パーティー当日。
 ――これでよし。
 ブランシェの髪にバラのコサージュをつけてやったマドレーヌは満足して、彼女から
離れた。
 ブランシェに着せたAラインドレスは淡いピンク色のチュール生地で作られており、
肘の下からは広がりのあるレース袖がついたデザインだ。胸元には白いバラのコサ
ージュとリボンがあしらわれている。
 そのドレスの美しさとブランシェ自身の美しさが相まって、いっそ幻想的な美しさが
そこに存在していた。
(美しいものは好きだが)
 大人しくマドレーヌに支度を任せていたブランシェが、口を開いた。
(気合を入れる場所が違うだろう)
 指摘され、マドレーヌは心の内でうっ、と呻いた。
 ――だって、どう見ても貧相でしょ?
 マドレーヌは姿見がわりに、暗くなりつつある外を眺めることができる掃き出し窓を
見つめた。
 そこにはミントグリーンのドレスの上に、ブランシェのドレスのように淡いピンクのボ
レロを着ている自分がいた。靴も同じく淡いピンクで、店員にエレガントに見えるから
とお勧めされたセパレードパンプス、爪先には控えめなリボンがついている。
 残念なことにエレガントに見えるのは靴やドレスだけで、それを着ているマドレーヌ
自体はショートヘアを弄っていないせいもあってか、どこの田舎娘だ、と言わんばか
りの雰囲気であった。
 ――こうなったら、ブランシェに着飾ってもらって目を惹いてもらうしかないなと。
(まったく、お前という奴は)
 ブランシェの小言が届く前に、窓の外から車のエンジン音が聞こえてきた。
 ――時間だ。
 ブランシェからピリリとした空気が流れ込んでくるし、マドレーヌ自身も若干の息苦
しさを覚える。行くのは嫌だが、行かねばならない。
 マドレーヌは覚悟を決めて、ブランシェを肩に乗せ、小さくてキレイなショルダーバッ
グを手にして階下に降りた。そこでちょうどチャイムが鳴ったので、マドレーヌは玄関
扉を開ける。
 立っていたのは予想に反して、車の運転手であるらしい青年だった。

「準備はお済みですか?」

 電気を消して、マドレーヌは頷いた。
 戸締りをして外に出た彼女をエスコートし、運転手は後部座席のドアを開く。
 車内には当然のことだが、クロードの姿があった。
 細身のダークスーツに、白の立て襟シャツは一見無難な組み合わせに見えるが、
上着からちらりと覗くベストだけがライトグレーであり、さらにネクタイと胸ポケットの
ハンカチーフの色は熟したブドウのような深い紫色だ。絶妙な色のバランス具合と似
合いっぷりは、それだけ彼を隙のない男に思わせた。
 おずおずとマドレーヌが座席に座ると、ドアが閉まった。
 しかしクロードの関心はマドレーヌに寄せられない。
 ――よかった。
 関心を持たれるよりも無視されていた方が、マドレーヌにとってはいい。彼が口を
利かなければ、ブランシェもまたそれに対応することがないのだから。
 重苦しい空気が充満する車内、沈みゆく陽を眺めながら10分ほど走ったところで
車が止まった。
 運転手が降り、ドアが開けられる。青年の手を借りて降りると、目の前にはマドレ
ーヌが普段目視して通り過ぎるだけの、高級美容室があった。
 ガラス張りのドアから見える店内は見るからに高級感に溢れており、ロビーに置か
れている1人掛けのソファだけでも、マドレーヌの家にある家具の総額を超えるので
はないかと思わされるような絢爛さだ。
 尻込みするマドレーヌの脇をすり抜け、クロードは堂々たる足取りで店へと歩んで
行く。途中、煩わしそうにこちらに視線を向けられ、マドレーヌはギクリとしたあと、彼
の後をついて店内に入った。
 一歩足を踏み入れば、店内は瑞々しいバラのような、それでいて甘い香りに包ま
れていた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 亜麻色の、緩やかなウェーブがかかった髪が美しい女性が品良く微笑んで、クロ
ードとマドレーヌを迎える。
 クロードは手慣れた様子でその女性にジャケットを預けた。そのやり取りを見てい
る横から、マドレーヌにも声がかかる。

「上着と鞄をお預かりいたします」

 流れるような金髪が美しい女性からそう言われて、慌ててマドレーヌは上着を脱ご
うとした。店員の女性はごく自然にマドレーヌが上着を脱ぐのを手伝い、鞄も自然に
受け取る。淀みのない仕草に、高級店とはこういうものなのだということをまざまざと
見せつけられた気分になった。

「よろしければお人形もお預かりいたしますが」

 にこりと微笑む彼女に、マドレーヌが言い淀んだ隙間をクロードの声が縫う。

「預ってもらいなさい」

 ぱち、と静電気のような音が聞こえた気がした。
 ――ブランシェ。ごめんね……埋め合わせは必ずするから……。
(……仕方ない)
 ブランシェばかりに我慢を強いているのはマドレーヌもわかっている。だがどうして
も、クロードの命令に逆らうことはできそうにない。そしてブランシェもそれを感じ、わ
かっていた。
 何度も謝りながら、マドレーヌは店員にブランシェを預けた。

「では、こちらへ」

 店員の先導に従い、マドレーヌたちはロビーから廊下に入り、そこに並んでいる小
部屋の1つに入った。
 小部屋1つ取っても高級感は健在で、飴色のフローリングにアッシュブルーのダ
マスク柄壁紙、天井から下がる煌びやかな小型シャンデリアが見事に調和していて
厳かな美しさがある。しかし皮張りのソファと小さなテーブルが1つずつ、スタイリン
グチェアが1つ、後は鏡とスタイリングに使うらしい道具を置いているワゴンがあるだ
けのシンプルな部屋なので、重苦しさはない。
 ――先に……シャールさんをスタイリングするのかな?
 自分はソファに座って待っていればいいのだろうか、と思っていると、店員はスタイ
リングチェアを回して「どうぞ」とマドレーヌに向かって話しかけた。
 疑問に思う間もなく、クロードは当然のごとく小部屋に1つしかないソファに座る。
 ――え、私?
 もたもたしているとまた睨まれそうだったので、マドレーヌはさっと椅子に座った。

「どういったスタイリングになさいますか?この長さでも編みこみは可能ですが」

 尋ねられて、マドレーヌは失敗したと思った。てっきり、座っていれば美容師さんが
イイ感じに仕上げてくれるものだとばかり思っていたのだ。こういう質問があるのであ
れば、ブランシェを連れてくるべきだった。
 なんと答えようか迷っていると、後方のソファに座るクロードが口を開いた。

「ウィッグをつけて、長髪に。それから清楚に見せるようなアップスタイルにしてくれ」
「かしこまりました」

 マドレーヌは思ったことを撤回した。ここにブランシェを連れてこなくてよかった。きっ
と彼女は勝手に決めるな、と怒り狂っただろう。
 さらにもう一人店員が入って来て、今度はメイク道具を並べはじめた。

「メイクはどのようにしましょうか?お好きな口紅の色はございますか?」

 ――口紅の色って、赤以外もあるんですか?
 こんな質問されるなら雑誌でも読んでおけばよかった、と後悔するマドレーヌの後
ろから、やはりクロードの指示が飛ぶ。

「ナチュラルメイクで構わない。とにかく清楚になるよう、色は全体のバランスを見て
決めてくれ」
「かしこまりました」

 店員はクロードの注文通り、マドレーヌの黒髪に似た色合いのウィッグを頭に付け
たり、ファンデーションを塗っていく。
 ――……ドレスを着てるからかな。ちゃんと女の子に見える気がする。
 少なくとも女装したような痛ましさはない。これから髪を伸ばそうかな、と思い悩む
マドレーヌはさておき、店員は手際よく髪をスタイリングしていく。
 できあがったのは三つ編みシニヨンだった。低い位置にお団子があるので、クロー
ドの注文通り清楚に見えた。さらにメイクも仕上がってみれば、いつも血色悪そうに
見える自分の顔が華やいで見え、かつ、上品に見える。
 ――メイク恐るべし……。
 店員はできあがった三つ編みのお団子の左脇に、白が仄かにピンクに染まったよ
うな、八重咲きバラの花束モチーフの髪飾りをつけた。小ぶりだが、明らかにシルク
で作られた花びらに埋まるようにして、野ブドウを思わせる黒く丸い石が控えめに散
りばめられている。

「こちらは、シャール様からの贈り物です」

 店員たちは微笑ましそうに、そして羨ましそうに鏡の中のマドレーヌを見つめる。
 彼女たちは髪飾りの価値をわかっていた。
 マドレーヌとて、いかに畑は違えど同じ職人として、その髪飾りに秘められた数々
の見事な仕事を無視することはできなかった。シルクはおそらく最上級。石もただの
天然石ではなく宝石なのだろう。
 その美しい髪飾りのおかげで、マドレーヌの顔周りはより華やかになった。
 だが心は、その重さに傾ぐ。
 ――これは、宣告だ。
 本能に近い部分が、クロードの声なき言葉を理解する。

「あれを」

 クロードが立ち上がると、店員はワゴンに置かれていたベルベットのケースを彼に
差し出した。
 箱を開けた長い指が、中に入っていた物をひっかける。
 息を詰めて硬くなったマドレーヌの腕を取り、細い手首にレースでできたブレスレッ
トをつけた。
 黒い糸で花をモチーフに編まれたレースからは銀の細い鎖が垂れ下がり、その先
端にはティアドロップ型で透明感のあるピンク色の宝石がついている。このブレスレ
ットも見事な細工だった。
 さらにクロードはもう1つ、ベルベットのケースから取り出した。
 それはブレスレットと同じデザインの、けれどもより華やかなブラックレースのチョー
カーだった。

「お前のために、特別に作ったものだ」

 クロードは微笑みながらチョーカーをマドレーヌの首につける。
 中央に垂れ下がるピンクの宝石は光を浴びて輝いているが、とても重かった。

「気に入ったか?」

 ――これらは、首輪。
 唾を飲みこんで、マドレーヌはゆっくり頷いた。
 ――どこにあろうとも、私はこの人の手中からは逃げだせない。





********





「会場では常に笑顔でいろ」

 パーティー会場が近付くと、それまで無言だった車内にクロードの声が響いた。
 ネクタイを直しながらそれだけ告げた彼は、また黙り込んだ。マドレーヌは彼の磨
かれた革靴を見つめながら、小さく頷く。
 外は夕陽のオレンジが消されつつある。時間的に開場はもう始まっている。
(マドレーヌ。無理をするなよ)
 無音に押しつぶされそうになっていると、優しい声が響いた。
(気分が悪くなったらヴァンに言って、早めに帰してもらえ)
 ――うん。
 パーティーで倒れても迷惑だから、体調が良くなければそうするつもりだ。だが、許
可を取らなければならない人間はもう1人、横にいる。それが憂鬱だった。
 静かにため息を吐くと同時に、車が停止した。
 ふと気付けば車のガラスの向こうは、色とりどりの花が咲き誇り、それらがライトア
ップされた幻想的な庭園だった。
 運転手が降りてドアを開け、先にクロードが車を降りた。そのまま立ち去る、かと思
いきや、彼は身体をこちらに向けて手を差し出す。

「降りなさい」

 クロードは、女性ならばうっとりしそうなほど甘い笑みを浮かべていた。
 だがマドレーヌはそれが表面的な物であることを理解している。
 彼は自分に甘い笑みなど向けない。絶対に。
 ――笑わないと。
 深呼吸して、マドレーヌもまた笑みの仮面を身につけた。
 クロードの手を取って車を降り、会場を見上げる。
 パーティ会場となったホテルは、マルダにあるホテルの中でも評判が良いクラヴェ
ルタホテルだった。ホテルの宿泊部屋からは海が一望でき、朝食に出されるチーズ
入りのスクランブルエッグとオニオンスープが絶品であるらしい。らしい、というのは
マドレーヌの稼ぎではこんな上等なホテルには宿泊できないからである。
 白亜の壁が美しい建物を、その前庭に植えられた緑や花々が芸術的に彩る。高
級感はありながらも荘厳というわけではなく、どこか爽やかさを感じさせる佇まいだ
った。
 ドアマンにドアを開けてもらい、ホテルの中に入ると、明らかにパーティーに参加し
に来た装いの人々がロビーにちらほらといた。多くは男性で、名刺交換をしていたり
もする。
 そちらに視線を向けながらも、マドレーヌはクロードから離れぬようついて行く。
 クロードはホテルの受付で招待状を出し、手際良く雑事を済ませた。その手慣れ
た様子からして、この男がパーティーに行き慣れているのは明白だった。

「荷物をお預けになられますか?」

 突然フロントの男性に尋ねられ、マドレーヌは一瞬呆けた後、首を横に振った。男
性の視線はブランシェにあったが、彼はそれ以上は何も言わず「かしこまりました」と
引き下がる。
(また預けられては敵わんぞ)
 ――うん。これはさすがに困るよ。
 何せヴァンとも挨拶まわりに行かねばならないのに、ブランシェがいないのでは話
がスムーズにできない。それに情けないとは思うが、緊張する場に彼女がいてくれ
るだけで、ずいぶんと心持ちが違うのだ。
 代わりにボレロだけ預けて、マドレーヌはクロードとともに会場へ向かった。
 会場は1000人以上は収容できそうな広く、赤を基調とした絨毯とクリーム色を基
調とした草花が描かれた壁が豪奢な場所だった。さらに海に面した方の壁は一面ガ
ラスでできており、そこからはホテル自慢のライトアップされた庭と夜の海が眺望で
きるようになっている。
 圧倒されながら天井を見上げると、野の風景が描かれた天井と巨大なシャンデリ
アが吊り下がっているのが目に入った。シャンデリアの煌めきが眩しすぎて、マドレ
ーヌはすぐに視線を戻す。
 パーティー会場にはすでに多くの招待客が集まっていて、賑わっていた。まだパー
ティーが始まっていないのでテーブルの上には手つかずの料理が並べられている。
どれも見た目が華やかでおいしそうだった。
 ふと視線を感じて前を向けば、クロードがわずかに険を含めた目でこちらを見てい
た。気付けば彼との距離が少し開いている。
 慌てて距離を詰めると、彼はまた視線を前方に戻した。
 マドレーヌもつられてそちらを見ると、そこにこのパーティの主催者の姿があった。

「今晩は」

 クロードは迷わず主催者、ヴァンに近付いて挨拶をした。
 ちょうど別の招待客と挨拶を終えた後だったヴァンは、クロードの挨拶に気付いて
彼に笑みを向けた。

「こんばんは、シャールさん」

 普段も華やかな格好をしているヴァンだが、今日の装いにはそれにフォーマル感も
プラスされている。
 細身のブラックスーツに立て襟の白いシャツ、首元は光沢が美しいサテンのブル
ースカーフタイで締めており、胸のポケットには水色のハンカチが覗いている。さらに
ジャケットの襟には銀で細工されたバラのピンをつけていた。
 こちらもクロードとは別の意味で隙のない格好である。
 クロードは白い歯を見せ、爽やかに微笑む。

「本日は素晴らしいパーティーにお招きいただき、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ足を運んでいただいてありがとうございます」

 ――どっちも、あまり見たことない顔だなぁ。
 握手する光景を見ながら、マドレーヌは違和感を覚えた。
 クロードの方は言わずもがな、ヴァンもこうしてビジネスをしているところを見る機会
はあまりない。
 いつもとは違う笑みに困惑していると、ヴァンの視線がマドレーヌに向かった。
 そうして、その目が大きく見開かれる。

「…………キイト?」

 ――えっと。
 なんと言えばいいか戸惑っていると、隣に立つクロードが背を軽く押した。

「キイト。ご挨拶を」

 その言葉に驚いたのはヴァンだった。彼にはクロードとの関係を一切話していない
ので、何故シャール財閥の当主と一緒にいるのかわからないのだろう。その疑問は
わかっていても、マドレーヌはそれに構っている暇がない。
 クロードの機嫌が悪くならないうちに慌てて軽くお辞儀をした。

『こんばんは、オーナー。パーティーにお招きいただいてありがとうございます』
「あぁ、いや……来てくれてありがとう」

 ヴァンは困惑した表情をクロードに向けた。
 それを受け、彼はオールドローズの瞳を細める。

「混乱させて申し訳ない。ですが、彼女の後見人の欄に私の名前がありませんでし
たか?」
「……てっきり同姓同名だとばかり」
「彼女は私の妹です」

 今度ばかりはマドレーヌも驚かざるを得なかった。てっきり、ヴァンには後見人とい
う体で話をすると思っていたのに。
 いったいどういう考えで、とクロードを見上げるが、その言葉は彼が浮かべている
笑みによって喉の奥に押し戻された。
 口出しするな、と言われている気がした。
 一方でヴァンは納得しかねるように、眉根を軽く寄せている。

「……キイトの名字は『バリエ』だと記憶していますが?」
「家庭の事情と妹の意思で名字は別ですが、確かに私の妹ですよ。混乱を招かぬ
ようオーナーには事情を説明した方がいいと言ったのですが、本人が自分の力でど
こまで職人としてやっていけるか試したいと言うので容認しました。ヴァンさんにはご
迷惑をかけて申し訳ありません」
「いえ……」
「あぁ、お引き止めしてしまいましたね。そろそろ時間では?」

 クロードの指摘した通り、パーティーが始まる時間が近づいていた。
 ヴァンはちらとマドレーヌに視線を寄こしてからクロードに向き直り、「では後ほど」
と言って壇上の方へ去って行った。

『……どうしてですか』

 マドレーヌは問わずにいられなかった。

『どうして、妹だなんて……言う必要なんてなかったのに……』

 魔法布職人として、『キイト』が必要とされている場所ではシャール家の名前なん
て出したくもなかった。それは唯一マドレーヌにとって、しがらみを忘れられる聖域で
もあったのに、踏み荒らされた気持ちになった。

「シャール家の者だと言っておけば、辞めさせやすいからだ」
『なんだと?』

 マドレーヌではなく、ブランシェが声を上げる。
 つかの間、彼は凍るような表情を浮かべた。

「婚約後、お前に手慰みを許す気はない」

 胸が痺れるように痛む。
 ――手慰みじゃない。
 マドレーヌは魔法布織りを仕事として、真剣にやってきたつもりだ。決して適当なこ
とや雑なことはしてこなかった。その収入で見合った生活もしているし、満足だってし
ている。
 マドレーヌはマドレーヌなりに、必死に生きてきた結果得た技術と仕事だ。
 ――でも、この人にとっては手慰みに見えていたのか。
 怒りではなく、諦念がじわりと胸ににじんだ。
 ――仕方ない。
 織り仕事は、好きな仕事だ。天職だとさえ思う。
 だが自分の人生はこの男が握っている。自分と意見が違おうが、彼がそう思って
いるのならばそうなるのだ。
(マドレーヌ)
 ブランシェが何を言いたいのかわかっていたが、マドレーヌは返事をしなかった。

「グラスをどうぞ」

 給仕の男性にオレンジジュースが入ったグラスを差し出され、マドレーヌはぼんや
りと受け取った。クロードはすでにシャンパンが入ったグラスを手にして、壇上を見つ
めている。
 マドレーヌもそちらを見る。壇上にはすでにヴァンが上がっており、彼の隣には見覚
えのない男がグラスを持って微笑んでいた。
 男は会場を見渡し、頷く。

「グラスは行き渡りましたでしょうか?それでは、皆さまのますますのご盛業を祈っ
て、乾杯!」

 乾杯、との声が会場を覆う。
 マドレーヌは周りの雰囲気につられ、グラスを持ち上げた後に一口それを飲んだ。
 周りの人間は思い思いに、自分と距離が近い人間と話し始める。

「こんばんは、シャールさん」

 クロードも近くにいた中年の男に話しかけられていた。マドレーヌはその男が誰な
のかわからないが、クロードは見覚えがあるらしく微笑みながら挨拶を返している。
 ――ビジネス色が強いパーティーだからかな……。
 どこにも身の置き場がないような気がして、心細い気がした。
 ――ピサンリもいるのかな。
 来たときは探す余裕がなかったが、彼女の話を思い出すに、会場にはいるはずで
ある。クロードがここを動かない以上、探しに行くわけにはいかないが。

「―― シャールさん」

 聞き覚えのある声がクロードを呼ぶ。
 声のした方をマドレーヌとクロードが見ると、ヴァンがまた戻ってきているところだっ
た。
 彼はマドレーヌの隣に立ち、ごく自然に肩に手をかけた。

「申し訳ないですが、彼女をお借りしても?職人『キイト』と話したいという人がたくさ
んいますので」
「……ええ、どうぞ。キイト、ご迷惑をおかけしないように」

 マドレーヌが頷くと、彼は興味を失ったかのように談笑に戻った。

「行こうか、キイト」

 にこりとやわらかく微笑むヴァンは、マドレーヌが見知った表情だったので強張りが
ほぐれた。そのことにヴァンが安堵した表情を垣間見せたので、自分はよほど緊張
した面持ちだったのだろう。
 エスコートされながら歩きだすと、彼は尋ねづらそうに口を開いた。

「名字が違うのは……」
『偽名ではない。母親が違うのだ』

 ブランシェが端的に返すと、ヴァンはそれ以上は何も尋ねてこなかった。上流階級
にありがちないざこざを、経験豊富な彼が推察できぬはずがない。ブランシェの言葉
だけで、彼は事情を察しただろう。
 ヴァンは歩みを止めて、マドレーヌの手を取った。

「パーティーへようこそ、お姫様。若葉のようにまばゆい君に似合うドレスだね。その
バラの髪飾りは、私への声なき言葉だと思ってもいいのかな?」
『相変わらずだな、ヴァン……』

 呆れるブランシェとは対照的に、マドレーヌは笑みを漏らした。彼の軽やかな言葉
はそれまでの重い空気を取り去ってくれた気がする。
 ヴァンも茶目っ気たっぷりに笑って、手を離した。

「笑われてしまったか。どうやら私の勘違いだったようだ。そのアクセサリーはエルガ
レイオンに贈ってもらったのかい?見かけによらず、独占欲の強い男だな」

 ――なんでエルガレイオン?
 密かにギョッとしながらマドレーヌとブランシェが小首を傾げると、ヴァンははた、と
笑うのを止めた。

「……違うのかい?」
『贈られる理由がありません』

 ――誕生日でもないのに、どうして贈りものだと思われたんだろう。
 贈りものだという指摘は正しい。ただし相手はエルガレイオンではなく、クロードで
あるわけだが。
 それに何故、エルガレイオンが独占欲の強い男だと思ったのだろうか。
 ヴァンはしばしマドレーヌを見つめた後、繕うように微笑んだ。

「アクセサリー、良く似合っているよ。ブランシェも、精霊の名にふさわしい美しいドレ
スだね。君の瞳がまるで宝石のようだ」
『当然だな』

 マドレーヌの肩に乗ったブランシェはそう言いながらも、うれしそうだった。
 質問の機会を逃してしまったマドレーヌは、まぁいいか、と自分を納得させる。どう
思われようが、事実は違うと否定したのだから気にすることもないだろう。ヴァンは事
実と違うことを言いふらさない、というのもわかっているのだし。
 それよりも、と辺りを見渡したところで声をかけられた。

「キイト君!」

 振り向けば、探そうと思っていたピサンリがこちらに駆け寄ってきていた。
 その姿にマドレーヌは思わず見惚れてしまう。彼女の髪型はいつものようなお団子
ではなく、髪をぐるぐる巻いた夜会巻きスタイルだった。髪を留める、ラインストーンの
コームが照明を浴びてキラキラ光り、美しい。
 それから目が冴えるような青いベルベット生地のカシュクールドレスを着ていて、
腰には細い革ひもで編まれた式典向きの飾り剣帯をつけている。剣自体は普段使
っている物と変わっていないので一見物々しく思えるが、剣帯には花のコサージュも
付けられているので、それが剣を厳かに見せる役割となっており、ドレスと見合わせ
ても良いバランスとなっていた。靴は周りの女性やマドレーヌのものと比べて少し低
めの黒いヒールだが、きっと有事を想定してのことなのだろう。それが役目を忘れて
いない高潔さを感じさせ、彼女を素晴らしい女性としてより高めていた。
 ――あぁ、ジルダがいないのが悔やまれる!
 いかな天の邪鬼でも、この姿を見れば美しい、以外の言葉はないだろうに。
 心の中で地団駄を踏むマドレーヌの前に、ピサンリがやってきた。

「キイト君、すっごくかわいいです、美人です、レアです!いっつもスカートを穿けばい
いのに!」
『……胸が』
「え、なんですか?」
『ううん。ピサンリの方がかわいいよ。そのドレス、とっても似合ってる』
「えっ、そうですか?うれしいです」

 はにかむピサンリは、女の子らしい女の子でとてもかわいらしい。
 彼女はヴァンを気にしながらそっとマドレーヌに耳打ちした。

「オーナーもかわいいって言ってくれたんですよ」

 ――さすがオーナー。抜け目がない。
(会場にいる女全員を褒めるか口説くかしているぞ、この様子なら)
 その意見には同意せざるを得ないが、ピサンリに言う気はない。せっかく喜んでい
るのに水を差すこともないだろう。

「さっき、リオンさんにも会いましたよ」
『え、リオンさんも出席してるの?』
「従業員にも出席してもらうように言ったんだよ」

 ヴァンが話に割って入ってきた。

「特に女性はパーティーの華だからね」
「リオンさんとお話しするのは大変でした。倍率が……」
『倍率?』

 パーティにあるまじき単語を聞いて首を傾げると、ピサンリは辺りを見渡して、「あ、
あそこです」と指差した。
 見てみれば黒い人だかりの向こうに、控えめな笑みを浮かべたリオンの姿がある。
 言うまでもなく、黒い人だかりはブラックスーツを着て、だらしない表情を浮かべた
男性の群れである。倍率の意味を正確に理解できた。
 ――あぁ、うん。
 男性の気持ちをマドレーヌは理解できる。いつも可憐なリオンが、今日はより可憐
なのだ。
 パステルピンクのビスチェドレスで鎖骨から腕まで広く露出しているが、スカートの
丈がミモレ丈なので嫌味がない。髪の毛先をゆるく巻き、ハーフアップにしたそのス
タイルの似合いっぷりは深窓のお姫様の域を超えて、この世の穢れを知らない美の
天使のようだ。ネックレスやイヤリングも小さく品があるものを選んでいるのも、清楚
と可憐の見本のようなコーディネートに仕上がっている要因と思えた。
 ――あれだけ人に囲まれて、おどおどしないリオンさんってすごいよね。
(本人にとっては日常茶飯事であろうからな)
 抜け駆けが許されない分、魔導師たちはつるんでリオンに声をかけることが多々
ある。それで1対多数のおしゃべりに慣れてしまったのだろうか。彼女が困っている
様子はまったくなかった。
 ――あ、そういえばデーアもいるんだよね。
 すっかり忘れていたが彼女も警備として会場内にいるはずだ。
 自分が織った布がどのようなドレスになったか知りたかったが、彼女を探す前に
ヴァンに促されてしまった。

「キイト。そろそろ挨拶回りに行こう」
『あ、はい』
「それじゃあ、ピサンリ。会場を頼むよ」
「はい」

 ピサンリと微笑み合って別れ、マドレーヌはヴァンについて挨拶へと向かった。

「クラッハードさん」

 ヴァンが呼び止めたのは、70代の恰幅が良い男だった。
 相手はヴァンの呼びかけに気付き、手にしていたグラスを陽気に掲げた。

「いやぁ、ヴァンさんじゃないか。相変わらず美姫と仲睦まじそうで羨ましい」
「はは、生憎彼女は大切な職人でして。魔法布職人のキイトです」

 男は目を丸くしてマドレーヌを見つめた。
<会場では常に笑顔でいろ>
 脳裏に冷えた声が蘇り、マドレーヌは反射的に笑みを浮かべた。

『初めまして。キイトと申します』
「キイト、こちらは隣国の魔法ギルド会長のクラッハード氏だ」

 ギルドと言えば、仕事を仲介する場所のことだ。そこの会長が参加しているとは、
ヴァンの顔は中々に広い。
 軽く会釈を済ませたマドレーヌに、男はしみじみとため息を吐いた。

「ははぁ……とすると、君がクロード・シャール氏の妹君か」

 耳を疑った。
 ――どうして、この人が……。
 ヴァンも何故それを知っているのか、とわずかに眉根を寄せた。

「何故って、シャール氏に挨拶した人たちから知れ渡っていっているよ。シャール家
の影響力はこの近隣諸国では計り知れない。おそらく、もう皆知っているのではない
かな」

 言われて、マドレーヌは初めて気付いた。
 ――視線を感じる。
 マドレーヌが目を向ければその視線はなくなってしまうが、確かに会場の幾人かは
マドレーヌのことを興味深げに見ている。
(あの男、何を考えて……)
 ブランシェの問いへの答えは、マドレーヌはすでに見つけていた。
 顔を見せる、というのはこういうことだったのだ。
 いちいち紹介しなくとも、クロードが幾人かにマドレーヌのことを妹だと告げれば、
彼の地位と感心の高さを示すように事実はすぐに広まってしまう。

「私には今年21になる孫がおるのだが、魔道具に目がなくてね。優秀な魔法布織
りである貴女に、是非今度会っていただきたいものだ」
「依頼ならばどうぞ、『ジャスミン』をご利用いただければ」

 ヴァンがすぅ、と会話を奪い取る。男は愉快気に笑った。
 ヴァンも微笑むが、その瞳には厳しさがあった。

「念のため申し上げておきますが、彼女が織る魔法布のクオリティーはシャール家
の名を借りていません。孤独共存の呪いを跳ねのけるほどの魔力を注ぎこめる魔法
布を織れるのは、ひとえに彼女の才能によるものです」

 息が詰まる。
 マドレーヌはそこまで読むことができなかった。だが考えてみれば、マドレーヌが
シャール家の者だと知った人の中に、財閥のブランドを使って商品のクオリティーを
偽装していると考える者もいるだろう。
 職人として、そう考えられるのは屈辱だった。
 クロードはこれも計算の内に入れていたのだろうか。
 ――でも、守ってくれた。
 それが店の商品の売り上げに関わることだからとしても、ヴァンはマドレーヌの名
誉を守ってくれた。彼はマドレーヌが織る魔法布の良さを理解してくれている。
 胸が熱くなる思いだった。
 相手の男もヴァンから何かを感じ取ったのか、手を振って笑い流す。

「もちろん、わかっているとも」
「ええ。クラッハードさんは目利きで高名ですから、実物を見ていただければおわか
りになるでしょう。近々是非、『ジャスミン』をお訪ねください」
「あぁ、寄らせてもらおう」

 和やかに握手して別れたあと、ヴァンがめずらしくため息を吐いた。

「――困ったものだ。ああいう輩が増えるのは」

 ちらりと視線を向けられ、マドレーヌは訝しげに小首を傾げる。
 ブランシェは『同感だな』と忌々しげにそれに同意した。
 よくわからず目を瞬かせるしかないマドレーヌに、ヴァンは年頃の娘に言いつける
ような固さで注意する。

「いいかい、キイト。今後、傍に寄ってくる男には気をつけなさい。甘い言葉を弄して
近づく男のうちの何割かは、君の血に魅力を感じている」

 ――ヴァンパイア?
(愚か者。シャール家との繋がりに魅力を感じるということだ)

「どのような事情があれ、君は現当主に大切にされている。そういう君と結婚すると
いうことはつまり、シャール財閥の中枢に入りこめるということだ。地位が目的の男
が囁く、軽々しい『愛してる』を信じてはいけない。それはろくな男じゃない」

 普段はあまり見せることない、真摯な表情を浮かべるヴァンをマドレーヌは黙って
見つめた。
 よりにもよってプレイボーイである貴方が言うことじゃない、と笑うことは容易だった
けれど、その言葉の重みは彼だからこそ感じさせる重みだった。

「本当に誠実な男の愛は、行動ににじみ出るものだよ」

 覚えておきなさい、とヴァンは優しく微笑む。
 ――でも、それは私には遠いもの。
 クロードはこの世に愛はないと言った。それはきっと、マドレーヌの周りに存在しな
いか、あってももう手に入れられないということなのだと思う。
 ――だから別に、気をつけなくても構わない。
 くれるものが愛だと勘違いするから騙される。最初からそれは愛ではないと知って
いたら騙されたことにはならないし、そもそもマドレーヌはすでに満足している。
 記憶の中の愛と、その残骸と呼べる箱に。
 だがそれを言えば、ヴァンは悲しむような気がした。
 マドレーヌは否定したい気持ちを押さえつけ、恭しく頷いた。










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