(マドレーヌ。お前という奴は……)
 ――言わないで。何も。
 どうしようもない人間だと、自分が一番わかっている。送ってくれる、と言ってくれて
いる人を置いて逃げてくるなんて、あんまりだ。自覚しているからこそ、これ以上傷
口に塩を塗りこまないでほしかった。
 どうにも、難しい。美形だけならば、どうにかなったかもしれない。けれどあれで魔
法を使えるというのだから、要らぬ緊張を覚えてしまう。彼はマドレーヌなどにはとて
も手に負えない人物なのだ。
 マドレーヌは駆け抜けて来た道を振り返った。もう『ジャスミン』は見えない。
 長く走ったのでこめかみからあごまで汗が伝った。それを拭い、肺の空気を吐きだ
して、潮の香りがする空気をめいっぱい吸う。
 何度か繰り返すうちに心拍数も気持ちも落ち着いてきた。
 ――予定が狂っちゃったなぁ……。
 本当ならジルダにピサンリの様子を話して帰ろうと思っていたのに。
 後ろ髪を引かれる思いではあったが、戻れる気がしなくて、結局マドレーヌはとぼ
とぼと自宅への道を歩きはじめた。ジルダには今度、改めて話に行くことにする。
 肩に乗ったブランシェが呆れた様子で尋ねた。
(己も魔法関係者であろうに、何を遠慮しておる)
 ――だって、私、学がないし……。
 ただでさえマドレーヌは簡単な文字の読み書きしかできないというのに、魔術師や
魔導師の話は専門用語が混じることが多々あって、理解するのが難しい。孤独なん
たらの呪いだとかいうものだって、理解できなかった。
 まだ、3人や4人、大勢で話をするならいいのだ。マドレーヌがわからなくても他の
人がわかってくれるから、話が続く。けれど2人きりで話せ、と言われたら会話が続
かない自信がある。
 感情を読み取ったのか、ブランシェがあぁ、と声を漏らした。

『最初、魔術師と話したときにちんぷんかんぷんな話をされたのがトラウマになって
おるな。魔術師や魔導師連中は空気を読まず、己の好きなことだけしゃべりまくって
おるのだから、適当にふんふん頷いておけばよいのだ』

 ――でも、意見を求められたりしたら?

『魔法布織りに意見を求めるような魔術師は、能無しだ』

 酷い言い分だが、割と真実であるような気がした。
 確かに魔法知識のない人間に意見を求めるなんて、賢い選択ではない。

『――美しい人間すべてがお前を虐げるわけではない。魔法を使える人間すべてが
悪意を持っているわけでもない。これを機に、考え直してみてはどうだ』

 ブランシェの言葉は、いつも正しい。
 マドレーヌも本当はわかっている。自分に学がないから尻込みするのではなく、魔
法を使う者に対して恐怖心があるから尻込みするのだと。
 だがいつまでもそうしていられるわけではない。
 マドレーヌはもう、魔法の世界に足を踏み入れているのだ。
(手始めに、魔法布の発注者と話すことから始めてはどうだ)
 ―― そうだね……。
 今までヴァンに丸投げだったが、その辺りからなら始められるかもしれない。魔法
布に関することなら、マドレーヌも会話を続けることができる。
 ――と、思うんだけど……。
 自信を失くしそうなマドレーヌを、ブランシェがフォローする。
(お前の苦手意識は、美形と、魔法が使える、という2点があって強くなるのだ。ヴァ
ンも整った容姿だが、魔法が使えぬからさほど緊張しまい)
 ――あぁ、うん。
(ジルダは実直な雰囲気が強いし、魔法も使えぬからまったく緊張しないであろう)
 ――うん。
(畏縮せず臨め。気まずくなっても、私がいるであろう)
 ――うん。
 マドレーヌは微笑んだ。何があってもブランシェは自分の味方でいてくれるのだ、と
いう信頼が心を支えてくれる。
 気持ちが少し上向いた。
 ――よし、今日は元気になるようなものを作って食べよう。
 このマルダという町は港町であるため、魚介がおいしい。頭の中でレシピを検索し
て、魚介類たっぷりのトマトソース煮込みとサラダに決めた。
 クリーニング店のある十字路を左に曲がると、すぐに露店街に入る。いくつもの店
が寄り集まって、肉、野菜などの生鮮食料品からバッグや衣服まで、何でも幅広く
露天で売っている。
 朝と、昼前と、夕方はこの通りは歩くのも大変なほど人でにぎわうのだが、今は夕
方と呼ぶにはまだ早い時間帯だ。なので、比較的人通りは少なかった。
 ピッツァがどこかで焼ける香りを嗅ぎながら、マドレーヌはまず馴染みの野菜店に
足を運んだ。
 瑞々しい野菜が目の前に並んでいる。
 ――まず、トマトを3つ……。
 数あるトマトを穴が開きそうなほど見つめて、お眼鏡に叶った3つを店主に差しだし
た。店主は読んでいた新聞から顔を上げると、マドレーヌを見て「キイトか」と笑った。

「トマト3つか」
『待て、まだある』

 ブランシェがしゃべっても、店主は驚かなかった。ここ界隈ではマドレーヌとブラン
シェのことは知られていて、今さら驚く人はもういない。ついでに性別もちゃんとわか
ってくれている、というか訂正した。とにかくここ以外の買い物は少しわずらわしさを
伴うので、マドレーヌは好んでこの露店街を利用している。
 トマトを渡した手で、パプリカとベビーリーフ、玉ねぎ、なす、バジルを選んで、布地
を入れていたトートバッグを渡した。

「今日はやけに買い込むな」
『ちょっとな』

 マドレーヌが代金を渡すと、野菜が入ったバッグを返される。
 手を振る店主に微笑んで、マドレーヌは果物を扱う店に立ち寄った。
 ――ブランシェ、どれがいい?
(桃の香りがいい)
 ――うん、そうだね。桃にしようか。
 精霊であるブランシェは食事をしないが、香りを楽しむことはある。彼女は特に果
物の香りが好きで、家にその芳香があると機嫌が良い。
 だから特に好き嫌いがないマドレーヌは、ブランシェが良い香りがする、と言う果物
を買うことにしている。
 桃を2つ買い求め、今度は魚介類を扱う店へ向かう。
 マドレーヌに気付いた店主が、気持ちの良い笑顔を浮かべた。

「いらっしゃい、キイト!今日は何にする?」

 ええと、とマドレーヌは視線を彷徨わせた。

『そこのメル貝を1カゴとエビを6尾、それからそのイカを1杯』
「はいよ」

 店主は注文した魚介類をビニール袋に入れて、渡してくれた。
 マドレーヌの後ろから差しだされた手に。
 ――は?

「今日はやけに買い込んでると思ったら、とうとう春か。よかったな、キイト!」

 店主の言葉にハッ、として、マドレーヌは振り返った。

「買い物はこれで終わり?」

 そこには、金色の髪とまつげを太陽に輝かせて微笑む、エルガレイオンがいた。
 ――なっ、なんで!?なんでここに!?
 衝撃的な光景を信じることができず、マドレーヌは硬直する。一方エルガレイオン
はそんな彼女に気付くことなく、爽やかに微笑んだ。

「キイトはせっかちだな。ブランシェがいなかったら見失うところだったよ」

 ――あぁぁぁ!そうだった!そうでした!
 魔力開花している者は、同じく魔力開花している者の魔力を探ることができる。人
それぞれ探索範囲の限界は違うが、半径500メートル程度ならば、さほど訓練を積
む必要もなく探れるのだとか。
 しかしそれは、あくまでも魔力開花している人間の魔力、だ。マドレーヌのような一
般人の魔力を探るのは訓練を積まなければ難しいし、人によってはできないと言う
人もいる。そもそも一般人の魔力を探る必要性に駆られることは、あまりない。だか
らマドレーヌも一般人である以上人ごみに紛れてしまえば、普通ならば居場所を探
り当てられないはずなのだ。
 だが彼女のそばには、ブランシェがいる。
 魔力の塊、と言ってもいい、精霊が。
 森の中ならいざ知らず、清浄な空気とは程遠いこの町中でこんな魔力の塊を連れ
て歩いていれば、魔力開花している者たちにとっては目をつむってでもマドレーヌの
もとに行けるほど目立っている、らしい。
 キイトを探すときはブランシェの気配を探るのが手っ取り早い、と魔導師たちに言わ
れたことを、いまさらになって思い出した。
 今まではさして困ったことはなかったのだが、今猛烈に困った事態に陥った。

「他に買う物は?」

 エルガレイオンは善意の塊のような笑みを浮かべた。
 それはドスッ、とマドレーヌの心臓に突き刺さる。ときめいたわけではない。彼を置
いて逃げて来た罪悪感に、刺されたのだ。
 マドレーヌはぶんぶん、と首を横に振った。買い物はこれ以上ないし、よしんばあっ
たとしても、もう何も買えそうにない。マドレーヌのハートはボロボロだった。
 青い顔で目が虚ろになったマドレーヌを、真相を知らぬエルガレイオンが覗きこむ。

「だ、大丈夫?今にも倒れそうだけど」
『大丈夫だ。自業自得という言葉の意味を確かめているだけだからな』
「え、なんか哲学的。でもそれはとりあえず、家でやろうな。今は体調が心配だから
帰ろう」

 エルガレイオンはマドレーヌの荷物を取りあげて、自分の肩にかけた。

「家はこっち?」
『そうだ』

 追いかけさせた挙句、荷物を持たせるハメになってあたふたしているマドレーヌの
代わりに、ブランシェが答える。
 エルガレイオンは軽く笑って「行こう」とマドレーヌを促した。キラキラしたエフェクト
が見えた気がした。彼くらいの美男になると、標準装備なのかもしれない。
 そこでふと気付いた。口端の傷がない。
(魔導で治したのであろう)
 あぁ、そうか、と納得する。確かに、魔導には怪我を治す呪文があった。
 彼は本当に魔法を使う人なのだと思い知ると、緊張が一気に増した。

「キイトは海の近くに住んでるんだな」

 エルガレイオンの言葉に、マドレーヌは軋む音を立てて頷いた。海がある方へ向か
っているので、家もその近辺だと当たりを付けたのだろう。

「いいなぁ。俺の家からだと海が見えないんだ」

 ――あれ?この国に住んでるのかな……?
 魔導師はいろんな国を依頼で飛び回るので、どこの国の人かわからないことが多
い。けれど彼の口ぶりからすると、ルシーダの出身であるように思われる。
(気になったなら、聞け。練習だ)
 うぅ、とマドレーヌは視線を泳がせた。が、ブランシェが大丈夫だと言ってくれたし、
エルガレイオンの性格は親しみやすいように思われたので、マドレーヌは思い切って
話しかけてみた。

『――貴方もこの国の人?」
「いや、出身は違うよ。今はここを拠点にして仕事してるから、家を借りてるんだ。こ
こは土地柄便利だし」

 マルダはただの港町ではない。貿易港として栄えている町だ。
 別大陸からの船の多くはマルダに停泊するので、自然とスパイスから美術品、果
ては別大陸の最新魔道具まで、ここに集中する。『ジャスミン』がルシーダの中でも
屈指の魔道具の品揃えを誇るのは、この町だからできること、とも言えるのだ。
 ――でも、めずらしいな。
 商人や、職人がこの町を拠点とするのはわかる。ここにいれば商品の情報に事欠
かないからだ。
 だが魔導師や魔術師の拠点となると、首を傾げざるをえない。ここは彼らにとって
は買い物に来る土地であって、拠点にするべき場所ではないはずのだ。もっと魔術
学会や、魔導師の勉強会が頻繁に行われる土地に居があった方が都合が良い。
 例えば隣国のグラフト国のような、魔法大国の方が。
 ブランシェも同じく不思議に思ったようだった。

『めずらしいな、ここを拠点とするのは』
「とりあえず、仮拠点なんだ。俺、半年後の魔導師免許テストに挑むから」

 ――魔導師免許か……勉強大変そう……。
 魔法の世界に疎いマドレーヌでも、そのテストの苛烈さは知っている。何せ、魔導
師たちから愚痴のように何度も聞かされた。
 世界には魔導師協会、という権威ある協会がある。
 その協会の会員名簿に名前が乗ることを許されれば、協会が発行する免許を与え
られるのと同時に、様々な特権も与えられる。国からの依頼を受けやすくなったり、
様々な機関に立ちいることを許されたり、他にも色々とあって、個人に与えられる権
利としては莫大だ。
 反面、それを得るための試験が果てしなく険しい。
 魔導がちゃんと使えるか、はもちろんのこと、常識や情勢を問うペーパーテストを受
けたり、精神鑑定を受けたり、日常会話に困らない程度の外国語を5か国語もしゃ
べれなければならない。
 魔導師になった以上、この免許を取るべく皆勉強をするそうだが、受かるのはほん
の一握り。そのため免許を持っている魔導師はエリートとして広く知れ渡る。
 ブランシェははぁ、と呆れ果てたため息を零した。

『別名ドM免許だろう、あれは。よく受けようと思ったな』
「一度、免許持ちの魔導師と仕事したことがあってさ。あるとやっぱ便利だな、って
実感したんだ。国から依頼もくるようになるから、顔が広くなるし」
『しかしそれなら、よけいに隣国の方がいいと思うが?魔導師協会の総本山がある
だろう』

 エルガレイオンの表情が、憂鬱げになった。

「俺、どうにもあそこのラサンダ花ってのと相性が悪いみたいでさ……1週間も滞在
すると、くしゃみと鼻水が止まらなくなる。前に行ったときは、あまりにも鼻水が出る
もんだから、常に鼻にティッシュを詰めるハメになった」

 マドレーヌは心配になった。もしかして彼は、自分の顔の価値をわかっていないの
ではないだろうか。こんな美形が鼻にティッシュを詰めている姿なんて、あまり想像
したくない。
 想像したくない、と言いながら思い浮かべてしまって、マドレーヌはふるふる、と首
を振ってその姿を記憶から消した。

「キイトは、元々この国の人?」

 その話題転換はエルガレイオンのあんまりな姿を消去するのを手伝ってくれそうだ
ったので、ありがたかった。

『そう』
「そうか。職人としては、ここ以上にいい環境はないよな」

 マドレーヌはぎこちなく微笑んだ。確かにこの町は、職人にとっては良い町だ。魔
道具を求める魔術師や魔導師と知り合うことができるし、別大陸の最新魔道具の
チェックもできるし、逆にこちらから発信することもできる。

「あと、球体関節人形愛好家にもいい場所だよな!」

 ――ん?
 戸惑いながらエルガレイオンを見上げれば、彼は青い瞳をキラキラさせていた。

「グラフト国近辺ならどこでもよかったんだけどさ、ルシーダはいい球体関節人形が
集まるし、人形作家も多いだろ?巨匠カルロス・エッサーを始めとしてだ、レーネル、
ミュラー、フィオーレ・ゼレンカ、ジュリア・トレント、エバートン、ホセ、ショウイン、他に
も新進気鋭の作家がいるし。だから俺、この国を仮拠点に決めたんだ、あっ、俺の最
近の一押しはバネッサ・カルモナが作る十二星座コレクション、これだな。彼女の作
る人形の肌は触れるまで熱がないことに気付かない、とよく言われるけれど、このコ
レクションはあえてそのリアリティーを排除して、どこまでも人間味を感じさせないあ
る意味でドールの原点に戻ったことを賞賛すべき作品だと俺は思うんだよね」
「…………」
「あとは忘れちゃいけないのが人形の美しさを引き出す洋服や小物な!小物作家も
ルシーダは多いじゃん?レスティナって会社の人形服はディティールが凝ってていい
よね。知ってた?あそこの服のボタン、人形用にオリジナルで作ってるらしい。会社
だからこそできるこだわりが感動ものだよな。個人で言えばトートの服が好きだ。い
や服ってより、アクセサリーかな。特にペンダントのデザインがめちゃくちゃかわいい
し、かっこいい。少年人形に合わせても全然変じゃないのがすごい。あっ、少年人形
って言えばさ、エバートンがデザインした少年モデルが今度カヴァル社から発売され
るだろ?あれ欲しい。すげぇ欲しい。あの美少女かと見紛う顔の作りがまさしくエバ
ートンデザインって感じで垂涎ものっていうか、カタログ見たとき本当に涎出た」
「…………」
「でもさ、少年人形を買うとお嫁さんが欲しくなるんだよ。少女人形は1体でもかわい
いけどさ、少年人形の格好良さってのは少女人形があって引き立つものだろ?だか
らエバートンモデルの少年人形を買った場合、あの子に似合うお嫁さんが欲しいん
だけど、さっき言った通り美少年系だから少女人形の方にあの子よりも儚さが欲しい
んだよ。でも今の流行は凛とした感じの顔立ちだろ?やっぱオークションで昔の子を
見つけるしかないかなー」

 ――ま、魔法の話じゃないのに、何を言ってるかわかんない。
 正直言って、マドレーヌは球体関節人形に対する愛はさほど深くないと思う。もちろ
んかわいいから好きだし、ある程度は知っているけれど、マニアではない。
 マドレーヌにとって球体関節人形はあくまでも、ブランシェのおまけなのだ。彼女が
球体関節人形にとり憑いているから、人形服やアクセサリーをちまちま買っているだ
けであって、例えばブランシェが壺にとり憑いていたとしたら、その壺を大切にしてい
たと思う。
 そんなにわか球体関節人形愛好家のマドレーヌからすれば、エルガレイオンは重
度の愛好家である。
 『ジャスミン』で話した魔導師は賭けに稼ぎを吸われたらしいが、彼の場合は確実
に人形に吸われているだろう。球体関節人形にかかるお金は馬鹿にできない。
(うむ。阿呆だな)
 そんなにべもない言葉がブランシェから漏れた。
 ――とりあえず、趣味を基準にして仕事拠点を決めた魔導師は、始めて見たよ。
 おそらくブランシェも呆れたのはそこだろう。マドレーヌですら呆れを通り越して感心
するのだから、同じ魔導師が聞いたら眩暈がするかもしれない。
 かなり引きつった愛想笑いを浮かべていると、エルガレイオンはちら、ちら、と意味
ありげにマドレーヌを見る。

「あのさ、キイト。お願いがあるんだけど……」

 そうして彼がふとはにかむと、通りすがりの少女2人組が、彼のあまりの美しさに
こちらを振り返った。

「抱きしめても、いい?」

 マドレーヌは、脱兎のごとくその場から逃げだした。

「キイト!何で逃げるんだ!?ちょっと、ほんのちょっとでいいから!きゅっ、くらいに
しとくから!」

(マドレーヌ、落ちつけ。あの男、言葉が圧倒的に足りぬが、抱きしめたいのはお前
じゃなくて私のようだぞ)
 ――あっ、ああ、そういう……。
 ドッドッ、と暴れる心臓を押さえつつ、マドレーヌは立ち止まった。
 足の長さの違いか、体力の違いか、すぐに追いついたエルガレイオンは、まだ動
揺しているマドレーヌの細い肩を掴んで詰めよった。

「わかるけど!かわいいから独り占めしたいのはわかるし、大事な子を人に貸したく
ないのはわかるけどっ、俺大切にするから!お姫様よりも大切にするから!だから
ブランシェを抱きしめさせてください!」

 24歳の大人が、涙目である。
 この状況、周囲の人にはどう思われているのだろうという思考がふと過ぎったが、
マドレーヌは考えるのを止めた。考えたら最後、もうこの露店街に来れなくなる気が
する。
 ――えっと、どう、ブランシェ?
 抱きしめさせてくれ、と言われても、この人形はマドレーヌの物のようであってマド
レーヌの物ではない。ブランシェの物だ。なのですべてはブランシェの判断に任され
るのだが。
 マドレーヌの肩に乗ったブランシェは、きっぱりと告げた。

『嫌だ』
「キイト頼むよ!うちの子の秘蔵写真あげるから!ショウインの冬季限定の子見たく
ない!?」
『今のは私の拒否だ』

 ブランシェがそう言うと、エルガレイオンはこの世の絶望と言う絶望をすべてを見て
きたような表情になった。

「何で!?俺のどこがいけないんだ!?いけないところがあったら直すよ、顔が気に
入らないなら魔術で顔も変えてくるし、ムキムキが好きなら今から身体を鍛えて筋肉
つけてくる!プロテインも飲むよ!?」

 魔導師って人種はすごいな。マドレーヌは心底そう思った。

『せっかくの長所を弄るな。私はべたべたと触られるのが嫌いだから仕方ない。あと
この子から手を離せ』

 人形なので顔の表情は変わらないが、声の調子で分かる。明らかに嫌そうな声。
 確かにブランシェはべたべた触れられるのを嫌う。それはマドレーヌであっても、で
ある。他の人間よりだいぶ許容はされてあるし、ブランシェの方から触れてくることも
多々あるが、それでもあまり触れられるのは好まない。マドレーヌであっても彼女を
抱きしめられることはそうそうないのだ。
 エルガレイオンは、がっくりと肩を落とした。

「あぁ……せっかく見つけたのに……」

 こればかりは仕方ない。マドレーヌだって、ブランシェが宿ってさえないければいく
らでも貸してあげたのだが、もしもを言ったところで詮無いことだ。
 慰めるように、おずおずと、エルガレイオンの腕を軽く叩く。
 すると彼は、改めてマドレーヌを見つめた。

「……にしても、キイトは細いな。ちゃんと食ってる?」

 肩から手が離れたかと思えば、次の瞬間、脇腹を掴まれた。

「んー、やっぱ細いな。男は筋肉つけた方がいいぞ。女の子のピンチとか、守りたい
だろ?」

 今がまさに乙女のピンチだ。
 先ほど買ったトマトよりも顔を真っ赤にするマドレーヌの肩で、ブランシェがゆらりと
立ち上がる。
 その身に、灰色の雷光を纏わせて。

『この……愚か者めが!』

 パッ、と目の前が光ったあと、バリバリッ、と耳障りな音がした。

「いでぇっ!?」

 エルガレイオンは叫び声をあげてマドレーヌの脇腹から手を離し、何かを振り払うよ
うに腕を大きく振った。
 ――あぁぁぁ、ブランシェ……。
(お前ももっと怒らんか。だから勘違いされるのだ)
 ――もう、正直しょうがないかなって思いはじめてる……。
 やっぱり、エルガレイオンもマドレーヌのことを男だと思っていたらしい。
 そうだよね、とマドレーヌは遠い目をした。彼が「どう見ても女の子にしか見えない」
と言ってたのは、ブランシェを指していたのであって、マドレーヌではない。だから彼
が勘違いしていてもおかしくなかったのだ。
 エルガレイオンは苦痛に顔を歪めながら、背を丸めて二の腕を擦る。

「ブランシェ、君、雷の精霊だったのか……っ」

 エルガレイオンの言葉通り、ブランシェは雷の精霊だ。
 本人曰く、炎の精霊よりは短気ではないそうだが、割と頻繁に腹を立てて(これも
本人曰く不愉快になって、だそうだ)、その度に放電するものだからマドレーヌとして
は気が気じゃない。マドレーヌがその雷で被害を受けたことはないが、周りの人間が
受けたことは何度かあるのだ。

「絶対、骨が焦げた……」
『程度はわかっておるわ。焦げてなどおるものか』
「……改めて、精霊には人間なんて敵わないと知ったよ」
『恐れ、敬うが良い』

 エルガレイオンには申し訳ないが肩で威張るブランシェがかわいらしくて、マドレー
ヌは小さく笑った。
「やっと痺れになってきた」とぶつくさ文句を言いながら、彼が歩きだしたので、マド
レーヌも後に続く。腕をさすってあげるべきか悩んだが、先ほどの二の舞になったら
今度こそエルガレイオンが消し炭になりそうだったので止めておいた。
 ――あ、そういえば、あんまり緊張しなくなった。
 不意に気付いた。
 これだけ美形で魔法が使えるなら苦手意識が消えることはないかもしれない、と
思っていたが、話してみればあまりにも――人間臭かったからか、心の強張りが解
けかけている。
(そら見ろ。こやつで緊張しておかねばならんことは、予想をつけられん言動の方だ)
 ――あぁ、うん。
 失礼ながら、とても納得してしまった。
 話しながらずいぶんと歩いていたので、すぐに丁字路にさしかかった。真正面には
青い海と水平線が見えている。

「家はどっち?」

 マドレーヌは右を指した。角を曲がればすぐに、アパートが見えてくる。
 エルガレイオンと一緒に角を曲がったところでマドレーヌは――足を止めた。

「ん?」

 隣を歩いていたエルガレイオンも足を止める。

「どうした?もしかして、道を間違えた?」

 彼は冗談めかして言ったが、マドレーヌはそれに余裕を持って答えることができず
に、硬い表情で首を横に振った。
 道は合っている。アパートだって、見えている。
 そしてその前に、スーツ姿の男が1人立っているのも見えた。
 よく、知った人物だった。
 故に解けてかけていた心が、凍りつく。
 反射的に足が退がりかけたのを意思の力で止めた。
 ――どこに逃げるっていうの?
 自嘲が漏れた。
 ――どこに逃げたところで、どうしようもないっていうのに……。
 アパート前に立つ男がこちらに気付き、手を振った。それを見てエルガレイオンは、
マドレーヌに「知り合い?」と尋ねた。
 曖昧に微笑んで、マドレーヌはブランシェを彼の肩に乗せた。彼は目を丸くする。

「へ?」

 エルガレイオンの驚きも当然だ。ブランシェ自身が触れられることを拒んだのに、マ
ドレーヌが彼女を押しつけたのだから。
 だがそれを説明している余裕はなかったし、あったとしてもするつもりがなかった。
 言ったところで、どうにもならない問題なのだ。
(マドレーヌ)
 ブランシェの呼びかけにマドレーヌは微笑む。
 ――大丈夫。エルガレイオンと一緒に、どこかに行っていて。
(嫌だ、離れんぞ)
 ――お願いだよ。ブランシェには嫌な思いをさせたくないの。
 視線を交わし、折れたのはブランシェだった。

『――エルガレイオン、小1時間ほど私を散歩に連れて行け』
「えっ、いいのか!?」
『1時間だ。1時間したら、この子のところに戻ってこい』

 マドレーヌにはわかっていた。それが自分に向けられた言葉だと。
 1時間したら戻ってくる。それ以上は何があっても妥協しない。そう言ってくれるブ
ランシェの優しさが沁みた。

『逆方向に人形服店があるのだ。そこで、今度キイトに買ってもらう服を選んでおく』
「こんなところに人形服店があるのか。じゃあ、キイト行ってくるな!」

 水面のようにキラキラした瞳で、彼は笑った。彼から荷物を受け取り、マドレーヌも
微笑みを返して2人を見送る。
 その背が充分遠くなってから、マドレーヌはアパートの方を振り返った。
 男が歩み寄って来ている。
 少し遅れてマドレーヌも歩きだす。2人は中間地点で向き合った。

「久しぶりだな、マドレーヌ」

 男はふんわりと微笑した。聡明さを深く感じる、美しい笑みだ。
 マドレーヌは視線を、彼の胸元まで落とした。
 この男は端麗な容姿をしている。目鼻立ちが整った顔、センターで分けた艶やか
な黒髪、オールドローズの甘い色合いをした瞳。人に好ましさを覚えさせる要因を
およそ兼ね備えているのだ。エルガレイオンに会うまで、この男以上に美しい男など
知らなかった。
 だがマドレーヌは彼に甘い気持ちを抱いたことは、ない。

「――あれは、まさか恋人じゃないだろうな?」

 微笑が一転して、冷酷な表情に変わる。
 マドレーヌは一瞬ぎくりとして身体を強張らせたが、すぐに首を横に振った。何も反
応しなければ肯定だと思われてしまう。
 だが強張ったのがマズかったのか、男は懐疑的な視線を強めた。

「本当か?お前は母親によく似ている(・・・・)から信用ならん」
「…………」
「あの男、魔導師だろう?」

 ――何で、それを……。
 愕然として男を見上げれば、彼は嗤笑した。その笑みはマドレーヌを凍りつかせる
に充分な冷たさを宿していた。

「私に、隠しごとができるなどと夢にも思うな」

 急に世界が狭くなったように感じられた。
 男の言う通り、マドレーヌが彼に隠し通せることなど何もなくて、すべては彼の手の
ひらの上で踊らされているのだ。そんな錯覚を覚えた。
 ――ううん……錯覚じゃない……。
 実際自分のすべては彼が握っている。手のひらの上にいて、当たり前なのだ。
 畏縮するマドレーヌの前で、男はつまらなさげにふん、と鼻を鳴らした。

「……恋人ではないことは信じてやろう。本当にそうであれば、もっと上手く隠すだろ
うからな。……母親のように」
「……」
「しかし忘れるな。私に黙ってそのような者を作ってみろ」

 大きな手のひらが、マドレーヌの細い首を覆った。

「相手の男に地獄を見せてやる」

 ごく、と喉を鳴らす。
 この男はやると言ったらやる男だ。
 ――恐い。
 マドレーヌにできるのは、彼の怒りに触れぬよう、視線を伏せて、頭を垂れて、ただ
ひたすらに地味に生き続けることだけだった。

「……そうだな。おかしな虫が付く前に、配偶者を見繕っておくか。他ならぬ私の妹
だ、良い男をあてがってやる」

 それがマドレーヌにとっての『良い男』ではなく、この男にとっての『都合の良い男』
であることはわかりきっていた。この男はマドレーヌを一生、自分の手の中で飼って
おきたいだけなのだから。
 ――好きに、すればいい。
 マドレーヌの瞳から光が消えるのと同じく、男の瞳からも光が消えた。

「……愛のない結婚が嫌か?笑わせるな。愛など、まやかしだ。どこにもない」
「…………」
「お前は、よく知っているだろう。母親のように失敗したくなければ、私にすべてを任
せておけばいい」

 喉に触れていた手が離れた。マドレーヌがそこに触れると、男に熱を奪われたか
のようにひんやりとしていた。

「――お前を愛する人間がいるなどと思うな」

 男は懐から封筒を取り出して、マドレーヌに押しつけた。

「生活費だ。――私の妹であるお前が、そんな安物の服を着るな」

 鉛でも下げているかのような動作でそれを受け取ると、彼は嗤って踵を返し、海の
香りがする道を戻って行った。
 その姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしたマドレーヌは、ひゅ、と息を吸って
アパートの自分の部屋まで駆けた。
 ドアを開けて、階段を上がり、リビングのテーブルにトートバッグと封筒を投げた。
封筒から札束が零れ落ちたが、どうでもよかった。
<お前を愛する人間がいるなどと――>
 ――わかってる。
 寝室のクローゼットから、水着を取り出した。いかにもあの男が嫌いそうな、セール
で買った安物。イエローのチェック柄ビキニにスカートがついた、流行遅れも甚だしい
デザインだ。
 それに着替えてシャツだけ羽織ると、マドレーヌはネクタイとタオルを手にし、サン
ダルに履き替えて外に飛びだした。
<お前を愛する人間が――>
 ――わかってるよ。
 アパートの向かいには、ゆるやかな下り坂になっている防災林がある。森林独特
の苦い香りの中を駆け抜ければ、今度は向日葵畑に出た。マドレーヌよりも背丈が
ある向日葵迷路を掻きわけると、常に人がいないビーチが現れる。
 案の定、今日も人影を見ることはなかった。
 粉砂糖のように真っ白い砂浜と青い海が美しいビーチだが、防災林と向日葵畑の
せいで目立たない場所だし、規模も小さい。そばに大きくて整備されたビーチがある
のも、ここに人が訪れない要因なのだろう。
 けれどマドレーヌは、このビーチが好きだった。
 このビーチには、真っ青な海に突き出す桟橋がある。そこを駆け抜けてダイヴする
と、嫌なことを忘れられるのだ。
<お前を愛する――>
 ――愛する人がいないなんて、私が一番わかってる。
<お前を――>
 声に追われ、マドレーヌはサンダルを脱ぐと桟橋に向かって走りだした。
 もう何も考えたくない。一時だけでも現実世界のしがらみを忘れていたい。
 桟橋の上で、タオルとネクタイを手放した。次いでシャツも放る。
 桟橋をリズムよく軋ませて、マドレーヌは海に飛び込んだ。
 限りなく透明なブルーに抱かれると、外界の全てを遮断できる。こぽ、と口から声
の代わりに立ち上った泡は、太陽の光で煌めいて美しかった。
 ――わかってる。
 飛び込む前に聞いた波音が、頭の中の汚れをさぁ、と洗い流したような気がした。











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