店を出ると、マドレーヌはピサンリに買い物に誘われた。

「この前の休みにグレーのフレアスカートを買ったんですけど、セール品だったから
手持ちの服を考えずに買っちゃって、合わせるものがないんです。トップスをいくつか
買いたいんですけど、キイト君も買いませんか?いつもズボンだし、スカートがあると
コーディネートの幅が広がりますよ」
「……」
「キイト君?」

 反応しなかったのは、女の子らしい会話に少し感動してしまったからだ。
 マドレーヌも己の洋服に関してちょっと酷いかな、という程度の意識は一応持って
いる。ワードローブは似たようなシャツとズボンばかりで、スカートは一着もない。手
持ちの中で一番かわいい服はどれだ、と聞かれたら迷わず水着と答えられる。
 ――これ、ちょっと酷いどころじゃないな……。
 鑑みて、反省した。
 だがしかしマドレーヌにも言い分はある。周りがあまりにも自分を男だと思うものだ
から、スカートなんて穿いた日には女装している、と白い目を向けられそうで憂鬱に
なるのだ。
 否、向けられそう、ではなく向けられる。エルガレイオンがやらかしてくれた件があ
るので、確実だ。
 マドレーヌは苦笑して首を横に振る。

『ピサンリが行くお店だと、私に似合わなさそうかも……』
「何言ってるんですか!キイト君は美少女じゃないですか!』
『いや、美少女とかいう以前の問題で、男にしか見られてないみたい』
「甘いですよ、キイト君!」

 キリリ、と目を吊り上げ、密かなファンがいる美少女はマドレーヌに忠告した。

「2年前にキイト君を男の子だと認識しまったけど、最近になって薄々『あれ、キイトっ
て女なんじゃない?』って勘付いてる人もいるんですから!でもそういう人は確証が
得られず、周りに馬鹿にされるのが嫌だから大きな声で言えないだけなんですよ」

 言ってほしい。頼むから。
 マドレーヌは切々と望んだ。というか、2年も経って確証が得られないほど、自分に
は色気がないのだろうか。悲しくなる。

「でもそのうち、絶対に、キイト君が女の子だってわかった輩がうようよとやってきて
あの手この手でデートに誘おうとしてきます」

 ――う、うようよ?
 マドレーヌの顔が引きつった。そんな、虫が湧くような言い方をしなくとも。

「いいですか、キイト君。これから後々、女の子だってことが広く知られるようになった
ら男と暗がりで2人きりになっちゃいけません。暗がりに連れ込まれそうになったら
頭突きか、目潰しか、急所を遠慮なく蹴りつけるんですよ!男は狼ですからね!」

 美少女の口から飛び出る単語が不穏すぎる。
 マドレーヌはその気迫に若干青くなりながら、頷いた。

「今の時点でさえ、キイト君は大人しいから何でも言うこと聞いてくれそうで、女の子
だったら口説いてたとか言う魔導師や魔術師がいるんですから!イイ人のフリをした
男には気を付けてください」
「……」
「私なんか……1か月に一度は何か勘違いした男がやってきて『踏んでください』と
か『罵ってください』とか気持ち悪いこと言われるし、逆に『じゃじゃ馬馴らししてやる
よ』とか上から目線の腹立つ男が言いよって来るんですよ!まとめて剣で『一昨日
来てください』してますけど、キイト君はそんなことできないでしょう?」

 マドレーヌは今までの謝った考えを訂正しなければならなかった。
 彼女が男嫌いになったのはこれまでジルダが原因だと思っていたが、違う。ジル
ダはあくまできっかけであり、それまでに溜まり溜まった嫌悪と鬱憤があったのだ。
 とんだ濡れ衣である。ジルダに申し訳ない。
(これは男嫌いというか、不信に陥っても仕方ないな)
 ―― そう、だね。
 マドレーヌですら、何でも言うことを聞いてくれそう、という理由で目をつけられるの
は若干の不快と恐怖を覚える。そんなことを言うのはクロードだけでいい。
 ――性別を間違われているのは、案外都合がいいのかもしれない。
 こうして恋愛相談に乗ったりするのは構わないが、マドレーヌ自身が恋愛ごとに巻
き込まれるのは御免こうむりたいところだ。まだ名も顔も知らぬ婚約者が待っている
身なのだから、面倒はできるだけ避けたいのが心情だ。クロードの意識をこちらに向
けさせたくない。
 憂鬱な気分を押しやるように、マドレーヌは微笑んだ。

『……ごめんね。やっぱり寄りたいところができたから、ここまでにする』
「そうですか」

 気にしないでくださいね、と優しく言ってくれたピサンリと別れて、マドレーヌは『トラ
ゴス』がある方角へ歩きだした。
 とにかく今気になるのは、ジルダが誰と街を歩いていたのか、ということと、ピサン
リが恋をした、と言ったら彼はどうするか、ということだ。
 前者の問題は詳細がわからないので本人に聞くまで保留するとして、後者の問題
は頭を悩まさなければならなかった。とは言え、ジルダはどんなに気が狂ったとして
も、想いが遂げられなかったからとピサンリに危害を加えるような男ではない。
 ――物や人に当たるタイプじゃなくて、自己嫌悪に陥る方だからなぁ……。
 年頃の乙女か、というくらい繊細なのだ、ジルダは。伝え方によってはピサンリが
勤める『ジャスミン』の向かいに『トラゴス』があるから、という理由で仕事を辞めかね
ないほどに。
 ―― それが問題なんだよね。
 ジルダはバリスタとしては腕が良い。その繊細さが嗅覚や味覚にも現れるのか、
最近では彼オリジナルのブレンドコーヒーが店頭に並ぶようになったほどだ。
 そんな才能ある彼が『トラゴス』を辞めるのは惜しい。あの店はコーヒー通からそれ
なりに信頼を置かれている良い店なのだ。そんな環境で働けるのは素晴らしいこと
だと思うし、マドレーヌの中の職人魂が辞めてほしくない、と叫んでいる。
(それこそ、本人が決める問題であろうよ)
 ブランシェの鋭い指摘に、う、とマドレーヌは目を泳がせる。
(本人が辞めたいものを無理に引きとめても結局腐るだけだ。他にコーヒー店ならあ
るわけだし、そちらで腕を振るえば良い)
 ―― そうなるよねぇ……。
 彼の人生に口出しできる権利は、誰も持っていない。ジルダ本人以外は。
 本人もバリスタという仕事は好きなようだから、コーヒーから離れることはないだろ
う。もしも彼が別の店に移って心の平穏を得られるなら、それはそれで幸福だ。
 ――あぁ、でも、やっぱり何かお土産を持って行こう。
 お土産、というよりお見舞いがあるだけで心が軽くなる。自分の。
 完璧なる自己満足のために、マドレーヌは通りの店を覗いた。
 お見舞いなら食べ物がいいだろう。ジルダはあれで甘党なところがあるからお菓
子がいい。
 ふと、思い出した。
 ―― そういえば、昔は高くて手も出なかったお菓子屋さんがこの辺りにあったよう
な気がする。
 幼いころの苦い思い出。甘いお菓子の名前を自分のものとした、きっかけになった
店がこの通りにあるはずだ。
 ――工場の女の人たちが、すごくおいしいって言ってた……。
 他に候補に挙げるものがなかったので、マドレーヌはそれを手土産と言う名のお見
舞いにすることとした。
 ブランシェと一緒に通りを見まわしながら歩いて、それとおぼしきお菓子屋さんを発
見した。そこはオシャレなお菓子屋や、高級なお菓子屋と言うよりも、昔ながらの商
店街に必ず1軒はある、素朴な佇まいのお菓子屋さんだった。
 ショーウィンドウを兼ねたカウンターを挟んで、中年の女性が接客をし、その奥で女
性の主人と思わしき男性が菓子を作っている。
 ショーウィンドウの中の商品は、マドレーヌ、フィナンシェ、クッキー、と焼き菓子が
並んでいて、箱売りもあった。品物はマドレーヌ、として、箱には4つ詰められている
ものと8つ詰められているものがあった。
 単品で渡すにはさびしい気もするし、ジルダに渡すのであれば4つ入りの箱を求め
るくらいでちょうどいいだろう。ついでに、マドレーヌは自分の分も買うことにした。
 ――ブランシェ、しゃべらなくても大丈夫だからね。
(そうか)
 マドレーヌはカウンターに近寄ると、そこを軽くコンコン、と叩いた。
 何かの作業をしていた女性が顔を上げる。

「はい、いらっしゃいませ」

 マドレーヌも微笑みを浮かべて、ショーウィンドウの中にある自分の名前が書いて
ある商品を指した。女性は首を傾げかけたが、すぐに意図を理解してくれて「おいく
つですか?」と返してくれる。指を2本立てると、箱が2つカウンターに置かれた。
 女性が箱を開けて、中を確認させてくれた。
 子供のころに見た甘い香りのする焼き菓子は、織物をするときに使う(おさ)よりも大きく思えたのに、今見れば手のひらに収まるほど小さかった。
 ――でも、香りは覚えているまま。
 甘く、そして苦い懐かしい香りがする。
 愛想の良い女性に代金を渡し、マドレーヌはそれを受け取って店を後にした。
(やはり字を読めるのは便利だろう)
 ブランシェの言葉にマドレーヌはそうだね、と同意する。
 マドレーヌが店のメニューを読めない場合、ブランシェに尋ねてもらうことになるわ
けなのだが、そうなると店員に必ず驚かれて物珍しがられる。魔道具大国ルシーダ
でも、しゃべって動く人形にはまず出会えないのでそれは仕方ないが、あまり目立
ちたくないマドレーヌとしては、望ましい事態ではない。
 だから自分でどうにかコミュニケーションがとれる場合は、ブランシェには普通の人
形のフリをしてもらっている。奇天烈な魔道具に見慣れたこの国の人たちは、マドレ
ーヌが人形を抱いていても、おかしな目で見ることはないのだ。
 ――これでお見舞いも買えたし、後は……ジルダに言うだけかぁ……。
 どうやって告げよう。マドレーヌの悩みはふりだしに戻った。
 やはりストレートに伝えるべきか。それともやわらかく、あくまで迂遠な表現を用い
て伝えるべきか。
 眉根を寄せて、それでもてくてくと『トラゴス』に向かって歩いていると、先の交差点
の隅で、子供が3人うずくまっているのが見えた。男の子が2人、女の子が1人。泣
いている女の子に対し、男の子はこちらに背を向けているが、その背中から困って
いる様子がありありとわかった。
 と、泣いていた女の子が顔を上げた。
 その顔に見覚えがある。

「マドレーヌくんだ!」

 女の子の声に、男の2人が同時にこちらを向いた。やはり見覚えがある。
 ――あ。思い出した。

「あっ、マドレーヌくん!」
「マドレーヌくん!ちょっときて!」

 呼ばれて、彼女は子供たちのもとへ駆け寄った。
 この子たちは以前働いていた織物工場で、母親が仕事を終えるのを待っていた子
たちだ。
 あそこには託児所、なんて上等なものはなかったが、母親が仕事をしている間は
別室で待たせることができる工場だった。さすがに2,3歳の子を連れてくる人はい
なかったが、5歳以上にもなれば本やおもちゃを与えて部屋で待たせている母親が
多かった。子供たちも年上や年下の友達を作って、それなりに楽しく遊んでいたよう
だ。少年たちはいつも行動を一緒にする仲良しグループだった。
 ――でも、なんで泣いているんだろう?
 その疑問はすぐに解決した。少女の前にしゃがみこんでよく見てみれば、少女の
両ひざと両手のひらに、皮がめくれるほど酷い擦り傷があったのだ。血が溢れ、腕と
足に目が冴えるような赤が伝っている。
 ――傷が酷い……。

『いったいどうしたの?』

 ブランシェが言葉を発したので少年は一瞬驚いたが、2年前に紹介されたことを思
いだして、すぐに冷静になった。

「おれら、ふつうに街を歩いてただけなんだ。そしたら後ろからあるいてきたよっぱら
いのクズヤロウが、ベラをいきなりけりたおしたんだ」
『酷い……下が石畳だったから傷も深くなったんだね』
「ぼくらもなんてことするんだ、っておこったんだけど、あっちはよっぱらっててこっちは
こどもだったから、なんにもできずにベラをつれてにげてきた」

 少年たちは悔しげに言った。
 マドレーヌも心が痛む。
 少年たちの家庭は、お世辞にも裕福だとは言えない。そういう貧しい身なりをして
いる子に、己の日ごろの不満をぶつける最悪な大人がいることを、マドレーヌは身を
以って知っている。そして多くの加害者は、子供たちが泣き寝入りするために罰せら
れないのだ。
 ――酔っ払いを見つけて、警察に突き出してやろうか。
 義憤がじわりと胸に広がる。
 マドレーヌはもう、子供ではない。大人に怯えて何も言えなかった時期は過ぎた。
 やろうと思えばできる――が、当の被害者である少女は手足を震わせながら痛い
痛い、と泣いている。これほど皮膚が剥がれたケガなら、細菌が入ることが心配だ。
 冷静になれ、とマドレーヌは自分に言い聞かせる。
 憤ることは大切だ。だがそれは、何よりも優先すべきことではない。
 今やらなければならないのは犯人を探すことより、医者に見せることだ。
 ――この辺りに、お医者さんは……。
 自分が医者とは無縁の生活を送っていたせいで、昔住んでいたことがあるという
のに病院がある場所を全く知らなかった。
 だが、少年たちならば病院のある場所を知っているだろう。少し時間はかかるが、
案内して連れて行ってもらうしかない。

『……ごめんね。ブランシェと荷物を持ってて。それで病院に――』
「あれ?キイト?」

 ブランシェと荷物を少年たちに預けようとしたところで、背後から聞いたことのある
声に呼びかけられた。
 どこか呆然としている子供たちを視界の端に映しつつ、振り返る。

「あ、やっぱキイトとブランシェだ。何してんの?」

 今日も今日とて神々しい美しさを持つエルガレイオンが、そこにいた。
 ――な、なんでこんなところに?
 クエスチョンマークが頭いっぱいに広がり、マドレーヌは何も返せない。一方エルガ
レイオンは「ん?」と子供たちを覗きこんだ。
 整った表情が、軽く歪む。

「どうしたんだ、そのケガ。大丈夫か?」

 少女を威圧しないようにするためか、彼はマドレーヌの横にしゃがんで、優しく微笑
みかけた。その行動と容姿は、完璧に王子様だ。
 少女はエルガレイオンの容姿に釘付けとなって、涙さえ止まっている。
 ――び、美貌は涙をも止める、か……。
 同じくフリーズしていた少年たちが同性故か、少し早く思考回路を取り戻した。

「だっ、だれ、兄ちゃん?マ……キイトの友だち?」

 マドレーヌは心の隅で、安堵した。少年たちは上手く呼び名を切り替えてくれた。
 別に本名を知られてもリスクはないが、あまり褒められた行為ではない。本名を知
られた魔法関係者は、なんとはなしに信頼を得にくくなるものだ。なので助かった。
 エルガレイオンも特に引っかかった様子はなく、自己紹介をする。

「そうそう。俺、キイトの友達の魔導師で、エルガレイオンっていうんだ。この子の傷
はどうしたのかな?」

 見知らぬ美貌の青年がマドレーヌの友人で、しかも魔導師だということは少年たち
に安心と憧れを与えたらしい。と、言うのもルシーダに住む少年たちは、魔導師を英
雄視している。派手な魔導で戦う彼らが格好良く見えるのだ。
 興奮を抑えきれない様子で、彼らはマドレーヌにした説明をエルガレイオンにも同
じようにした。
 事情を聞いたエルガレイオンは、ふむ、と頷く。

「お嬢さん、手のひらを上に向けて。ちょっと我慢してくれな?」

 微笑みかけられて、少女は頬をほんのりと赤くしながら指示に従った。
 そう、これが正しい反応である。彼女は2年ほど会っていない間にも、きちんと乙女
への道を歩んでいるようだ。自分とは違って。

『シアン 冷然を観察せし瑠璃色の翡翠(かわせみ)よ 流麗たる青と幻影の道 我は汝の冷静と非情を求める者 還御(かんぎょ)と停滞 汝の力を見せよ』

 彼の右手中指に嵌められた指輪が、青く光る。
 それが瞬くと、少女の手足の上に水の塊ができて、細い線を引くようにして傷に降
り注いだ。傷についた汚れが洗い流されていく。
(やはり、なんとも器用な男だ)
 感心するブランシェに、マドレーヌは首を傾げた。器用、とはどういうことだろう。
(魔導のコントロールと言うのは案外難しくてな。特に風と水は流れる性質であるた
めに困難を極める。少なくとも昨日のように、一直線に飛ばした氷のつぶての軌道を
変えたり、今のように緩やかに水を落とすことができる者はそうおらん。天性だな。
魔力コントロールが優れておる)
 ――だから昨日、魔導師の誰かが呆れたような声をあげたのね。
 なるほど、と納得している間に、指輪の光の色が黄色に変わる。

『ジャッロ (きら)めき損なわぬ黄金(こがね)鶺鴒(せきれい)よ 満身の涙と心魂(しんこん)の血 其の者は汝を希求せし苦悶と苦痛の羊 慈愛と甘美 其の身とせよ』

 懐かしく、甘い香りがする、と思った瞬間、見る間に少女の傷が治癒した。
 治癒魔導を見るのは初めてではないが、何度見ても傷が見る間に治っていく様は
不思議な感覚に陥る。

「はい、終わり」
「す、すっげぇー!」

 少年たちは目を輝かせながら、エルガレイオンに詰めよった。

「なんで!?ロッド使ってねぇのに、魔導使えた!」
「お、ロッドを知ってるか。お兄ちゃんのロッドはこの指輪なんだよ」
「かっけぇ!」
「すげぇ!」

 マドレーヌは興奮した少年たちを抑えなければならなかった。彼らは素直なので、
心に響くものがあると1時間くらいは「すげぇ」「かっけぇ」を繰り返す。マドレーヌ自身
ならばそれに付き合ってもよいが、さすがにエルガレイオンにそれを強要するわけに
はいかない。
 彼女は立ち上がり、少年たちの背を叩いて忘れていることを思い出させた。

『ベラに手を貸してあげなさい』
「あっ、悪ぃ、ベラ」

 少年たちは、放心したままの少女に手を貸して立ち上がらせた。
 立って、痛みがないことを再確認し、ようやく現実味が出てきた彼女は慌ててぺこ
りとエルガレイオンにお辞儀をする。

「あ、ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして」

 それに応えるエルガレイオンの笑顔があまりに美しいものだから、道行く女性の視
線がすべて集結した。ここに少年たちがいなければ、逃げていただろう。マドレーヌ
は気を遠くに飛ばしながら、ぼんやりとそう思った。
 女性たちの視線を集めながらエルガレイオンは立ち上がって、少女の小さな頭をく
しゃりと撫でる。それもやはり、さまになっていた。

「痛いの我慢して、えらかったな」

 それから少年たちの頭も撫でた。

「お姫さまを守ってえらかったぞ、騎士たち」

 少年たちは顔を綻ばせた。
 ――よかった。
 暗く、苦い気持ちが彼らの中に巣食うことがなくて。あのまま病院に行っていたとこ
ろで、傷は治っても心には嫌な記憶がこびりついただろう。エルガレイオンがヒーロ
ーのように現れてくれたから、嫌な記憶が洗い拭われた。
 マドレーヌは持っていた菓子箱のうちの1つを開けて、少年たちにそれぞれ1つず
つお菓子を持たせた。こちらの箱は自分用に買ったものなので、開けてしまっても構
わないし、惜しくない。

『ご褒美だよ。持って帰ってお食べ』
「わぁっ、ありがとうキイトくん!」
「ありがとな、キイトくん!」

 浮かれて礼を言う少年たちに比べ、少女ははにかむように言う。

「ありがとう、キイトくん」
『どういたしまして』
「キイトくんは、まだ治らないの?」

 苦笑して、少女の髪を撫でつける。エルガレイオンが少々強く撫でていたからか、
せっかくのさらさらとした金髪が乱れ気味だったので、直してやった。

『うん』
「早くよくなってね」
『ありがとう。工場に帰る途中だったんでしょう?早く帰らないと、抜けだしてるのが
お母さんたちにバレちゃうよ』

 あ、やべ、と少年が声をあげる。急にそわそわして工場がある方を見始めたので、
今日はきっと母親の帰りが早い日なのだろう、とマドレーヌは予想を付けた。
 工場で待つことに飽いた子供たちは、ある一定の年齢になれば大人に黙ってこっ
そりと街へ遊びに出かけるのが定番となっている。あくまでもこっそり、なので母親
が託児部屋に来るまでに帰っておかなければ、街に出て遊んでいたことがバレ、大
目玉を食らう。
 彼らはもう一度エルガレイオンたちに礼を言うと、慌てて駆けて行った。
 それを見送ってから、改めてエルガレイオンに向き直る。

『ありがとう、エルガレ――』

 イオン、の三音は呑み込んでしまった。青い瞳が、訝しげにこちらを見ていたので。

「……キイト、病気なのか?」

 ――えーと。
 何と返していいか迷っているのをどう勘違いしたのか、彼はマドレーヌに近寄ると
顔色を見るために頬を包んで上を向かせた。

「ちょっ、大丈夫か?吐き気は?頭痛いとか?お腹は?動悸とか眩暈?歩いて大丈
夫なのか?って、そういえばオーナーが身体弱いみたいなこと言ってたし、本当大
丈夫なのか?家まで送る?なんか顔色青いけど?」

 顔色が青いのは間違いなく、傍から見れば美貌の青年がちんちくりんな少年に迫
っているようにしか見えない状況に陥っているからである。彼の肩越しに見える視線
が痛い。
 見かねたブランシェが『やめい』と言って、しっしっ、と手を振る。

『何ということはないから、手を離せ』
「でも、顔色が」
『それがデフォルトだ』

 フォローしてくれるのはありがたいが、投げやりすぎやしないか。
 しかしながらエルガレイオンはしぶしぶ距離をあけてくれた。
 緊張が少し解けたマドレーヌの肩で、ブランシェはため息を吐く。

『――お前、一般人の魔力は探れるか?』
「あー……ちょっと時間をくれれば」
『キイトの魔力を探ってみい』

 一般人の魔力を探るのはあまり得意ではないのか、エルガレイオンは渋い表情を
浮かべて目を閉じる。そのまま1分ほど待っていると彼の口から「あれ?」と、戸惑う
声が漏れた。
 青い瞳がぱち、とまた開く。

「……なんか、キイトの魔力って一般人にしても低くない?普通の人の……70%く
らいしか感じ取れないんだけど」
『魔力の低さと体の虚弱が相互関係にあるのは知っておろう。魔力が高すぎても体
調を崩しやすいがな。キイトはこの通り魔力が低いので、虚弱体質なのだ』
「あー……低魔力は魔術薬で補えるのは、知ってる?」

 ブランシェが補足する。

『…………知り合いに魔術師がおるので、そやつから入手している』
「それって、昨日の人?」

 マドレーヌはぎょっ、としてエルガレイオンを見つめた。彼はマドレーヌがそんなに
驚いたことにびっくりした様子だった。

『なんで……あの人が魔術師だってわかったの?』
「なんでって……俺の場合は勘かなぁ」
『エルガレイオンの場合?』

 彼は唸りながら、ふわふわした金髪を掻いた。

「多くの魔術師や魔導師は、魔力コントロールアイテムってもんを持ってるんだけど、
それを持ってると同業者――つまり魔力開花した人間に会った場合、そのアイテム
が震えたり光ったりすることがある。一種の共鳴なんだろうな」
『貴方は、違う?』
「俺は最初から魔力のコントロールを自分でできたから、コントロールアイテムが要
らなかったんだよね。あれは魔力を体に巡らせるのを補助するアイテムだから、要ら
ない人は要らないんだけど、要る人は肌身離さず持ってないと死ぬらしい。そういう
意味では運が良かったかもなぁ」

 あっさり言っているが、割と恐ろしい話ではないだろうか。マドレーヌは話を聞きな
がら、少し青褪めた。魔術師たちは本当に、様々なリスクを背負って生きている。

「ま、そのアイテムだけだと魔法使いか魔術師か魔導師か、まではわかんないんだ
けど、経験則から相手のことを予想できるようにはなる。俺は魔力コントロールアイ
テムは持ってないけど、昨日の彼は雰囲気が魔術師っぽいと思ったからさ。魔導師
にしては体幹のブレが気になったんだよな」

 魔導師と違って、魔術師は身体を鍛える必要がない。身体能力の差から、エルガ
レイオンはクロードを魔術師だと思ったようだ。
 ―― そうか。そのアイテムと経験則で、あの人はわかったのか……。
 タネがわかってしまえば、なんてことはないものだった。きっとクロードも、エルガレ
イオンの鍛えられた体つきと魔導師向きの高い魔力を感じ取って、予想したのだ。
 いくらなんでも、彼がマドレーヌのことに関してすべてを知っている、と考えるのは
馬鹿げている。
 だが彼がマドレーヌを監視しているのは、事実だ。
 一旦、異常な窮屈さからは解放されたが、マドレーヌは依然としてクロードの呪縛
からは抜け出せそうになかった。

「にしても、あの魔術師は相当に腕がいいんだな」
『……どういうことだ?』

 ブランシェが尋ねると、エルガレイオンはじっ、とマドレーヌの全身を眺めた。

「……うん。やっぱり、魔術薬の気配があんまりしない。魔術薬ってのは普通の薬と
違って気配が残るものなんだけど、薬を飲んでるって聞いて初めて『あぁ、そうかも』
って思えるレベルなんだ。特に低魔力の補助薬は毎月飲まないとダメだろ?定期的
に飲む薬をこのレベルで提供できる魔術師を探すのはなかなか骨が折れるのに、キ
イトは運が良かったな」
『…………』
「あと、なんかどっかで見たことがある気が……どこだっけ?」

 クロードの魔術師としての腕は知らないが、彼の経営手腕は経済紙が何度も大き
く取りあげている。エルガレイオンがその記事を読んだことがあるのならば、きっとそ
の辺りだろう。
 が、思い出されると、何故財閥のトップと知り合いなのかを尋ねられて面倒な事態
になるのは目に見えているので、マドレーヌは話題転換を試みた。

『とにかく、工場で具合を悪くしていたのをあの子たちは知っていたから……』
「あぁ、魔力が低いせいで色々体調を崩すのを病気だと、あの子たちは勘違いして
るわけか――っていうか、今さらだけどあの子たちとどういう関係?」

 そういえば説明していなかったな、と気付いた。
 話題を変えることができるので、これ幸いとブランシェに伝える。

『魔法布職人になる前に働いていた織物工場の、仕事仲間のお子さんだよ。あと、
私の先生みたいなものかな』
「先生?」

 なんとなく、エルガレイオンにはいずれ知られるような気がしたので、マドレーヌは
隠さず告げることにした。

『私、今でも簡単な字しか読めなくて。基礎の多くを、あの子たちが学校で使った教
科書で教えてもらったの』

 至らないところを告白するのは、大人になるほど恥ずかしい。
 でも事実だから仕方ない。マドレーヌはあの子たちを先生として、アルファベットの
読み方を覚えたし、計算も覚えた。それでも普通の人が持っていて当然の知識レベ
ルまでは届いていない。
 伏せ目がちになって、恥ずかしさを誤魔化すように苦笑しながら首の後ろを掻いて
いると、ぽん、と頭を撫でられた。

「じゃあ、大事な子たちだ。大変なことにならなくてよかったな」
『――ありがとう。エルガレイオンがいたからだよ』
「困ってる人には手を貸すべき、ってのが魔導師の信条だからな」

 気負いなくそう言ってもらえると、巻き込んでしまったことへの罪悪感が薄らいだ。
 安堵するマドレーヌの傍ら、『そういえば』とブランシェが疑問の声をあげる。

『お前、何故こんなところにおる?』
「あぁ、俺の家ってこの近辺なんだ。これから『ジャスミン』に注文の品を取りに行くと
ころだったんだけど、途中で見たことある後ろ姿を見つけたから」

 思い出して見れば昨日、確かにエルガレイオンは自宅から海が見えない、といっ
たことをぼやいていた気がする。なるほど、この界隈であれば海は見えないだろう。
 ――でも海の湿気がない分、この辺りの方が人形にとってはいいのかも。
 マドレーヌは球体関節人形の保管方法なんてほとんど知らなかったから、何も考
えずに海の近くに居を構えてしまったのだが、おそらくエルガレイオンは違うだろう。
人形たちに最適な場所を住居としたに違いない。

「キイトたちは、なんでここに?」
『ピサ……女友達と食事をしてきた帰りだ。トラゴスに行こうと思っていた』

 ブランシェがピサンリの名前を上げようとしたのを、慌てて止めた。エルガレイオン
は昨日、彼女に昏倒に近い一撃をもらっている。トラウマ、まではなっていなくとも、
苦い記憶に違いない。できるならそこは、そっとしておいてあげたい部分だ。
 エルガレイオンはピサンリの名前に気付くことなく、「おっ」と微笑んだ。

「じゃあ、目的地が近いな。一緒に行こう」

 マドレーヌは、逡巡した。
 彼とともに行くの嫌だったわけではない。むしろ、エルガレイオンは他の魔導師に
比べて気安いので、好ましいくらいだ。
 行動を縛ったのは――クロードの言葉だった。
<相手の男に地獄を見せてやる>
 エルガレイオンは、恋人ではない。だが仮に、今、このシーンを見られたら恋人だ
と思われないだろうか。
 漠然とした不安が胸に迫った。
 しかし息を吸い込むと、それは胸の奥へと引き下がる。
 ――今ここで、距離を取ったほうが怪しまれる。
 クロードがどこで何を嗅ぎつけるかわからない以上、下手な行動はしない方がいい
だろう。自分のためにも、エルガレイオンのためにも。
 マドレーヌはぎこちなさを隠して頷いた。

「よし。日が暮れないうちに用事を済ませよう」

 促されて、2人は並んで歩きだす。すれ違う人の視線が身に刺さって痛かったが、
なるべくそれを見ないように視線を泳がせた。
 美貌の青年の横で、怪しげに視線を泳がすちんちくりん。想像しただけで鬱になる
が仕方ない。
 ――むしろ、男の子に見えてよかったのかも。
 これで自分が女の子の格好をしていたりしたら、女性たちから殺意の視線を送ら
れていたかもしれない。それは恐い。
 自分の外見は案外便利なのかもしれない。マドレーヌはもう一度そう思った。










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