徹夜明けのコーヒーというものは、どうしてこんなにもおいしいものなのか。
 その正確な答えを、マドレーヌは知らない。でもおそらく、それまでにたくさん頑張
ったから神様がご褒美においしくしてくれているのだと思う。
 もしくはコーヒーを淹れた人の腕が良いか。
 ――この場合十中八九、それだよね……。
 マドレーヌはコスモス色の瞳で、カウンターの向こうで忙しく働く人や、客の活気で
満ちた店内を見渡した。
 バール『トラゴス』の店員は店長をはじめ、全員バリスタの資格を持っている。
 専門知識に基づいて淹れられたコーヒーは通をも唸らせる味で、食事として出され
るパニーニやピッツァなどもおいしい。立ち食いスタイルであることもあって、その馴
染みやすい雰囲気も受け、町でも人気の店だ。
 マドレーヌは残り半分以下まで減ったコーヒーの香りを吸いこんだ。最初の一口よ
りは香しさが劣るが、熱自体はまださほど冷めていなかった。マドレーヌの飲む速度
が速いのではなく、この国では真冬でもない限り食べ物や飲み物がすぐに冷めるこ
とはほとんどないのだ。
 常夏の国、ルシーダ。
 そう呼ばれるこの国はもう一つ、違う顔を持っている。
 そしてそちらの方が有名だ。

「あ、キイト」

 キイト、と呼ばれ、マドレーヌは顔を上げた。
 カウンターを挟んだ正面に、青年が立っている。銀髪碧眼の、見るからに実直そう
な顔立ちの青年だが、マドレーヌは彼が見た目通り実直な青年ではないことを、こ
の2年の付き合いで知っていた。
 名をジルダ・カルメという。
 こずるいわけではない。ただただ、天の邪鬼な男なのだ。
 どうも話を聞くからに、それは幼いころからの性格、というか癖であるらしい。本音
を言うことが何かの罪悪でもあるかのように、頑なに本心を告げようとしない。
 そしてその癖が、現在彼をとある事で困窮させている原因でもあった。
 ジルダは辺りを見渡して近くに同僚が立っていないことを確認してから、カウンター
に身を寄せた。仕方なくマドレーヌも身を寄せる。

「お前、店に納品に行くんだろ?ついで、でいいからアイツの様子見てきてくれ」
「…………」
「俺ら男同士、友達だろ?頼む」

 彼は手を合わせ、マドレーヌを拝む。
 ジルダは1つ、勘違いしていることがある。
 マドレーヌの現在の装いは、白い半袖のシャツに黒いネクタイを結び、同じように
黒い細身のズボンを穿いているわけなのだが、断じて男ではない。黒い髪も首を覆
うくらいの長さしかないショートカットだが、れっきとした女である。
 だがこれまでの人生で、自身を男だと勘違いされることは多々あった。体型が女
性らしい丸みを帯びておらず、細く骨っぽいせいなのか、痩せた15,6の少年に見
られることが多い。15歳など、3年前に過ぎてしまったというのに。
 マドレーヌは静かにため息を吐いた。
 本来なら訂正すれば良いのだが、現在はそうもいかない理由がある。何せジルダ
の天の邪鬼は異性に対して発動するのだ。同性相手には気の良い男でしかない。
 つまり、彼の悩み事に付き合っている身としては、このまま勘違いしてくれていた
ほうが煩わしさがない。
 なのでマドレーヌは今日も今日とて、彼の勘違いを解くことなく、黙って頷いた。
 ジルダはそれを見て、ぱっ、と目を輝かせた。

「ありがとな!今度、何か奢るぜ」

 ――奢るのはいいから、早くなんとかしてほしい……。
 そんな言葉を残りのコーヒーと一緒に飲み込んで、マドレーヌは代金をジルダに
渡した。
 肩からかけていたトートバッグをかけ直し、カウンターテーブルに置いていた少女
型球体関節人形を胸に抱く。「頼むな」と念押ししてくるジルダに手を振って、店を
出た。
 途端、声をかけられる。

『お前はつくづくお人好しだな。自業自得なのだから、放っておけばよいものを』

 辺りを見渡しても、マドレーヌに声をかけてきた人物はどこにもいない。皆通りすが
りのマドレーヌのことなど気にせず、各々の目的のために歩き去っていくだけだ。
 その声の正体を知っているマドレーヌは、苦笑とともに歩きだす。
 ―― そうだけどブランシェ。すれ違ってるのも事実だから、かわいそうだよ。
 腕の中の人形が、ふん、と鼻を鳴らした。
 この人形はブランシェという。長く艶やかな黒髪と、熟成されたワインのような、紫
がかった赤いグラスアイが美しい球体関節人形だ。黄金比に基づいて作られた顔立
ちや体形は、人間が求める完璧な美を体現している。
 もちろんこの人形、普通の人形ではない。しかしからくり仕掛けなわけでもない。

『人間の思考は、相変わらずよくわからん』

 ブランシェは小首を傾げた。表情はないが、もしあったとするならば確実に眉根が
寄っていたであろう。
 ――精霊には、わかりにくいものかもね。
 マドレーヌの言葉にブランシェはまたぞろ、ふん、と鼻を鳴らした。
 彼女はとてもめずらしいことに、人形に憑依した精霊なのだ。
 一般的に精霊は澱みのない澄んだ場所を好み、そこに住みつく。だが稀に、ブラン
シェのように何かにとり憑いて人間とともに生きる精霊もいる。世捨て人ならぬ、世
拾い精霊、とでも言えば良いのだろうか。
 縁があってマドレーヌはブランシェが憑いているこの人形と出会い、2年の月日をと
もにしている。24時間ずっと一緒に過ごしているおかげで、今では大切な家族と言
えるほどに特別な存在となった。実際ブランシェは500年以上生きる精霊であるらし
いので、時折受ける助言は母のようであり、姉のようでもある。

あんなこと(・・・・・)に首を突っ込んでも、骨を折るだけだと言うに』

 まぁまぁ、とマドレーヌはブランシェを宥めた。
 ――私たちが非効率的な生き物だって、知ってるでしょ?
(お前はもう少し、自分の生き方に非効率的になるべきだ)
 頭に直接響いた返答に、マドレーヌは苦笑を浮かべる。
 こんなことを言っていても、なんだかんだとマドレーヌに甘いブランシェは、結局マド
レーヌがすることを許してくれるのだ。
 寛大な母のように。
 ――ありがとうね、ブランシェ。
 お礼を言って、マドレーヌは『トラゴス』の向かいに建つ店、『ジャスミン』の扉を開け
た。
 ドアベルを鳴らしながら店に入るとまず、森林の香りにスパイスを混ぜたような不
思議な香りが鼻腔を刺激する。次に、ひしめく人の多さに圧倒される。
 店は決して狭くない。雑貨屋のような雰囲気の店内は程々に広いのだが、客が多
すぎるのだ。しかも客層が一般の雑貨屋とは違い、男性客が主である
 さらに品物もよく見れば、普通の雑貨にはありえないものが多く置かれている。
 ビーカーだったり、フラスコだったり、シャーレだったり。
 実験器具を売る店か、と問われれば違うと言わざるを得ない。商品の中にはアク
セサリーやポーチ、コートなどの衣服雑貨も置かれているからだ。
 しかしそれらが普通のものか、と言えばやはり違う。
 ここにあるものはすべて、特別なものだ。
 そしてここに来る客も普通ではない。

「お、キイト!」

 入口近くでアクセサリーを見ていた男性がマドレーヌに気付いて、近づいてきた。

「新作ができたのか?」
「え、キイトの新作?」

 さらに近くにいた男性も寄ってきた。
 ブランシェが虫でも払うかのように、しっしっ、と手を振る。

『馬鹿者、これはオーダー布地だ。お前たちに分ける布は1センチ足りともない』
「えー、またかよ。キイトの新作、最近見てねぇぞ」
『欲しいならオーダーしろ』
「ブランシェ、キイトの布地のオーダーメイド料知ってんのかよ……稼ぎが少ない俺
じゃ袖振れねぇわ」

 マドレーヌは大変申し訳ない気持ちになった。が、ブランシェは『阿呆め』と男たち
に冷たい言葉を返す。

『魔導師の稼ぎが少ないなどあり得るか。大方、賭けか何かで散財したのだろう』
「うっ」

 彼は気まずげに視線を泳がせた。
 その隣に立つ男は呆れ気味にため息を吐く。

「お前、魔導師の稼ぎをつぎ込んで少なくなるって、どんだけ賭けたんだ」
「うっせぇー……お前だって魔術師なんだから、どうしても欲しけりゃキイトの布くらい
買えるだろ」
「俺は今月、ピアスを新調したんだよ……」

 この世には魔法を操れる職業が3つある。
 1つは魔法使い。精霊の力を借りて魔法を操る者。
 1つは魔術師。万物の魔力を借りて魔術と呼ばれる魔法を操る者。
 最後は魔導師。己の魔力のみで魔導と呼ばれる魔法を操る者。
 しかしこれらは誰もがなれる職業ではない。魔法を操るにはまず、己の魔力を操る
ことができなければならない。これを俗に魔力開花と呼ぶ。
 この才能がある者だけが、魔法を使うことができる。どんなに努力を重ねても、魔
力開花だけはどうにもできないものなのだ。
 そういう特殊な職業なので、自然と魔法を使う者たちの給料と言うものは底辺とは
言い難いものとなる。むしろ、高給取りと言っていいだろう。
 特に魔導師は元から魔力が高いことを要求されるし、そもそも魔導を使うのに魔術
をある程度習得していなければならない煩雑さから、魔法使いや魔術師に比べて数
が少ない。故に給料もいいはずなのだが。
 ――まぁ、ストレスも多そうだしなぁ。
 魔導師の仕事は危険を伴うものが多い。そのストレスを考えれば賭けくらいは仕
方ないかとも思う。
 一方マドレーヌは、そんな魔導師たちが使う布地を織る職人だ。
 もちろん普通の布地ではない。魔法布(まほうふ)、と呼ばれるもので、魔法効果を付与させることができる手織りの布地だ。
 重要なポイントは手織り、というところである。機械織りの魔法布ならば世の中に
大量に出回っているが、手織りは手間暇がかかるので職人が少なくなった。
 しかし手織りの魔法布は織目の細かさが魔法の気配を絶妙に隠すので、魔法を
付与する者の腕が良ければ魔法がかかっていることにすら気付かないこともあるの
だと言う。なので需要はあるのだが、先述したとおり機械織りに比べて手織りは手
間がかかるので供給する人間が少ない。だから品が不足し、高騰する。
 だがここ『ジャスミン』は、数少ない手織り魔法布を確実に販売する――魔道具店
なのだ。
 雑貨に見える物も、実験道具に見える物も、全て例外なく魔法に関係する道具で
あり、そういったものを扱う店はルシーダでは少なくない。
 魔道具大国ルシーダ。
 そう呼ばれるこの国の中でも『ジャスミン』の品揃えはピカ一である。

「あー、ヴィトラン作のピアスか!あれ、いい出来だよな……」
「おう、使ってみたけど魔力の通りが全然違う」
「なんかすげぇ美人だけど、人見知りで表に出てこねぇらしいな」
「美人で人見知りか、かわいいな。お近づきになりてぇ……」

 ヴィトランとはマドレーヌが記憶している限り、最高の魔道具を作る職人の『ワーク
ネーム』だ。
 ワークネームとは主に魔導師や魔術師が仕事上使う名前のことだ。彼らは本名を
そうやって隠すことで魔力の底上げを行う。その代わり他人に知られれば、それ相
応のリスクを負うらしい。魔導師や魔術師ではないマドレーヌはそれ以上のことは知
らない。
 本来なら魔法を使う者以外がワークネームを名乗る必要はないのだが、魔法に関
係する者は魔力開花していなくとも、礼儀と慣習に則ってワークネームを名乗る。
 マドレーヌの『キイト』という名前もワークネームだが、魔力開花していない自分の
本名を知られたところで何のリスクも発生しないので、その辺りは魔術師たちに比べ
て気持ちが楽である。

「お前もお近づきになりたいだろ、キイト」
「美人と付き合うってのは、男の夢だもんな!」

 ――……。
 作る物の種類は違えど、同じ魔道具を作る者としてヴィトランの噂は、おそらく彼ら
より知っているとは思う。
 彼らは大きな勘違いを2つしている。
 1つ、ヴィトランは美しい人らしいが、男であるらしいということ。
 2つ、マドレーヌは女であるということ。
 男でありながら女に間違われるのと、女でありながら男に間違われるのはどちら
がより屈辱的なのだろうか。答えはおそらく一生出ない。
(訂正するか?)
 腕の中のブランシェがそう尋ねてくるが、マドレーヌはいや、と諦めた。どうせ言っ
たところで信じてもらえないのが関の山だ。無駄な努力はしたくない。
 悟りきった表情で見つめるマドレーヌの視線に気づかず、魔導師と魔術師たちは
話題を別に移していた。

「そういや、聞いたか?孤独共存の呪いが封印されたって話」
「は?え、マジで?アレって封印できるもんなのか?」
「ほら、あの最強魔導師様と……なんだったかな、どっかの田舎の新米魔術師が
封印しちまったらしいぜ」

 魔法知識のないマドレーヌにはちんぷんかんぷんの話だったが、一緒に聞いてい
たブランシェはその内容のすごさを理解したようだった。

『なんだと。町一つを死に至らしめる呪いを封印するなど……』
「俺も信じられなかったけどさ、マジらしい。現場を見に行った奴から話を聞いたんだ
けど、跡形もなく気配が消え失せてたって」
「あー、でも、あの魔導師様ならやれそうで怖い……」
「そうだ、キイト。その魔導師様が着てたコートの魔法布、お前が織ったってのも噂に
なってんだけど本当なのか?」

 思わぬ話をふられて、マドレーヌは困惑した。
 ――どうなんだろう?
 実はマドレーヌはあまりオーダー主と会ったことがない。そういう注文などはすべて
『ジャスミン』のオーナーがやってくれている。
 首を傾げるマドレーヌの代わりに、ブランシェが答えてくれた。

『この子はオーダー主のことはよく知らん。真相を確かめたければ、オーナーかその
魔導師に直接聞けばいいだろう』
「オーナーはともかく、もう一方は絶対無理!つうか、アイツ今、依頼遂行したのに
依頼料取りに来ないってんで行方不明扱いになってっけど……どうなってんの?」
「あぁ、アレな……あそこの森、ドラゴンいるだろ?」
「まさかドラゴンに食われたって?でもあの魔力だぞ?」

(もう行くぞ、マドレーヌ。こいつらに付き合っていたら、納品ができなくなる)
 マドレーヌは苦笑して、その場を外れた。
 魔法を使う者たちの世界は広いようで案外狭い。否が応にも誰がどのような依頼
をこなした、という噂が飛び交うし、好奇心旺盛な性格がそれを助長している。
 件の魔導師の行方を推測しあう2人を背に、マドレーヌは動くだけでも気を使うほど
の人ごみを縫って、奥へ進む。
 レジが見えると、ブランシェが声をあげた。

『リオン!リオン!納品に来たぞ!』

 レジで精算作業を行っていた女性――リオンは、顔を上げた。
 瞬間、店内にいる魔導師や魔術師たちから、うっとりとしたため息が漏れた。

「まぁ、キイト君。ブランシェ」

 鈴を転がすような、澄んだ女性らしい声が店内に響く。
 その薔薇色の唇がわずかに弧を描くと、レジで精算を待っていた男性がからん、と
商売道具であるはずのロッドを床に落とした。
 リオンは、まごうことなく『ジャスミン』における看板娘である。否、むしろもうアイド
ルと言って差し支えない。
 陽に透かした琥珀のような色合いの瞳に、ゆるりと毛先を巻いた長いコルク色の
髪。それをシュシュで1つに束ねただけなのに、今すぐどこかの国の王子様から結
婚を申し込まれそうなほど、彼女は可憐でかわいらしい。彼女の年齢は23歳、ちょ
うど結婚適齢期であるので、実はもう王子様から結婚を申し込まれてるんじゃない
か、と時折本気で疑うことがあるほど、かわいらしい。
 月並みな賛辞だが、可憐という言葉は彼女のためにあるに違いない、と同性であ
るマドレーヌでさえ思う。
 そして彼女の真の素晴らしいところは、驕り高ぶらないことだ。
 神様さえ猫かわいがりしそうなほどの愛らしさを持っていながら、男性に言い寄ら
れても邪険にせず、けれど節度を保って接する。そんなところに男性はまた惹かれ
るのである。
 何せあまりにもアイドルな彼女に対し、魔導師・魔術師たちは抜け駆けすることを
禁ずる鉄の掟を布いている。食事に誘おうものなら後からリンチだ。魔導師たちは掟
を順守する人種なのだ。
(甚だ馬鹿らしいがな)
 実はマドレーヌもその掟に関してはブランシェにちょっと同意だ。そんな掟を守って
いて、どうやってリオンを口説くつもりなのか説明願いたい。
 リオンは隣で同じくレジを打っていた青年に後を託し、マドレーヌたちのもとへ来て
くれた。

「よかったわ、キイト君。ちょうど、オーナーが帰ってきているの。是非、直接渡して
いって?」

 かわいらしく小首を傾げられ、優しい微笑みを向けられれば誰だって頷きたくなる。
 マドレーヌは魔法にかかったがごとく、こくりと頷いた。

「きっとまだ商談室にいると思うから」

 レジカウンターの奥の、従業員通路に連れて行かれるマドレーヌを、店内の魔導
師や魔術師たちがうらやましげに見ているのがわかった。彼らの目には、リオンに
案内される幸運な少年、というふうに見えているのだろう。
 実際は少女なのだが。
 仕方ない、とマドレーヌは諦めた。リオンがあまりにも女性らしすぎる。鈴蘭のよう
に可憐な彼女に比べたら、自分などペンペン草程度だ。
 通路に入ってドアを閉めると、店の喧騒が遠ざかった。不思議な香りも薄くなる。
 リオンは入ってすぐの左手にあるドアの前までマドレーヌを案内した。

「まだ中にいると思うわ。私はお店が忙しいから戻るわね」
『ああ。ありがとう、リオン』

 リオンが店に戻るのを見送り、マドレーヌは目の前のドアをノックした。

『おい、ヴァン。オーダーされた生地を持って来たぞ』

 ブランシェがドアの向こうに呼びかけたが、返事はない。
 首を傾げて、マドレーヌはもう一度ノックしてみた。やはり返事がない、というより、
気配を感じなかった。
(裏から出て行ったのかもしれんな)
 従業員通路の一番奥には、裏口がある。ブランシェの言う通り、リオンが気付かぬ
うちにオーナーであるヴァンはまた外へ出て行ったのかもしれない。
 ――どうしよう。商談室に布だけ置いて行こうか?
 後日また改めて、というわけにもいかない。期日は今日だったのだ。
 ブランシェもそうだな、と頷いた。
(リオンに言付けしておけば、ヴァンもわかるだろう)
 ブランシェも同意してくれたのでそうしよう、と思い、ドアノブに手をかけた。

「おや、キイト。もう来ていたのか」

 声のした方を向くと、金髪を後ろに撫でつけた男性がそこに立っていた。

『来ていたのか、ではない、ヴァン。今日が納品期日だったから来たのだぞ』
「あぁ、すまないね。前の商談が長引いて、今相手を見送ってきた」

 そう言って彼は、マドレーヌからドアを優しく奪って開けた。
 トパーズのような色合いの瞳が蠱惑的に細まる。

「女性にドアを開けさせるべきではなかった。どうぞ」

 『ジャスミン』のオーナー、ヴァンはこの界隈では有名なプレイボーイである。
 ボーイ、と言っても年齢は47歳になる中年男性であるのだが、甘く端正な顔立ち
と歳を重ねたものだけに許される深みのある声が魅力的だ。それにスタイルも良い
ものだから、ベスト姿がよく似合う。そしてそのファッションセンスも洗練されて、彼が
着る服は誰から見ても好感が持てる。
 これで魔道具店として名を馳せる『ジャスミン』のオーナーであるのだから、周りの
女性が放っておくはずがない。流した浮き名は数知れず、けれどそのどれもが嘘か
真か判別つかないので、ミステリアスさに拍車がかかり、よけいにモテる、というわ
けだ。
 まさにプレイボーイ中のプレイボーイ。以前魔導師から聞いた、『彼にウインクされ
て落ちなかった女はいない』というのも、案外本当かもしれない。
 マドレーヌはぎくしゃくと目礼して、部屋に入った。
 商談室は何よりも、ブルーの幾何学模様の絨毯が目を惹く。その綿密な模様は織
物を扱う者として感嘆に値する品だが、ソファやテーブルがシンプルなデザインなの
で、部屋全体の雰囲気は荘厳過多になっていない。この部屋のコーディネートもヴァ
ンが行ったというのだから、彼のセンスには脱帽である。

「キイト」

 ぼんやりしていたところを呼ばれて顔を上げると、ヴァンがこちらを覗きこんでいた。
 思ったよりも顔が近かったのでのけ反りかけたが、先にブランシェが鋭い声で牽制
する。

『やめい。お前のような女たらしが接近するな』
「キスをしたかったら、小鳥のように近づくさ。そうではなくて目のクマが濃いし、顔色
が悪い。眠らなかったのかい?」

 ――うぅ。相変わらず目敏いなぁ……。
 ジルダも、魔導師たちも気付かなかったのに。マドレーヌは気まずげに視線を泳が
せた。
 ヴァンがモテるのは、こういう細かい変化を見逃さないからかもしれない。彼に夢
中になる女性の多くは、バリバリのキャリアウーマンだったり、弱音を吐きだせない
意地っ張りな女性だったりする。そういう女性の心を解かすのが抜群に上手い。
 マドレーヌは言い訳をブランシェに託した。

『……紺色の染付は夜中の方が美しくなるなどと抜かしおってな』

 失敗した。何も誤魔化してくれなかった。
 ヴァンは憂い顔になって、マドレーヌの頭をぽん、と叩いた。

「君の職人魂は素晴らしいものだが、それで体調を悪くすると私もブランシェも心配
する。君は身体が弱いのだから、大事にしてほしい」
「…………」
「キ、イ、ト」

 頭に置かれていた手があごをすくう。

「いい子だから私の言うことを聞いて、ね?」

 控えめな笑みが、体温を上がらせた要因だった。
 マドレーヌは真っ赤になりながら、コクコクと頷いた。さすが、プレイボーイの名は
伊達じゃない。
 ヴァンはその返事に満足して、マドレーヌから離れた。

『まったく……お前は本当に教育に悪い奴だ』
「刺激的な男も知っておかないと、後で泣かされてしまうかもしれないだろう?」

 笑うヴァンにブランシェは呆れてそれ以上は言い返さず、代わりにマドレーヌの持
つトートバッグをつついた。

『品物だ。確認してくれ』
「あぁ。キイト、それをこちらに」

 バッグを渡すと、彼はテーブルに歩み寄ってその上に布地を広げた。
 『ジャスミン』の商談室は主に魔道具の職人との企画打ち合わせや現物を用いた
仕入れの交渉に使われるので、普通の商談室よりもテーブルが広い。
 それでも卓上に広げられた布は若葉色のコットンで6メートルあるので、すべては
広がりきらなかった。
 マドレーヌはこの生地が誰に、どんなふうに使われるのか知らない。さっき魔導師
たちに言った通り、そういった注文はすべてヴァンが行ってくれる。
 彼は生地の出来に満足したようで、うん、と頷いた。

「いつもながら惚れ惚れする出来栄えだ。依頼人も気に入るだろう」

 よかった、とマドレーヌは胸を撫で下ろした。
 そういえば、とブランシェが腕の中で小首を傾げた。

『魔導師連中が噂していたが、孤独共存の呪いを封印した魔導師のコートにキイト
の布が使われていたというのは事実か?』
「あぁ、その噂を?そうだね、事実だよ。呪いを一時的にだが跳ね返すほど強力な
魔術を付与出来たらしい。その噂が真実だと知れ渡れば、キイトへの注文はもっと
舞い込むだろうね」

 ―― それって、私の生地がすごいんじゃなくて、魔導師さんがすごいんだと思う。
 魔法布は、あくまで魔法を付与できる代物でしかない。それ自体には特別な効果
なんてないのだ。
 だから正直、マドレーヌの生地を用いれば誰でも呪いを跳ね返せる、なんて思われ
ないか心配だ。
(心配無用だ。あちらもその道のプロだからな)
 ブランシェに言われ、そうか、とマドレーヌは納得した。

「次の注文だが、めずらしく入っていないんだ。これを機会にゆっくりと休んでくれ。と
言っても、次の注文が入るまでだが」

 マドレーヌはこくりと頷く。彼の気遣いがあたたかかった。

「何かおいしい物でも食べるといい。何が食べたい?」
『仕事が終わったら、チョコミントアイスを食べたいと言っていたな』
「クラーハ方面においしいアイスを出すレストランがあるらしいんだが、一緒に確かめ
てみる気はないかい?」

 トパーズの瞳に艶やかさが混じる前に、ブランシェが制止した。

『だめだ。下心が見える』
「かわいい女性と楽しいときを過ごしたいと思う心をそう呼ぶなら、あえて受け入れる
よ。もちろんブランシェ、君のことも含まれているからね。今日のワインレッドのワンピ
ース、新調したものだろう?とても美しい」
『うむ、そういう目敏いところと褒めることを億劫がらないところは良い男だ、お前は』

 精霊すら懐柔するヴァンは、人類最強のプレイボーイなのではないだろうか。
 あっさりと陥落した精霊を肩に乗せて、マドレーヌは曖昧に微笑んだ。ヴァンのこと
は好意的に思っているが、女性として扱われることに慣れていない分、こうやって誘
われるとどうしていいのかわからない。
 ――我ながら酷い戸惑いだなぁ……。
 女である身で、女性扱いに慣れてないとはこれ如何に。
 そんな戸惑いを知ってか知らずか、ヴァンは優しげに微笑んだ。

「なに、今すぐ行こうというわけじゃない。気が向いたときにでも行こう」

 ――プレイボーイは、引き際を間違えないって本当なのね。
 魔術師の誰かが言っていたのを思い出した。ヴァンは女性の心を機敏に読み取っ
て、NGゾーンから身を引く手際が早い。だからモテるのだ、と。
 申し訳なく思いながらも少しホッとして、マドレーヌはヴァンの言葉に頷きを返した。

「さぁ、今日はもう帰るといい。好きなことでもしておいで」

 トートバッグを返してもらい、マドレーヌはヴァンのエスコートで商談室から店の方に
戻った。
 ざわめきが鼓膜を震わせる。

「あら、キイト君。お話は終わった?」
『ああ』
「オーナー、お疲れ様です」

 花のように微笑むリオンに、ヴァンはおや、と目を丸くした。

「リオン、シュシュを変えたのかい?君の髪色に良く映える色だ」
「まぁ、オーナー。ありがとうございます」

 目を輝かせて微笑むリオンの姿に、いつもなら狂喜乱舞しそうなほど喜ぶ客たちも
このときばかりはお通夜でもあったかのような雰囲気になる。
(……うむ。ヴァンには敵わない、と嘆いておるな)
 言われなくともわかる。恨むような目がヴァンに集中しているのだから。
 しかし彼を恨むのはお門違いだ。恨むのなら、リオンのシュシュがおニューであっ
たことを見抜けなかった己の観察眼のなさか、シュシュを褒めることができなかった
勇気のなさか、そういったところであろう。
 だが彼らの気持ちもわからないでもない。ヴァンが気付いたことで周りに優越感を
匂わす、なんてことはまったくなく、むしろそれが当たり前といったふうだからよけい
に恨めしい。
 ――どちらにしても恨めば恨むだけ、空しいけれどね……。
(まったくだ。負け犬の遠吠えの他ならない)
 厳しいブランシェの言葉を聞きつつ、歩みだしたヴァンの後をついて行く。マドレー
ヌ1人の時とは違って、ヴァンが先に歩いてくれているおかげで、人ごみの方がマド
レーヌを避けてくれる。
 ドアの前まで辿りつき、ヴァンがノブを掴もうとしたが、それよりも先にベルがカラン
カランと鳴りながらドアが開いた。

「……っと、すみせ……あ、オーナー」
「あぁ、エルガレイオンか。どうぞ、入りなさい」

 ヴァンの背で見えないが、出入り口で鉢合わせしかけたのはヴァンの知り合いで
あるようだった。退がったヴァンに合わせて、マドレーヌも2歩ほど後退する。

「その後、身体は良くなったかい?」
「えぇ、おかげさまで。紹介してもらった医者の薬を飲んだら回復しました」
「それはよかった」

 そこでヴァンはふと何か思い立ったかのように、半身をずらした。

「エルガレイオン、紹介しておこう。手織り魔法布職人のキイトだ」

 そのとき初めて見ることになったオーナーの知り合いに、マドレーヌは驚愕した。
 ――なっ、なんという……!
(並外れた美男だな)
 精霊のブランシェにそうとまで言わしめる目の前の青年は、マドレーヌが記憶して
いる中で一番の美男だった。
 コバルトブルーの海を注ぎこんだような色の瞳に、マドレーヌよりも長い金色のまつ
げが神々しい。筋の通った高い鼻と薄紅色のふっくらした唇は、球体関節人形しか
持ち得ないものだと思っていたのだが、今までの認識が間違っていたようだ。
 そう、認めざるを得ない。
 彼はまさに、等身大の球体関節人形のような容姿をしている。
 ふわふわとして触ればやわらかそうな少し長めの金髪も、白い肌も、足の長い均
整の取れたスタイルも、何もかもがドールのようだ。
 現在彼は胸元の開いたインナーの上から白いロングパーカーを羽織り、キャメル
色のズボンを履いているが、それをドール服に変えるだけでブランシェと並んでも何
の遜色もなくなる。逆に言えば、彼に人間味を与えているのは服装だけであった。
 ――げ、現実世界にこんな人、いるんだね……。
(世界は広いのう)
 美しいものが好きなブランシェはふむふむ、とのんきに彼を観察しているがマドレー
ヌはそれどころじゃない。彼女は基本的に美形が苦手な性質である。とてもじゃない
が見つめ合っていられず、す、と視線を彼の喉元くらいに落とした。

「キイト、彼はエルガレイオン。魔導師だ」

 ――こ、この美貌で魔導師……。
 天は二物を与えず、なんて嘘だ。マドレーヌは気が遠くなりかけながら思った。
 しかし気絶している場合じゃない。挨拶をしなければ。ヴァンが直接紹介してくれる
魔導師や魔術師は、将来有望な人間が多い。彼もまた、ヴァンに見込まれた人物
なのだろう。
 つまりは将来的にマドレーヌの顧客となる、とヴァンは見ているのだ。
 マドレーヌはにこ、と微笑みながらエルガレイオンに手を差しだした。
 が、彼は手を差しだしてこない。

「…………?」

 行動と言葉の空白の時間に、マドレーヌは不安になってきた。
 ――なんだろう、何か失敗でもしたかしら。笑顔が引きつっていたとか。
 ちら、と視線をエルガレイオンの顔に向ける。
 彼は、マドレーヌを凝視していた。

「……エルガレイオン?」

 彼の様子に困惑したヴァンが、声をかける。
 エルガレイオンはそれでハッ、と我に返ったようだった。
 彼はすっ、とマドレーヌに近付き、彼女の手を取った。
 両方の手で。
 ――はい?

「運命の出会いだ」

 エルガレイオンは跪いた。姫を迎える王子のごとく。

「お嫁さんとして、迎えさせてください」

 海の色をした瞳は、陽の光を浴びた水面のようにキラキラしていた。










HOME NEXT