――りんごの香りがする。 仕事場に食べ物を持ち込むはずはないのに、と一瞬考えて、昨夜はベッドで眠っ たことを思い出した。この香りはカモミールだ。枕元に精油をしみ込ませた香り袋を 置いているのを忘れていた。それを忘れるほど、こちらで眠っていない。 マドレーヌはくあ、とあくびを1つして、横になったまま伸びをした。 前日までの寝不足が解消されたような気がする。今は何時だろう。そう思ってやっ と目を開けた。 リビングには陽が差し込んでいた。 ――うあー……寝すぎちゃった……。 枕元の時計を見れば、午後1時。寝すぎたどころの話ではない。 目をこすりながら起き上がると、枕元にいたネグリジェ姿のブランシェが笑った。 『ずいぶんと遅い目覚めだな』 むぅ、と口を尖らせつつ、ベッドを整える。 午後1時、という微妙な時間に食事をどうするか悩んだが、とりあえずは汗を流す ことにしよう、とマドレーヌはバスルームへと向かった。 着ているものを脱いで、軽くシャワーを浴びると頭がすっきりした。 身体を拭いてグレーのシャツと格子柄の白いズボンに着替え、歯ブラシで歯を磨 きながらベランダに出る。 紺色に染めた糸はだいぶ乾いてきていた。この様子なら明日には完全に仕上が るだろう。 マドレーヌはまじまじと糸の色を眺めた。 夜明け前の空の、一番深い藍色に似た色が出せた。今回の染色は成功したと 言える。 満足して頷き、マドレーヌは部屋に戻った。そんな彼女に、ベッドに座ったままの ブランシェが声をかける。 『そういえば、午前中に何度か電話がかかってきていたぞ』 ――え。 マドレーヌはリビングの隅に置いた、音鳴らぬ電話を見た。もちろん電話がかかれ ばベルが鳴るわけだが、今は沈黙している。 ――誰からだろう? 自分の家にかけてくるとなると、人物は特定される。 ヴァンか、ピサンリか――クロードか。 気持ちが沈みかけたが、最後の可能性はないはずだと自分に言い聞かせた。ク ロードは手際の良い男だ。用事があるなら昨日会ったときに済ませているだろう。 となると、一体誰か。 もしや仕事の依頼があったのだろうか、と思ったそのとき、チャイムが鳴った。 マドレーヌは慌てて洗面所で口をゆすぐ。ネクタイを締めてブランシェを肩に乗せる と、階下の玄関へと急いだ。 ドアを開ける前にもう一度チャイムが鳴り響く。 音の余韻を聞きながら開けると、そこにはピサンリが立っていた。 「あ、キイト君。よかった、いたんですね」 こんにちは、と彼女は微笑んだ。 マドレーヌは意外な訪問客に少し呆けてから、慌てて微笑みを返す。 『いきなりどうした?』 「すみません。午前中に何度か電話を鳴らしたんですけど……寝てました?」 マドレーヌは気まずげに視線を泳がせた。誤魔化そうにも、電話を取っていない時 点で寝ていたのは明らかだろう。 苦笑すると、ピサンリは申し訳なさそうにした。 「ごめんなさい。せっかくのお休みだったのに」 『ううん。ピサンリも今日が休日だったんだね』 今日のピサンリはピンクのショートパンツにベージュのシフォンブラウスを合わせて いる。胸のリボンがとてもキュートで、全体的にアクティブなイメージながらもかわい らしさを備えていた。 仕事の時とは少し違う甘めのテイストが、プライベートであることを示している。 しかし、丈は違えど同じパンツスタイルで何故こうも差が出るのだろうか。マドレー ヌはひっそりと悩んだ。やはり胸の有る無しなのだろうか。いっそ詰め物をすれば良 いのか、とも思ったが、結局エルガレイオンが起こしてくれた騒動のおかげで女装に 目覚めたと思われることになりそうである。 同性であるので遠慮なく胸を見つめるマドレーヌに、ピサンリは小首を傾げた。 ハッ、として本題に入る。 『それで、何の用だ?』 「ええと……リオンさんから、おいしいカフェを教えてもらったんです。改装オープンし たばかりのところで。キイト君、一緒に行きませんか?」 ちらり、とマドレーヌはブランシェと視線を合わせる。 ――これは……。 ピサンリは休日をあらかじめ決めたスケジュール通りに過ごす人間だ。前日に相 談なく、こんなふうにいきなり誘いに来ることは少ない。 そうするときは必ず――何か相談したいことがあるときだ。 ――あぁ……何かあったんだなぁ……。 (だろうな) ブランシェの同意が、より真実味を帯びさせた。 普段のピサンリなら、午前中に連絡がつかなかった時点で諦めただろう。しかしこ うしてわざわざ訪ねてきてまで誘う、ということは、深刻だ。 ジルダ、との間に何かあったか。 できればそれが良いことであってほしいが、それにしてはピサンリの笑みに覇気 がない。 戦闘中は別として、彼女はプライベートではわかりやすい人だ。 ――これは、良くない方だよねぇ……。 ため息を吐きそうになるのを堪えて、マドレーヌは頷いた。 ピサンリはうれしそう、と言うよりも安堵した表情を浮かべる。その表情から察する に、よほど煮詰まっていたようだ。昨日会ったときはそんな様子はなかったのだが。 ――私が帰ってから、何かあったのかな? 返す返す、エルガレイオンが恨めしい。あの騒動さえなければ帰りにジルダと話す ことができたのに。 実際それができていたところで、ピサンリを落ち込ませるような何かを回避できた かと問われれば、微妙なところだ。つまり八つ当たりのようなものだった。 『5分時間をくれ。支度してくる』 「もっとゆっくりでいいですよ」 そう言う彼女に微笑んで、マドレーヌはドアを閉めた。 階段を上がって、ブランシェをひとまずリビングのテーブルに置いて、洗面台へ髪を 梳かしに向かう。ささっ、と梳いてしまいながら、前髪が長くなってきたなと改めて 思った。そろそろ目に入りそうだ。 切るのはまた今度でいいか、とものぐさなことを考えながらヘアブラシを洗面台に 置いて、リビングに戻った。 クローゼットからキャメル色のベルトを取り出して、腰に巻く。さらに後ろのポケット に財布を入れて、盗難防止にチェーンで繋いだ。あとはハンカチとポケットティッシュ を入れて、完璧だ。 年頃の少女にあるまじき簡単な身支度を終えると、今度はブランシェの身支度にと りかかる。同じくクローゼットにしまっている箱を取り出して、ブランシェが待つテーブ ルの上に置いた。 中にはブランシェの洋服のみならず、帽子や靴などの小物類も保管されている。 ブランシェも箱の中を覗いて、服を取り出した。 (これがいい) それは昨日、エルガレイオンがくれた服だ。 マドレーヌは却下、と告げた。 (何故だ。くれたのだからよいだろう) ――エルガレイオンにお披露目するまでは、おあずけ。 声音に不服そうなものが混じるブランシェに苦笑し、マドレーヌは彼女にエプロンド レスを選んだ。青い花柄の、いかにも少女趣味なデザインだ。 総じてマドレーヌがブランシェに選ぶ服はこのようなものが多く、おそらく無意識に 自分が本当は着たいものを反映させているのだろうと思う。ブランシェも嫌いではな いようだが、同じテイストだと飽きるのだろう。だから、いつもとは違うあの小悪魔的 なドレスを欲しがったわけだ。 ――これだって、ブランシェによく似合うから。 (うむ……まぁ、そうだな) 褒められると弱い精霊は、納得した。 ネグリジェからエプロンドレス一式を着させて、髪を梳いてやる。いつもどおりの完 璧な美がそこにあった。 ブランシェを抱きあげて、室内の戸締りを確認し、外へ出る。 予告通り5分で戻ったマドレーヌをピサンリが驚いた表情で見た。 「キイト君……本当に5分で済んじゃうなんて……」 瞬間、理解した。 ――あぁ……こういうところが女の子らしくないのかな……。 しかし身支度に時間がかけようがない。服は同じような物ばかり持っているからコ ーディネイトで悩む必要がないし、髪も短いから結う必要がないし、アクセサリーも持 っていないから飾る必要がない。化粧だって成人していないから、まだいいか、と思 ってしまう。きっと店の魔導師たちは、そういう気配を読んでいるのだ。 ――ということにしたい。 胸がない、だけで男だと思われるのは、あまりにも辛すぎる。 マドレーヌは曖昧に微笑んで、行こう、とピサンリを促した。 ******** マルダは書類上は町であるが、規模としては市、と呼んで差し支えないほどに広 い町である。住民数が市として数えるには足りていないが、貿易港でもあるために 住民ではない貿易商の人間が集まり、町には人が溢れているように見えるのだ。 ただ、人が集まれば貿易以外の店も繁盛する。宿泊施設や飲食店などだ。人間 である以上、食べて、寝なければ死んでしまう。そしてどうせそれを得られるなら質 の良いものが望まれる。 そんなわけで、マルダにある飲食店は激戦区の中で勝ち残る必要がある。おいし くなければすぐに潰れ、2週間後には別の店が入っている。 ピサンリがリオンに紹介してもらった店、というのはマルダの中でも海から離れた 場所に建っていた。どちらかと言えば山間に近い。 そこから海は見えないが、代わりに新緑を楽しむことはできる。休日ともなれば海 端に住む人間が、緑を求めてこちらの方に足を延ばすこともめずらしくはなかった。 ――懐かしいな。 海端に比べて建物が古めかしいから、という理由からではない。この近くには、マ ドレーヌが以前住んでいたアパートと、働いていた織物工場がある。 苦い記憶も心中に少し去来するが、働いていた織物工場への不満はない。子供 だからと言って侮らず、賃金をきちんと払ってくれていたので逆に感謝している。 ――みんな、元気かな……。 織物工場で働いていた人は女性が多く、子供だったマドレーヌに同情して優しくし てくれる人も多かった。それに彼女たちが連れてくる赤ちゃんや子供たちもかわいく て癒された。 もう、2年も会っていない。 「キイト君。こっちです」 ピサンリに呼ばれて改築したばかりのキレイな店内に入ると、店員が外と中の席、 どちらが良いか聞いてきた。外は通りに面したテラス席で人が多く座っており、中は 静かなテーブル席で、人は少なかった。快晴なので、外で食事をしたいという人の 方が大多数であるようだ。 ピサンリが問いかけるようにマドレーヌに小首を傾げる。マドレーヌはそれに微笑み で返した。どちらでもいいよ、と。 「それじゃあ……店内で」 案内された席につくと、ピサンリにメニューを渡された。 「メニュー、読めないところだけ読みますね」 『ありがとう』 彼女はマドレーヌが簡単な文字しか読めないことを知っている。なのでこうして一 緒にカフェを巡るときは、読めない個所を教えてくれるのだ。何度かそうしてもらって いると自然と字を覚えるので、この2年ほどでマドレーヌの識字能力は大幅にアップ した。カフェ巡りで覚えた言葉が主なので、食事のメニューばかりだったとしても。 だがこうした学習も、クロードはあまり良い顔をしない。識字能力の向上を禁止して いるほどだ。おそらくは本を読んだりして、よけいな知恵をつけるのを嫌っているのだ ろう。 ――禁止されるまでもなく、なかなか文章は読めないんだけれど……。 新聞どころか、絵本がやっと、というところだ。 目の前にあるメニュー表と険しい表情でにらめっこし、文字を読んでいく。 ピサンリはケーキのメニューを見ているが、マドレーヌはお昼を食べていないので 食事を頼むつもりだ。眉間にしわを寄せつつ、目に留まったのはピッツァだった。 ――ええと……きの……きの、こ?キノコ、の、ピッツァ。 頭をフル回転させて解読したので、もうこれにしよう、とマドレーヌは妥協した。これ と、炭酸水でいい。 顔を上げると、ピサンリは悩んでいるようだった。 『こちらは決まったぞ』 ゆっくり選んでいいから、と言う前に、ピサンリはハッとした表情で顔を上げて「じゃ あ、注文しちゃいましょう」とベルを鳴らした。 ――あれ?注文で悩んでたんじゃないのかな……? どうにも、ピサンリの様子がおかしい。 ピサンリは桃のロールケーキとカプチーノ、マドレーヌはピッツァと炭酸水を頼み、 店員が下がったところで、マドレーヌは話を切り出した。 『ピサンリ、ちょっと上の空だよね?』 ピサンリの肩が震える。 が、その表情は清々しいほどに微笑んでいた。 「そんなことないですよ?」 『さっきも何か悩んでたみたいだし……』 「メニューで悩んでたんです」 痺れを切らしたブランシェが口を挟んだ。 『嘘を言うでない。お前が唐突にカフェへ誘うのは悩みがあって、それを聞いてほし いときだ』 反論は認めない、といった強さの語気で言われ、ピサンリは俯く。 ――……これは、重症だなぁ……。 こうまで深刻だと、ますますジルダとの間に何かあったとしか考えられない。 マドレーヌはひっそりと、細いため息を吐いた。 そもそも、だ。 ピサンリとジルダは、元はそれはそれは仲の良い幼なじみで、恋人同士だった。 いつからそうだったのかは知らない。少なくとも、マドレーヌがピサンリと知り合った 2年前は、すでにジルダと付き合っていた。 しかも幼なじみだったものだから、親公認で、結婚の約束までしていたという。 ピサンリはジルダの不器用な優しさが好きだったようだし、ジルダはピサンリが己 の性格を理解していることに安心感を覚えていたようだ。 それが何故、関係が冷え込むことになったのか。 きっかけは、半年より前のこと。 ルシーダにおける女性の結婚適齢期は20〜25歳程度。女は男よりも精神年齢 が成熟するのが早い、と言われている通りかどうかは知らないが、結婚を意識しは じめたのはやはりピサンリが先であった。 結婚の約束、と言っても幼いころの口約束。付き合っていると言っても、ジルダに その気があるのかどうか確かめたくて、ピサンリはジルダに将来の風景――結婚し て夫婦になったあとのことを話しだしたと言う。 そこでジルダが1つでも、将来の展望を話せばよかったのかもしれない。 だが彼はピサンリの話を聞き流すだけだった。 10代の少年には、重い話であることは確かである。一概に彼を責めることはでき ない。 しかしピサンリもジルダから反応を貰えないことで焦りが生じた。もしや彼は、自分 との結婚を望んでいないのでは。ひいては、自分を好きではないのでは。 ピサンリは不安になった。 そしてジルダはその不安を理解できなかった。 ピサンリは不安に駆られ、ジルダに繰り返し尋ねるようになってしまった。「私のこ とが好き?本当に?」そう聞かれると、天の邪鬼のジルダは明言を避け、照れたよ うに誤魔化してしまう。 そうしてついに半年前、やってしまった。 「私のこと、好きじゃないの?」 しつこく問うピサンリに、彼の中の何かがキレた。 「お前、うざい」 失言は、本人もわかったらしい。ジルダも後になって、馬鹿だったと言っている。 だが、覆水盆に返らず。 ピサンリは冷えた表情になって「わかった。ごめんなさい。別れましょう」と言い、ジ ルダはそれを天の邪鬼故に止められなかった。 以降、ピサンリは激しい男嫌いとなった。ジルダはその噂を聞いて、やっと自分が 言った言葉の重さに気付いたらしいが、ピサンリに無視されるため、話しかけること もできない状態だ。 こと恋愛で難しいのは、そこに絶対悪がなかなか存在しないからだ。 不安になるピサンリの気持ちもわかるし、まだ5年以上も先の2人の展望を考える ように強要されて逃げたくなるジルダの気持ちもわかる。 どちらが良いということはないし、悪い、ということもないのだ。 伊達に恋と戦争の性質はまったく同じである、なんて名言が残っていない。 ――まいったなぁ……。 ジルダは今でもピサンリのことが好きだ。ピサンリもはっきりとは認めないが、まだ ジルダに思いを残している節はある。 ――素直になれば、前と同じに戻れるのに。 (人間とは面倒な生き物だ) まぁね、とマドレーヌは頷くよりない。 と、そこで注文の品が運ばれてきた。 「以上で、よろしいですか?」 マドレーヌが頷くと、店員は伝票を置いて下がった。 ピサンリのことが気になるが、黙っていても彼女が口を開く気配がないので、マド レーヌは先に食事を済ませてしまうことにした。 薄い生地にトマトソースとキノコとたっぷりのチーズが乗った、おいしそうなピッツァ だ。はらはらとふりかけられた緑深いパセリと刻まれたピーマンも色鮮やかで食欲を そそる。 食べてみると、トマトソースの酸味とキノコの甘み、それにチーズの塩気が絶妙な 塩梅だった。最後にピーマンの仄かな苦みが後味をすっきりさせてくれている。さす が改装オープンするだけの実力がある。 黙々と2切れほど食べたところで、やっとピサンリが薄く口を開いた。 「……キイト君は、ピーマン食べられるんですね」 小首を傾げたマドレーヌだが、とりあえず頷いた。食べるのにもカツカツだった時期 が長いので、食べ物の好き嫌いはほとんどない。 ピサンリはフォークで桃のロールケーキを切った。 「ジルダは、ピーマンが食べられないんですよ。別に、中ったとか、アレルギーって わけじゃないんです。お子ちゃま舌なだけなんです」 ―― 苦いのが、ダメなのかな。 しかしそれならバリスタとしてやっていけている意味がわからない。コーヒーでも苦 みが強い物は嫌い、とかそういう嗜好の偏りがあるのだろうか。 色々と想像しながら、炭酸水を口に含む。 「そんなジルダに、彼女ができたみたいです」 危うく、吹きだすところだった。 んぐぶっふ、という非常に奇怪な音を喉の奥から発し、マドレーヌは意思の力でそ れを水とともに呑み込んだ。鼻の奥が炭酸のせいでちょっと痛い。 ―― ジルダに、彼女!? そんな馬鹿な、である。 (ないな。あの男だぞ) そのニュアンスは割と酷い物であるが、マドレーヌも同意見だった。ジルダはピサ ンリに未練を残している。それでいて、別の女の子に目移りすることなんてできない くらい、不器用な男だ。そもそも器用で、女心がわかっていたらこんな事態に陥って なんかいない。 テーブルに置かれたブランシェが、訝しむ。 『姉妹ではないだろうな?』 「ジルダは男兄弟の二男坊です」 『従姉妹の類は?』 「従姉妹はいません。全員男です」 『友達は?』 「ジルダには女友達なんていないです。あの性格ですよ」 そうだ。異性には天の邪鬼なあの性格は、女友達を作りにくい体質だ。 納得してから、いや違う、とマドレーヌはセルフツッコミする。それに納得している場 合ではない。 ――ピサンリがこう言ってるんだから、ピサンリの知り合いの線は消えた……。 何せ幼なじみだ。こういうところまで把握しているのだから、時と場合によってはそ れが良いのか悪いのか分からなくなってくる。 姉妹ではない。従姉妹でもない。友達でもない。となると、確かに彼女の可能性が 高くなってくる。 だがマドレーヌはそんなこと信じられない。 昨日だって彼はピサンリの様子を見てきてくれ、と言ったのだ。ピサンリを気にして いた。どう見てもあれは未練たらたらな者の行為だろう。 他の女性に心が移ったとして、彼がそんなことをするとは思えなかった。それなら それで、ピサンリのことはすっぱりと諦める。ジルダは二股をかけるような不誠実な 男ではない。 ――あー、よくわかんない! マドレーヌは唸るが、ブランシェは呆れてため息を吐いた。 『お前……あの男に恋人ができると思っておるのか?』 あまりにもな言葉だ。だが、充分な説得力を持っている。 ピサンリも天の邪鬼な性格を思い出して詰まったが、すぐに反論する。 「だって、知らない女の人と楽しそうに街を歩いてました!私より年上でキレイで、オ シャレで、か弱そうで……」 しかし反論はすぐに尻窄みとなった。挙句、言葉が途切れてしまう。 『……ピサンリ、何かの間違いだよ。ジルダのことが好きなら、本人に……』 「好きじゃないです」 本当に好きじゃないなら、ジルダに彼女ができようがなんだろうが、気にしないは ずだろうに。もはや意固地である。 マドレーヌは自分の力不足を深く感じた。何せ自分自身が恋の経験などないのだ から仕方ない。 <お前を愛する者がいるなどと思うな> クロードの声が、脳の芯でエコーする。言葉が脳みそ全体に染みいる感覚がした。 ――私には、いない。 愛してくれる人なんて。恋してくれる人なんて。 マドレーヌ自身もしてはいけない。どうせこの身はクロードが選んだ男のもとへ行く のだから、好んで辛い思いをすることもない。 とどのつまり、マドレーヌは諦めてしまっているのだ。 だから歯がゆい。 素直になるだけで、ジルダとピサンリは不自由なく好きな人と幸せになれるのに。 複雑な表情をマドレーヌは浮かべたが、ピサンリはそれに気付かなかった。 宣言をするのに必死で。 「私……だって私……好きな人できたんです!」 唐突なピサンリの告白に、目が点になった。 3秒ほど微動だにせず、それからマドレーヌは動揺して何故か炭酸水をピッツァに かけようとしてしまった。間一髪で助かったが、危うくぴちゃぴちゃピッツァを食べるハ メになるところだった。 ――え、好きな人って、え?好きな人!? ブランシェが胡乱げに問う。 『お前まさか……当てつけか?』 「違います!ずっと……ずっと好きかもって思ってたんですけど、最近気付いたんで す!私は恋してます!」 『言い聞かせているように聞こえるが』 「違いますっ!本当に、本当に恋なんです!」 『じゃあ、誰にだ。誰に恋した?』 「オーナーに!」 幻聴かと疑った。 『……誰に、だと?』 「オーナーです」 幻聴じゃなかった。マドレーヌは頭を抱えた。 ――確かに。確かに、オーナーは素敵だけど! ヴァンが男性として魅力的に思う面をいくつも備えているのは、疑う余地もない。顔 だけじゃなく、余裕のある立ち振る舞いや気遣い、デリカシーなど、すべてが総合的 に素晴らしい。顔がいいだけでは女性がメロメロになるような男性にならないことは、 昨日エルガレイオンが実証済みである。 ヴァンはすべてを備えている。が、備えているが故に、プレイボーイなのだ。 いくつも浮き名を流しておきながら、本命の話は一切出てこない。あまりにもないも のだから、若いころに理想の女性と知り合ったものの、その女性に先立たれてしま ったから独身を貫き通すつもりなのだとか、色々と憶測が流れている。 逆に言えば、そんな噂が流れるくらい、彼は結婚する気配がない。 だからヴァンが声をかけるのはお遊びのデートのお誘いで、相手の女性たちもそれ を楽しむ女性が多い。10代の少女からすれば想像だにできない、大人の世界だ。 ―― それでトラブルがないんだから、本当にオーナーはすごいんだけど……。 ヴァンは女性と本気で付き合う気がない。 対してピサンリは、遊びの恋を楽しめる性質じゃない。 相性は付き合ってみるまでもなく、最悪のように思われる。 (まぁ、それはヴァンの方がわかっておるだろう) 恋愛において百戦錬磨だ。ピサンリがどういう恋愛を望むのかわからぬのなら、プ レイボーイではない。 ふぅ、とブランシェが頭を振った。 『言っておくが、ヴァンは女なら誰にでも優しいぞ』 「そんなの知ってます。でも、でも、ジルダは気付いてくれなかったアクセサリーとか に気付いてくれるし、かわいいね、って褒めてくれるし、剣が使えるからって暴力女 扱いせずお姫様みたいに扱ってくれるし、優しいし、大人の余裕があるし、すっごく 素敵じゃないですか」 ――うぅ……見事にジルダがしていなかったことを……。 「それに少なくとも『好きですか?』って聞いたら『うざい』って言うような返事をする人 じゃないです!」 つまり、ピサンリは次の恋の相手にジルダがまるで持っていなかった要素を持って いる男性を選んでしまった、らしい。 ――あぁもう、ジルダの馬鹿っ!なんで疑われちゃうようなことしたのかな!? 今すぐ『トラゴス』に行って、カウンターに立っているだろうジルダの胸元を掴んでが っくんがっくん揺らしてやりたい。 ――でも、ピサンリは本当にオーナーが好きなのかな……? マドレーヌはピサンリを盗み見た。 「やっぱりこれから恋するなら、年上の男性です」 穏やかに、微笑んでいる。それに小首を傾げた。 ジルダと付き合っていたときと比べると、どうにも地に足がついていない気がする。 それは恋で浮かれている、のではなく、気持ちが定まっていないという印象だ。 (……そうだな) ブランシェの紫がかった赤い瞳が、ピサンリを射抜いた。 『本気ならば止めはせんが、つまらん意地を張っておるだけなら止めておけ』 「意地なんて」 ブランシェは手を上げて、彼女の言葉を制す。 『人の一生など、星の瞬きと同じくらい脆弱で儚いものだ。意地を張っておる間に、 相手などあっという間に死んでしまう』 「それは……」 『――手が届く場所に居て、手を伸ばさないというのも滑稽な話だ』 ピサンリはうなだれた。 マドレーヌも思いがけず、と胸を突かれた。 ブランシェにとって、人間の命とはそういうものなのだ。それはきっと、マドレーヌ自 身も例外ではない。むしろマドレーヌの命こそブランシェにとっては星の瞬きなのかも しれない。 どんなに大切に思っても、マドレーヌはブランシェをいつか置いて逝く。 ブランシェがマドレーヌを置いて逝くことはない。 こういうとき、ブランシェが精霊なのだとつくづく思い知らされるのだ。 「……そうですね」 うなだれていたピサンリが、つぶやく。 「私、意地を張っているのかもしれません」 マドレーヌは目を丸くした。 今まで一切、そんなことを認めなかったピサンリが、認めた。 心境の変化があったのかと期待したが、彼女は疲れた表情を浮かべていた。 「でもそれは彼女なんだからジルダの性格を理解しようって、しなきゃいけないって、 意地を張ってたということなんです。あのとき『うざい』って言われた瞬間、怒りの中 に安堵する気持ちが確かにあったんです。『あ、もう私頑張らなくていいんだ』って。 そうしたら心の中の何かが切れてしまって。疲れてしまって……」 覇気のない笑みが、痛ましかった。 「天の邪鬼な言葉を言われる度に、その裏にある言葉を探して、心を理解する作業 がとても重荷だったんです。それに好きだ、って最後に言ってくれたのは7歳のとき です。そんな小さなころの言葉を信じ続けられるほど、幼くあれなかった。きっかけを どこかで探していただけで、ずっと疲れていたんです」 疲れた。その一言が心に重くのしかかる。 それは彼女の心情を的確に表した言葉だ、とマドレーヌは今気付いた。確かにジ ルダと付き合っていた彼女は、常に頑張っていた。 天の邪鬼な言葉をかけられても、笑って流して、意図を理解していた。だがそれは 気質ではなくて努力だったのだ。努力していればいずれ疲労が溜まる。 身体ではなく、心に。 「きっと相性が悪かったんですよ、私とジルダは。幼なじみだったからここまで上手く やってこれただけで……。全くの他人として出会っていれば、付き合うこともなかっ たんじゃないですかね」 マドレーヌは何も言えなかった。 代わりに脳裏に、仲睦まじい2人の様子が思い浮かぶ。 「私、もう……疲れない人といたいんです」 ――憧れだった。 恋をしたことがないマドレーヌからすれば、ピサンリとジルダが付き合っている様子 はショーウィンドウの宝石のように美しく、手に届かない神聖なものだった。 自分が生涯かけてもできないことをやっているその姿が、尊く思えた。 だから壊れませんように、と願っていた。 マドレーヌは自嘲した。ずいぶんと身勝手な願いだ。 ――でももうこれは、どうしようもない……。 今まではわずかながらもピサンリの心にジルダへの未練が見えていたから、2人 の仲を取り持とうとしていた。けれど、こうなれば話は別だ。 元々はマドレーヌはピサンリの友人だ。だから彼女がジルダとの恋に疲れ、関係を 切ってしまいたいと思うならそれを支援する。 世の中には成就しない恋だってある。 マドレーヌはそれを――誰よりも知っているのだ。 肩を落とすマドレーヌに、ブランシェがやれやれと頭を振る。 (だから最初に言っただろう。無駄だと) ――うん……。 彼女たちの仲がこじれ、その仲裁に入ろうとしたマドレーヌにブランシェはきっぱり と言い切った。『無駄だ』と。 (すれ違った者を引き合わせるには、第三者の努力ではなく当人たちの努力が必要 なのだ。それが、一方は努力を放棄し、もう一方は努力する一歩すら踏み出せない でいる。時間の無駄だし、こうなることは見えていた) マドレーヌは、無駄だと思わなかったのだ。きっといつか、2人はわかりあえるとき がくる。それには時間が必要なだけ。そう思っていた。 しかし時間は失われた。 マドレーヌにできることは、もうないのだろう。 ―― ジルダに、報告しないと。 ピサンリが望まぬ以上、もう協力はできないと。 落ち込むその姿を想像するだけで、心模様は外の快晴と真逆になった。 |