そのおかげでキイトの危機に気付けたし。あのまま泣き寝入りしなくてよ かったよ」 ちら、と彼の青い瞳が3人が消えた場所を見る。マドレーヌが不安を感じる前にそ の瞳はまたマドレーヌに戻され、彼は朗らかに微笑んだ。 「じゃ、帰ろう」 歩きだしたエルガレイオンに続いて、マドレーヌも歩きだそうとした。しかし途端に 眩暈がして、足がふらつき、先を行くエルガレイオンの背中に顔から突っ込んでしま った。 うぉっ!?と驚いた声をあげたエルガレイオンに申し訳なく思いながら、マドレーヌ は慌てて離れて謝る。 『ごめんなさい』 「いや、いいけど……キイト、もしかして体調が悪いの?」 エルガレイオンは顔色を見ているようだったが、化粧をしているので血色は良く見 えるはずだ。そう確信していたのだが、ブランシェが告げ口をする。 『そもそも体調が悪くて、パーティーを抜けてきたのだ』 ――ブランシェ、何も今言わなくても……。 馬車の中では気分の悪さも落ちついていたし、今は少し動揺して足がおぼつかな いだけだ。じきに歩けるようになる。 大丈夫、というアピールのためマドレーヌは笑みを浮かべたが、エルガレイオンは 思案顔後、ロングパーカーを脱いでマドレーヌに着せた。 きょとんとするマドレーヌに背を向けて、彼はしゃがみこむ。 「負ぶうよ。乗って」 頭の中が真っ白になった。 ――とんでもない! 子供でもないし、重いし、さすがにそこまで甘えられないという思いから首を激しく 横に振ったのだが、エルガレイオンはそれを肩越しに見つめて、何を思ったのか目を 見開いた。 「お姫様抱っこ……俺の腕力が試され」 マドレーヌは黙って彼の背に身を預けた。 「大丈夫だって、キイト!俺、腕力に自信があるから!」 『おんぶで。おんぶでお願いします』 人通りがないと言えど、横抱きで運ばれるのはおんぶよりも恥ずかしい。決死とも 言える懇願が通じたのか、エルガレイオンは「腕力には自信があるのに」と口を尖ら せながら立ち上がり、歩き始めた。 ホッとして、身体の力が抜ける。 エルガレイオンの背は広くてあたたかかった。自分とは違う体温の高さと触れたと ころから感じる筋肉の硬さに、身体の作りが根本的に違うのだとしみじみ実感させら れた。 ――……。 潮風がうなじを撫でる。 マドレーヌはふと後ろを振り返った。 夜の闇があるだけで、通りには誰もいない。 『――さっきの人たちはなんだったんだろう』 「うん?まぁ、パーティーにはお偉いさんが来てたんだろ?そのうちの誰かを誘拐で きれば金を得られる、と思った奴らなんじゃないかな」 『そっか……』 「正体が知れないと不安になると思うけど、大丈夫だよ、キイト。そういえば、キイトに 会うのって久しぶりだよな」 エルガレイオンに言われ考えてみれば、二月ほど会っていない気がする。マドレー ヌ自身、仕事があってあまり外に出かけなかったし、エルガレイオンも依頼を請け負 って世界を飛び回っていたのだろう。会わなくても別段おかしくはない。 むしろエルガレイオンにはよく会っているイメージがある。他の魔導師は半年に一 度会うかどうか、という人もいるくらいだ。それを考えれば二月など、昨日ぶりという 感覚である。 『―― そうだね、久しぶり。魔導師免許の勉強は進んでる?』 「まぁ、そこそこ。でもやっぱ語学がネックかなぁ」 『お前たちは不便だな』 ブランシェの言葉に、そういえばとエルガレイオンは小首を傾げる。 「精霊って全世界共通語だよな。精霊の声が聞こえないってのはあっても、聞こえた 人間がその言葉を理解できなかったって事例は聞かないし」 『言葉に違いがあるのは、人間だけだぞ。あとはどの生物も意思疎通できる』 「マジで?ズルくない……?」 うんざりしたため息から、彼が日頃の語学勉強にどれほど嫌気がさしているかが 窺い知れる。改めて、魔導師免許を得るには忍耐が必要なのだと思った。 「あー……こんなときまで勉強のことを考えるのはよそう。ブランシェの服って、この 前のドール服屋で買ったの?」 『そうだよ』 「あ、そういえば俺が買った服は着せてくれた?」 『ええと、エルガレイオンに見せてからにしようと思って』 「俺は写真をくれればいいから、着せてあげてよ」 肩に乗ったブランシェが、それ見ろ、というふうに髪を引っ張る。本人にこう言われ てしまっては仕方ないので、明日さっそく着せてあげようと思い直した。なんだかん だ言ってマドレーヌ自身も、ブランシェがあの服を着たところを見たいのだ。 「そうだ、その髪って伸ばしたのか?」 まさか、とマドレーヌは笑う。 『ウィッグだよ』 「へー。最近のカツラはよく出来てるな。地毛にしか見えなかった」 『キイトだと思わなかったくらいにはな』 「いや、その、化粧してるし、キイトってショートカットのイメージが強くて」 途端にしどろもどろになるエルガレイオンの様子から、いかに常の自分が女の子 のイメージからほど遠いところにいるのかが察せられる。 ――女の子。 ふと、ピサンリを思い出す。 ダンスはそろそろ始まっただろうか。それなら、ピサンリはヴァンを誘うことができて いるだろうか。 挨拶回り中、ヴァンに寄せられる女性招待客の視線は多かった。彼と踊ろうと思っ たら、激戦の中を勝ち抜かなくてはいけないはずだ。 「どうした、キイト?何か心配ごと?」 ブランシェを通して何も言わなくなったマドレーヌを訝しみ、エルガレイオンが声をか ける。マドレーヌは少し迷ってから、ぽつりと話した。 『――友達が、気になる男性とダンスを踊れたか気になって』 「きっと踊れたさ。キイトはダンスに出られなくて、残念だったな」 『私はどちらにしろ、踊れないから』 「俺、女子パート踊れるよ。教えてあげようか」 ――え、何で踊れるんだろう。 わけがわからずエルガレイオンの背で小首を傾げると、彼は可笑しそうに喉を鳴ら した。 「いや、俺だけじゃなくてたぶん、潜入が得意な魔導師はみんな踊れると思う。魔術 で女に化けてパーティーに出るとき、男子パートを踊ったら変だろ?」 『は、なるほどな』 「でも知り合いの魔導師が潜入捜査依頼で女に化けてパーティーでダンスしたとき、 ド忘れして男子パートで踊っちゃったんだと。でも相手の男がダンスの先生だったら しくて、女子パートで踊ってくれたんでその場は微笑ましい空気になって助かったん だけど、後から『君みたいに男性パートを堂々と踊れる女性を知らない。結婚してく れ』って熱烈に求婚されて、断るのに苦労したって」 笑うエルガレイオンにつられ、マドレーヌも身体を震わせた。それはさぞかし困った ことだろう。 「女に化けてるとき、求婚される魔導師って案外多いんだよ。男の理想の女を演じる から、男心にヒットするんだろうな」 『ほう。お前もされたことがあるのか?』 「ブランシェ、聞いちゃダメだ。それは」 あったらしい。それも彼が困り果てるようなものが。 エルガレイオンが困る、とはよほどのことなのだろうな、とマドレーヌは失礼ながら も思ってしまった。そしてそれはどこか微笑ましい気もする。 球体関節人形の話がちょくちょく入ったが、エルガレイオンの話はそれを除いても 面白可笑しいものが多く、マドレーヌは彼の話に魅了された。パーティーで交わされ た堅苦しい話の反動もあったのかもしれない。 話に聞き入っているうちに、いつのまにかアパートまで戻って来ていた。 それに気付いたマドレーヌは、途端に慌てる。 『ごめんね、エルガレイオン。途中で下ろしてもらおうと思ったんだけど。重かったで しょう』 「いや、全然。そんなこと気にするなんて、案外キイトも女の子だな」 『案外だと?』 「すみませんブランシェ、失言です。キイトは超女の子です」 果たして脅して言わせた女の子発言は、うれしいものだろうか。 なんとなくしょっぱい気持ちになりながら、マドレーヌは玄関の前で背から下ろして もらった。 お礼を言おうと顔を上げると、エルガレイオンの視線がマドレーヌの頭に固定され、 「あれ?」と首を傾げる。 「キイト、ヘアアクセしてたよな?頭についてない」 ブランシェもマドレーヌの髪を見た。 『本当だな。どこかに落としたのか』 「探してこようか?」 マドレーヌはしばし迷って、首を横に振った。 ――失くしたなら、失くしたままでもいい……。 贈られたものを失くすのは心が痛むが、それ以上にクロードから贈られたものを手 元に置いておくのは戸惑われた。贈りものの意味が嘲笑を誘うためのものであるな らば、よけいに。 でも、と言いかけたエルガレイオンに、マドレーヌは着せてもらっていたロングパー カーを返した。 本当ならば洗って返したいところだが、魔導師の装備品には意味があるものが多 い。このパーカーにも何かしらの魔術が仕込まれているのだとしたら、彼の手から離 させている方が問題なのだ。だからすぐに返した方がいい。 マドレーヌは微笑みを浮かべ、エルガレイオンを見つめた。 『本当にありがとう。貴方がいなかったら、どうなっていたかわからない』 「あー……キイト。尾行は絶対されてない。だから安心して」 マドレーヌは目を丸くした。いつのまにそんなことを確かめていたのか。 「それと、イシャーヌ地区にある『D−ブラック』ってバーわかる?俺、朝までそこで飲 んでるから、何か……心配なことがあったら来てくれ」 『うん。ありがとう』 おそらくエルガレイオンは心配してくれている。それを感じとり、マドレーヌは微笑ん で頷いた。彼は安堵したように詰めていた息を吐く。 「それじゃ、おやすみ」 『おやすみなさい』 挨拶をして別れ、彼の背が遠くなるまで見送ってから、マドレーヌは家に入った。 鍵をかけ、ドアに背を預けたままずるりとしゃがみこむ。 息を深く吐いて、額に膝を当てる。そのまま縮まるように自分の身体を抱いた。 耳に神経を集中させ、ドアの外の音を聞く。静寂に潮騒が寂しげに響くだけで、物 音は何もしなかった。 会場を出たときはそんなに遅い時間じゃなかったが、誘拐されかけたり、歩いて帰 ってきたりしているうちに、夜は深まっていた。早い人なら眠りについている人もいる 時間だ。静かであってもなんの不思議もない。 静けさは、恐ろしいことの前触れにはなりえない。 マドレーヌは自分に言い聞かせた。 潮騒が聞こえる。 それ以外の音は消え去ったかのように何もなかった。 ただ、潮騒だけが鼓膜を震わせていた。 額に当てた膝頭が、カタカタと震える。 ――お願いだから。 何も考えたくない。なのに湧いて出てくる思考を、潮騒に洗い流してほしい。 そうでなければ、潰れてしまう。 耐えられなくなってしまう。 (マドレーヌ) 慈雨のように染み入る声が脳内に響いたとき、マドレーヌの瞳から大きな涙が零 れ落ちた。 「……っ」 目頭が熱い。 鼻の奥がズキズキと痛む。 (マドレーヌ、良いのだ) 赦しを得たことで、心が決壊する。 ――ブランシェ。ブランシェ。ブランシェ。 縋る名前を、それしか持っていない。 だからマドレーヌは呼び続けた。 何度も。子供のように。 ――ブランシェ。ブランシェ。ブランシェ。 ブランシェはマドレーヌの頭に抱きついた。そうして宥めるように髪を撫でる。 (大丈夫だ、マドレーヌ。私はお前のそばにいる) 慈しみに満ちた声にますます縋り、涙を零してしまう。 詰まっていた息を吐き、鼻をすする。何度か繰り返しているうち膝頭の震えが伝染 するようかのように、全身が震え始めた。 上手く呼吸ができず、しゃくりあげる。 ――恐かった。 あんな体験をしたのは初めてだった。知らない場所に連れて行かれ、日常とは遠 い場所で誰にも知られず殺されてしまうかと思った。 ――悲しい。 嘲笑を望まれるほど、憎まれていることが。それをこれからも甘んじて受け入れな ければならないことが。それを望んだのは自分なのだから。 その割合のどちらが大きいのかは、マドレーヌ自身にも判別付かない。 ただ今夜は受け止めきれないことが多すぎた。この世の何もかもとも途切れたく思 うほど、疲労している。 なのに心の内を誰かに吐露することができない。 その資格がない。 これは罰だ。 危険な目に遭ったことも、全部。 のうのうと生まれてきた自分への。 クロードから奪い続けている罪への。 どんな顔で、誰に、辛いなどと言えるだろう。この立場に甘んじているのは、手放 そうとしないのは自分なのに。 冷えた手先で、肩に乗るブランシェの手を握る。小さな手が重ねられた。 (お前に罪などあるものか。誰がお前を責めようか) 体温のない手。人の世とは一線を画す手。ブランシェだけはその存在故に、自分 のことを赦してくれる。 (我が主は、お前を見つめておる) 見ているだろう。 自分の罪を。 声なく、マドレーヌは慟哭した。 「…………」 ドアの向こう。 慟哭を前に、エルガレイオンは愕然として立ち尽くしていた。 手に、マドレーヌの髪飾りを持って。 |