耳が痛いほど、店内が静まり返る。マドレーヌの記憶上、これほど静けさに満ちた 『ジャスミン』は覚えがない。オーナーたるヴァンとしても、店のオープン前くらいしか 体験したことがないのではないだろうか。 (おい、現実逃避をするな) ブランシェはそう言うが、マドレーヌは放心してすべてを投げ出したかった。 何があったのか理解できない。というよりしたくない。 ただ目の前の美男が、とんでもないことをしてくれたということだけは悲しいことに はっきりしていた。 恐る恐る、マドレーヌは背後を肩越しに盗み見た。 店内にいる客すべてが、マドレーヌとエルガレイオンを見ていた。 そっ、と視線を戻す。 ――し、死にたい。 彼らが何を想像しているか手を取るようにわかる。魔導師(男)が、魔法布織り職 人(男)に、プロポーズした。重要なのは括弧内だ。死にたいというより、死ねる。 何故なのだ。何故、女である自分が男性からプロポーズされて、あらぬ疑いをか けられなければならないのか。 でも正直、こんなプロポーズ嬉しくない。 大勢の目の前でプロポーズ、は確かに見栄えはいいかもしれない。いいかもしれ ないのだが、注目されるのが苦手な人間からすれば苦行以外の何者でもない、と いうことを努々忘れないでもらいたいものだ。少なくともマドレーヌはこんなプロポー ズは胃が痛くなるだけだ。だって、断ったときに場が確実に白ける。 いっそ潔く、普通に、2人きりの時にプロポーズしてくれる方がいい。 ――まぁ、そんな予定も夢もないけど。 (おい、今受けたのがプロポーズだぞ。現実逃避するな) ブランシェに、無理矢理現実へ戻された。しかし世の中には、認めたくない現実な んて山ほどあるのだ。 どうしろというのだ。この、あらぬ疑いに満ちた場を。 ――泡吹いて倒れたら、皆忘れたりしてくれないかなぁ。 物騒なことを考え始めたマドレーヌだが、隣に立つヴァンが口を開いた。 「……ええと、私は席を外した方がいいだろうか」 ――やめて!行かないで! 涙目になってヴァンを見る、前に、彼の真剣な声で現実に引き戻された周りの魔 導師や魔術師たちが、マドレーヌとエルガレイオンに詰めよって、エルガレイオンを 引きはがしてくれた。 「ばっ、馬鹿かお前!」 エルガレイオンは引きずられるようにして、店の外に出される。一方でマドレーヌは 周りの魔術師たちに弟のような扱いで頭を撫でられた。おそらく、魔導師のことは魔 導師に任せた結果、魔術師たちがマドレーヌのもとに来てくれたのであろうが、全員 が全員、かわいそうなものを見る目をしている。地味に傷ついた。 ――わ、私、本当に男だと思われてるんだなぁ……。 いつもズボンを穿いているからなのだろうか。しかしこの分だとスカートを穿いて来 たとしても、女装で片付けられそうな有様だ。しかもエルガレイオンにプロポーズされ たことで、そっち系に目覚めちゃったか、なんて思われる可能性が濃厚である。重ね 重ね、なんということをしてくれたのであろう。 「てめぇっ、なに考えてんだボケ!」 外では魔導師たちが、エルガレイオンに怒鳴っていた。しかし当の本人は堪えた 様子なく、むしろ拘束されたことに不満げである。 「何って、あの子をお嫁に」 「いいっ、皆まで言わなくていい!お前、いつか何かしら起こしそうな変態だったけど な、よりにもよって男に求婚するなんて気は確かか!?」 マドレーヌは激しく不安になった。魔導師間で、変態だと思われている、ってあの 顔でいったい何をしたのだろう。とんでもなくマニアックなフェチでも持っているか、本 物の少年愛好家かもしれない。 この場合、マドレーヌは少年愛好家であるほうを切に望んだ。そうすれば、自分は 対象外になるからだ。 「はぁっ!?男!?そんなわけないだろ、どう見たってあれは女の子じゃないか!し かも超絶かわいい!」 (よかったな。あの男はお前が女だとわかっているらしいぞ) ――よくない。それじゃあ、マニアックなフェチ持ちだよ。 エルガレイオンの叫びに外にいる魔導師たちも、店の中にいる魔術師たちも、一斉 にマドレーヌを見た。それから、エルガレイオンに視線を戻す。 「男だろ!」 「男だ!」 「どう見たって男じゃねぇか!」 「女みたいだって言ったらかわいそうだろ!本人だって細いの気にしてんだぞ!」 ――これ、公開イジメだよね? マドレーヌは目頭が熱くなるのを感じた。その肩をぽん、と叩く者がいたので振り 返ると、痛ましげな表情を浮かべたリオンが立っていた。 「酷いわ、皆……キイト君は女の子なのに……」 リオンに性別を言った覚えはないが(そもそも自己紹介のときに男です、女です、 なんて言う人はいるのだろうか)、彼女はわかっていてくれたらしい。 残念なのはその言葉が、外の出来事に意識を奪われている周りの魔術師たちに は届かなかったことだ。 「いや、どう見ても女じゃないか!」 「だから違うっつってんだろ!」 いや、違うのはマドレーヌを庇ってくれている魔導師の方だ。 彼らはいったい何を基準として女性だと判断しているのだろう、と考えてすぐに思 い当たった。胸だ。マドレーヌにはあまり、ほとんど、全然、胸がない。彼らは胸の大 きさで女性かどうかを判断しているのだ。 少女としてはとても悲しい結論を得てしまった。忘れることにしよう。 マドレーヌがもう一度外を様子を見ると、青い瞳と視線が絡んだ。 ――あ、まずい。 「どうかお願いだ!うちに来たら必ず俺が毎日着替えさせると誓うから!」 割とアウトな宣言である。 マドレーヌは1歩、エルガレイオンから距離を取った。 なるほど、魔導師たちが言っていたのはああいうことらしい。大変残念なことだが、 変態発言だけは顔が良くても許されるものではない。 むしろ、顔がいい分空しくなる。かわいそうに。 ドン引くマドレーヌの代わりに慌てたのは、周りの魔導師たちだった。 「馬鹿野郎っ、リオンさんの前で変態発言すんな!」 「毎日写真を撮ってアルバムに保管する!ロケットにも入れて持ち歩く!」 完全にアウトである。 マドレーヌは死んだ魚のような目をして、もう1歩遠ざかった。しかしエルガレイオン の方は相変わらず太陽を浴びた水面のように輝いた目をしている。笑みすら零して いた。その笑みが美しいから、やるせない。 だがとうとう、我慢ならなくなった魔導師の一人が拳を振り上げた。 「もうお前、黙って寝てろ!」 ――あ。 鈍い音がした。背後で、リオンが「きゃあっ」と痛ましげな悲鳴をあげる。 可憐な彼女は荒事に耐性がないのだ。正常な反応である。魔術師たちも人によっ ては目を背けたり、肩をすくめたりしていた。 が、魔導師たちは違う。 彼らは戦いを生業とする面もあるのだ。 端的に言うなら、喧嘩っ早い。 口の端から血を流すエルガレイオンは、その血を親指で拭い、確かめた。それから 口内に溜まった血をペッ、と道に吐き捨てる。 顔を上げた彼の青い目は、完璧に据わっていた。 「――なるほど。お前ら全員、敵だな?」 その場に緊張が走る。 エルガレイオンの右手中指に嵌められていた指輪の石が、緑色に光りはじめた。 『ベルデ 「げっ!」 呪文を唱え終わった瞬間、エルガレイオンを中心に烈風が吹いた。 彼を取り囲んでいた魔導師たちは一人残らず吹き飛ばされて、物理的に距離を取 らされる。 くそっ、と魔導師の誰かが悪態を吐いた。同時に、その手にロッドを召喚する。 魔導師や魔術師たちは魔法を使う際、ロッドを利用するのが普通だ。しかしエルガ レイオンはロッドを手にせず、手ぶらで魔導を使っている。 ――どういうこと? (いや、指輪だ。指輪がロッドの代わりをしておる) それが戦闘時、どういう効果を持つのか、望まずともマドレーヌはその目で見ること となってしまった。 『シアン 冷然を観察せし瑠璃色の 『マゼンタ 灼熱の演者緋色の長鳴き鳥よ エルガレイオンが放った氷のつぶては対峙する魔導師の炎で溶け落ちたが、ギリ ギリのタイミングだった。あと一瞬遅かったら、つぶての餌食となっていただろう。 (――なるほどな。ロッドを召喚する手間を省く分だけ、先手が打ちやすくなる) ――って、そんなこと言ってる場合じゃないよね!? エルガレイオンたちが戦い始めたのは、日中の大通りだ。魔導師たちの魔導は派 手なため野次馬の円ができ始めているが、とばっちりでも食ったらどうするのだろう。 ハラハラするマドレーヌを置いて、魔導師たちの戦いは過熱する。 『シアン 冷然を観察せし瑠璃色の エルガレイオンが再び氷のつぶてを作る。戦い始めたとき、彼の方が一手早かっ たので呪文詠唱も対峙する魔導師より早く終わるのだ。 舌打ちする暇さえ惜しい、と言わんばかりの魔導師の横から、別の魔導師が呪文 詠唱を行う。 『マゼンタ 灼熱の演者緋色の長鳴き鳥よ 炎の盾に庇われた魔導師は、別の呪文を唱えた。 『シュヴァルツ 炎の盾が現れても慌てず、エルガレイオンは作った氷のつぶてを魔導師に飛ばし た。まっすぐ、落下するようなスピードで飛んでいったつぶては、炎の盾に当たる手 前で上方向に飛ぶ。 うげっ、と魔導師の誰かが呻いた。 (なんと器用な) ブランシェの呆れたような感心の言葉とともに、つぶては盾に守られていた魔導師 に降り注いだ。ゴッ、と鈍い音がする。 「ってぇぇっ!あんのクソガキ!」 頭をつぶてで殴られ痛かったのか、涙目になりながら魔導師はコートのフードを頭 に被った。頭に血が上った状態で呪文を詠唱し始める。 『グリージオ 刹那の断罪者 「あーっ!馬鹿ぁ!町の往来で雷使うんじゃねぇぇぇぇっ!」 「やべっ、退避!退避!巻き添え食うぞ!」 『グリージオ 刹那の断罪者 「エルガレイオンも受けて立つな!やばい、感電する!」 魔導師たちの叫びで野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。 (さすが魔道具大国だ。野次馬慣れしておる) そんな慣れ、嫌だ。マドレーヌはぶんぶんと首を横に振った。 ――ブ、ブランシェ、どうにかできないの!? (無理だな。あいつらは私を通して魔法を使うわけではない) そんな冷静な、とあたふたするマドレーヌの視界の端に、ちゃっかりリオンの肩を 抱いて避難しているヴァンを見た。 呆然とその姿を見つめていると、気付いた彼はマドレーヌに手招きする。 「キイトもこっちにおいで。危ないからね」 いいのだろうか。店のオーナーが、店の前での荒事に文句を言わなくて。 マドレーヌの疑問を含んだ視線に、彼は笑った。 「こういうときのための、 バチバチ、と耳をつんざくような雷鳴がしたかと思うと、魔導師とエルガレイオンの 雷の塊が同時に、相手に向けて飛ばされた。 瞬間、凛とした声がその場に響く。 「痛いから、覚悟してくださいね」 小柄な青髪の少女が、雷が鉢合わせする地点に屋根の上から下り立った。 彼女は自分に迫りくる2つの雷との距離を瞬時に確認し、硬質な音を立てながら 腰の剣を素早く抜く。その動作から流れるようにまずは魔導師の放った雷を斬り、同 じ剣筋でエルガレイオンの放った雷を斬り裂いた。 真っ二つになった魔導の塊はどちらとも、雷を放つことなく霧散する。 突然現れた少女の姿に、魔導師もエルガレイオンもぎょっとして動作を止めた。 その隙に少女はエルガレイオンのもとに駆け寄ると、彼に防御させる暇もなくこめ かみを狙ってハイキックをお見舞いする。彼女のかかとは正確にエルガレイオンの こめかみを狙い撃ち、エルガレイオンは声もなく地面に伏した。 ハイキックの勢いで振り返った少女は、続けて魔導師に駆け寄った。彼はエルガ レイオンと違ってロッドを盾にしたが、少女は鞘でそれを叩き落とすと、かかと落とし で魔導師を伸してしまった。 野次馬によってできあがった歪な円の中で、彼女はふん、と鼻を鳴らす。 「……ケンカはご法度だって何度言ったらわかるんですか?いっそ、斬られて病院 送りになりますか?それともさくっと墓送りにしますか?」 氷の女王様も真っ青になりそうな冷えた声で、彼女はそう告げた。 倒れ伏した魔導師2人の代わりに、周りの魔導師たちが真っ青になって「お願い やめてー!」と小柄な少女に縋る。 「本当すみませんでした!すみませんでした!」 「調子にのっちゃっただけなんです!申し訳ございません!」 「すみませんですんだら、警察なんざいらねぇんですよ。調子にのっちゃったって、今 月だけで何回目だと思ってるんですか?喧嘩っ早いのが美徳なんですか?そんな 美徳は今すぐゴミ箱を漁って一番奥に捨ててきてくださいませんかね?」 「ピサンリちゃん!お言葉が乱れてます!」 「うっさいです」 漆黒の瞳に冷淡さを宿し、魔導師たちを恐れ慄かせているのはピサンリ、という 18歳の少女である。 彼女は魔導師や魔術師ではない。魔剣士、と呼ばれる剣士だ。 周囲の環境に影響されないことや呪文の長さからして、主に魔法戦において魔導 師の敵となる者は魔導師だけ、と呼ばれているが、例外もある。 その例外が魔剣士だ。 彼らは魔力開花しているわけではない。なので本来ならば魔力を目で捉えること ができず、魔法を使う者たちと戦えるはずはないのだが、魔力開花していない者の 中でも魔力の流れを見ることができる者たちが少なからずいる。 そういった者たちが剣の修業を行った結果、魔法を斬る技術を生み出した。 こうした存在は魔法を使う者にとっては脅威である。何せ魔法の弱点は、呪文詠 唱があることだ。懐に潜り込まれると呪文詠唱を中断せざるを得なくなるし、魔法が 使えなくなる。 ピサンリに近寄られたエルガレイオンや魔導師のように。 彼女は戦闘で乱れたお団子を手で整えながら、冷たい視線を魔導師に向ける。 「どうせ貴方たち、自分が騒ぎを起こしたわけじゃないからどうでもいい、とか思って いるんでしょう?違いますからね。騒ぎを何が何でも止めなかった時点で同罪です から」 魔導師たちの視線が一斉に泳いだ。魚群でも宙に浮いているかのようだ。 「最っ低です、男なんて」 見た目が可愛らしいピサンリにそう言われて、いい歳した魔導師たちはしょげかえ った。 ピサンリはリオンとはまた違った系統でかわいらしい。気の強い子猫、といったイメ ージが浮かぶほどに。 パフスリーブのブラウスと細身のブラックジーンズは、マドレーヌと違って彼女をよ り女性的に見せている。おそらくは身体の線が丸みを帯びているからだろう。 それに、胸もある。 マドレーヌはそっ、と自分の胸を撫でた。やはり、なかった。 「ありがとう、ピサンリ。とても助かったよ」 魔導師たちの額が地面に接触する前に、ヴァンがやっと場を収めに出て行った。 オーナーの登場で、その場にいる全員が安堵した表情を浮かべる。 「オーナー!」 それまで冷然としていたピサンリの表情が、ぱっ、と花咲いたような微笑みに変わ る。 またオーナーが美味しいところを持って行きやがる、とは誰も言わない。 男嫌いの気があるピサンリが、唯一微笑みで以って言葉を返すのは、雇い主であ るヴァンくらいなのだ。彼にピサンリが制御できないのであれば、この世に彼女を制 御できるものはいない。 ヴァンは『ジャスミン』のガードマンであるピサンリの肩を、労わるようにぽん、と軽く 叩いた。 「君のような守護天使がいるおかげで、争いが収まった」 「天使だなんて、そんな……」 「では、女神かな。君の剣技と美しさに見惚れてしまったようだ」 「もう、オーナーったら!」 ピサンリは、頬を薔薇色に染めながらも嬉しそうだ。 ――かわいい。 あれこそが乙女の反応だ。口説かれて困り、プロポーズされて死にたくなる自分と は大違いである。 「さぁ、ここはもういいから休憩しておいで」 「はい」 褒められてご機嫌なピサンリは剣を収めて、ヴァンの勧めに従い休憩を取るために 店内へ入る。 入口の魔術師たちを押しのけて入ってきた彼女は、その付近に突っ立っていたマ ドレーヌと自然に目が合った。手を振ると、ピサンリは近づいて来てその手を取る。 「キイト君、来てたんですね」 マドレーヌも微笑んで、彼女の手を握った。 ピサンリはマドレーヌの性別を初めて会ったときからわかってくれている。なのでマ ドレーヌがどんなに魔術師や魔導師たちから男に見られていようとも、彼女はマドレ ーヌを女として認識し、優しく接してくれた。 時折「なんでお前には優しいんだよ」と、密かに居るピサンリファンの魔術師や魔 導師から恨めしげに言われるが、女だから、の一言に尽きる。優しくしてほしいなら 今のところ、性転換してくるしか術がない。 ―― そうなってしまった理由を、早く解消できるといいんだけど……。 彼女は生まれたときから男嫌いだったわけではない。その原因には『ジャスミン』 の向かいで働く幼馴染み――ジルダが深く関わっているのだ。 ここに来る前、ジルダが『アイツの様子を見てきてほしい』と言ったアイツは、まさに ピサンリのことだ。 半年前までは大変仲睦まじかったこの2人、現在の仲は冷え切っている。 そしてそれが、ジルダの悩みの種なのだ。 「今度一緒に、ケーキバイキングに行きましょうね」 マドレーヌは頷いた。 ピサンリとは歳が近くて話も合う。なので2人の休日が合えば、カフェを巡って一緒 に遊ぶ。仕事ばかりで交友関係の狭いマドレーヌには貴重な友人なのだ。 ピサンリはもう一度花のように微笑んで、店の奥へと去っていった。 「キイト。もう大丈夫だから、出ておいで」 外からヴァンに呼ばれて、マドレーヌは逡巡した。しかしオーナーに呼ばれたとあっ ては出て行かないわけにもいかず、恐る恐る店の外に出る。 2人の魔導師は通行の邪魔にならないように、店先の方に寄せられていた。野次 馬の円はずいぶん崩れつつある。 ヴァンは、店の壁にもたれかかるエルガレイオンの前に立っていた。もう一人の魔 導師の方はキレイにかかと落としが入ったのか、気絶しているので別の魔導師が傷 の手当てをしているところだった。 やれやれ、とヴァンはエルガレイオンの前にしゃがむ。 「気分はどうだ?」 「……最低最悪の気分ですが、頭に上った血は下がりました」 (まぁ、血が出ているしな) 憂鬱げな表情も人形のように完璧だが、口の端から垂れる赤い血が痛々しい。 リオンほどではないにしろ、マドレーヌだって流血沙汰には慣れていないので勘弁 してほしかった。しゃべるたびに痛そうで、見ていられない。 「運命だと思う人に会えて、興奮する気持ちはわからなくもないが、時と場所を考え なければね。プロポーズとは、人生で最も大胆かつ繊細に行わなければならないも のだよ」 「そうですね……手順を踏んでからとはわかっていたんですが、運命の相手に出会 うとなんとかうちの子のお嫁さんに来てほしい、と思ってしまって」 ――ん? その場にいる全員が、マドレーヌと同じように困惑した。 ――今、何か恐ろしい言葉を聞いたような気が。 幻聴かな、とヴァンを見れば、彼もめずらしく動揺で瞳を揺らしていた。が、大人の 精神力でそれを立て直す。伊達に『ジャスミン』のオーナーを務めていない。 「……エルガレイオン?君は、結婚していたのか?」 「え?いいえ?何故です?」 何故ですか、とはこちらが訊きたい。結婚していないなら、何故子供がいるのか。 もしやバツ1か、とざわざわ野次馬たちは囁き合う。否、それくらいならまだしも、 バツ1でもないのに子持ち、となると踏み込んでよい事情なのか、かなり迷う。 ヴァンは眉をひそめ、ずいぶんと尋ねづらそうに視線を泳がせた。 「……結婚はしていないが、子供はいると」 「はい」 彼はふわりと微笑んだ。そうすると、今までの人形っぽさが消えて、血の通った人 間らしく見えた。 「にしても、その、年齢が釣り合わないと思わないかね?」 「ぴったりですよ!うちの子は18歳ですから!」 「18!?」 どよ、とその場が大きくざわめく。 ――18歳、とは、大きなお子さんをお持ちで……。 とか言える年ではないはずだ。エルガレイオンが若づくりでない限り、その子供の 年齢はありえないのではないだろうか。 もしくはかなり複雑な事情を抱えているか。 「……君はいくつだね」 「24ですが」 18歳の子供を持つには、若すぎる。 マドレーヌは気持ちが下向いた。きっと、語るも涙な重く複雑な事情があるのだろ う。それを聞く勇気がない。 心なしかヴァンの表情も引きつっていた。 「……ずいぶん大きな子供を持ったな」 「いえ、小さいですよ。あの子にちょうど釣り合う」 ――……言葉が通じているのか不安になるより、恐くなってきた。 エルガレイオンを囲む人間が皆青褪める。その気持ちはマドレーヌにもよくわかっ た。同僚がかなり複雑な事情を抱えていて、不思議な発言をしているのだ。そんな 顔にもなろう。 しかし不意に、肩に乗っているブランシェが口を開いた。 『……なぁ、お前。私のことを言ってるんじゃないだろうな』 ――え? 突然の言葉に驚く一同に、ブランシェはエルガレイオンを指差しながら言う。 指差されたエルガレイオンは、まさか人形がしゃべって動くと思っていなかったの か、呆気に取られた様子でブランシェを見つめていた。 『ちらちら、私に視線を寄越されるんだが』 ――あ。 言われてみれば、エルガレイオンはマドレーヌに視線を送っているというより、その 肩に乗っているブランシェに視線を送っている気がする。 すかさずヴァンが確認する。 「……そうなのか?」 「あの子以外に、人形がどこにいるんですか」 ――ああ、なるほど。 その場にいる誰よりも先に、マドレーヌは理解した。 おそらくエルガレイオンは球体関節人形愛好家であり、少年型人形を持っている のだ。 お嫁さんとして迎えさせて欲しい、というのは、人形愛好家たちの間では『貴方の 人形を譲ってほしい』という言葉と同義語だ。そう考えれば彼はなんらおかしいこと は言っていない。 自分の球体間接人形のお嫁さんにブランシェが欲しいと言って、譲ってくれたなら 毎日着替えさせたり、写真に撮るほど大事にすると言っていただけで。 人形愛好家なら、自分の持っている人形を子供扱いする。感覚的には飼っている ペットを家族扱いするのと同じだ。 他の人間もなんとなく理解してきたのか、脱力していくのが見られる。 何と人騒がせな、という言葉がその場に沈黙で広がった。 ――でも、困ったなぁ。 どんなに好条件だろうが、大金を積まれようが、マドレーヌにはブランシェを手放す わけにはいかない理由がある。 ヴァンも苦笑しながら説明をした。 「エルガレイオン。あの人形はブランシェといってね。キイトには彼女が必要なんだ」 「必要?」 マドレーヌの肩に座っていたブランシェがすっくと立ち上がる。 『この子は声が出ないから、私が声代わりになっているんだ』 訳知り顔で頷く魔導師や魔術師もいれば、今初めて知ったらしく、驚く顔を見せる 魔導師たちもいる。 エルガレイオンも驚いた表情を見せた。 「あの人形には精霊が憑いていて、キイトの言葉を伝えられるのはあの精霊だけ なんだ。だから諦めてやってくれ」 実際は声代わりになってくれるから一緒にいるのではなく、マドレーヌを見守ってく れる家族のような存在だからこそ一緒にいたいのだ。 (ま、ああ言うのが一番納得しやすいからな) つん、とした声音でブランシェが言う。マドレーヌの気持ちをわかってくれて、照れ ているのだ。そういうところが精霊らしくなくてかわいいと思う。 ブランシェに頬を擦り寄せていると、「それなら仕方ないな」と諦観したため息が 聞こえた。 花嫁にすることを諦めたエルガレイオンは立ち上がり、マドレーヌに近寄る。 距離を取りそうになるのを、なんとか堪えた。相手が美形なぶん、距離が近い気が する、というのはある意味美形差別だろうか。 「事情を知らなかったとはいえ、ごめんな」 そこで改めて顔を覗かれ、マドレーヌは緊張する。口の端から血が出ていようが、 彼が美形であることには変わらないのだ。苦手意識が先立つ。ぎこちなく、気にしな いでという意味を込めて首を横に振った。 ぎこちないマドレーヌに気付いたのか、ヴァンが懐からポケットティッシュを取り出し て、エルガレイオンに押しつけた。 「あ、すみません」 「いや、気にしないでくれ」 ヴァンはマドレーヌを見て、悪戯めいたウインクを投げた。自分が血を嫌がっている ことをわかってくれたのだ。さすがはプレイボーイである。 マドレーヌはそのおかげで、幾分か落ち着きを取り戻すことができた。 「ああ、そうだ。悪いと思っているなら、キイトを家まで送ってやってくれないか」 ――え!? つかの間の落ち着きだった。 いきなりの言葉に驚いてマドレーヌはヴァンに視線を向ける。ヴァンはそれに気付 いているようだが、気にした様子もなくエルガレイオンに言う。 「キイトは少々身体の弱い子でね。今日も寝不足でふらふらしているから、家まで たどり着けるよう送って行ってやってくれ。私が行こうかと思っていたが、次の予定 時間が迫っていてね」 「それならお安いご用ですよ」 ――お安くない! 慌ててマドレーヌはブランシェに自分の言葉を伝えた。 『寄るところもあるし、買い物もあるからいいです』 「じゃあ、なおさら送ってもらいなさい。荷物持ちとして。自分のクマがどれだけ酷い のか、わかっているかい?」 どうやら以前、納品した帰りに寝不足で倒れたことをヴァンは気にしているようだ。 完全に自業自得なのであって、別にヴァンのせいではないのだが、彼はか弱い少 女を1人で返して倒れさせてしまったことに強い罪悪感を覚えているらしい。 しかしそれは体調管理できなかったマドレーヌの自業自得なわけで、彼には責任 のひとかけらだってない。 ――うあぁぁっ、寝てくるんだった!寝てくればよかった! クマが濃いのを見抜かれたのがマズかったか。後悔先に立たず、だ。 (食事もろくにしておらんのも、見抜かれておったりしてな) ――恐いこと言わないでっ! ヴァンならありえそうで恐ろしい。 ともかく、エルガレイオンと2人きりで帰るのはご褒美ではなく、お仕置きに近い。 とことん、美形は苦手なのだ。 『……エルガレイオンも、用事があってここまで来たんでしょう?迷惑になるから1人 で大丈夫ですよ』 「え?注文してたものを取りに来ただけだから、大丈夫だけど」 エルガレイオンは、口の血をティッシュで拭いながら軽々答えた。 ――空気を読んで!空気を! (それは無茶だろう) ブランシェは、とても正しい。 「あのう。エルガレイオンのお取り寄せ品は、明日の予定ですよ?」 リオンが話を聞いていたのか、横から口を挟んだ。騒ぎが収まったのを見て、とり あえず表の確認に来たらしい。いじましい仕事への責任感だ。 対するエルガレイオンは「あれ?」とリオンに向けて首を傾げた。2人が並ぶとまる で、おとぎ話に出てくるお姫様と王子様だ。あまりにもお似合いなので、周りの魔導 師たちがギリィ、と歯軋りしている。エルガレイオンはこれから夜道を歩くとき、気を つけた方がいいかもしれない。 その2人に見劣りしないヴァンも、ズボンのポケットから皮表紙のスケジュール帳を 取り出して開いた。 「明日、だな」 エルガレイオンは眉をひそめた。 「え、本当ですか。まいったな……今日、何日だっけ……」 「今日は16日ですよ」 「あー、そっか。依頼で洞窟に2週間こもってたから、日付感覚がおかしくなってる」 魔術師や魔導師にはよくあることだった。中には魔術研究に熱中するあまり、10 か月も日にちがずれていた、というツワモノだっている。 「なんだ、依頼だったのか。てっきり試験の勉強をしているものだと」 「洞窟の中で勉強してたんですよ。依頼と並行できるものでしたから。おかげでルガ ルー語の夢を見るようになりました」 「ははっ、順調な証じゃないか」 「順調ですかね……もっと語学の才能があれば免許を取るのに楽だったんですが」 「日常会話は5か国語話せるようになったのだろう?」 「2か国語ぐらい怪しいですねぇ……ちょっと煮詰まっていたんで、気分転換も兼ね て注文を受け取りに来たんですけど、無駄足でした」 「気分転換なら、キイトの買い物に付き合ってやってくれ」 「はい。ってことで、キイト……」 エルガレイオンはマドレーヌに向き直った。 「……あれ?」 残念ながら、そこに彼女の姿はなかったが。 |