夏の太陽は沈むのが遅い。それはルシーダの太陽も同じで、マドレーヌは夕方に なってもまだ水平線の上にある太陽を見つめた。 沈まずにある、と言っても太陽の色は変わりつつある。真昼の白い色ではなく、か といって暮れる前の燃えるようなオレンジでもない。あたたかな黄色だった。 マドレーヌは桟橋の上で、上半身の水滴をタオルで拭った。長く海につかっていた ので身体は冷えていたが、頭の中はすっきりしている。 ――大丈夫。 ブランシェを前にして、微笑むことができる。 ぎゅ、と決意するようにタオルを握ってから、桟橋の上に放っていたシャツを拾い上 げて着た。それがあるだけでも肌が少しあたたまる。それからネクタイを締めて、タ オルを首にかけたままアパートへ戻りはじめた。 ―― そろそろ2人が帰ってくるはず……。 まだ1時間にはなっていないはずだが、ブランシェが心配して早めに散歩をきりあ げる可能性がある。もう戻って、待っていなければ。 防災林を抜けると、アパートの前に人影があった。 一瞬ぎくりとしたが、それがエルガレイオンであることがわかって、わずかにもあの 男が戻ってきたのではないか、と怯えた自分に苦笑する。 エルガレイオンはこちらに背を向けていたので、マドレーヌに気付いたのは気配に 敏いブランシェが先だった。 『キイト』 マドレーヌは微笑んだ。 ――ただいま。 ブランシェの声につられて、エルガレイオンがこちらを振り返る。彼は人形服店の 紙袋を提げていた。 エルガレイオンに近寄ると、ブランシェは彼の肩からひょい、とマドレーヌの肩に飛 び移る。髪から水が滴らないほどに乾かしておいてよかった、と思った。球体関節人 形はデリケートだ。ブランシェは気にしないが、マドレーヌは彼女の身体にあまり海 水を触れさせたくなかった。 (大丈夫か?) ――うん。大丈夫。 (あの男……) 普段は淡々としているブランシェの声に、苛立ちが混じる。彼女のこんな声を聞く のはめずらしいことだ。 マドレーヌはもう一度大丈夫、と告げた。 ――いつも通り、生活費を渡しに来ただけだよ。 苛立つブランシェを宥めて、マドレーヌはエルガレイオンに彼女を預かっていてもら ったことへの感謝を述べようと、顔を上げた。 エルガレイオンは何故か度肝を抜かれた様子で、突っ立っていた。 ――ど、どうしたんだろう? 小首を傾げると、ブランシェが呆れて首を横に振る。 『だから愚か者め、と言ったであろう』 彼はブランシェの言葉でようやく我に返り、おもむろに顔を背けた。 ますます首を傾げるマドレーヌの前で、エルガレイオンは唸る。 「あー……えっと、ごめん、キイト。わざとじゃなかったんだ」 そう謝られても、マドレーヌには何のことを言われているのかわからない。 ブランシェは今度はマドレーヌに呆れて、ため息を吐いた。 (自分の格好を思い出してみろ) ――あ。 間抜けなことに、それでやっとエルガレイオンが何について謝っているのかを理解 した。 「その、女の子だと思わなかった……」 なるほど、確かに女性用水着を着ていれば性別を間違えようもないだろう。 マドレーヌは苦笑した。この場合、女の子だと思わなかった、と言うエルガレイオン が酷いのか、こうまでしなければ女だと気付いてもらえない自分が酷いのか。 マドレーヌが気にしないで、というふうに手を振ると、彼は唸りながら彼女に視線を 戻した。海の色をした瞳は明らかに狼狽していた。 「ブランシェも、もっとわかりやすく言ってくれればいいのに……」 恨みがましそうな声音を、ブランシェはにべなく切り捨てた。 『盲目な輩に教えることは何一つない』 「あー……」 彼はやわらかそうな髪をぐしゃり、と乱す。 言っても信じなかったくせに、とブランシェに言われ、それを否定しないとなるとや はり言っても信じてもらえなかったのか、とマドレーヌは改めて思い知った。 ――あれ?謝られてるのに、なんかすごく胸が痛い。 おそらく、確実に、エルガレイオンは謝り方を間違えている。マドレーヌだから何も 言われずにすんでいるが、これが他の女性であれば怒りの炎に薪をくべ、油もリット ル単位で注いでいると思うので、刺されても文句を言えないはずだ。 もうこの話は切り上げたいな、とマドレーヌは思った。触れれば触れるほど、自分 にダメージを負うだけのような気がする。 それよりもその紙袋は何?とブランシェに言葉を告げる前に、エルガレイオンが口 を開く。 「まぁ、その、今までのことは色々と……」 青い瞳がマドレーヌのコスモス色の瞳、でなく、さらに遥か下の足を見た。 「ごちそうさまです!」 稲光がした。 「いってぇっ!絶対焦げた!何てことするんだブランシェ!」 『それはこちらの台詞だ馬鹿者め。ある意味素直で感心はするがな』 「いやその、つい口が……止めてキイト!本当ごめん!謝るからそんな500メートル 先の字を読むような目で俺を見つつ、冷静にタオルを腰に巻くのを止めてください、 すみません!職業柄、女の子と触れ合う機会がないからついその細くて美しいおみ 足に視線がいっちゃっただけなんです!」 大丈夫、わかっているつもりだ。エルガレイオンの必死の弁解に、マドレーヌは生 温い笑みを返しながら頷いた。ただしぎゅ、とタオルの端を念入りにしばりながら。 魔術師はともかくとして、魔導師になるのは男性が圧倒的に多い。それは性差別 ではなく、自然の摂理なのだ。 男女で筋肉量が違うように、魔力の量も男女で差がある。一般的には男性の方が 高いので、どうしても魔力の高さを求められる魔導師に向くのは男性が多くなる。だ から彼が女性と触れ合う機会が少ない、と言ったのは事実だ。 事実だが、それだけだ。何の言いわけにもならない。 (見たか、マドレーヌ。女とわかった途端これだ。ピサンリの主張もあながち間違いで はないな) あの愛らしい少女の言葉が蘇る。曰く「男は狼です。信じちゃだめです」とのことだ ったが、マドレーヌはあまり本気にしていなかった。ヴァンはプレイボーイだが見境が ないわけではないし、ジルダも狼というよりは迷える子羊である。 ――あの2人が特殊だったのか……。 マドレーヌは認識を改めた。これからはピサンリの言葉を信じることにしよう。 ――でも、この人本当に……。 残念な人だな、と思った。この顔で、魔導師であるのなら、いくら女性と触れ合う機 会がないと言っても、向こうの方から寄ってくるだろうに。おそらく彼が本人の言う通 り女性と縁遠いのであるなら、それはエルガレイオンに問題がある、と思う。思った ことをすぐ口にするわ、怒りの炎に油を注ぐわ、稀に見る残念っぷりだ。 改めてヴァンがプレイボーイであるのは格好良いから、というシンプルな理由では なく、様々な理由からなのだと知った。プレイボーイとは、真に複雑にできている。 生温い視線を向けられて困窮したエルガレイオンは咳払いをして、提げていた紙 袋をマドレーヌに渡した。 「あのさ、これ、ブランシェに。よかったら着せてあげて」 ――着せて? 嫌な予感がして、紙袋の中を見ると服が入っていた。 ラベンダー色のエンパイアラインのドレスで、襟には黒いレースが沿うように縫いつ けられている。切り返しの部分には同じく黒のサテンリボンがあしらわれ、全体的に どこか妖艶な雰囲気が漂うドレスだが、ヘッドドレスもセットになっており、デザイン が甘めなので、妖婦と言うよりは小悪魔的な印象だ。 マドレーヌは、確信を持って言えた。 この服、セールじゃない水着と同じくらいの値段だ。何故わかるかというと、これは 前々からブランシェが欲しがっていた服なのだ。さすがにこれにポン、と出せるような お金はなかったので諦めてもらっていたのだが、何故、今、手元にあるのか。 顔を上げると、エルガレイオンは天使の笑みを浮かべていた。 当然のごとくそれから視線を逸らし、ブランシェに問うことにする。 ――ブランシェ!どういうこと!? (好きな服を買ってくれると言うのでな) 魔導師に服を貢がせる精霊って。むしろ、精霊に服を貢ぐ魔導師の方がおかしい のか。 いずれにしろ、知り合ったばかりの人からこんな高価なものは受け取れない。 マドレーヌが首を激しく横に振りながら袋を返そうとすると、エルガレイオンの表情 が曇った。 「な、何で?気に入らなかった?」 気に入らないも何も、出会ったばかりの人間からこんな高価なものを贈られたら 恐くなるのは、自然なことだろう。マドレーヌ自身が絶世の美女で、男性からの贈り 物など日常茶飯事である、というのならともかく。 (良いではないか。貧乏人からむしり取ったわけじゃあるまいし) ―― そういう問題じゃないでしょう。 精霊であるブランシェにこれ以上言ってもわかってもらえない、ので、マドレーヌは 期待をエルガレイオンに向けたのだが、こちらもわかっていないようだった。 「あっ、ネックレスをつけなかったから?」 そんなものがついていなかったからと言って、贈り物を返すような酷い女に見える のだろうか、自分は。マドレーヌは少しショックだった。 『そうでなく、高価な服を貰うことに抵抗があるそうだ』 「そんなこと気にしなくていいよ、俺が好きで買ったんだし。何かしてくれるって言うな ら、今度それを着たブランシェを写真に撮らせてほしいな」 『そんなことか。別に構わんぞ』 眩暈がした。 ――魔導師の金銭感覚はおかしい、ってのは聞いたことあるけど……。 よもやここまでとは思わなかった。マドレーヌは空を仰いだ。 魔術師よりも魔導師は傭兵色が強くなるので、自身の装備を絶対にケチらない。 質の悪い装備は死に直結する、と彼らは知っているのだ。だから依頼で稼いだ決し て安くはないお金を高額な魔道具につぎこむので、そのうちに金銭感覚と言う物が マヒしてくるらしい。 ――これ、絶対気付いてないよね……。 贈り物と報酬の天秤の釣り合いが取れていないことに。 どう言えばわかってくれるのか悩んで、悩んで、無理であると結論付けた。最初に 感じた通り、彼はマドレーヌの手に負えない。 ――うん。ブランシェへの贈り物だと、強く思おう。 それでもこのまま帰すのは忍びなくて、マドレーヌはブランシェの声を使って彼に 告げた。 『うむ?おい、少しここで待っておれ』 「うん?」 小首を傾げるエルガレイオンを置いて、マドレーヌはアパートの部屋に戻った。 リビングテーブルに紙袋を置いて廊下に戻り、階段の右手側にある仕事部屋へ向 かう。 白樺のフローリングに足を踏み入れる前に、靴を脱いだ。マドレーヌはここに土足 で上がらないようにしている。それは万が一にも布を汚したくない、という思いから だった。 仕事部屋の窓は東向きなので太陽の光が入らず、部屋の中は薄暗かった。マドレ ーヌは入口付近のスイッチを押して、部屋に灯りをともした。 部屋の広さはリビングよりも少し狭いくらいだ。というのも、本来ならここは寝室に 充てるべき部屋である。そこを無理矢理仕事部屋にしているので、いささか窮屈な 感は否めない。機織り機を置き、糸や布を保管しておく戸棚を壁一面に設置して、仮 眠用のソファも詰め込んでいるので当然だ。ベッドを置こうかと思ったが、さすがにス ペースが取れなかったのでソファになった。 では当のベッドの行方は、というとリビングに鎮座している。しかしこのベッド、ここ に住んで2年になるがほとんど使用していない。使っているのは専ら仮眠用ソファば かりである。買ったのは無駄だったかもしれない、と最近後悔している。 (どうする気だ?) マドレーヌは引き出しを開けて、布地を取り出した。グレーチェックの、リネンシルク 生地2メートル分。これはオーダーがキャンセルとなって、商品として出せなくなった ものだ。だが品質としては職人として太鼓判を押せる。 このまま『ジャスミン』の棚に並んでも遜色ない品だが、生憎柄ものの生地は汎用 性が低くて売れにくい傾向にある。なので、お蔵入りとなったものだ。 彼女はそれを、適当な紙袋に詰めた。魔法布はマドレーヌの元にあっても、価値が ない。魔道具は使える者の手にあってこそ価値が生まれるのだ。 ――きっと、エルガレイオンなら使い方を考えてくれるはず。 (なるほどな) 魔法布を手に、マドレーヌは再び外に戻った。 『エルガレイオン。これはキイトからの礼だ』 袋の中身を見たエルガレイオンは目を丸くした。 「……魔法布!?」 『キイトの布だぞ。ただの布地なわけがないだろう』 「えっ、うん、わかってるけど、えっ、マジで?これ、貰っていいの?」 『礼だと言っただろう』 「……俺、キイトの布の値段知ってるけど、本当に貰っていいの?」 ――この人、人形服はポンと買っちゃうのに、なんで魔法布の値段には怯えてる んだろう。 恐る恐る尋ねながらも、しっかりと布地を胸に抱く彼の姿に、笑いが堪えきれなく なった。ふふ、とマドレーヌは声なく笑う。 ブランシェも呆れたようにため息を吐いた。 『お前、魔導師だろう。その布がうれしくないのか』 「いや、めっちゃうれしいよ!?うれしいし、価値をわかってるからこそ貰っていいの か悩むんだよ。キイトの布地はこれからのトレンドになるだろうしなぁ……」 マドレーヌが小首を傾げると、彼はあぁ、そうか、と補足した。 「基本的に魔導師間での噂だもんな。あのな、とある有名な魔導師がキイトの布地 を愛用してる、って話が広まったから布地への信頼が跳ね上がって、これから免許 持ち魔導師がこぞってキイトの布地を欲しがるだろうって言われてるんだよ」 『あぁ、あの呪いを封印したとか言う……」 「そうそう。その魔導師が使って壊れない魔道具なら、この世の誰が使っても壊れな いっていう証明になるから」 『1人の人間に、えらく偏った信頼を置くのだな』 「……魔導師免許テストではさ、一応魔力の数値も検査するわけだ。その数値はテ ストに関係なく、記録としてつけられるだけなんだけどね。で、その魔導師が叩きだ したのは歴代最高数値で、たぶん5世紀は記録を塗り替えられることがないって言 われてる」 知らない、ということは平和なことだ。マドレーヌは心底思った。自分はいつのまに そんな有能な人へ布を織っていたのだろう。 「そういう魔導師が愛用してる布地なんだから、耐久性は折り紙つきだ。他の魔導 師だって欲しがるってのが道理だろ?特に免許持ちな」 『そうであろうな』 「うん。だから俺、お金とか払わず貰っちゃっていいもんなのかな……って。これ、今 からでも店頭に並べたら売れると思うけど」 心配そうな彼に、マドレーヌは微笑んだ。 そんなこと気にしなくてもいいものを。この布地はヴァンとも話し合って、お蔵入りす ることに決めたものだから、もうどう扱おうとも文句を言われない。 職人としては自分の腕を安売りするべきではない、と言われるかもしれないが、現 在のレートでは布地とブランシェの服は等価である。それに感謝の気持ちを示すの に、特に魔法関係者相手ならばやはり自分が織った布以上に感謝が伝わる品もな いと思う。 だから、いいのだ。 『チェック柄は嫌い?』 きょとんとした彼は、慌てて首を横に振った。布地を抱きしめて。 「いや、めっちゃ好きだけどさ!人形服とか、気付いたら一時期チェック柄ばっかにな ってたことがあって、しばらく自重したくらい好きだけど!」 その様子がおかしくて、笑いが止められなくなった。 彼はおかしな魔導師だ。 普通の魔導師ならマドレーヌにはわからないような魔法のことばかり話すのに、彼 は魔法ではなく球体関節人形について熱弁する。それにあの男のように美しい顔立 ちをしているのに、それを以ってしても補えない失言や行動をしてしまう。 だがそれが、不思議と心地よかった。 きっと、魔導師らしい魔導師では今も緊張していた。完璧な立ち振る舞いを見せら れていたら、圧倒されていた。 人形について熱弁したり、失態を犯したりしてくれるからこそ、エルガレイオンはあ の男と違って、自分と近い『人間』なのだと認識できるのだ。 『どうぞ、もらって』 マドレーヌはブランシェの声を借りて言う。 『私が持っていても、余すだけのものだから。貴方のような魔導師に使ってもらった 方が、織った甲斐があるの』 「……そっか」 彼は爽やかな微笑を浮かべた。 「ありがとうな。大事に使うよ」 ――この人は、あの人とは違う。 美しい笑みを見ても、マドレーヌに畏縮する気持ちはもうなかった。 ******** “シャール自動車はレラルド自動車を吸収合併し、これにより国内自動車企業シェア ナンバー1となりました。この動きは近代交通手段の革命的な分野として発達しつ つある自動車業界を活性化させ、同時にシャール財閥のクロード――” ブツ、と音を立ててラジオの音が消える。 キッチンにて干しブドウを袋から皿に移していたマドレーヌが顔を上げると、ブラン シェがテーブルの上に置いたラジオの電源を切ってしまったところだった。 ――ニュースを聞いていたのに。 苦笑すると、ブランシェはふん、と鼻を鳴らした。 (あの男の名など、聞きたくもない) ―― それじゃあ、ニュースを聞けなくなっちゃうよ。 そう言って、マドレーヌは改めてあの男の存在の大きさを思い知った。そうだ、あの 男――クロード・シャールの影響力をニュースで知らぬ日などない。 マドレーヌは新聞を読めるだけの識字能力を持ち合わせていないので本当かどう かは知らないが、新聞でもその名を見ぬ日はないと言う。 クロード・シャール。 シャール財閥の当主。 ワークネームを持たぬ魔術師。 そして――。 (あの男が魔術の知識など持っていなければ、消し炭にしてやったものを……) バチっ、と彼女の上で灰色の稲妻が走った。焦げ臭くはないので、幸いどの家具 にも雷は落ちなかったらしい。 マドレーヌは干しぶどうが乗った皿を手に、ダイニングテーブルに歩みよった。 皿をテーブルに置いて、3粒ほどブドウを口に入れる。香りは失われているが、甘く て、味が凝縮されている良い干しブドウだ。 (マドレーヌ。自分のことだぞ。お前はもっと怒りを持て) ――仕方ないことなんだよ、ブランシェ。私にはその資格がないもの。 言い含めるように目を細め、マドレーヌはブランシェを肩に乗せてベランダに出た。 このアパートのベランダからは海が眺望できる。潮気の強い風を浴びながら、ブラ ンシェをベランダの手すりに置いて、風景を眺める。 入った者を取り込んでしまいそうな荘厳な黒い海と、ほんのりと白く輝く月のコント ラストが美しい。この微妙な色合いのコントラストを布で再現できたなら、どれだけ喜 ばしいことか。 いつかできるだろうか。無理かもしれない。マドレーヌには未来が見えない。 明確に訪れる先の時間、という意味ではなく、将来への展望が見えないのだ。 倦んだような、惰気したような、そんな鉛のような気持ちがマドレーヌの心にへばり ついて離れない。 ――仕方ない。 マドレーヌの人生は、クロードが握っている。 異母兄の、クロードが。 (人の運命を、人が握れるものか) ―― そうかな? (そうだ) ブランシェはいつも正しい。 だけどクロードが握っているのは運命ではなく、人生だ。 人の生死は、人生は、人が握れる。そういうものだ。 まぶたを閉じて喉を撫でると、クロードの言葉を思い出した。 <お前は母親によく似ているから信用ならん> 彼がマドレーヌとその母を毛嫌いしているのは、仕方ない。 マドレーヌの母親は月下美人がよく似合い、その花言葉の通り、儚く美しい女性 だった。 長く艶やかな黒髪をゆるくみつあみにして、薄紫色の瞳で遠くを見つめることが誰 よりも絵になる美人。実の子でありながら、マドレーヌの母に対する印象は、そういう 他人行儀なものしかない。 そして、母は過ちを犯した罪人であった。 すべての過ちはきっと、マドレーヌの母がシャール家のメイドとして働きはじめたこ とだったのだろう。 見目麗しかった母は、当時の当主――クロードとマドレーヌの父に見初められ、恋 愛関係を築いてしまった。そのとき父にはすでに妻とクロードがいたと言うのに。 当然それを父の家族や親族が許すはずがない。彼らはマドレーヌの母がその美貌 で当主をたぶらかした、と言って家から叩きだした。 仕方ないことだ、とマドレーヌは思う。これは母と、そして父も悪い。恋は罪悪では ないが、恋をすることが罪悪になる環境というものは確かに存在するのだから。 本当に愛し合っていたのであれば、母は身を引くべきだったし、父はけじめをつけ るべきだった。 叩きだされた後の母は、散々な生活を送るハメになったようだ。当主との不倫関係 がわかった時点で、自分の両親や親族からは縁を切られ、仕事も二度とメイドはで きなかった。相手はシャール財閥だ、きっと裏から手が回されたのだろう。 これも罰であり、あまんじて受け入れるべきだとマドレーヌは思っている。母が壊し た家庭というものは、大きかったのだから。 そうしてお針子の仕事をなんとか得たとき、マドレーヌを身ごもっていることがわか ったのだと言う。相手は父以外考えられなかった。 母は、産み育てることを決意した。彼女はなおも父のことを愛していた。 だが孤立無援の状態での育児に、母はどんどん追い詰められ、ノイローゼ気味に なり、マドレーヌが物心ついたときには現実を見なくなっていた。 体調を崩し、ベッドに寝たきりになった母はマドレーヌを見て、「愛しい貴方」と父と の思い出を懐かしげに語るようになった。初めて会ったときのこと、プレゼントされた もの、愛の言葉、追い出されてからの苦悩。 それはマドレーヌに聞かせる口調などではなく、一緒に思い出を共有し合おうとし ている口調だった。 母の瞳にはマドレーヌが映っているのではなく、父が映っていたのだ。マドレーヌ の名など一度も呼んでくれたことがない。 だからマドレーヌは自身の名を7歳になるまで知らなかった。 否、正確に言えば、母が自分になんと名付けたのかは今も知らない。 7歳になり、自分が働けばもう少し生活が楽になる、と気付いたマドレーヌは近所 の織物工場に雇ってください、と頼み込みに行った。雇うためには書類に名前のサ インが必要だ、と言われ、マドレーヌは困り果てた。自分に名前というものがあること すら知らなかったのだ。 学校なんて当然通っておらず、今以上に学のなかったマドレーヌは、書類をもらっ た帰り道で良い香りのするお菓子を見た。あんまりにおいしそうだったから、マドレー ヌはそのお菓子の名前のスペルを書類に書いて自分の名前とした。 母に書類を見せると彼女は名前については特に何も言わず、「貴方と過ごしたカメ リアの庭が忘れられないの」と思い出を言いながら保護者欄にサインをした。 それで、終わりだった。 自分を見てくれない母に寂しさを覚えた記憶はない。きっと、記憶として残る前から その状態が当たり前だったのだろう。 母に対する感情が他人行儀だったのは、確実にそのせいだ。 ただただ一緒に住んでいた人。そんな程度の気持ちしか持てない。 だから働きだして翌年、花が枯れるように死んでしまった母を悼みはすれど、悲し くて涙がこぼれるなんてことはなかった。 それよりも、自分が生きることに必死だった。 母がいなくなった分だけ、自分のために働いた。織物は性にあっていたらしく、長 時間働いても嫌にはならなかった。 黙々と働き、つつましい生活を続けた。 色のない人生を歩んでいたと思う。 それでもきっといつかは、街で見かける人々のように愛する人を作り、恋人になっ て、結婚して、家庭を作るのだと思っていたし、渇望していた。 それが一部でも叶ったのは、15歳になった年のことだ。 ある日マドレーヌの前に、それまで会ったことのなかった父が現れた。 妻が――正妻が3か月前に亡くなって、弔いが済んだ。これでやっとお前に親らし いことをしてやれる。 そう言って彼は、細く枯れたような身体を折って、マドレーヌに頭を下げた。 すまない。すまない。今まで苦労をかけたな。お前の母親の葬式にも出れなかっ た。私が憎いだろう。だが私はお前を愛している。どうか償いをさせてくれ。 その頃には父がどういう人物なのかわかっていた。シャール財閥の当主が頭を下 げて小娘に詫びる姿は滑稽と評する以外ないことも、わかっていた。 彼は自分と関わるべき人物ではない。 妻が亡くなったとしても、父にはまだ家族がいる。息子であるクロードがいるのだ。 クロードから父を奪ってはいけない。厚顔無恥な真似はしたくない。 顔も見たくない、二度と前に現れないで。そう伝えるべきだった。 わかっていたのに『愛している』という言葉に、どうしようもなく惹かれた。 それをうれしい、と思った時点で、マドレーヌは本当は母に愛情を求めていたことを 知った。 あの瞳はマドレーヌに向けられていても、マドレーヌを見ていなかった。いつだって 愛しい人しか見ていなかった。母にとって自分は愛しい子ではなかったのだ。 知っていて理解を拒んでいたのは、やはりマドレーヌなりに母を愛していたからだ。 世間では最低な母親だと評されるだろう。それがわからぬほど、子供ではない。 でもあの儚さが美しかった。 愛しかった。 一度でいいから『マドレーヌ』と呼んで、慈愛に溢れた笑みを見たかった。 マドレーヌには、二人とない『母』だったから。 そのとき初めて、マドレーヌは母を慕って涙を零した。 彼女は家族の、人の、愛に飢えていた。 父は家族になろうと言ってくれた。戸籍を用意して、養女として迎え入れると。 だが断った。父にはクロードがいることを知っていたし、今さら財閥の娘として生き てなどいけないことはわかっていた。その世界に踏み入れいる権利も資格もないこ とだってわきまえていた。 その代わり、月に一度、数分で良いから会いに来てほしい。マドレーヌがそう希望 すると、父はやっと自分の罪を拾い上げたような、ほっとした表情を見せた。 それ以降、父はとても誠実な父親であり続けてくれた。 月に一度と言わず、週に一度は会いに来てくれて、一緒にお茶をした。けれど食 事をしようと誘われると、マドレーヌはクロードへの罪悪感からそれを拒んだ。父と会 っているだけでも盗みを働いたかのような気持ちになるのに、食事を共にするなんて 考えられなかった。 同時に贈り物も突き返した。父は複雑な感情を読み取ってくれたのか、幾度か突 き返すと何かを贈ることはなくなった。 それでも幸福な時間だったと思う。 父として、娘として、家族の時間を持てた日々は。 それが1年ほどで終わりを告げても。 16になった年、父は病で倒れ、そのまま息を引き取った。あまり長くはないだろう と言われていたらしい。 マドレーヌはそれをラジオのニュースで知った。国内でも有数の財閥トップの死だっ たから、連日報道がなされた。 葬式には行けなかった。 父には本妻の子、クロードがいる。彼の前に顔を出すのは憚られた。 遺産相続などの面倒な争いを避けたかったのだ。マドレーヌにそんなつもりはなく ても、彼の前に顔を出せばそんなふうに思われても仕方ない。だから彼女は家で父 の冥福を祈った。 『なぁ、マドレーヌ。お前に罪などないのだ』 はた、とマドレーヌは思考を止めて目を開けた。耳に潮騒の音が戻る。 『子が親を求めて、何が悪いのだ。お前は父との時間を盗んだのではなく、当たり前 の時間を与えられただけだ。責められるべきはお前の両親であって、お前ではない だろう』 ―― そんなのは結局、盗人の理屈だよ。 マドレーヌは自嘲した。 母は辛かっただろう。マドレーヌも辛くなかったとは言えない。けれど、正妻とクロ ードはもっと辛かったはずだ。享受して当たり前の幸福を奪われたのだから。 それは母が死んだことではなくならない。 盗んだ罪はずっと生きている。 自分の形をして。 『生まれたときから業を背負う者などあるものか。お前は母の罪を背負おうとしてい るだけだ。自分から茨の道を歩こうとしているだけだ』 ――私だって、盗んでる。 母だけが罪深いのではない。自分だって罪深い。 父は死ぬ前に、マドレーヌの誕生日にプレゼントと称して小箱を渡した。 贈り物はいらない、とそれまでのように返そうとしたが、このプレゼントだけは父は 「お前に持っていてほしい」と懇願した。 曰く――この中にあるのは、シャール家に伝わる忌まわしき魔術なのだ、と。 シャール財閥は、世界的にもめずらしい魔術師の財閥である。父も魔術師であり、 小箱には曾祖父から祖父へ、祖父から父へ代々伝わる、秘匿せねばならぬ悪しき 魔術が入っていると言う。 ならばそれは、よけいに次期当主となるクロードが持つべきだ。そう伝えると父は 悲しげな表情を浮かべ、首を横に振った。「この魔術は使われぬようにシャール家が 保管してきたものだ。けれどクロードは使ってしまうだろう。あの子は私を怨んでいる から」と、悲痛な言葉を漏らした。 他の者も信頼できない。この魔術は、魔術師や魔導師にとって邪悪でありながら 魅惑的な物なのだ。だから今、魔術が使えぬお前に託したい。お前は私の娘とは思 えぬほど本当に良い子だから、この恐ろしい魔術を誰かに渡したりしないだろう。 渡された小箱は、とてもシンプルな木箱だったのに重く感じた。 預かったとして誰かから守りぬけるだろうか。そんな心配が頭を過ぎったが、マドレ ーヌはその小箱を受け取った。 悪しき魔術を守るためではなく、愛する父からの信頼を失いたくなかったから。 クロードが享受すべきだった父の信頼を、マドレーヌは盗んだ。 『正当な権利の譲渡だ。あの男が所持者として選ばれなかったことは、お前の責任 ではない』 ――私の責任だよ……。 少なくともクロードはそう思っている。 父の葬儀から一月経った後、マドレーヌは突然シャール家から呼びだされた。 わけがわからず、ほとんど拉致されるような形でシャール家の屋敷に向かうと、そ こで父の親族たちから遺産相続を放棄するように命じられた。 事態を呑みこめぬマドレーヌに、親族は吐き捨てるように告げた。 たとえ愛人の子であろうとも、遺産分配はされる。法律でそう決まっている。妾の 子が厚かましい。汚らしい。 それから延々と罵られ、軽蔑され、脅されて、マドレーヌは書類にサインした。 サインをする手が震えていたのを覚えている。元々遺産なんて受け取る気もなかっ た。それでも自分のことは良く思われないだろうとも思っていた。 そんな想像は笑えるくらい、甘かった。 悪意とは、ヘドロのような泥だ。 そしてそれで他人を汚しても痛まない心のことだ。 怯えながらサインし終わるのとほぼ同時に、クロードが現れた。 彼はマドレーヌを見て整った顔立ちを大いに歪ませ、親族たちに部屋を出るように 命じた。もうこのときにはクロードが財閥の当主だったので、彼らは媚びへつらうよう にして退室した。 2人きりになった部屋の中で、クロードはマドレーヌの対面のソファに座り「小箱を 渡せ」と要求した。 彼は気付いていたのだ。自分が相続したものの中に、大切なものがないことに。 マドレーヌは知らぬ存ぜぬという態度をつき通した。頭のどこかでは彼が本当に魔 術を使うという確証もないのに、魔術の知識を持たぬ自分が持っている方が危険で ある、とわかっていたが、父からの信頼を失いたくなかった。 短い親子の時間の中であれだけが、本当に父と会っていたという証明でもあった。 クロードは当然 あの男がお前に渡していないはずがない。あれは私の物だ、返せ。あの男が何と 言ってお前に渡したか知らないが、お前が持っていて良い代物ではない。 そう怒鳴った彼の瞳は憎しみで濁っていた。 自分の父親をあの男、と呼ぶ度に、呪いを吐いているように聞こえた。 恐怖を噛み殺し、それでもなお身動きしないでいると、クロードは一転して嘲笑を 浮かべた。ご立派な忠犬だ、と。それなら私が管理してやる、と。 クロードは財産放棄の書類とは別に、マドレーヌにもう一枚書類にサインさせた。 それは未成年であるマドレーヌの後見人に、クロードを指名する書類だった。 彼は小箱が手に入らぬのならば、その所有者ごと手に入れてしまえばいいと考え たのだろう。それ以来、マドレーヌは何をするにも彼の許可が必要となった。 引っ越しも、仕事を変えるのも、結婚も、クロードの許可なしには行えない。 だがこれは――当たり前の罰なのだ。 『小箱など、くれてやればよい』 ブランシェの言葉を聞いて、マドレーヌは静かに首を横に振った。 『あの男が悪用すれば、他の魔導師や魔術師たちが気付く。いずれは裁きを受ける だろう。お前が魔術を守らなくとも良いのだ』 マドレーヌは悲しげに首を横に振る。 そんなことで手放さないわけじゃない。もっと自分本位で身勝手な理由だ。父から の信頼と愛の証を、取りあげられたくない。それだけのために、マドレーヌはクロード から小箱を奪い続けている。 『――私では代わりになれぬか』 ――違うの、ブランシェ。 どんなときでも自分の味方でいてくれる精霊。彼女とは、シャール家の屋敷の屋 根裏で出会った。 当主であるクロードが財産相続を放棄した代わりに、この屋敷から好きな物を持っ て行くことを許したのだ。マドレーヌは何も要らなかったが、いくら愛人の子と言えど も、何も分与せず放りだすのは世間体が悪かったのかもしれない。 多くは語らないクロードの許可を得て、マドレーヌは屋根裏に積まれた古い物の中 でほこりを被っていた球体関節人形を見つけた。 それがブランシェだ。 きっと、お互いにさみしさを感じていたのだろう。だからマドレーヌは分与される物 の中でブランシェを選び、ブランシェもまたマドレーヌを選んでくれた。 彼女との生活は楽しい。母や父や、クロードよりも、親愛を覚えている。 だから心苦しい。 ――今、一緒に居てくれるブランシェだけで、満足できないなんて。 彼女から注がれる愛は、マドレーヌが切望した母のような愛だ。海より深く、慈愛 に満ち満ちている。 満たされなければならないのに、それでもなお、父の愛に縋りつくか。 浅ましい。厚顔無恥。 ――あの小箱を捨てれば、何もかもが変わる……。 クロードに差しだせば、彼はマドレーヌへの興味を無くすだろう。そうして、後見人 からも下りる。自分は自由の身となる。 仕事だって好きにできるし、結婚だって自由にできる。もうクロードの顔色を窺わな くてもいい生活がそこにはある。 なのにどうしても、小箱を捨てられない。 一番最初に向けられた愛情を、捨てられない。 『――すまぬ。お前を追い詰めたかったわけじゃない』 ――ううん。ごめんね……。 『私はただ……お前に“仕方ない”と諦めてほしくないだけなのだ。誰が何と言おうと お前の人生を、道を、お前以外の誰かに任せてはならぬ。お前の持つ業と言えば、 それだけだ』 ――きっと、ブランシェの言うことは正しい。 間違っているのはその忠告に従えない自分の方だ。わかっている。 けれど他に、どうやってクロードに償えと言うのだ。 彼から父を奪った。信頼を奪った。継ぐべきものを奪った。 どれも返せない。 だからクロードにすべてを掌握されることが業だと言うのなら、あえてそうして構わ ないと思っている。 そうして地獄に落ちればいい。 盗人など。 こんな、盗人など。 マドレーヌは静かに正面を見つめた。 そこには暗く蒼い海が果てしなく広がっていた。 |