マドレーヌは『トラゴス』に向かう途中で、気が付いた。
 エルガレイオンが着ているパーカーの下、彼の腰には昨日あげた魔法布が巻きつ
けられている。
 白いパーカーとグレーのチェック柄布は相性が良く、あまりにもファッションとして溶
け込んでいたので、今まで気付かなかった。
 というより、そういう使い方をするなんて思わなかった。2メートル、という半端な長
さなので、せいぜい小物を作るとか、そんなものだろうと思っていたのだ。
 ―― そうか、ストールにできるよね……。
 女性が使うにしては長すぎるが、男性ならばストールとして使える長さで、腰にも
巻ける。盲点だった。
 ――格好いい人は魔道具も上手く使いこなしちゃうのか……。
 なんとなく、世の中は不公平だなと思った。

「どうした?」

 歩みが遅くなったマドレーヌを不思議に思ってか、エルガレイオンが首を傾げてこち
らを見る。その仕草も、やはり美しかった。
 何も言えずにいると、彼はマドレーヌの視線を追って、腰の魔法布に気付いた。
 爽やかな笑顔で、腰を叩く。

「色々使い道を考えたんだけどさ、こうするのが一番俺のスタイルに合ってそうだな
と思って。あっ、それで昨日魔術を仕込んでびっくりしたんだけど」
『お前、軽々しくそういうことを言うんじゃない。魔導師だろう』

 ブランシェが呆れてため息を吐いた。
 自分が何を装備しているかを知られるのは不利になるので、魔導師の多くはよほ
どの事態でない限り、装備品を公開したりしないはずなのだが。魔術を仕込んだ、と
か往来で言って平気なのだろうか。
 魔法知識があまりないマドレーヌですら心配なことをしているのに、エルガレイオン
は「いいんだよ、わからないから」と、興奮気味に言う。

「キイトの生地って、本当にすごいな。仕込んだ魔術が行方不明」
『わかるように言え』
「だから、魔術の気配が全然しないんだよ。魔術の魔力を布が完全に吸うから、表
に痕跡が漏れない。高級魔法布って、こういうことなんだな」

 そう言われてやっと、マドレーヌは彼が言いたかったことを理解できた。
 確かに手織りの魔法布は、機械織りの魔法布に比べて魔力をよく吸う。マドレーヌ
自身も、自分が織った布以外の高級手織り魔法布を所持しているので、その威力
は知っている。一流の職人が織った魔法布は魔術が仕込まれていても本当に誰も
気づかないし、また、魔法布独特の生地の硬さもない。
 本当に、普通の布地にしか見えないのだ。
 マドレーヌが織る布地は、まだその域に達していない。魔力は吸うが、魔法布独特
の硬さが残っているので、触ればこれは魔法布だ、と知られてしまう。
 ――“白水”の配合がまだまだだなぁ……。
 魔法布を織る職人の中には、染付済みの糸を購入して織る職人もいるが、一流の
職人はなべて糸を自分で紡ぐことから始める。
 自分好みに糸を紡いで、染め付けて、白水に浸す。白水というのは、布が魔力を
吸うようになるための特殊な液体で、様々な魔法草木から取れる。その配合は職人
によって違うので、魔法布織りの肝はある意味、この白水の配合にかかっていると
言っても過言でない。
 マドレーヌが今使っている白水の配合は、魔力をよく吸うが、生地が少し硬くなる
のが難点だった。もう少しやわらかみを持たせたいが、そうすると今度は魔力を吸う
力が下がってしまう。悩みは尽きない。

『もっと、いいものを織れるように頑張るね』
「…………」

 エルガレイオンはめずらしく無言だった。だが、口の中が痒くて仕方ない、というふ
うにしか見えない、奇妙な表情を浮かべていた。
 ブランシェ共々小首を傾げれば、彼はマドレーヌの頭をわしゃわしゃ撫でた。

「あー……あのな、キイト。褒められたときは、素直にそれを受け取っておけばいい
んだよ。向上心は大切だけどさ、俺は別に、もっと上達しろって言いたかったんじゃ
なくて、キイトの布地はすごいな、って言いたかっただけだから」

 ぽかん、として、思わず歩みを止めて――マドレーヌの頬は、ほんのりと赤くなる。
 ――あ、そっか、褒めてくれてたのか……。
 ヴァンだって「良い出来だ」とか褒めてくれるが、それはマドレーヌと同じ、商品を提
供する側としての賛辞なのだ。スポーツで、試合が終わった後に「俺たちよくやった
よな」とチームメイトとお互いを労う行為に近い。
 だがエルガレイオンは、マドレーヌたちと立ち位置が違う。彼は提供される側だ。
 提供される側からこんなにもまっすぐな賛辞をもらうのは、初めてのことだった。
 ――知り合いの魔術師や魔導師たちも、布地の特徴をあげるだけだし……。
 魔力をよく吸う、とか、無地なので使いやすい、とか。そういうものだ。それだって
褒めてくれているのかもしれないが、さすがにエルガレイオンほど手放しではない。
 ――ど、どうしよう。なんて言えば?
 そんなことないよ、は自分の商品への侮辱だし、それを買ってくれたお客さんに対
する侮辱にもつながる。かと言って当たり前、と返すのも違う。
(ありがとう、と言っておけば良いのだ)
 ―― そうかな?
(そうだ)
 マドレーヌはブランシェの助言に、おずおずと従った。

『ありがとう』

 エルガレイオンはやっと満足気に笑った。

「きゃーっ、かっこいい!」
「笑った!」
「超美男!超美男!」
「あの子、弟くんかなぁ?」
「えーでも、似てなくない?」

 全方向からあがった黄色い声に押されるように、マドレーヌはエルガレイオンの腕
を引いて、素早くその場を離れた。

「キイト、大丈夫か?なんか震えてるけど」
『気にするな。すべては気の小ささ故だ』
「顔色も青いけど」
『気にしいだからな、キイトは』

 マドレーヌは声を大にして言いたかった。決して違う。自分が気にしすぎなのでは
なく、周りを気にしない2人がおかしい。
 それでも百歩譲ってブランシェが気にしないのはわかる。精霊だから。
 だが、人間であるエルガレイオンがこうも周りを気にしないのは、何故なのか。
 ――美形の周りには美形しか集まらないのが、よくわかった。
 隣の美形に注目が集まったところで、自分も美形だから恥ずかしくなのだ。きっと。
 マドレーヌなんてエルガレイオンの弟扱いされた挙句、違うんじゃない?と否定さ
れたのに酷い、と思わなくもないが仕方ない。美貌は見える才能だ。才能ある人を
きゃあきゃあ言うのは、人間心理として当然のことである。
 ――この人、本当にキレイだもんなぁ……。
 黄色い歓声があがった場所から離れたので腕を引くのを止め、代わりにその美貌
を改めて観察する。どこから見ても、完璧に整った顔だ。
 半ば呆れて見上げるマドレーヌに、彼は小首を傾げたが、すぐにその表情をパッと
明るくする。

「そうだ、聞いてくれよ、キイト!第一次抽選に受かったんだ!」

 ――抽選?
 そう聞いて、思い浮かぶのは仕事のことだった。魔導師の仕事は、時折立候補者
が多すぎて抽選になるものもある、と聞いたことがある。

「これで第二次抽選も受かったら、レーネルモデルの球体関節人形が俺のところに
お嫁入りする……っ」

 何故だろう、心が冷え冷えとした。
 遠い目をするマドレーヌのことなど視界に入ってない様子で、彼はその人形への重
すぎる愛を語り始めた。

「レーネルモデルの魅力と言ったらやっぱりあの切れ長の目だよな。美女って言うよ
りエキゾチックな妖女って感じの。濡れたような黒い瞳から色気を感じさせることに追
随を許さない……いやレーネル以外には表現不可能だと断言するね、俺は。だって
まつげを1本1本埋め込んでるって言うんだから、レーネルの目へのこだわりは半端
ないよ。当然のごとくグラスアイも自作だし。ブランシェも同じ黒髪系の子だけど、ブ
ランシェのモデルはどこか浮世離れしてる顔立ちだろ?あ、勘違いしないでくれ、そ
れがまた美しくもあるんだ!ブランシェはブランシェで確立された美があるモデルだ
よ。でもレーネルモデルは、あくまでも現実に足を付けてるのがいい。すごくいい。実
はもうお婿さんは決まってて、って言うか家にいるんだけど、これがもう美男なんだ。
同じように切れ長目のイイ男で、ミステリアスな雰囲気満載の子。長いこと家にいる
子なのに、お嫁さんとしてふさわしい子をなかなか見つけてあげられなくて心が痛か
ったよ。顔立ちが艶やかすぎて、爽やか系の子だと並んでもあまりピンとこなかった
んだよね。でもレーネルモデルの子なら大丈夫。あの子たち、きっといい夫婦になれ
る。あっ、でもそうなったら子供タイプの球体関節人形を見つけてあげないといけな
いか。いやでも、しばらくは新婚っぽい感じの写真を撮りまくりたいからな。とりあえ
ずは考えないでおこう」

 ――相変わらず、強烈な……。
 先ほど黄色い声をあげていた女性諸君に、猛烈に尋ねたい。この語りを聞いても、
同じく黄色い声をあげられるのかと。
 マドレーヌはわかっている。おそらく、8割が脱落する。ちなみにその8割に、マドレ
ーヌも入っていたりする。黄色い声は最初からあげないが。
 しかし第一次抽選に受かっただけでこの喜びようだ。これでもし、第二次抽選で落
ちたら目も当てられない状態になるのではないだろうか。そう考えたが、おそらく抽
選に受かっても目も当てられない状態になるような気もしたので、どちらにしろ変わ
りないという結論に落ち着いた。
 落ちついたが故に、マドレーヌは顔を覆った。
 ――この人に、うちの電話番号は教えちゃダメだ。
 球体関節人形に関するイベントがある度に、こんなハイテンションな電話をかけて
こられそうで怖すぎる。
(賢明だな)
 ブランシェが静かに同意した。
 一方で、エルガレイオンはマドレーヌの考えていることなんて知る由もないので、い
きなり顔を覆った彼女を明後日な具合に気遣った。

「あ、あの、もしかして、キイトもレーネルモデルの抽選に申し込んで、落選を?ごめ
んな、俺、無神経だった……」
『違うから安心しろ』
「え、そうなのか。じゃあ、お腹痛い?」

 まず気遣うべき点が2番目に出てくるという酷さである。
 とりあえず否定すべくマドレーヌは顔を上げて――気付いた。
 『トラゴス』がすぐそこに、見えている。
 ――あー、どうしよう。
 問題を思い出して、憂鬱になった。
 いったい、どうやって告げれば彼の心の傷は軽くなるだろう。考えて、無理だろうな
とすぐさま結論が出た。
 眉間にしわを寄せるマドレーヌに気付いたエルガレイオンは、本当に心配そうな様
子で彼女を横から覗きこむ。

「大丈夫?」

 ――近い、近い。
 自分自身、鏡で見たら酷いだろうなと思えるほど引きつった笑みで、マドレーヌは
何度も頷いて、若干エルガレイオンから距離を取った。どうにも彼のパーソナルスペ
ースは狭いようで慣れない。
 居心地の悪さを覚えていると、そうだ、とブランシェが声をあげた。

『お前、これから用事はあるのか』
「いや、『ジャスミン』で注文してたものを受け取ってくるだけだし、他に今日は何の
予定もないけど」
『よし。ちょっと私たちに付き合って、トラゴスに入れ』

 ――うぇっ!?
 予期せぬ提案に驚いて、ブランシェを見る。
 ――な、何言ってるの、ブランシェ!
(1人で入る度胸がないようだから、道連れを作ってやったのではないか)
 ――状況が悪化したよ!デリケートな問題をこの人の前でジルダに話すの!?
 さすがにそれは出来ない、と思って顔をあげると、エルガレイオンは何の邪気も含
まない輝く微笑みで、

「ちょうどよかった。俺、昼飯食ってないから腹減ってたんだ」

 と、言ってくださった。
 断れなくなった。
 何故か先ほどよりも背水の陣の気配が濃くなった気がしながら、マドレーヌはエル
ガレイオンの笑みに押されるようにして、『トラゴス』に入った。

「おー、いらっしゃ……」

 ドアのベル音に顔をあげたジルダは、すぐにマドレーヌに気がついて気安く声をか
けてくれたが、その言葉が唐突に止まって宙に舞う。
 彼のブルーの瞳は、マドレーヌではなく、その隣に立っているエルガレイオンへと
向けられていた。同様に、店内の客たちの視線も男女問わずエルガレイオンに向け
られる。
 ――ん?男性も?
 はた、とマドレーヌは疑問に思う。
 女性がエルガレイオンに見惚れるのはわかるが、何故男性もエルガレイオンを見
ているのだろうか。
 当の本人は視線を気にせずにカウンターに進んで、マドレーヌを振り返り、「何にす
る?」とテーブルに置かれたメニュー表を振った。
 おかげで、視線はマドレーヌにまで飛び火した。声まで聞こえてくるようだ。あんな
美形と知り合いの少年って何者だ、と。
 半ば意識を飛ばしながら、マドレーヌはぎこちなくカウンターまで進んで、呆然とし
ているジルダの前に立った。
 隣では真剣な表情で、エルガレイオンがメニューとにらめっこしている。

「何にしようかな……この時間に食うと晩飯が変な時間になるからちょっと軽めのも
んでいいんだけなぁ……サラダ……いや、葉っぱだけ食うとかそんな気分じゃない。
でも肉ってのもな……カツサンド?ちょっと重いな。ピッツァもちょっと味濃い……」

 ずいぶん真剣に悩んでいるようなので、放っておいていいだろう。でもとりあえず、
サラダを葉っぱとか言うのは止めてほしい。ちょっと食べる気をなくす。

『おい、ジルダ。約束通り来てやったぞ』
「……あ、あぁ、悪いなキイト」

 ブランシェに話しかけられて、ジルダはようやく飛んでいた意識を戻してくれた。
 しかし視線は、相変わらずエルガレイオンにある。

「……なぁ、あんたさぁ、昨日花嫁取り合って表で戦争起こしかけた張本人なんじゃ
ねぇの?なんでキイトと知り合いなんだ?」
『……噂がすさまじい方向にねじまがっとるな』

 メニュー表から顔をあげて、きょとんとしているエルガレイオンの代わりに、ブラン
シェが冷静なツッコミをいれる。
 ジルダは軽く眉根を寄せた。

「違うのかよ」

 概要はあっているが、詳細があっていないと言うか。
 ブランシェを自分の球体間接人形のお嫁さんに欲しいと言ったことから、周りが勘
違いしての大乱闘騒ぎになったので、あっていると言えばあっているが、違うと言え
ば違う。
 しかしなるほど、その噂もあってこれだけ注目を浴びているのか。
 ――まぁ、違うって言っておいた方がいいかな。
 マドレーヌがブランシェに言葉を伝える前に、当の本人が笑いながら訂正した。

「違う違う、花嫁を取り合ったんじゃなくて、プロポーズしたんだ、彼女に」

 ――よりにもよって、訂正するところはそこですか。
 おかげで、店内のあちこちでごぶふぉっ、という奇怪な音が続いた。
 当たり前である。エルガレイオンはブランシェを指したつもりであったのだろうが、
傍から見れば美貌ある青年が、どう見ても少年にしか見えないマドレーヌを指したよ
うにしか見えないのだから。

「あー……そっか……」

 あらぬ疑いの目をジルダに向けられて、焦らなくてもいい自分が何故焦らなければ
いけないのかわからないまま、マドレーヌは弁解をブランシェに託した。

『言っておくが私だぞ、プロポーズされたのは。こいつは人形愛好家で、プロポーズ
と言うのは専門用語で譲ってほしいという意味だ』

 ブランシェの素晴らしいところは、弁解を大きめの声で言ってくれるところだ。
 おかげで、店内の妙な雰囲気が一掃された。
 目の前のジルダも、疑いがキレイに晴れたようだ。

「あ、あぁ、なるほど……ビビった、てっきり……」

 マドレーヌは女なのだから、そういう疑いを向けられること自体がおかしいと言えば
おかしいのだが、それはとやかく言わないでおくことにする。

『まぁ、こやつのこんな言葉足らずのせいで、周りで誤解が生じてな。それで乱闘騒
ぎになったわけだ。キイトはそれに巻き込まれて、知り合いになった』
「ははぁ」
「俺としては言葉を選んだつもりなんだけど」

 あれで、と思わず漏れた言葉はブランシェに伝えずにおいた。

「でも、昨日の乱闘で迷惑かけたんならごめんな。俺はエルガレイオン。魔導師だ」
「いや、あの店の前は結構乱闘起こるからいいよ。俺はジルダ。よろしく」
「……そんなに起こるのか?」

 エルガレイオンの視線を受けて、ブランシェが頷く。

『お前も例に漏れずだが魔導師は気が荒いし、あの店はこの近辺で一番良い品が
揃う店だから、魔導師の出入りも多い。必然と嫌いな奴に会う遭遇率も高くなるから
衝突も起こるだろう』
「あー……耳の痛い話だな、それは」

 気まずげにエルガレイオンは視線を泳がせる。
 本人としてはそんなことない、と言いたいところなのだろうが、昨日乱闘を起こして
いるので説得力がないと自分でわかっているらしい。
 苦笑しながら、マドレーヌはとりあえず手土産をジルダに渡した。

「え、何?土産?悪いな」
『フォローだ』
「何のだよ」

 訝しげにするジルダから視線を逸らしつつ、さてどうしたものか、とマドレーヌは悩
んだ。
 ――とりあえず、言わないと……。
 と、腹を括った横から呑気な声が割り込む。

「ブレンドコーヒーとベーグルの生ハムサンド」
「了解。キイトは?」

 出鼻を挫かれた。

『……コーヒー』
「はいよ」

 受けた注文の品を作るために離れたジルダを見て、安堵と疲労が去来する。
 ――やっぱりなぁ……。
 後々の影響を考えると、ジルダの休憩まで報告を待った方がいいのか。
(そんなこと言っていると、一生報告できんぞ)
 指摘されると胸が痛んだ。図星だったからだ。
 ――自分で首を突っ込んだことだけど、頭が痛い……。
 どんよりしている横から、エルガレイオンの骨ばった手がマドレーヌの首に触れた。
 ――何っ!?
 顔を赤らめながら触れられた個所を手で押さえると、エルガレイオンは「ごめん」と
キイトの反応に少々驚きながら言った。

「顔色悪いし、熱でもあるのかなって思って」
『そういうことは口で確認を取れ。驚くし、下手をすればセクハラだぞ』

 マドレーヌが驚くことをされて少々不機嫌になったブランシェにセクハラ、と指摘さ れ、さすがのエルガレイオンも慌てた。

「ちっ、違うんだってキイト。本当ごめん。弟たちの熱を測るとき首筋に触って確かめ
てたから、つい」

 マドレーヌは苦笑する。

『オーナーの言うことなら気にしなくていいよ。あの人は、その、女性には心配性な
だけだから』
「あ、やっぱりオーナーはキイトの性別をわかってるのか」
『オーナーだからね』

 自分と対面した男性で、端から性別を見極めることができたのはヴァンとクロードく
らいなものだ。
 ヴァンは仕草と身体のラインでわかった、と言っていた。少年のように見えるマドレ
ーヌでも、ヴァンから見れば少女にしか持ち得ないやわらかさがあるのだとか。
 クロードには聞いたことはないが、おそらく父の日記や資料でも見て性別を知った
か、彼も彼で人を見抜く目を持っているのでわかったか。そんなところだろう。

「……あの噂ってマジなのか」
『噂?』
「プレイボーイってやつ」

 おや、とマドレーヌは驚いた。どうやらエルガレイオンはヴァンのことを噂だけでしか
知らないらしい。
 ―― 一緒にご飯を食べに行けば、一発でわかっちゃうんだけどなぁ。
 とある魔術師がヴァンと一緒に食事をする機会があったらしいが、偶然店のドア前
で鉢合わせた2人連れの女性といつのまにか食事を共にしていたことがあったらし
い。話を聞いたマドレーヌは何が起こったのかよくわからなかったが、一番よくわかっ
ていなかったのはその魔術師だった。
 本当に、普通にヴァンが「お先にどうぞ」とレディーファーストして、それから少し話
していただけなのに、食事を一緒にすることになったのだと言う。魔法のような話だ。
 ブランシェが神妙に頷いた。

『あの男、女はすべからく口説くからな』
「へぇー……」

 マドレーヌの首筋をひやりとしたものが這う。
 ――あ、あれ?
 何故だろう。エルガレイオンの機嫌がわずかに下がった気がする。
 クロードと会うようになって、マドレーヌは人の機微に敏感になった。何故機嫌を損
ねたのか、までは瞬時に考えが及ばないが、対面する者の機嫌の上下くらいは読
みとれるつもりだ。
 ――私、何の地雷を踏んだんだろう……。
 これでエルガレイオンがモテそうもない男であれば、ヴァンのプレイボーイっぷりが
妬ましいのだろうな、と思えるが、彼の場合は当てはまりそうにない。さっきだって黄
色い声が湧くほどの美男っぷりだ。これでモテないと思う方がどうかしている。
 ――あっ。でも、女の子と触れ合う機会があんまりないって言ってたな。
 しかし触れ合う機会が少ないイコール、モテない、ということではない。機会がなく
てもモテる人はモテるのだ。エルガレイオンはしゃべると残念、と言わざるを得ない
が、黙っていれば色男である。見た目でモテそうなものだが。
 ――もしかして、エルガレイオンは硬派?
 好きな人には一途、というタイプの男性は、花から花へ渡る蜜蜂のようなヴァンの
恋愛は気に入らないはずだ。
 ――あぁ、マズイ。
 ヴァンはエルガレイオンのことを将来有望、と見ているようだし、きっと顧客として長
く付き合いたいと思っているはずだ。なのに、マドレーヌがエルガレイオンにヴァンへ
の悪印象を持たせてしまったら、営業妨害だ。
(その場合は、ヴァンの自業自得だと思うがのう)
 ――と、とりあえず、フォロー!フォローしないと!

『エルガレイオンは、あんまりオーナーのことを知らないんだね?』
「うん。俺、前まではこの辺りを活動拠点にしてなかったから。それでもオーナーの
名前は知ってたけどさ」
『オーナーは……女性は好きだけど、節操がないってわけじゃないよ。彼氏や旦那
さんがいる女性のことは褒めるだけで口説かないし、自分に興味がないなってわか
った子にも優しくするだけで口説かないし!』

 矢継ぎ早にブランシェに言ってもらえば、彼はきょとんとした。
 そうして辺りを見渡してから、マドレーヌに耳打ちする。

「……キイトってオーナーのことが好きなのか?」
『あるわけないだろう、愚か者』

 それはマドレーヌの否定ではなく、ブランシェの否定だった。

『貴様、あの女たらしにこの子が引っかかるとでも……?』

 耳元で静電気が起きたような音がしていることから、マドレーヌはブランシェを見ず
ともすべてを察した。
 その予想を裏切ることなく、エルガレイオンは青褪めながら両手を上げて、マドレー
ヌから少し距離を取る。

「ごめん本当にごめんなさい、謝るから魔力を集めないでお願いします」

 ――ブランシェ、もう怒りを収めて……。
(お前、不名誉なことを言われたのだぞ)
 ―― それはそれで、オーナーに失礼だから……。
 この界隈の女性は、一度はヴァンにトキめくと言われているほどなのだから、誤解
されたとしてもそう恥ずかしい話ではない。

『言いたかったのは、オーナーは噂で聞くほど軽薄ってわけじゃないってことだよ。仕
事もできる有能な人だし』
「あー、有能な人ってのは知ってるよ。俺も世話になったし」

 話の流れが変わる気配がしたので、マドレーヌは全力でそれに乗った。

『そういえば、エルガレイオンはオーナーとどこで知り合ったの?』
「ちょっと前、とある船で行われるオークションの実態を探る依頼を請け負ったんだけ
ど、その途中で風邪こじらせて、肺炎にまでなっちゃって倒れたんだ。倒れたときに
助けてくれたのが、魔道具の買い付けに来てたオーナーでさ。病院の手配から、依
頼主への連絡まで何から何までやってくれたんで、頭が上がらないよ」

(なるほど、恩を売られたか)
 ――エルガレイオンは、よっぽど優秀な魔導師みたいだね。
 情けは人のためならず。ヴァンは温厚で良い人だが、商売人でもあるので損得勘
定を抜きで行動に移すことは少ない。特に男性に対しては。
 親切にしておいた方が後々のためになる、と思ったからヴァンはそうしたのだろう。
実際、そうやって繋がった縁が、彼の商売を支えている面もある。
 と、そこでジルダが注文の品を持って現れた。

「はい、お待ち」

 出された品を、エルガレイオンはすぐに食べ始めた。空腹だったのだろう。
 ――さて。
 コーヒーを前にして、マドレーヌは悩む。
 ――やっぱり、まだ言わないほうが、いいかな?
 仕事中、しかもエルガレイオンが居る横でデリケートな話は避けるべきだと思う。
多少、自分が逃げている感もしたが、選択としては正しいはずだ。
 1人納得し、コーヒーを口に含んだところで、ジルダの同僚が「休憩に入れ」とジル
ダに言う。彼はそれに「おう」と返事をすると、カウンターから出て、マドレーヌの隣に
立った。
 そのままエルガレイオンの様子を気にしながら、こそり、と声をひそめる。

「で、ピサンリの様子は?」

 ごぶっ、とコーヒーを吹きそうになった。
 ――言わまい、と決意したそばから。
(墓穴を掘るのが好きな男だな)
 否定できない。
 どうすればいいんだ、なんと余計なことを聞いてくれたんだ、と頭を抱えそうになっ
たマドレーヌをよそに、焦れたブランシェが勝手に代弁した。

『お前以外に、好いた男ができたようだぞ』

 空気が凍った。
 ついでに、ジルダも固まった。
 ――ブランシェ。言い方ってものが。
(ボディーブローか、右ストレートかの違いだ。いっそストレートな方が致命傷がわか
るだけ親切というものだろう)
 そういう問題でもない気がする。

「……恋バナ?しかも失った系?」

 ブランシェが声をひそめなかったせいで聞こえてしまったらしいエルガレイオンの脇
腹を、マドレーヌはごすっ、と肘でド突く。んぐふぇぶっ、と悶絶した声を上げたが無視
した。
 頼むから黙って食事をしていてくれ、と思ってエルガレイオンを見れば、もうすでに
食べ終えていた。早い。早すぎる。早食いは身体に悪い。魔導師なら健康に気を使
うべきだろうに。とか、もうこの辺りの思考は現実逃避であることは、自覚している。
 エルガレイオンの言葉で、やっと理解したらしいジルダは、停止を解除してマドレー
ヌに詰めよった。

「ピサンリがっ!?だっ、誰だ、どこの誰にっ!?」
『ヴァンに。ジャスミンのオーナーだ。お前と正反対の男を選んだらしいぞ』

 だから言い方と言うものが。
 あぁ、とため息をつくマドレーヌの前で、ジルダは地獄の苦しみでも味わっているか
のような面持ちで、頭を抱えた。
 さすがに空気を読んだエルガレイオンが、無駄な慰めにかかる。

「あー、ジルダ、こういうのは時間だ。時間が経てば傷は癒えるから、な?」
「……あんたに言われるのが、一番傷つく」

 マドレーヌでもそう思う。
 失恋、なんて言葉が辞書になさそうな美男子に同情されたところで惨めなだけだ。
 ジルダは恨みがましそうに、エルガレイオンを睨んだ。

「どうせ、振られたことなんてねぇんだろ?」
「いや、あるよ。彼女は今まで4人いたけど、どの子にも振られた」

 ジルダのあまりの悲しみように話を合わせているのかと思いきや、何故か嘘だと
は思えなかった。
 それほど真摯に、憂い顔を浮かべている。

「1人目は俺が趣味の球体関節人形に構ってばっかりだったら、『私と人形どっちが
彼女がわかってないんでしょ』って言われて振られた。泣いた。2人目は魔導の勉強
に夢中なってる間に浮気されて振られた。泣いた。それを踏まえて3人目には『愛し
てる』とか『好きだ』とか思うがまま毎日言ってたら、『愛が重すぎる。怖い』って深刻
な表情で言われて振られた。泣いた。4人目は愛の表現には動じなかったんだけど
魔術で女に変身した姿を見せたときに、『あたしよりかわいい男と付き合ってられる
か』って振られた。顔を変えてくるから捨てないでって言ったら殴られた。泣いた」

 男って顔じゃないんだな。マドレーヌとジルダは思った。

「でもほら、時間が経てばこの通りだ。気にすんな」

 エルガレイオンは、ちょっと気にするべきだ。マドレーヌとジルダは思った。
 だがこれで、ヴァンがモテるという話をして何故彼の地雷を踏んだのか、よくわかっ
た。エルガレイオンは、悲しくも、その外見を有効活用できないほどに、女心というも
のを理解できない性質なのだ。ヴァンのたらしっぷりは、さぞ妬ましいだろう。
 ――とにかく。
 なぜそのような事態になったのか、をジルダに話し、そして説明してもらわなけれ
ばマドレーヌとて納得できない。

『ジルダ。ピサンリは、貴方が女の人と街を歩いてるのを見たって言ってたけど?』

 その言葉に、ジルダはあろうことか「しまった」という表情を浮かべた。
 マドレーヌの視線が冷たくなったのを受けて、彼は慌てて否定する。

「ちっげぇよ!彼女とか、そんなんじゃなくて……あー……っ」

 ジルダはガリガリと髪を掻いて、唸る。
 そうしてそのまま黙ってしまった。

『……友達?』
「違う」
『知り合い?』
「……違う」

 要領を得ない。
 マドレーヌがため息を吐くと、ジルダは視線を泳がせる。
 ――ダメだ。
 ジルダにこの状況を説明しようという気がないのは明白だった。むしろ、この期に
及んで隠そうとしている。彼に相談する気がないのなら、マドレーヌはどうすることも
できない。
 できない、のだ。
 ふつり、と弱く張っていた糸が切れた気がした。もはやジルダとピサンリを繋ぐもの
は、なくなってしまった。
 マドレーヌはブランシェに言葉を伝えてもらう。

『ジルダが、他の女の子に目移りする性格じゃないってことは知ってる。だから、彼
女じゃないってことは信じるよ』
「キイト」
『でも、ピサンリを応援する。自分は彼女の友達だから。それでいい?』
「……わかった」

 ジルダは重くため息を吐きながらも頷いた。
 彼はただ嫌だ嫌だと駄々をこねるわからず屋ではない。照れ屋が過ぎるだけの、
不器用な青年なのだ。幼なじみの幸せを邪魔するほど、分別がないわけじゃない。
 ――だから、心苦しい。

「悪ぃな、言いにくいこと言わせて。俺は大丈夫だから気にすんな」

 苦笑するジルダに、マドレーヌはなんと声をかければいいのかわからなかった。

「……休憩行ってくる」

 手を振って休憩室に入っていくジルダの後ろ姿を見ていると、横から「大丈夫」とエ
ルガレイオンが割って入った。

「男だし、誰かに弱音を吐ける歳じゃない。放っておいてやるのも優しさだよ」

 ジルダと同性の大人。少なくとも、マドレーヌよりはこういう場合どうしてほしいのか
心得ているだろう。
 ―― 男の子も、色々大変だ。
 マドレーヌは小さくため息を吐いた。










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